吉原百菓ひとくちの夢



 妓楼の中は外から見るより広いものだ。

 どの見世も大体のつくりは変わらない。まず表通りに面して張見世がある。格子を通して中に居並ぶ遊女を眺め、品定めをできるのだ。

 道中をするような花魁は張見世に出てこない。しかし並ぶのはいずれも負けず劣らずの傾城揃い。意匠を凝らした縫い取りのある打掛を赤い襦袢の上に羽織った遊女らが、ずらりと並んだ光景は、吉原の名物だ。

 張見世の横に見世への入口がある。入口の脇には牛台(ぎゅうだい)と呼ばれる台があり、そこには見世番が詰めている。

 妓楼で働く男のことを、年を取っていても「若い者」と呼ぶが、また別の名を「妓夫(ぎゆう)」という。その「ぎゆう」という響きが縮まって、「ぎゅう」と呼ぶようになり、「牛」の文字が当てられた。その「牛」が、入ってくる客を検分するために座る台だから「牛台」だ。

 牛台の奥にはのれんがかかり、土間があって、その一方の先が台所に通じている。台所の裏手は中庭に面しており、中庭へ通じる勝手口の傍には井戸がある。

 牛台のもう一方の先が、玄関口だ。客はここから見世の中へ上がり、二階へ通じる階段を上がって、座敷へと向かう。玄関口の近くには内所、つまり楼主の部屋がある。

 台所の入口がのれんで区切られず、調理の様子が客に筒抜けの見世も多いが、美角屋は入口をのれんで覆い、またそことは別に見世の一階に通じる出入口を一カ所設けて、他は板戸で区切ってある。この一階に通じる出入口を通って、階段を上り、料理は二階へと運ばれていく。

 建物は中庭をぐるりと囲むようにしてしつらえられている。美角屋はさほど広くはないながらも、京の庭師を呼び寄せて作らせた庭に小さな池があり、源氏物語よろしく春夏秋冬にちなんだ前栽を東西南北の方角に合わせて植えており、楼主の自慢となっている。

 まだ夏の名残の草花が生い茂っているが、秋の草花が次第に顔を覗かせてきている。井戸端に巻き付いた朝顔の蔓も、そろそろ勢いがなくなってきた頃だ。昼下がりの今、咲き終えた花がしおれている。あと半月もすれば、朝顔がここに咲いていたことなど嘘のように、他の花が取って代わってしまうのだろう。

 朝顔の根元辺りに、すっと伸びた緑色の茎が二本ある。茎の先に開きかけの赤い蕾のついた、彼岸花だ。明日にでも一気に花が開きそうだ。

(そうか、今年もここに咲いたか……)

 鍋を洗いに井戸端に出てきた太佑は、彼岸花に目を留めた。彼岸花は嫌いではない。太佑の母が、彼岸花を好きだったからだ。

 ――花びらがまるで、踊っているようで綺麗じゃないか。

 そう言って、花を両手でふわりと包み、穏やかに微笑んでいた母を、亡くしてもう十五年以上経つ。しかし毎年この花が咲くと、母がとりわけ喜んで愛でていたことを、太佑は今でもよく覚えている。

 世間ではさほど、この花の評判は良くないらしい。真っ赤に燃えあがる炎のようなこの花を、火事を呼ぶと言って忌み嫌う人もいる。そうでなくとも、毎年決まって約束したように彼岸の時期に咲くこの花は、死人花(しびとばな)と呼ばれるのだ。

 それでも太佑はこの花の勢いの良さが好きだ。華やかで、鮮やかで、力強い。

 鍋を洗っていると、太佑の腕に蚊が止まった。手をしばし止めて、パチン、と叩き、手のひらを見る。しかしどうやら逃げられたらしい。

「畜生、今年は多いなあ……」

 刺されたところに、気休めのように鍋の底に溜まった水を掛け、思わず?きむしる。人よりも蚊に好まれる性質(たち)らしい。業腹なことだ。

 頭上から、パチン、という音が響いた。

 太佑が顔を上げると、二階にめぐらされた回廊から花魁が中庭を見下ろしていた。

「ほんに、今年は多いこと」

 美角屋のお職――一番手である花魁、朝露だ。

 朝露は蚊に刺されたらしい腕を顔の前に掲げ、ふっと息を吹きかけた。ひとり言を聞かれていたのだと分かり、太佑は急に気まずくなった。

 朝露の横には、禿(かむろ)のよしの、たつたが控えている。この二人は同じ時期に入った同い年の禿で、縁もゆかりもないくせに、双子のようによく似ている。お揃いの赤い着物を着、お揃いの水流文様の団扇を持って、互いをあおぎ合っている瓜二つの様子に、思わず笑いがこぼれそうになる。

 朝露は紺の小千谷縮に小花散らしが素縫いされた着物を、きりりと涼しげに着こなしている。藍地に白く朝顔の花の染め抜かれた団扇でゆったりと己をあおぎながら、回廊の欄干にもたれかかり、太佑に向かって小首を傾げた。

「先ほど、文が届きんした。今夜は勝様がお越しなさりんす」

「ほう、久々だな」

 勝様、というのは大戸屋勝次郎のことだ。年の頃は四十の半ば。先代から継いだ廻船問屋を一代で大きくしたやり手で、朝露の馴染みである。

 大戸屋は、弥生の花見、葉月の仁和賀(にわか)――俄(にわか)狂言ともいい遊女たちがこぞって素人芝居をして楽しむ――といった行事のある日、いわゆる「紋日(もんび)」には、必ず朝露に仕舞をつける。

 仕舞をつける、つまり遊女を一日買い占めることだ。紋日に仕舞のつかなかった遊女は、楼主からひどく叱られ罰を受けるし、「とりわけ大事な日だというのに買い切ってくれるような客もいない」ということは、恥ずかしいことであるのだという――その考え方は太佑にとって、分かるようでいて馴染めないが。

 そのため遊女たちは、仕舞をつけてくれるような上客を、掴まえておくことに余念がない。朝露は大戸屋の他にも馴染みの客を多く持っている。それは朝露の遊女としての手練手管の賜物であるが、大戸屋の場合は少しく事情が異なってくる。

 大戸屋は粋人として高名だが、こと食べ物の通として知られるのだ。その大戸屋がわざわざ選んで通ってくるほどに、美角屋で出る料理は美味い。

 太佑は腕を掻きむしりながら、立ち上がった。

「それで? 何を作ろうか」

 上客が来る日に花魁があれこれと考えて、その客の好みに合わせた料理を作らせるのは、美角屋では珍しくないことだ。無論、客の多い日や何やで叶えられない日もあるのだが、そこは花魁も客も弁えている。今日のような客の少ない日は、大抵のわがままは通される。

 花魁たちが凝らす趣向に料理番たちは振り回されつつも、ここが腕の見せどころと、張り切って料理をこしらえる。その中でも朝露は、とりわけ食べ物に対する勘がいい。朝露が考えて作らせたものが、客の気に入らなかったことがない。ただその分、朝露は、難しい注文をすることも多い。

 どんな難題を吹っ掛けられるのか、何でも好きに言ってみろ、と身構えた太佑に、朝露は涼しい顔で告げた。

「カステイラを作っておくんなんし」

 すると禿のよしの、たつたが顔を見合わせ、きゃっと嬉しそうな声を上げた。

「カステイラ!?」

「……簡単に言ってくれるねえ。あれは夏場には大変なんだよ」

 太佑はわざとらしく、困った顔を作ってみせた。朝露はそれを見て、涼しい顔を崩さず、笑った。

「先に卵を山ほど買いに行ったと聞きんした。作れるでありんしょう?」

 まったく、噂の回りは速いものだ。さしずめ小町を末吉から引き取った禿が、卵を買い足しに行ったという話を聞き、それが朝露に伝わったのだろう。

 作れるか、と問われたら、返事はひとつだ。

「もちろんさ」

 太佑は苦笑いした。まったく、いつものやり取りだ。朝露の難題に、太佑は決まって困った顔をしてみせるが、断ったことは一度もない。何があろうと引き受けてしまう。他の花魁の頼みだって太佑は断ることをしないが、朝露の頼みはとりわけだ――過去のとあるきっかけがあって。

 カステイラ、カステイラ、と嬉しそうに囁き合っていた禿の二人が、堪らずというふうに上ずった声で太佑に呼びかけた。

「ねえ、太佑どん」

 よしのが欄干から身を乗り出す。

「カステイラの端っこだけど……」

 たつたが、ねだるような目つきで太佑を見る。

 皆まで言われずとも察した太佑は、追い払うように手を振って頷いた。

「ああ、端切れは置いといてやるから、座敷が引けたら台所へ来な」

 カステイラを焼いて切り揃えたときに出る端切れは、甘くて、少し焦げてカリカリしていて、禿たちの大好物だ。

 太佑の言葉に、よしの、たつたの二人は、朝露を挟んでそっくり合わせ鏡のように、太佑に向かって手を振った。

「約束よ」

 先に言葉を発するのは、よしの。

「げんまんよ」

 小指を立ててみせるのは、たつた。

 それをきっかけにしたように、朝露がスッと立ち上がった。よしの、たつたの二人も先ほどまであどけない笑みを浮かべていたのに、途端にスンと澄ました顔になって、欄干から身を離し、背筋を正す。

「では、頼みんした」

 朝露は口の端を持ち上げて笑い、よしのとたつたを従えて部屋に戻っていった。

「まったく、俺も人がいいねえ……」

 思わずぼやきが口をついて出る。今日は別のもの――松風という菓子を作ろうと思っていた。麦の粉と砂糖を水でこね、薄く平たく延ばしたものに芥子粒を撒いて炙った菓子だ。幸い、まだ作り始めていなかったから、無駄が出ることがなくて助かった。

 目の奥に、朝露の澄ましたような笑顔がちらつく。昔は美味いものを食ったら「美味しい!」と、こちらが呆れるほどの満面の笑みを浮かべていたくせに、そんな顔を見なくなって、もうどのくらい経つだろう。

 太佑は鍋を洗い上げると、鍋底に溜まった水を井戸端にぶちまけた。水が跳ねて、草の葉の上できらきらと光った。

 遠くで雷の音が鳴った。遠からず夕立が来そうだ。


 加須底羅、春庭良、加寿天以良……。カステイラは、めでたい字が当てられる幸せな菓子だ。

 吉原で遊ぼうなどという人間は、総じて金を持っていて、粋で、ちょっと新しいもの好きだ。だから南蛮菓子と呼ばれる類の「カステイラ」を食べたことがある客は珍しくない。つまり下手なものを出せばあっという間に見破られ、見放される。

 台所に戻った太佑は、さっそくカステイラを作りにかかった。カステイラは焼きあがってすぐには食べられない。しばらく寝かせてしっとりさせた方が旨みが増す。焼き上げるなら早い方がいい。

 台所の棚の中から、帳面を引っ張り出してくる。太佑はそれをパラパラとめくり、「カステイラ」と書いた見開きを広げると、書き付けてある分量の具材を取りに戸棚へ向かった。


 美角屋の料理番はみな腕の良い者ばかりだが、カステイラを作れるのは太佑一人だ。

 それというのも、太佑は料理番は料理番でも、「菓子作りの」料理番だからである。

 太佑が菓子だけを作る料理番になったのにはわけがある。それは太佑の生い立ちにも関わっている。

 太佑は、吉原で生まれ育った――遊女の子なのである。

 普通、遊女は身籠るとその子を堕ろす。身籠っている間は客を取れず、商売にならないからだ。

 飲めば身籠らないといわれる朔日丸(ついたちがん)という薬があったり、また床入りの前に御簾紙をあれの中に入れておけばいい、などという話もあったり、遊女らの間では様々な手法が試され伝えられているが、いずれも必ず効くというわけではない。

 そしていざ堕ろすとなると、「子腐り薬」と呼ばれる甚だ怪しい薬を飲んだり、冷たい水に浸かったり、腹をきつく押さえたりと、堕ろす方法はいくつもあるし、それを生業(なりわい)にする医者もいるほどだ。しかしいずれも決して安全な方法とは言えない。子を流した遊女はそのまま身体を壊し、見世に再び出るどころか普通に生活することもできなくなって、遊女の投げ込み寺として名高い浄閑寺に送られる――死ぬことも多い。

 そんな吉原の中で、太佑の母は幸か不幸か、子を産むことが許された。太佑の母は当時吉原で指折りの名妓と謳われた、霧島という花魁だった。

 子を産むまでの一年の間の身揚がり、つまり客を取らずに金で休みを買うことができるほどに援助してくれる贔屓客があり、楼主がそれを許してくれる度量のある男なら、遊女が子を産むことも夢ではない。

 霧島を一年身揚がりさせたのは、日本橋の松井屋という呉服商だった。

 ――このところ、霧島と枕を交わした三度が三度、俺は不思議な夢を見た。霧島が光る玉を呑み込む夢だ。

 呉服商らしく、上品な黒の唐桟を着込んだ松井屋は、座敷に楼主を呼び出して、まくしたてるように機嫌よく語ったという。

 ――光る玉が何かと、夢の中で俺はよくよく目を凝らした。最初はお天道さまかとも思ったが、辺りがやけに暗いんだ。空を見上げると星が出てるんで、ああこれはお月さんだなと知れた。霧島は、まんまるいお月さんを両手に持って、一気に呑んだ。すると幾程もなく霧島の腹がぽうっと光り出すじゃねぇか。これはきっと、俺の子を孕んだに違いねぇ。しかもただの子じゃねぇ、ありがたい神仏の加護を受けて生まれる子だ。そう思ってもう一度霧島に目をやると、俺の目の前から霧島が消えていて、代わりに光り輝く薬師如来様が立っていたのよ。霧島が呑んだ月はこういうことだったか、と俺は思った。月光菩薩様といえば薬師如来様の脇侍だからな。笑うかい? 俺はありがたさのあまり、這いつくばるようにして拝んだよ。薬師如来様はその御手に持った薬壺の中から何かをつまみ上げて差し出された。俺がそれを受け取ろうと手を伸ばすと、手の中にさらさらと白いものが落ちてきた。塩かなと思ったが、それにしては粘り気が違う。そっと舐めてみると、不思議なことに夢の中なのに味がしたんだ。それは塩でも薬でもない。甘かったよ。そう、砂糖だった。

 松井屋は元より信心深く、さすがに同じ夢を三度重ねて見て、気のせいだと笑い飛ばすような人物ではなかった。

 そこまでするなら身請けをして落籍(ひか)せばいいのにと思うところだが、そこは何かしら、大店ならではの、お家(いえ)の事情があったのだろう。

 程なくして霧島が身籠ったと知れると、松井屋はその後一年、霧島が身揚がりをできるだけの金を積み、客も取らせず養生させた。

 松井屋は時折登楼しては、日に日に大きくなっていく霧島の腹を撫でて、愛おしそうに話しかけた。

 ――お前はありがたい、薬師如来様の申し子だ。

 松井屋は生まれる前から、男だと信じて疑わなかったという。

 ――この前、夢のお告げで薬師如来様に言われたんだ。この子は男の子だとね。

 そうして月が満ちて生まれたのが、太佑だった。

 遊女の子は、男なら里子に出すか見世の働き手にするし、女なら遊女に仕立て上げる。しかし松井屋は、里子に出すなんてもったいない、と言い張った。

 ――俺が引き受けてやる、と言いたいところだが、生憎それが叶わない。だが薬師如来様のご加護を受けたこの子を、どこぞに手放すなんてもってのほかだ。

 そして、その時思い出されたのがあの夢だ。薬師如来が薬壺から取り出して、松井屋に与えた砂糖のくだりだ。

 松井屋がその夢のことを、とある高僧に相談しに行くと、僧はこう言ったという。

 ――そのような夢をご覧になったなら、その子には菓子を作らせるがよろしいでしょう。

 その言葉を信じ、松井屋は楼主と相談して、太佑を七歳まで美角屋で育て、八歳になったら奉公へ出すことに決めた。松井屋の方で大坂は堺の菓匠につてがある。そこで修行を積み、いずれ美角屋に戻ればいい。そうすれば美角屋でも、自慢の料理に添える華が増えるだろうと説得されて、楼主も仕方なく頷いた。

 そういうわけで、太佑は七歳まで、若い者に混じって見世を手伝いながら、時折台所にも出入りして、料理の技を仕込まれた。そして八歳から十二歳の五年の間、堺へ出向いて菓子作りを覚えた。

 遠く大坂の堺へ向かい、菓子作りの技を仕込まれて、過ごした日々はあっという間だった。何せ期限が短かった。本当はもう少し長く奉公先で覚えたいこともあったのだが、最初から外に出せる余裕はせいぜい五年きりだということで話がついていた。

 そうして太佑が吉原に戻ってきた十二の歳、ちょうど朝露が禿として美角屋にやってきたのだ。

 自分が戻ってきたときに入ってきた禿だから、どこか縁を感じるというか、親しみのようなものがあった。他の遊女らにしても、太佑が生まれたときから面倒を見てくれたり遊んでくれたり、また逆に朝露のようにここに来た時からずっと知っている幼馴染のような存在だが、その中でもとりわけ朝露には思い入れが強い。

 なぜなら、太佑が美角屋で初めて作った菓子を、最初に食べたのは朝露だからだ。

 菓子というよりは、腕試しにと作った餡だった。他の料理番の邪魔をしないよう、小鍋にわずかに作ってみた餡を、誰かに食べてもらおうときょろきょろしていたら、中庭にいた禿と目が合った。それが朝露――禿のときの名は「やしほ(やしお)」といった。

 太佑の持っている鍋をじいっと見つめ、やしほはごくりと喉を鳴らした。

「食っていいぞ」

 太佑がそう言うと、やしほの顔がぱっと輝いた。

「いいの?」

 やしほは遠慮なく鍋に手を突っ込むと、餡を指先で掬い、大きく口を開けて舐め取った。

「美味しい!」

 花が咲いたような笑顔でそう言われ、太佑はホッとしたのを覚えている。これほど美味そうに食べてくれる人がいるならば、きっと自分が磨いてきた腕はここでも通じるはずだ、と思えた。それほどに、やしほは、幸せそうな顔をしていた。

 あの時の、やしほの笑顔と「美味しい」という一言が、太佑に自分の腕を信じさせてくれた。「上手くできているじゃないか」と他の誰に褒められるより、笑顔のやしほに最初にもらった、あの一言が嬉しかった。

 そんないきさつがあったから、朝露の頼みなら、どんな無理でも聞いてやりたい。太佑は普段台所にこもりきりで、お膳を上げ下げする手伝い以外では二階に上がることなど滅多にないから、朝露がどんな顔で菓子を食べているのかは知らない。たまに顔を合わせるにしても、澄ました笑顔しか見せやしない。

 でも、きっとあの時と同じ、幸せそうな笑顔で食べてくれているはずだと信じていればこそ、作り続けられるのだ。


 さて、カステイラを作るのに要るのは卵、砂糖、麦の粉の三つのみ。珍しいものを使うわけではない。

 しかし、それを混ぜ合わせる順と、焼き加減が難しい。

 まず混ぜ方だ。卵は白身と黄身に分け、白身だけをふわふわの泡のようになるまで混ぜる。太佑はいつも、炒り卵を作るときの要領で、箸を十本ほど束ねたものを持ってひたすらに混ぜる。飛び散りやすいので、力任せにすればよいというわけではない。上手く混ぜる技が要る。

 そして砂糖と黄身を混ぜ合わせる。それをふわふわの白身と混ぜて、最後に麦の粉をふるい入れ、白身の泡を潰さぬように丁寧に混ぜてやり、焼く。

 しかしそれだけだと、固くてパサパサとしてしまう。そこでしっとりとさせるために、溶かした飴を混ぜるのだ。飴を入れるのは、太佑が奉公先の店で教わった、まだ珍しいやり方だ。

 次に焼き加減だ。カステイラを焼くときには、普通の鍋ではなく専用の「カステイラ鍋」を使う。銅でできた薄手で四角く平たい鍋で、普通の鍋と違うのは、蓋をしてその上に炭を置き、鍋の上下から火を通せるところだ。上下からじわじわと熱を加えてやることで、ふわっと茶色く色づいた焼き上がりがかなう。

 最初こそ、「しょっちゅう作るわけでもないカステイラのために、それ専用の鍋を仕立てるなんて勿体ないんじゃないか」と周りに言われ、普通の銅の鍋に鉄の蓋をして試していたが、どうにも上手くいかなくて、見るに見かねた楼主が「これが名物になって客を呼べるなら安いもんだ」と、カステイラ鍋を仕立ててくれたのだ。七輪の上に置くのにちょうどいい大きさで、使い勝手の良い品だ。

 ただ、やはりパサパサとした食感になったり、中に上手く火が通らなかったりすることもあるのが悩みの種だ。

 そこで太佑も工夫する。焼いている途中に表面に水を散らして湿らせてみたり、少し火を通しては、蓋を開けて中身を掻き混ぜたり。それで上手くいくこともあるが、それでもどうしても仕損じはある。その日の天気にも左右される、難しい菓子だ――だからこそ、面白くもある。

 混ぜ合わせたタネをカステイラ鍋に入れて、蓋をして上に炭を置き、七輪にかける。どれくらい火を通すかは、何度も仕損じながら繰り返して身につけた勘に頼るところが大きい。とにかくよく見て、手間をかけてやることが肝心だ。

 太佑はかまどの傍に置いた七輪の前に座り込み、腕組みをして、片時も目を離さずカステイラ鍋を睨み始めた。途中で蓋をそっと開け、まだドロドロしている生地を木べらで混ぜ、火の通りを調整してやる。

 そのうち蓋の隙間から、ふわふわと湯気が立ってきた。

「なあ、太佑、ちょっと鍋見てくれ!」

 後ろから勘助の声が飛んだ。横のかまどで、鍋が今にも噴きこぼれそうになっていた。勘助は魚を捌いている途中で、手が離せないと見える。

 しかし、太佑の方も今が一番大事な時だ。いつ火を通すのを止めるのか、少しずれるとカステイラは綺麗に色づかない。朝露に「夏場は大変なんだ」と言ったのはこのせいだ。この暑い中、火の前から片時も離れず付きっきりにならねばならないから、先ほどからダラダラと汗が噴き出て仕方がない。

「今は取り込み中だ、他当たってくんねえか!」

 顎から落ちる汗を拭いながら、怒鳴るように叫び返すと、勘助から不満そうな声が漏れた。

「他なんていないじゃないかよう。ちょっと火をいじってくれりゃ済む話じゃないか、なあ、太佑!」

「俺はこれでも大忙しなんだ!」

 太佑はカステイラ鍋から目を離さない。

「勘助、諦めな。そうなると太佑は動かねぇよ」

「うん。勘助が動くしかないだろうねえ」

 太佑との付き合いが長く、太佑の扱いをよく知った末吉と伊平次が口々にそう言うと、この中で一番下っ端の勘助は観念したように手を止めて、かまどに近づいてきた。恨みがましそうに、ちらっと太佑を見る。

「七輪に足が生えて逃げるわけでもあるまいし。ちょっとくらい動いてくれてもいいじゃないか」

「黙れ。言ったろ、俺は大忙しなんだ」

「ちぇっ、ほんと、かかりっきりになるんだから」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、薪をずらして火を小さくし、勘助はまた持ち場へ戻っていった。

(そろそろかな……)

 ここぞと見極めた頃合いで、太佑はカステイラ鍋を七輪から下ろした。

 蓋に載せていた炭を外し、カステイラ鍋を調理台へ持っていく。蓋を開けると、中からふわっと湯気が上がった。

 焼き上がった中身をカステイラ鍋から出すと、焼き立てのカステイラの匂いが立ちのぼった。

「ああ、いい匂いだ」

 勘助が鼻をひくつかせる。煮物や魚を焼く匂いに混ざって、甘い匂いがそこらじゅうに満ちていく。

 じっくりと時間をかけて、カステイラが焼きあがった。あとは冷まして、乾かないように布巾で覆い、座敷に運ばれるのを待つだけだ。

 カステイラの粗熱が取れたのを見計らい、太佑は端を切り揃えて、その切れ端を口に放り込んだ。

 勘助が、いつの間にか横にやってきていた。

「どうだい」

「満足な出来さ」

 勘助がねだるように手を出すので、切れ端を載せてやると、嬉しそうに食べた。

「ほんとだ、美味しいよ。今日のはとりわけよくできてるんじゃないのかい?」

 すると末吉と伊平次もわらわらと寄ってきて、太佑に向かって手を出した。

「俺にも食わせろ」

「俺も味見をしてあげるよ」

 皆、カステイラが好きなのだ。太佑は苦笑いしながら、切れ端を載せてやった。

 今日のカステイラは、勘助も言ったが、とりわけよく焼けている。しっとりとした食感を保ちつつ、甘さもいい塩梅で、火の通りも万遍ない。ふわふわとしているが重さはあって、噛みしめるとじわっと口の中に砂糖の甘さが広がる。

 太佑の顔に、おのずと満足げな笑みが浮かんでいた。

「しかし、こんな手間なものをパッと作ってやるなんて、お前も朝露花魁が好きだねえ」

 勘助にそう言われ、太佑は照れたように首を振った。

「いいや、嫌(きれ)ぇだよ。いっつも無理難題ばかり吹っ掛けやがるんだからな。まったく困ったもんだ」

 でもこうして朝露の望む通りに菓子を作ってやれる自分に、悪い気はしない。

 太佑はもう一切れ口に放り込むと、カステイラを丁寧に切り分けはじめた。


 夜見世の始まる暮れ六ツ(午後六時)の鐘が鳴った。清掻(すががき)――三味線のお囃子の音が、どの見世からも一斉に響き出す。

 辺りはまだ少し明るいが、もう間もなく日が沈む。吉原の街が活気を出し、夜の顔を見せはじめる。

 一階に通じる入口ののれんを撥ね上げて、顔を出す人影があった。

「おいっ、お膳の仕度はできてるかい? あと半時もすれば、大戸屋様がいらっしゃるから、よろしく頼むよ!」

 二階廻しの仁兵衛だった。

 二階廻しは「床廻し」とも、「喜助」とも言うが、美角屋では「二階廻し」と呼ばれている。

 そもそも妓楼は二階建てで、一階に張見世や台所、若い者の部屋、内風呂、楼主の部屋である内所などがあり、二階に部屋持ちの花魁たちの部屋や、客を上げる座敷がある。

 二階廻しの主な仕事は、その名の通り二階、つまり座敷を取り仕切ることにある。

 引手茶屋を通して客が来れば、座敷に客をお通しして、宴席をしつらえ、客と花魁の仲を取り持つ。不慣れな客にはそれとなく口添えし、花魁とうまくいくよう取り計らうし、酔って面倒な客が現れれば、そっと花魁から引き離し、酔い潰れて眠るかお引き取り願えるまで相手をする。「あのお客は嫌でありんす」などと不平を言う花魁がいれば、なだめすかして何とか座敷へ顔を出させるし、その逆で好きな客の座敷になるべく長く居させてやろうと気を回し、仮病をでっちあげてやることもある。そして床入りともなれば、ふかふかの三枚重ねの布団を座敷へ用意するお世話まで。

 とかく客の世話を引き受ける仕事だし、花魁から信用されていないと務まらない。愛想と要領が良くて、世話好きで、気の利いた者に向いている役職だ。

 その点、仁兵衛はまさに二階廻しにうってつけと言えた。真面目だし目端がよく利いて、さらに頭も回るし兄貴肌。いずれ見世番を任されるのではないかともっぱらの評判だ。

 仁兵衛は台所をぐるっと見渡すと、太佑が皿に取っていたカステイラの切れ端を目ざとく見つけた。

「おっ、それは俺の大好物」

 止める遑(いとま)もあらばこそ、あっという間に寄ってきて、ひょいとつまみ上げて一切れくすねて行ってしまった。

「つまみ食いするんじゃねぇよ!」

 太佑が叫ぶと、仁兵衛はペロッと舌を出した。こういうところが憎めない。

「美味かったぜ! じゃあ今日も頼んます!」

 伊平次にぺこっと頭を下げると、仁兵衛はつむじ風のように出て行った。