吉原百菓ひとくちの夢 特別版



   吉原(よしわら)三度目(さんどめ)春訪(はるのおとずれ)



 火事と喧嘩は江戸の華、なんて言葉があるが、勘助は火事が大嫌いだ。居場所がなくなるし、人が死ぬ。何もいいことなんてありはしない。

 吉原でも、火事は珍しいことではない。吉原全部が焼け失せるほどの火事が起こったことだって、今までに幾度となくあったと聞いているし、小火(ぼや)ほどの火事なら数え切れぬほどだ。

 勘助が吉原の中見世(遊女屋)・美角屋で料理番として働き始めて、もうまもなく丸二年になる。その間、幸いにも吉原中が全部焼ける、なんてことは起こらなかった。これからもないといいと思う。

 どうしてこんなことを考えているかというと、先日、火事があったのだ。

 吉原の中には町がある。伏見町、江戸町、揚屋町、角町、京町とあるうちの、美角屋があるのは京町一丁目。火事があったのは京町二丁目。吉原の真ん中を貫く「仲ノ町」という大通りを挟んで向こう側のことではあるけれど、関わりのないこと、と思えるほど遠い場所のことではない。

 もう年も明け、暦はとうに春だというのに、まったく暖かくなっていっている気がしない。こんな寒空の下、焼け出されたらと思うとゾッとする。

「火事ねえ。美角屋さんは、ここで料理を作ってるから、火には余計に気を遣うだろうしね」

「そうでなくとも、火鉢や行灯、火の元はいくらでもあるからな。わしらも用心せねばならん」

 そう話す二人組に向かって、勘助は大きく頷いた。

「本当に。火事ってのは嫌なもんです」

 今夜も台所の隅には、料理番でもなければ見世の者でもない人影が二つ並んでいる。新川の酒問屋の若旦那・徳之進と、人気の相撲取り・龍ノ井虎次郎。どちらも美角屋のお職――一番手の花魁――である朝露の馴染みの客だ。

 客の相手をする遊女を「敵娼(あいかた)」と呼ぶ。同じ敵娼をめぐって、客同士が張り合って争うことは、この吉原では珍しくない。

 だがこの徳之進と龍ノ井は、同じ敵娼をめぐって張り合うどころか、顔を合わせたその日から仲良くなって、今ではいっぱしの友人同士である。徳之進の馴れ馴れしい――もとい人懐っこい性格と、龍ノ井の穏やかな気性が、うまく噛み合って喧嘩をしなかったのが幸いした。

 普通の客が、台所の隅にこんな風に陣取ることはない。客は高い揚げ代を払って、遊女を買いに来ているのだ。遊女が客を袖にして、暇を持て余した客が台所を覗くことくらいなら、あってもおかしくないだろう。だがわざわざ会いに来たはずの遊女を袖にして、台所へやってくるのは、酔狂としか言いようがない。

 その酔狂な客の最たるところにいる徳之進は、寒さを紛らわすように酒をあおって、火鉢の上に手をかざした。今日は冷え込みが一段ときつい。先ほど外を見たら、雪が降っていた。

「寒いですねえ。もう春だってのに、雪がこんなに積もるなんて」

 勘助が呟くと、徳之進はひょいと眉を上げた。

「その口ぶりだと、雪は嫌いかい?」

「嫌い……というか何というか、雪は嫌です。寂しくなるから」

 徳之進は大きく頷いた。

「寂しい、か。なるほどね。確かにこう寒いと、どうやったって、暖かいものが恋しくなるってもんだ――しかし、吉原も火事は多いだろうが、焼けたときはどうなるんだい? 他所に見世を移すってのも、なかなか難しいんじゃあないのか」

「全部燃えたら、吉原の外――浅草か本所や深川あたりに、仮宅(かりたく)ってのを出すんですよ」

 徳之進の問いに、太佑が答える。

 太佑は遊女の子だ。吉原で生まれ、育ってきたから、吉原のことは誰よりもよく知っている。勘助と同じく料理番を務めているが、太佑はただの料理番ではない。菓子の料理番なのである。太佑の作る菓子は、めっぽう美味い。

「仮宅だと、揚げ代が少し安くなるから、いつもは金が足りないからと足の遠ざかっているような客も来て、却って繁盛して儲かる見世もあるようですよ。遊女たちも、吉原の外で多少は好きに出歩けるってんで、火事を心待ちにする者(もん)もいるようですがね」

 太佑の言葉に、勘助は思わずムッとなる。

「火事を心待ちにするなんて、迷惑な話じゃないか」

「そりゃそうだ。火事なんざ起こらないに越したことはねえよ」

 太佑がなだめるような声を出す。別に太佑が火事を望んでいると言ったわけではなかったのに、思わずムッとなってしまった自分が恥ずかしい。勘助は口を引き結び、下を向いた。

 普段お喋りな勘助が黙り込んでしまうと、台所は急に静かになった。美角屋の料理番はあと二人いるのだが、料理番をまとめている伊平次は「寒いのは腰に堪える」と言って、明日の仕込みを終えて眠りについてしまったし、もう一人の末吉は、最初に会った時から徳之進をどうも苦手にしていて、顔を合わせたくないからと、さっさと仕事を終えて台所から下がってしまった。

 シン……としてしまった場をとりなすように、徳之進がわざとらしいまでに明るい声を上げた。

「そういえばね、今日の菓子も、とても美味かった!」

 龍ノ井も頷いて、にっこりと笑う。

「太佑の作る菓子はいつも美味い。今日の饅頭、今まで食べたどの饅頭よりも美味かった」

 太佑が嬉しそうに口元を緩ませて、頭を下げる。

「ありがとうございます。そう言っていただけると、俺も作った甲斐があるってもんです」

 人は食べずに生きていけない。人にものを食べさせる料理番とは、人の生を支える仕事だ。そして同じ口に入れるなら、不味いものを食べるより、美味いものを食べて幸せになれる方がいい。

 太佑は菓子の料理番である。人が生きていくのに、菓子はなくてはならないものではない。「生きるための食事ではなく、日々のちょっとした楽しみになれるような菓子を作りたい」という太佑にとって、作った菓子を「美味かった」と言われて幸せそうな顔を向けられるのは、何にも勝る喜びなのだろう。黒目の大きい伏し目がちの瞳が細められ、口の端がきゅっと上がると、まるで褒められた犬のような顔になる。太佑は勘助と同い年の二十六歳。見世の遊女らから「かわいらしい」と言われることすらある勘助にとって、同い年と思えぬほど大人びて見えることの多い太佑だが、こういう笑みを浮かべていると、自分とそう変わらないなと思う。

「饅頭といえば……俺が美角屋(ここ)に初めて来た日も、太佑は饅頭を作っていたっけね。覚えてるかい?」

 勘助が問うと、太佑は少し考えて首を振った。

「いや、全く覚えてないな。いつのことだ、そりゃ」

「二年前の、ちょうどこの時分の――寒い日だったよ。ほら、佐上屋(さがみや)様がいらしたときの饅頭」

「ああ、あの日か」

 すると徳之進と龍ノ井が、顔を見合わせた。

「面白い話かい? 聞かせてくれ。夜は長いんだ」

「わしも今夜は泊まっていくからな。ゆっくり話を聞かせてくれ」

 お喋り好きの本領発揮だとばかりに勘助は頷くと、機嫌を直して語り始めた。

「今言ったように、二年前の話なんですけどね。俺が美角屋に――というより、吉原に初めて来たときの話です」


■   ■   ■


 吉原で働く者は、どこか訳ありの者が多い。普通の市中に生きる居場所が無くなってしまい、ここに流れ着くのだ。

 勘助の場合、元いた場所は、日本橋の旅籠屋(はたごや)だった。旅籠屋、つまりは食事の出てくる旅の宿だ。

 飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれる、幕府に認められていない遊女を置く飯盛旅籠もあるが、勘助がいたのは飯盛女のいない小さな平旅籠(ひらはたご)で、そこで料理番を務めていた。

 同じ旅籠屋にいる料理番の中でも、腕のいい方だったと思う。少しのんびり屋だとは周りの者からよく言われるが、手際は決して悪くない方だし、旅の疲れを癒すような、優しい味の料理を作ろうと、日々心を砕いて働いていた。

 そんな毎日がずっと続いていくのだと、勘助は信じて疑わなかったが、ある日あっけなく終わりが来た。

 旅籠屋が、火事で焼けたのだ。

 火が出たのは、二軒先の旅籠屋からだった。あっという間に燃え広がって、勘助がいた旅籠屋は、炭と灰だけの姿になった。

 客は皆無事だったが、働いていた者数名が逃げ遅れて火に呑まれ、亡くなった――その中には、旅籠屋の主人も含まれていた。

 跡取りのいないまま主人が亡くなってしまった旅籠屋は、なかなか再建のめども立たず、勘助は働く先を失った。

(これから、どうすればいいのかなあ……)

 同じく焼け出された者たちと励まし合いつつ、口を糊するべく、性に合わぬ日雇いの人足仕事などをしながら、新たに働く先を探して口入屋ののれんをくぐってみたが、思うような口はなかなか見つからない。

 どんな仕事でもいいわけじゃない。勘助は、料理番の仕事をしたかった。

 火事に遭ったのが秋の暮れのこと。厳しい冬がいよいよやってきて、寒さの盛り、新年を迎えた頃だった。

「お前さんね、うちの料理番にならないかい」

 ある日勘助の元に、そう言って男が訪ねてきた。

 水野平三郎と名乗るその男、年の頃は四十を越えたほどであろう。鬢の毛には白いものが混じりはじめている。温和そうな顔をしていて、恰幅が良くて、いかにも人が好さそうだった。

 聞けば、平三郎は美味いものが大好きで、よく料理茶屋を訪ね歩いているらしく、その中で勘助のいた旅籠屋の料理の評判を耳にして、食べに来たことがあるのだという。

 ただ料理を楽しみに行くだけではない。気に入った料理は帳面に書き付けて、それを作った料理番を、自分の手元にいつか引き抜けないかと、いつも機をうかがっているという。勘助のいた旅籠屋が火事に遭ったとつい最近知って、旅籠屋が再建されぬことを惜しみつつも、そこで働いていた料理番、とりわけ勘助を探していたらしい。

「寄らせてもらったときに食べた、いとこ煮が大層美味くてね。どの料理番が作ったんだと訊ねて、お前の名前を教えてもらっていたんだ」

 いとこ煮とは、小豆、ごぼう、芋、大根などの野菜を入れた煮物である。勘助はこういう優しい味の煮物を作るのを得意とする。それを褒められ、しかも名前をわざわざ控えてくれていたなんて。

(いい人だ……)

 すぐ人を信じる素直さが勘助の悪いところで、周りからはいつも「もう少し人を疑え」と言われているのだが、このとき、勘助はすっかり浮かれてのぼせ上がって、そんな小言は頭の中から吹き飛んでいた。

「それでね、お前さんをうちに引き抜けないかと、そう思って。どうだい、料理番として来る気はあるかい?」

 平三郎の言葉一つ一つに頷きながら、勘助は目を輝かせた。

「というと、あなたは料理茶屋のご主人か何かですか?」

 そうだ、きっとこの人は、高名な料理茶屋の主に違いない。俺の腕をこんな所で腐らせておくのは惜しいからと、拾い上げに来てくれたに違いない。

 勘助が身を乗り出すと、平三郎は、うーん、と唸って腕組みをした。

「似たようなものといえば似たようなものだが、違うと言えば全く違う」

「……と仰ると?」

 勘助が首を傾げると、平三郎は再び唸った。

「吉原の、美角屋という見世を知っているかい?」

 話がいきなり飛んだ気がした。勘助は首を横に振った。

「いいえ、吉原なんて行ったことどころか、近づいたこともありませんから」

「そうかい。私はその美角屋の楼主でね」

 その言葉に、勘助は思わず「えっ」と声を上げた。

 吉原の見世の楼主というと、もっとぎらぎらしていて意地悪そうな顔をしているものだと思っていた。

 だが目の前の平三郎ときたら、どうだろう。まるでお地蔵さまのように、にこにこした笑みを絶やさないし、喋り方もおっとりしたもので、性悪そうなところがまるでない。

「吉原では『料理の美角屋』と言われている。代々続いてきた中見世だ。台所に人手を増やしたくてね。急に言われても困るだろうから、よくよく考えて返事をくれたら……」

 平三郎の声を聞きながら、勘助の頭の中はいつになく忙しく回っていた。

(吉原って、あの吉原だろう? そこの料理番ってどうなんだ。まともな料理をさせてもらえるのか? いや、でもこの人、「料理の美角屋」とまで言ってたし……)

 吉原という場所を、勘助はよく知らない。自分には縁のない場所だと思っていた。

 他の町とは全く違う。二つ返事で飛び込んでいけるほど気安い場所ではないのだけは確かだ。

 でも。

(この人なら、ついて行ってもいいのかもしれない)

 勘助は平三郎の顔を見た。

 妓楼の楼主だと名乗るくせに、こんなに優しそうな顔をしている。

 騙されているのかもしれない、という思いもないではなかった。優しそうな顔で近づいておいて、いざ働きはじめたら、つらく当たられるかもしれない。

 でも、料理の腕を買って、声を掛けてくれたのが嬉しかった。性に合わぬ人足仕事を続けるのにも、もう飽いていた。

 料理ができるなら、吉原でもどこでも行ってやる。

 話を続ける平三郎を遮って、勘助は深々と頭を下げた。

「明日からでも行きます。雇ってください」

 そうして勘助は、吉原に足を踏み入れることになったのだ。


 勢いで踏み入れる覚悟を決めたものの、やはり吉原は、怖いところだと思っていた。

 幕府が認めた花街(かがい)であり、番所もあって、おかしなことは起こらないよう目が光っているのは知っている。でも違う。勘助の恐れはそういうことではない。

 何せ場所が場所だ。売られてきた女の哀しみとか、女を買いに来る男の欲の心だとか、そういうものが吹き溜まった、暗い所だと思っていた。

 吉原のただ一つの入口である、大門をくぐるときはドキドキした。一度入るともう二度と出られなくなるのではないかと――うっかり気を抜いたらどこか裏路地に引きずり込まれて、取って食われてしまうのではないかと。そんなわけはないのに思ってしまった。

 美角屋のある京町一丁目は、大門から一番遠い町だ。うっかり途中でどこかの見世の呼び込みにでも捉まったら敵わない。きっと自分は逃げきれない。

 普通に歩いて行けば小半時の半分ほどもかかるその道のりを、勘助はびくびくしながら、そのさらに半分で駆け抜けた。

 吉原の名物である、朱の格子――籬(まがき)という――の嵌った張見世にずらりと並んだ遊女たちの、意匠を凝らした縫い取りのある着物の柄の華やかさも、編笠で顔を隠して足早に歩いていく客も。

 周りの景色は、まるで目に入ってこなかった。


 仲ノ町通りを進んでいき、京町一丁目の美角屋までやってくると、平三郎がにこにこと出迎えてくれて、ほっとした。

 しかしそれも束の間、番頭の源右衛門という怖い顔をした男が出てきて、「名は。生国は。前はどこで働いていた?」と怒ったような口調で矢継ぎ早に訊ねてくる。

(やっぱり吉原は怖いところだ……)

 その後、まだ優しそうではあるがどうにもへらへらした調子に見える、仁兵衛という二階廻し――その名の通り見世の二階、つまり遊女たちの座敷の世話をする役目だという――に見世の中をざっと案内してもらい、最後に台所へ連れていかれた。

 勘助がやってきたその日、美角屋の台所は大忙しだった。

 一番手である花魁・朝露を贔屓にしている、大事な馴染み客の一人が、その日登楼するからであった。

 吉原の見世の多くが、料理を台の屋という仕出しに任せて、客に出す料理を作らなくなっていく中で、美角屋は客に出す全てのお膳を見世の料理番が手掛けている珍しい見世だと、平三郎からは聞いていた。その話に嘘はないようで、勘助のいた旅籠屋では作らなかったような、見目の美しい料理が多く並ぶ華やかなお膳が、次々と用意されていく。

「新入りだね、よろしく。俺は伊平次。台所をまとめている。何か分からないことがあれば、こっちの末吉に聞けばいいから」

 伊平次と名乗る男が、忙しそうに手を動かしながら勘助に会釈した。

(あ、いい人そうだ……)

 平三郎と同じ、穏やかそうな人の好さが顔から滲み出ている人だ。

 少しほっとした勘助は、末吉、と呼ばれた男の方に向かって頭を下げた。

「あの、俺……」

「新入りか。名は!?」

 末吉に怒鳴るように訊ねられ、すくみ上って「勘助です」と小さい声で答えたら、「聞こえねぇ!」とさらに怒鳴られた。

 さっそく手伝いに入れと言われ、ようやく料理ができると思ったのも束の間、勝手の分からない台所で、勘助は右往左往するばかり。自分は役に立てると思っていたのに、思っている半分も動けない。

 旅籠屋も、泊まる客の都合にあわせて料理をする忙しさはあったけれど、吉原(ここ)は忙しさの質が違う。熱いものが冷めぬよう、冷たいものが温(ぬる)まぬようにお出しするのは当たり前のこと、とかく客を待たせないよう飽きさせないよう、気を遣うことが求められる――客が料理に不満を持てば、それはすなわち、客をもてなす遊女たちの恥となるからだ。

 手取り足取り教えてくれる人はいないなんて、分かっていたことだけれど。

 こんなにも動けない自分が、嫌になる。

「新入り、ここはもういいから、鍋洗ってこい!」

 末吉が怒鳴りながら、空になった鍋を押し付けてくる。

「あの、どこで洗えば……」

「井戸だよ! おい太佑!」

 末吉がぐるりと振り向き、かまどの前に陣取っている男に向かって呼びかけた。あまりにも静かに佇んでいるのと、あまりにも忙しかったので声が掛けづらく、挨拶ができないままになっていた人だった。

 太佑、と呼ばれた男はゆっくりと顔を上げて、末吉と勘助の顔を見比べた。

「何だい、末吉さん」

 見かけと違わず、低く静かな声で話す人だな、と勘助は思った。勘助も背はそこそこある方だが、その男はさらに大きい。六尺(一八〇センチ)ほどもあるのではないかと思う。真面目そうな顔をした、末吉よりずっと親しみやすそうな男だった。

「太佑、新入りの世話してやってくれ。俺は手が離せねぇ」

 末吉がそう言うと、太佑は頷いた。

「ああ、新入りか。俺は太佑。菓子の料理番だ」

「菓子の料理番……?」

 首をひねる勘助をよそに、太佑と名乗った男はかまどから蒸籠(せいろ)を下ろして、料理台の上に置いた。蓋を開けると、温かな湯気がぶわっと上がって、周りが一瞬白くなる。甘い匂いが迫ってきて、勘助は思わず鼻をひくつかせた。

「そう。菓子の料理番――熱っ!」

 太佑が熱い熱いと唱えながら、湯気を透かして蒸籠の中をうかがっている。

「あの、井戸はどこのを使えば……」

 勘助が訊ねると、太佑は勘助の方も見ず、「そこを出たらすぐあるから分かる」とすげない返事だ。

(あ、この人も親切じゃない……)

 少しは親しみやすそうな人だと思ったのに。誰も勘助のことを喜んで迎え入れてくれはしない。

 別にちやほやされたいとまでは思わないけれど、こんな扱いがあるものか。

 勘助は鍋を胸の前で抱えて、とぼとぼと勝手口から出ていった。


 さほど広くもない中庭だ。井戸がある場所はすぐに分かった。

 もう辺りはすっかり暮れている。眩しいほどの明るさを放つ二階からこぼれてくる灯りを頼りに、井戸端にしゃがみこんで鍋を洗う。水が肌を切り裂くように、冷たく染みた。

(やっぱり、来るんじゃなかったかな)

 吉原なんて、自分が来るところじゃなかったのだ。いかにも似つかわしくない場所だ。明日もこの調子なら、早々に遑(いとま)を願い出ようか。料理ができる場所なら、探せばきっと他に見つかるはずだ。

 すっかり気落ちしてしまった勘助が、洗った鍋を抱えて立ち上がると、勝手口からこちらに歩いてくる人影があった。太佑だ。

「新入り。名前は何と言ったっけ?」

 太佑にそう訊ねられて、「勘助です」と小さな声で答えた。

「勘助か。ほら、これ」

 太佑が大きな手を勘助の目の前に突き出した。

 それは白くふわふわとした皮の饅頭だった。さっき蒸籠でふかしていたのはこれだったのだろう。まだ湯気が立っている。

 太佑が饅頭を二つに割ると、黒い小豆餡がぎっしり詰まっていた。片方が勘助に差し出される。

「食べていいぞ。ふかしたてだ」

「……くれるんですか?」

 受け取っていいものか勘助が躊躇っていると、太佑は頷いた。

「ちょっと餡がはみ出ていたんだ。お客様には出せねぇからな。来たばっかりでよく働いてくれた褒美代わりだ。半分取っとけ。あと俺とは同い年だって聞いてるよ。よろしくな」

 鍋を片手で抱え、空いた片手で饅頭を受け取った。太佑が無造作に口に放り込むのを見て、真似するようにかぶりつく。

「美味しい……」

 まだ温もりを残した饅頭の甘さは、身体の隅々まで染み渡るようだった。今まで食べたどんな菓子より美味かった。こんなに美味いものがあるのだと――こんなに美味いものを作れる者がいるのだと、心を打たれた。

「美味かったかい。そりゃあ良かった」

 太佑は嬉しそうに笑うと、くるりと踵を返した。

 わざわざ饅頭を渡してそれを言うためだけに、手を止めて勘助のところへ来てくれたのか。

(太佑、と言ったっけ。いい人なのかもしれない……)

 台所へ戻っていく太佑の後について、勘助も台所へと戻っていった。


 太佑は台所へ戻ると、蒸籠から出して皿の上に並べた饅頭に、焼いた金串を当てて焦げ目を二本作り、更に赤い染粉を楊枝の先に付けて、ちょんちょんと饅頭に刺して模様を付けていく。

 何をしているのだろう、と勘助が手元を覗くと、太佑はちらっと勘助を見た。

「今日朝露――ああ、うちのお職の花魁な、その朝露の元にいらしてるお客様は、佐上屋様と仰る木綿問屋なんだ。佐上屋様は卯年のお生まれで、うさぎの意匠を何かにつけて好まれるから、こうして、ほら。な?」

 太佑が饅頭をひとつ手のひらに載せてみせる。

 勘助の目の前に差し出されたそれは、茶色い焦げ目を長い耳に見立て、赤くつぶらな目のついた、小さなうさぎの姿をしていた。

「すごい……かわいいねえ」

 勘助が目をみはると、太佑は手に取った饅頭を皿に戻し、また次々にうさぎを生み出していった。

「ほんの一口で食べちまうものでも、見目も楽しんでもらいたいからな――それで、食べ終わったとき、幸せだと一瞬でも思ってくれりゃ、御の字だ」

「幸せだと、思ってくれたら……」

 太佑の手元を見つめていると、末吉がまた「新入り、鍋洗ってくれ!」と鍋を押し付けてきた。勘助がびくびくしながら鍋を受け取るのを見て、太佑はおかしそうに笑い、勘助に小声で耳打ちした。

「末吉さんは、ああ見えて怖くないから。怒ってるわけじゃないから安心しな」

 そう言われて、すぐに慣れるわけではないけれど、少し心が楽になった。


 井戸端で鍋を洗いながら、空を見る。黒々とした空に、星が明るく瞬いていた。

(綺麗だなあ)

 吉原の中でも外でも、見える空が変わるわけではない。見える星が変わるわけではない。

 客で賑わっている二階の座敷に目をやった。灯りが眩しくてまるで昼のようだ。確かにここは、他とは違う。色が売り買いされる廓(さと)だ。

(でも……)

 口の中に残る、甘い饅頭の味を思い出す。温かく、優しい味がした。

 ここが他とは違うといっても、ここにいる人が皆、怖くて意地悪なわけではない。逆に吉原の外にだって、怖くて意地悪な人はいる。

(意外と、普通なんだ)

 普通の江戸の町と変わらないのだ。ただ、ここが花街だというだけで。人が毎日眠って、起きて、働いて、笑って、飯を食う。人が生きている町なのだ。

 台所へ戻ると、料理番たちは相も変わらず忙しそうに手を動かしていた。

「新入り、いつまで鍋洗ってんだ。こっち手伝ってくれ!」

 末吉に怒鳴られ、びくっと肩を震わせると、太佑と伊平次が笑って顔を見合わせた。

「ほらね、伊平次さん。言ったでしょう? 勘助、末吉さんのことが怖いんですよ」

「顔が厳ついからかな。損な性分だな、末吉は」

「人の顔を笑わないでくださいよ――おい、お前も笑ってるんじゃないよ、勘助!」

 その声の中に、照れ隠しのようなきまりの悪さが潜んでいるのを感じて、勘助は笑った。

 ここは他所(よそ)とは違うけれど――何とかやっていけそうだ。

(ああ、俺はいい所に来たのかもしれない)

 勘助はその日初めて、そう思った。


■   ■   ■


「そんなわけで、俺が初めて食べた太佑の菓子は、饅頭だったんです」

 勘助が饅頭の思い出を語り終えると、龍ノ井はにっこりと笑った。

「うさぎの饅頭か。きっと食べるのがもったいないほど、かわいらしいものなのであろうな」

「見てみたいもんだね。ねえ、今日出した饅頭の余りはないのかい? 今からでも作ってよ」

 徳之進が太佑の顔をじっと見る。鋭さを含んだ切れ長の目に迫られて、太佑は一瞬固まった。太佑は徳之進の目が苦手らしい。徳之進のことは嫌いではないが、あの目に見つめられると、上手く断れる気がしなくて、どうにも調子を崩されるのだという。

 太佑は徳之進から、ふい、と目を逸らして腕を組んだ。

「いかな徳之進様の頼みでも、無理ですね」

「どうしてだい?」

 徳之進が、ずいと身を乗り出す。太佑はその分、押されたように一歩引く。

「饅頭の残りなんてないからですよ。龍ノ井関に全部出しちまったんです。文句を言うならそっちにどうぞ」

 太佑が顎で龍ノ井の方を示すと、龍ノ井は心底すまなそうな顔をして、徳之進に向かって頭を下げた。

「すまぬ」

「いや、謝らないでいいんだよ。龍ノ井さんはいっぱい食べるのが仕事なんだから。むしろ太佑はそれを見越して、もっとたくさん作っておくべきだったんだ」

 無茶を言う徳之進に、太佑がしかめ面を作ってみせる。

「俺を悪者にしないと気が済まないんですか、あんたは」

 太佑は拗ねたような顔になり、お盆を持って勝手口に向かった。戸が開いた一瞬、冷たい風と雪が舞い込んでくる。

「どこへ行くんだい、太佑」

 勘助が声を掛けたが、太佑は振り返りもせずに、中庭の方へ出ていってしまった。

「まさか今ので怒ったわけではなかろうな」

 龍ノ井が首を傾げる。徳之進はおかしそうに笑いながら酒を舐めた。

「これで怒るくらいなら、俺はもう、とうの昔に太佑に愛想を尽かされてるよ。まあ、何か用でも思い出したんじゃないのかね」

「そうだといいんですが……」

 この寒い中に出ていくなんて、一体何をしに行ったのだろう?

 勘助はしばらく勝手口をじっと見つめていたが、ややあって戸が開き、太佑が戻ってきた。頭や肩に雪がうっすら積もっている。

「いやあ、寒かった」

 太佑は震えながら、片手でお盆を支えたまま、空いた片手で雪を払い落とす。

「饅頭はまた今度、作りましょう。今日のところはこれで勘弁してください」

 太佑はそう言うと、徳之進と龍ノ井の間にお盆を置いた。

 黒いお盆の真ん中にこんもりと、白い雪が盛られている。

 真ん丸ではなく、少し引き伸ばした、なだらかな丘のような形の雪の塊。勘助が初めてここに来た日に太佑が作っていた饅頭を、二回りほど大きくしたような形だった。

 そこに中庭から取ってきたのであろう、南天の赤い実が二つ、ゆずりはの緑の葉が二枚、くっついている。

「ほう、かわいらしい」

 龍ノ井がにっこりと笑う。徳之進もおかしそうに笑い、酒をあおった。

「何かと思えば。よくできているじゃないか」

 太佑が少し自慢そうに笑う。勘助はしゃがみこんで、お盆の上のそれを見つめた。

 赤い目をした、小さな雪のうさぎがそこにいた。

 横には薄紅色の花をつけた、梅の枝が添えてある。

「雪も悪くないもんだよねえ」

 勘助がしみじみそう言うと、その場にいた三人が一斉に笑った。

「まったく、調子のいい奴だよ、お前は」

「勘助お前、ついさっき、雪は寂しいから嫌いだと言っていたじゃないか」

「いや、でも気持ちは分かるぞ。こういうものが見られるなら、雪も確かに悪くない」


 季節外れの寒さが連れてきた雪のうさぎは、一口で消える甘い菓子のように、数日も経たずに融けてなくなってしまうだろう。

 ひとときの楽しみのために作られた、儚く白い塊が、一日でも長く残ってほしいような、でも早く暖かくなってほしいような、どちらともいえない気持ちになる。

 勘助は火事が嫌いだ。雪も嫌いだ。

 でも――火事に遭わなければ、勘助は今ここにいなかった。火事をありがたいと思うことは、この先もないに決まっているけれど。

 雪が降らなければ、この雪のうさぎには会えなかった。雪の寂しさを好きになることは、この先もないに決まっているけれど。

 

 勘助が吉原にやってきて、三度目の春が訪れている。

〈完〉