吉原百菓ひとくちの夢



   【第二章 春待酔狂椀中蕾(はるまつすいきょうわんちゅうのつぼみ)】



 当世、浮世絵で流行りの題といえば、役者絵、花魁と相撲取りである。

 歌舞伎役者・市川團十郎、吉原一の遊女・扇屋花扇、連勝中の大関――後に横綱となる――谷風梶之助の三人を集めた「江戸三幅対」という絵を、浮世絵師の勝川春好がものするのは、これより数年後の世の話にはなるのだが、多くの浮世絵師が名作を世に送り出した時代であった。


 吉原に働く者としては、毎日花魁と顔を突き合わせていれば、わざわざ絵を買ってまで眺めたいとも思わない――と太佑は思っていたのだが、この前、若い衆の雑魚寝部屋で、勘助の荷の中に、意外なものを見つけてしまった。

「これは……」

 まさに流行りの役者と花魁と力士が集った浮世絵が、赤い布に包まれて大切そうにしまい込まれていたのだった。

 物好きな、と思ったが、他人の趣味に口出しするほど野暮なことはない。別に誰に迷惑が掛かるものでもない。

 布を丁寧にかけ直してやって、何も見なかったふりをして、それきりで忘れてしまうほどに、ささいなことだった。


 冷え込みもきつくなり、雪がちらつく日も珍しくない。

 台所は火を使うといっても、足元の寒さは防げない。野菜を洗うにも冷たい水を使わねばならない。どれだけ気を付けても、手にはあかぎれひび割れができるし、足の指はしもやけだらけだ。

 それでも遊女たちよりはましかもしれない。遊女は真冬でも足袋をはかない。素足の白いのが着物の裾から見えるのが粋だといって、一年中を素足に草履で過ごす――せめて食べ物で身体の芯から温まれるよう、温かい料理を多くしたり、体を温める食べ物を多く使ったりするのが、料理番の太佑たちにできることだ。

(今日は何を作ろうかなあ……)

 昨日、サツマイモのいいのがたくさん入ったから、それを使って何か作ろうか。

 今にも雪の降り出しそうな、低くどんよりとした空を見ながら、太佑はぼんやりと考えた。

 朝露が菓子を食べるそぶりは、依然ない。だが料理番としては、毎日何かしらを作り続けて、食べてくれる日を待つしかない。

 今日作る菓子を決めた太佑は、分量を書き付けた帳面を取りに、台所へ向かった。


 その晩のことだった。

 その日は、客が多かった。こう寒い日が続いていると、人肌が恋しくなるものなのだろうか。美角屋に限らず、どの見世もよく繁盛していた。

 夜見世が始まって一刻ほども過ぎた頃である。最初のお膳を出し終えて、太佑たちが一息ついていたときだった。

「お、いたいた!……あ、分かった。あの背の高いのだろう?」

 客と思しき男が、のれんを勢いよく跳ね上げて台所に入ってきた。足元に置いてあった草履を適当につっかけて、遠慮なく踏み込んでくる。

 こういうとき、一番に嫌そうな声を上げるのは末吉だ。

「お客様、ここは台所ですよ! お引き取り願えませんかね!」

 酔ってんのか、めんどくせぇ、と小さい声で付け足した。確かに頬が赤く染まって、やたら上機嫌だ。

 男はしかし末吉の言葉など聞こえていないかのように、太佑の方に寄ってきた。後から慌てて二階廻しの仁兵衛が台所に飛び込んでくる。

「困りますって、徳之進様!」

「何が困るんだい。全然邪魔をするつもりなんてないんだから」

 徳之進、と呼ばれた男は、飛びつくようにして止める仁兵衛の頭をポンポン、と子供をあやすように叩き、太佑の方に向き直った。

 その眼(まなこ)の鋭さに、太佑は一瞬気遅れした。

 背は太佑と同じくらいあるから、かなり上背のある方だ。まだ若い。おそらく太佑より二つ三つほど上で、三十路には入っていない頃と見た。すらっとしているが細っこくはない。広く作った月代の上に、はけ先をちょいと曲げて細めの本多髷を乗せた様は、いかにもこざっぱりとしていて、歳の程に似合わぬ洒落者である。顔のつくりは華やかで、鼻筋が通ってくっきりとした、歌舞伎役者のごとくととのった顔立ちだ。

 だがやはり何と言っても、一番目立つのはその眼光だ。カッと見開かれた大きな目は、向けられた者を固まらせる。不思議と目を引く男だった――その目を見ていると、酔いどれの客が羽目を外して入ってきたのではないと知れた。酒の匂いはさせているが、この男は酔っていない。

 ただ、酔ってもいないのにこんなにところへずかずかと入ってくるということは、よほどの変わり者で面倒くさい人間だということも意味していた。

「いや、あんたかい。噂の、菓子の料理番。今日のあれ、何ていうんだい、ものすごく美味かった!」

 男は勢いよく太佑の手を取って、ぐっと握る。だが男に手を握られて喜ぶ趣味は太佑にはない。スッと手を抜いて、思わず一歩下がって距離を取った。

「砂糖芋……ですが……」

 砂糖芋とは、サツマイモで作る蒸し菓子だ。

 まずサツマイモを生ですりおろして水に入れ、布で漉す。漉した水をしばらく置いていると、白い濁りが底に沈んでくる。これが芋の精(デンプン)だ。この精を天日で乾かしたものは葛の代わりにも使えるので、太佑は暇な時に作り溜めている。

 この以前に作り置いていた芋の精と、砂糖や麦の粉を混ぜ合わせ、今日入ったサツマイモを茹でて潰したものも混ぜて、杉箱に布を敷いた上に流し入れる。そして中身に火が通ってふっくらしてくるまで蒸籠で蒸し上げる。太佑はさらにこの上に、芥子粒をまぶすのが好きだ。てらっとした表面に芥子粒が散ると、ぐっと引き締まる。太佑の得意菓子のひとつだった。

 徳之進は菓子の名前を聞くと、何がそんなに嬉しいのかと思うほど、顔をクシャッとさせて笑った。

「砂糖芋かあ。でも名前がつまらないね。もっと味わいのある名前を付けたらいいのに。ね、そう思わないかい、仁兵衛さん」

 必死で台所から連れ出そうとする仁兵衛に、徳之進は相槌を求めた。

 仁兵衛は泣きそうな顔になっている。

「ええ、左様でございますね、徳之進様! だから早くこんなところ出て、座敷にお帰りになってくださいませんか!」

 仁兵衛の悲鳴もどこ吹く風といった様子で、徳之進は太佑に一歩詰め寄った。

「お前、他に何が作れるんだい」

「……まあ大抵のものは、作り方さえ分かるなら作りますが」

 料理に金を掛けている美角屋だが、金に糸目をつけないわけではない。

 むしろ派手なものではなく、季節に合わせて良いもの美味いものを出すことを一番に考えている。だから食材も、鶴やアワビのような高くて変わったものを使うわけではない。ただ、珍しいものが手に入ったら、料理番の腕の見せどころだとばかりに、皆が俄然張り切るのは確かだが。

 徳之進はちょっと考えるようなそぶりをして、うーん、と唸った。

「なら今度、もっと色々作ってよ。ほら、きんつばとか俺、好きだなあ」

 きんつばは吉原で人気の菓子である。「年季増しても食べたいものは 土手のきんつば さつまいも」などという歌もある。遊女が余計な金を使えば、その分、年季明けは遠くなる。それを分かっていても買って食べたいほど、きんつばというのは美味いものだ――そんな売り込みの謳い文句だ。

「まあ、作れないことはないですが……」

 すると、徳之進がまた顔をクシャッとさせて笑った。

「本当かい。ねえ、名前は何ていうんだい?」

「太佑……です」

 つい、答えさせられてしまっていた。この鋭い目が厄介だ。目を向けられるとドキッとして問われていないことまで思わず白状してしまいそうになる。

「たすけ、か。どういう字を書くんだい。太いに助けるか?」

「いえ、こう……」

 太佑が宙に文字を書くと、徳之進はニヤッと笑った。

「読み書きは満足にできそうだね。なら次来るときは文を送るから。花魁にじゃなくて、お前にだ。きっとだよ。美味い菓子を食わせてくれ」

 そう言うと、徳之進は素直に仁兵衛に引っ張られるようにして、機嫌よく台所から出て行った。

「何だったんだい、あれは……」

 小心者ゆえ台所の隅に逃げていた伊平次が、やっと声を出した。そこにいたのか、と太佑は思った。二階のお膳の手伝いをしに勘助が出払っているから、伊平次もてっきりどこかに行ったのかと思っていた。

「ただの酔っ払いでしょう」

 末吉はすげなく返す。

「いや、酒は入っているが、酔ってる風じゃなかったんだ。喋り方もしっかりしていたし」

 太佑がそう言うと、末吉は、皮肉げな笑いを浮かべた。

「酔ってなくてあれなら、どこかおかしいお方なんだろうよ。絡まれて災難だったな、太佑」

「ああ……うん」

 それにしても何だったのだろう。太佑が首をひねっていると、仁兵衛が再び顔を出した。

「いやあ、すまん! 本当にすまん! 俺の力では止められなかった!」

「仁兵衛、さっきのは何事だい」

 とにもかくにも謝る仁兵衛に聞いてみれば、さっきの徳之進という客は、今日が初会の客だった。

 まだ若いだろうと見ていたが、当年二十七だという。新川の酒問屋の跡取り息子で、大戸屋と商売で付き合いがあり、「美角屋はそこらの料亭顔負けだ」と聞いて、気になって遊びに来てみたのだと、引手茶屋からは聞かされたらしい。

「それで、菓子だけを作る料理番がいるとも聞かされていたみたいでさ。初会で顔合わせは済んだし、もうやれることもないからその料理番に会わせろ、とか言いだして。座敷をあっという間に飛び出したもんだから、さしもの朝露花魁も目を丸くしていたよ」

 何やら、厄介な客らしい。でも大戸屋の口利きなら、ただの変人ではないのだろう。

 その夜はそれきり静かなものだった。


 はたしてそれから二日後に、太佑の元に文が届いた。当然、徳之進からだ。

 文といえば飛脚屋が届けるものだが、吉原には特に「文屋(ふみや)」と呼ばれる者が出入りする。

 遊女の文は、書き終えてからくるくると巻き、紅を刷いた口でぎゅっとくわえる。そして文を受け取った者が来るようにと念じながら、二度息を吹き込んでおく。この紅が付いた文を「天紅(てんべに)の文」と呼び、もらった男は大層喜ぶものとされていた。この遊女らが客に宛てて書いた天紅の文を集めて届けに行き、またその返事を貰って遊女に届けるのが文屋の仕事だ。

 大切な文だ。信用がおけて、出来るなら足の速い者に託して、一刻も早く相手に届けてほしいと思うのが人情だろう。

 美角屋に出入りする文屋は数人いるが、朝露が使うのは、喜作(きさく)という文屋と決まっている。足の速さは折り紙付きだ。

 その喜作が、今日は二階へ上がったかと思うとすぐ下りてきて、台所の太佑に文を持ってきた。

 喜作は苦笑いしながら、太佑に文を差し出した。

「俺もこの商売始めてそれなりになるけどよ、初耳だぜ。料理番に文を送るなんて旦那はさ」

「俺も初めてさ」

 太佑はおそるおそる文を開いた。もし読まないで置いていたら、文が「読んでくれないのかい?」とでも喋り出しそうに、いやに主張をしてくるのだ。

 その凄みの正体は明白だ。徳之進の字だ。

 金釘流、とまでは言わないが、えらく角ばってガタついた、良く言えば大胆な――しかし素直に「下手」と呼ぶべき文字だった。

「せっかくの色男なのに、字がこれじゃねえ」

 太佑が読み終えてもいないのに、伊平次が横から文を取り上げて、近づけたり遠ざけたりしながら眺めている。それを横から覗いた末吉は、ふん、と鼻で軽く笑った。

「文を書いて寄越す、なんて言っておいてこの手蹟(て)じゃな。どうにもお粗末じゃねぇか」

「禿の手習いといい勝負ですね」

 勘助までが、酷い言い草だ。

「まあ、俺は読めりゃ何だっていいよ」

 ここまで悪しざまに言われていると、つい庇いたくなってしまう。

 太佑の横から文を覗き込み、伊平次が問う。

「で、何だって? あの徳之進様とやらは」

「……明晩、裏を返しに向かう心づもりにて候、きんつばを食わせてほしく云々、みたいなことが、くどくどと」

 格の高い花魁は、初会の客とは床入りしないどころか口も利かないのが通例だ。初会は顔を合わせるだけで、そこから数日経たないうちに再び登楼することを「裏を返す」という。裏を返してもまだ床入りには至らない。さらにもう一度、三度目の登楼を行なってこそ、客は初めて「馴染み」となる。

 馴染みともなれば夫婦同然。ようやく床入りに漕ぎつけるし、客に出されるお膳の箸袋には、客の名前が書いてある。それまでまともに口をききさえしなかった花魁も一気に客に打ち解けて、冗談を言って笑い合ったりする仲になる。

 裏を返すということは、つまり徳之進は朝露のことを気に入って、馴染みになりたいと申し出たということだ。

(あれ(・・)がまた来るのか……)

 やたらと絡んでくるあの客が馴染みになっては、太佑に限らず料理番たちも振り回されることになりそうだ。

「しかし、本当に送ってくるとは思わなかったよねえ」

 勘助が文を覗き込み、しきりに首を傾げながら、指先で空をなぞるような仕草をする。どう見ても何と書いているか読めない字があるのだろう。実を言うと太佑も、読めない字がいくつか混ざっていた。難しいからではない、もちろん、字が下手だからだ。前後の字から推し当てするしかない。

「この先ずっと、毎度これだと気が滅入るな……」

 ついつい太佑がそう漏らすと、喜作は口元を押さえ、おかしそうに噴き出した。

「まあ、変わった旦那だよな。で、返しの文は届けるかい?」

「要らねぇだろう。来るってんなら、俺は菓子を作って待つだけだ」

「はいよ」

 言うや、喜作はひょいひょいと二階へ向かってしまった。遊女らが客にしたためた文を、集めに向かうのだろう。

 喜作が去ったのを見送ると、太佑は小豆を水に浸ける用意をし始めた。


 そうして、徳之進が裏を返しに来る日がやってきた。水に浸けた小豆を餡に煮て、きんつば作りに取り掛かる。

 きんつばは、その名の通り、刀の鍔のような形に作る菓子だ。

 大した手間や技は必要ない。餡を平たく丸く、鍔の形にしたものに、麦の粉を水で溶いた衣を薄く付けて、薄く油を引いた鉄鍋の上で、衣が固まるくらいに焼き上げる。

 徳之進も言っていたが、吉原で人気の菓子である。固すぎもせず、柔らかすぎもしない、薄い皮をぷつっと噛み切るときのあの歯ごたえと、口の中で甘くほどけて広がる餡の取り合わせが楽しい菓子だ。

 焼きすぎると皮が固くなるし、焦げ色が付きすぎるより白い方が見栄えがいい。徳之進が来るという日の夕方から、太佑は餡を丸めては潰し、衣をつけて、次々きんつばを焼き上げていった。

「あのお客、これで本当に満足してくれるかねえ……」

 いつものように何かと不安がる伊平次を、太佑は小さな溜息と共に追い払った。

「満足してくれなきゃ困ります。きんつばを作れって言ったのは先様なのに、文句を言われちゃ敵わないですよ」

 とはいえ、今夜はきっと、静かには終わってくれそうにない。あの客が、また台所に顔を出さないはずがない。


 その思いを見事に裏切らず、徳之進はまたしても、お膳を出して一刻ほど過ぎた頃、台所へと降りてきた。

「太佑、いるかいっ!」

 勢いよくのれんを跳ね上げる。

「徳之進様が台所へいらっしゃらなくても、太佑を座敷にやりますから」

 引き留めようとする仁兵衛の声が弱々しい。もう半ば諦めているのかもしれない。

「やっぱりいらしたねえ……」

「まあ来ないはずがなかったというか……」

 伊平次と勘助が囁き合う。自分たちには関係ないと分かっているからか、二人揃ってのんびりとしたものである。

「ほら、お呼びだぜ」

 末吉が太佑の陰に隠れるようにして、太佑を前に押しやった。

 太佑が前に出ていくと、徳之進はクシャッと笑った。

「きんつば、とても美味かった」

「はあ……ありがとうございます」

 わざわざそれだけを言いに来たのか? 太佑がそう思いかけた瞬間、徳之進はふっと真顔になった。

「お前、菓子を作るのは好きかい?」

「え……ええ、まあ」

 徳之進が何を思ってそう問うのかは分からぬが、とりあえず返事をする。

 菓子を作るのは、少なくとも嫌いではない。何を作ろうかあれこれ悩むのも、手を動かして物を作るのも、それを誰かに食べてもらうのも、美味しいと喜んでもらうのも好きだ。だが改めてそう問われると、答えにくい。

 太佑の答えに、しかし徳之進は満足しなかったようであった。

「そうかい。でもねえ、どうにもお前さんの菓子には、面白みが足りないね」

「面白み?」

「そう。美味いんだよ。美味いんだけど、どうにも当たり前(め)ぇな味しかしない――だが俺は、面白いものが食いたいんだ」

「はあ……面白いもの、ですか」

「そう。次来るときは面白いものを出してくれよ。俺を唸らせるようなものをさ」

 徳之進はそう言い募る。その考えが汲み取れず、太佑は思わず首を傾げた。

 風変わりなものを求めているなら、別にここに来なくてもいい。むしろここでは、風変わりなものは出てこない。

 そんな太佑の思いを読んだように、徳之進はニヤッと笑う。

「変わったものを食わせる店なら、他に探せばいくらでもあるよ? でもそうじゃないんだ。俺はお前さんの作った面白くて美味い菓子を、この美角屋さんで食いたいんだ」

 そう言われて、太佑はますます首を傾げる。

(何でわざわざ俺なんだ……)

 別に俺じゃなくてもいいのに、と太佑は思った。吉原で遊ぶほどの金があるなら、それだけ詰めば、その酔狂にいくらでも付き合ってくれる者は他にいる。

 すると徳之進は、ずいっと一歩詰め寄った。

「お前は面白そうだからね。見世で料理をこさえてるってだけでも今の吉原じゃ十分面白いのに、菓子の料理番がいるとくれば、面白くないはずがない。だろう?」

 この男、人の心でも読めるのか。さっきから、まるで太佑の心の中を覗いたように、次々太佑の逃げ口上を先回りして潰していく。

 太佑が言葉を失っていると、徳之進はさらに一歩詰め寄った。

「ここはひとつ賭けようじゃないか。お前の菓子が俺を楽しませられるかどうか。その腕が、俺を楽しませられなかったら――俺はこの見世に二度と来ない」

「いっそ金輪際、来ない方がいいんじゃねぇのか」

 徳之進に聞こえぬよう小さな声で、末吉が嫌味を言う。丸きり同じことを思ったので、つい口に出てしまったかと、太佑は一瞬焦って口で手を覆った。

 ちらっと末吉の方を見ると、末吉は調理台の陰に隠れるようにして、ひたすら里芋の皮を剥いている。前のときも思ったが、末吉は徳之進をあまり好きではないらしい。不機嫌そうに見えて実は怒っていないのが末吉の常だが、今日は本当に機嫌が悪い。付き合いの長い太佑には、それが手に取るように分かる。それでも末吉の包丁さばきは普段と変わらず細やかで、心の乱れが出ないのは、さすがと褒めるべきところだった。

「何か言ったかい?」

 徳之進にそう問われ、太佑はぶんぶんと首を振った。

「いいえ、何も!」

「そう。で、どうなんだい。この賭け、乗るか? 俺のために、面白い菓子を作ってくれるかい?」

 徳之進の口元は笑っているのに、目だけがやけに鋭くて、しかしここで相手に呑まれてなるものかと、太佑はぐっと拳を握り、頷いた。ここまで来たら、逃げても無駄だ。居直るしかない。もう自棄(やけ)だ。

「分かりました。その賭けとやらに乗りましょう。ただ、ひとつ。これだけは御承知おき願いたいことがございます」

「何だい?」

「俺は面白いものじゃなくて、人を喜ばせるものを作ります――人を幸せにできるような、そういう菓子を作りたいと思っています」

「ふうん、それで?」

 徳之進の目に、楽しんでいるような光が宿った。太佑は徳之進の目を見て、静かに首を横に振った。

「……それだけです。ああ、それとあとひとつ」

 横から仁兵衛が太佑の腕にすがるようにして小さく叫んだ。

「おい、大戸屋様のご紹介なんだ。朝露花魁のお客なんだ。度の過ぎる口答えは勘弁だよ!」

 太佑は徳之進から目を逸らさぬまま、分かっている、というふうに仁兵衛に向かって小さく手を挙げた。

「何だい? 言ってみな?」

 そう言う徳之進に、太佑はけろりと言い放った。

「賭け、というなら俺が勝ったら――あなた様を楽しませることができたなら、俺は何かいただけるんですか?」

 徳之進は一瞬、動きを止めて目をパチパチとさせたが、すぐに仰け反って笑いだした。

「なるほど、そうだね、負けたら何かを差し出さなきゃね」

 ひとしきり笑うと、徳之進は真顔になった。

「俺を満足させてくれたら……そうだな、いいことを教えてやるよ」

「いいこと?」

「それは勝ってからのお楽しみだ」

 もしかしたら何も思いつかなかったのかもしれない。まあ、まともに取り合うだけ疲れる相手だ。これ以上探るのは、もう止そう。

「……分かりました、楽しみにしておきます」

 太佑がそう答えると、徳之進は目を細めてニヤッと笑った。

「いい答えだ。また文をやるからね――俺も楽しみにしているよ」

 のれんをサッと撥ね上げると、徳之進はつむじ風のように出て行った。後を慌てて仁兵衛が追う。

「お前、よくあんなのと、まともに話せるな。俺なんて、聞いてるだけで頭が痛くなりそうだったぜ?」

 剥き終えた里芋を乗せたザルを両手で持った末吉が、呆れたような顔をして、肘で太佑をつっついた。

「俺も頭が痛くてたまらねぇよ」

 太佑はへたへたとその場にしゃがみこんだ。

 俺が勝ったら何か貰えるのか、だなんて、よくも抜け抜けと口に出してしまったものだ。あの目の鋭さに中(あ)てられて、変に気が大きくなっていたとしか思えない。太佑はやはりあの目が苦手だ。どうにも調子を狂わされる。

「面白いもの、なあ……」

 面白いもの。面白いもの……ぶつぶつと口の中で唱えてみるが、徳之進が求めるものが何なのか、まったく見当すらつかない。

 それでも、まだ夜見世は始まったばかり。冬の夜は長いのだ。とにかく次のお膳の仕度にかからねば。考えるのを止めて、手を動かし始める。でも。

 ――お前、菓子を作るのは好きかい?

 徳之進に言われたその言葉だけが、やけに頭の隅にこびりついて離れなかった。