ひきこもりの弟だった


   3


 ピピピ、ピピピ。

 薄闇の中、聞き慣れない音で目が覚めた。

 音の発信源が見慣れぬ小さな目覚まし時計だと、それが昨日から同居を始めた女の持ち物であること思い出すのとほぼ同時に、妻が猫のように素早く布団から抜け出しアラームを停止させていた。

 時計の針は五時半を示していた。

 僕が普段起きている時間よりも一時以上間早い。妻は放心したような顔で視線を泳がせ、少し寝癖のついた長い髪を耳に掛け、目を覚ましている僕に気付くとちょっと笑った。

「ごめん、起こしちゃったね」

「ううん。おはよう」

「啓太さんはまだ寝てて。朝ごはん作っちゃうね」

 僕は頷いて自分が横たわっているこげ茶色の布団と、隣に敷かれた象牙色の布団の細い隙間をぼんやりと眺めた。

 部屋の隅には、昨日互いのアパートから運び込んだまま荷解きが済んでいない段ボールがいくつも転がっている。二人とも一人暮らしをしていたため、新しい家具は一つも買っていない。当然のように布団もそれぞれ持参したもので間に合っていた。

 妻はてきぱきと布団を畳み、押し入れに上げた。僕は寝返りを打った。妻が部屋を出る。僕は頭の下で手を組み、目を閉じた。間もなく水で何かを灌ぐ音がし、トン、トン、トン、と何かをまな板で刻む規則正しい音がドアで濾され、布団に寝転んだままの僕の耳に鈍く届いた。

 何を作っているのだろう。

 昨夜、僕と妻は空っぽの冷蔵庫を埋めるため、近所のスーパーへ買い出しに出かけた。僕が押すカートに寄り添うように歩きながら、妻はさっぱりと言った。

「仕事を見つけるまでは家事は私がするね」

 仕事が見つかったら家事は分担制にするから私が一人でやるのは今だけだよ、という牽制ではなく、言葉通りの意味で言っている風だった。嫌いな食べ物ある? ないよ、そんな会話をしながら妻は次々と食材を吟味し、カートに入れていった。食材の選び方が、何かを作るための材料探しではなく、旬の比較的安い所謂お買い得商品を籠に入れていくやり方だったので、案外料理に慣れているのかもしれないと思った。もしくは、何を買っていいかわからずにとりあえず安いものを手当たり次第選んでいるか。僕は正直、妻の料理の腕には期待していなかった。料理ができるに越したことはないが、できないのならそれでもいい。その程度の軽い気持ちでいたが。 

 ああ、慣れてるな。

 妻の立てる小気味よい音を聞いてそう思った。

 彼女も一人暮らしの経験が長いのかもしれない。

 二度寝をしようと思ったが、音を聞いている間に何故だか目が冴えてきた。一月の朝は寒い。必要より早く温もった布団を這い出るにはそれなりの胆力が要る。しかし僕は起き上がり、妻に倣って布団を畳んで押し入れに仕舞い、シャワーを浴びるために台所を通った。

 ドアを開けると、ふわっと優しく味噌汁が匂った。

「もう起きたの? まだできてないよ」

 妻は二つあるコンロの左側を覗き込み、何かの焼け具合を点検しながら言った。右側のコンロに置かれた鍋からは、白くふんわりと掴みどころのない湯気が立ち昇っている。

「得意なの?」

 僕の唐突な質問に、妻は手元から目を離し、何が? と首を傾げた。

「料理」

「得意ってほどでもないけど、生きていくのに必要な程度はできるよ」

「上手だね」

「まだ食べてないのに?」

「いい匂いだから」

「食いしん坊なの?」

 妻は可笑しそうに笑った。

 僕がシャワーを浴び、髭を剃り、ワックスで軽く髪を整え、シャツを着る頃には、妻の手でテーブルに朝ごはんが並べられていた。大根の漬物と、豆腐と大根の葉の味噌汁と、鮭の塩焼きと生卵。洗い物が極力少なくて済むよう、ここ何年も食パンやバナナ等の簡単なもので朝食を済ましてきた僕は、絵に描いたような幸福な食卓に呆気に取られた。

「麦茶でいいよね」

 言いながら妻がグラスにこっくりと茶色い液体を注ぐ。

 テーブルを挟んで妻と向き合うと、保育園に通っていた頃クラスメイトの女の子に無理矢理付き合わされたままごとを思い出した。名前は忘れてしまったが、彼女は園内の砂場でプラスチックの容器に砂を盛り、甲斐甲斐しくコップに水道水を入れ、はいどうぞ?、と僕に差し出して小首を傾げるのだ。

 愛する人と晴れて結ばれた初々しい新妻のように、妻ははにかんだように笑い、食卓に向かって律儀に手を合わせた。僕は自分の表情を把握できないまま、妻に倣って手を合わせた。女の子の顔が浮かぶ。彼女もやはり、砂のご飯の準備が済むと手を合わせて唱和していたっけ。

「いただきます」

 それから、汚れたプラスチックの椀を手に取り、木の枝をお箸にしてもぐもぐとご飯を食べる演技をしたものだ。僕はほかほかの湯気が出ている椀を手にとり、熱い味噌汁を一口啜った。

「美味しい」

 美味しい。美味しいはずなのに、味噌汁が上手く胃に落ちていかない。さっきから僕は、大掛かりなままごとをしているような錯覚に陥っている。

「良かった。おかわりあるから、言ってね?」

 妻はにっこりした。彼女はよく笑う。よく笑うというか基本、にこにこしている。