吉原百菓ひとくちの夢



■ ■ ■


 大戸屋を引き連れた花魁道中がやってくると、見世の中はわっと活気づいた。

 さっそく二階では酒宴が催され、芸者が幾人も呼び寄せられた。

 座敷の上座には、きらびやかな着物と簪で飾った朝露と大戸屋が並んでおり、更に大戸屋の目の前には、お膳に乗った台の物――料理が並んでいた。

 美角屋で出すお膳は、いわゆる懐石料理の献立だ。

 今日の献立は、大戸屋が来るというので特に気合いが入っている。

 まず膾には、焼いた鮎の身をほぐして三杯酢で和えた物。

 椀盛は、魚のすり身を椎茸に詰めたものに葉物を散らしている。黒い塗椀に白と緑が鮮やかに映える。

 焼物に太刀魚の塩焼き。銀に光る身はまさに太刀とみまごうばかり。今が一番旬の魚だ。

 吸物には冬瓜を使い、透き通るまで柔らかく煮込んで、上方風のすっきりした出汁で仕上げている。

 口取は浅草海苔を醤油で煮た肴を出した。

 香の物には煮山椒と味噌漬けの茄子。

 そして飯には水煮の蕗を混ぜ込んである。

 そして最後に欠かせないのが、太佑の作った菓子である。

 季節のものが使われた、色とりどりの鮮やかなお膳は、食べる以前に見るだけでも楽しい。大戸屋はこの膳に、たいそう満足したようだった。

 そして宴もたけなわという頃合いで、仁兵衛は台所に若い衆をやって、カステイラを持ってくるように指示を出した。

 若い衆が硯蓋にカステイラを乗せてやってきて、朝露と大戸屋の目の前に置くと、宴席が一層華やかになったようだった。烏珠(ぬばたま)の黒に塗られた硯蓋に、切り揃えられた黄金(きん)色のカステイラが、輝くように映えていた。

 朝露は大戸屋に会釈した。

「勝様のお好きなカステイラでおざりんす。お召しなんし」

 朝露がそう告げると、大戸屋は相好を崩した。

「おお、以前食いたいと言ったのを、覚えていておくれだったかい」

 大戸屋は大きな手を伸ばすと、カステイラを一切れ取って頬張った。

「美味いねえ。長崎名物を江戸吉原で出せるだなんて、大したもんだ。なあ、仁兵衛よ」

 大戸屋は初会の座敷のときから世話をしている仁兵衛を、ことさらに贔屓している。何かと言えば仁兵衛を呼びつけて世話をさせる。そのたびに祝儀(はな)を握らせてくれるから、仁兵衛も大戸屋に呼ばれるのは好きだ。遊び方が派手なわけではないが、金離れが良くて気前がいい。

 仁兵衛はさっと大戸屋の横に寄り、空になりかけていた杯に酒を注ぎ足した。

「美角屋は、菓子作りの名人を抱えておりますゆえ」

「ああ、重畳、重畳」

 大戸屋は満足げに頷き、杯を干した。

「新吉原に移った昔は、各々の見世で料理をこさえていたというけれど、今はどうだい。てめえの所でこんなにきっちりこさえているのは、美角屋さんくらいだよ。他の見世はみんな台の屋に任せているから、どこに行っても代わり映えなんてしないだろう。だがそれじゃあ、つまらない。その点、美角屋さんは、ここと決めて通う甲斐がある」

「大戸屋様のような御名高き御通人(つうじん)のお褒めにあずかり、この上なき誉れにございます」

 仁兵衛は深々と頭を下げた。我ながら幇間(たいこもち)のような真似をして、と思ったが、大戸屋に褒められて嬉しい気持ちは本当だ。


 吉原では仲ノ町に近い見世ほど、格が高いとされている。

 そもそも見世には大見世、中見世、小見世とさらにそれより下の切見世がある。

 格が高い大見世などは、引手茶屋を通した身元の確かな客しか上げず、一見の客はまず取らない。対して小見世は半籬の向こうにずらりと並んだ遊女を眺めて、あの妓(こ)に決めたと声を掛ければ、一見の客でも登楼できる。切見世はそれよりさらに手軽で、しかし遊女の質は大見世の花魁と比ぶべくもない。

 その点、美角屋はというと、扇屋や三浦屋など有名な大見世には及ばぬ中見世の格ながら、しかし代々吉原に構えてきた老舗である。

 それに美角屋は中見世と言えど、客の質は大見世と比べてそうそう劣らない。それは大見世よろしく、とあるわけあって一見の客を上げずに、引手茶屋を介した客しか上げないからだ。

 そのわけとは、美角屋が中見世ながら特定の贔屓を捉えて離さないわけでもある。

 それが、大戸屋が褒めた「料理」である。

 大戸屋も言ったように、かつてはそれぞれの見世ごとに、台所で料理を作っていた。しかしいつしかどの見世も、料理は「台の屋」と呼ばれる仕出し屋に任せ、見世では遊女や働き手の食事と、簡単な汁物くらいしか作らなくなっていった。しかし台の屋の料理というのは、量が少なくてケチっぽくて、見た目ばかりがごてごてしていて、味もいまいちのくせに高い。宴席を盛り上げるためだけの、見栄を張るための料理だった。

 しかしそんな台の屋の料理も吉原遊びの興のひとつだ、と諦めて受け入れる向きが多かった。たとえ遊女に振られて寂しく一夜を過ごしても、揚げ代を払わねばならないように、この料理もこういうものだと思えばいい、と。

 そうして台の屋が勢いを増していく流れの中で、頑として店で料理を作ることにこだわったのは、美角屋の三代前の楼主だった。

 ――食事がお粗末だとせっかくの遊びも興覚めだ。見た目だけ派手で味のパッとしない台の屋の料理を、うちでは金輪際出させるもんか。毎日の食事にしたってそうだ。苦界を生きる花魁たちに、せめて食いもんだけでも、幸せを味わわせてやりたいじゃないか

 その楼主の言葉を、美角屋では今も大切に守り、料理番がすべてのお膳を任されている、吉原中でも珍しい見世となったのだ。

 しかも菓子作りの料理番がいるとなれば、それを目当てに物見高さで登楼したがる客も少なからずいる。そう思うと太佑に菓子作りをさせると言い張った松井屋は、先見の識があったと言えよう。

 大戸屋も最初は、珍しがって美角屋に登楼(あが)ったくちである。しかしその楼主の心意気を知り、また出される料理が気に入って、今ではすっかり馴染みとなった。

 大戸屋が美味そうにカステイラを食べるのを見て、禿のしづのとおだまがそわそわとしはじめたのを、朝露はさすがに見逃さなかった。

 今にも喉から手が出そうな様子の二人を見て、朝露はふっと笑みを浮かべた。

「お前たちも食べなんし」

 そのひと声がかかるや、しづの、おだまは大戸屋に深々とお辞儀をすると、カステイラへと手を伸ばした。

 硯蓋の上に残ったカステイラを、しかし朝露はじっと見つめて、自分は手を伸ばそうとしない。そのことに気が付いたのは、目端のよく利く仁兵衛だった。

「花魁はお召しにならないんですかい?」

 仁兵衛がそう聞くと、朝露は愛想笑いと分かる笑みを浮かべた。

「あとからいただくざます」

 その目がやけに遠いところを見つめているように見えたのが、仁兵衛の気にかかった。

 どこか沈んだような朝露の横顔を、仁兵衛は訝しそうな顔で見た。


■ ■ ■


 もう追加の膳を頼まれることもない時間となると、料理番たちは明日に向けて、食材の仕込みをしたり、使った食器を片付けたりだ。

 太佑も調理台の隅で帳面を広げ、余白に小さく書き込みをしていた。

(卵が十八、麦の粉八合、砂糖六十匁……卵を増やしたのが良かったか)

 今日のカステイラは上手くいった。だがいつもが上手くいくわけではない。同じ分量で同じように作っているつもりでも、季節や天気や食材の良し悪しに左右され、上手くいったりいかなかったりする。だからこうして、その日の天気や分量を、暇があれば書き溜めておく。そうして最良の作り方を探すのだ。

 あのカステイラは、大戸屋の口に合っただろうか。他所で食べられるカステイラというと、もう少し固くて甘味も薄い。しばらく登楼しなかった間に他所のカステイラを食べ慣れでもして、太佑のカステイラを「こんなふわふわしたもんを出されると、どうにも落ち着かないねえ」なんて言われたら、作り方を変えねばならないかもしれない。だが、太佑はあのしっとりふわふわした甘いカステイラが一番美味いと思うのだが。

 帳面を前に太佑が筆を遊ばせて唸っていると、台所の入口に、仁兵衛がひょっこり顔を出した。

「太佑、おい、太佑」

 太佑が顔を上げると、仁兵衛は入口で手招きをした。

「何だ。カステイラの余りならもうねぇぞ」

 そう言うと、仁兵衛は違う違う、と首を振った。

「そうじゃねぇ。あのな……朝露花魁が、食わんかったんだ、カステイラ」

「へえ。そうかい。残念だったな。今日のは上手くできたから、食ってほしいと思っていたのに」

 軽く返すと、仁兵衛は意外だというような顔をした。

「驚かないのか?」

「別に。数が足りなかったってだけだろう? もっと作ってやれたら良かったんだけどな」

 仁兵衛がやたら声を潜めて悩まし気な顔をする意味が、太佑には分からない。

「それがな……」

 仁兵衛はさらに声を潜めて、太佑に顔を近づけた。それに押され、太佑は思わずちょっとのけぞった。

「何だよ。こっちは忙しいんだ。話はさっと済ませろ、さっと」

 すると仁兵衛は小声で囁いた。

「数は足りてたんだよ。少なくとも花魁の口に届くくらいには」

「……つまり何だい」

「つまりあのな、俺が見ている限りだが、朝露花魁はお前の菓子を食ったことは一度もないんじゃないかと思うぞ」

 一瞬、言われている意味が分からなかった。

「一度も、食ったことがない……?」

 口に出すと、じわじわと意味が追いついてきた。

 太佑は驚きに目を見開き、仁兵衛を見た。

「一度もか」

「一度も、だ」

「一口もか」

「一口も、だ」

「何でだ」

「俺が知るかよ」

 仁兵衛のつれない返事に、太佑は口をへの字に曲げ、しかめ面を作った。

 仁兵衛はここにきてまだ五年ほどだが、人をよく見ることにたけた男だ。それは太佑もよく知っている。二階廻しとして花魁からも客からも贔屓されている仁兵衛の言うことなら、きっと間違いない。

 でも……。

「何でわざわざそれを俺に?」

 そう聞くと、仁兵衛は腕を組んで首を傾げた。

「さあな。ただ、教えておかなきゃならんと思ったんだよ。何となくな」

 仁兵衛は軽く笑って太佑の肩を軽く叩くと、再び二階へ上がろうとしたが、数歩進んで足を止めた。

「あ、でもなあ。大戸屋様は大層お喜びだったぞ、本場長崎顔負けだ、ってな。朝露花魁へのご贔屓も増すってもんだ」

「……そうかい。教えてくれてありがとうよ」

 仁兵衛は軽く片手を上げると、身軽に階段を上っていった。


 仁兵衛が去ったあと、太佑は再び帳面と筆を手に取ったが、手を動かす気になれず、ぼんやりと宙を眺めていた。さっきまで考えていたことが、全部吹っ飛んで行ってしまった。

(朝露が、俺の菓子を――しかも一度も、食べていない?)

 そんなこと、思ってみたことすらなかった。

 まるで何も手につかない。

 ぼんやりしたままの太佑を見かねてか、調理台に置いたままだった水に浸かった小豆を見て、末吉が太佑の方を見て叫んだ。

「おい、太佑! この水に浸けている小豆、お前だろう。そろそろ水吸ってるぞ、煮てやれや」

 太佑はハッと顔を上げ、帳面と筆を置き、立ち上がった。

「おう、ごめんよ」

 そうだ、ぼんやりとしている暇はない。

 食わない者がいたとしても、明日は必ずやってくる。明日の仕込みを終わらせないと、明日を安心して迎えられない。

 太佑は水に浸けていた小豆をザルに上げ、水を切ると、甕から水を掬って掛け、表面を洗った。この小豆を煮て、明日使う餡を作るのだ。

 鍋に水を計り入れ、かまどへ運ぶ。火を吹いて大きくし、煮え立つまで時々混ぜてやる。

 ――朝露花魁はな、食わんかったぞ、カステイラ

 仁兵衛の声が、耳の奥から離れない。

 鍋の中の小豆が、次第に煮えていく。

「……朝露は何で食わねぇんだ」

 ふつふつと煮える鍋の中を見つめながら、太佑は呟いた。

 今日食わなかっただけではない。昨日も、一昨日も、その前も。ずっと食っていなかったと仁兵衛は言った。

 いつから食っていないのだろう? どうして食っていないのだろう?

 まだここに来たばかりの禿のとき、太佑の作った餡を「美味しい」と言っていたあの少女は――太佑が大事にしてきた思い出は、幻だったとでも言うのだろうか。

 太佑は煮え立つ鍋の表面を、ぼんやりと眺め続けた。


 やがてカ、カ、カ……と夜四ツ(午後十時)を知らせる柝(き)の音が響いてきた。

 今日は客も少なく、台所も暇だった。もう他の料理番は皆早々と片付けて、部屋へ眠りにいっている。

 誰もいない台所で、太佑は一人で鍋をかき混ぜていた。鍋の中では、煮えた小豆に砂糖が加わって煮詰まり、表面がつやつやと輝いている。

 太佑は鍋をかまどから下ろすと、しゃもじで練り、粗熱が取れた頃合いで蓋をした。

(これで、何を作ればいいんだ……)

 明日使うつもりで餡を作っていたはずが、ぐるぐる考え込んでいるうちに、明日何を作るつもりだったのか分からなくなっていた。

 太佑はかまどの火の始末をして、中庭に出た。


 中庭に出ると、昼間の暑さはどこへやら、涼しい風が吹いていた。辺りが一面濡れている。あの後、夕立が来たらしい。台所にこもりきりで気付かなかった。

 今はすっかり雲も晴れ、星がちかちかとまたたいている。わずかに届く星明りと、どこかの部屋から漏れてきている灯りで、彼岸花がぽうっと照らし出されていた。

 太佑は井戸端にしゃがみこみ、彼岸花を見つめた。

「咲いたかい」

 指先で、愛おしむように花に触れる。赤い火花のような花弁がそっと揺れた。

 そのとき、後ろで物音がした。振り返ると、勘助が眠そうな目をこすりながら勝手口に立っていた。

「やっぱりまだ起きてたんだ」

 太佑は手を引っ込めて、しゃがんだままで勘助を見上げた。

「わざわざ起きてきて、どうした」

 勘助は太佑の顔をうかがうようにじっと見た。

「いや、さっきお前が浮かない顔をしてたから、気になって」

 太佑はドキッとした。勘助はこういうとき、案外鋭い。

「別に……何もねぇよ」

 そう答えるしかなかった。まさか「朝露が菓子を食ってくれないのは何でだと思う?」などと、聞けるはずもない。

 太佑がそのまま黙っていると、勘助は彼岸花に目を留めた。

「お、そんなところに出てたんだ」

 勘助は咲いた花を一本折り取って、足元の水溜りに投げ捨てた。

「何すんだ。せっかく咲いたのによ」

 思わず、少し強い口調になっていた。だが勘助は悪びれる風もなく、さらっと言った。

「縁起が悪いだろう、あの花は。火事を呼ぶんだぞ。俺の郷里(くに)ではそう言ってた。ばあちゃんにそう聞かされた」

 確かにそうだ。忌み嫌われる花だ。決して万人から「よくぞ咲いた」とは言ってもらえない。でも。

「でも……綺麗だ」

 勘助に悪気がないのは分かっているから、腹は立たなかった。ただ、その名と付きまとう迷信で、美しさをまっすぐに見てもらえない花が、少しばかり哀れになった。

 小さな灯りを撥ね返して、水溜りがきらきらと輝く。そこに落ちて濡れた彼岸花を見て、勘助はポツッと口を開いた。

「真っ赤な着物で、池に浮かんでたんだってな」

 何のことかと一瞬思ったが、すぐに昼間の遊女の身投げの件だと分かり、太佑は顔をしかめた。忘れかけていたモヤモヤが、再び胸の中に広がっていく。

「そういう話は止めろ――化けて出られたらかなわねえ」

 すると勘助は素直に「ごめん」と言った。

 胸の中にわだかまる痛みを噛みしめながら、ああ、そうか、と太佑は思った。このモヤモヤの正体がようやく知れた。

 太佑はあのとき、勘助の呑気な口調や野次馬の物見高さに苛立っていたわけではなかったのだ。非業の死を遂げる女を、当たり前のものとして扱うこの街に――いや、それを当たり前としたくないと胸を痛めておきながら、いつの間にか心の片隅に追いやって忘れてしまう自分の鈍さに、苛立っていたのだ。

 考え込んで黙ってしまった太佑に向かって、勘助はおずおずと話しかける。

「……なあ、太佑」

「何だ」

「昔の楼主が、『苦界を生きる花魁たちに、せめて食いもんだけでも、幸せを味わわせてやりたい』って言ったおかげで、俺たち料理番がこんなに大忙しだけどさ」

「ああ」

「どれだけ幸せにしてやれてるんだろう、俺たちは。たかが料理で。そう思っちゃったんだよ、昼間のあれを見てさ。俺たちが料理を作って、意味ってあるのかな。俺たちが懸命に励む意味って、ちゃんとあるのかな、ってさ」

 勘助がそんなことを考えていたとは思わなかった。

 太佑はちょっと下を向き、呟いた。

「勘助、俺はな、自分が本当はいなくてもいいと思ってる」

「え?」

 勘助はぱちぱちとまばたきをした。太佑は空を仰いで大きく息を吐いた。

「生きるためには食わなきゃならねぇ。でも生きるためだけに食うのは味気ねぇ。食事は楽しみであるべきだ。だから料理番が精いっぱい腕を振るうんだ。そうだろう?」

「うん」

「そこでいくと、菓子なんざ生きるために欠かせないものじゃねぇ。菓子があるから幸せになれるとは限らねぇ。そんな無くてもいいようなものばっかり作り続けている俺なんて、いなくても構わない。そんなことを思ったりもする――でも、ある日疲れ切ってるときに、口に放り込んだ菓子がめっぽう美味くて、『ああ、明日もまたこんな美味いもんを食えるならもう一日生きてやろうじゃないか』なんて思うことがあるかもしれねぇ。たとえそこまでいかなくとも、毎日のちょっとした楽しみがあれば、張り合いってもんが生まれるだろう。そんな小さな、幸せのきっかけを作りたくて、俺は菓子を作ってる。料理も同じだ。毎日が毎日、美味いと思ってもらえなくてもいい。ただ、ふっとしたときに『ああ、美味かった、また食いたい』と思ってくれりゃ、十分じゃないのか」

 勘助は、ポカンとした顔で太佑の話を聞いていた。

「太佑、そんなこと考えていたんだねえ」

「まあな」

 ちょっと格好をつけた部分もあるが、本心だ。生きるための食事ではなく、楽しみのための菓子を作りたい。楽しみがないと、幸せがないと、人は生きていけないものだと思うから。

(でも、そもそも食ってくれなきゃ、幸せも何もあったもんじゃねぇんだがな)

 つい、朝露のことを考える。

「どうやったら食ってくれるかなあ……」

 つい口に出して呟いていた。

「え? 何か言ったかい?」

 勘助にそう言われ、太佑は首を振った。

「何も言ってねぇよ」

「何だい、気になるじゃねぇか」

「だから、何でもねぇ」

 今夜はもう仕度も終えたし眠ってしまおう――太佑は踵を返し、台所へと戻っていった。


 誰もいなくなった中庭に、気の早い虫の声がこだまする。

 水溜りに落ちた彼岸花の花びらを、水滴がひと粒、伝い落ちた。


 明け六ツ(午前六時)の鐘が鳴る頃、太佑はかまどの前に立ち、もどした寒天と水を鍋に入れ、火にかけていた。

 鍋の中で寒天が溶け、透明になっていく。

 勘助がやってきて、太佑の手元を覗き込んだ。

「お、寒天だ。何を作るんだい?」

「金玉(きんぎょく)羹でも作るかなと思ったけどよ、どうしたもんかなあ」

 金玉羹は、琥珀羹とも言う。溶かした寒天に砂糖を混ぜて型に入れ、練り切りで金魚や青葉をかたどったものを沈めて固める。透明な水流を思わせる寒天の中に、形に遊びのある練り切りが透けて見えるのが楽しい、目にも涼しい菓子である。去り行く夏を楽しむには丁度よかろうか、と思ったのだが。

 だが、どうしたものか、と悩んでいる。

「どうしたって、何が」

 勘助にそう訊ねられ、太佑はうーん、と唸り声を上げた。

「いや、何でもねえ」

 何も作る気が起きないのだ、などとまさか言えるはずがない。

「ふうん?」

 勘助は不思議そうな顔をしつつ、末吉の横に座って野菜の皮を剥き始めた。

 頭の中がモヤモヤする。太佑は寒天の鍋を火から下ろし、ふらっと中庭に出た。


 井戸端の草花に、露がとまっている。

 昨日餡を作るのに使った鍋を井戸端で洗いながら、太佑は大きなあくびをした。頭がこんなにすっきりしないのは、昨日はあまり眠れなかったのもあるのだろう。

 すると、上から笑いを含んだ声が降ってきた。太佑が見上げると、朝露が欄干に身を預けて、二階から太佑を見下ろしていた。

 二階では、見世の若い衆が、忙しそうに座敷の片づけを行なっている。その慌ただしさからひとり切り取られたように、ゆったりと寛ぎながら、朝露はスッと手を伸ばし、太佑の足元を指さした。

「その花を、取ってくださんし」

 太佑は指さされた足元を見た。

 そこには、一輪残った彼岸花が花を開かせていた。

「これかい?」

 太佑が躊躇いながら彼岸花を折り取ると、朝露は投げろ、という風に手真似をした。

 投げ上げた彼岸花は宙を舞い、二階の欄干を越えて、朝露の膝の上にぽとりと落ちた。

 朝露は花を拾い上げ、両手で包むように持った。

 太佑はこの花が好きだ。だが、それを明かさず聞いてみた。

「こんな縁起の悪い花、何で欲しいんだい?」

 すると朝露はかすかに笑った。

「たしかに死人花(しびとばな)、剃刀花、忌み嫌う名はたくさんございますな。でもわっちは、この花が好きでありんす」

 朝露はそう言いながら、花の茎の根元の方を小さく折った。

 何をするつもりだろう。太佑は思わず目を凝らした。

 太佑がじっと見つめる中、朝露は彼岸花の茎を左右に小さく折っていった。

「彼岸花は、葉見ず花見ず――花と葉が相想い合いながら相見(まみ)えぬ花」

 朝露の手の動きが止まった。彼岸花の折った茎が残った皮で繋がっており、簪から垂れる垂れ糸飾りのようになっていた。

「小さい頃はわっちも、この花でこうして、花簪を作って遊びんした」

 朝露はそう言うと、彼岸花を簪の合間に引っ掛けるようにして、髪に挿した。

 黒い髪と鼈甲の簪に挟まれて、赤い彼岸花がくっきり映えた。

 無言でそれを見つめる太佑に、朝露はなおも話しかける。

「ゆうべは美味しいカステイラを、ご苦労さまでおざんした。勝様もお喜びでありんした」

「……そのことだが」

 太佑はハッとした。

 ――本当は食わなかったんじゃないのかい?

 ――俺の菓子を食ってないってのは本当か?

 聞いていいのか分からない――答えを聞くのが怖いような問いが、頭の中をぐるぐるとよぎっていく。

 どう切り出せばいいのか、何から聞けばいいのか。太佑が言いよどんでいると、仁兵衛が朝露に煙草盆を持ってやってきた。

「おう、太佑かい」

 朝露は煙草盆に手を伸ばすと、煙管を手に取り、一服吸いつけた。

 太佑は仁兵衛を見て、朝露を見た。

「仁兵衛に聞いた……カステイラを食わなかったんだろう?」

 口に出すか迷っていた言葉が、ひとりでに口をついて出た。

 朝露は仁兵衛をちらっと見た。

 仁兵衛は恐縮するように朝露に向かって頭を下げた。

「すみません……でも、せっかくなのにお召しにならないんで、気になって」

「どうなんだい。カステイラだけじゃない。仁兵衛の話だと、これまでも食ってなかったというじゃないか」

 朝露は、空を見つめるような遠い目をして黙っていた。

 太佑は焦れて、朝露の返事を待たずに口を開いた。

「甘いものが、嫌いになったかい。なら甘くないものを作ってやる」

 すると朝露は小さく首を振った。

「そういうわけではおざんせん」

 これまでも食わなかっただろうという問いに否と答えないということは、やはり仁兵衛の言った通りか。太佑は、ちょっと考える。

「でも、他の料理は食うんだろう?」

 すると朝露は頷いた。

「わっちも人の子、おまんまをいただかねば生きていかれやしぃせん」

「なら、菓子だけを食わないわけがあるのかい」

 そう聞いたが、朝露は顔つきを変えず、黙ったまま煙管をふかした。だんまりを決め込むつもりらしい。

「じゃあ……」

 これでそうだと言われたら、もう打つ手がないと思いながらも、これだけは聞かねばなるまい、と口に出した。

「……じゃあ、俺が気に入らないかい」

 すると朝露はくすっと笑い、小さく首を振った。

「まさか。そういうわけでもおざんせん」

「ああ、もう、何だってんだ」

 太佑は頭を掻きむしった。

 甘いものが嫌いではない。

 普通の食事はいつも通りに食う。

 太佑が気に入らないのでもない。

 ならば、なぜ? なぜ朝露は、太佑の菓子を食わないのだ。

 昔あれほど美味そうに食っていたものを……。

 事の成り行きを見守っていた仁兵衛は、太佑と朝露を交互に見て、機嫌を取るような声を出した。

「な、なあ、まあこの話は長引きそうだ、一旦ここで仕舞いにしないか」

「仁兵衛は黙っててくんな」

 太佑が即座にぴしゃりと返すと、仁兵衛はちょっとばかり気を悪くしたようだった。

「へえへえ、余計なお世話でございましたよ」

 ムッとしたような顔をし、太佑に向かって舌を出す。

 太佑はそれに取り合わず、しばらく目をさまよわせていた。

「……食わねえってんなら、食わせてみせるよ」

 言葉がぽろっと口から出た。

 太佑は朝露を睨み上げた。

「何で食わねぇのかは知らねぇが、食ってもらうのが俺の仕事だ。思わず食いたくなるようなもん作って、美味いって言わせて、その澄ました笑い方ばっかりしてる顔を、昔みたいな満面の笑顔にさせてやる」

 考えて出た言葉ではない。売り言葉に買い言葉、とばかりに口からついつい出た言葉だ。

 朝露は珍しく、一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐに少し困ったように眉を寄せてみせた。

「わっちはきっと、食べんせんよ」

「構わねぇ。それでも、食わせてみせるって言ってんだ」

 太佑は拗ねたままの仁兵衛をちらっと見やった。

「俺は座敷に張り付いてるわけにいかねぇから、食ったかどうかが分からねぇ。見届けは仁兵衛がやってくれ。頼まれてくれるかい、仁兵衛」

 すると、頼られるのが好きな仁兵衛は、たちまちに機嫌を直したようだった。

「おう、そういうことなら、任された!」

 どん、と胸を叩いて引き受けた。

 話に切りがついたと見るや、朝露はスッと立ち上がり、彼岸花の簪に手を添えながら、澄まし顔で部屋に下がっていった。

 その場に残った仁兵衛が、太佑を見て呆れたような声を上げた。

「食わないって言われてるのに、食わせてみせるだなんて啖呵を切って。お前、大丈夫なのかい」

 そう言われ、太佑はムッと口を尖らせた。

「菓子を作るのは俺の仕事だ。菓子を食ってもらうのもな」

「はいはい、分かったよ」

「おい、何だ、その言い方は」

 苦笑い気味に言われたのが気になる。だが太佑が文句を言う前に、仁兵衛がひらりと手を振った。

「おっと、俺は忙しいんだ。じゃあな」

 仁兵衛は煙草盆を持って、あっという間に座敷へ下がっていった。


 太佑はしばらくその場から動かずに、じっと空(くう)を見つめていた。

(食わねえってんなら、食わせてみせる)

 太佑は手のひらに目をやって、ぐっと拳を握り締めた。

 この手で作った菓子を食わせてみせる。

 最初のときに見せたような、あの笑顔をもう一度見たい。

 あの時、朝露は心の底から幸せそうに見えた。あのときの笑みをもう一度、取り戻す。


 足元の水溜りに、彼岸花が落ちているのを目に留めた。昨日、勘助が手折った花だ。

 花はすっかり泥にまみれていた。

 太佑は彼岸花を拾い上げると、空いている桶に水を汲んだ。花の泥を洗い流して、桶に花を投げ入れる。

 水に濡れた彼岸花が、光を跳ね返してきらきらと輝いている。

 まるで花がぽたぽたと涙をこぼしているように見えた。

 太佑は井戸に背を向け、台所に戻っていった。