ひきこもりの弟だった


※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。


   1


 誰をも好いたことがない。そんな僕が妻を持った。


 その日は雪が降っていた。

 僕は宇都宮の実家から埼玉のアパートへ帰ろうとしていた。改札を通り、階段で七番線のプラットホームへと降りて行く。列車が到着した直後らしく、階段を上ってくるたくさんの人と擦れ違った。ホームの屋根の間から、白い氷の結晶が次から次へと音もなく線路に舞い落ちている。

 平日の夜ということもあり上りの電車を待つ人影はまばらで、蛍光灯の蒼白い光に照らされた無人のベンチはうら寂しい。電車の待ち時間を確認して僕はベンチに身体を預けた。凍てついたベンチは身体の芯から熱を吸い取っていくが、立ち上がる気にはなれない。ここ数日まとまった睡眠をとっていない。抗い難い重力と強烈な眠気がどっと押し寄せてきていた。それを払いのけようと目を瞬かせる。しかし、意識は徐々に遠のいていく。

 どのくらいの時間が経っただろう。はっとした時には二、三本の電車を逃してしまっていた。長時間スーツを着用したことで凝り固まっていた首や肩を回し、目を擦る。相変わらず頭がぼんやりする。ガムか何か、次の電車が来るまでの眠気覚ましになるものはないか。

 黒い鞄の中身を探ると、薄く四角い紙の角が指先に触れた。あった、と引き出し、引き出した物を見て眉根を寄せる。それはガムではなく、折りたたまれた黄色い手紙だった。子どもっぽいひょろひょろとした読みにくい文字で啓太へ、とある。


『ほら、これ。昔の啓太の部屋を掃除してたら出てきたの』

 それは今から一時間前、実家を出る間際に玄関で母に差し出されたものだった。

『要らない。棄てといて』

 そう言って爪先を革靴に押し込む僕に、

『でも、啓太宛てじゃない』

 必死に、哀願するように母は言った。何度も断ったが母はしつこかった。ここ数年で母は急激に老いた。僕を説得するために眉間に皺を寄せ、乾いた唇を歪ませて言葉を並べ立てる母を見ていると次第に弱い者虐めをしているような気持ちになり、僕は渋々、手紙を鞄に押し込んで家を出たのだった。


 隣のホームに滑り込んできた電車に煽られ、ライトで金色に染まった牡丹雪が狂ったように激しく舞い、次の瞬間には何事もなかったかのように静かに地面に吸い込まれていった。僕は手紙を掌の中でゆっくりと握りつぶした。

 親って、ずるいよな……。

 母と言い争いをするようになったのはいつの頃からだったか。僕の糾弾は所詮物わかりの悪い子どもの意見だと受け入れてはもらえず、いざ大人になった僕の苛立ちは、老いて小さく萎んだ母を前にしてすっかり行き場を失ってしまった。

 でも、もういい。たぶん、もう母には会わない気がする。

 お互いを遠ざけたい理由は山ほどあっても、母は僕を実家に招く理由を、僕は実家を訪れる理由をもう持ってはいない。久し振りに訪れた息の詰まるような実家で改めて思い知らされた。そこには微塵も僕の居場所はないのだということを。

 僕はもう一方の手で黒いスーツの胸ポケットに触れた。そこにはティッシュに包まれた一束の薄茶色の犬の毛が入っていた。僕が実家に焦がれるとすれば、それは幼い頃から共に過ごした飼い犬に会いたいがためだ。しかし、六年振りの実家で待っていたのは利口で優しい老犬トムではなく、不器用に切り取られたトムの柔らかい毛だけだった。せめて最後に一撫でしてやりたかったが、それは叶わなかった。

 僕は手の中でくしゃくしゃになった黄色い紙を、自動販売機の脇に三つ並んだゴミ箱の一番端っこ目掛けて投げつけた。それはゴミ箱の縁で跳ね返り、足元に転がり戻った。拾うために身を屈めようとしたが、身体に力が入らない。とてつもなく眠い。今の僕にはその小さな動作さえ億劫だった。眠い。疲れているのだ。

 線路脇、砂利の敷かれた地面が透けて見える程度に雪が積もっている。雪が白いモザイクのように、やんわりと思考を断絶する。見るともなく眺めていると、それが僕の内側で降っているか外側で降っているのか次第に判断がつかなくなっていった。

 瞼が重い。眠い。どうしようもなく。僕は椅子に凭れ掛かり、再び意識を手放した。

 それからまたどのくらいの時間が経っただろう。突如として、何者かに腕をトントン、と柔らかく叩かれた。

「……?」

 目を開けると、二十四、五歳の女性二人組が僕の前に立っていた。ちぐはぐな組み合わせだった。片方はスラリと背が高く、きつく腕を組んで非難がましい視線をちらちらと連れに向け、明らかに不機嫌だ。もう一方は比較的小柄で、人懐こい笑みを浮かべて僕を覗き込んでいた。僕を起こしたのはどうやら小柄な方だった。目が合うと、彼女は笑みを深めた。

「お兄さん、地元の人ですか?」

「一応は」

「すみません、眠っているところ。ちょっと、千草」

 背の高い方が連れの服の裾を引き、低い声で咎めるように言う。それに構わず、千草と呼ばれた連れは言葉をつづけた。

「私たち宇都宮に――」

 しかし僕は聞いていなかった。彼女たちの背後の光景に目を奪われたのだ。

 いつの間に到着したのだろう。ホームに停まった電車からぞろぞとと人が吐き出され、エスカレータ―の前に外套やマフラーを着こんだサラリーマンや学生たちで長い列がきていた。腕時計と電光掲示板を見比べる。どうやら電車に乗りそびれてしまった。次の発車まではあと十数分ある。

「お兄さん?」

「ああ、はい?」

「おすすめの餃子のお店、ありませんか」

 脳の動きが鈍く、何も浮かんでこない。思い出そうと視線を泳がせると、背の高い方が千草に向かって怒ったように目を吊り上げているのが目に入った。だが、僕と目が合うと長身の彼女はふいと目を逸らした。僕はなんとか思い出した店名を千草に告げた。

「その店に行ってみます。ありがとう」

 千草は白い歯を見せて笑った。連れが僕に向かってぺこりと頭を下げ、

「じゃ、いこっか」

 そそくさとその場を離れていく。千草がその後を追って僕の視界から消えた。一人になった僕は発車待ちの電車に乗るためベンチから尻を引き剥がすように立ち上がった。同時に、人混みの中で誰かが叫んだ。

「千草!」

 その声につられて振り向くと、先程の小柄な方が人波に逆らってこちらに引き返してくるのが見えた。

「千草、わすれもの?」

 連れの呼び声に見向きもせず、千草は僕の前で立ち止まった。

「何か?」

 千草は早口に言った。

「質問が三つがあります」

「はあ」

「彼女はいますか」

「いいえ」

「煙草は吸いますか」

「いいえ」

 質問の意味を吟味することなく反射的に答えた。僕の千草に対する興味は道端に転がっている塵や石ころと同じくらいだった。ちらりと腕時計を見る。さっき確認してからまだ一分も経っていない。帰りの電車に乗ること。できるだけ早く家に帰って身を休めること。今の僕にとってはそれだけが重要だった。

 そんな僕に、千草は、じゃあ、と少し間を空けて、三つ目の質問を口にした。


「最後に、あなたは――」


 それを聞いた瞬間、僕は思わず顔を上げ、初めてまともに千草の顔を見た。

 優し気に下がった眼尻、自然に口角があがった唇、ほんのり色づいた頬、些か切り過ぎた前髪。美人の部類ではないが、さっぱりとした愛嬌がある顔立ち。


 プルルルルルルルルル


 空気を切り裂くように隣のプラットホームから発車音が大きく響き、僕は無遠慮に千草を見つめている自分に気付いた。

 躊躇いながら頷く。

「そうです」

 たくさんの人が、立ち止まる僕たちを避けるように流れていく。その中で彼女だけが僕の前に留まり、やっぱりね、そんな風に笑った。

「どうしてわかったんですか」

 僕の疑問を彼女はあっさり片付ける。

「なんとなくそんな気がしたの。私もそうだから」

 混乱する僕に畳み掛けるように千草は言った。

「だからお兄さん、私とケッコンしようよ」

 僕は何も言えなかった。完全に思考が停止する。黒い円らな瞳の奥で彼女が何を考えているのか、真意が読めない。

 ただ一つ、彼女が僕を見る眼は、女が男を見る眼ではない。それだけははっきりとわかった。

「ちょっと! いきなり何言ってんの!? お兄さん、すみませんね?」

 人波の合間を縫うように戻ってきた千草の連れが泡を食って彼女の腕を引っ張った。千草は肩を捩って連れの手からするりと脱出し、窘めるように言った。

「唯ちゃん、今大事な話をしてるとこだから」

 唯ちゃんと呼ばれた彼女はまじまじと千草と僕を見比べた。

「知り合いなの?」

「ちがう」

「……一目惚れ?」

 唯ちゃんが躊躇いがちに口にしたその質問に、千草はきっぱりと首を振った。

「そういうのではない」

 唯ちゃんが天を仰いだ。

「ああ、なんだろ。それはそれでお兄さんに失礼かも」

 唯ちゃんがこちらに目を向けたのを感じたが、僕は千草から目を離せなかった。千草がもう一度言った。

「お兄さん、ケッコンしよう。私たちきっとうまくいくよ」

 その口調は誘っている風ではなく、頼んでいる風でもない。チョコレートにはコーヒー。饅頭には渋い緑茶、チーズにワイン。ソーセージとビール。そんな風にただ事実として相性のいい組み合わせを述べているようだ。

「いいですよ」

 唯ちゃんが千草に何か言おうと口を開きかけ、呆気にとられたように僕を見た。つるりと返事が滑り出たことに僕も驚いた。千草はきゅっと口角を上げ、

「ほらね」

 唯ちゃんに向かって得意げに胸を張った。唯ちゃんは状況の理解に苦しんでいるようだった。

 その間に、千草はすっと姿勢を正した。

「大野千草といいます。こっちは親友の唯ちゃん」

 深々と頭を下げる彼女に、僕もつられて頭を下げた。

「掛橋啓太です」

「末永くよろしくお願いします」

「こちらこそ」

 僕は長い道を歩いている途中で、すとん、と思いもよらぬ手頃な穴に落ちたような、在るべきところに収まったような気持ちになった。

 僕は落ち着いていた。千草も落ち着いていた。

 頭を下げ合う僕たちの傍で、唯ちゃんはまるで三人分の感情の波を一身に背負い込んだように一人で慌てていた。

「ちょっと待て。だから、さっきからアンタ何言ってるの?」

「唯ちゃん。私、この人と、ケイタ? さん、とケッコンするよ」

 僕の名を発する時、千草がそれで合っているか確認するように僕を見たから、僕は頷いた。

「そういう冗談は良くないよ」

「ホンキだよ」

「このお兄さんが悪い人だったらどうするの?」

「どうしようもないけど、うまくいくと思う」

 千草のさっぱりとした受け答えに、唯ちゃんはすっかり頭を抱え込んでしまった。

 まあ、同行者が行きずりの得体の知れない男と結婚したいと言い出せば大方の人間は制止するだろうな、僕は他人事のようにそう思った。

 それから数分に亘る二人の問答を意識の外で聞き流していたが、

「お兄さんもお兄さんだよ!」

 突然、唯ちゃんが僕に矛先を変えた。

「はい?」

 僕が腕時計から目を上げると、唯ちゃんが胸の前できつく腕を組んで僕を睨み付けていた。

「はい? じゃなくて。結婚詐欺って知ってる? この子、お兄さんのこと騙して財産根こそぎ奪い取るつもりかもしれないよ!」

 その剣幕にやや気圧されながら、しかし唯ちゃんのことをいい娘だな、と思った。彼女は友人を心配しているのだ。

「まあでも、これといった財産もないですし」

 腑抜けのような返事をした僕に、唯ちゃんは苛々と言った。

「今はなくとも! この女は今後お兄さんが馬車馬のように働いて稼ぐ生涯年収狙ってんだよ!」

「そうなの?」

 僕が尋ねると、千草は首を横に振った。

 唯ちゃんは僕に見切りをつけたように千草の説得に戻った。

「じゃあ、百歩譲って、結婚じゃなくてお付き合いから始めてみれば?」

 その現実的な提案に身を強張らせた僕の隣で、千草がきっぱりと首を振る。

「いやだ」

「やだ、ってなんで」

「付き合うという行為が面倒くさくて苦痛なの。プレッシャーがすごいっていうか」

「……それ変だよ。付き合うことすら面倒なのに結婚生活が成り立つわけないじゃん」

「大丈夫。付き合うのと結婚は別物だもん」

「大丈夫じゃないって。え? ねえ、本気なの?」

 千草は力強く頷いた。唯ちゃんはほとんど泣き出しそうだった。

「どうして? ねえ、千草。よーく考えてごらん。そんな大切なこと、もっと時間をかけて決めなって。そうだ、そんなに結婚したいなら、私の友達紹介するよ。千草に合いそうな人がね……」

 唯ちゃんの言葉は千草に見つめられて段々と尻すぼみになっていった。

「唯ちゃん、心配してくれてありがとう。でもね、大丈夫。なんとなくわかるんだよ」

「あの、僕もなんとなくわかります」

「なんとなく、って……。あー。もう勝手にすれば」

 僕と千草は連絡先を交換し、千草と唯ちゃんの旅行が終わってから入籍することを決めた。その間、唯ちゃんはきつく腕を組んで千草にも僕にも一切口を利かなかった。少しすると電車がやってきて、そこに乗り込んだ僕は二人に見送られる格好でドアの前に立ち、出発を待った。

 プルルルルルルルルル、とホームに響く機械音が電車の発車を報せた。

「帰ったら連絡するね」

 と千草。

「うん。待ってる」

「――お兄さん」

 唯ちゃんが逡巡しながら言う。

「……口挟んでばっかりでごめんなさい。でも本当に千草と結婚するんだったら、どうしても一つだけ確認させて。仕事はしてる? 働いてるの?」

 唯ちゃんの表情は真剣そのものだった。娘を嫁にやる母というのは、こういう顔をするのではないかと思われた。僕は少しでも唯ちゃんを安心させたいと思った。名刺入れから名刺を二枚抜き出し、千草と唯ちゃんに渡しながら言う。

「安心してください。仕事はしてますよ」

 ドアが閉まる。電車がゆっくりと動き出す。名刺に目を落す唯ちゃんの横で、千草は僕に向かって大きく手を振った。僕も小さく手を振り返した。

 そうやって、僕たちは別れたのだった。


 それから何日経っても千草から連絡はなかった。

 連絡を待つ間、僕は何度となく彼女との約束を反芻していた。

『ケッコンしよう』

 そう言った時の千草の表情。いいですよ、と返した時に見せた満面の笑み。

『帰ったら連絡するね 』

 駅での別れ際の彼女の言葉。

 連絡がないのは、まだ旅行から帰っていないからだ。僕は自分にそういい聞かせながら、いつ彼女が来てもいいように部屋の整理を進めていた。1Kのこの部屋は二人で住むには狭苦しいから、もう少し広い部屋をどこかで探したほうがいいかもしれない。そう思って、インターネットで会社の近くのアパートを検索してみたりした。

 けれど、連絡のないまま宇都宮駅での出会いから一週間が経った頃になってようやく、自分は一体何をしているのだろうと、冷静になってきた。

 あれは冷やかしだったのかもしれない。当然あり得ることだ。冷やかしではなくその時は本気だったとしても、気が変わってしまった可能性もある。彼女の真意を確かめようにも、千草は携帯を持っていない。連絡先は彼女の友人の唯ちゃんの番号か、彼女のアパートの固定電話かだった。

 唯ちゃんに電話を掛けようとは思わなかった。その番号が架空の番号で繋がらないことも考えられるし、仮に繋がったとして、駅での別れ際の様子からして、唯ちゃんが千草に取り次いでくれるとは思えなかった。


 夕方、待つことに耐えかねた僕は思い切って千草のアパートに電話をかけることにした。

 番号を押し応答を待つ間、暑くもないのに手にじっとりとした嫌な汗を掻いた。六回目のコールでかちゃりと受話器を持つような音がし、心臓が跳ね上がった。

「あ、もしも――」

『ただいま留守にしております。御用のある方はピーっという発信音の後に……』

 留守電だ。

 伝言の案内を途中で切った後、僕は自分の女々しさが嫌になった。僕は千草が留守であったことに安堵しているのだった。あの約束を本気にしていたのが僕だけだったということが判明することが怖かった。

 一体、僕はどうしてしまったというのだろう。あんな行きずりの口約束にどれだけの効力を望んでいるのだろう。思いの外強く、僕は彼女との結婚を望んでいる。自分の口から乾いた笑い声が漏れた。携帯電話を敷きっぱなしの布団に放り投げる。

 どうかしている。

 変な話、僕が彼女に抱いている感情は、恋でも愛でもなかった。根底にあるのは、そういう純粋な感情ではなかった。それなのに僕は彼女に執着し始めているのだ。僕にとって非常に都合のいい人間として。

『最後に、あなたは――』

 駅でのその質問に、僕はたぶん捉われてしまっていた。


 千草から電話がかかってきたのは、僕が彼女の自宅に電話をしてから数時間後のことだった。風呂上がりに耳掃除をしながら文庫本を読んでいる時にテーブルの上で携帯電話がブー、ブー、と震え出した。

 大野千草。

 ディスプレイに表示されたその名前を見た瞬間、心臓が鈍く肋骨を打った。僕は両手の物を放り出して携帯電話に駆け寄り、そっと通話ボタンを押した。

 僕と千草の空間がふっと繋がる。受話器の向こうに、彼女の気配がする。

 ほんの一瞬間を空けて、千草は勢いよく言った。

『帰って来たよ』

「おかえり」

 できるだけ落ち着いた口調で言うと、彼女は噴き出した。

「どうして笑うの?」

 その笑い方がどことなく調子外れで、揶揄われているのではないかと少し不安になった。

『電話だと全然声の感じが違うから』

 電話以前の問題かもしれない。僕の声は緊張で、少し震えている。

「そもそも僕の声覚えてるの?」

『覚えてるよ。旦那さんの声だもん』


 それからの僕と千草の行動は、何かに追い立てられているかのように迅速だった。

 翌日の金曜日に会社で上司に結婚の報告をし、土曜日に十日振りに僕のアパートの最寄り駅で待ち合わせて千草と再会した。千草と会うのはそれが二度目だった。僕たちは礼儀正しく挨拶を交わし、そのまま新居を探すため不動産店を回り、日曜日には僕の会社に近いとりたてて特徴のない2DKの即入居可のアパートを契約した。二人とも一人暮らしで、それぞれのアパートの退去日までは丸々一か月もあり、つまり一か月分余計に家賃を支払うことになったが、構わなかった。

 僕はできるだけ事を早く進めたかった。千草もそうしたがっているように感じた。口には出さなかったけれど、お互い焦っていたんだと思う。口約束の効力が消えてしまう前に、相手の気が変わる前に、相手の致命的な欠点に気付いてしまう前に、まるで憑かれたように結婚の準備を遂行した。

 週が明けて月曜日。

 午後一杯、有給を使って婚姻の手続きをするために僕たちは市役所を訪ねた。

 窓口で婚姻届けをもらい、必要事項を記入する。その時に初めて千草が僕より一歳上の二十五歳であることを知り、同時に僕が彼女についてほとんど何も知らないことを改めて思い知らされた。書類を書き終えた千草は、隣で印鑑を取り出した僕を片手でそっと制した。

 僕は身を固くした。

 まさか今更嫌だとは言い出さないだろうな、と思ったが、そうではなかった。千草はふっと手を下ろし、僕を下から覗き込むと、たった一つの条件を出した。

「これは、お互いを一生大事にします、っていう契約書」

 薄く微笑む彼女に、僕は何も言うことができなかった。彼女は続けた。

「啓太さんのこと大切にするから、啓太さんも私のこと大切にしてね」

 僕は一瞬間を空け、深く頷いた。

『だってわかるの。お兄さんと私の相性はぴったりだって』

 駅で言われたその言葉の意味が、それに同調した自分の直感の正しさが実感された。書類に印を押す瞬間、あるべきものがあるべきところに収まっていくような、奇妙な収束感があった。

 僕が渡した書類に彼女も記入を済ませ、

「よいしょ!」

 まるで宅配の伝票にするみたいに印を捺した。

 そして婚姻届けは受理され、僕たちは夫婦になった。


 役所からの帰り道、千草が手を握ってきた。

 それがあまりに唐突で、あまりに自然だったので、僕は何か考える間もなく反射的に握り返した。初めて触れた千草の肌は、すべすべとしていて、ほの温かくて、だから僕は少しやるせなくなった。

「なんかこうしてると夫婦っぽいね」

 夕陽を受け頬の産毛をぼんやりと光らせながら無邪気にそんなことを言う彼女に、そうだね、と答える。千草を蜂蜜色に輝かせている光は、きっと隣を歩く僕のことも照らしていて、車道も舗道も几帳面な四角い役所の建物も、そこら中を見境なく照らしていて、やたらと眩しいくせに、ちっとも温かくはなかった。

 不意に、誰かに内側から空気を抜かれたみたいに胸がすうっと平べったくなった。だから僕は千草の手をできるだけ優しく握り直した。彼女は僕の手をギュッと強く握ってそれに応え、悪戯っぽく笑った。それは、新郎に手を握られる新妻の笑顔からは程遠く、単純に悪戯っ子が共犯者に見せる笑顔だった。

 何か言わなければと思う。

「これからよろしくお願いします」

 僕が言うと、千草は一瞬きょとんとして、笑顔で頭を下げた。

「こちらこそよろしくお願いします」

 僕も微笑んで上着のポケットに千草の手を入れた。ポケットのささやかな空間で、僕と彼女の体温が混じり合う。

 陽が傾いていく。橙、金、紫、濃紺、紅。たくさんの色が混じり合う光に、街が、人が、車が、木が、染まっている。僕と妻の影が同じ色で寄り添ってる。

 僕はちらりと千草を見た。彼女は夕陽に目を細めながら、機嫌良さそうに何かの歌を小さく口ずさんでいた。それを聞いていたら気怠い義務感に駆られて、引き寄せてキスをしようとすると、千草はびくりと顔を仰け反らせた。

 目が合う。

 微かに顔を強張らせた千草は、僕が目を逸らすよりも一瞬早く、気詰まりを誤魔化すようにへらっと笑い、歌うように言った。

「けいやくいはん」

 僕は頭の中で千草の言葉を変換した。

 けいやくいはん。……契約違反。

「大事にして」

 千草はそう言って、僕の頬にほんの一瞬、キスのようなものをした。キスというよりは唇をぶつけてきた。勢い余って歯が当たる。頬に痛みが走る。彼女も痛かったのか、空いているほうの手で自分の唇を撫でた。

 そして一仕事終えたかのように、ふう、と一息吐き、子どもっぽい出鱈目な鼻唄を再開した。

 きっと、この女は頭がおかしいんだ。

 そうだ、こんな風に出会って間もない男と婚姻関係を結んでしまう女がまともであるはずがない。それは僕も同じで。だから、きっとうまくいく。僕たちはぴったりだ。

「大事にするよ」

 僕が言うと、千草はこくんと頷いた。

 僕たちの前を腰の曲がった老夫婦が寄り添いながら、目に見えない大きな流れにゆったりと揺蕩うように歩いていた。僕と妻のほうが歩くペースが速かった。老夫婦の影を追い越した瞬間、まずもって僕たちはこの老夫婦のような伴侶にはなれないだろう、という予感がした。

 でも、僕はそれでよかった。

 本物の恋が自然に落ちるものなのだとすれば、僕にはその経験がない。

 だから、今まで僕は能動的に自分の足で恋の穴へ一歩一歩降りていくことで恋人を持ち、周囲に対して年相応の性経験を積んでいるという体裁を整えてきた。一定の年齢を超えて然るべき段階をクリアしていないと、何かと都合が悪い時があるからだ。

 西の空では橙の淡い余韻と藍が溶けあっている。

「そうだ、記念にケーキでも買う?」

 千草に言われて目を遣ると、少し先に、ケーキ屋の店明かりがぼんやりと浮かび上がっていた。

「いいね。そうしよう」

 店に入ると、甘くて冷たい匂いがした。ケーキ屋なんて何年振りだろうか。ケースの前で悩む千草の横で、ケーキなんてどうでもいいのだけれど、一緒に悩んでいる振りをしてみせる。

「啓太さん、バラとホールどっちがいい?」

「んー、小さめのホールにしようか」

 こうやって一緒にケーキを選ぶ相手は、結婚相手は、お互いに一定条件を満たしていれば誰でもいい。僕は特段千草を好きじゃないし、千草も特段僕を好きじゃない。それでいいのだ。大切にし合うことさえできれば、特別な感情はなくとも。

「あ。これ、ちょうどいいね」

 一番小さな、三号のショートケーキのホールを買って店を出ると、一月の冷たい空に薄らと星が輝き出していた。

 夜道を二人で歩き出す。

 一生を一人でやり過ごすのはやりきれない。でも〝運命の人〟なんか信じない。となると、誰かと一緒になるためには多くの場合、あなたを愛しています、という一定期間の実績なり演技なりが必要だ。僕たちは運よくそれを省くことができた。

「貸して」

 歩きながら財布を鞄に仕舞い終えた僕は、千草が持つケーキの袋を受け取ると右手に持ち替え、左手で彼女の手をそっと握った。千草が柔らかく握り返してくる。

 僕がずっと欲していたのは、きっとこういう繋がりだった。自分のことを大切にしてくれる誰か、そして当たり前に大切にできる誰かがすぐそばにいる、ということ。もしかしたら千草もそうなのかもしれない。

「スーパーにも寄っていこう」

「うん」

 僕たちは最強だ。こうやってお互いに、契約を交わして一生を大切にし合える相手を手に入れたのだから。少なくとも、誰かと特別に大事にし合いたいという気持ちは本物で、僕たちはお互いの〝誰か〟なのだろう。

 そしてそれは、淋しいことなのだろうか。


 何はともあれ、その日から僕と妻との二人暮らしが始まったのだった。