明治あやかし新聞 怠惰な記者の裏稼業


 翌朝からさっそく女中の仕事を始めた香澄は、無事に三日目の朝を迎えていた。

「じゃあ、今朝はまず、廊下のふき掃除をお願いね」

「はい」

 三日目ともなると要領をつかんできて仕事も楽しくなってきている。幸いこれまで主人と一対一で顔を合わせる状況には陥っていない。案外、年齢以外は好みではなかったのかもしれないと、嬉しいような嬉しくないようなことを考える。

 ぞうきんを絞り、廊下をふきながら移動していき、一息ついて顔をあげた香澄は、障子の開いた部屋の床の間に飾られている掛け軸に気づいた。

 画の中でふり返る女性と目が合う。

「あ、この掛け軸……」

 香澄の持ってきた見返り美人の画だ。誰の筆か知らないが、やはり美しい女性だ。

 ――と、そう思ったのだが、何か違和感を覚える。

「あれ?」

「どうかしたのかね?」

 掃除の手を止めて掛け軸を見つめていた香澄は、突然かけられた声に驚いて、肩を跳ねさせた。声の主は浅田屋の主人、源助だ。

「旦那様……!」

 慌てて居住まいを正してちらりと見あげれば、彼は怒っているわけではないようで、にこやかな表情を浮かべていた。仕事を怠けていたわけではないが、言い訳をする。

「えっと……。あの掛け軸ですけれど、飾られている部屋のせいか、少し印象が違って見えるなって思って」

「そうかい?」

 じっと掛け軸を見つめた源助が、とたんに黙り込んだ。画に目を向けたまま硬直している。見あげたその頬は強ばっているようにも見えた。

 まるで幽霊でも見たかのようだ。

「…………」

 彫刻のようにぴくりとも動かない主人に戸惑いながら、香澄は控えめに声をかける。

「あの、どうか?」

 すると彼は慌てた様子で首をふり、後じさった。その顔は青ざめている。

 床の間に、彼は一体何を見たのだろうか。香澄には例の掛け軸と、飾られた花しか見えない。

「い、いや。なんでもないよ。それより、困っていることなどはないかい?」

 とりつくろうような笑顔を見せた彼を不審に思いつつ、香澄はうなずいた。

「はい。みなさん親切にしてくださいます」

「そうか。困ったことがあったらいつでも相談に乗るからね」

「は、はい。お願いします」

 親切でやさしい言葉に、彼が若い娘を好んでいることを思いだしてわずかにうろたえる。

 香澄にできるのは、自分が彼の好みでないのを願うことだけだった。



 源助があの掛け軸に何を見たのかわからないまま、さらに五日が経過した。久馬たちからの報せはとくにない。彼らが依頼をこなした後、香澄の女中奉公も終わる予定なのだが、あまり連絡がないと忘れられているのではないかと少々心配になってくる。

 そんなことを考えながら炊事場で昼食の片付けをしていた香澄は、多恵に声をかけられた。

「香澄さん。おつかいに行ってくれるかしら」

「はい、かしこまりました」

 濃緑のドレスを身にまとっている彼女の頼みにうなずいて、濡れた手を前掛けでぬぐう。

「桔梗屋さんへ行って、お菓子を受け取ってきて欲しいの。『浅田屋のいつものお菓子』と言えば通じるから」

 彼女は札入れから取りだした小銭を香澄に渡し、そっと耳打ちする。

「あまったお金でお団子でも食べていらっしゃい」

「ありがとうございます」

 思わず香澄の口元もほころんだ。そういったやさしさで、彼女は女中たちから好かれているのだ。

 出かけるために袖のたすき掛けをとく香澄へ、彼女は嬉しそうに話し続ける。

「あなたが持ってきたあの掛け軸だけれど、旦那様はとても気に入られたみたいで、毎日ながめてらっしゃるのよ」

 香澄は先日見かけた主人の様子を思いだし、心の中で首をかしげた。あのときの彼は、怯えていたようにも見えたのだが。

 けれどお内儀が嬉しそうに言うのであれば、それに水をさすこともない。

「それならよかったです」

 先日見た源助の姿について触れることなく、香澄はただうなずいた。

 浅田屋を出て桔梗屋で菓子を受け取った香澄は、以前艶煙に連れていってもらった団子屋へ向かった。お茶とみたらし団子を注文し、通りをながめながら縁台に腰をおろす。

 出てきた団子を早速口に運べば、口中にじんわりと甘みが広がった。やはり美味しいお団子だ。この店を教えてもらったことだけでも、今回、新聞社に乗りこんだ価値があったかもしれない。

 団子を頬張って、甘辛いタレをしみじみと味わってから、香澄は出がけの多恵の言葉に記憶をはせた。そしてぽつりと独りごちる。

「そんなに気に入っているようにも見えなかったのになぁ……」

「おや、なんの話ですか?」

「うひゃぁ!」

 突然、聞き覚えのある声に話しかけられて、香澄は驚いてふり返った。誰もいないと思っていた後ろの縁台に、いつの間にか艶煙と久馬が座り、それぞれ煙管と紙巻き煙草をくゆらせている。

「え、え、艶煙さん、と、久馬さん……」

「はい。艶煙です」

 にこりと笑って答えた艶煙が、細く煙を吐いた。久馬は何やら不機嫌そうだ。いや、嫌味な笑顔以外そんな表情しか見たことがないので、それがいつもの彼の顔なのかもしれない。 

「何してるんですか?」

「何って……お団子食べてます」

 艶煙は食べかけの串を手にして香澄に見せる。串に五個刺されている団子が三個に減っているところを見ると、どうやら香澄が来てからそれほど遅れず、彼らもやってきていたようだ。

 香澄を働かせておいて自分たちは団子とお茶で休憩とは、いいご身分である。いやもちろん、これはすべて香澄の自業自得なのであるが。

 それにしても暇そうである。彼らは日頃、ちゃんと働いているのだろうか。

「お暇そうですね」

「いえいえ、それほどでも」

 香澄の嫌味は欠片も通じなかったようだ。

 香澄は彼らと向かい合うように、移動して座り直した。

「女中のお仕事はどうですか?」

「何か失敗してるんじゃないのか?」

艶煙の問いかけに久馬がよけいな質問を重ねてきた。

「してませんよ!」

 香澄はそれをまず否定してから艶煙に答える。

「みなさんいい方ですし、楽しいです」

「旦那さんはいかがですか?」

「気をつけなさいって言われましたけど、とくには」

「好みじゃなかったんじゃないか? よかったな」

「ええ、本当に!」

 わざと香澄を怒らせているとしか思えない久馬の言葉に、あえて力強く同意する。ここでムキになってからかわれるのはごめんだ。どうして彼はいちいち絡んでくるのだろうか。出会い方からしてよくなかったのだとは思うけれど。

「まあまあ、落ち着いて、香澄さん。こんなこと言ってますけど、久馬さんってばあなたのことを心配して、あなたを『できるだけ一人にしないでくれって』って吉蔵さんに頼んでましたよ」

 香澄が久馬を見ると、彼は舌打ちをして顔を背けた。

 思い返してみれば、今朝方まで一度も主人と二人きりになる状況にはならなかった。

「だから、よけいなことを言うな、艶煙」

 照れているのかどうなのか、ぐりぐりと煙草の火を消す久馬はまだ香澄を見ない。その様子からすると、艶煙の言葉は本当のようだ。あれは偶然ではなく、久馬の計らいだったのだ。

 怒りを収めて、香澄はあらためて気がかりについて訊ねる。

「それよりも、ちゃんと依頼はすすめてるんですか? いつ終わりそうなんです?」

 まさかこのまま掛け軸の借金を返すまで働かなければならないのだろうかと心配になり、言質が欲しかったのだ。しかし、

「花嫁修業だと思って頑張ってください」

 艶煙はあえて期日を口にせず、にこりと笑って誤魔化そうとする。

「いつまで浅田屋にいればいいのかって訊いてるんですけど」

 誤魔化されはしないぞとばかりに追及すると、久馬があきれたように口を開く。

「自分で女中奉公することを決めたんだろうが。文句言うなよ」

「そうですけどね!」

 だからどうして彼はこう、いちいちいちいち香澄の感情を逆なでしてくるのだろうか。

 香澄は苛々を治めるためにやけ食いしようと、団子に伸ばしかけた手を止めた。

「ああ、そういえば、旦那様はあの掛け軸をすごく気に入られたそうですよ」

 いまいち腑に落ちないが、お内儀が言っていたことを伝えれば、艶煙が意味ありげに眉をあげる。

「へぇ?」

「毎日ながめているって、お内儀の多恵様が言ってました」

「ほほぅ」

 久馬までもが企み顔で、興味深そうに相づちを打った。言いたいことがあるならはっきり言って欲しいものだが、二人とも悪いことを考えているような顔で煙を吐くばかりだ。

「旦那さんがあの掛け軸を気に入っているようでは、先は長いかもしれませんねぇ」

「そうなんですか?」

 艶煙は細い目をなお細くして笑うばかりで詳しい話はしてくれなかった。協力を求められはしたが、まだ彼らの仲間にはなれていなようだった。仲間になるつもりはないのでかまわないけれど。

 それよりも今は、掛け軸のことが気になる。

「……あの掛け軸、私は、あまり好きじゃないです」

 ぽつりとつぶやけば、久馬がひょいと片眉をあげ、艶煙と視線を交わす。艶煙は煙管の灰を吹くと、湯飲みを手にした。

「どうしてですか?」

 問いかけられても明確な答えは返せない。

「五日前に床の間に飾られているのを見たんですけど……、なんか……」

「気に入りませんか?」

「そういうわけじゃ……」

 美女がふり返り、ほほえんでいる。昔から人気の題材だ。

 単純に綺麗な女性の画だと思っていた。けれど床の間に飾ってあるのを見たときに覚えた違和感がぬぐえない。そしてその正体に思い至り、ぞくりとする。

 あの画の女性は足下に目を向けていたはずだ。それなのに香澄は彼女と目が合ったのだ。

「な、なんだか……表情が変わったような……?」

 さらに憂いをおびていたほほえみが、どこか妖艶な笑みに変わっていた気もする。光の加減か、全体的に色あせても見えた。

 思い違いだろうか。

「ふぅん?」

 艶煙はにやりと笑うと、食べかけの団子に手を伸ばす。

「もう一度見てごらんなさいよ」

 いたずらをすすめるように艶煙が言うと、久馬も悪だくみをしている顔でにやりと笑った。

「きっと面白いことがあるぞ」

 久馬と艶煙の思わせぶりな言葉に首をかしげつつ、香澄は浅田屋に戻った。炊事場に向かうと、多恵が女中頭と話をしているところだった。

「ただいま戻りました」

「あら、お帰りなさい、香澄さん」

 にこやかに迎えてくれた彼女は、香澄の手から風呂敷に包まれた菓子箱を受け取ると、形よい唇にちらりと笑みを浮かべて、こそりと香澄に耳打ちする。

「口元、タレがついてますよ」

「えっ!」

 香澄が慌てて指先で口元を拭うと、彼女は愉快そうにころころと笑った。もしかしてからかわれたのかもしれない。

 菓子を女中頭に手渡した彼女は、ふいに思いだしたように香澄の二の腕をつかんだ。

「そうそう! いらっしゃい!」

 問い返す間もなく、ぐいぐいと腕を引っ張られる。

「え、え?」

 訳がわからないまま引きずられていくと、そこは先日見返り美人の掛け軸を見た部屋――主人夫婦の寝間だった。多恵はどうやらその画を香澄に見せようとしているらしい。

 ――の、だが……。

「見て。この画」

 床の間の前に立ち、彼女は満足そうな笑みを浮かべている。けれど香澄は、彼女のその笑みの理由がわからなかった。

「こ、これ……」

 掛け軸を見て、言葉を失う。

 見返り美人の画だ。表装も同じだが、香澄が以前見た画とはまるで違う。

 同じ女が描かれていると思う。立ち姿も同じだ。同じだけれど。

「これ……が、私の持ってきた掛け軸、ですか?」

「そうよ」

「で、でも……」

 明らかにそれは、香澄が持ってきて、あの日店先で広げた掛け軸とは違うものだった。

 憂わしげなほほえみを浮かべていたはずの女性は、恨めしげに表情を歪めている。醜くはないが、美しいからこそ凄惨にも見える。華やかだった菊花の着物は色あせ、咲き乱れていた花々はしおれて枯れてしまっていた。ほどけかけた帯の端は足下に落ち、そこに咲いていた花は髑髏に姿を変えている。

「これ、幽霊画、ですよ?」

 香澄が持ち込んだ画と同じものでないことは一目でわかる。わかるはずなのに、お内儀はうっとりとした眼差しで掛け軸を見つめている。

 画よりも、そんな表情を浮かべる多恵が怖い。彼女の気持ちが理解できない。

「毎日毎日、少しずつ画が変わっていったの。こんな掛け軸は初めてよ」

「そ、んな……」

 掛け軸に描かれた画が勝手に変わったなど、彼女は本当に信じているのだろうか。

 しかし、持ち込んだ香澄にも毎日変化していった原因を説明することができない。もしかしたらこの掛け軸は、元々いわくのある幽霊画で、飾っておくとこうして姿を変えていくものだったのかもしれないけれど。

 いや、そんな、まさか。

 でも本当にそうだったとしたら……。

 考えてみた香澄は背筋をふるわせる。

 気味が悪い。

 それなのに多恵は、欠片も怯えた顔を見せない。それどころか、 

「こんなめずらしい画、高く売れるのじゃないかしら」

 などと、的外れなことをつぶやいている。

「怖くないんですか?」

 掛け軸の画が勝手に幽霊画に変化したのだ。香澄は不思議だと思う以前に恐ろしく感じる。けれど彼女の表情に怯えはない。

「別に悪い感じはしませんもの」

 そういう問題ではないような気がするのだが。なかなか剛胆な女性だ。

 感心すればいいのかあきれればいいのかわからない。

 どんなに気味の悪い掛け軸だろうと、持ち主が気に入っているのならば自分には関係のないことだ。

 そう思っていたのだが、近づいてきた荒々しい足音にふり返った香澄は、青ざめた顔をした主人の尋常でない眼差しに射貫かれて、関係なくなどないことに気づいた。この絵を持ち込んだのは自分なのだから。

 彼は部屋に入ってくると、鬼気迫る表情で香澄の両肩をつかんだ。

「おまえ! その掛け軸は、なんなんだ? 何か、いわくのあるものなのか?」

 血の気が引いた顔には明らかな恐れが浮かんでいる。源助はこの掛け軸の絵が変わったことを異常な出来事としてうけとめているのだ。そういえば吉蔵が、彼は迷信深い性格だと言っていたか。

 香澄たちが画をながめているのを見かけ、いても立ってもいられなくなり、とうとうこの掛け軸のいわくを訊ねる気になったのかもしれない。

 源助が声をふるわせる。

「初めは気のせいかと思った。だが、日に日に画が変わっていくんだ。昨夜まではまだ生きている姿だったが……、今朝起きたらこんな画になっていた……!」

 むしろ今までよく我慢していたものだ。香澄はそう思うのだが、やはり多恵は考えが違うようだった。

「まぁ、あなた。そんなに怖がることはありませんわ。ただの画ではないですか」

「ただの画がこんなふうに変わるものか!!」

 浅田屋の声は悲鳴のようにさえ聞こえた。

「毎日、毎日変わっていく画を見て、どうしておまえは何も思わないんだ!」

 恨めしげな目をした女が、画の中から見つめてくる。どこから見ても目が合う、不思議な画だった。

 彼の話が本当で、日に日に少しずつ画が変わっていき、とうとう幽霊画になってしまったのだとすれば、彼の反応も不思議ではない。毎日掛け軸の変化を目にしていれば、なおのこと。

 源助は香澄の肩が痛むほど、つかむ手に力を込めた。

「何か知っているか? 祟るような画じゃないだろうな?」

「わ、私が知っているのは、御一新後に父がお金のために何度か手放そうとしていたことくらいしか。だからお金になるものだろうと思って……」

 香澄は画のいわくを訊ねられたときにはそう答えるよう言われていたとおりに伝えた。もし本当にいわくのあるものだったとしても答えようがない。ただ無知な娘を装うことしかできないのだ。だが冷静に考えてみれば、あの久馬と艶煙の用意した画だ。いわくよりも細工がある可能性が高い。

 我慢しきれなくなったように取り乱す源助とは対照的に、多恵は冷静だった。薄く笑みを浮かべて夫へ声をかける。

「まぁ、旦那様。毎日ながめてらっしゃったから、私、てっきり気に入っておられるのだと思っておりましたわ。こんなに美しい女性の画ですもの」

「何が言いたい」

 妻の含みのある言葉に、源助の表情に険がくわわった。気にしていないように見せかけて、多恵は夫の女好きを嫌悪しているのかもしれない。

 夫婦の関係というのは未婚の香澄にはよくわからなかった。母を幼いころになくしているため、両親を参考にすることもできない。

「ふふ。旦那様はそういうものを気になさる方ですものね」

 多恵は口元に手を当てて笑みを隠すと、彼の迷信深さを揶揄する。香澄は今にも夫婦げんかが始まるのではないかと、ハラハラして二人を見守った。

「桜野さんだって、別に辞めさせることなんてなかったわ。よく働く娘さんだったのにあんな新聞記事を真に受けて」

「身代をつぶしてからでは遅いんだ」

「はいはい」

 あきれたように溜息をついた彼女は、ちらりと掛け軸に目を向けると、

「では、この掛け軸については、いわくのわかる方を探しましょう」

 と、そう提案した。