ひきこもりの弟だった


   2


 僕が覚えている、一番古い記憶。

 青いクッションの影から、ひょっこりと顔を覗かせる男の子。彼が頻りに、話しかけてくる。

「――! ――!」

 物と物の輪郭は曖昧に溶け合い、何かの拍子で時々焦点が合う時以外は、世界はぐにゃぐにゃと掴みどころがない。

 そんな中で輪郭を保ったまま、男の子が顔を近づけて来る。

 僕は手を伸ばし、思いつくままにぺたぺたとその顔に触れた。つやつやとした冷たい鼻先、柔らかい頬、ふっくらとした赤い唇、コリコリとした顎、丈夫そうな額。僕を見つめるきらきらと光る目に指先で触れようとすると、男の子は目を閉じた。薄くてよく伸びる瞼。

「――」

 温かいものにそっと手首を掴まれ、僕はされるがままに腕を膝のあたりまで下ろした。僕のよりも大きな手が手首を掴んでいる。それを確認してから再び見上げると、さっきまでくっきりしていた男の子の顔がぽやっと滲んでいた。男の子が口を動かして音を出した。

「――」

 じっと見つめると、ゆるゆると男の子が輪郭を取り戻していった。彼は黒目がちな目を再び開いて僕のことを見つめていた。白い肌の中で一際魅力的に輝く赤い唇がゆっくりと動く。

「け、い、た」

 少し間を置いて、僕は唐突に、男の子の口にしたその音が自分のことを指すものなのだと閃いた。

 その瞬間、世界が変わった。

 目に映るもの全てが幕を打ち下ろしたようにはっきりと見えた。焦点が絞られ、クッションはクッション、男の子は男の子、自分は自分。とろとろと境目なく溶け合っているように思っていたものが、それらの存在が、個を以て僕に迫った。僕は目を瞠り穴が開くほど男の子を見た。すると、目の前の男の子の顔がぱっと輝いた。

「――?」

 ちがう。それじゃない。僕は願った。もっと、もっと。もっと、呼んで。

 彼の顔の感触を一つ一つ触って確かめたくなったみたいに、自分を表すその音を聞きたかった。その音の響きを一つ一つ耳で確かめたかった。そして願いは通じた。

「けいた!」

 男の子は、兄は、満面の笑みで言った。その声は優しく、じんわりと僕を満たした。

 兄に呼ばれて、自分の名前を知った。

 それが、僕の記憶の始まりだった。