【第九章】



 グシャグシャにひしゃげて吹っ飛んだ鉄格子の扉を潜ると、また周囲の空気がガラリと変わった。壁紙はなく、床も壁もつるりとした銀色のステンレス。自分がまるで大きなシンクの中にでも放り込まれたような気分になる。

 あのトンネルと同じだ。

 生活感のようなものが消えた。

 これまでの部屋や通路は不死者、アークエネミーの他に『職員』達も行き来していたんだろう。だからある程度の配慮がされていた。でもこっちは違う。きっと、姉さんやアユミといった不死者のため『だけ』にあてがわれた空間っていうのに近いんだ。

 水着委員長が言う。

「いよいよ秘密研究所の匂いがしてきましたね」

「オープン過ぎる研究所っていうのも珍しいけど」

 こっちの廊下にも扉がいくつかあった。

 そして調べてみると、壁一面に小さな扉がついた部屋だった。コインロッカーよりはずっと分厚くて頑丈だ。銀色の金属でできた扉の表面には、赤い光でデジタルカウンターみたいなものが点灯している。

「マイナス四〇度」

「バナナで釘が打てます」

「違うなマクスウェル、そこでは委員長ボイスを使ってこう報告するんだ。バナナがカチンコチンになると」

「シュア。シミュレーションが終結次第今の貴重な意見を皆で共有すべく登録された全アドレスへ一斉送信の構えを」

「ぼくを殺したいのは分かったが土下座で許してもらえるかな?」

 そう、ようやく思い出してきた。

 これもやっぱり映画やドラマの知識であって、現物を見た事がある訳じゃない。でもこの小さくて分厚い扉がずらりと並んでいるのって、刑事ドラマに出てくる死体保管庫とかに似ていないか……?

 正直、開けるのは躊躇われた。

 でも自分以外に真実を掴める人間はどこにもいない。ぼくが目を逸らせば逸らすほど、きっと晴らされない無念は増えていく。

 レバーをひねり、ロックを外して、扉を開ける。

 白っぽいもやのようなものが飛び出し、電動スライドで中身がゆっくりとせり出してきた。

 最初、透明なガラスの棺のように見えた。

 でも違う。

「氷、なのか……」

「ユーザー様、驚きポイントがズレています。何が凍らされているかの方が重要なのでは」

 分かってる。

 きっと思考が逃げたんだ。『そのもの』を直視するのが怖くて。

 氷漬けにされているのは、ぼくよりも年下の女の子だった。薄っぺらな手術衣だけで、身を隠す効果はほとんどない。仰向けに寝かされ、両目は閉じて、両手は胸の前で組んである。青ざめた肌に異質な環境も手伝って、劣情は全く湧いてこない。でもきっと、それこそがこの子に対する一番の冒涜、剥奪なんだとも思う。

 こうして観察しているだけだと、人間とどう違うのかは分からない。

 扉の上にあった小さなネームプレートに目をやると、『スキュラ』と書かれていた。

「スキュラって何だっけ?」

「ギリシャ神話に登場する女性型の怪物です。一二本の脚に六つの頭を持ち、航行中の英雄六名を殺害して捕食した話が伝えられています」

「……冗談だよな? この女の子は普通に五体満足に見えるけど」

「スキュラの出自は諸説ありますが、その中の一つに元は美しい少女だったが魔女の薬の影響で怪物化した、とするものがあります」

 となると、彼女は薬品の力で切り替え可能なスキュラ本人だったのか。あるいは、スキュラを生み出す薬品を調合する魔女だったのか。氷漬けの今となっては分からない。

 少女から目を離し、ずらっと並ぶ扉へ目をやる。

 ネームプレートは小さいから分かりにくいが、他にもいくつもの名前があった。『ヤクシャ』、『ハーピー』、『トロル』、『赤マント』、『リャナンシー』……。冷凍温度の表示が消えている扉もある。『人狼』に『ショゴス』に『ベルセルク』。こっちはどういう意味なんだろう。試しに扉を開けてみても中身は空っぽで、彼らがどこに行ったのかはヒントがない。

「コインロッカーベビーの話を思い出すな」

「全てのロッカーにみっちり赤ちゃんが詰まっているというオチは流石に前代未聞ですが」

 ネームプレートの端には小さな傷がつけられている。偶然できたものじゃなくて、何かの目印か、あるいは数を数えるサインのようだ。でも何のためなのかはちょっと見えない。

 諦めたように扉の群れから目を逸らしかけ……そこで気づいて慌てて戻す。

「見つけちゃった……」

「何がですか。……、これは」

「ゾンビに吸血鬼」

「……もちろん、あのお二人以外にも個体はいるのでしょうが」

 冷凍表示はやはりない。

 扉を開けても誰も入っていない。

 嫌な感じがする。

 ネームプレートの端は、どちらもびっしりと埋め尽くすように小さな傷が刻まれていた。他のどの個体にもない数だ。

 作業用デスクの上にはパソコンがあった。マウスをいじるとスクリーンセーバーが解除される。表示されていたのはグラフのようなものだった。いくつか見覚えがある。『ハーピー』や『トロル』なんて名前欄と、数字。改めてネームプレートと見比べてみれば、小さな傷と合致していた。

 最低で一。

 最高でも五のラインで奇麗に頭打ち。

 そんな中で、『吸血鬼』と『ゾンビ』の項だけ突出していた。

 まるであらかじめ設定された上限を無視して伸び続けるエラーのように。

 でも、そもそもこれは何を意味するグラフなんだ?

「……考えても仕方がない、か」

 部屋を出ると、もう残っている扉も少なかった。クライマックスが近づいている。レベル4、その真相へと。ぼくと水着委員長は道なりに進むしかなかった。あちこちに白衣や防護服を着たゾンビや吸血鬼がいたが、ほとんど激戦を経て共倒れになっていた。

 一際巨大な扉があった。

 元は凄まじいロックがかかっていたんだろう。あるいは、シェルターの丸い扉よりも。ここだけは他の鉄格子と違って力任せに破壊されていない。辺りにべったりと血の手形がついているので、きっとアユミが病院でやったように、責任者の指紋なり虹彩なりを奪って解除したんだろうけど。

 そして扉は二重になっていた。

 よほど特殊なものが待っているんだろう。ごくりと喉を鳴らす。

 レベル1から3までであれだけ打ちのめされたんだ。きっとぼく達が踏み込んだレベル4の『正体』は、そんな次元じゃない。だけどこの奥に、全ての無念が眠っている。偶然だろうが何だろうが、ここまで来たからにはこの目に収めなくちゃならない。

「マクスウェル」

「シュア」

 互いに言って、それから恐る恐る二重の扉の隙間を潜っていく。

 その奥で待っていたのは……。


 円形の。

 体育館よりも広い、それだけの空間だった。


「……、」

 奇怪な拷問道具や禍々しい兵器の山が積んである訳ではない。ぽっかりと開いたその場所は、見ようによっては肩透かしに思えるかもしれない。

 でも違う。

 何か、こう、ピリピリと肌に突き刺すような圧が全身を叩いてくる。多くの命が散った、その『死』が凝縮された場所。無念と慙愧が溢れ出した重油の塊のようにこびりついた空間。たとえどれだけピカピカに磨いて、飛び散った血や肉片を片づけて、除菌シートだの銀イオンの消臭剤だので九九・九%の雑菌を抹殺したところで、絶対に拭い切れない何か。そんな得体のしれないモノで埋め尽くされている。

 別に、この密閉空間が空気を抜いて真空状態になるとか、毒ガスが噴き出すとか、巨大な電子レンジになっているとか、そんな話じゃない。

 何もない。

 だからこそ異質なんだ。

 これだけの『死』がこびりついている、最深部のレベル4。そこに分かりやすい悪意が見えないのが、逆に異質で恐ろしいんだ。

 そう、あるはずないんだ。

 ここまで来て、本当の意味で『何もなかった』なんて。

「うふ、うふふ。やーっぱり、最後はここに来てしまうものなんですね」

「ええそうね、決着ならここが相応しい。蜘蛛の巣に囚われていた頃は絶対ここから抜け出してやるって息巻いていたけど。でも、あたし達が決着をつけるなら、最初からここしかなかったのかもしれないね、お姉ちゃん」

 円形空間の中心辺り。

 まるで西部劇の早撃ちのように真正面から対峙する姉妹。

 互いの手駒なんてもういない。ただ姉と妹が、血まみれの衣服を空気に揺らして向かい合うだけの、極めて原始的な戦闘のスタイル。

 ……そこまで眺めて、ようやく想像が追い着いた。

 レベル1から3は、人間社会への適応が絶望的だとみなされた不死者、アークエネミーに行われる処置のはずだ。当然、数字が上がるほど徹底した損壊に導かれるはず。

 ではレベル4は?

 調理器具、加工工具、そして薬品槽。そこまで徹底的にやっても破壊完了が認められない場合、この地下世界を作った光十字とかいう連中は最後の最後にどんな隠し玉を持ってくる?

 十字架や聖水なんかを突き付ける?

 核爆弾や気化爆弾でも地下爆発させる?

 いいや違う。ウィルス性のゾンビ少女である妹にはきっと十字架や聖水は通用しないし、オカルトにどっぷりの姉さんは核爆弾でも死滅するとは限らない。もっと確実に、もっと絶対に、レベル4の最終手段に相応しい戦力は別にある。

 そう、一つ一つを思い出していけば良い。

 死体保管所のような場所ではスキュラが眠らされていた。でもあれは本当に死体だったのか? 処分するのが目的なら保存は正反対だし、何より保存するほどのモノが残るのか。

 そしてこの円形空間にあった、異様に頑丈な二重扉。まるで一度入った者を絶対に逃がさないとでも言わんばかりの獄の門。

 つまりは、

「ここは捕らえた不死者同士を殺し合わせて確実に処分する……コロシアムだったっていうのか!?」

 最悪の想像だった。

 こんな事が頭に浮かんでしまう自分自身が、頭のイカれたサディストなんじゃと疑いたくなるほどに。

 でも二人の反応は違った。

 嫌悪や侮蔑を表すんじゃなくて、くすりと笑っていたんだ。

「そう、わたしはコロシアムの撃墜王。何度連戦してもどんな不利な条件から殺し合わせても絶対に生き残るから、みんなが処分方法に頭を抱えていた夜の吸血鬼」

「そう、あたしはコロシアムの脱獄王。縫い目を外して体をバラバラにして、わざとやられたふりをして表に放り出されては、蜘蛛の巣からしょっちゅう外に逃げ延びていた陽のゾンビ」

 どちらかが死ぬまで、絶対に開かない分厚い扉。

 総数を二で割り続ける格好で、確実に仲間達の数が減じていく円形空間。無限に続く戦いの中で、どれだけ勝っても何も得られず、たった一度でも敗北すればそこでおしまいなんていう割に合わない地獄の日々。

「カジノの利益還元率では絶対に胴元が儲かるように勝率が調整されているのと同じように、わたし達は絶対に消滅する運命でした。そう、ほんの五回連続で戦わされるだけで、統計の悪魔が牙を剥く手はずになっていたんです」

「でもあたし達は生き延びた。統計も確率もクソ喰らえ。まるで奇跡のように絶対のパラメータの網を潜り抜けて、歯を食いしばって命を繋げてきた。体を血で汚し、無様に這いつくばって、それでも、どんな手を使ってでも」

 そんな中でも、彼女達は生き残り続けた。

 思い思いの方法で。

 いつの日か、血と殺戮の牢獄から外の世界へ出られる事を祈り続けて。

「……どうして」

 思わず呟いていた。

 どうしてそこまで希望を捨てられなかったんだろう。頭に浮かんだ言葉はどこまでも不謹慎で、姉さんやアユミの人生を否定するようなものだった。ただがむしゃらに生きて溺れながらも藁を掴んだ二人を嘲笑うようにも聞こえたかもしれない。

 でも、そんな言葉が浮かんだんだ。

 こんな最低の悪意がべったりとこびりついた空間で、どうして希望を持っていられた。何かしらの理由で表の世界に出たとして、何も知らず呑気に笑っている人間達の社会を見て、どうして馴染んで溶け込もうなんて思えたんだ。

 ここは災害環境シミュレータ。

 入力されたパラメータはどれもこれも突飛なものばかりだったけど、エリカ姉さんやアユミだったら、今日と同じ事をリアル世界でもできたんだ。

 なのに。

 どうして絶望して世界を壊しに行かなかった……?

 対する答えはシンプルだった。

 やはり小さく笑って、ゾンビの少女と吸血鬼の姉さんはこう答えたんだ。


「そんなの、あなたと出会えたからに決まっているでしょう」

「そんなの、お兄ちゃんと出会えたからに決まってるじゃん」


 その返答が引き金となった。

 ズダン!! と爆音じみた第一歩と共に、アユミとエリカ姉さんが真正面から突撃していく。もうここまできたら集団を使った物量攻撃も一般人を巧みに操る知略も関係ない。

 ただ一対一。

 向かってくる手を逆に掴み、髪の毛を引っ張り、口を大きく開いて、そして力任せに噛みついていく。ゾンビを吸血鬼に、吸血鬼をゾンビに。そんな所属のすげ替えができるほど便利じゃないって分かっていても、お構いなしに。リスクを承知で、自壊も恐れず。小奇麗にお上品に立って構えるなんて余裕はどこにもない。片方が押し倒し、もう片方が体を回し、どちらが上を取るかでごろんごろんと辺りを転がっていく。

「ああ、ああ!! 今思い出しても腹が立つ! せっかくあたしが準備を進めてきたパーフェクトな脱獄計画だったのに、その日の気分みたいな感覚でお姉ちゃんが直前になって一枚噛んで来ちゃってさ!!」

「あなたが計画通りに損壊するよう仕向けたのはわたしでしょ? だったら多少の恩恵くらいもらっても良いですよねーっていうか!!」

 ぬいぐるみやクッションでバスボス叩き合うような気軽さで、しかしその牙や爪が衣服や柔らかい肌を切り裂いていく。

 真っ赤に染まりながらも、なお至近で姉妹は叫ぶ。

「だけどお姉ちゃんがポカしたせいであっさり見つかった!! あたしだけなら街の外まで逃げ延びて自由な世界に雲隠れできたのにっ!!」

「あらあら。昼の間は動けないわたしを結局最後まで面倒見たのはあなたの自己責任でしょ? お姉ちゃんとしては美談の棚に入った優しい思い出なんですけど?」

「ふぐうー……!!」

「あらやだっ☆ これくらいで照れてしまうんですか?」

 それはもう普通の怪我じゃない。皮膚が裂けて赤い血が滲むどころじゃない。

 ピンクっぽいもの、白っぽいもの、柔らかいもの、硬いもの。人の体の中にはこんなものが詰まっているのかと不思議な気持ちになるくらい、様々なものが傷口から溢れて覗く。

「でもあれだけは許せないっ!!」

「そこで独占欲を丸出しにできるところが羨ましいです」

「あたし一人が脱獄していたら、あそこでお兄ちゃんに会っていたのはあたしだけだった!! なのにおっぱいお姉ちゃんが横から割り込んでー!!」

「くすくす、あれはサトリくんの視線があんまり分かりやすかったものですから、ついついからかっちゃっただけですよ?」

「このおっぱい野郎!!」

「何をこのアユミちゃんの……アユミちゃんの、ええと、何かありましたっけ?」

「ふぐうー!!」

 いつか、どこかで、ぼくは二人と会っていた?

 それは再婚の話が出る前のはずだ。そうでないとおかしい。だってアユミと姉さんは『すぐに連れ戻された』って話をしているんだから。少なくとも、再婚で一緒に暮らすようになってから、彼女達が消息不明になった事はない。

「どうしたお姉ちゃん! お腹タポタポでもう動けないの!?」

「アユミちゃんこそお肉がなくてパワーが出ないんですか!?」

 つまり。

 だから。

 ぼくが見ている事を今さら思い出したように、彼女達は死闘を繰り広げながらも横目でこっちを捉える。

「あたし達は、そこで希望を知った」

「外の世界にこんなのが待っているのなら、壊すのは惜しいなって思えるものがです」

「だから蜘蛛の巣に連れ戻されても我慢できた」

「胸糞悪い人間ルールの押し付け、正論ばっかりの悪人どもが喜ぶ一〇〇点満点だって目指す事ができたんですよ」

 ぼくは、何を言った?

 今よりずっと昔。何も知らない状況で彼女達と出会って、どんな話をした?

 管理者権限でシミュレータを再起動し、必要なパラメータを入力すれば、答えは出てくるかもしれない。

 でもそんな必要はなかった。

 今もこうして殺し合う姉妹が、口を揃えてこう言ったから。


「あなたはね、こう言ったんですよっ☆」

「じゃあぼくの事も噛んだら、みんなのお友達にしてくれる? ってね!!」


 忌避すべき化け物なんかじゃない。

 一方的に広がる人間社会に適合できないからって処分されるだけの存在じゃない。

 目を輝かせて。

 何かに憧れるように。

 窮屈に押し込めて従わせるのとは違う。どこまでも増殖する人間達に混ぜて『あげる』なんて話ではない。

 人間の側から、不死者の側へ歩み寄るように。

 むしろそっちに行きたいと、そう願うように。

 いいや。

 そんな『事情』さえ知らなかった純粋な言葉だったからこそ。

 ギリギリまで削り取られて荒みきっていた彼女達の心に、響いた。

 響いて、何かを思い出した。

「馬鹿馬鹿しい話ですよね。世の中の辛さ酷さを何にも分かっていない言葉ですよね! でも、そんな一言でわたし達は救われたんです!! 何を捨てても良い、牙を折っても翼を捨てても構わない。だからもう一度、あの男の子と会ってみたいって思えるくらいに!! そんな奇麗な自分になりたいって!!」

「でも矛盾する話で、同時にこうも思っちゃったんだよ。もしももう一度出会えたら、その時はあの男の子の憧れに応えられるような、そんな不死者でありたいって!! 神話の神様? 地獄の魔王? 伝説の英雄? そんなもん天地人まとめて指で弾いて吹っ飛ばせるくらいの、一番のアークエネミーっていうのを見せてあげたいってさあ!!」

 ようやっと。

 その叫びを聞いて、ぼくは全ての謎が解けた気分になっていた。

 それはこの胸糞悪いコロシアムだの光十字だのって話じゃない。もっと最初の段階からあった謎。どうして仲の良いこの姉妹が掴み合いのケンカなんか始めてしまったのか、一番最初の導入。


 ゾンビと吸血鬼って、本気出したら勝ち負けとか決まるのかな。


 委員長との電話の中で出てきた、何の気のない台詞のはずだった。ちょっとした世間話のはずだった。

 でもそれは、アユミやエリカ姉さんにとっては絶対に看過のできない、優しくて柔らかい所を引っかく決定的な一言だったんだ。

 だから、彼女達はもう止まらない。

 災害環境シミュレータ上の予行練習でしかない。ゲーム空間よりちょっと精巧にできたデータ上の茶番でしかないのかもしれない。でも、絶対に決着をつける。たとえ苦楽を共にした同じ姉妹の血肉を貪る事になってでも、『一番』の不死者という冠だけは絶対に譲れない。

 いいや、譲りたくない。

 それが、彼女達アークエネミーの胸にある人間性ってヤツなんだ。

「……マクスウェル」

「シュア」

「どんな権限を使っても良い、ここでシミュレーションを落とす事は?」

「実質不可能です。ユーザー様の権限の書き換えに伴い、管理者権限は一時使用不可。また天津エリカ、アユミ両名がユーザー様のハードキーを利用してアクセスしているため、誰かが突出した権限を持つ事もありません。これは単一ユーザーに全権を握られる危険性は低くなりますが、しかし同時に」

「現状維持に収まりやすい。もう誰の手にも止められないって訳か」

「予測被害は『ゾンビと吸血鬼のどちらが勝つか』という一点に絞られます。何かしらの形で決着がつけば、自然とリザルト処理に移行するはずですが」

 そりゃそうだろう。

 永遠にヴァーチャル世界に閉じ込められるなんて話にはならないだろう。今も転げ回って血肉を引き裂く姉か妹のどちらかが息の根を止めれば、そこで安全に元のリアル世界へ帰還できるんだろう。そんなのは、もう五分一〇分でつく決着に過ぎないんだろう。

 でも嫌だ。

 何の合理性もなくたって、そんなので納得なんてできるか。

 不死者同士が貪り合って、吸血鬼とゾンビのどちらかが倒れて、にこにこ笑顔でハッピーエンド。だってこれが一番の方法なんですから、これしか最適解がないんですから、残酷でも受け入れて前へ進むしかないのです。

 まるで光十字の言い分みたいで反吐が出る。レベル4のコロシアムと何も変わらない。

 この戦いは、姉さんとアユミのわがままから始まった。

 ぼくはそれに付き合わされてきた。


 だったら。

 終わり方くらいは、ぼくのわがままを通させてもらう!!


 シミュレーションの意図なんてどうでも良い。

 こんな予定調和は全部台無しにしてやる。

 だって、嫌だろう。

 二人の想いは分かる。

 でも、だからって、それを無条件で受け入れられるかは違うはずだ。

 当たり前ってのは、そういうものだろう。自分の姉と妹が殺し合って、どっちかが決着をつけるまで延々と続いて、どちらかが返り血に染まって、どちらかが血の海に沈んでいくだなんて。そんな結末が迫っていたら、誰だって止めたくなるだろう。

 ぼくはここにいる。

 何かを動かせる。状況を変える可能性が。

 ほんのちっぽけでも。

 そよ風で木の葉を揺らす程度の変化でも。

 それでも、何もしないでただ見送るなんてありえるか。ナシだろそんなの!! あっちゃあいけないって反射的に言えるのが、家族ってものだろう!!

 だって知っているんだ。

 妹のアユミは勝気でずんずん前へ進んでいくのに後になってから大丈夫だったかなとビクビクするタイプで、ゾンビのくせに日光浴が大好きで、流行り物に敏感なくせに洋服選びのセンスはいまいちで、結局休日になるとぼくに泣きついてきて一緒に買い物する羽目になって、本当は運動神経抜群で体を動かすのが大好きなのにアークエネミーの自分が部活で活躍するのはフェアじゃないって一人で悩んでしまうようなヤツだって!!

 エリカ姉さんは見た目大人っぽいけど結構簡単な事で唇を尖らせて、吸血鬼のくせにタンスや戸棚の裏からゴキブリ一匹出てきたくらいで大騒ぎして抱き着いてきて、生き血が主食とか言いながら家族みんなでテーブルを囲む普通のご飯が大好きで、頭が良くて何にだってなれるはずなのに進路指導調査票の将来の夢に素敵なお嫁さんって馬鹿正直に書いてしまうような人だって!!

 知っているんだ。

 本当に知っているんだ。

 RPGやFPSに出てくる雑魚キャラなんかじゃない。誰かを引き立たせるために、黙って倒される事を前提に生まれてきたようなモンスターじゃない。きちんと考えて、悩んで、苦しんで、もがいて、足掻いて、それでも幸せを掴もうと努力し続ける独立した何物にも冒さなれない人格の持ち主なんだって事を、ぼくは知っているんだッッッ!!!!!!

 だから。

 狙いは一瞬だった。

 上を取られると睨んだ姉さんが足を使ってアユミの胴を蹴り放し、わずかに距離を取った一瞬。呼吸を整える事なく再び最短距離での激突を企図したその刹那。

 全てを終わらせるなら。割り込むなら。

 ここしかない!!

「な、あ!?」

「サトリくんっ!!」

 慌てたように叫ぶけど、もう遅い。


 どぶっ!! という柔らかいものが裂ける音。

 互いの首筋を狙って大きく開かれた口が、顎が、牙が、容赦なく左右から襲いかかってくる。


 ゾンビに吸血鬼。

 両方から、一斉にやられた。

 これでぼくが助かる目はもうない。でもまだマシな方だ。少なくとも、美人の姉さんと可愛い妹が血反吐や内臓ぐちゃぐちゃになる場面に立ち会わなくて済むかもしれないんだから。

 可能性を残す。

 小さな段差だけど、ここから積まなくちゃならない。

 一つ一つでも。

 絶対に手の届かない星を掴み取るために。

「あ、ああ、あああ」

「うそでしょ、この味、うええっ、サトリくんの……?」

 ……まったく。

 今さら、何をうろたえているんだか。

 こっちは延々と見せつけられてきたっていうのに。ヴァーチャルだろうが何だろうが、姉さんとアユミの殺し合いをずっとずっと突き付けられてきたっていうのに。

 一瞬でもその痛みなんだ。

 それを引き延ばされてきたこっちの苦しみも、少しは知れっての。

 うろたえたようにふらふらと距離を開こうとする二人へ、改めて手を伸ばす。そのまま抱き寄せ、血まみれの首筋に彼女達の唇を押し付ける。

 ここまで来て逃がしてたまるか。

 犬死なんかで終わらせてたまるか。

 全部、決着をつける。

 それでいて、二人が想定していたのとは全く別の終わり方で!!

「……姉さんに、アユミも。何か勘違いしているんじゃないのか」

「なっ、何を……」

「ゾンビや吸血鬼の戦いは殴り合いじゃなくて、感染力の勝負なんだろ。だからシミュレータが必要だったんだろ。なのにそれを忘れて髪の毛掴み合っているようじゃ、何にもならないじゃないか……」

 だから、と言おうとした。

 血の塊にいったん遮られ、咳き込むようにしながら、ぼくは先を続ける。

 まだ死ぬな。

 意識を手放すのは、これを言い切ってからだ。

「……だからさ、それなら、最後の勝負はやっぱり感染力で決めるべきなんだ。もうどこにも生き残りはいなくて、物量勝負でベンチマークできないっていうなら、もうちょっとミニマムな勝負になっちゃうだろうけど」

「お兄ちゃん、それって……?」

「ゾンビと吸血鬼」

 弱々しい息を吐いて。

「姉さんやアユミの話だと、ゾンビを吸血鬼に、吸血鬼をゾンビにって所属のすげ替えは難しいみたいだった。でもさ、二人が同時に生身の人間に噛み付いたら、どっちが先に犠牲者の肉体を侵蝕していくか。どっちが主導権を握るのか。どっちがぼくの主人になるのか。……これだって、立派な勝負になるだろう? 少なくとも、リアル世界でもできる掴み合いよりは刺激的な戦いになるとは思うけど……」

 意識が眩む。

 視界が真っ暗に落ちていく。

 ああ、やっぱりちゃんぽんってのは良くないんだな。ぼくは吸血鬼に血を吸われた事もゾンビに噛まれた事もないけど、きっと、多分、これって普通の反応じゃないぞ……。

「お兄ちゃん、ちょっとお兄ちゃんってば! 何で顔が真っ青になってるの、目玉の動きもおかしくなってるけど!!」

「ううっ、うっぷ……! ヴァーチャルと思って油断していました。間近で見るとこんなにきついものだったなんて!!」

 馬鹿野郎。

 でもまあ、良かった。ここで顔色をなくしてくれるくらいには、彼女達もやっぱり『人間』だったんだ。シミュレータの中じゃ阿鼻叫喚をやらかしてくれたけど、けど、それだけじゃあなかったんだって分かったから。

「……、……」

 ともあれ、これで勝負は決まる。

 でも実際、どうなのかね。

 ぼくはどっちが勝つと思う? 吸血鬼とゾンビ、両方からいっぺんに噛み付かれたら、ぼくはどっちに支配されると思う?

 いいや、この場合は質問がちょっと違うか。

 ぼくは、どっちに勝って欲しいと願っているんだろう……?