噺家ものがたり ~浅草は今日もにぎやかです~



 目の端に、隅田川を下ってくる水上バスが見えた。近づいてくる低いエンジン音が、やけに不快に感じる。

「お前はさっき俺に、落語家になれるんだったら何でもやります、と言った」

 立ち尽くす俺に、破楽師匠が続けた。「そして、こうも言った。自分は落語家になると決意した、と。だったらその決意のほどを見せてもらおうじゃねぇか」

「…………」

 予想だにしない展開に、言葉を失った。師匠が握っている包丁は、刃渡り三十センチはある。

 そんな俺とは裏腹に、周りの人達はどこか悠然としている。直感的に、弟子入り希望者が来たらいつもこれをやっているんじゃないか、と思った。

「いいか、よく聞けよ」

 破楽師匠が、ブルーシートに包丁を投げ捨てた。

「お前をいま包み込んでいるのは、性的な衝動と同じなんです」

「……」

「咄嗟の衝動でどれだけ性欲が高まろうとも、手を出そうとしている女がヤクザの女だとわかったらその衝動は途端に収まる。これも同じなんです。出刃包丁見せられて萎んだとしたら、その思いは偽物なんです。単なるつまらないムラムラなんです」

「……だからと言って、こんなことをして何か意味があるんでしょうか」

「だったら逆に訊こう。落語をするのに小指は必要か?」

 俺の言葉を遮るように、師匠が語調を強めた。

「お前はさっき、落語家になれるなら何でもやると言った。論理的に私がやってることがおかしいっていうなら、ロジックでこちらも聞かせてほしいんです。小指のない奴が演じる『芝浜』に、演じ手聞き手ともに興を削ぐ何かがございますか。小指がなければ『寿限無』を演じられない論理的な説明があなたにありますか?」

「……」

 考えるより先に、反論したい衝動よりも先に、体が勝手に動いた。地面に両膝をつき、ブルーシートに投げ捨てられた包丁をつかむ。

「カズオ、紐で小指を固く結んでやれ」

「結構です。そういうのはいりません」

「……」

 俺は包丁を左手の小指にあてがった。

 そうなんだ。破楽師匠の言う通りなんだ。

 落語をするのに、小指なんて必要ない。

 元来、見た目で勝負してきたことはない。

 火傷の跡を、隠そうと思ったことは一度もない。

 それは俺を救ってくれた父さんに失礼なことなんだ。

 俺は目を瞑った。大きく息を吸い、吐き出しながら目をかっと見開いた。

「うぉぉぉぉぉっ!」

「そこまでよっ」

 突然、手にしていた包丁が眼前を飛んでいった。何か柱にでもぶつかったのか、カキィィンという音が耳に届く。荒れた呼気で顔を横に向けると、髪の長い男が和服の裾をめくりあげている。猫太郎さんが包丁を蹴り飛ばしたのだ。

「オヤジさん!」

「わかってる」

 猫太郎さんの言葉に、破楽師匠が小さくあごを引いた。

「……うん、悪くねぇな、こいつ」

 師匠がそう口にしたのと重なるように、「おい、そこ何やってんだ!」と自転車に乗った青服の男が近づいてきた。警察だ。

「おい、なんだこの包丁?」

「おまわりさん、申し訳ありやせん。この掃除屋どもに揺すられてたんです」

「師匠、そりゃないっすよ!」

 カズオと呼ばれた人が慌てふためく中、破楽師匠が軽快に川辺への階段を下っていく。

「猫、戻るぞ。一旦、場所を変える」

「はいはいオヤジさん?っ」

「それと、そこのお前」

 和服の袖口に手を通し、振り向きざまに師匠が言った。

「今からうちの茶室に行くからついて来い」