ひきこもりの弟だった


   8


 犬がほしいと思うようになったのは、何がきっかけだったろう。

 通い始めた小学校の友達が立派なセントバーナードを飼っていたからかもしれないし、しょっちゅう、近所の人がころころと肥った柴犬やふさふさのポメラニアンを散歩させているのを見ていたからかもしれない。ピンと立った耳や、くりくりとした目、薄べったい舌、ふさふさと柔らかそうな体、つやつやとした鼻先。そういう一つ一つに、僕はずっと焦がれていた。

 しかし一度も母に犬をねだることはしなかった。犬は欲しかったが、それ以上に、家にあまりお金がないことを知っていたのだ。僕は僕の我儘が母や家計の負担になることを恐れていた。犬を飼うにはお金がかかる。そのことは学校の図書館から借りてきた数冊の犬の本を兄に読み聞かせてもらった時に知った。

 だから、驚いた。

 それは僕がすっかり小学校生活にも馴染んだ、初夏の夕暮れのことだった。

「ただいま」

 いつも通り家に帰ると、目をきらきらさせた兄が、おかえり! と叫びながらバタバタと駆けてきて、僕の腕を強引に取った。

「啓太! はやく! はやくこっち来いよ!」

 あれよあれよという間に兄は僕を居間まで引っ張っていった。なんだなんだと混乱した僕が見たのは、机とソファの間に置かれた段ボールの脇にしゃがみ込んで満面の笑みを浮かべる母だった。

「あら、お帰り啓太」

 見慣れない母の上機嫌に戸惑っていると、段ボールから小麦色の頭がひょこっと現れた。あんぐりと口を開ける僕をクスクス笑いながら母が言った。

「今日から家族の一員よ」

 小さな犬だった。仔犬は段ボールに前足を掛け、不安気に鼻を鳴らしてこちらを見つめていた。僕は半信半疑で母に訊いた。

「うちのいぬ?」

「そうよ。トムって言うの」

 まるで特別動きの鈍い信号が耳の穴からのろのろと脳みそを目指して這っているようだった。しかしそれが脳に達した瞬間、雷のような衝撃が全身を貫いた。

「やっっっ……たぁ!」

 僕はランドセルを下ろすことすらもどかしくそのまま靴下で横滑りながら走って犬に近寄った。犬は後ろ足で立ち上がり、ふんふんと僕の鼻先の匂いを嗅ぎ、ぺろっと舐めた。

 わあ! と、驚いて床に尻もちをついた僕を見て、母と兄は目を見交わし、くすくすと笑う。つられて僕も笑った。うれしくてうれしくて、笑いが止まらなかった。

 僕は恐る恐る仔犬の脇に手を入れ、抱きかかえた。ふわふわしている。太陽と草を入れ混ぜたような匂いがする。

 僕は円らな黒い瞳を覗き込み、その愛らしさに何度何度も歓声を上げた。


 小学生になってすぐ、気付いたことがある。

「お母さん、きょう、さかあがりができたよ!」

「ふうん、今体育では鉄棒をやっているのね」

「こくごのテストでひゃく点をとったよ!」

「へえ。やだ、もうこんな時間だわ。買い物に行くから鍵閉めておいて」

 僕は母に、褒められたことがなかった。

 褒めてもらいたくて、僕は母の前で宿題をしてみたり、ピアニカを猛特訓したり、難しい漢字を覚えたり、思いつく限りのアピールをした。母にはそのどれもが響かないようで、全てが空回りに終わった。しかし一方で母は、兄が洗濯物を綺麗に畳むことや、お小遣いを無駄遣いしないことなどを称えた。

 僕はそれをズルい、と思った。

 この頃にはもう、僕も気がついていたのだ。気付かざるを得なくなっていた。十一歳の兄が不登校であること。そしてそれが、世間的にいけないことだということに。学籍上兄と同じクラスに属している上級生の中には、不登校のクラスメイトの弟が入学してきたのを知り興味本位に僕の教室を覗きにくる生徒もいた。

「掛橋弘樹の弟って君? なんで兄ちゃん学校に来ないの?」

 兄の不登校の理由に興味を持つのは彼だけではなかった。

「お前の兄ちゃん、なんで学校に来ないんだ?」

 友達から、クラスメイトから、上級生から、登校班のリーダーから、僕はたくさんの人に問われた。その度に僕は答えた。

「わかんない」

 そう、わからないのだ。

 一緒に学校に行こうと何度も兄を誘った。どうして学校に行かないのか何度も訊いた。その度に兄は黙りこくってしまったし、母は僕を叱りつけた。

「お兄ちゃんにはお兄ちゃんのペースがあるの!」

 この頃の母は忙しかったパートがより忙しくなっていて、兄が本格的に夕飯を作るようになっていた。

「ヒロの作ったカレー、美味しいよ」

 夕飯の席で、母はよく兄の料理を褒めた。毎晩毎晩、兄の作った夕飯を食べ、母の褒め言葉を聞いた。

 成長期の僕の身体はたくさんの食べ物を求め、食べても食べてもお腹が空いた。兄の料理を食べれば食べるほどお腹の底に得体の知れない何かが澱のように溜まっていくような気がした。ご飯は大切なもので、兄がご飯を作ってくれるのはありがたいことだ。それはわかっている。

 でも、ご飯なんか作ってくれなくていい。作ってくれなくていいから、コンビニやスーパーのお弁当でいいから、僕は兄に学校に行ってほしかった。

 僕はなんとか兄を学校に行かせようと、昼休みのドッジボールや、グループで食べる給食、友達との些細なおしゃべりなど、学校での楽しいことを一生懸命説明した。反対に、友達と喧嘩したことや仲間外れにされたこと、悲しかったことは、兄が学校が嫌いにならないよう、何も言えなくなった。

 そうやっていつの間にか、僕の家での一番の心の拠り所は兄ではなく、トムになっていた。犬だから言葉はわからないだろうけれど、誰にも話せない悲しかったことを心の中で話し掛けるとその優しい黒い瞳でじっと僕を見つめ、一生懸命聞いてくれているように見えた。僕の抱える小さな焦燥やもどかしさを解ろうとしてくれているように感じた。僕は心の処理の仕方が解らなくなるとぎゅっとトムを抱いた。そういう時、トムはじっと黙って抱かれていてくれた。

 兄はどのくらい学校に行っていないのだろう。

 僕が物心ついた時から、兄はいつも家にいた。僕は兄の未来を思うと堪らなかった。将来困っている兄を見たくなかった。けれど今ならまだきっと間に合う。そう思う。具体的に、何に間に合うのかはわからないが、最初は皆についていけずに恥ずかしい思いをするかもしれないが、まだがんばればどうにかなる。僕にとっては大人でも、世間にとってはまだ兄は子どもだということもわかっていた。


 二十二時を回っても母が帰らない夜があった。

 雨が降っていた。僕と兄は二人で夕飯と風呂を済ませ、トムにジャーキーをやり、押し入れから引っ張り出した布団に並んで寝転んでこっそりおやつを分け合った。そして、新聞紙の兜と剣を使って戦争ごっこをした。

「やーらーれーたー」

 僕に新聞紙の剣で切られた胸を押さえ、兄がばたんと布団に倒れる。その周りをトムが興奮して飛び回り、僕は剣を宙に突き出し高らかに笑った。

「わっはっはっは!」

 得意になっているのも束の間、兄がガシッと僕の足首を掴んだ。

「ゾンビだぞー」

 と、兄は素早く起き上がり、僕を布団にひっくり返して脇腹を擽った。細かい塵が舞い上がり蛍光灯の光できらきらと光った。僕たちは思い切りはしゃぎ、疲れるとくしゃくしゃになった布団に並んで寝転んだ。

 電気を消すと、暗闇と共に、すっと沈黙が訪れた。僕たちは黙って雨音を聞いた。

 夜の雨は音を吸うのだろうか。

 降っていない時よりも家の中がしんとして、僕はまるで兄とトムと世界で三人きりになったような気がした。暗さに目が慣れてくると、天井の木目が歪んだ人の顔みたいに見えた。まるでそこに宿った亡霊が僕を監視しているようで恐ろしかったが、隣には兄がいた。それに、トムも。僕は兄とトムに挟まれていた。

 天井の顔から目を逸らし、兄を見つめる。僕より大きくて、力が強くて、優しくて、ただそこにいるだけで心強い兄を。僕は兄の存在を普段よりも濃く感じていた。ちらりと見ると、兄はさっきまでと打って変わって真顔で天井を見つめていた。僕は兄が目を開けていることにより一層勇気を得た。大人のいない夜は、わくわくする。でもきっとそれは隣に兄とトムがいるからで、もし独りぼっちだったら僕は今、どんなに心細いだろう。

 母はまだ、帰ってこない。

「兄ちゃん、どうして学校に行かないの?」

 普段は憚られるのに、今夜ならば聞ける気がした。たぶん、この雨と夜のせいだ。この家は世界から切り離されて、きっと僕たちは今、世界で一番安全な場所にいる。

「どうしてオレが学校に行かないのか、誰かに聞かれたのか」

 僕はドキッとした。天井を見つめたまま呟くように言った兄の身体から目に見えないひやっとした何かが迸り、行き場のないそれは暗闇にぐるぐると滞留した。

 ううん、と僕は咄嗟に嘘を吐いた。

「オレのせいで嫌な思いをしてないか」

 してない。僕は即答した。

 沈黙があった。でもその沈黙は雨がしとしとと優しく埋めてくれた。

 兄は天井を見つめたままだ。ひょっとしたら兄は天井を通して天井じゃないものを見ているのかもしれない。そんな風に思った時、兄が宙に声を放った。

「啓太、いつもごめんな」

 その瞬間、ぐっと熱いものが込み上げてきて、僕は慌てて寝返りを打ち兄に背を向け、傍らで眠るトムの鼻先をぎこちなく撫でた。トムが薄目を開け、じっと僕を見つめた。その眼が優しい。僕は横ざまにトムにしがみついた。

「兄ちゃん」

「なんだ」

 学校に行ってほしい。

 兄にそう言いたかった。でも、言えなかった。兄が困るのが解っているから。きっと、兄はわかっている。僕の気持ちを。そう感じた。だからもう、声に出しては言えなかった。

 学校に、行ってほしい。