【第二章】



 学校の敷地を飛び出して、どこへ行こうか迷った。

 とりあえず繁華街の方へ自転車を走らせていく内に、何やら空気がざわつき始めているのに気づく。

「システムに負荷が増大中」

「姉さんかアユミが大暴れして不死者が増えているって事?」

 どっちみち、管理者権限がないから詳しく調べる事もできない。今のぼくはパラメータ通りに迫りくる大災害からリアルに逃げ惑う一般ユーザーと変わらないのだ。

 そして、何の権限もなくたって分かる。

 大惨事の学校を離れた事であの濃密な血の匂いからいったんお別れしたけど、何にも安心材料がない。

 このひりつくような空気。導火線っていうか、粉塵爆発一歩手前の屋内に毛糸のマフラー付きで放り出されているようなピリピリした感じ。

 嫌な予感嫌な予感ってしょっちゅう言ってるけどさ、幸せな予感なんて生まれてこの方感じた事がないんだけど。そういうのもたまにはビビビと来いってば!!

「始まった、かな」

「精が出ています」

 ガラスの割れる音が聞こえた。どこかで悲鳴があった。思わず自転車を止める。音が一つ炸裂するたびに、委員長はぎゅっと抱き着いてあちこちキョロキョロ見回している。不覚にも背中の柔らかい感触にちょっとときめく。

「あのね、こっちは別にゾンビも吸血鬼も興味はないんだ。そこにリアルさは求めてないし。ぶっちゃけ水着委員長のぬくもりさえあれば後はどうぞご自由にって感じなんだけどなあ」

「しかしそれだけと言われてしまいますと、流石に災害環境シミュレータとしましてはシステムの存在意義の矮小さに少々疑問を感じてしまうのですが」

「このゆさゆさぷるんぷるんにどれだけ人類の叡智を注いでいるのか分からんのかキサマ!! いいやこの世界では見た目や感触どころか味や匂いさえも……!!」

「ぎもんー」

 今はまだ日中。

 吸血鬼である姉さんサイドが動けないとなると……校舎から自由に外へ闊歩を始めたのは、アユミサイドのゾンビ達か。

 動きも遅く、体も腐っていくゾンビは、一対一なら吸血鬼には勝てない。夜になって姉さん達の数が増えるより前に、できるだけ日中に戦力確保をしておきたいと願うのは無理もないはず。

 でもって。

 最初、明確に事件が起きているのに行き交う人々の波にそう変化がなかったのが、かえって新鮮だった。人混みへゾンビが転がり出ると、みんな一応ちゃんと逃げる。でも歩行者用の信号は待つし、エレベーターの前では列を作っているし、何だかお行儀が良い。

 そこへ真っ赤な悲劇が殺到した。

 組み伏せ、噛み付き、ザ・野生の営みが始まった。

 どうやったって死ぬものは死ぬ。ルールを守ったって誰も安全ってものを与えてくれない。

 改めて、いったんそう認識してから。

 そこから先は早かった。

「どけよ! バカ、どけって!!」

「俺が先だ!!」

「離してよ! それ私のバッグ!!」

 ドォ!! と人の流れが無秩序な暴走を生み出す。歩道を飛び出して、信号を無視して、行き交う人々を引きずり下ろして踏み倒してでも。何も目的は向かってくる、増殖しつつあるゾンビから逃げ出す事だけとは限らない。中には車のガラスを割ったり、ハンドバッグを奪って立ち去ったり、店舗のレジ目がけて大勢が突撃していく場面なんかにも出くわす。

「ユーザー様、当該エリアの危険度が高まっております」

「でも回避方法は教えてくれないときた」

「当システムは災害環境シミュレータですので」

「ぼくがやられるところをじっと見るのか!? このサディストの死神め!!」

 とりあえず人の波に呑まれないよう、道端の金属ゴミ箱の陰で丸まってコソコソしながらそんな風に言い合う。『金目のもの』からできるだけ遠ざかって目立たないようにしておけば、暴徒達の欲望に巻き込まれる事もないと思うんだけど。うーん! でもビキニ委員長の小ぶりな悩殺ボディがちょっと怖いなあ!!

 でもって哀しいかな、火事場泥棒に走れば走った分だけ余計な荷物を背負う羽目になる。食料だの札束だのをぎっしり掴んだ連中に限って、よそ見している傍から新たなゾンビ達に組みつかれて以下略だった。

 強い風が吹き、ぶわっ!! と血染めの紙幣が宙を舞う。

『あの匂い』が再び景色を上書きしていく。

「しっちゃかめっちゃかですね。ユーザー様、いかがいたしましょう」

「うーん、具体的にどうするんだろうこれ」

 直射日光に弱い吸血鬼にとって、最初の舞台が日中だったのは悲劇以外の何物でもなかったはずだ。このまんま街がゾンビ一色に染まっていけば、初日の夜を迎えるまでもなく姉さんサイドが全滅してしまいそうなものだけど……。

「そうではなくて、ユーザー様本人の身の安全の話なのですが」

「ああやっぱりこれじゃダメ? 頭隠して尻隠さずになってる!?」

「そして無意味な叫び声でトドメです」

「ととととというか全体的にどうすれば良いんだっ。委員長とは無事に合流したんだ、こんなカタストロフ用済みだ! どっかにゴールとかないのか!?」

「騒ぎが勝手に終息するまで流動的に逃げ続けるしかないのでは?」

「ううむ。何となく吸血鬼は親玉倒せば終わるけど、ゾンビは延々逃げ続けるしか道がないって印象だよね。ぶっちゃけ終わりが見えない……」

「つまりユーザー様は妹について姉をぶっ殺すという方向で最短ログアウトを目指す、と」

「おっかない事言うんじゃない! でもどうするかな、逃げるにしても折り畳み自転車使って暴徒の群れを殴り倒して進むのも非現実的だし、この騒ぎの中で確実に隠れられる場所ってどこか思いつかないし……」

 そうこうしている内に人の波がこっちにも押し寄せてきた。秩序を持って決まった方向に流れているというよりは、巨大な掌で油の塊をぐしゃっと押し潰して、四方八方に散らばらせるような感じ。

 もうあれが生き残りなのかゾンビ軍団なのかも分からない。

 どっちにしたって揉みくちゃにされたら将棋倒しで圧死しかねない勢いだ。ぼくは折り畳み自転車を肩に担ぎ、委員長の柔らかい手を掴んで近くの建物へと退避していく事に。

 ガラスの扉の向こうは、

「DIY……ホームセンターか」

「ユーザー様、ガラスの扉では鍵を掛けてもあまり意味はないと思われますが」

 ビルの一階部分、ちょっとしたスーパーくらいの広さの店内。レジの並ぶ一角には、すでに店員さんはいない。どこかへ逃げたようだ。慌てて近くの棚の陰へ飛び込むと、続けてガラスの割れる甲高い音が炸裂した。ぐしゃりべちゃりという粘質な音。鉄錆臭い例の匂い。重傷者の可能性もあるが、ぼくは最悪に備えた。ゾンビの群れと見た方が良いなこいつは。

「裏口から出られないかな」

「行動するなら早い方が良いでしょうが、それでも一人にも見つからずに潜り抜けるのは至難かと」

「分かってる、そこまで高望みはしてないよ」

 幸い、ここは日曜大工の道具が揃っている。棚にあるものを勝手に物色するのはヴァーチャルと分かっていても気が引けるけど、この段階まできたら遠慮なんかしていられない。水着委員長がやられたら、紆余曲折あってぼくはリアル世界で殺されかねないのだ。

 今は委員長だけで良い。

 それ以外のモラルは全部捨てる。

 ゾンビだろうが吸血鬼だろうが、こっちがやられる義理はない。

「マクスウェル、そっちの棚からダクトテープ取って。あと、ステンレスのマグカップも」

「? ユーザー様、コマンドの意図をお伝え願います。モップを手に取っているようですが」

「ああ」

 ぼくはモップの先端をネジのように回して取り外し、柄の先とステンレスのマグカップをくっつけながら、

「CS冒険チャンネルでサバイバルの達人がやってた。冬の山小屋で狼の群れに取り囲まれたらどうやって生き残るかってヤツ」

「……シミュレーション条件が偏り過ぎてはいませんか?」

「ゾンビと吸血鬼の群れよりはまともだと思うけど」

 こうしている間にも砕けたガラスドアからはたくさんのゾンビが踏み込んで来ている。いずれここもバレる。仮想空間だっていうのに嫌な鼓動が収まらない。自分で制御できない。

「その時やってたのがこれなんだ。投石スタッフ。ベルトを使って石をぐるぐる振り回して、遠心力を借りて強く遠くに投げ出すっていうのは有名だけど、あれは狙った場所に当てるのが難しい。でもこいつなら、上から下に振り下ろすだけで遠心力が働くから感覚的に分かりやすいんだって。素人でも二、三回試し撃ちすれば程度が分かるんだとか」

 マグカップとモップの柄を委員長に押さえてもらい、ぼくはダクトテープのロールから粘着面をべりべりと剥がす。意外なほど大きな音が出て喉が干上がるかと思った。棚の向こうでゾンビがどう動いているかは把握できない。とにもかくにも急いでテープを引き出し、マグカップの取っ手とモップの柄をぐるぐる巻きにしていく。

「でもってこいつは音がほとんど出ない。握り拳大の石を五〇メートル以上も飛ばせれば、ほとんど一方的にゾンビの頭を叩き潰せる。頭蓋骨なんて言っても植木鉢くらいの硬さしかないからね。仮に外したとしても、投げた後にすぐ頭を引っ込めれば、着弾する頃には身を隠せる。人間と違ってゾンビはどこから攻撃が来たか詳しく精査はできないはず。だって」

「ゾンビは頭悪いから?」

「分かってきたじゃないかマクスウェル」

 モップの反対側の先端には、L字の釘抜きをダクトテープで固定させた。近接戦になったらこいつを使う。バトルフックとかいう中世の農民の武器で、馬に乗る騎士を引きずり落としたり、遠心力を使ってぶん回して分厚い鎧をぶち抜くための簡易武器。やっぱり元ネタはCSの歴史クイズ番組だった。

 折り畳み自転車はいったん委員長に預け、ぼくは即席の得物を手に腰を落として移動を始める。

「投石武器との事ですが、『石』はどこで調達しましょう? 庭石用の砂利を袋詰めにしているコーナーもあるようですが」

「実を言うと、大きさや重心にバラつきがある石って不便なんだって。そう、そうだな。この辺のを借りよう。金属製のナット。親指がすっぽり収まるくらいのどデカサイズなら、重さだって十分なはずだ」

 いくつか拝借して、ひとまずズボンのポケットに突っ込む。

 目指すは裏口。

 できればゾンビとは鉢合わせない方が良い。でもどうしてもルートが潰されていたらやるしかない。状況は現在進行形で動いていて、ぼーっとしていたらあっという間にゾンビの群れに取り囲まれる。『何もしない』で得する事はない。

 非常口を示す緑色のランプに従ってこそこそ歩き、後ちょっとで金属製の分厚いドアといったところだった。

 折り畳み自転車を抱える水着委員長が小声で囁くように言った。

「(……ユーザー様)」

「(……ああ)」

 いる。

 腹の下にぐっと重圧がかかる。棚の裏。直線距離で一メートル未満。ガサゴソと厚紙が擦れるような……とにかくなんか聞こえる。理性的に物色しているというよりも、箱の中に首を突っ込んで手当たり次第に噛み付いているような、知性を全く感じられない音だった。きっと相手が生肉になったって同じだろう。ぼくはあちこちを見回したが、どこが迂回路になるのかは分からない。上から俯瞰できる訳じゃないから、どの角に別のゾンビが待っているか予測がつかないのだ。

 注意深く音を聞く。

 音源は……重なっていない。ガサゴソ音は今のところ一つだけ。

「(やった方が良い)」

 そう結論付けた。

「(危険度の見えない別のルートに変えてゾンビの群れに呑み込まれるくらいなら、ここでリスクの測れる相手と戦って乗り越えた方が安全だ。マクスウェル、お前は念のために下がってて。委員長がやられちゃ水の泡だ)」

「(シュア。ただしユーザー様、この距離ですと)」

 近過ぎる。投石スタッフの利点は使えない。逆端にくくりつけたL字の釘抜き、手製のバトルフックの方で遠心力を借りてのフルスイングをするのが効果的か。

「(何にしたってやるしかない)」

「(歴史クイズの話ですが、武家屋敷では相手が存分に刀を振るえないよう、わざと通路を狭くしたり天井の梁を低くしたというエピソードクイズがありましたね)」

「(おまっ、長物抱えてる時にそういう豆知識は控える優しさをだね!)」

 デリカシーのない(当たり前か)AIを叱責しつつ、ぼくは出口すぐ近くの棚の裏、至近のゾンビへ回り込むべくゆっくりと移動を開始する。モップの柄を握る両手が汗で滲む。

 この緊張は、何の緊張だ。

 躊躇なく生き残りを貪り食うゾンビに対する恐怖心か。それとも同じ人の形をしたモノの頭を叩き潰す事への忌避感情か。こんな事を考えている場合じゃないのに、でも得体の知れない熱が頭の裏を支配していこうとする。

 無理矢理に振り切って、今度こそ棚の裏側を覗き込んだ。

 やっぱりいた。

 ほんの五メートルの距離。あれさえ倒せば出口までの道が開ける。


 ……んだけど、あれ何だ?

 ぬいぐるみくらいしかない、小っこいトイプードルなんですけどお!!!???


「待った、マクスウェルこれ待った!! 一時停止とか巻き戻しとかできないの!?」

「管理者権限の一時失効に伴い、時系列スライダーや他可能性へのパラメータ分岐などのコマンドは実行不能です」

「だって、じゃあ、だって! あれ倒すのか? ぶっちゃけて言おう、世界が敵に回るんじゃない? 今は委員長だけで良い、それ以外のモラルは全部捨てる(キラリンッ)。こっそり思ってごめんなさい!! でも心の中くらい格好つけても良いじゃんかよおー!!」

「ユーザー様、相手が何であろうがゾンビパウダー劇症型に感染すればゾンビとなります。脅威度判定は変わりません」

「『まー』とか『ヴァー』じゃないんだけど。『にゃあ』って言ってるよ!? 犬なのに!!」

「でもゾンビです」

「ガーデニング用のネームプレートにじゃれついてるけども! くまさん風の名札に!!」

「理性が残っているとは思えませんが。ぶちぶち首を引っこ抜いています」

「けど、でもさあ。ねっ、ねっ、これ分かるでしょう? 無理だよこれ滅多打ちにするなんて!! ぼくにはちょっと難易度が高過ぎるから!!」

「そうこうしている内に敵性目標がこちらに気づいたようです。奇襲のアドバンテージは消滅してしまいました」

 ああもう、これどうすんだ、もおお!!

 最短ルートではないものの、あちこちでべちゃりべちゃりという湿っぽい音が聞こえてきた。長居はできない、目の前のゾンビを倒すしかない、でもなんかきっついし、災害環境シミュレータって分かっていても魂持っていかそうになってるし!!

「ユーザー様」

 と、マクスウェルが気遣うように声を掛けてきた。

 別の可能性を提示してくる。

「どうしても撃破困難というのでしたら、ここで諦めるのも一つの手ですが。所詮はシミュレータ、噛まれてゾンビになったところでリアルな肉体の損失には繋がりません」

「……、」

 一瞬、そっちに流れそうになる。

 ただし。

 ただしだ!!

「いやいやいや! それだとまずい、水着委員長がここで死ぬとダンスセットの件が大学だの研究所だのにバレて、巡り巡ってリアル委員長にリアルファイトでリアル殺される!! こっ、これは、シミュレータ内で死ぬかリアルで死ぬかの違いだ。仮想を守って現実で死ぬってなんか色々間違ってる!!」

「なら」

 委員長はことりと首を傾げた後、

「やるしかないのでは?」

「あ」

 そうこうしている内に、ミニゾンビがよちよちとこっちに迫りくる。

 元々五メートルの距離がさらに縮む。流石に飛びかかられる訳にはいかない。サイズはどうあれゾンビ。トイプードルって言ったって犬は犬。その瞬発力も馬鹿にできない。走って逃げ切れる相手でもない。下手したら一発で犠牲者の仲間入りだ。

 もう向こうのロックオンは終わっている。

 ここから穏便にやり過ごす道はない。

 ぶるぶるぶるっ、とぼくはモップの柄の先端にダクトテープでL字の釘抜きを固定した得物を握り込み、


「アユミぃ!! 後で家族会議だドちくしょォォォおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 諸々あって。

 ぼくと水着委員長は裏口の分厚い鉄扉を開け放ち、ホームセンターから外へと飛び出していた。幸い、ゾンビ達は正面入口に面した通りの方で溢れているらしく、こっちはまだ歩く死体で埋め尽くされたりはしていなかった。

 そしてぼくは完全にグロッキーになっていた。

「うっぷ」

 投石スタッフを放り捨て、壁に手をついて盛大にげえげえ吐き出す。シミュレータ内だっていうのに胃袋の中身まで正確に演算されているらしい。吐くものがなくなると、両目から涙がボロボロとこぼれていた。

 わっ、分かっていてもきっついわあ……。

 でもって水着委員長がぼくの背中をさすりながら冷静に提案してきた。

「ここも安全ではありません。闇雲に逃げ回るより、何かしら目的地を設定した方が効率的だと提案します」

「……ぼくはリアル世界の部屋が心配だ。そこら中ゲロまみれになっているんじゃないだろうな。というか自分のゲロで溺れているかも……」

 こっちもこっちで商店街の一角だ。メインストリートから一本脇に逸れた二軍選手って感じのお店がひしめいている。

 ここからどちらに向かうべきか。そもそもゾンビ達の分布は? いったんスマホをいじって空を飛んでいる風船型のドローンにアクセスしようかと思った矢先、別の通りから転びそうな格好で走り込んでくる中年の男女を目撃した。

『何か』から逃げるために必死だ。

 だとすると、

「ああ、まずい。こっちの通りにも来るぞ。わざわざゾンビの群れを釣ってきちゃってさあ!!」

「ユーザー様、相手がオバハンだと容赦なしですね」

 ツッコミを入れている場合じゃない。

 とにかく屋外にいるのはまずい。屋内に引っ込むにしても、出口の数が少なければ包囲されて雪崩れ込まれるのがオチだ。じゃあどこに行けば良いんだ!? と頭の中がパンクしそうになる。

 何となく壁際にあるジュースの自販機の陰に委員長と一緒にコソコソ隠れつつ、

「どうする、どうしよう? 速度に任せて振り切るにしても所詮自転車だし人の波に塞がれたらおしまいだし、でも人混みの多い商店街で籠城していたら加速度的にゾンビは増えるだろうし、今行くか、待ちか。どっちが正解なんだ……」

「ユーザー様、思考中も時間経過は進んでおります。ここはRPGではありません」

「ああもう!! とりあえずマクスウェル、ダンスして!! ぼくのパフォーマンスを最高値にしてくれる!?」

「全く非効率な要求とは思いますが、リクエストには応じます。だんすだんす」

 しばしの間、ビキニ委員長のダンスを真正面からうずくまって堪能。

 ……、はー。

 どうして人間っていうのはこう、曲線の連続に魂を持っていかれるんだろうなあ……などと割と本格的な暴徒大爆発の傍らで和んでいた時だった。

 スマホに着信があった。

 画面を見れば姉さんからだった。


『サトリくん……。あなたそこで一体何をしているんですか……?』


「きっ」

 一瞬で総毛立った。

 状況を無視して絶叫が迸る。

「きゃあああああああああああああああああああああどこから見ているんだあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 慌ててあっちこっちに目をやるが、少なくとも目に見える範囲に姉さんの影はない。考えてみれば当然だ。今は昼間で直射日光があるから、姉さんは外出できないはずなんだけど……?

「だんす! だんすだんす!!」

「そしてマクスウェルももうやめてーっ!!」

「システムはユーザー様のリクエストを忠実に実行しているだけですが何か?」

「だからそれやめてってばあ!! いったん素に戻ると自分の欲望を直視して死にたい気持ちになってくるからあ!!」

 全力の泣きで水着委員長にストップをかけると、ようやくスマホの向こうの姉さんが話を先に進めてくれた。

 まさに学校から帰ってきたら隠しておいたピンクな本が机の上に山積みにされていた気分。誰にとっても救いがないよこの空気!! カユイ! 何だか知らんが全身がくまなくカユイ!! 自分の体を雑巾みたいにねじって背中を掻き毟りたい!! 何ならもういっそ全てをフルオープンで公開して美人の姉さんのもじもじ顔を真正面から堪能するとか自滅戦術以外に取れる道が見つからないっっっ!!

『最初のインパクトに心をやられそうになりましたけど、サトリくんも「こっち」に来ていたんですね』

「う、ういっす。姉さんこれからどうすんの?」

『確かに吸血鬼にとっては太陽の陽射しは天敵ですけど、別にできる事が何もないって訳ではないんですよ。確かに初手で勢い余って、学校の中でオイタしたのはちょーっとマイナスでしたけど、うっぷ』

「姉さん?」

『何でもありませんっ。でも、わたしの凶行を知っているのはほんの一握りだけ。そこさえ口を封じれば、わたしは人の群れの中に身を隠せます』

「何を……?」

『あら、もっとヒントが欲しいですか? ゾンビと吸血鬼は同じ不死者ですけど、決定的に違う点が一つあります。ゾンビは常に腐り続けていて、それが早いか遅いかの違いでしかありません。ですが吸血鬼は血の補給さえ怠らなければ見目麗しい姿をキープし続けられます。この差はとっても大きいのです。何故なら』

 電話の声がわずかに途切れた。

 直後の出来事だった。


「うおおおおおお!! ゾンビどもを殺せーっっっ!!!!!!」

「この街をアークエネミーから取り戻せえええええええええええええええええええ!!」

「こっちにはエリカさんがついてる! リーダーに続けえっ!!」


 声というより、音の大爆発だった。

 何人も何人も……いや何十人もの人の塊が、無秩序に崩壊していく繁華街へと突入していく。各々鉄パイプだのハンマーだの大ナタだのを振り回し、すでにゾンビになってしまった者達の頭部へ容赦なく振り下ろしにかかる。脳を潰して確実に仕留めるために。

 直射日光の中でも平然と暴れている彼らは吸血鬼ではないだろう。

 かと言ってゾンビでもない。

 つまり、ぼくと同じ。

「姉さんは、普通の人間を味方につけたっていうのか!?」

『あら。吸血鬼ってそういうものでしょ? 最初から人類の敵でーすって自己紹介する吸血鬼なんかいませんし。親しい隣人のふりをして、夜な夜な仲間を増やし、ひっそりと街全体を冒していく。誰が人間で誰が吸血鬼か分からない恐怖。それこそがゾンビなどには真似のできないわたし達の恐怖なんですからっ☆』

 色々難しい事言っていたけど、ようはこういう結論か。

 美人は得だね!!

 見境がなくなっているのは正義の味方。

 警察官や消防士なんかも珍しくない。ていうかパカパカ火薬の音が聞こえるんだけど、あれもしかして鉄砲とか!?

『市議会、警察、消防に放送局、企業幹部、発信力の高い芸能人やコメンテーター。吸血による魂の簒奪まで時間がかかり、個体の数を増やすのに限界があるのなら……手当たり次第よりもアキレス腱を狙うべきですよね?』

「どうやって? 姉さんは勢力を伸ばそうにも、陽の光の下は歩けないよね!?」

『あら、方法なんていくらでもありますよ。例えば密閉状態の救急車を一台拝借するとかです』

 くすくすと笑みを含めて姉さんは気軽に答えてくれた。

『たとえ簒奪が進んでいなくても、急速な情勢悪化や不慣れなバリケード籠城戦ではあっという間に心労が溜まるものです。そして運動不足のVIP様ほど些細な事で大袈裟に救急車を呼びたがります。こちらとしては動く罠に自らハマってくれるのを待つばかり、と』

 ……そんな簡単に行くのかね?

 あるいは、姉さんはいくつもの策を巡らせていて、救急車は弾幕の一つでしかないのかも。

 重要なのは方法じゃない。

 実際に姉さんがこの街のインフラ網の要をひっそりと制圧しつつあるっていう結果の方だ。

『警察と報道を中心に、マスメディアやネットも通じて、すでに街の全域にゾンビパニックに対する注意喚起を進めています』

 吸血鬼の話は極力削ぎ落としてか。

『これはアユミちゃんを悪者にすると同時、最寄の劇場や球場に生き残りの皆さんをかき集める事でひっそりと連鎖スポットを用意するのにも役立ちます。ねーえーサトリくん、今この街にどれだけの爆弾ができつつあると思います?』

 この流れが供饗市全体に広がっていく場合、勢力図はかなり変わってくるはずだ。

 吸血鬼とゾンビの戦い、じゃない。

 街の人達にとって倒すべき相手はゾンビ一点。自分達が背中を預けたその相手が恐るべき天敵だって事にはまるで気づかず、全ての戦力全てのリソースをゾンビ討伐に差し向ける。

 当然、夜が来れば姉さんも姉さんで『吸血鬼として』ひっそりと動き出す。みんなの見ていない所で生き残りに噛み付き、何食わぬ顔で同族を増やしていく。

 つまりゾンビ、吸血鬼、健康体の内、二つの勢力が一斉にアユミへ襲いかかる構図だ。

 妹としてはたまったものじゃないだろう。

 あいつこれ知ったら泣きべそ一直線かも。

 ゾンビは瞬く間に増殖していくって言っても、今はまだ健康な人の方が圧倒的に多い。日中の間に吸血鬼との数の差を開いておきたいのに、ここで出鼻を挫かれた。日没までに状況を覆せなければ、後はさらに苦しい戦いが待っている。

 これで決まった、かな。

 そう思っていた時だった。繋がったままのスマホが新たに電子音を鳴らす。

「ごめん姉さん、割り込み入った」

『ええー? どうせあの子でしょうし、後回しでも良くありません?』

「マナーだから」

『マナーじゃ仕方がありませんね』

 許可をもらって通話に応じると、スマホのカメラを使ったボイスチャットと繋がった。

 相手はやっぱりゾンビで妹のアユミ。

 手で持っているためか、カメラの位置がかなり近い。

 そしてふらふらと揺れている。

「どうしたアユミ、なんかピンク動画みたいだけど」

『せめて自撮りっぽいねと言え』

 ……、

「自撮りの方がピンクに聞こえるけど」

『お兄ちゃんは感性が腐ってる!! そんな事よりもだ!!』

 ツイン先端縦ロールのゾンビ少女はそこまで叫ぶと、今さらわざわざ声を殺して、含み笑いと共に言ってくる。

『じゃじゃーん……。お兄ちゃん、あたしは今どこにいると思う?』

「?」

『せっかくクイズ形式にしているんだから答えてよう。あーもーノリの悪い姉兄(きょうだい)ってビミョーだわ』

「アユミ、状況は分かってる? ぼくはどっちの応援もできないけど、でも、これってかなーりヤバそうな雰囲気みたいだよ。供饗市が魔女狩りの街に変わりつつある」

『くすくす、まあーね。確かにこれまでの力関係ではそうだったかもしれない。一般人と吸血鬼がタッグを組んであたし達に向かって来たら、ゾンビサイドは押されがちになったかもしれない。今のままじゃじり貧で、そうやってお兄ちゃんも取られたままだったかもしれない』

 奇妙に余裕のある声色だった。

 そして最初の疑問にぶち当たる。そう、アユミは今どこにいるのだ?

『でも、それは人をベースにした化け物の話。人と人との激突の話。……だったらベースを変えてあげれば良い。元から人間よりも強い生物をゾンビ化させてしまえば良い』

 あれ。

 なんか嫌な予感がする。いいや予感なんてものじゃないぞ!!

 マズいっ、マズいだろー。バカのアユミは頭を使えば頭を使うほどドツボにハマっていく人種なんだからー!!

「うわっ!!」

 そんな驚きの声が、ちょっと離れた場所から聞こえてきた。

 見れば、姉さんに扇動された哀れなゾンビ討伐隊の人達が、死体に群がったカラスや野良犬と格闘していた。

「死体を啄んだヤツも感染するっぽい! これからは動物にも気をつけろ!! 倒した死体は燃やすなり何なりしないと被害が収まらないぞ!!」

 ……。

 まさか。

 そういえば、さっきのトイプードルも……。

『吸血鬼は人間の血しか吸えないけど、ゾンビのウィルスは色んな生き物に感染していくもんねえ! そんな訳でえ!! 正解は動物園までやってきていましたあ!! さあさあそれでは第二問、この動物園にはどれだけの種類の猛獣が、どれだけの数揃っているでしょうかっ!?』

「ええっ!? 動物園で猛獣と一緒にピンクな動画ってどういう事!? アユミ、シミュレーション終わったらちょっと家族会議な!!」

『ちゃんとやれよ!! こっちこそお姉ちゃんと一緒に家族会議だわ! お兄ちゃんあたしの事バカにしてんでしょ!?』

 ゾンビにとっても吸血鬼にとっても、生き残りは自分達の駒を増やす貴重な素材だった。

 でも、その素材が邪魔にしかならなかったら?

 だからアユミは一般人の存在を切り捨てた。

 ああもう!!

 我が妹の事ながら、どうしてこう殺人的に思い切りが良すぎるんだ! 思えばあいつはいつも変な色の水着ばっかり買ってきて後で唇尖らせるようなヤツだったっけ!? 可愛いピンクのふりふりと思ったら実はガッツリOバックだったとかあいつほんとバカ!!

『あはは! あたし達ゾンビは別に人間に固執する必要はない。どんな生き物だってゾンビにできるから。だけどお姉ちゃんはどうかなあ? 片っ端から生き残りを絶滅させて無人の廃墟にしてやれば、もうそれ以上は増殖できない。後は昼も夜も関係ない。砂漠で一人ぽつんと立つ吸血鬼なんて誰も怖くない! あたし達が総出で嬲り殺しにしてあげる!!』