噺家ものがたり ~浅草は今日もにぎやかです~



 仲見世をうろちょろしながら時間を潰し、浅草創風演芸場に向かった。開演の十八時まで、まだ一時間以上もある。到着すると、演芸場の前にはすでに待っている人がちらほらいる。

 入り口の脇で、噺家名が書かれた、緑や黄色の幟旗が揺らめいていた。外壁に埋め込むように掲げられた掲示板には、今日の出演者の名を書いた木札が掛けられている。今朝ここに来たときもこの札を見たけど、ご本人達にお会いしてからこれを目にすると、緊張感が増してきた。

 入り口の扉の向こうから、小柄な女性が近づいてきた。格子の戸を引いて首を出し、長い後ろ髪を水色のゴムでくくりながら目を向けてきた。

「猫さんから聞いてる。まだ少し早いけど、入る?」

「あ、お願いします! 勉強させてください!」

 化粧っ気のない女性は鼻でふんと笑い、扉を引いてくれた。今朝ここに来た際、券売所の中にいた人だ。そのときのことを思い出して少し気が滅入りながらも、中に入る。

「さっき、券売所にいた方ですよね?」

 気の強そうな女性で少し怖かったけど、勇気を出して訊いてみた。

「木戸」

「えっ」

「寄席で入場券を売っているところを、木戸っていうの。チケットの値段のことは、木戸銭。ちなみにうちの定席は、昼の部夜の部ともに二千五百円。年末以外は年中無休でやらせてもらってます」

「そうなんですね。勉強になります」

「あんた、何も知らないのね。もう少し勉強してから来なさいよ」

 ウグッ、見透かされてる。

 でも正直、落語のこと何も知らないからな俺。昨晩ネットで一夜漬けで勉強してきたけど、知ってる古典の演目も『寿限無』と『時そば』ぐらいだもんな。

「えぇと、えぇと、お名前はたしか」

「雪野小夜。小夜でいいよ」

「小夜さんは、ここで働いてるんですか?」

「そう。高校を卒業してから、もう六年近く働いてる。ちなみにあたしは、創風亭和楽の娘」

「創風亭和楽、さんですか」

「はぁ? あんた、うちのパパ知らないの?」

 小夜さんが、大きな目を吊り上げた。すいません、と頭を下げる俺に、「あんた、ホントに何も知らないのね」と嘆息する。

「うちのパパは、破楽師匠の二番弟子。いまもたまにテレビのトーク番組に出たりしてるから、あんたでも顔は知ってると思う」

「そうだったんですね」

「ちなみに一番弟子が、猫さんね。破楽師匠には、途中で辞めた人も含めると十五人以上のお弟子さんがいるんだけど、うちのパパは弟子の中で一番真打ちに昇進するのが早かったの」

「あ、その真打ちってのは僕にもわかります。前座、二つ目、真打ちの順で偉いんですよね?」

「そう。まぁでもその偉いって言うのは、ちょっと違うかも。うちの一門は落語組合に入ってなくて、かなり特殊だから」

 どう特殊なんですか。そう尋ねようとしたら、おかみさんがホールの奥からやって来た。

「小夜。いまリハーサル終わったから、座席の確認だけしといて」

「了解です、おかみさん。じゃあんた、しっかりね。ちなみにおかみさんは空手五段なんであまり怒らせないように。とにかくSっ気が強い人だから。じゃ」

 そっと耳打ちしてくれた小夜さんと入れ替わるように、小さな紙袋を手にしたおかみさんがすたすたと歩み寄ってきた。

「あらぁ、さっきここで騒いでくれた坊やじゃないの」

「先ほどは、大変失礼しました。あと、茶室でも大変お世話になりました」

 俺は機嫌を悪くしないよう、これでもかというぐらい深々と腰を折った。

「そういや、あんた茶室にいたねさっき。存在感がウジ虫以下だったから声かける気が起きなかったよ」

 なんでこんな口悪いんだろ、この人。悪口のプロとしか思えん。黙ってたら、どこぞのタカラジェンヌみたいな綺麗な人なのに。

「ま、いいや。ゆっくりして行きな。開演までまだ時間あるし、これでも食べときな」

 そう告げて、手にした紙袋を渡してくれた。中に、大きな幕の内弁当とお茶が入っている。

「どうせ、お金ないんだろ。腹が空いてたら、噺もちゃんと聞けないからさ」

「ありがとうございます!」

 じゃ、しっかり勉強するんだよ。そう言い残して、おかみさんは奥に消えていった。

 口は悪いけど、本当はいい人なのかもしれない。去り際に、俺の右足をぎゅぅっと踏んづけてうれしそうにしてたのは少し気になったけど。