吉原百菓ひとくちの夢



   【第一章 吉原此岸水中花(よしわらしがんすいちゅうのはな)】



 昼の吉原は、静かなものだ。

 昼九ツ(正午)から七ツ(午後四時)までは、昼見世の時間である。吉原には昼見世と夜見世があり、どちらも商い中には変わりがないが、やはりそこは色の街である。日が暮れて、通りに灯りのつきはじめる夜見世の方が、街のありさまもグッと盛り上がる。見世に出ている遊女たちの気合いも、当然のように違ってくる。

 七月も末で、秋の彼岸が目前の残暑の候。しかも日が一番高い時分である。

 この溶けてしまいそうな暑さの中、吉原の大通りを連れ立って歩く二人の男がいた。

 暑さのあまりか、張見世をふらふらと覗いて冷やかして回る客もまばらな中、その二人連れは笠もかぶらずに、埃っぽく乾いた通りをせかせかと歩いている。

 普通なら「日も高いうちから、お目当ての妓(こ)に会うために一目散か」と邪推するところだが、その二人が普通の客と明らかに違うのは、その胸に抱えた荷にあった。

 卵だ。

 しかも十や二十ではない。各々が抱えた卵の数を合計すれば、百を数えるかもしれない。

 おがくずを敷き詰めた深さのあるザルに卵を大量に入れて、転ばぬように、しかしできうる限りの速さで道の真ん中を歩いていく。


「おい、太佑(たすけ)。早いよ」

 二人連れのうち遅れている方が、先を行く男に声を掛ける。

 太佑、と呼ばれた先を行く男は、小走りでついてくる男――名を勘助という――を、振り向きもせずにびしっと返す。

「お前がとろいんだ」

 太佑が一向に取り合ってくれないのを見て取ると、勘助はすがり付くような声を上げた。

「そう言わないでくれよう。足の長さが違うんだから、俺とお前じゃ歩く速さも違うんだ。もうちょっとゆっくり歩いてくれよう」

 確かに太佑は背が高くて足が長い。身の丈、およそ六尺(一八〇センチ)ほど。こうして道を歩いていると、頭ひとつ飛び抜けて目立つ。

 昔からぐんぐんと成長の留まりを知らなかった太佑は、すぐに着物の丈が足りなくなってお物師(お針子)を困らせてばかりいた。最近まだ伸びている気がする、と言ったら「裾の直しが大変だからそれ以上伸びないでおくれ!」と嫌な顔をされたなんて、もはや笑い話にすらできない。

「なあ、なあってば。もうちょっとゆっくりでいいじゃねぇか。せっかちな男は嫌われるんだよ」

 いい年をして、勘助は駄々っ子のような甘えた声を出す。それが年増の遊女らには「かわいらしい」と評判らしいから、太佑は首をひねるばかりだ。そもそも勘助だって、背の丈は人並みより高く五尺六寸(一七〇センチ)ほどもある。太佑の背が高いのなんだのと、泣き言を並べるのが間違っている。

「急がなきゃ仕込みが間に合わねぇだろう。ほら、喋ってる暇があったら歩け歩け」

 額から流れる汗を拭いたいが、両手は生憎と卵で塞がっている。

 肩にグイ、とこすりつけるようにして頬を拭い、土埃に乾く唇をぺろりと舐めると、塩っぽい味がした。

 太佑を懐柔するのを諦めたらしい勘助は、小走りになって太佑の横に追いついてきた。

「まったく、こんな突然の買い出しなんてな。この暑いのにさんざんだ」

 減らず口はまだ叩くつもりらしい。その口の回りの良さを、足にも分けてやればいいのに、と思う。

「仕方ねえだろう。小町の奴が落として割っちまったんだ」

 そもそも、事のはじまりは一匹の猫だった。


 太佑と勘助は、吉原の中見世「美角屋(みづのや)」で働く料理番である。

 小町とは、美角屋にいる猫の名前だ。誰が飼っているというわけでもないが、花魁たちと、誰より楼主がかわいがるので、無下に追い出せないでいるうちに、いつの間にか美角屋に居ついていた。

 白と黒のブチの雌猫で、腹の辺りに桜の花びらのような模様が入っている。顔立ちもすっきりとした美人だというので、誰かが「小町」と呼び始め、それがすっかり広まった。桜色の鼻を寄せてすり寄ってくる姿はかわいいものだが、それも仕事の邪魔をしないでいてこそだ。

 普段はおとなしく、台所にもめったに入ってこないのだが、今日はよほど腹を空かしていたのだろうか。気が付くと台の上にあったザルをひっくり返し、今日の料理に使うはずの卵の半分ほどを割ってしまった。

 グシャグシャグシャ……と小気味よく卵の割れる音に、台所にいた全員がハッとなって振り向いたときにはもう遅かった。割れた卵でベトベトになった毛並みを満足そうに舐める小町の姿に、太佑はもはや怒る気も起きなかった。

「こいつは……仕方のねえ奴だなあ」

 太佑がそう呟くと、

「仕方なくねえっ!」

 怒号が飛んだ。料理番仲間の末吉が、わなわなと手を震わせながら、太佑の後ろに立っていた。

「この馬鹿小町が! 何様のつもりだ、大事な卵をダメにしやがって、おい、何とか言ってみろ!」

 太佑の横をすり抜けながら、振り上げた手を小町に伸ばす。

「あっ、打(ぶ)ったらかわいそうですよ」

 勘助が慌てて止めようとしたが、末吉の手は小町を打つことなく、意外にも優しい手つきで小町の首根っこを掴み上げた。だらん、と伸びた小町の足先から、ぽたぽたと割れた卵がしたたり落ちる。

「末吉さん、そりゃあ洗ってやるほかねぇよ」

 太佑がそう言うと、末吉は難しい顔をして頷いた。

「そうだな、暇そうな禿(かむろ)にでも押し付けてくる」

 そう言い、小町を吊り下げたまま、末吉は台所から出て行った。

 さて、と振り向くと、調理台の前に伊平次がうずくまるようにして、残った卵をザルに拾い上げ、その数を数えていた。顔が真っ白になっている。

「五十個も割れたよ……足りないよ……」

 伊平次は美角屋の料理番をまとめている、料理長である。腕はいいのだが、何分憂いごとの多い性分で、こういう事態が起きてしまうとめっぽう弱い。しかし今から夜見世に向けて、台所が一番忙しくなる時間帯だ。料理長には早く立ち直ってもらわねば困る。

「伊平次さん、それでも半分以上は残ってますよ」

 とりあえず適当な慰めを口にしてみた。

「半分以上……」

 伊平次がちょっと顔を上げた。

「そうですよ、半分は残ったんですから運がいいですよ」

 そう言いつつ、太佑は勘助に目配せして、小声で囁いた。

「おいっ、お喋りはお前、得意中の得意だろ、何とか繋げろ!」

 勘助はこくこくと頷くと、伊平次の横にしゃがみこんだ。

「ね、伊平次さん、大丈夫ですよ」

 何が大丈夫なんだ、と太佑は心の中で突っ込んだ。勘助はお喋りのくせに、こういうとき役に立つ気の利いた一言も出てこないから当てにならない。

 伊平次は無事だった卵をもう一度並べて数え直しながら、溜息をついた。

「番頭さんに怒られるだろうなあ……」

 帳場を預かり、諸々の買い入れの費用(ついえ)を取り仕切っているのは番頭である。ただ、美角屋の番頭の源右衛門という男、気難しい。卵が割れたから買いに行く、と言ったところで、咎められるに決まっている。

「いや、怒られるだけじゃ済まねぇよなあ……てめぇでまかなえって言われるかなあ……もう逃げちまいてえ」

 伊平次の嘆きもうなずける。生卵一個の売り値が十文で、割れた卵がざっと五十個とすると、そのまま掛け合わせただけの計算でも五百文。五百文は二朱。つまり一両の八分の一にも当たる。

 人が一年に食うと言われるのが、おおよそで米一石。米一石がざっくり言って一両である。

 給金などほぼ出ないに等しく、実入りは気前のいい客が付けてくれる祝儀頼りな料理番にとって、五百文が一瞬で飛ぶのは懐に痛すぎる。

「大丈夫ですよ、伊平次さん、ほら頭の堅い番頭さんじゃなくて、楼主(おやかた)に言えばいいんですよ。小町がやったって言えば、楼主は許してくださいますよ。そしたら番頭さんも何も言えないに決まってます。ね、太佑もそう思うだろ?」

 底抜けに明るく軽い、考えなしな口調ではあったが、勘助よくやった! と太佑は心の中で叫んだ。

「そうそう。楼主は小町に甘いんですから。伊平次さんの責にはさせませんよ」

「そうかな……?」

 伊平次がまた少し顔を上げる。

「当たり前ですよ。小町が悪いんだもの。いざとなったらここにペタペタ残ってる、小町の足跡を見せてやりゃあ、楼主も番頭さんも納得されますって!」

 勘助の明るい口調に、幾分か慰められたらしい。伊平次は残った卵を入れたザルを持って、やっと立ち上った。

(楼主はいいとしても、番頭さんにもし「何で小町が入ったのに気づかなかったんだ」とか「猫を台所に入れるんじゃないと何度も言ったはずだろう」とか言われたら、伊平次さんどうするだろうなあ……)

 そんな思いを、太佑はそっと胸にしまった。そのときはそのときだ。

 それより今考えるべきは、割れて足りなくなった卵のことだった。

 吉原中を練り歩く卵売りも来るには来るが、大抵は水煮のゆで卵だし、そもそも来るのは夕方だ。太佑たちが要るのは生卵だ。しかも大量のものを、夕方までに。

 残った数だけでは足りなくなるのが目に見えている。今から夜見世に向けて料理の仕込みの始まる、一番忙しい時間帯が来る。買いに行くには早い方がいい。

 運ぶ物が割れやすい生卵だから、一人で一気にたくさん抱えて歩くのは危なかろうということで、太佑と勘助が駆り出された。

 そんなわけで、ここにいる。


 吉原は、閉じた街である。

 四方を「お歯黒どぶ」と呼ばれる堀に囲まれて、出入り口は一つ、大門(おおもん)のみ。遊女が足抜けしないよう、大門では女の出入りに厳しく目を光らせている。

 吉原は大門からずっとまっすぐ、水道尻(すいどじり)と呼ばれる突き当たりまでの大通りがあり、この大通りを「仲ノ町(なかのちょう)」という。

 その仲ノ町を十の字に横切る三本の通りがあり、この通り沿いに妓楼が軒を連ねている。

 大門に近い方から、伏見町、江戸町、揚屋町、角町、京町とあり、このうち江戸町一丁目、江戸町二丁目、角町、京町一丁目、京町二丁目を合わせて「吉原五町」と呼ぶ。まだ昔、吉原が人形町にあった元吉原の時代からの町の名前だそうだ。今の新吉原に移るときに、町の名前もそのまま越してきたのだという。

 揚屋町に卵を扱っている八百屋がある。京町一丁目の美角屋からだと、どんなにゆっくり歩いて行ったとしても、往復で小半時もかからない。気楽なおつかいではあったが、こう暑いと気が滅入る。

 中を覗く客もいない中見世の前を通り過ぎると、半籬の向こうの遊女と目が合った。暑さに参っているらしい。大きく開けた胸元を、扇ではたはたとあおいでいる。

  紅を刷いた口元をニイ、と歪めて笑いかけられ、太佑はふいと目を逸らした。冷やかし客と間違えたわけでもあるまいに。無視しないと暇つぶしにからかわれるのが関の山だ。

 しかし、一瞬遅かった。遊女は扇を差し招くようにあおいで、おかしそうに笑った。

「卵売りが来る刻には、ちと早うありんすなあ」

 一人がそう言うと、周りの遊女らもつられたように皆くすくすと笑いながら、太佑と勘助に手招きしはじめた。

「卵売りなら、お寄りなんし」

「男前の卵売りでおざんすなあ」

 客が来ず、よほど暇を持て余していたのだろう。次々と掛かる声が煩わしい。

 真面目にやらなきゃ叱られるぜ、なんて注意してやるのも億劫で、太佑が聞こえなかったふりをして通り過ぎようとすると、遊女たちは不満そうな声を漏らした。女の機嫌はどこで曲がるか分からない。

 吉原で遊女らの機嫌を損ねるほど面倒なことはない。たとえそれが他所の見世の遊女でも。何せ吉原は広くて狭い。ここの中では良い噂でも悪い噂でも、一刻もあれば隅から隅へ行き渡る。

(何か一言でも返すべきだったか……)

 太佑が苦悩の末、振り向きかけたときだった。

「いやあ、花魁方に食わせてやりたいは山々だけどね。俺たち、見世のおつかいの途中なんだ。すまないね」

 勘助がにこにこと愛想を振りまくと、遊女らはおかしそうに笑って手を振った。どうやら機嫌は直ったらしい。

 いつもはうるさい勘助のお喋りに、助かった、と初めて思った。

「ほら、これ以上絡まれねぇうちに帰(けえ)るぞ」

 勘助に小声で囁きかけて、太佑は少しだけ歩を緩めてやった。

 嫌味なほどに青い空の端に、雲が湧いている。白くむくむくとした入道雲だ。

「夕立でも来るかもしれねぇな」

 太佑はぽつりと呟いた。勘助はつられたように空を見て、頷いた。

「うん。お湿りがあればちっとは涼しくなるかなあ。このところ、暑くてかなわないよ」

「暑さ寒さも彼岸まで。秋の彼岸ももうじきだ。そろそろ暑い日も終わりだとは思うがね。涼しくなりゃ、食いもんが傷まなくて助かるってもんだ」

「そうだねえ」

 料理番にとって、食い物が腐るほど怖いことはない。冬なら作り置きができるものでも、夏場だとそうはいかない。

 食事は人のすべての基本だ。食わずに生きていける人はいない。

 人の生を預かる料理番の身の上としては、この暑さが一日でも早くましになってくれるのを待つばかりだ。


 通りを曲がって、美角屋の並ぶ京町一丁目に入ったときだった。

 行きにはなかった人だかりが、大見世の前にできている。

 しおれたようになっていた勘助は、人だかりを見つけると、途端に元気そうに顔を上げた。

「あれは……築波(つくば)屋さんだね。何かあったかな?」

 お喋りな勘助に、野次馬根性が備わっていないわけがない。

「さてね」

「ちょっと覗くだけ。な?」

 さっきまでゆっくり行こうと言っていた姿はどこへやら、きらきらと顔を輝かせはじめた。今にも駆け出しそうな勢いだ――いや、むしろもう走っている。

「下世話な奴だよ、まったく……おい、勘助! 転ぶなよ!」

 呆れたものだが、確かにあの人だかりは少々気になる。これほど客も少ないのに、あそこにだけ人が集まっているということは、そこに何か普通でないことがあるからだ。

 普通ではない、つまりよほど珍しいものでもあるか、よほど尋常でないことが起こったか。

 番所の連中の姿も見える――そこはかとなく不吉な匂いがする。

 太佑は卵を抱え直し、大股で勘助の後を追った。


 築波屋は美角屋の五軒隣に見世を構えている、評判の大見世だ。

 太佑が築波屋の前に辿り着いたとき、周りはどこから湧いて出たのかと思うほどの野次馬で埋め尽くされていた。人とぶつかって卵を割らぬよう、人垣の外からそっと様子をうかがってみる。こういうとき、背が高いというのは役に立つ。

 見世の中を覗こうとする者や、口の中でぶつぶつと念仏を唱えながら手をこすり合わせている者もいる。ざわめきが暑さと混じりあい、汗のように肌にまとわりつく。

 誰かに何があったか聞いてみようとした矢先、脇腹を肘でつつかれた。勘助がいつの間にか隣に来ていた。

「何があったって?」

 そう聞くと、勘助はぺらぺらと喋りはじめた。

「築波屋さんの、ほら玉ヶ枝っているだろう、知ってるか?」

「そりゃ、知ってるよ」

 玉ヶ枝といえば、数年前は築波屋内でも一、二を争う人気の花魁だった。しかしここ一年ほどはぱったり評判を聞かなくなっていた。

「その玉ヶ枝がね、身投げして死んだんだと。見世の井戸に」

 野次馬の喧騒が一瞬、遠い潮騒のように引いていった。

「……ふうん」

 そう答えるのが、やっとだった。

 すると、横から野次馬の一人が勘助に話しかけてきた。

「おい、そこの若(わけ)ぇの。身投げしたのは井戸じゃねえよ。池だって話だ」

「へえ、池。でも池って言っても、深さだってたかが知れてるでしょうにね」

 すると野次馬の男は、まるで見てきたかのように、自慢げに胸を反らした。

「そこは気合いだよ。何が何でも死んでやるって気合いがあれば、水溜りだって死ねるもんだよ」

「へえ。でも何でまた、身投げなんて……」

 このままだと、勘助のお喋りが止まらない。太佑は勘助を肘でつついた。

「おい、勘助。これ以上油売ってる暇はねえよ」

「はいはい、分かってるよ」

 勘助はそう言いつつも、顔はしっかり野次馬の男の方を向いている。男は自分こそが一番の事情通だといわんばかりに、喋り続ける。

「昼見世の刻限なのに花魁が部屋にいないってんで、新造がふっと外を見てみたら、こう、池の中にゆらゆらと、赤い着物の花魁が浮かんでいたそうだよ」

 太佑は、思わずその光景を想像してしまい、ぎゅっと目を瞑った。

「むごいな……」

 想像しただけでゾッとする――恐ろしいからではない。あまりに凄まじく、哀れだからだ。そんな死に方を選ぶ心持ちとは……一体どれほどの苦しみであったのか。

「へえ、ゾクッとしますねえ」

 野次馬根性を剥き出しにしたままそう返事をする勘助に、太佑は少しばかりイラッとした。

 男は勘助が話を聞いてくれるのが嬉しいのか、なおも調子づいて話し続ける。

「だろう? 花魁のそんな姿は拝みたくねえが、しかし聞いた話じゃ、この世のものと思えないほど綺麗に見えたんだと」

 もうこれ以上は聞きたくもない。太佑は口元をぐっと歪め、片手で無理にザルを支えると、空いた片手で勘助の襟首を掴み、引っ張った。

「もういいだろう、勘助。夜の仕込みが終わってねえんだ」

「太佑はせっかちだねえ」

 勘助の呑気そうな口調が、癇に障って仕方なかった。

 ――噂じゃ、病だったというよ

 ――いや、情夫(いろ)に振られたと聞いたぜ

 ――何にせよもったいねぇことだ。あたら若くてきれいな妓(こ)が、土左衛門だなんてなあ

 聞きたくなくとも、人の噂する声が次々耳に入ってきて、太佑はますます顔をしかめた。こういう話は苦手だ。いつ何時聞いても気が滅入る。

 吉原で遊女が死ぬのは、決して珍しいことではない。重い病気にも罹らずに、年季が明けて無事吉原を出ていける女の方が、よほど珍しいとすら言える。

 いつものことだ。顔すら知らない他所(よそ)の見世の遊女が、己が不幸に堪えかねて、自らの手で命を絶っただけだ。太佑が悲しんでやる義理もいわれもまったくない。

(でも、何かすっきりしねぇ)

 なぜこれほどまでに自分がモヤモヤした思いにとらわれているのか、自分でもよく分からないまま、太佑は埃っぽい道を急いだ。


 三丁四方の吉原の中に暮らすのは、遊女と妓楼の人間のみではない。妓楼がない揚屋町などは、職人や商人などが軒を構え、普通の江戸の街並みと変わらない。

 吉原は、まさにひとつの街である。そこに暮らす人の数は、およそ一万余人と言われる。

 しかしやはり堀と塀に囲まれて、外と区切られた狭い世界のこと。悪い噂も良い噂も、あっという間に吉原中を駆け巡る。太佑と勘助が見世に戻ってくると、見世の中がざわついていた。築波屋の噂が広がっているのだと、聞き耳を立てずとも知れた。

 太佑はなるべく人の噂話を耳に入れないようにしながら、台所へと向かった。

「戻りました」

 のれんをくぐりながら声を掛ける。六畳ほどの中にかまどと棚と調理台が並んでいる、ここが美角屋の台所で、太佑たちの仕事場である。

「遅ぇっ!」

 台所に入るなり、末吉の怒鳴り声が響いた。反射的に勘助がすくみあがって叫び返す。

「すんません!」

「何かあったかと思っただろう!」

「はい、すんません!」

 口で派手に怒っていても、怒りが伴っていないのが、末吉のいいところだ。末吉は太佑らと同じく、美角屋の料理番を務めている。最初は怒っぽいように見えるのだが、ただのお人好しで優しさを素直に表に出せないただの照れ屋だということが、三日も共にいれば分かってしまう。

 先ほどの胸の中のモヤモヤを、今は表に出すべきではない。太佑は末吉にニコッと笑いかけ、卵を差し出した。

「ほら、末吉さん。卵、買ってきたよ」

「おう、ご苦労」

 末吉は卵の入ったザルを受け取り、太佑の顔をじろっと見た。

「何だい、その顔は」

「えっ?」

 太佑は自分の顔を手で撫でた。別に変な顔をしたつもりはないのだが。

「何だいって、何が?」

 すると末吉は呆れたように、じっとりと目を細めた。

「褒めてほしくて仕方ねえ犬みたいな顔しやがって。二十四にもなって、かわいくねぇぞ。ほら、とっとと仕事に戻ってくれよ。お前ら二人がいないと、仕込みが滞って仕方ねえ。ちゃきちゃきやるぞ」

(褒めてほしくて仕方ない犬……?)

 太佑はもう一度、顔を手で撫でた。そんな顔をしたつもりはない。そもそも、それは一体どういう顔だ。

「こんなおつかいで褒めてもらおうなんざ、思っちゃいないって」

 タスキを掛けながらそう言い返してみたが、末吉は、分かってねえなと首を振る。

「そうじゃねえよ。そのくらい俺も分かってる。ただ、その顔だよ、顔。お前の顔は犬顔なんだ」

 犬顔とは何だ、とも思ったが、そこまで言われたら黙るしかない。

 そこへ伊平次が戻ってきた。

「おや、二人ともおかえり」

「戻りました」

 伊平次の顔色が少し明るい。きっと楼主に卵の件の話をしてきて、お咎めがなかったのだろう。伊平次はタスキを掛けながら、嬉しそうに話す。

「今話をしに行ったら、楼主(おやかた)が、『小町のせいなら仕方あるまいよ』ってよ。おかげで番頭さんも許してくれてな。これで安心して、今日の仕事にかかれるってもんだ」

 太佑は勘助、末吉とホッと顔を見合わせた。伊平次が落ち込んだままだとどうしようかと思ったが、これで今日の仕事も安泰だ。

 タスキをかけ終えた伊平次が、台所の東側の壁に貼ってある荒神様の御札に向かって、柏手を打って一礼する。

 それに続いて、太佑、勘助、末吉も、パンパン、と手を打ち合わせて荒神様を拝む。

 荒神様は料理番にとって大切な、かまどの神様だ。美角屋ではこうして毎日、夜見世の仕込みが始まるときに、料理番皆で荒神様を拝む。

 伊平次がくるりと振り向いて、再び手をパン、と打ち合わせた。

「引けまで、今日も張り切るぞ!」

 伊平次は普段は気弱なくせに、こういうときだけは勇ましくて頼もしい。

「はい!」

 太佑と勘助、末吉は一斉に返事をし、各々の持ち場に取り掛かった。

 忙しい夜のはじまりだ。ともかく今は手を動かさねばならない。

 モヤモヤとしたもの――胸の奥に爪を立てれらたような疼きは、まだ静かにわだかまっている。だがいつの間にか、先ほどまでの強い苛立ちは、胸の内から薄れていた。