Hello,Hello and Hello



 待ち合わせの三十分も前に駅に行ったというのに、由希の方が早く着いていた。これなら予定よりも一本早い電車に乗れるかもしれない。

 なのに由希の方へと駆けだそうとした足は、それ以上近づくことを躊躇してしまった。

 柱に背中を預け、ぼうっと何もない空間を見ている彼女の横顔は、高尚な芸術品に似た威圧感を秘め、誰も寄せ付けない雰囲気を纏っていたから。

 よく見ると由希をちらちらと盗み見ている人はたくさんいたが、声をかけようとしている人はいなかった。彼女に声をかけるという行為にはやたらと勇気が必要だった。

 ごくりと唾を飲み込む。手のひらの汗をズボンに押し付ける。さっき踏み出せなかった足を無理やり前に進める。ゆっくりと手を上げる。それからようやく、彼女に声をかけた。

「おはよう。早いね」

 僕の声で、由希もこちらに気付いたようだ。手のひらで柱を押して、軽やかに駆けてくる。

「もしかして待たせた?」

「ううん。今、来たところだよ」

 由希は、えへへっと笑った。

 さっきまで彼女の周りを漂っていた棘は、いつの間にか消えていた。思わずほうっと息が溢れ出る。肺の奥底から込み上げたような熱い息は、透明な空気の中へ溶けていった。

「本当にごめん。次からは気をつける。女の子を待たせたらいけないよね」

「そんなこと気にしなくていいのに。由くんは真面目だなあ」

「由くん?」

「そう。春由だから、由くん。駄目?」

「駄目じゃないけど、そんな風に呼ばれたことが無かったから」

 基本的に僕は、名字の瀬川とか、ハルとか呼ばれることが多い。

 妹の夏奈や、父さん母さんもハル呼びだ。初めての呼び方はどことなくくすぐったい。

「じゃあ、わたしだけの呼び方だ」

 由希は白い歯をむき出しにしながら笑い、僕の手をぐいっと彼女の方に引っ張った。

 体が前のめりに倒れそうになるのを、なんとか耐えた。距離が一歩分、縮まる。

 小さくて冷たい由希の手が、僕の熱を奪うかのように強く手首を握っている。ああ、握られているところだけが熱いや。顔を上げることができなくて、僕は自分のやけに汚れた靴の先をじっと睨んでばかりいた。

「さて、行こうか、由くん」

 そんな出発の号令と共に、昨日の僕がうっかり尋ね忘れていたことを思い出した。

「ところで今日の行き先って分かってる?」

 今日見る映画は、普通の、そう、例えばテレビでバンバンCMが流れているようなものとは違っているのだ。そもそも、上映場所だって映画館ですらないし。

 でも、僕の不安を由希は一笑に付した。

「変なことを聞くんだね。矢坂大学でしょう?」


 矢坂大学は僕の住む町から二駅ほど離れた、やたらと坂の多い町の、一番急で、一番長い坂の上に建っている。

 実際、電車からバスに乗り変えてから、

「あ、あそこでしょう。由くん、ほら、見て」

 と由希が声をあげるまで、バスは坂道を十分近くも登り続けていた。

 由希の指さす先に、立派な門とやけに大きな看板が見えてくる。

 看板には『第六十回秋穂祭』というやたらとカラフルでポップな文字。

 ここ矢坂大学では、数日前の日曜日から一週間かけて文化祭が行われている。僕の持っているチケットは、この文化祭で上映される映画サークルの自主製作映画のものだった。

 もう一年と半年も前、ある出来事がきっかけでたまたまチケットを手に入れたのだ。

 門をくぐると、途端に空気が変わったのが分かる。

 秋色に染まった葉の下で繰り広げられる非日常。

 たくさんの出店があって、遠くからギターの激しい音が聞こえてくる。踊っている人だっている。あれはよさこいだっけ。鳴子の軽快な音が心地いい。本当のお祭りみたいだ。

 門の前でお姉さんからパンフレットをもらった僕は、さっそく映画のスケジュールを確認しようとページを捲った。映画は三十分の短編映画で、休憩時間を合わせて一時間半に一度上映されているらしい。

 次の上映開始時間まであと十分だから、急げばまだ間に合うかもしれない。地図でサークルの場所を確認しようとパンフレットをさらに捲っていると、ひょいっとそれを奪われた。

 顔を上げると、二つのパンフレットを両手に一つずつ持った由希がいた。

「何するの?」

「由くんこそ、何してるの?」

「何って、上映場所を確認しようとしてたんだけど」

 はあ。由希はため息をついて、何も分かってないな、って感じで首を横に振った。

「そんなの適当に歩いていれば見つかるよ。それよりせっかくのお祭りだよ。屋台があって、バンドもやってて、お化け屋敷なんかもある。それらを全部無視して目的地へ一直線なんてもったいないよ。きっとバチが当たるよ」

「バチがあたるのは嫌だな」

「だったらブラブラしよう。きっと楽しいよ。ほら、行こう」

 そんなわけで、僕たちは文化祭をまわることにした。

 由希は出店のコーナーで小さな鼻をすんすんと鳴らし、甘い香りに誘われるがままにクレープ屋さんの列へと並んだ。苺にするか、チョコバナナにするかたっぷり悩んだ彼女は、結局、選べなくて二つとも買っていた。僕は秋らしく、栗を使ったやつを選んだ。

「よく二つも食べられるね」

「あふぁいふぉのふぁふぇふふぁらふぁの」

 口いっぱいにクレープを頬張った由希の言葉は、宇宙人の言語のよう。まあ、宇宙人と会ったことなんてないけどさ。

「何だって?」

 今度はもぐもぐとしっかり咀嚼し、それでもなお、何かを惜しむようにしてクレープを呑み込んだ由希は力説した。口の端に、しっかりと生クリームをつけたまま。

「甘いものは別腹なの」

「由希、口のとこにクリームがついてる」

「ありゃ、失敬。こっち?」

「逆」

「こっちね」

 由希は手のひらでぐいっと拭ったけれど、全然取れていない。

「ちょっと待って」

 持ってきておいたポケットティッシュで、口の周りを拭いてやる。由希はされるがままになっていた。ただ時折、クレープの次の一口のタイミングをうかがっていたので、まだ駄目だからな、と釘をさしておく。全く、これだから女の子っていう生き物は。僕も甘いものは好きだけど、彼女たちの熱情は男のそれを容易く凌駕している。

「拭き終わった」

「ありがとう。準備が良いんだね」

「いや、ポケットティッシュくらい高校生なら普通に常備してると思うけど」

「わたし、もうすぐ十七歳になるけど持ってないよ」

「じゃあ、由希は僕より一つ上なんだ」

「そうよ。先輩なんだから、敬まってね」

「口に生クリームをつけて言われても威厳が無いんだよなあ」

「嘘。まだついてるの?」

 慌てて口もとを拭った由希を見て、僕は笑った。慌てたせいで力が入りすぎたのだろう。由希の白い肌が少し赤くなっていた。擦っていないはずの頬もほんのりと赤い。

「くく。もうついてないよ」

「うう。由くんは意地悪だ。すごく意地悪だ」

 唇を尖らせ、由希は僕の少し前を歩いた。

 華奢な背中。ふわふわの髪。スカートから伸びる細い足。それらをもっと見ていたくて、僕はわざと由希の少し後ろを歩いていった。

 由希はそのまま図書館へと入っていき写真部の展示を見始めたので、あっという間に彼女に追いついてしまったけれど。

 たくさん並んだモノクロ写真を眺め、お互いに気に入った作品を一つずつ言い合った。

 僕は砂浜で男の人が高く高くジャンプしている写真を選び、由希は小さな女の子が独り商店街のアーケードにとり残されていた写真を選んだ。

 広く切り取られた世界で、一人きりの女の子はとても小さく寂しそうに見えた。確かに何かを訴えてくる良い画だとは思う。ただ、僕が抱く由希のイメージには合わなかった。彼女はきっと僕みたいに生命力に溢れた写真を選ぶと思っていたから。

「そうかな」

 人気の少ない図書館に、由希の声が小さく響いた。

「でも、きっとこれがわたしなんだよ」

 文芸部のコーナーでは、同人誌を買って肩を並べて読んだ。どうやら小説の好みは似ているらしく、好きな作品は一緒だった。

 由希はそれからも目についたものに何も考えず近づいていくので、気付いた時、僕たちは敷地の一番端まで来ていた。喧騒は遠く、奥には古びた建物が一棟あるだけ。由希があれ、なんだろう、と隠れるようにひっそりと建っていたそれを目ざとく見つけたのだった。

 かつて白かったはずの建物の表面は雨風のせいで変色し、名前すら知らない植物が壁に張り付いていた。緑色の物体は苔だろうか。どことなく近寄りがたい感じがする。

 由希に戻ろうと声をかけようとした、その瞬間、

「おーい、そこの少年。ちょっと待ってくれい」

 聞き覚えのある声で、聞いたことのあるセリフで、呼びとめられた。

 遠くからでもその大きな体が確認できる。

 少なくとも三日は剃っていない無精ひげ。髪は後ろで結んでいて、長く伸びた前髪の隙間から、子供みたいなキラキラとした瞳が覗いている。

 一年以上も会っていなかったのに、全然変わっていない。

 カントクだ。

 僕たちが今日見る映画の監督をしている人。

 そして、僕に二枚のチケットをくれた人。


   ❀


 カントクと出会ったのは、僕がまだ中学生だった時の春休み。

 部活が休みで何もすることのなかった僕は、一人で近所の公園をブラブラと散歩していた。

 休日や夕方からは花見客でにぎわう公園も、平日の昼間は閑散としていて少し寂しい。

 そんな静寂を破ったのは、やけに野太い声だった。

「おーい、そこの少年。ちょっと待ってくれい」

「え?」

 呼ばれるがまま声の方へ振り向くと、熊のように大きな体をしたおじさんがこちらへ向かって全力疾走していた。ドタドタと慌ただしい音が聞こえてくるかのよう。その形相は一目で分かるほど必死で、僕は思わず足を止めてしまった。それが悪かった。

 今にも死にそうなほど息を切らしたその人は僕のそばまでやってきて、いきなり腕を掴んだ。

「いやー、助かった。ちょっと来てくれ」

「な、何ですか」

「俺たちが今撮ってる映画のな、エキストラの人数が足りなくて困ってるんだ」

「いやいや、ちょっと待ってください。意味わかんないんですけど」

「分からないか、意味?」

 きょとんとした顔でふりむいたおじさんの顔は、よく見るとまだ若かった。二十代の半ばくらいだろうか。ぎりぎりお兄さんと呼べるレベル。

「分からないですね」

「だから、映画のエキストラが」

「そういうことではなくて。どうして僕がついていかないといけないのかってことです」

「それもさっきちゃんと言っただろう? お前が出てくれないと俺が困るって」

「……はい?」

「そんなわけで行くぞ」

「いや、だから」

 問答無用で引っ張られていく。

 それからは何をしても無駄だった。力の差は圧倒的であり、どれだけ必死に抗ってもびくともしないのだ。三分くらい足掻いて、諦めた。

 もう煮るなり焼くなり好きにしてくれ。


 僕を呼びに来た男の人はこの作品の監督みたいで、カントクと呼ばれると、途端にさっきまで僕に見せていた顔とは全然違う表情をした。雰囲気ががらりと変わる。少しだけかっこいいと思ってしまったのが、なんとなく悔しい。

 撮影は公園のベンチで行われていた。

 僕に与えられた役どころは通行人A。

 主人公たちの後ろを歩くだけで、セリフもなく、アップで映ることも無い。それでもどのタイミングでどこを見てとか、このコースをこれくらいのペースで歩いてとかの指導を受けた。

 ワンシーンの撮影だからすぐに終わるだろうなんてタカをくくっていたのに、蓋を開けてみればなんと四時間近くも拘束される羽目になった。何度も撮り直したせいだ。

 機材の片づけをする頃、空は藍に染まりどんどんその色を濃くしていた。あと十分もすれば、世界は完全に夜に沈んでしまうだろう。瞬きの間にも、ほら、夜の侵食は進んでいる。

「こんなとこにいたのか。お疲れさん」

 声の方へ振り向くと、カントクがこちらにやって来た。どうやら僕を探していたらしい。

「長かったですね」

「助かったよ。まあ、少年が出るのは十秒くらいなものだけどさ。やっぱり、妥協はしたくなかったからな。あ、これ。お礼な」

 カントクはそう言って、ポケットからコーンスープの缶を取り出した。日が落ちて寒くなってきたので有難く貰うことにする。まだ温かい。両手で包むと、手のひらに熱が広がっていく。

「ありがとうございます」

「それから、チケットも。来年の秋にある文化祭で今日撮ったやつを公開するから見に来いよ」

「来年? 今年じゃないんですか?」

「今年は多分、間に合わねえから。来年、この作品を作り終えてから俺は大学を卒業するんだ」

 長方形に切られたカラーペーパーに、『第六十回秋穂祭映画上映会チケット』と手書きで書かれている。『第五十九回』の部分に二重線を引き、その上に書かれた『第六十回』の文字は、カントクの決意を表すかのように他の文字よりも大きかった。

 その横には大学の名前が彫られた印鑑。矢坂大学という正方形の赤い文字は、少しかすれていた。噂に聞いたことがある。何でも地獄の様な坂の上に建っているとかいないとか。

「二枚もありますけど」

「恋愛映画なんだ。誰か気になる女の子でも誘って来いよ」

 こうして僕の手元には、二枚のチケットと一つのコーンスープの缶が残った。四時間の労働の対価としては安すぎるような。でもまあ、貴重な体験をさせてもらったわけだから良いか。

 手を振り僕から離れていくカントクの背中を見ながら、スープをすする。少しだけぬるくなったスープは猫舌の僕にはちょうど良かった。喉を通り、お腹の中心で優しい熱を灯している。

 空を見ると、一番星が輝いていた。

 宵の明星だっけ。

 僕は金星の小さな光の方へと歩き出した。