噺家ものがたり ~浅草は今日もにぎやかです~



「正直に言います。歳も歳ですし、私はもう弟子は取りたくないんです」

 湯呑みに口をつけながら、破楽師匠が俺をまじまじと見た。隣には、猫太郎さんもいる。

 八人ほどが座れそうな掘炬燵。猫太郎さんが淹れてくれた温茶には手をつけず、俺は正座しながら黙って師匠の話を聞いている。

「知っているとは思うが、芸の世界は厳しい。全員がものになるわけじゃない。あなたのような環境の人間は、普通に働いたほうがいいんです」

「……それは、わかっています。けど僕はどうしても落語家になりたいんです!」

 言葉に熱がこもり、自然と前のめりになった。

「あんた、大学では落研か何かに入っていたのかい?」

 猫太郎さんが目を向けてきた。

「いいえ。落研どころか、寄席小屋に行ったことすらありません。正直、落語のらの字もわかっていない現状です。けど僕は師匠の『千歳飴』に感動したんです! こんな落語家に心底なりたいと思ったんです!」

「……いや、それは違うな」

 少しばかり間を取って、師匠が腕を組み直した。

「お前、女と付き合ったことねぇだろ」

「えっ」

 不意な質問に、頓狂な声が出た。

「女と交際したことはあるか、って訊いてる」

「……ありません。なんでわかるんですか?」

「俺はさっき、お前の衝動は性的なものと同じだと言った。今度はより正確に言ってやろう。お前は要するに、わくわく童貞なんです」

「わくわく童貞?」

「そうです。あなたは今までの人生を真面目に生きすぎてきたんです。恋愛ごとも含めて人生にわくわくしたことがない。大学を卒業して満員電車に揺られる平凡なサラリーマンを想像して嫌になり、そのタイミングで私の落語に出会った。落語の世界はなんだかわくわくしそうだな、ただそれだけのことなんです。もし同じタイミングでビートルズの音楽に出会っていたらあなたはジョン・レノンに私と同じような感情を抱いてミュージシャンになりたいと言っているんです、落語家になりたいってのは詭弁なんです、単なるわくわく童貞なんですあなたは」

「……」

 淀みなく突き出された正論に、何も言い返せなかった。

「お前はまだ満員電車に揺られたくない、ただそれだけなんで」

「たしかに、その感情があることは認めま」

「まだ俺が喋ってる。人の話を途中で切るんじゃねぇよ」

「すいません、失礼しました!」

 急に気色ばまれて、面食らった。猫太郎さんに助け舟を出してほしいところだけど、湯呑みを手に黙りこくっている。

「ひとつ聞かせてくれ。なぜ俺なんだい?」

 師匠が話の矛先を変えてきた。「知っているとは思うが、うちの一門は落語組合に入っていない異端の家元だ。俺のところに来たら、狭っ苦しい噺家人生になるぜ」

「……詳しいことはわかりませんが」

 俺は拳を握り締めて、思いの丈をぶつけた。

「僕は師匠の落語に心底感動したんです! これは本当なんです!」

「それじゃ理由になってな」

「僕は師匠を尊敬してるんです!」

「だから人の話を途中で遮るなって言ってんだろ! 何回も同じこと言わせんじゃねぇよ!」

 すいませんっ。俺がそう謝るのと同時に、玄関のほうから「こんにちわぁ」と聞こえてきた。猫太郎さんが席をはずし、応対する。

「師匠!」

 ほどなく、すっと障子が開いた。

「おぉ、裸楽か」

 真っ赤な和服に身を包んだ女性を見て、破楽師匠が表情を和らげた。

「破楽師匠!」

「お、太一郎も一緒か。ここに座れ、お前ら。足も崩せ」

 師匠は、やって来た二人を俺の隣に促した。三十歳ぐらいの二人で、女性のほうは向日葵のカチューシャをしている。艶のある茶髪が印象的な、綺麗な女性だ。

「お茶でいいかい、裸楽」

「猫師匠すいません、わたしがやります!」

「いい、いい。身重のあんたに雑用なんて頼めないよ。いいから座ってな」

「申し訳ございません、師匠!」

 膝立ちで猫太郎さんに頭を下げる女性に、「で、今日はどうしたんだ?」と破楽師匠。

「まだ残りの高座や引退興行が控えているとはいえ、師匠と同じ日に高座に立たせて頂くのは、今日のこのあとが最後です。出番前に一度、きちんとご挨拶をと思いまして」

「……そうかい」

 破楽師匠は、目を細めた。何か思うところがあるのか、しみじみとした表情を浮かべている。

「お腹の子はいま、どれくらいだ?」

「おかげさまで、まもなく三ヶ月になります」

「そうか。つわりもあるだろうし、無理すんじゃねぇぞ」

「ありがとうございます、師匠」

「ところで破楽師匠、しあさっての式のほう、よろしくお願いしますね」

 紺のスーツを着た男性が、別の話題を振ってきた。

「それはいいんだけどよ、太一郎。儀助はまだ、お前らの結婚に反対してるのか?」

「残念ながら。僕がいくら言っても、ララちゃんのことを認めてくれません。けど、いずれ親父もわかってくれると思います」

「だといいんだけどよ。俺もあいつとは幼馴染みだし、あまり悪くは言いたかねぇんだけど、あいつはどうも昔から我が強すぎていかん」

「そうなんですよね」

「それに神社のほうも、いい噂を聞かねぇぞ。儀助の指示でかなりあこぎな商売やってるって」

「師匠の耳にも届いてましたか……」

 なんか、ややこしい話をしている。俺の話に戻りそうな気配がない。

「ところで、こちらの方は?」

 俺の願いが通じたのか、太一郎という人が話を向けてくれた。

「申し遅れました。僕は、千野願、と申します。破楽師匠に弟子にしてもらいに来ました」

「そうでしたか」

「まぁ、これから帰ってもらうんだけどよ」

「師匠!」

 テーブルに手をついて、立ち上がった。言葉を続けようとしたら、奥の部屋の障子がさっと開いた。細身の老人が女性に連行されている。

「おかみさん!」

「あ、裸楽、来てたのかい。太一郎君もいるじゃないか。二人からも言ってやってよ、このジジイに。ホントに手癖が悪いんだから、こいつだけは」

 初老の女性は肩をすくめ、「そもそも、あんたが悪いんだからね」と破楽師匠を睨みつけた。

「はぁ?」

「あんたが弟子を甘やかすからこんなことになんのよ! 今度同じことあったら、あんたをぶちのめすからね! いいね?」

「……」

「返事は?」

「はい、って小学生か俺は!」

 師匠が小気味よく返すと、茶室が笑いに包まれた。周りから「おかみさん」と呼ばれていることから、この人はおそらく破楽師匠の奥さんだろう。師匠といえども、奥さんには頭が上がらないのだろうか。

「というわけでみんな、今から小屋に行くよ。週末で入りもいいだろうし、リハーサルは念入りにいくからね」

 部屋を出ていくおかみさんに、全員がぞろぞろとついて行く。

「というわけだ。ま、あきらめて帰れ」

 師匠が俺の肩を叩き、茶室を出て行った。追いかけようとしたら、一人居残っていた猫太郎さんが俺のシャツの裾を引っ張った。

「心配しなくても、オヤジさんは見込みのない子を茶室に呼んだりしないから」柔和な笑みを浮かべ、猫太郎さんは続けた。「ひとまず、出直しな。あんたには脈があるから、あきらめずにまた声かけに来な。それとも今晩、あたしの家に泊まる?」

「それは、ご遠慮させてください」

「あらそう、残念だわ。まぁでも時間あるんだったら、このあとオヤジさんの高座を観に来たら。あたしが演芸場に口利いといてあげるから」

 ぜひ、行かせてください。俺はそう返事して、茶室を出た。