噺家ものがたり ~浅草は今日もにぎやかです~



 昭和二十年。浅草に、平助という男がいた。

 平助は建設現場で負った傷がもとで、足を悪くした。その障害が原因で兵役を逃れ、長屋の住民達から、「売国奴だ」とつまはじきにされてしまう。働けなくなった平助の代わりに、妻の花子が布を織る内職をして生計を立てていた。

 しかし花子が身ごもったのを機に、平助は奮起した。体に無理を押して、港の荷造りの手伝いを始めた。賃金は安かったが、産まれてくる子供のために、必死になって働いた。

 平助は、子供が産まれてくるのが待ち遠しかった。大きくなってきた花子のお腹を毎日のように撫で、花子に内緒でもう千歳飴を買ってしまうほどだった。

 冬の寒い日のことだった。

 その日の夕刻、花子がお腹を押さえて苦しみだした。

「おい誰か、産婆さんを呼びに行ってくれ! 予定より早く子供が産まれそうなんだ!」

 長屋の住民に声をかけて回ったが、平助は疎まれている。誰からも力を貸してもらえず、平助は仕方なく、足を引きずって産婆を呼びに行った。

 産婆の力を借りて、花子のお産が始まった。

 しかしそこに、けたたましいサイレンの音が鳴り響く。

「ヤベぇ、空襲警報だ! こんなときにかぎってよ!」

 花子を担いで逃げ出したいところだが、平助の足では背負えない。長屋の住民は、平助達を見捨ててもう防空壕に逃げてしまっている。

 産婆は、いま動かせば、子供は確実に死ぬと言う。

 それを聞いて、花子は苦しみながらも、声を振り絞った。

「動かさないでおくれ。わたしはどうなってもいいから、ここで産ませてください」

 花子の勇気ある決断に、産婆も腹をくくった。

 平助は、長屋の外に出た。隣の町からはもう、煙が上がり始めている。

「おい、B29! イン、ベイビー! ハウスにインベイビー!」

 平助はあらんかぎりに叫び続けたが、相手にされない。

 焦る平助の目に、駐在所の前に掲げられた、大きな国旗が飛び込んできた。

 日の丸を手にした平助は、家に駆け戻って旗をひっくり返した。筆を握り、墨でお産の様子を絵で描いて示す。

 平助は、旗を広げて外に出た。天に向かって高々と掲げたが、見向きもされない。

「おっかぁすまねぇ、ちょっくらそこの寺に行ってくらぁ!」

 平助は、日頃からお世話になっているお坊さんを頼ることにした。

 しかし、足を引きずりながら寺に出向いたものの、お坊さんももう逃げ出してしまっている。

「チキショー、なんで坊主まで逃げんだよ! あの生臭坊主が!」

 極度の焦燥の中、寺院の講堂に、一本の日本刀が祀られているのが目に入った。

 まるで導かれるかのように、平助はその刀をつかんだ。

 そして――。



「お客さん、このハンカチ、よかったら」

 鼻を啜りながら、運転手が振り向きざまに手渡してくれた。

 気がつくと、目から滴がこぼれ落ちていた。

 俺みたいな境遇の奴は、堅実に生きる必要がある。母さんをもう、これ以上働かせられない。だから俺はいい成績で大学を卒業し、いい会社に就職しなければならないのだ。

 だけど、カーラジオの中の男が、俺を魅了してやまない。

「しかし今日から九月だってのに、まだまだ暑いですね、お客さん」

 運転手のその言葉に、はっとした。

 将来に思い悩んでいたことで、すっかり失念していた。今日は父親の命日だったのだ。

 落語の噺に出てきた男が、亡くなった父さんと重なった。

 胸に、何かがどくんと入ってきた。俺に何かを伝えるように、放射線状に全身を駆け巡る。

 決めた?――。

「すいません運転手さん、この道を引き返してください」

「えっ」

「引き返して、関東大学に向かってください!」

 投げるように言ったら、胸にずっと抱えていたものが消えた。

「運転手さん。さっきのラジオの人、なんて落語家さんですか?」

 急かすように身を乗り出すと、運転手が肩越しに教えてくれた。


「破楽。創風亭破楽です」


 行こう。

 俺、大学辞めてくる。