【第一章】
眠りたいけど眠れなくて悶々としている中、やっとまどろんできたところで目覚まし時計の大音響に頭を叩かれるような、そんな不快な覚醒。
ぐわんと頭を振って意識を集約させると、自分が見慣れた寝室とは違った場所に佇んでいる事を思い知らされる。
突き抜けるような青空。
湿り気を帯びた緑の匂い。
複数の鉄筋コンクリートの建物に挟まれたこの空間は……高校の、中庭か? そう思った途端にざわざわぞわぞわと、白々しい空気に伝播してくるように人々の活気みたいなものが伝わってきた。
中央に立っている時計を見ると午後二時。
竜巻や水害なんかの兆候や被害状況を逐一観察するとかいうウェザースフィアが時計のてっぺんに乗っかっている。超ハイテクな百葉箱みたいなもんで、中身はカメラとか気象センサーでぎっしりだったはず。
でもって。
こうしている今も、一つ一つの席には生徒達が着いていて、教室では授業が行われ、学校は平常運転で、供饗市は動いている。
うわあ、やだなあこの感じ。
嵐の前の静けさっていうか、もう吹っ飛ぶのが分かっている平和っていうか。
指先が変にぞわぞわしてくる。
ぼくの服装は学校の制服で、傍らには移動手段としての荷台付きの折り畳み自転車、ポケットにはスマホ、でもって安物の風船型のドローンが一つ。こいつはスマホと連動して、上空からの映像を送ってくれるものだ。つまり、いつも『こっち』で遊ぶプリセットの通りだった。
うん、ちゃんとうちの自転車だ。
二人乗りがしたいというアユミや姉さんの強引極まるリクエストのおかげで、車輪小さいのに相当高い位置に荷台をくっつけてあるトコまでそっくり。
念のため、ハンドル近くにあったベルを一回叩く。
手元のスマホに話しかけた。
「マクスウェル、今のアクションに対する物理法則一覧を表示」
『シュア』
途端にスマホの画面にびっしりと数列が埋め尽くされ、際限なくスクロールしていった。何となく漠然と見て感じている風景の裏側だ。ベルの内側にあるバネの伸縮、反発、解放。ハンマーが本体を叩く作用と反作用、ベル本体の振動、空気に伝播する音響と周辺一帯の地形に対する反射と、複数の波がぶつかる事での相乗、相殺……。とにかく片っ端から網羅されていくが、正直、人間のぼくが目で見て精査していったらこれだけで一ヶ月はかかる勢いだ。
なので、総括してマクスウェルがこう結論付けてくれた。
『オールグリーン、災害環境シミュレータの構築に問題はありません』
「ああそう、その一言が聞きたかった」
適当に息を吐いて、もっと気になっていた事を口に出した。
「じゃあ本題に入ろう、いつも通り委員長と同期してる?」
『シュア、完璧です』
災害環境シミュレータ内ではあらゆる人物が『リアルと同じように』動いているんだけど、それだと逆立ちしたって委員長はビキニに着替えて艶めかしいダンスなんて踊ってくれない。なので非常措置として、マクスウェルのシステム本体を委員長の素体に憑依させる事でマニュアル操作している訳だ。
これは委員長ファイルセットに対する非常措置でしかなく、例えばアユミやエリカ姉さんなんていう他の人物には適応できない。つまり腹いせにレゲエダンスさせるのも無理って事。強引にバックドアを増やしまくると、おそらくデータの分析協力をしてくれている減災財団側にバレる。そしてニヤニヤされる。
秘匿フォルダに隠していたのは水着セットとこのバックドア憑依プログラムだ。
「こっちは学校の中庭だ。マクスウェル、どこにいるか教えてくれ。さっさと合流しよう」
『ユーザー権限変更に伴い、検索その他管理者モードは一時使用不可能です。周辺のランドマークを目視した上で、そちらへの合流を提案します』
「……冗談だろ。八〇万人が生活している中、足で一人を探せっていうのか」
そしてただでさえ面倒な人探しは、もうすぐ困難を極める事になる。
ゾンビと吸血鬼が正面切って対決し、街は歩く死者で埋め尽くされる。
というかもう変化は始まっている。
「熱つっ!? あちちちちちちちちちちち熱いあつあちちあち熱いーィィィィィ!!!!!!」
すぐ目の前を、絶叫しながらごろんごろんと転がって横切っていく黒い塊みたいなものがあった。
のっけから来たな。
というか黒系のゴスロリドレスに頭へミニハットをのっけた豪快な縦ロールの美女、つまりは姉さんだった。ヴァーチャルに投下されていきなり午後イチの直射日光を浴びたためか、あちこちサラサラし始めている。さては軽めに灰になりかけてるな。そのまんま廊下の窓ガラスを叩き割って屋内へ飛び込んでいった。
奇麗好きの姉さんにしては珍しい。
思わず茂みの中に隠れて様子を窺う。
派手で甲高い大音響を耳にして、何事かと近くの教室から帰国子女でお馴染みパーフェクト女教師(英語担当)が飛び出してきた。
「なっ、何これ!? ねえ貴女、天津の姉……なの? このガラス、貴女がやっ―――」
「がぶりーん☆」
「きぃやぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
えらいコミカルな掛け声と共に、早速いったよ。
ガブッと遠慮がないし! 首筋に思いっきり牙を立てているぞ!?
いやあ全体的に決断が早過ぎるってば。
これじゃ寝起きでカツカレー出されたようなものだし!!
屋内に入って直射日光から逃れられたためか、エリカ姉さんはいきなり絶好調なようだった。今の内に止めに入るかどうか真剣に悩むが、武器もなく吸血鬼の姉さんに立ち向かったってぼくも噛まれるだけだ。
……っていう、話のはず、だったんだけど……?
「ごきゅごきゅ」
「……うー」
「ごぎゅるごぎゅる」
「……あー」
「うぶっ!? げぶえっ!! ごほごほ、ち、ちょっと血の気が多過ぎじゃありません、先生……うっぷ……」
姉さんは仲間一人増やすのでもあっぷあっぷらしい。
致命傷になるくらいの血液を一人で飲み干さなくちゃならないんだからなあ。大人の場合は一リットルから二リットルの間……つまりデカいファミリー用のペットボトルを丸ごと一気飲みするようなもの。しかも中身はドロドロと喉に絡む鉄錆臭い液体……となると、小食の姉さんにはちとキツいのかも。あの人お弁当箱超小さいし。
ていうかおかしいだろ、まだ始めて五分一〇分だっていうのにもうこの有り様。無理なら無理でやらなくても良いっていうのに、勝手にやらかして勝手に目を回しているし! まあ何だか顔色がツヤツヤし出したから心配はなさそうだけど!!
でもって。
そうこうしている内に。
悲鳴や怒号といった大爆発が校舎の方で炸裂していた。といっても、突然姉さんが先生の首に噛み付いて、その凶行にクラスの生徒達がパニックを起こしたからって訳じゃない。
騒ぎは姉さんがいるのとは別の階、二階の方からだ。
風船にガスを送り込んでドローンを宙へ飛ばすと、窓から上階の様子が分かってきた。
『手駒をふやーす手駒をふやーす、がぶがぶがぶがぶ』
『うわっうわあ!! 天津、さん!?』
『はいはいごめんよごめんなさいよ、一口ガブッとやらせてくださいねっと!』
こっちは早速もう阿鼻叫喚って感じだった。
何故だか一回五〇〇円でビニール袋に詰め放題、ってビジョンが脳裏をよぎるね!!
ていうか随分と雑だなあ、アユミのヤツ!!
何だどうした姉も姉なら妹も妹か。こんな感じで意気投合できるなら最初っから姉妹ゲンカとかやらなきゃ良いのに!! 巻き込まれる側の気持ちはどこ行ったー!?
騒ぎの元凶は例の妹。前髪ぱっつん、黒髪ツインテールの先端だけ縦ロール状にまとめた華奢でぺったんこな縫い痕だらけの女の子。こいつはこいつで、マラソンランナーが着るへそ出しのジョギングスーツの上からジャージの上だけを羽織るーだなんて、大変健康的で桃色な格好をしていやがります。あれようは薄手のタンクトップとホットパンツみたいなものだから、ぺったんこな妹が着ると腋とか首元から微笑ましい膨らみが覗けちゃいそうになるんだよね。太股にベルトで巻いてるスマホは健康管理アプリのためか? ゾンビのくせに!!
そして。
アユミはあっちこっちの教室を回って手当たり次第に男子女子へ噛み付いていく。噛まれた子は数十秒もすれば顔色が真っ青になって、同じように生徒や教師へ飛びかかっていく。リッター単位で血を飲まなくちゃならない吸血鬼の姉さんと違って、ゾンビの妹は一口噛み付いただけで仲間を増やせるらしい。後あいつ肉ばっかり食べる大食漢(?)だし。
そうこうしている内に、うっぷ、辺りの匂いが変わってきた。
鉄錆臭い、透明な壁でじんわり顔を押されているような気分にさせられる。
そして階段を伝って、ドォ!! と大量のゾンビ達が雪崩でも起こしたように一階へ殺到してきた。
鮨詰め風味のゾンビ達は明らかに死体って感じだったけど、でもまだ新鮮味溢れるというか、平たく言うと腐ってない。まあアユミもアユミで毎日きちんと防腐措置を施して水を弾くたまご肌をキープしているし、ゾンビになったからって急速に腐り落ちていくって訳でもないのかもしれない。……どっちみち、放っておいたらやがてデロデロになるんだろうけど。
姉さんはようやく先生を一人シモベにしたところでギブアップらしく、ドローンで中庭上空から窓を覗くと、廊下の床で仰向けに転がって細い手でお腹をポンポンしている。今ならちょっと頭を撫でて子守唄でも歌ったらそのまんまお昼寝しかねないぞ。
こっちとしては水着委員長さえやられなければ何でも良い。
さっさと決着がついてシミュレーションが終結するなら、それもまたハッピーエンドなんだけど……?
「ふはーはー!! これが感染力の違いだよお姉ちゃん! オンリーワンの職人技なんていらない、大量生産のファストフードが世界を覆う!! さあさあ死者の群れに呑み込まれてもらおーかー!!」
あいつほんとにハンバーガーとかフライドチキンとか大好き人間だよなあ。
戦力はざっと七〇対二くらい。
ようやくエリカ姉さんが床から身を起こしたところで、別口の階段からもゾンビの群れが雪崩れ込んできた。これで前と後ろ、どっちも塞がれた事になる。
普通に考えれば多勢に無勢。
ところが、ほとんど壁みたいになっているゾンビ達の肩がぶつかり合ったところで、おかしな事が起こり始めた。
「……がう……」
「おおおおおおおおおおおおお」
「オウヤンノカ」
「にく」
あっ……。
またやっちゃってるよ。
こいつらガッツリ共食いやらかしているし!?
同じ仲間であるはずのゾンビ達が互いの顔を睨み合い、そしていきなり抱き着き合うようにして互いの肩口を貪り始めたのだ。
やだっ、見たくもない色があっちこっちに!!
びっくりしたのは華奢なアユミも同じだったようで、
「あっ、あれ!? アンタらナニ勝手にガブガブやってんのよ!! あっち! お姉ちゃんはあっち!! すぐそこにいるんだからみんなで早く向かいなさいって!!」
「はらへった」
「にく」
「肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉」
そうか。
兵隊の数が増えるって事は、それだけ食い扶持が増えてしまうって訳で。
しかも吸血鬼と違ってゾンビ側は明確な上下関係やクイーンは存在しない。だとすると誰も彼も命令を聞かず、ただ食欲を満たすために手頃な肉へ飛びかかってしまうって訳なのか。極め付けに多少腐っていてもお構いなし、と。
つまりバカなんだな。
ゾンビとアユミに言っても仕方のない評価かもしれないけど。
思わず遠い目で天を仰ぐと、小型のドローンが目についた。ぼくが使っている風船型のものとは違う、六つのローターを取り付けたマルチコプターだ。まあここは災害対策の街って関係でドローンの数も多い。大学とか減災財団とかが気象センサーを積んで飛ばしているから。いち早く異変に気づいた誰かが機転を利かせて飛ばしているのかもしれないな。
そして今はそっちじゃない。
間抜けな妹を見てみよう。
「うわわわわわわ!! ヤバい、こっち来た! なーんーでー始祖のあたしがロックオンされなきゃならないのよ恩知らずどもー!!」
「うふふ、アユミちゃんったらやーっぱりお茶目さんなんですからっ☆」
「そしていつの間に復活したお姉ちゃん!?」
「その子達にとっては恩人どころかガッツリ仇敵でしょ。むしろ薄れゆく意識の中で最後に道連れにしてやるぜー的な? ヒロイックな標的にされていると思いますけど」
偉そうに言ってるけど、姉さんも姉さんでガッツリ吸血しているんだけどな?
もしも話で一番最初にぶっ殺したヤツは誰かとか、これリアル世界の本人に知られたら割とコトだぞ。人間関係に亀裂入るかもしれない重大ごとなんだからね!!
こっちは中庭からこっそり様子を窺っているけど、少なくとも共食いばっかりしている連中の中に水着委員長が混じっている感じじゃなさそう。
「ふっふっふ。ではアユミちゃんの手駒が勝手に殺し合っている間に、ちょーっと先制パンチでもお見舞いしてあげますっ☆」
「はんっ、どうやって? 自滅三昧って言ったってまだまだ数は一〇倍以上の開きがあるもん。いくら吸血鬼がクールでスタイリッシュだからって、時代劇みたいに全方位バッタバッタとやれる訳じゃないでしょ」
「で・す・か・ら。わたしもわたしで駒の数を増やしてみようかなーなんて思いまして」
「もうドレスの上からでもお腹パンパンなの分かるんだけど、そこからどうやって???」
「それはですね……」
にっこりと姉さんはお上品に笑うと、
「んぶふうーっっっ!!!???」
「吐血!? いきなりの吐血!?」
「うふうふふ。ぜえぜえ、タンクが満タンで入らないならぜーんぶ出してしまえば良いんですっ。空っぽになるまで全部吐き出したらまた吸血できるようになるんですから!!」
ダメだって。
奇麗好きは一体どこいった!? 私いっぱい食べちゃいますからガンガン注文してくださいからの無理して周りをドン引きさせる子か、あだ名はマーライオンか。というか二日酔いで頭を抱えるお色気女教師じゃあるまいし、吐き癖のあるお姉さんキャラって色々とどうなの!! いきなりこんなもん見せられて、ぼくはこの光景を頭の中のどの引き出しに収めれば良いっていうんだ!?
「ともあれ」
学校に水着委員長はいないらしい。でもって姉と妹は黙っていてもあそこに釘づけだ。もう勝手にイチャイチャしてなさい。こっちは今の内に学校を離れて、この供饗市のどこかでうろうろしている無防備な水着委員長を見つけ出さないと―――
「シュア。システムはユーザー様との合流を確認しました」
でもって、振り返ったところでいきなり委員長と鉢合わせた。
阿鼻叫喚とはいえ午後の学校。
柔らかい日差しと清潔な校舎、学校の制服以外は許されないその場所で。
デコメガネ委員長は水着であった。
白のビキニのままキョトンとしているのであった。
「不自然だな!! メチャクチャ不自然!! 自分で着せ替えしていてちょっと死にたい気持ちになってくるよ!!」
「システムはユーザー様のリクエストを忠実に実行しているだけです」
委員長は疑問を持たない。
怪訝な顔でこっちを見て、それから廊下の割れた窓の方へ目をやり、
「自らパラメータ入力したとはいえ、ド派手にやっていますね」
「何しろ力自慢の吸血鬼とゾンビだからな」
「エリカ様のドレスもアレですが、中学生のアユミ様が薄着で高校校舎内大暴れというのもなかなか見られるものではありませんね」
「ビキニの委員長に言われても!!」
「ユーザー様、先ほどから不満があるようですが委員長らしい行動パターンに切り替えた方がよろしいでしょうか?(y/n)」
「ああ、ああ、じゃあ試しにやってみて。ぼくを慰められるものならやってみろ!!」
ヒィウン、と瞳孔がわずかに拡縮すると、
「あっ! 天津のお姉さんたら学校に私服のドレスだなんて!!」
「そりゃ確かに委員長っぽいけど相変わらずビキニは無視か!!」
「アユミちゃんは……高校で何をしているのかしら???」
「あんたはもう都合の悪いものはみんな見えない仕様なのか!? 例えば壁に飛び散っている赤いのとか床に転がっている肌色のとか!!」
あまりにも常識外の事態に認識が追い着いていなかったのか。
あるいは彼女の防衛本能がピントをズラしていたのか。
ともあれ、ぼくの一言で委員長はようやく現実に追い着いたようだった。
「ぎっ」
だから目撃した。
ゾンビと吸血鬼。そして彼女達の争いに巻き込まれて一面に散らばっている『彼ら』を。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!???」
絶叫と共にまだ動く首が一斉にぐるんとこっちを見た。
アユミもエリカ姉さんも混ざっていた。
「マクスウェル!! 委員長モード中断っ、殺す気か初っ端からーっっっ!!!!!!」
「シュア、システムはリクエストを実行します」
もう折り畳み自転車の荷台に水着委員長を乗っけて爆走するしかなかった。
余談だけど、ぼくはちょっと哀しい。
こういう時、委員長は『ぎゃあ』なのか。『きゃあ』とか可愛らしいのを想像していたんだけど、まあ何事も理想通りにはいかないものなのかもしれなかった。