賭博師は祈らない


 次に起きた時、ラザルスは一瞬奴隷の少女が自分を殺そうとしているのかと思った。

 起き抜けの耳に酷く暴力的な音が叩き付けられたからだ。突き刺さるようなその音がラザルスに、人間が人間を殴っている情景を想像させ、そしてそれは彼の頭の中で奴隷の少女が自分を殴っている姿に変化した。

 だが実際には音はただ玄関先から届いてくるだけで、彼の身体には誰も触れてはいなかった。夢と混じり合った幻想を彼は首を揺らして振り払い、のっそりとソファで身を起こす。

「…………」

 少女は変わらずに、ラザルスが寝た時と同じ位置に立っていた。『変わらずに』というのは立ち位置が変わっていないのみではなく、姿勢が何一つとして変化していないということだ。

 まさか指一本動かさないまま待機していたのだろうか、とラザルスが訝しむ。瞳の中で微かに感情が揺れているのでノックの音には気付いているのだろうが、顔をそちらに向けることすらもしない少女は精巧な蝋人形のようだった。

「あぁ、いや、ノックの音か」

 自分を起こした音がノックであると、ラザルスは思考に遅れて気付く。まるで玄関の扉をそのまま吹き飛ばそうとするような叩き方は、朝のものとは違い、聞き慣れた叩き方だ。

 時間を知ろうとラザルスは少女が受け取ったまま動かずに持っている懐中時計へと手を伸ばした。その手に少女がびくりと反応する。

「…………っ」

 少女の喉から嗄れた息が漏れて、肩が跳ねる。死んだように眠っていたラザルスが突然に動いたのだから、意表を衝かれたのかも知れない。

 溜め息を堪えて、懐中時計をなるべくそっと持つ。午前十時二十三分。起こしてくれといった時間よりは前だ。

 放っておくと扉を破壊するまで叩き続けそうな調子のノックに応じようと立ち上がってから、ラザルスは口の端を意地悪く曲げた。

「なぁ、おい」

 少女が怯えながら、こくりと頷く。

「ちょっと玄関開けてきてくれ。どうせ、こんな熊みたいな男が一人いるはずだから」

 こんな、といってラザルスがおどけたように自分よりも倍ほども大きい人間をジェスチャーで示す。それが伝わったかどうかは分からないが、少女は頷いてから踵を返した。

 ラザルスはソファに深く座り直して、近くにあった金属容器を拾い上げた。鶴頸の瓶の中身は幾らか残っていて、甘く酸っぱいリキュールを軽く呷る。

 数秒後、扉が開く音が聞こえた。

「よお! “ペニー”カインド! ブルースの賭場でしくじったって聞いた――――」

 直後に沈黙。訪ねてきた知り合いと少女が見つめ合う時間をラザルスは想像して、

「ラザルスぅうううううううう! お前! 一体どうしたその姿は! なんだ、罰として変な薬でも飲まされたか! うわあ! ちっこくなりやがって! 人種まで変わってやがる! 性別も! 年齢すら! なんてことだ! ラザルス! ラぁぁザルぅううううス!」

 家中に響いた大声に腹を抱えて笑った。

 訪問者はよほど驚いたのかどたんばたんと足音が居間にまで届く。この家に住んでいるのはラザルスだけであるし、メイドも雇わないラザルスの偏屈さは皆が知るところなので、出てくるのがラザルスだと想像したところに小さな少女が出てきたから驚かされたのだろう。

 少女が戻ってくるまで頻りに驚いている声がずっと聞こえていた。居間の扉が開いて、少女とその後ろに続く大男が姿を現す。

「よう、ジョン」

「ああ、良かった! お前がラザルスだよな! お前がこんな可愛らしい姿になっちまったら、もうどうしようかと!」

 入ってきたその男の名を、ジョン・ブロートンという。ラザルスの少ない友人のうちの一人だ。

 ラザルスが座っていることとは関係なく、見上げなければいけないほどの身長をした男である。隣の少女の倍近く身長があり、鍛え上げた筋肉によって肥大したジョンの上腕二頭筋は少女の腰よりも太い。

 昔は船乗りであった彼の肌は、一年中どんよりとした雲が溜まり続けるようなこの帝都だというのに、触れれば熱そうなほどの赤褐色をしている。潮風で傷んだ髪の毛は薄い金色で、度重なる怪我によって歪んだ顔は厳めしいが瞳は存外子供のように純粋だ。

 尤も、今はその瞳の片方は膨れ上がった青痣によって押し隠されてしまっていたが。昨日の仕事で強かに打撃を受けたのだろう。

 彼は、拳闘士(ボクサー)である。

 この時代の拳闘とは即ち、スポーツに発展する以前のルール無用の路上試合だ。そしてこの時代の全てのものがそうであるように賭けの対象であり、それが縁でラザルスと知り合った。

 数日前にも会ったばかりだというのに、ジョンは数年ぶりの再会だといわんばかりに両腕を広げて笑みを浮かべる。

「しかし、心配したぞ! “ペニー”カインドが珍しく大勝ちしてトラブル起こしたって! つーか、あの可愛らしい子はどうした、一体誰だ! そうかフランセスと別れたと思ったらお前はそっちの方が趣味だったのか! 朝飯持ってきたから食っていって良いか! 昨日の試合に勝ってな!」

「せめて話は絞ってくれよ。後、フランセスには振られたんだよ」

「そうだったか? あっはっは! それはすまんかったな! だがフランセスはお前に振られたといっていたぞ!」

「お前のそのデリカシーのDもないところ、一周回って凄いと思うわ」

 肺の底から溜め息を零してから、一片の反応も見せないまま立ち尽くしている少女へと視線をやる。興味もなさそうだが、一応紹介をしておく程度の気遣いはラザルスにもあった。

「この無駄に部屋の空間を圧迫する奴が、ジョン・ブロートン。それなりに売れてる拳闘士で、自宅を道場に改築したら住むところがなくなったとかいう底抜けの馬鹿だ」

 路上試合で名を挙げたジョンはこのままでは拳闘の文化が衰退してしまうと一念発起して、史上初めてとなる拳闘の道場を立ち上げた。

 それはいいのだが、自宅をそのまま道場に改築した上に居住空間を考えていなかったなどというボケをやらかし、現在は住む場所にも苦労している有様である。

 普段は道場で起居しているのだが家具もないため、食事は基本的に外で食べ、たまにこうしてラザルスの家で食べることもある。拳闘の興行であちこちを巡っているためにラザルスが直接目にする機会は少ないが、試合も道場も好調ではあるようだ。

「脳味噌まで筋肉に回したお陰でそこそこ強いから、拳闘の試合に賭ける時にこいつがいたらおすすめだぞ」

「はっはっは! プロの賭博師にそういって貰えるとはありがたいな!」

 ラザルスの皮肉交じりの言葉に気付いていないのか、気付いていて無視しているのか。どちらにしろそれをさらりと受け流せるからこそ、ラザルスと友人関係が続いているのは間違いなかった。

 話しかけられたからとりあえず首を動かしたというような相槌を打った少女をジョンは見やって、

「それでこのお嬢さんはどちら様だ? そうか、お前の遠い親戚だな!」

「なんでそう思ったんだよ。…………昨日俺がドジ踏んで大儲けしちまったことは聞いてるんだよな?」

「うむ! らしいな!」

「相変わらず帝都は噂の巡りが早いな。まぁ、そんでブルースのデブに利益を返還する必要があった。そのまま返すんじゃ面子が立たねぇから何か買おうと思って、買ったのがそれだ」

「…………」

 少女が無言で一礼をした。

「ほう! なるほど! お前の臆病も筋金入りだな!」

 というのがジョンの真っ先に出た感想だった。賭博師の三つの決まり、という形ではないが何度か一緒に賭場に行ったことのあるジョンは、ラザルスの『勝ちすぎない』という生き方を知っている。

「そんなに萎縮せずとも勝って良いだろうに! むしろ本気を出して勝つことこそが礼儀だ!」

「お前ら殴り合いの世界と一緒にすんなよ」

「そしてこちらのお嬢さんは奴隷であったか! 辛い生い立ちであるな!」

 ジョンは鍋掴みのように分厚い掌で、無造作に少女の頭を撫でる。抵抗するための力すら入れていないのか、少女の細い首が取れそうにぐらぐらと揺れた。

「それで、この子はなんという名前なのだ?」

「…………名前?」

「そうとも! 奴隷といえど名前はあるだろう! 挨拶をしたいのだが名前が分からぬのでは些か失礼だ!」

 ラザルスは視線を随分と下げて、フードに隠された少女の旋毛の辺りを見た。視線は感じているだろうに、相変わらず少女はぴくりとも反応を見せない。

「そういえば、名前は何だったか。あの変な黒い奴も教えてくれなかったな」

 教える間もなく面倒くさがって扉を閉めたという事実を棚に上げながら、ラザルスは嘯く。

「おい、お前、名前は……って喋れないんだったな」

 ラザルスの言葉に少女は最低限、目が合うくらいだけ顎を持ち上げると、次に自分の服の襟の辺りを引っ張った。

 少女が着ている服といえば飾り気のないワンピースとその上から被っているフードばかりだったが、その襟には小さな文字が縫い付けられていた。

 恐らくは言語の違う文字を、音だけで英語に置き換えたものなのだろう。字面には違和感があるが、しかし音を拾い上げることは出来た。

「リーラ?」

 名前を呼ばれた少女――リーラは一瞬だけ痛みを覚えたように眉を歪めてから、頷く。

「リーラね。リーラっていうんだとさ」

「なんと! この子は喋れないのか!」

「よく分からん。それなりの金を払って買ったはずなんだが、来たのはこれだった。見た目で値段が吊り上がるのは分かるが、喋れないってのに高いのかね。しかも、妙に怯えられてる」

 今こうしている間も、少女の瞳の中のどろどろとした怯えは拭われていない。

 奴隷として売られて来たのだから当然とも思えるが、それにしても相当根深い怯え方のようにラザルスには思えた。

「そうか? 表情がないから分からんぞ!」

「お前はもう少し人の顔色を見た方がいい」

 ラザルスは肩を竦める。殴り合いが仕事の拳闘士に、その技術が役に立つかは別として。

 単なる愚痴と自分への説明を併せたような言葉だったが、しかしジョンは一つ唸ると身を屈めた。痣によって潰れている目を無理矢理開くようにしてリーラを覗き込み、次に無造作に指で口を開けさせた。

 喉の奥まで眺めてから、

「ふむ!」

「そうしてると、悪霊(ボダッハ)が子供を攫いに来たようだな。警察に捕まっても知らんぞ」

「あれだな! むしろ喋れないから高い類の奴隷だな、この子は! どうやら喉は後から焼かれたらしい!」

 結論づけるようなジョンの言い方にラザルスは眉を顰めた。

「どういうことだ?」

「可愛らしい子供を、反抗しようという気持ちが湧かないほどに痛めつけて躾ける! ついでに喉を薬で焼くし、文字は教えない! そうすれば何をしようがどんな扱いをしようが、決して逆らわないし、万一逃げても何の問題にもならない奴隷が出来るという訳だ!」

「…………随分詳しいな」

「結局のところ俺の売り物は暴力だからな! 幾らかの繋がりが出来てしまうのは仕方がないのだ!」

 そういえば、とラザルスは思い出す。

 リーラを連れてきた時、あの黒い格好をした男は部下も連れずに一人だった。売り物の奴隷に逃げられかねず不用心なことだとは思ったが、そもそもとして『逃げない』ようにリーラが躾けられているという自信があったからのことだったのだろう。

 それにラザルスが寝ている間にも彼女には逃げるチャンスがあったというのに、彼女は一歩も動かないままでそこにいた。

「そういう風に、躾けられている、ね」

「怖がられて当然だろう、ラザルス! そんな子供を買うなど、どんな変態性癖の持ち主だったのだ!」

「別に欲しくて買ったんじゃねぇよ」

 妙に動きに乏しいのも、自発的について来なかったりするのも、『そう命じられていないから』というだけのようだ。だけ、と語って良いことではないが。

 彼女の瞳の中にある怯えの理由もよく分かった。

(単に普通の性欲満たすだけなら、そこらに幾らでもいる娼婦で事足りる話だからなぁ。ここまで徹底的に他人と対話が出来ないようにしているんだから、いわれたら不味いようなことをするための奴隷ってことだ)

 お伽噺なら青髯で、最近ならばマルキ・ド・サド。リーラから見たラザルスはそういった、暴力と性愛を混同した変態に見えているのだろう。

 彼女は躾けられる過程で、自分が売られた先でどういう目に遭うのかをたっぷりと説明されてきたし、ずっと想像してきたはずだ。その上で反抗も逃亡も出来ないよう、徹底的に心を折られてきた。

 彼女の奴隷としての過去と、彼女が想像している未来が、自分自身を苛んでいるのが見えるようだった。

(そりゃ、こんな顔つきにもなるか)

 虚(うろ)のように空っぽなリーラの表情は、明日の朝を迎えることすらないかも知れないという境遇に対する、彼女の適応であり覚悟だ。

 ではラザルスが今何をいえば良いかと考え、

「…………どうでもいい」

 埃の臭いの移ったリキュールの余りを一息に胃の底まで流し込んだ。ともかくこうして奴隷の少女と見つめ合っていても何にもならないことだけは確かだった。

「つーか、そういえば俺の自己紹介もしてないな。ラザルス・カインドだ。賭博師をやってる」

「“ペニー”カインド、もう少し人付き合いが上手くなっても良いんだぞ!」

「うるせぇなぁ。――――あぁ、“ペニー”カインドは単なるあだ名だ」

 分かり辛いながらも疑問が浮かんだリーラの視線にラザルスは答える。

「いっつも小銭(ペニー)だけ稼いで帰るからな。それがそのままあだ名になった。まぁ、馬鹿にされてんだな、臆病者だっつって」

「何故だ! 良いあだ名ではないか、“ペニー”カインドとは!」

「お前は話ややこしくなるから黙ってろ」

 無論、1ペニーだけ稼いだところで生活は出来ないのでもう少し稼いではいるが、常に少額の安定した勝ちを狙い、大勝ちとリスクを避け続けるラザルスの態度は余り賭博師らしいものではない。

「そんで昨日はうっかり勝っちまってだな…………」

 淡々とした口調でラザルスは昨晩に自分が陥った状況について、そしてそれの解決方法について語った。

「要するに、別に俺は奴隷が欲しくて買った訳でもないし、別に性欲を持て余してもいない。極端な話、お前なんてどうでもいい。そこまでは分かるな?」

 理解したかどうかは怪しいものだが、少女は首を縦に動かす。歳若く帝都育ちでもない少女にどこまで事情が伝わったかは分からないけれど、丁寧に説明するのは億劫だった。

「安心して良いぞ! こいつは基本的に引き籠もりで性格が悪く無愛想だが、甲斐性のなさで娼婦にすら嫌われるほどの面倒くさがりだ!」

「喧嘩売ってんなら買うぞ、おい」

 今の言葉のどこに安心できる要素があるというのだ。

「まぁそれでも、別にお前みたいなちっこいのにどうこうするほど俺は倒錯しちゃいない。逆にいえばクェーカーの連中みたいに奴隷の権利についてどうこう主張するほど優しくもないが」

 ラザルスは肩を竦める。

 彼の奴隷に対するスタンスは、一般的な帝都の住人と変わらない。つまりそれほど興味がなくて、わざわざそんなことで悩むよりは目先の考え事が優先されるので、考えたこともないという程度だ。

「そこで質問なんだが、お前はこっちの方に親戚はいるか? 血縁じゃなくて、頼る当てでもいいが。それか何か職を得る伝手でも良い」

 その三つの質問に等しくリーラは首を横に振った。

 予想していた事態ではあるが、残念ながらラザルスが街に彼女を放り出した場合、彼女は飢え死にするかもっと悪い状況になるかのどちらかしかないらしい。

 ラザルスは腕組みをしてソファの背に寄りかかり、天井を見上げてしばし悩んだ後で、顔に降って来た埃のせいでくしゃみをした。

「…………そうだな。一応選択肢を用意してやろう」

「…………?」

「一つはこのまま俺の家で過ごす道。丁度、家事が溜まって誰か雇おうかと考えていた頃合いだ。メイド扱いで、給料も出そう。ただ俺は所詮は碌でなしだから、あんまり色んな保証がない。もう一つは俺の伝手でどっか適当な場所に雇ってもらえるように頼む道だ。一応まともな場所は選ぶようにするが、その後に関しては知らん。つーか頼れる伝手にまともなもんはねぇな。三つ目にこの両方を無視してこの家から出て行くというのもありだし、俺は止めないが、自殺と同じ意味だから止めた方がいいぞ」

 三本立ててから一本を折り、残ったラザルスの二本の指を、リーラは昆虫のように無感動な視線で追った。

「意外だな! 『どうでもいい』といってばかりのお前だから、『どうでもいい』と外に投げ捨てて終わりだと思ったが!」

「ジョン。お前は、俺を血も涙もない賭け事の権化だと思ってないか?」

 ジョンは賢明にも返事をしなかったが、しかし彼の表情はラザルスの言葉が間違いではないとはっきり語っていた。

 ラザルスは舌打ちして、

「別に、どうでもいい。これが生きようが死のうが、俺には関係のない話だ。が、『どうでもいい』ってのは『死ね』って意味じゃない。幸福だろうが不幸だろうが俺にはなんら関わりがないが、俺にだって泣いている子供を見りゃ痛める良心くらいはある」

 賭けに負けた賭博師の末路は悲惨なものと決まっているが、今日までラザルスはそれほど負けずにやってこられた。そして勝ち続けている間の利益が大きいからこそ、賭博師を標榜する人間は後を絶たないのである。

「別に幸福だろうが不幸だろうがどうでもいい。どうでもいいから、目について手が余ってりゃ、助けることくらいある。どうでもいいから不幸になってくれなんていう奴は、どうでもいいって思ってない嘘吐きだ」

 少なくとも自分のミスによって奴隷を買うことになったのだから、そのくらいの責任感はあるのだった。

 ジョンは心底意外そうに瞬きをしていたし、リーラは元から喋ることが出来ない。少しの間居間には沈黙だけが残って、ラザルスはもう一度舌打ちをした。

 ポケットから金貨を取り出す。

「決められないなら、こっちで決めちまうぞ。表が出たら俺が雇う。裏だったらどっかに行け」

「…………」

 リーラが頷いたので、ラザルスは指で金貨を弾いた。

 ラザルスはどうでもよく、リーラは無表情で、その金貨の行方を一番はらはらとしながら追ったのは一番この場に関係のないジョンだっただろう。

 はらはらとしている、ということはジョンはこの家でリーラが雇われた方が良いと考えているということだ。そのことが妙におかしくラザルスには感じられる。賭博師というのは青少年の教育に良い職業でもないし、それ以前に明日には一文無しになっていてもおかしくない不安定なものなのだが。

 ともかく、澄んだ音を立てた金貨は落ちてきてラザルスの手の中へとすっぽり収まり、

「表か。良し、雇うとするか。お前の最初の仕事は自分の住むスペースを確保するために掃除だろうがな。あぁ、いやその前に飯を食うとしようか」

「合点! 今日は羊肉のパイを買ってきたぞ! 三人になったら取り分が減るが、何、そこは歓談によって腹を膨らませようではないか!」

「…………」

 リーラは丸い金色の中に収まったエリザベス女王をぼんやりと眺めていた。

 その瞳の中に浮かぶ感情は変化していたが、しかし好意的な感情は相変わらず見えなかった。恐怖を浮かべるだけだった目に、猜疑心と困惑が入り交じって色が濃くなっただけのことだ。

 一般的な奴隷の持ち主の人格をラザルスは知らないが、しかし彼女が想像していたよりはよほどマシな対応をしたという自信がある。

 ただその事実を単純に喜ぶには、彼女は絶望し過ぎたということなのだろう。

 雇われたという結果だけに反応したのか一礼をしたリーラの表情は最後まで欠片も動くことがなく、ラザルスは思ったよりも面倒臭い奴かも知れないと溜め息を零した。