明治あやかし新聞 怠惰な記者の裏稼業


 招魂社からの帰りは、人力車を使わずに歩くことにした。日傘をさして歩けば日差しの強い昼時のこの時間でも、陽気は悪くない。

「役者崩れだって言ってたのに。あんなに人気だなんて……」

 香澄はぶつぶつと文句を言いつつ久馬と歩きながら、先ほど見た艶煙の意外な姿をふり返った。

 開いているのかどうなのか悩んでしまうくらいの細い目で、お金もないのにいつもふらふら、軽薄なことを言って歩いているだけだと思っていたのに、まさかの人気役者だったとは。驚きを通り越して、なんだか現実味がない。

「人気役者といっても、贔屓は庶民の娘さんで、大店の奥方のような景気のいい客はそうはいないけれどな」

「おひねりの金額は少なくても、たくさんの女の子にちやほやしてもらってるんでしょ?」

「どうした。おまえもちやほやしたくなったのか?」

「まさか! 私の中では『艶様』じゃなくてあくまでも目が細くって狐顔でいつもへらへらしてて軽いことばっかり言ってる『艶煙さん』ですよ」

 いまさら艶煙に対して黄色い声で悲鳴をあげようとは思わない。だいたい役者と言えば、いまはやはり九代目市川團十郎である。

 そんなことを話しながら、かつての江戸城の外堀に沿って歩いていると、ふいに久馬の足が止まった。彼のまなざしは行く手に向けられている。

 五人ばかりの洋装の若者が、絣の着物を着た少女を囲んでいた。胸に荷物を抱えた少女は怯えた様子だが、それでも懸命に若者たちへ何かを訴えているようだ。

「やだ、何してるのよ」

 香澄は思わずつぶやいた。

 道を行く人々は顔をしかめながらも足を止めることなく、見て見ぬふりで通りすぎる。さもいつものことであるかのようだ。

「どこの馬鹿どもだ」

 舌打ちをした久馬が「ここで待ってろ」と言い置いて駆けていく。

「久馬さん!?」

 追っていっては役に立つどころか邪魔をしかねない。けれど相手は五人だ。さすがに大丈夫だろうかと心配になる。

 香澄は彼の後を追い、少しだけ距離を置いて見守ることにした。

 囲まれた少女は何かを取り戻そうとしているのか、向かい合った若者が高くあげた手へ懸命に腕を伸ばしている。その細い手首を十代後半と思われる別の若者が背後からつかんだ。

「放してください! 返して!」

「おまえのような平民には華美にすぎるだろう」

「代わりに金をくれてやると言っているだろうが」

「お金なんていりません! 返してくださいっ!」

 どうやら若者が手にしているのは少女のかんざしのようだ。結いあげた髪が乱れるのにもかまわず、彼女は暴れてそれを取り返そうとしている。

 駆け寄っていった久馬が、嫌がる少女を囃したてている若者たちの一人の襟首をつかみ、そのまま地面に放り投げた。

「うわぁっ!」

 間抜けな声をあげて背中から転がった若者には一瞥もくれず、久馬は輪の中に踏み込んで、少女の手首をつかんでいる若者の腕をつかんだ。驚いたように少女を放したその腕をねじりあげる。

「ぎゃぁっ!」

「おい、糞餓鬼ども」

 ぎりぎりと背中に腕を押しつけられた若者は、一声あげたきりうめくこともできないでいる。みるみる脂汗がにじんでくるのを見れば、そうとうな痛みに耐えているようだ。

「な、なんだ、貴様は!」

 突然現れた男に、残りの三人がうろたえたように後じさる。その真ん中で、かんざしを手にしている一人は、やたら身なりがよい。

 思ったよりも喧嘩の強い久馬に、香澄は思わず見惚れた。普段ふらふらしている彼から想像できなかったが、そういえば久馬は剣術の免許皆伝だと弥太郎が言っていた。刀を持たなくとも、ちんぴら程度、軽くあしらえるのだろう。

「か弱い娘さん相手に五人がかりとは、お里が知れるな」

「なんだと、貴様っ!」

「おっと」

 殴りかかってきた若者の拳を軽々とよけ、よろめいたその背中へ、久馬は腕をねじりあげていた若者を突き飛ばす。二人そろって地面に転がった彼らは、悪態をつきながら立ちあがろうと顔をあげたが、久馬を見あげて青ざめた。

「……っ!」 

「痛い目を見たくなければ、とっとと失せろ」

 久馬がどんな表情をしていたのか香澄からは見えなかったが、きっと恐ろしい顔をしていたに違いない。

 地面に尻をついたままの若者たちが、かんざしを手にした若者に判断を仰ぐように目を向けた。周囲には野次馬も集まり始めている。

「行くぞ」

 短く命じられた彼らは、先に背を向けた若者の後を追って、逃げるように早足で去っていった。香澄は急いで久馬に駆け寄る。

「久馬さん、お強いんですね。ちょっと見直しちゃいましたよ」

「おまえな。もっと言うことがあるだろうが」

「大丈夫でしたか?」

「ああ、俺は……」

 傍に立っていた少女が突然よろめき、久馬が慌てて彼女の身体を支えた。よほど恐ろしかったのか、彼女は久馬のベストにすがりつくようにして、がたがたとふるえている。

「大丈夫? 怖かったわよね。でももう平気よ。あの糞餓鬼どもなら行っちゃったから」

「おい。若い娘が糞とか言うな」

 口うるさいばあやのような彼の小言を香澄は聞き流した。今は彼に文句を言うよりも、ふるえる少女を慰めるほうが大事だ。

「もう大丈夫よ」

「は、はい……」

 顔をあげた少女の涙をためた瞳が、声をかけた香澄ではなく久馬に釘付けになった。

「怪我はないか?」

「あ、ご、ごめんなさい」

 久馬に問いかけられた彼女は、見る間に頬を赤らめるとぱっと彼から離れた。その拍子にふらついた彼女を今度は香澄が支える。

「どこか痛い?」

大きな目が可愛らしい少女だ。年のころは香澄と同じか、それよりも幼いくらいに見える。つかまれていた彼女の手首には赤い痕が残っていた。早く冷やさなくてはならない。

 手巾をだしていると、香澄の腕につかまっていた少女が小さくつぶやいた。

「か、かんざし……」

「かんざし?」

 言葉を繰り返すと、少女は浅くうなずいた。

「お母様のかんざし、形見のかんざしを……とられたんです」

 必死な眼差しで香澄を見あげる彼女の頬を涙がこぼれ落ちる。先ほど妙に身なりのよい若者が取りあげていたあのかんざしのことだ。

 彼女が訴えることを理解した香澄は思わず叫んだ。

「形見なの!?」

 母親の形見を盗られたなどと、香澄に許せることではなかった。香澄は幼いころに母を亡くしている。もはや記憶はおぼろげだけれど、優しい思い出のよすがとして、母の形見は何よりも大切なものだった。

 少女が盗られたのは、そんな大切なものだったのだと言う。

 ほろほろと涙をこぼしながら、何度も何度もうなずく少女の肩を抱いて、香澄は久馬を見あげた。彼ならばなんとかしてくれるだろうと勝手に期待する。かんざしを取り返さずに彼らを追い払った久馬も悪いのだし。

 久馬は帽子を被り直しながら溜息をついた。

「とりあえず行くぞ」

 彼は短く言って、香澄と少女についてくるように手をふった。