ひきこもりの弟だった


    9


 朝。テーブルの上には白いご飯に半熟の目玉焼き、菜の花のお浸しに、わかめの味噌汁と妻手製の白い沢庵。白いレースのカーテンが風に柔らかく波打ち、フローリングの床を舞台に光と影が躍る。雀が、あちこちで囀り合っている。

「もうすっかり春だね」

 妻が目を細めて呟いた。僕は肯いた。

「春ですね」

 僕は春があまり好きではない。

 でも向かい合わせで淡い光りの中、小鳥が米粒を啄むようにポリポリと音を立てて沢庵を齧る妻を見ていると、春とはこんなにも穏やかなものだったのかと思う。

「どうしたの?」

 ぼんやりとしている僕に、妻が訊いてくる。

「なんでもない」

 箸で目玉焼きをぷつりと割る。赤みがかった黄色がトロリと流れ出す。沢庵を呑み込み、味噌汁を啜っていた妻が徐に口を開いた。

「啓太さんと一緒に桜がみたいよ」

 僕はちらっと通勤路の桜並木の様子を思い出した。

「桜かぁ。この辺の桜はもう散り始めてたな……」

「今週の土日もお仕事?」

「うん。ごめんね」

 妻が頭を振る。

「頑張ってくれてるのに謝らないで。ありがとね」

「……うん。この辺の川の桜でいいなら出勤の時一緒に見に行こうか」

 妻は花が咲くようにぱあっと笑顔になった。

 朝食を終え、僕がネクタイを締めている横で、妻はいそいそと春らしいアイボアリーのコートを羽織った。その肩についた小さな糸くずを見つけて手を伸ばすと、妻はぴくりと身を固くし、すぐに悪戯っぽく笑うとスーツが皺にならない程度に僕にぎゅっと抱きついてきた。

 支度を済ませ、僕たちは家を出た。

 日の光を受け家々の屋根瓦がさんざめく住宅地を抜け、川べりを歩く。僕は深く息を吸った。立ち昇る川の匂いと、春の匂いを胸一杯に吸い込む。アスファルトに貼りついた桜の木の薄い影。背の低い道草の緑。行き交う人々の中で、真新しい制服と真新しいスーツが目立つ。

 毎日同じ場所にあって少しずつ移ろっていく道。そのただ中で、今日は隣りに妻がいる。妻は夢中で桜吹雪を眺めていた。

「ぶつかるよ」

 前からくる高校生のカップルに向かって危なっかしくふらふらと歩いていく妻を、僕は道の端っこに連れて行った。欄干に寄りかかって川を見下ろす。それまで黙っていた妻が徐に顔を上げ、満面の笑顔で言った。

「綺麗だね」

 柔らかい陽を浴びて光る妻の髪を一片の桜が掠めていく。

「うん、綺麗だね」

 キラキラと瞬く濁った川面に、翻りながら無音で落ちていく無数の白い花びら。短い飛行の後、水面に囚われゆっくりと下流に押し流されていく。桜は少し、雪に似ている。ふとそんなことを思う。

 時間が許す限り、僕たちは並んで花吹雪を浴びながらその光景を眺めていた。やがて時間が来て、もう少しそこに居たいという妻をその場に一人残し、僕は歩き始めた。風が吹く度に舞い上がろうとする白い絨毯を踏み潰し踏み潰し、会社へと急ぐ。

 立ち並ぶ建物群の中にある一角の古くも新しくもない三階建て。その一階の事務所に足を踏み入れると、二歳下の新人の白井さんが机を拭く手を止め、一つ縛りの黒髪を揺らし、パッと振り向いた。

「おはようございます!」

「おはよう」

 僕は荷を肩からデスクに移し、テキパキと朝の清掃をこなす彼女の横でパソコンを立ち上げた。スケジュール表を開き、昨夜組んだ仕事の順序を確認する。年度始めで、やるべきことは山ほどある。

 始業と同時に嵐のような問い合わせや書類の襲撃にてんやわんやしている間に午前中は吹き飛んでしまう。あっという間に十二時を過ぎ、同僚たちが街に昼食を摂りに繰り出していく中、昼当番の僕は一人自席に残って契約書の作成を続けていた。しばらくして、しんとした事務所に電話が鳴り響いた。ニ回目のコールで取る。

「はい、大貫電設の掛橋です」

 間髪入れず相手が安堵の溜息を洩らす。

「ああ、よかった。掛橋君が出てくれて。経理の大川です」

 大川さんは僕が入社した時から何かと気に掛けてくれている母ほどの年齢の女性社員だった。普段はおっとりとした喋り方をするが、今日は少し様子が違う。

「ねえ掛橋君、突然なんだけど、坂巻さんってどんな人?」

「――えっと、」

「はは。掛橋君は優しいからね」

 大川さんは力なく笑った。坂巻はこの四月に他の部署から異動してきた社内での有名人だった。悪い意味での。

 大川さんが言う。

「実はね、坂巻さんに何度も催促してるんだけど、委託業務各種の請求書が未処理のままなの。悪いんだけど今日の一時半までに処理してくれない? うちで待てるのはそれが限界。そうじゃないともう間に合わない」

「わかりました。必ず処理します」

「ごめんねー。今年度から担当が掛橋君から坂巻さんに変わったんだよね。それはわかってるんだけどさ」

「いえ、こちらこそ迷惑を掛けてしまってすみません。彼にもよく言っておきます」

「そうしてくれると助かるわ。よろしくね」

 坂巻は昼休みで外出中だった。電話を切ると僕は立ち上がった。今、十二時半。坂巻が戻って来てからでは間に合わないかもしれない。自分でやったほうが確実だ。僕は急いでキーボードを打った。

 僕が請求書の処理を終えた頃、同僚たちが戻って来た。そして十三時を五分程過ぎた頃、坂巻がのそのそと戻って来た。坂巻に事の次第を報告すると、彼は欠伸混じりに言った。

「あれー? なんだっけそれ?」

「……何日か前に、私から坂巻さんに処理の仕方を説明したと思いますが」

「そうだっけ? そんなの知らなかったけどな……。うーん……、まあいいや。了解」

 そう言いつつ、坂巻はぽりぽりと禿げ上がった頭を掻いて昼休み明けだというのにどこかへ歩いて行った。僕と坂巻のやり取りを眺めていた一つ上の先輩が坂巻が歩き去った方向を睨み付けながら呟いた。

「ひでーな、アレ」

 ベテランの同僚が片眉を上げてみせた。

「いやあ、アレにとっては、あの程度はまだ序の口だよ」

「アレに金関係任せないほうがいいかもな。周りに迷惑がかかる」

「何やらせます? あの人何ができるんすか? 封筒のラベル貼りさえ危ういですよ。この前見てたら何度も貼り直してくしゃくしゃにしてましたもん」

 昼当番の勤めを終えた僕は、彼等の会話を聞き流しながら一人休憩室へと向かった。


 この日も夜遅くまで残り、家に着いたのは二十三時を少し過ぎた頃だった。いつものように眠たげに出迎えてくれた妻が、いつもよりにこにこしていた。風呂場でネクタイを外し、シャツのボタンを空けながら、何かあったのかと思い返し、今朝の散歩のことが思い当たる。

 随分と手軽に喜んでくれるものだ。

 妻は、僕を疲弊させるような我がままを言わない。何かを強要してこないし、理不尽に不機嫌にならないから機嫌をとる必要もない。いつも朗らかでいてくれる。率直に言えば、楽な女だ。

風呂から出ると、妻は学生が授業中にやるようにテーブルで腕を枕にしてうたた寝していた。ふと、その向こう側、妻が持参した本棚が目に入った。その中段の、一冊の角がはみ出している。

 僕はテーブルを回って本棚の前に立ち、飛び出た本の背表紙を見た。それは青森県のガイドブックだった。僕は何の気もなく、はみ出した角を人差し指で本棚に押し戻そうとした。しかし、予想に反して本は動かない。大判の本を集めた段だが、そこまでぎゅうぎゅうに詰まってはいるようには見えない。ガイドブックを引き抜き、何がつっかかりの原因かと隙間を覗き込むと、本の隙間に埋め隠すように一回り小さいノートが押し込まれていた。指を使ってほじり出すと、それは緑色の大学ノートだった。

 何となしに一ページ目を開いて、僕は眉を顰めた。

『生まれて来たくなかった。消えたい』

 中学生くらいの女の子の筆跡でそう書いてある。パラパラとページを捲る。なんだこれ。怪訝に思ってノートを閉じると、表紙にはマジックではっきりとこう書いてあった。

『(秘) 啓太さん、もし見つけても見ないでください 千草』

「啓太さん?」

 僕は飛び上がりそうになった。

 反射的にガイドブックの影にノートを隠す。振り返ると、目を覚ました妻が眠たげにこちらを見上げていた。見られたか。いや、彼女は頻りに目を擦っている。僕はガイドブックを軽く振ってみせた。後ろめたさが咄嗟に僕にこう言わせた。

「青森に行こう。せっかくだから一泊でさ。青森の桜だったら再来週の土日もまだ咲いてると思うんだ」

「青森の桜?」

 妻はぽかんと口を開けた。唐突過ぎて却って怪しいか。僕は内心慌てつつ、言葉を重ねた。

「桜じゃなくてもいいよ。青森じゃなくても。違うところのほうがいい?」

 妻はぶんぶんと首を振った。

「青森がいい」

 そして彼女は僕に芯から嬉しそうな笑顔を見せた。その表情には夫にノートの発見を発見されたかもしれないという懸念は混じっていないように見えた。仮にそれが演技だとしたら、薄ら寒くなるくらい清々しい笑顔だった。

 妻はいつも朗らかでいてくれる。しかし見かけほど爛漫ではない。そのことに、薄々気が付いてはいた。それでも、時間をかけて僕の中で築いてきた妻という人の像が、空気に溶けて散らばっていくように感じた。

 僕はトイレに向かう素振りを見せ、妻が完全に寝室の戸を閉めたことを確認してからノートを元の場所に戻した。妻が嫌がることをするのは本意ではなかった。何にしろ、妻が見てはいけないと主張するものが、僕にとってそのまま見てはいけないものだった。

 トイレで用を足してから布団に入る。

 この日は、午前四時過ぎに目が覚めた。ふと隣を見遣ると、布団に包まった妻の手がはみ出している。癖なのだろうか。布団を掛けてあげたいと思ったが、先日肌が触れた瞬間の妻の竦んだ様子を思い出して止めた。その代わり、妻の真似をして頭から布団を被ってみたが、息苦しくてすぐに顔を出した。僕はそろりと布団から抜け出し、妻の左手周辺を観察した。すると、布団の側面にいくつかの小さな隙間があった。どうやらそれが空気穴になっているようだった。

夜が薄く明け始めた頃、僕はようやく眠りについた。