明治あやかし新聞 怠惰な記者の裏稼業


 久馬と艶煙の思わせぶりな言葉に首をかしげつつ、香澄は浅田屋に戻った。炊事場に向かうと、多恵が女中頭と話をしているところだった。

「ただいま戻りました」

「あら、お帰りなさい、香澄さん」

 にこやかに迎えてくれた彼女は、香澄の手から風呂敷に包まれた菓子箱を受け取ると、形よい唇にちらりと笑みを浮かべて、こそりと香澄に耳打ちする。

「口元、タレがついてますよ」

「えっ!」

 香澄が慌てて指先で口元を拭うと、彼女は愉快そうにころころと笑った。もしかしてからかわれたのかもしれない。

 菓子を女中頭に手渡した彼女は、ふいに思いだしたように香澄の二の腕をつかんだ。

「そうそう! いらっしゃい!」

 問い返す間もなく、ぐいぐいと腕を引っ張られる。

「え、え?」

 訳がわからないまま引きずられていくと、そこは先日見返り美人の掛け軸を見た部屋――主人夫婦の寝間だった。多恵はどうやらその画を香澄に見せようとしているらしい。

 ――の、だが……。

「見て。この画」

 床の間の前に立ち、彼女は満足そうな笑みを浮かべている。けれど香澄は、彼女のその笑みの理由がわからなかった。

「こ、これ……」

 掛け軸を見て、言葉を失う。

 見返り美人の画だ。表装も同じだが、香澄が以前見た画とはまるで違う。

 同じ女が描かれていると思う。立ち姿も同じだ。同じだけれど。

「これ……が、私の持ってきた掛け軸、ですか?」

「そうよ」

「で、でも……」

 明らかにそれは、香澄が持ってきて、あの日店先で広げた掛け軸とは違うものだった。

 憂わしげなほほえみを浮かべていたはずの女性は、恨めしげに表情を歪めている。醜くはないが、美しいからこそ凄惨にも見える。華やかだった菊花の着物は色あせ、咲き乱れていた花々はしおれて枯れてしまっていた。ほどけかけた帯の端は足下に落ち、そこに咲いていた花は髑髏に姿を変えている。

「これ、幽霊画、ですよ?」

 香澄が持ち込んだ画と同じものでないことは一目でわかる。わかるはずなのに、お内儀はうっとりとした眼差しで掛け軸を見つめている。

 画よりも、そんな表情を浮かべる多恵が怖い。彼女の気持ちが理解できない。

「毎日毎日、少しずつ画が変わっていったの。こんな掛け軸は初めてよ」

「そ、んな……」

 掛け軸に描かれた画が勝手に変わったなど、彼女は本当に信じているのだろうか。

 しかし、持ち込んだ香澄にも毎日変化していった原因を説明することができない。もしかしたらこの掛け軸は、元々いわくのある幽霊画で、飾っておくとこうして姿を変えていくものだったのかもしれないけれど。

 いや、そんな、まさか。

 でも本当にそうだったとしたら……。

 考えてみた香澄は背筋をふるわせる。

 気味が悪い。

 それなのに多恵は、欠片も怯えた顔を見せない。それどころか、 

「こんなめずらしい画、高く売れるのじゃないかしら」

 などと、的外れなことをつぶやいている。

「怖くないんですか?」

 掛け軸の画が勝手に幽霊画に変化したのだ。香澄は不思議だと思う以前に恐ろしく感じる。けれど彼女の表情に怯えはない。

「別に悪い感じはしませんもの」

 そういう問題ではないような気がするのだが。なかなか剛胆な女性だ。

 感心すればいいのかあきれればいいのかわからない。

 どんなに気味の悪い掛け軸だろうと、持ち主が気に入っているのならば自分には関係のないことだ。

 そう思っていたのだが、近づいてきた荒々しい足音にふり返った香澄は、青ざめた顔をした主人の尋常でない眼差しに射貫かれて、関係なくなどないことに気づいた。この絵を持ち込んだのは自分なのだから。

 彼は部屋に入ってくると、鬼気迫る表情で香澄の両肩をつかんだ。

「おまえ! その掛け軸は、なんなんだ? 何か、いわくのあるものなのか?」

 血の気が引いた顔には明らかな恐れが浮かんでいる。源助はこの掛け軸の絵が変わったことを異常な出来事としてうけとめているのだ。そういえば吉蔵が、彼は迷信深い性格だと言っていたか。

 香澄たちが画をながめているのを見かけ、いても立ってもいられなくなり、とうとうこの掛け軸のいわくを訊ねる気になったのかもしれない。

 源助が声をふるわせる。

「初めは気のせいかと思った。だが、日に日に画が変わっていくんだ。昨夜まではまだ生きている姿だったが……、今朝起きたらこんな画になっていた……!」

 むしろ今までよく我慢していたものだ。香澄はそう思うのだが、やはり多恵は考えが違うようだった。

「まぁ、あなた。そんなに怖がることはありませんわ。ただの画ではないですか」

「ただの画がこんなふうに変わるものか!!」

 浅田屋の声は悲鳴のようにさえ聞こえた。

「毎日、毎日変わっていく画を見て、どうしておまえは何も思わないんだ!」

 恨めしげな目をした女が、画の中から見つめてくる。どこから見ても目が合う、不思議な画だった。

 彼の話が本当で、日に日に少しずつ画が変わっていき、とうとう幽霊画になってしまったのだとすれば、彼の反応も不思議ではない。毎日掛け軸の変化を目にしていれば、なおのこと。

 源助は香澄の肩が痛むほど、つかむ手に力を込めた。

「何か知っているか? 祟るような画じゃないだろうな?」

「わ、私が知っているのは、御一新後に父がお金のために何度か手放そうとしていたことくらいしか。だからお金になるものだろうと思って……」

 香澄は画のいわくを訊ねられたときにはそう答えるよう言われていたとおりに伝えた。もし本当にいわくのあるものだったとしても答えようがない。ただ無知な娘を装うことしかできないのだ。だが冷静に考えてみれば、あの久馬と艶煙の用意した画だ。いわくよりも細工がある可能性が高い。

 我慢しきれなくなったように取り乱す源助とは対照的に、多恵は冷静だった。薄く笑みを浮かべて夫へ声をかける。

「まぁ、旦那様。毎日ながめてらっしゃったから、私、てっきり気に入っておられるのだと思っておりましたわ。こんなに美しい女性の画ですもの」

「何が言いたい」

 妻の含みのある言葉に、源助の表情に険がくわわった。気にしていないように見せかけて、多恵は夫の女好きを嫌悪しているのかもしれない。

 夫婦の関係というのは未婚の香澄にはよくわからなかった。母を幼いころになくしているため、両親を参考にすることもできない。

「ふふ。旦那様はそういうものを気になさる方ですものね」

 多恵は口元に手を当てて笑みを隠すと、彼の迷信深さを揶揄する。香澄は今にも夫婦げんかが始まるのではないかと、ハラハラして二人を見守った。

「桜野さんだって、別に辞めさせることなんてなかったわ。よく働く娘さんだったのにあんな新聞記事を真に受けて」

「身代をつぶしてからでは遅いんだ」

「はいはい」

 あきれたように溜息をついた彼女は、ちらりと掛け軸に目を向けると、

「では、この掛け軸については、いわくのわかる方を探しましょう」

 と、そう提案した。