賭博師は祈らない


 賭場に行った翌日は大抵そうするように、その日の日中をラザルスは寝て過ごした。

 目を醒ましたのは太陽が傾いて、帝都を血のように赤く染め上げていた頃合いだ。欠伸をすると寝ている間に渇き切ってしまった喉が、外気に触れてばきりと罅割れるような感覚があった。

 ソファから身体を起こしたラザルスは、自分の近くにのっそりと立っている影に気付いてぎょっとする。

「…………」

「うわ、びっくりした。何だよ、立ってたのかよ」

 ジョンは今日もまた拳闘の試合のためにすぐに帰って行ったので、そこにいるのはリーラである。

 まさか起きるまでずっとそこに立っていたのだろうか、と思ったが『まさか』と思ったことが間違いだろう。立っていたに違いない、というような雰囲気がその立ち姿には漂っていた。

「ワイン……」

 とラザルスが呟いたのは、単に寝起きで口が緩んでいるせいだ。彼は一人暮らしだったのだから、当然自分で取りにいこうとして、しかしその言葉にぱっとリーラが反応する。

 ラザルスが腰を半分ほどソファから持ち上げるよりも早く、彼女はキッチンに行って金属のカップにワインを一杯注いできた。差し出されたそれをラザルスは受け取って、

「ありがとう」

「…………」

 その言葉を、まるで聞き慣れない異国の言葉のようにリーラは首を傾げて聞いていた。

 いや、実際彼女は肌の色からして異国の人間であることは紛れもない事実なのだが、そういう次元ではなく、生まれて初めて感謝された幼子のような言葉の受け取り方だった。

 リーラの表情を見て何となく気まずくなったラザルスは、視線を逸らしてどっかりとソファに座る。

「立ってんのが面倒だったら、座って良いんだぞ」

「…………」

「なるほど、座れ」

「…………」

 ラザルスが一つの椅子を指差すと、リーラは椅子に座った。座面が今にも尻に噛み付いてくるというような、とても楽そうではない浅い座り方だったが。

 一杯のワインを飲み干して、その酸味の強い後味が舌の上から消えるまでゆっくりと天井を見上げてから、ラザルスは溜め息を零した。

「飯食いに行こうと思ったが、手持ちが覚束ないな……」

 昨日の賭場での儲けは、今は少女の姿をしてラザルスの前に座っている。仕事が上手くいかなかったのだから財布が薄くなるのは世の摂理だ。

(棚とか家中漁れば当分食っていけるくらいの金は手に入るだろうが……)

 ラザルスが実際にそれをすることはないだろう。

 これまでも捨て置いてきた金品を、ただ生きていくためだけに拾い集めるような行為は、賭博師として酷く矜持が足りない。一度そうして楽をすることを覚えたら、賭博の腕が錆び付いてしまうような気がした。

 それに拾い集めることにかかる手間と精神的な苦痛を思えば、賭場に行く方がラザルスにとってはよほど前向きで健全である。

「仕方ない、好きじゃないが、儲けながら飯を食うとしようか」

 ラザルスはソファから立ち上がり、上着を羽織った。眠る前に読んでいた本をそのポケットへと無造作に押し込む。

「ついてこい」

「…………?」

 リーラの表情は欠片も動いていなかったが、一緒について行くという発想が彼女の中になかったことは、その瞳の感情からよく分かった。

「そんな不思議そうな顔をするなよ。この家にまともな飯なんてねぇぞ」

 ラザルスは全く料理が出来ないし、この家ではメイドなんて雇っていなかった。即ちこの家のキッチンとは物置の別名でしかない。

「あぁ、そうだ」

 と玄関まで行ったところで、思い出してラザルスは呟く。

 彼がポケットから取り出したのは寝る前に持たせていた懐中時計だ。それをリーラへと押し付け、持たせる。

「お前を雇うとはいったが、別にお前が出て行きたいなら止めはしない。外に出て逃げたくなったら逃げていいし、その時に金が心許なければそれでも売れば足しにはなるぞ」

 リーラの瞳の中で多くの感情がぐるぐると渦を巻いていくのが見える。何気なく時計を受け取った彼女は、続いたラザルスの言葉を聞いて、その時計がまるで同量の金塊よりも重いというような持ち方をした。

 逃げ出すという希望。ラザルスの思惑が分からない猜疑。逃げたところでどうにもならないという諦念。多くのものが混じり合っているが、結局のところ『何故』という疑問を彼女は瞳で提示していた。

「別に。どうでもいいからな、お前のことなんて」

 ラザルスはそうとだけ答えて、玄関の扉を押し開いた。

 次の瞬間に、外の刺激が押し寄せてくる。それは猥雑な喧噪に限らず、五感の全てでここが帝都であることを主張するような、奔流のようなそれだ。

 通りを走り回る椅子駕篭の担い手達の、道を塞ぐ群衆への罵声。歩き売り達の、明らかに嘘と分かる大仰な売り文句。蹄の音とともに流れ込む馬の獣臭。衆目を引こうと着飾った女達は熱帯の植物を思わせる極彩色で、中には男でもそんな派手な色使いをしている奴もいる。

 一説には、帝都に来た田舎者が真っ先に驚くのが住人のせかせかとした足取りであるらしい。

 なるほど、こうしてみればどの人物も狭い帝都を、何をそんなに急いでというほどの足の動かし方で進んで行く。うかうかとしていれば跳ね飛ばされ、道の側溝に埋まってしまうだろう。

「…………!」

 そして異国から来たらしく、これまでまともに外出もしたことがない様子のリーラが外を見て驚くのも当然のことだった。

 彼女は玄関から外を窺って、まず目を見開いた。それから何の祭りの日なのかというように彼女の視線が通りを端から端まで眺め回して、そして特に祭りでもなんでもなく、これが単なる帝都の日常であると理解してかまた瞠目した。

 朝もこちらに来た際に外出はしたはずなのだが、あの時は馬車かなにかを使ったのだろう。

 ラザルスが平然と外に歩み出るものだから彼女もそれを追って階段を下りたが、しかし直後に椅子駕篭に轢かれそうになって跳び上がった。

 慌てて避けただけの仕草なのだが、無表情で鈍い動きばかりの彼女にしては珍しい、子供らしさを感じさせるものだったので、ラザルスはおやと思う。

 そしてラザルスがそう思ったことにリーラの方も気付いたようで、すぐにまた無感動な殻が彼女を覆ってしまった。

 その際に小さくリーラが身を震わせたことにラザルスは目敏く気付く。

「お前、服それしか持ってないのか?」

 リーラの着ている服は麻製で、飾り気も防寒性もあったものではない。商品として奴隷を売ったのだから、奴隷以外の価値のあるものは何一つ付属させないというブルースの商人根性が透けて見える。

 曇りがちで冷え込むことの多い帝都で、その格好は無防備が過ぎる。機械的な仕草でリーラが頷いて、ラザルスは首を振った。

「まぁ、どうでもいいか。ついてこい」

 ラザルスはすぐに歩き出す。その後ろをおっかなびっくりと感じながら、それを押し隠してリーラがついてきた。

 もしリーラが駆け出せば、逃げてしまうのは簡単だっただろう。

 帝都は余りにも人が多く、一度人混みに紛れてしまった誰かを探し出すのは限りなく困難だ。そしてラザルスは彼女に伝えたように、わざわざリーラを追うほど彼女に執着がない。

 だが実際には、リーラは淡々とラザルスの後を追って来た。彼女に施された教育と言う名の痛みが、枷として縛り付けているのが目に見えるようだった。

 ラザルスはそんなリーラを眺めて、鼻を鳴らす。

「どうでもいい」

 帝都の街並はまるでパッチワークのようだ。

 街が造られた頃からずっと建っているのではないかと思わせる古い木造建築から、まだ真新しい煉瓦造りの家まで。通りを歩きながら辺りを見回しただけで両手を使っても数えきれないほどの年代、建築様式の建物が目に入ってくる。

 時折新しい住宅が纏まって建っていることがあるのは、帝都で頻発する火事のせいである。17世紀のロンドン大火を筆頭に、帝都は大小を問わず火事の多い土地柄で、そして新しい家は防火性を高めるために煉瓦造りにすることが法律で定められている。古い街並の一部だけが焼け、そこに新しい建物が嵌め込まれるという繰り返しが帝都の歴史であり、角を一つ曲がっただけで街並ががらりと変わることも珍しくなかった。

(この街でどこでも見られる特徴っていったら、そこに賭博があることくらいだろう)

 賭博師としてそれを専業に生きていく人間は少ないが、しかし帝都において賭博というのは最もありふれた娯楽である。

 歩きながらちらりと見ただけでも、コーヒーハウスのオープンテラスでは男達がサイコロ遊びに興じていて、別なところでは道端の樽をテーブル代わりに今回政府が提案した法案が成立するか否かの賭けが行われている。露天商の並べた本の中には賭博に関するものがちらほらあり、そこにはトランプも売り物として交ざっていた。

 ラザルスが向かっている先もまた、そうした広く膾炙した賭博のうちの一つである。

「あ、ラザルスさん!」

 店が見えた頃に、ラザルスに声がかけられた。

 目的の酒場からひょこりと顔を出してラザルスに向かって手を振ったのは、宗教画の天使がそのまま成長したような一人の青年だった。どうやら知り合いを送り出したところだったらしいその青年は、そのままラザルスに微笑みかけてくる。

「珍しいですね、こっち来たんですか?」

 細い体つきに、柔らかく巻いた茶色の髪の毛。純真そうな瞳がラザルスのことを見て、喜びできらきらとした。

「久しぶりだな、キース。ちょっと飯がてら、ついでに賭けも」

 キースという名のその男も、ラザルスと同じ賭博師の内の一人である。友人というほど親密ではないし、居着いている賭博の種類が違うために余り頻繁に顔をあわせる訳でもないが。

 ただ『友人というほど親密ではない』と考えているのはラザルスの方だけなのか、人懐っこい犬が寄ってくるような仕草でキースは近付いてきた。

「わ、やった! ラザルスさんが一緒にやってくれるなら、僕も勝てそうです! 最近負け続きで!」

「何で一緒に賭ける前提なんだよ」

「いいじゃないですかー。僕、全然賭け事が上手くならなくって…………あれ、その子、ラザルスさんの連れですか?」

 馴れ馴れしいとラザルスが感じる距離感に踏み込んできたキースは、そのラザルスの後ろをついてくる小さな影にも気付いた。

「初めまして。キースです。苗字は割ところころ変わるんで、覚えなくていいですよ。可愛いですね、何歳?」

 キースは服の裾が汚れるのにも拘わらず膝を折って、リーラに視線を合わせた。女なら誰もが一目惚れを感じそうな甘い笑みが彼の顔に浮かぶ。

 だがリーラは女というには若過ぎたらしい。地獄の門もかくやという程度に閉め切られた彼女の感情はキースの笑顔では小揺るぎもせず、そもそも焦点がキースにあっていて彼を認識しているかすら怪しい。

 気を悪くした風でもなくキースは立ち上がって、

「うーん。前の時も思いましたけど、ラザルスさんって、こう癖と気が強いタイプが好みなんですね」

「お前らは何で俺がガキ連れてるだけで恋人だと思うし、必ずフランセスについて触れんだよ」

「そりゃぁ、ラザルスさんが二人連れで歩いていたのも、誰かと恋していたのも、フランセスさんがいた頃だけだからですよ」

「…………糞が」

 そもそも『前の時』でフランセスを思い出した時点で負けたようなものだった。

「お前が賭け事上手くならないのは、色んなものを抱え過ぎだからだよ。色恋で判断を狂わせた賭博師は、すぐに死ぬって決まってんだ」

 賭博に色恋はつきもので、それにまつわる話も幾らでも転がっている。賭博師が恋に落ちた話は、いつだって最後には賭博師の死で終わるのだった。

「えぇー。なら、僕、賭博師じゃなくて良いです」

 あっさりと言葉を翻して口を尖らせるキースを押し退けて、ラザルスはさっさと酒場へと入る。通りもまたうるさいものだが、酒場の中には別種の喧噪と熱気が満ち溢れていた。

「…………?」

 ラザルスに次いで入ってきたリーラが、少しだけ不思議そうに顔を傾けた。確かに、一見してこの店は酒場らしくない席の並び方をしている。

 広い店の中央には円形のぽっかりとした空間があり、そこには腰ほどの高さまでの木製の柵が並べられているのだ。丁度直径五メートルほどのリングを作るような形である。

 店内のテーブルはそこを囲むように並べられているが、殆どの客は席に着くことすらせずに柵の周囲へと集っている。リングの周囲を二重になるほどの人混みが埋め、彼らは興奮した様子で頻りに囁き交わしていた。

 折良く目的の賭け事が始まる直前だったらしい。店内の熱気は今まさに飛び立とうとする気球のようで、逆にいえば座るテーブルには困らなかった。

 上着を脱いでどっかりと座ったラザルスに、キースが目敏く反応する。上着のポケットから、持ってきた本が半分ほど覗いていた。

「ラザルスさんって本とか読む人でしたっけ? あれですよね、その本。ジョンソン先生が出したっていうシェイクスピアの評論」

 サミュエル・ジョンソンという高名な学者を、キースはまるで友人のように呼んだ。

「暇潰し程度だがな」

「ははぁ、ラザルスさんもモテたいんですね?」

「何でそうなる?」

「文学を読んだり書いたりするのなんて、女の子にモテたい以外に理由あるはずないじゃないですか! それっぽいことを諳んじてみせれば、女の子にきゃーきゃー言われるんですよ?」

「世の文学者が聞いたら噴飯ものだな」

「いいなぁ。僕も読みたいんですけど、今手持ちが覚束ないんですよねぇ」

「そうか。ならやるよ」

 ラザルスは無造作に本をキースへと押し付けた。キースが目を見開く。素直な心の動きのはずなのに、彼の動作は一々芝居がかっているように感じられる。

「えぇっ!? 読み終わってたんですか!?」

「終わってもないが、どうでもいい」

 さして興味があって読んでいた本でもなく、ラザルスはさばさばと肩を竦めた。漫然と目を通していただけで、続きに興味は湧いて来なかった。

「貰えるんならありがたく貰いますけど、ラザルスさんってその辺の価値観ちょっとヤバいですよ」

 いそいそと本を受け取りながらキースが、悪意のなさそうな口調で指摘してくる。

「本だって安くないですし、あっさり人にあげちゃ駄目ですって。悪い人にたかられちゃうとかそれ以前に、渡せちゃうっていう価値観が駄目です」

「自覚はあるよ」

 生まれてこのかた、ずっと賭博だけをしてきたのだ。ほんの数分で貴族になれそうなほどの金が生まれ、次の数分でそれを失う。金に限らずあらゆるものが賭博で手に入れられ、そして手放される。そういう生活である。

 賭博師という人種は大抵金銭感覚が麻痺しているし、ものに対する執着心が乏しい。ラザルスは特にそれが顕著である。

 キースがにこりと笑って、

「あるけどどうでもいい、って次に言いますよね」

 ラザルスは鼻を鳴らした。

「どっちに賭けます? 僕もそれに乗ります」

 キースがそう声をかけてきたのは、ラザルスが適当な注文をやってきたウェイトレスに伝えた後だ。

 どっち、という言葉を補足するように、柵の中へと二羽の鶏が運び込まれる。

 ただの家畜ではないことは一目見て分かるだろう。そこら辺の農家で放し飼いにされているものとは違い、羽はピンと伸びて誇らしげで、栄養状態がいいのかつやつやとしている。両足の蹴爪には銀色の金属が取り付けられ、それが灯りを反射してきらきらと輝いていた。

 ラザルスは一瞥だけして、

「赤」

「じゃあ僕もそれで」

「乗っかるのは許してやるから、胴元に賭けてこい」

 懐から取り出した幾らかの金を、キースに渡す。キースは笑顔でそれを承って、一番大きな黒山へと向かって行った。

 やがて食事が運ばれてくる。酒場らしい乱雑さに溢れた、パンとチーズとソーセージの盛り合わせだ。それが、二人分。

 ぐうと鳴った腹を押さえてから、ラザルスは首を捻って後ろを見た。

 そこには当然のような顔をして、リーラが立っている。彼女がラザルスの所有している奴隷であることを考えれば『当然のような』というか『当然』なのかも知れないが、ラザルスは面倒そうに口を開いた。

「お前は、何でそこに立ってるんだよ。立って飯を食う趣味なのか?」

「…………?」

「二人分の飯が、お前には一体何に見えてるんだ?」

 リーラの視線は、今まさに人混みに揉まれてよく分からない方向へと流されているキースを見た。

「あれと飯を一緒に食うとか勘弁しろよ。面倒しか見えねぇ」

 キースは別段悪人ではないし、嫌っている訳でもないが、彼のその性質上、一緒に食事をするには不適切だ。

「あれ見ろ、あれ」

 とラザルスは流されて行ったキースを指差す。

 人混みに押されたキースはうっかり近くにいた女性のスカートの裾を踏んでしまい、その相手に対して柔らかな謝罪をしているところだった。人が多いのをいいことに、彼女に微かに触れ、その距離を詰めている。

 こうして見ていても全くそうは思えなかったが、しかしあのスカートを踏んだのがわざとであることをラザルスは知っている。

「あいつと前に飯食った時は、その場に四人のあいつの『運命の相手』が現れて、経過は省略するが最終的にキースの頬骨に罅が入った」

 顔の輪郭が歪んだキースは『僕って格好良過ぎて相手が引いちゃうことあるんで、こっちの方がいいかもしれませんね』などといっていたのをラザルスは思い出す。

「そういう訳でそこはお前の席だ」

「…………」

 リーラの感情は複雑過ぎて、ラザルスでも読み取るのは無理だった。

『座れ』といえば彼女は座るだろうし、『食え』といえば彼女は何も感じずに淡々と食事をするだろう。

 ただラザルスはそこまで彼女の面倒を見るつもりはないし、かといっていつまでも辛気臭いのもごめんだった。

「食いたきゃ座って食え。帰っても飯はねぇぞ」

 ラザルスがかけた言葉は、そういうものだった。

 それだけいって、ラザルスは自分の食事をさっさと始める。ナイフでぶっつりとソーセージを切って、まともに噛みもせずに飲み込んだ。この店で作っているソーセージなのだろう。酒場らしい濃く大味なソーセージは、見た目以上にずっしりとしている。

「…………」

 リーラはラザルスを見て、テーブルを見て、そしてまたラザルスを見た。

 朝食の席では結局『もう食べてきたから』というような意思表示をして食事に手をつけなかったので、リーラと食事をするのはこれが初めてになる。

 どういった考えが浮かんでは消えたのか分からないが、ラザルスが二本目のソーセージに取りかかる頃に、そろそろとリーラは対面の席へと座った。

「…………っ」

 彼女がその決断にかけた重さは、震えている彼女の喉からよく分かった。

 彼女は絞首台に並んでいる海賊だってもう少し堂々としているだろうというような手つきで、そっとフォークとナイフを摘まみ上げ、かちかちと食器にぶつけながらパンを口に運んだ。

 何もそんなに怯えなくともいいだろうにとラザルスは思うが、そんなにも怯えなければ生きていけない場所で彼女は生きてきたのだろう。

 ふと、昔知り合いだった南海出身の船乗りをラザルスは思い出した。

 よほど暑い地方からやってきたらしい船乗りだったその男と、ラザルスは一つだけ賭けをしたことがある。

 賭けの内容は、『今年雪が降るかどうか』だった。

 帝都は秋から冬にかけて雪が降るし、テムズ川は凍り付いて歩けるようになる。誰だって知っていることだ。ただしその誰だっての範囲に、その南海の船乗りは含まれていなかった。

 南海出身のその男は『雪』というものを見たことがなかった。空から氷が降ってくることだなんていうのは、その男にとってはあり得ないことだったのだ。

 雪を実際に知らない人間は、雪というものを現実に対して当てはめることが出来なかった。

 つまるところ、リーラは南海から帝都に連れて来られたのと同じだ。

 優しさのない環境にいた彼女は、周囲に敵意しか存在していない。無関心によって振るわれているラザルスの乏しい善意ですら、彼女は敵意で解釈することしか出来ない。

『目の前の男はこうして自分を連れ回して、きっとこの後酷い目に遭わせるに違いない』。リーラはそう考えているのだろう。

 リーラの認識する世界に、優しさは存在していない。

(そういえば――――)

 思考が過去に逸れていく。

(親に捨てられて、糞みたいな路地裏で生きていて、俺が最初に善意を教えられたのは一体いつのことだったか――――)

 当たり前のように善意と敵意を識別して考えることが出来る自分を、ふいにラザルスは自覚した。変わらない日々の繰り返しの中で、それは成長したという自分に気付いた瞬間でもある。

 逸れた思考はすぐに現実に立ち戻ることになった。

 一際大きな歓声が群衆から上がったからだ。リーラとラザルスの視線が同時にそちらを向いた。

 帝都で一番行われている賭け事が何であるか、というのを正確に調べるのは不可能だ。

 だがその候補の一つがこれから行われる、闘鶏であることだけは間違いない。

 動物同士を戦わせる、動物苛めと呼ばれる賭博は限りなく古く、そして有名なものだ。かのマクベスの中にすら『俺は杭に繋がれてしまった。もう逃げられない。熊のように、犬共と戦わねばならぬ』と敢然と宣言する幕がある。杭に繋がれた熊と、それに襲いかかる犬とは即ち、熊苛めの賭博のことだ。

 そしてその分派である闘鶏もまた同様である。ヘンリー八世は自ら闘鶏場を一つ作らせ、ジェームズ一世は闘鶏官(コック・マスター)と呼ばれる官位を制定してまでこの賭博に入れ込んだ。

 二羽の鶏を一つのステージで戦わせ優劣を決める競技は見た目に派手で分かり易く、熊や雄牛のように高価ではないので開催が手軽で、ついでに血が見られる。暇を持て余した帝都の住人達が、どこの酒場でもこぞってこれを行うようになったのは当然の成り行きだろう。

「おーおー、頑張るなぁ」

 とラザルスが呟いたのは、白熱する二羽の鶏の争いと、そしてその近くで行われているのが見えるキースのナンパに対してだ。

 キースは賭博師を名乗っているが、その本質は情夫に近く、賭博そのものではなくそこで出会った女性達に食わせてもらうことを本業としている。こうして賭け事によって興奮する群衆の中では貞操も緩むのか、ナンパの成功率が上がるらしい。

 ああだこうだと口八丁で女性を丸め込んでいる手口は、傍から見ていると随分と面白い。

「これで赤の鶏が勝ってくれりゃ随分楽になるんだが――――」

 賭けた分だけのリターンがあれば、少しの間は生きていくことができるだろう。ラザルスはぼやいて、それから視線を前に戻して動転した。

「…………」

 何も喋らないのにはもう慣れたが、そのリーラの頬が一目で分かるほどに青ざめていたからだ。

「どうしたよ。飯が不味かったか?」

 と聞いてみるが、そういう様子ではない。

 リーラの視線は闘鶏の方を向いていて、そこにははっきりと恐怖が浮かんでいる。

「なんだかわからないが、怖いなら見なくていいぞ」

「…………」

 いってはみたが、それではリーラが視線を逸らさないことも理解していた。

 何をそんなに怖がっているのかとラザルスはしばらくの間訝しんで、それから視線の先のものを見直してようやく理解した。

 ラザルスは賭博師であるから――あるいは帝都に住んで長いからすっかり感覚も麻痺していたが、しかし改めて見れば闘鶏というのは非常に野蛮な遊びといえるだろう。

 意図的に試合を早く進め、派手な怪我をさせるために鶏の蹴爪には金属が取り付けられている。興奮した鶏達がお互いにそれを突き刺し合うものだから、見る間に辺りは血塗れになって、千切れた羽毛がばさばさと散っていた。

 動物同士がそうやって殺し合っているということが、単純に怖い。

 たったそれだけの理由だと理解して、ラザルスは溜め息も出なかった。怖ければ目を逸らせばいいのに、それが出来ないせいで話が面倒になっている。

 というかそれ以前に、

(俺は善意と悪意の違いは学んだが、他人に向ける善意は雑なままらしいな)

 とラザルスは自分に向けて呆れていた。闘鶏を怖がる人がいるというのを想定もしていなかった。別に禁止されている訳ではないが、そういえば賭場にくる子供は余りいない。そういった、年頃の乙女らしい純真さをラザルスは上手く想像できなかった。

『目を逸らせ』というのは簡単だったし、そうすればリーラは目を逸らすだろうが、しかしそれでは意味がないように思える。

 ラザルスは少し悩んで、両腕をリーラに向かって伸ばした。

「…………っ」

 伸ばされた手を見て、リーラは自分が殴られるのだと思ったのだろう。彼女の肩がびくりと跳ねて、しかしラザルスの手は彼女の頭の両側に触れただけだった。

「ちょっとじっとしてろ」

 リーラの耳を両側から塞ぐ。真正面から腕が伸ばされているので、これで闘鶏が目に入ることもないだろう。

「どうせすぐに終わるから、そしたら飯食って出るぞ」

 そういってから、自分の手で耳を塞いでいるのだからその言葉が届くことはないと気付いて苦笑した。

「何やってんだかなぁ」

 怪しげな行動をしているせいか、闘鶏の最中だというのにちらちらと視線が集まっているのが分かる。だがこの帝都で怪しい人間というのは珍しくもないので、強いて話しかけてくる奴はいないから良しとした。

 触れられているリーラが石のように固く身を強ばらせているのが分かる。

「…………ほんと、何やってんだかなぁ」

 赤コーナーの鶏が、青コーナーの鶏にとどめを刺していた。