明治あやかし新聞 怠惰な記者の裏稼業



第二話 髪鬼の怪



 長い──長い黒髪が、眠る男の首に絡みつく。

 白い小袖をまとい、長い黒髪をぞろりと垂らした女が、布団に横たわる男を見おろしている。かつては町の誰よりも美しいと褒めそやされた艶やかな黒髪は、もはや見る影もなくぼろぼろに傷ついていた。

 毎日深更となると、女はそんな姿で男の元に現れる。

「ああ、うらめしや」

 暗い瞳で男を見つめる彼女は、幾度も幾度も繰り返す。

「うらめしや、うらめしや……」

 愛おしげにさえ聞こえる声でささやきながら、女は自分の黒髪が絡んだ男の首を、細い指でしめあげた。

「二世の契りを交わしたではありませんか。私以外の妻は娶らぬと約束してくださったではないですか。あの言葉は嘘だったのですか? 何故私を捨てて、若い娘を娶ったのですか?」

 ぎりぎりと首をしめられ、男の手が助けを求めるように空を掻いた。



 香澄が久馬と艶煙の《裏稼業》を手伝うと一方的に宣言したのは十日前。それからしつこく説得した結果、反対していた久馬になんとか許してもらうことができた。

 しかし、それには二つの条件がついていた。

 そのひとつは、三ヶ月という期間だ。その間に見返せるものならば見返してみせろという久馬の宣戦布告であろうと香澄はそれを受け止めた。

 そしてもうひとつの条件は、親に外出の許可を得ることだった。

 外出の理由をいつまでも誤魔化すことはできない。かといって人を騙す仕事を手伝うなどと正直に伝えて、父が許可してくれるはずもない。そこで艶煙が提案してくれたのが、日陽新聞社で雑用係として働くことだった。久馬はよい顔をしなかったが、新聞社の社長は喜んで香澄を受け容れてくれたし、父も「社会勉強になるならば」と言って許してくれた。

 明治と年号が変わっても、男には男の、女には女の仕事があり、男の職場に混ざって女が働くことなど滅多にあることではない。そんな中で香澄を雇った日陽新聞社の社長も、香澄が働くことを許した父親も、ずいぶんな変わり者の部類に入る。

 いや、働く香澄自身が言えることではないのだけれど。

 ともあれ、おかげで頻繁に家を空ける理由を考える必要はなくなったわけだ。

「おはようございまーす」

 香澄は出勤時間の十時より少し前に新聞社の扉を開けた。そこには四人の男性が机に向かっている。社長一人に記者三人。記者の一人はもちろん久馬だ。

「おはよう」

「おはよう、香澄ちゃん」

「おはようございます」

 返ってくる挨拶に応じながら自分の席へ向かうと、今日一番の仕事を言いつけられる。

「香澄ちゃん、お茶淹れて」

「はーい」

 香澄が雑用として頼まれているのは、お茶くみに掃除、郵便物の整理とおつかいだ。たまには記事の推敲や、書類の清書も任される。幼いころから父に字を習っていたのが役に立った。

 前掛けを身につけると、香澄は早速人数分のお茶を淹れた。

「どうぞ」

 社長の机に湯飲みを置くと、髭を蓄えた四十絡みの恰幅のいい男がにこりと笑う。

「いやぁ、職場に女の子がいるっていうのはいいなぁ」

「うむ。明るくなるな」

 社長に応じたのは彼と同じ年頃の、内村という久馬の先輩記者だ。社長とは同門で、この新聞社を立ち上げた仲間でもあるらしい。

 彼らの言葉に、古い本を読んでいた久馬がちらりと顔をあげて口をはさむ。

「そうですか?」

 眉間に皺が寄っており、非常に不満そうだ。


 香澄は順番を無視して、彼にはお茶をださず、彼の後輩記者の弥太郎の机に先に湯飲みを置いた。

「はい、どうぞ。弥太郎さん」

 弥太郎はせいぜい十代の後半にしか見えない童顔なのだが、久馬よりいくつか年下なだけの、二十代半ばらしい。そのうえ彼の身長は平均的な男性よりもかなり低い。彼は久馬たちとは違い、まだ長着に袴姿だ。

 ちょっと可愛いと思えてしまう彼は、この職場で香澄が一番気安く接することのできる相手だった。

 お茶を後回しにされた久馬が香澄を見あげる。

「おいこら。俺のはどうなった」

「あら欲しかったんですか?」

「ふん。どうせ出がらしかよ」

「なんですって!?」

 そんな二人のやりとりに、社長がのんびりと口を開く。

「仲良しだなぁ」

「まるで兄妹だ」

 そう応じた内村をふり返り、香澄はびしりと久馬に指先をつきつけた。

「私の兄はこんな意地悪でも嫌味でもありません。やさしくて紳士的で、清廉潔白を画に描いたような方なんですからね」

 兄は久馬よりも年下だろう二五歳だ。年の離れた妹である香澄はずいぶん可愛がってもらったし、今でも甘やかされている。頭がよくてやさしく人当たりもよく、見た目もそこそこ麗しい彼は、香澄の自慢の兄なのだ。

 だからすぐに意地の悪いことを言い、嫌味に笑う久馬は、多少顔がよろしかろうと兄の足下にも及ばない。

 面倒くさそうな表情で本を閉じた久馬がぼそりとつぶやく。

「そういう男にかぎってむっつりなんだ。愛人を二人も三人も囲って……いてっ!」

 香澄は思い切り彼の足を蹴ってやった。

「おまえな! 男なんてのは元服すれば、女遊びのひとつやふたつしてるもんなんだよ!」

「あーあ。香澄さんが虫けらを見るような目をしてますよ」

 弥太郎の言うとおり、久馬を見る自分の眼差しはひどく冷たいだろう。

 兄と久馬はまったく違う。提灯に釣り鐘、雲と泥、月とすっぽんだ。

 弥太郎があきれたように肩をすくめる。

「どうして久馬さんは悪ぶっちゃうんですか? 昔っからそうなんですから」

「弥太郎さんは久馬さんと以前から知り合いなんですか?」

 香澄はまたたき、弥太郎に問いかけた。

「道場が一緒だったんです。この仕事にもその縁で声をかけてもらったんですよ」

「うむ。剣はすこぶる弱かったが、学問所の成績はよかったことを思いだしてな」

「どうせ免許皆伝の久馬さんとは違いますよ!」

 わっと叫んで弥太郎は机につっ伏した。思いだしたくない過去でもあるのだろうか。そんな彼の頭を久馬が筆の尻でつついている。

 弥太郎はいつも久馬にいじめられているのだが、仲は良さそうだ。

「みなさん士族の出なんですか?」

 訊ねた香澄に社長がうなずき、内村と目を合わせる。

「俺たちはしがない貧乏御家人だった。だからなあ、戊辰の戦が終わった後、薩長の奴らの下で働くくらいなら、流行の新聞社でも立ちあげて、奴らを小馬鹿にした記事でも書いてやろうと思って」

「よくこれまでつぶされませんでしたね」

 志が高いのか低いのかわからない。香澄はあきれてつぶやいた。

 新聞を発行するには政府の許可がいるのだ。当然検閲もあり、政府の批判に匿名記事、名誉毀損にあたる記事を掲載することも禁じられている。ちなみにお咎めは新聞の発行停止や差し押さえだ。日陽新聞社はこれまで上手く政府の目をすり抜けてきているのだろう。 

「久馬は世が世なら、今頃町の娘さんたちに騒がれていたんだろうけれどなぁ」

「久馬さんのお父上は、北町の与力でしたからね。『困ったことがあったら、いつでも言いねぇ』なんて、そりゃあ格好良かったんですよ」

「へぇ」

 弥太郎が加えた説明に、香澄は素直に驚いた。