• 委員長

    委員長
    天津家の隣に住むサトリの幼馴染み。通称・デコメガネ。


第〇章



   1


 季節外れの嵐が過ぎ去って、街の排気を根こそぎ洗い流してくれた後の、涼しげな月の夜だった。

 僕は自室に閉じこもってうずくまり、丸まった背中でドアを内側から押さえつけていた。

 理由は単純明快。


 こんこん! コンココンコンコン!! こんこんこんこん!

『サトーリくーん? ちょおーっとお姉ちゃんとお話ししましょう。具体的には朝美屋さんの限定メロンパンがどこに消えたのかーとか』

『ねー? 一日限定二〇個で予約も受け付けない激レア品なのにあたしとお姉ちゃんで奪い合っている中一体どこ行っちゃったのかーとか』


 がくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがく!!

 知らなかったんだ。

 ほんとに知らなかったんだーそんなバックボーンがあったなんて。ただ嵐の中へとへとになって家に帰ってきたら美味しそうな匂いがするじゃん。そしたら置いてあるじゃん、黄金に輝く例のヤツが! 食べるじゃん、普通に考えたらさあー!!

 ヤバいよこれほんとにどうすんの。エリカ姉さんは吸血鬼で妹のアユミはゾンビだぞ。巷じゃ不死者とかアークエネミーとか呼ばれているRPGの隠しボス枠だぞ。本気で怒らせたらまずいってこんな合板のドアなんて拳もいらない、手刀一つでバリーンだって! 向こうに引きずり出されちゃうわあー!?

 そんなこんなでガクガク震えていると、ポケットの中のスマホがぶーぶー震えた。

 取り出して(現実逃避気味に)画面へ目をやると、SNSからふきだしを飛ばしてきたのはマクスウェルだった。

 とはいえ国際的な交友がある訳でもイタイハンドルのクラスメイトがいる訳でもない。

 こいつは災害環境シミュレータ『マクスウェル』のシステム管理エージェントだ。

「どうしたマクスウェル? こっちは今忙しい」

『シュア。だからこそです。自ら地雷を踏んづけてにっちもさっちもいかなくなったユーザー様には、今こそシステムの力が必要なのではと判断しまして』

「そっ、それはつまりシミュレータの演算力フル活用して姉さんとアユミのダブルパンチを乗り切る道筋を算出したって事か!? だとすればナイス過ぎる!」

『ノー。八兆六〇〇〇億回計算を繰り返しましたがいずれも轟沈です』

「打つ手なしの未来が見えた! 流石は災害環境シミュレータだ!!」

『ただし一つだけ、システムにも未知の変数を確認しております。揺れ幅不明の可能性です。百発百中で轟沈の選択肢を選ぶよりは救いがあるのではと』

「……成功の見込みは特にないんだよな?」

『シュア。たとえて言うなら、今にも千切れそうな吊り橋と、すでに落ちた吊り橋の違いでしかありません』

 ドアに背中を預けたまま、前髪を片手でくしゃくしゃ。

 いやほんとは分かっているんだ、これは時間が解決してくれる類の問題じゃない。むしろ引き延ばせば引き延ばしただけ姉さん達の怒りは膨らむ一方。さっさとドアを開けて土下座するべきだって。でも怖い! 今なら下手すりゃ土下座の頭をそのまま踏まれて床板メキリくらい普通にありそうだし!! だって姉さん吸血鬼のクイーンで超ドSだし!! 被告人は裁判員の皆様にクールダウンを要求しますっ!!

「やるしかない、か。で、マクスウェル! 僕は具体的に何をすれば良いんだ?」

『シュア。スマホの設定項目からシステムの音声出力機能をオンにして、ユーザー様のプライバシー保護設定をレベル2まで下げてください』

「?」

『ユーザー様の「肉声」を借りての発言を許可してください、という事です』

 ……つまり、ドア越しだと僕が話しているのかマクスウェルが話しているのか、分からなくなる訳か。

 掌は汗びっしょり、心臓を恐怖で鷲掴みにされている僕よりも、厳密な数値で管理されたマクスウェルを交渉人に当てた方が得策かもしれない。

「分かったマクスウェル、それで行こう。……ほい……ほい……設定完了、更新する、と。できたぞ」

「では」

 スマホから僕そっくりの返答があった。

 さあどうするマクスウェル。こっちとしては、この掃除ロッカーに閉じ込められたまま大穴に放り込まれて上からどばどばセメント流し込まれるような袋小路感を打ち破れるなら何だって良い。とにかく任せた!!

 そしてヤツは僕の声で言った。


「うっせーなー!! こっちは今モニタの前でズボン下ろして最高にエキサイトしている真っ最中なんだ。箱からティッシュがなくなるまで待つ事はできないのか!?」

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。

 こっ、

「こいつ……! マクスウェルお前……!?」

『シュア。確かにドアの向こうが沈黙しています。予想外の一撃で思考停止に陥っているのです』

 自分で自分の顔が全部真っ赤な熱で埋め尽くされていくのが分かる。違う冤罪だ! ああでもマクスウェルのBIOS領域と装って表に見えないドライブに突っ込んだフォルダについてあれこれつつかれると辛い……!?

『それより思考停止時間は最も長くて三〇秒前後です。早く次の行動に移らなければ回復してしまいます』

「くっ!!」

 今さらドアを開けて義理の姉妹と真正面から立ち向かう道はない。

 だとすれば、窓か!

 とにかく今は遠くへ行きたい。イロイロな意味でだっ!!

『ちなみにお隣の委員長宅ではちょうど今嵐が過ぎ去ったばかりのクリアな夜を嗜むため、窓を開けてお月見しているはずです。完璧にシミュレーションを完結しております、えっへん』

「すまんデコメガネ委員長巻き込む……!!」

 すっくと立ち上がって窓を開け放ち、いったん後ろに下がって助走をつけて自由な空へ。自転車カゴに宇宙人を乗っけている訳でもないのに僕の体は月夜の空を舞い、そしてお隣、開かれた二階の窓へと勢い良く突っ込んだ。

 ちなみにおでこにメガネの黒髪委員長はパジャマのまま面食らっていた。

「きゃーっ!!」

「ナイスだ委員長! それが普通のリアクション!!」

 こちとら三〇秒前までドア一枚挟んで吸血鬼とゾンビを押し留め、並列コンピュータに脇腹刺されていたファンタジックな身の上だ。海外旅行から帰ってきて一発目のお味噌汁みたいに委員長の普通トークが体の芯に沁みる。

 その委員長はと言えば、パステルカラーのパジャマのまま珍しいものでも見るように片手でメガネのつるをくいくい調整しつつ、

「さ、サトリ君。あなたもあなたで最近動きがバケモノじみてきていないかしら。マントと蝶メガネ装備で職業は怪盗ですとか言わんばかりに」

「……ふっ、人間は環境で変わっていくものなのさ」

「何でも良いけど」

 言いながら、委員長は窓ではなく薄手のカーテンを閉めた。

 ちょうど同じタイミングでお隣―――この場合は僕の家―――で大きくドアを開け放たれる音が響く。

『あっ、お兄ちゃんがいなくなってる!? ふぐうー!』

『サトリくんは一体何を見てエキサイトしていたというのかしら。年上系というか金髪お姉ちゃん系だったらどうしましょう、きゃあーっ!』

 どうやらカーテンに遮られて僕が委員長の部屋にいるのは分からないらしい。

 何やら僕自身の捜索よりも家探しに重きが置かれているような気がしないでもないが、今は時間を稼げれば何でも良い。それに部屋の中には見つかって困るものはないのだ。中『には』。

「で、サトリ君これからどうするの?」

 事情は全く分かっていないなりに、委員長はそんな風に聞いてきた。ごそごそ戸棚を漁ってスニーカーを取り出してくる。

 委員長の家には何故だか僕が使うのにぴったりなお箸や歯ブラシ、簡単な着替えや運動靴なんかが今でも揃えてあったりする。委員長の家にお泊まりするのなんて、中学に上がる前にはぱったり途切れたはずなのにな。

 ……当時あった、僕の家の離婚問題の名残りなのかも。あの頃はしょっちゅうこっちに避難していたから。

 もうあんな心配をかける事もなくなったはずなんだけどさ。

「ありがとう委員長、ちょうど外に用事もあったから助かっ……」

 ほっこりしながら手を伸ばしたら、何故だか当のパジャマ委員長からちょっと引かれた。

 ……?

「ご、ごめんなさい。サトリ君が悪い訳じゃないの」

 委員長は何やらごにょごにょ。

 何故に顔が赤いし? と思っていると、彼女はこんな風に白状した。

「……た、ただ画面の前でエキサイトしたってご近所中に伝わるくらい大声で公言するなら手は洗って欲しかったかなって。ほ、ほら、ウェットティッシュはそっちにあるから。ねっ?」

 ま、

「マクスウェええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええル!?」


   2


 散々だった。

 ともあれ委員長からスニーカーを借りて、彼女の家の玄関から外に出る。

 見送りに来てくれた委員長は戸口の方から怪訝な声を出していた。

「こんな時間に何の用なの。コンビニとか?」

「ん。そんなとこ」

 適当に手を振って、僕は委員長と別れた。

 嵐が過ぎたすぐ後なので、辺りは湿っぽいが涼やかだ。空気もいつもより奇麗で、夜の散歩にはうってつけかもしれない。

 ……まあ、とてもそんな気分にはなれないけど。

 手の中のスマホに話しかける。

「マクスウェル」

『シュア』

「始めよう」

 この供饗市は不思議な街だ。

 海と山に囲まれた風光明媚な観光街。

 だけど落雷や突風なんかを中心に災害発生件数が異様に多く、今ではそれを逆手に取って減災・防災関連の研究機関を多数誘致する事に成功した、『災いを金脈に作り替えた』減災都市。

 そしてさらに、足元深くにはまだ別の顔があった。

 吸血鬼にゾンビ。

 そんな不死者、アークエネミー達が現代社会と折り合えるか否かをテストする最終試験場。

 及び、迎合できなかった者達の処刑・処分場。

 街の地下には蜘蛛の巣のように膨大な地下道が広がり、問題行動を起こしたアークエネミーは誰であれ、人知れず地底から湧き出した黒服達の手で闇に引きずり込まれる。

 どんな理由があっても。

 エリカ姉さんやアユミのように、普通に笑って泣いて、みんなと一緒に学校に通っているような人でも。

 知ったのはたまたまだった。

 だけど知ってしまったら、同じ家に暮らす二人がいつ引きずり込まれるか分からないっていうなら、もう黙っていられなかった。

 アークエネミーはあの二人だけじゃない。

 そして姉さんやアユミ以外にだって同じように大切なものがあって、それは決して踏みにじられちゃいけないものなんだ。

 だから、

「マクスウェル、シミュレーションデータを」

『シュア。地下施設を中心に活動する光十字減災財団日本支部の壊滅シナリオは完結済みです』

 光十字。

 全国規模のコンビニのレジ横に募金箱を置いているくらい有名で、平和的な認知度の高い国際組織。

 これに、ケンカを売る事にした。

『のちの反応は三四四八通りほど算出しましたが、いずれの場合も供饗市に彼らの影は残りません。完全撤退を約束します』

「完全撤退で終わりか。供饗市以外のアークエネミー達は?」

『シミュレーション範囲が広過ぎます。別途条件を再入力して演算を繰り返すか、当システムを物理的に増設してください』

 ……今はこんなもの、か。

 当然、光十字の横暴は世界のどこであろうが許したくない。だけどあまりにも膨大なスケールのヤツらと戦うには、まず足元を固める必要があるかもしれない。

 戦う。

 今の僕じゃあそんな言葉さえふわふわしていて、闇夜を徘徊しているのにちっとも実感が湧かないくらいなんだから。

「マクスウェル。場所は?」

『シュア』

 スマホの画面に地図アプリが表示され、一本のピンが立った。

 ……近いな。

 そんな風に思って、画面から顔を上げた時、ちょうど地方都市の夜をぼんやりと照らすコンビニの横を通り過ぎようとした瞬間だった。

「ん」

「……?」

 いきなりぺこりと頭を下げられた。

 誰に?

 僕より頭一個分は小さい、ウェーブがかった金髪を肩まで伸ばした女の子にだ。服装は白のぶかぶかニットにチョコレートカラーのミニスカートの組み合わせ。華奢な生足が必要以上に眩しい。これは防御しているんだかしていないんだか。なんていうか、矢の雨が降り注ぐ中、間違った方向に全力で盾を構えているおバカな雑兵を見たような気持ちにさせられる。

 相手はちょうどコンビニから出てきたところらしい。何が入っているのかは知らないが、一つのレジ袋を両手で体の正面に提げている。

 一言で言えば小動物系。

 ぶかぶかニットのせいで口元がちょっと隠れていたり、袖から指先がちょこんと出ているだけっていうのもそんな印象を高めているかもしれない。でもって、金髪って言っても不良少女が無理して色を抜いているんじゃなくて、元から地毛のハーフの少女だ。

 ……んん? ハーフ?

「ああ、井東ヘレンとか言ったっけ」

 思い出したまんま名前を呼ぶと、もう一度頭を下げてきた。

 確かうちの学校の後輩だ。一年の間で人気があって、小さいのが好きだっていう不埒な先輩方からも人気があったはず。

 別に知り合いとかそういう感じじゃなくて、スカートが短いとか何とか生活指導の先生から因縁をつけられていたところを仲裁に入ったんだ。

 そんな英雄的な行動をするようには見えない? 当たり前だ、僕は近くにいたから巻き込まれただけで、主犯は悪ふざけ系のクラスメイト男子数人だったんだから。

 なので、正直に言って向こうがこっちを覚えていたのが不思議なくらいだった。自分で何かをしてあげた感じもない。

 勇者とか賢者とか魔法使いとか、スター選手溢れるパーティの中で地味な商人が混ざっていたようなものなんだけどな。いや、むしろ村人とかただのしかばね枠かな。

「まあ何でも良いけど。家はこの辺? 一応大通りに沿って、カメラの下を歩くように、それだけ気をつけてね」

 去り際、何だか先輩ぶった事を言ってしまった。

 違うか。共通の話題が見つからないから学校での立場に逃げたんだ。

 つまりこんな小さな女の子さえ怖かったんだ、チキンの僕は。

 距離感を掴み損ねて、ハズして、気味悪がられるのが怖かった。

 これで家族のために国際組織と戦うって言うんだから笑える。

「……ちゃん」

 井東ヘレンはぽつりと何か言った。

「お兄ちゃんと同じ匂いがするから、あなたが一番、落ち着き、ます」

 その『お兄ちゃん』とやらが具体的に誰なんだか分からないから何とも言えないけど、何かあったんだろうか。例えばこの子は一年だし、進学を機にバラバラになったとか。

 そういう、些細な変化が。

「妹がいるからかもね」

 それだけ言った。

 まあ、姉もいるんだけど。

 現実の会話なんてドラマのようにはいかない。噛み合わなければぶつ切りだらけで、不自然な空白はいくつもできる。話はそれっきりになりそうだったので、僕は手を振って立ち去ろうとした。

「お兄ちゃん、と、同じ匂いがするから」

 と、井東ヘレンがまだ何か言った。

 いや、彼女の中では途切れてなかったのか。居心地が悪いと感じていたのは……僕の方だった?

「……だから、気をつけて、ください。でも、それはきっと、ちょっと危険な匂いでもあるから」

「……、」

 主観に偏り過ぎていて、助言としては及第点は与えられない。

 だけど何だか、不思議と胸の真ん中を抉られるような一言だった。

 特に。

 今から光十字と一悶着起こそうとしている身の上としては。

 ……井東ヘレンの『お兄ちゃん』か。一体どんな人なんだろう。

 正直、この子自身より気になってきた。

「ん、分かった。お互い気をつけよう」

「……、」

 ぺこりと頭を下げられた。

 今度の今度こそ、僕達は別れる。

「マクスウェル」

『シュア』

「念のために井東ヘレンがついてきていないかチェックしてから、目的の座標に向かう。ルート構築を」

『シュア。まるでオープンワールドのクエストですね、ユーザー様』

「まったくだ、道で出会った女の子を振り切るだなんて、これが天津サトリの言う事か」

 ちなみに杞憂だった。

 特に井東ヘレンはついてきていない。

 勝手に警戒して赤っ恥な僕に、マクスウェルは的確なコメントを残した。

『現実は非情です、ゲームのように出会い頭で執着してくれるヒロインはいないようです』

「まあ、だからこそ安定の天津サトリって訳さ。むしろ地に足着いた等身大の世界に安心しているぞくそーっ!!」

 でも、確かに、ついてきてもらっても困るんだけどさ。

 改めてスマホにピン付きの地図アプリを呼び出し、僕はこう呟いた。

「マクスウェル、場所は平野区住宅街の旧工場地帯で良いんだよね?」

『シュア。ベッドタウン化が進むにつれ規模が縮小化していったエリアです。差し押さえの関係で書類上の所有者だけが何度も入れ替わった上、最後は夜逃げが発生して権利が宙ぶらりんになっています。つまり管理がずさんで把握が難しい』

「……参ったな。子供の頃はこの辺りで秘密基地を作っていたはずだぞ」

 橋の下の基地。

 頭の片隅がむずむずする。

 だけど今は幸せな思い出を探し回っている場合じゃないか。

 とにかく廃工場に向かう。

 住宅街にも住宅街の環境基準ってものがあって、そのために工場は邪魔だった。歴史の勝者と敗者。その片割れが、月明かりを受けて崩れかけたシルエットを見せつけている。

 借金取りか、鉄くず回収業者か。中の機材はほとんどなく、がらんとした空間が広がっているだけ。

 スマホのバックライト頼みで暗い室内を歩くと、やがて『それ』は見つかった。

 どんな人間にも持ち運ぶ事のできなかったもの。


 銀行の大金庫みたいな真ん丸の扉だ。


「……、」

 表向きは突風災害の多い供饗市の各家庭・事業所に無償で設置されたトルネードシェルタ―って事になっている。だけど僕は生まれてこの方一度もこの扉が開いたところを見た事がない。

 そして、『ある方法』で知ったんだ。

 トルネードシェルターなんてのは嘘っぱちで、この街の地下に張り巡らされているのはアークエネミー用の誘拐装置だって。

 ヤツらはどこにでもいて、どこからでも押し入れる。

 各家庭・事業所。その内側全てにこの扉はあるんだから、戸締まりしたって無駄なんだ。

 生体認証らしきパネルに目をやり、僕は言う。

「マクスウェル。システムを乗っ取るまで何分かかる?」

 ピピッ、という小さな電子音。

 そして太く複雑な金具が蠢く音が、扉の向こうから連続的に響き渡る。

 スマホにはこんなふきだしがあった。

『シュア。すでに完結済みです』

 開く。

 ゆっくりと。

 素人の高校生のくせに奇麗に進み過ぎている? 違う、逆なんだ。あらかじめシミュレートした最適コースから一歩でも外にはみ出したら即死。レコードの針がほんのちょっと音飛びしただけで命が散るって考えれば良い。躓く事が許されないって訳。

 まずはここからだ。

 地下は広い。どこの入口から入るかでも条件は全く変わる。僕は普通の高校生だけど、そんな高校生にも光十字の連中に一泡吹かせられるよう、何度も何度もシミュレーションを繰り返してきた。その流れに乗っかるしかない。ここの施設についてなら、もう僕は持ち主よりも詳しくなっているはずだ。

(……サーバー、コウモリ、回線のショート、バックアップのタイミング、ハードウェアの損傷)

 次々と頭の中に言葉を並べていく。

 さあ。

 光十字との決着だ。


 ……と、思っていた。


 いきなり思考が止まった。

 予想外のものと出くわした。

 とはいえ、開いた扉の向こうにマシンガンを構えた一群がずらりと揃っていたり、飼い慣らされたアークエネミー達が襲いかかってきた訳じゃない。

 そっちの方がまだマシだった。

 ベクトルとしては、まさに一八〇度正反対の事態だった。


 ない、何も。

 いない、誰も。


 そこにあるのはガランとした大空洞。専門的な機材はもちろん最低限の照明さえ撤去され、スマホのバックライトがなければ鼻先も見えないような有り様だった。

 でも、ここにいないとおかしいだろう?

 にっくき光十字の連中がいなくちゃいけないはずだろう!?

「何だ、こりゃ……?」

『ノー。質問に対する適切な回答候補がありません。シミュレーションにない状況です。タスクを中断して撤退する事を強く推奨します』

 マクスウェルの言い分を振り切って、僕は地下世界の長い長いトンネルへ踏み込んだ。そして走り出す。

 まるで夜の学校だ。

 活気がない。人のいる気配が全くない。

 明らかにまずい状況だ。完全にイレギュラー。レコードの針飛びどころか蓄音機ごとひっくり返ってる。こっちはシミュレーションから片足はみ出しただけで死にかねないっていうのに……!

『ユーザー様、電波の受信状況に難があります。以降、お手元の端末との接続を維持できる保証はいたしかねます』

「くそっ!」

 分厚い防災コンクリートが災いしたのか。光十字のシステムが生きていれば、こっそり相乗りできれば、どこだってアンテナ全開のはずなのに。

 ここにきてマクスウェルにまで見放されたら運の尽きだ。自分が入ってきた扉の位置さえ分からなくなるかも。今開いているのはあそこだけなんだ。

「どういう状況だと思う? 光十字の連中がどこか一ヵ所に固まっている『だけ』だって思うか」

『ノー。いくつか仮説は構築できますが、いずれにしても客観的根拠を提出できません』

「……、」

『ただ、何にしても平常運転ではないでしょう。つまり、彼らにとっても「これ」をやらなければならない理由ができたのではないでしょうか』

 それは。

 例えば、姉さんやアユミのようなアークエネミーが、この施設の中で暴走して猛威を振るったとか?

 あるいは、銃器を持った光十字の人間の中で対立・決裂でもあった?

 でも、そんな感じはしない。

 どこにもダメージはないんだ。血が飛び散った跡とか、壁や床が壊れた傷とか、そんなものは一切。

 ただ、ここにあったものが奇麗さっぱりなくなっている。

 まるで『そうなる前に』事前察知して、夜逃げみたいに行方を晦ませた、っていうか……。

 いや。

 まさか。

「僕達が今日、このタイミングで踏み込んでくるのを読んでいたっていうのか?」

『根拠はありません。情報洩れのルートも未知数。ですが数ある仮説の一つに同じ意見があります』

「何で!? 気づいていたなら返り討ちにすれば良いだろ。というか、それ以前に先手を打てば良いんだ。例の誘拐装置でも使って!」

『ノー。システムには有効な回答候補を出すための情報がありません。ただし、結果がこうなった以上、光十字にはこうする事で利益を増やすか、こうする事で損害を減らすか、いずれかの判断があったのではないでしょうか』

 訳が分からない。

 何を考えているんだ、光十字。

『このままここにいてもできる事はありません。地下空間は供饗市全域に及ぶため、ユーザー様一人の手で全て調査するのも現実的ではありません。人手を増やすか、人手に代わる探査ロボットを組み立てるか。何にしても方策を用意する必要があると提言します』

 これでご破算だ。

 散々長い時間をかけて構築してきた光十字壊滅シナリオも使い物にならなくなった。

「……くそ」

 せめて、足を運びたい場所があった。

 医療研究棟、冷凍保管庫。

 レベル4扱いの不死者、アークエネミー達が氷漬けにされているはずなんだけど、やっぱりもぬけの殻だった。

 アークエネミーどころか、冷凍装置も、留め具のネジか釘の一本さえ見当たらない。

 まるで、最初からそんなものはなかったとでも言いたそうな、四角い空間がポカンと間抜けに広がっているだけ。

 光十字はいない。

 アークエネミーも助けられない。

 ……考えもしなかった、最悪の結果だ。

『ユーザー様』

「……あと一ヵ所」

 こっちは意味なんてなかったかもしれない。

 ほとんど動機は感傷に近い。

 この歪極まる地下世界の中心。

 レベル4、コロシアム。

「……、」

 その円形の広大な空間には、元々何もなかった。ただただ手に負えないアークエネミーを複数投じ、殺し合いをさせるだけの最悪の場所。だからこそ、光十字も消し去りようがなかったんだろう。

 そこだけが、『ある方法』で知ったのと同じ景色だった。

 そうか。

 やっぱり『あった』んだな……。

『ユーザー様。スマートフォンのバッテリー残量が五〇%を切りました。明かりとシステムのサポートなしにユーザー様がこの地下を出られる可能性は二%以下と報告します』

「……分かった、戻ろう」

 僕だって、こんな所で犬死にしたいんじゃないんだ。ただ、一緒に出る人がいなかったのがショックだっていうだけで。

 ここにはえげつない光十字の人間や彼らが持ち込んだ機材の他に、不死者、アークエネミー達も閉じ込められていたはずなんだ。

 ……それを自分達の都合で、物や機材と同じように……。

「くそ、これで一からやり直しだな」

『理由が何であれ、供饗市から光十字が撤退したと考えれば喜ばしい事なのでは?』

「かもしれない」

 だけどこんな半端な結果で満足する人間にはなりたくない。

 ひとまずマクスウェルの案内で地上を目指す事にする。おそらく計画的な夜逃げに近いこの地下世界を今から調べても、光十字の足取りを掴むヒントは何も出てこないだろう。

 だけどこれだけ広大な施設を八〇万人の目から隠し続けてきたんだ。行政、警察、地下の工事関係、公共事業、ガスや地下鉄。様々な業種・階層に根回しが必要なはずだ。

 必ずどこかに匂いは残っている。

 それが『どこか』を見極めるところから再出発、か。

 そんな風に考え、元の廃工場内出入口から地上へ上がった時だった。

『それ』は突然やってきた。


 鼓膜というより腹に響く重たい炸裂音と、夜空を引き裂く閃光の渦。


 混乱の中でも、火薬の爆発だっていうのはすぐに分かった。

 一瞬、爆弾でも投げ込まれたのかと本気で考えた。光十字の連中ならそれくらいやりかねない。

 でも違う。

「……なん、だ!? 打ち上げ花火!?」

『シュア。行政記録によりますと加糖煙火製作所が試験発射名目で取扱許可を申請、受諾されています。ただし試し打ちにしては規模が大き過ぎる。おそらく本音を建前で隠していたのでしょう』

 こうしている今もバカスカ打ち上げられた無数の花火が色とりどりの大輪を咲かせていた。

 一発十万単位、いいやものによっては桁が一つ増えるかもしれないほどの乱痴気騒ぎ。

 でも、これは何を祝う花火だ。

 何だか鼓動がひどい。胸には不安しかない。

『ユーザー様』

「何だマクスウェル」

『フルセグ放送から気になる情報を取得しました。全国放送クラスです』

 見たくない。

 だけど、捨て置くのも怖い。

 レントゲンに不審な影が映った患者っていうのは、こういう心境なんだろうか。

 息を吸って、吐いて。

 そして僕は言った。

「画面に出してくれ、マクスウェル」

『シュア』

 直後にスマホの画面がテレビ放送に切り替わった。全国キー局の中で、若い女性の黄色い声が飛んでいた。


『アークエネミーVSアークエネミー! いよいよ始まります新たな公営ギャンブル、厚生労働省お墨付きの「コロシアム」が!! 全国に先駆けての流行震源地、ホームグラウンドの供饗市はまさにお祭り騒ぎだーっ!!』

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。

 なん、だ?

 何を言っているんだ、コロシアム???

 それは供饗市の暗い暗い地下に封印してあった最悪のスキャンダルのはずだろう。光十字っていう巨大組織が躍起になって隠したがっていたもののはずだろう!?

 何だこりゃ?

 何で全国放送で、ビッカビカにライトアップされたスタジオで、美人の司会者が正々堂々開催宣言なんかやっているんだ!?

『司会進行はわたくし、バニー衣装が眩しいカレンちゃんがお送りしますっ。いやー、カジノ誘致で手間取っている感のあるギャンブル関係ですが、水面下ではこんな事になっていたんですね。まだまだ日本のモノヅクリ精神は捨てたもんじゃない! 新しいものや仕組みは作れるっ、パワーはみなぎっている! イノベーションを爆発させて、むしろ世界に先立ってやってやりましょう! 新たな娯楽「コロシアム」を!!』

 長い髪もバニー衣装も密林の蝶みたいな青い輝きで満たされた司会者の言葉に愕然とする。

 刑務所の数が足りないから変な匂いのする枯れ草を合法にしましょう、などというニュースを耳にしたアメリカのご家庭はこんな気持ちだったんだろうか。

 はっきり言う。

 ふざけるなっっっ!!!!!!

「マクスウェル、これはマジネタなのか? 光十字のヤツら、本当に狂気の『コロシアム』を表に出してきたって!?」

『シュア。厚生労働省という名が出てきたので行政システムに当たってみたところ、正式に受理されています。競馬や宝くじのように官僚系の利権が大きく絡む点、公営カジノに対する意識調査で悩む政治家の他、厚労省と光十字は医療関係で元々太いパイプを築いているはずです。口裏を合わせるのもそう難しくないのではと』

 それにしても。

 それにしたって……!!

「こんなのテレビの前の公開処刑じゃないか! 許されるのか? そんな訳がないだろう!」

 当たり前の疑問には、画面の中の青いバニーガールが応じるように言った。

『はい、はーい。皆様が支払う勝者投票券、つまり賭博チケットの売り上げは大会運営費用として健全に補填されますからご安心を。中でもデカいのがこちらっ! 試合出場するアークエネミーの皆さんには、一戦を制するごとに莫大な報酬が支払われます。一回勝てば一千万、後は勝つごとに倍々で増えていく! もちろんヤバいと思ったところで降りていただいて構いません。ハゲシク戦ってカシコク資産運用! 我々はアークエネミーの皆さんの豊かな暮らしを応援していますう!!』

 ……そういう風に調整しているのか。

 仮に連戦の中でアークエネミーが倒れても、それは大会の落ち度ではなく欲を張った自分の責任だと。しかも賞金は賭け事に負けた人達のお金をかき集めたものだと公言している。こんな状況じゃ、カメラの前で戦わされる不死者達はとことんヘイト値が膨らむ一方だ。

 実際には、『降りる』権利なんて与えないくせに。

 どんなアークエネミーだろうが、死ぬまで連戦を繰り返させれば一円も賞金を出す必要はなくなる。だから、『そうなる』まで延々と戦わせるつもりのくせに。

『さらに対戦相手死亡時は、その遺体は勝者のものになるらしいです。ん? 何でこんな特典設定されているんだろ。まあ人狼だの吸血鬼だののオンパレードですから、食べるなり使役するなり、彼らなりの使い道があるんでしょう!』

 駄目押しの上乗せをしてきた。

 捕まっている、戦わされるアークエネミー達への嫌悪感を釣り上げ、かつ、『その後、彼らはどうなったのか』なんて疑問にも手出し無用の言い訳を先に並べる。

『これは海外の事例ですが、死亡承諾書にサインする形の格闘大会はすでに存在します! 我々も負けてはいられないっ、ガッチガチのコンプライアンスに縛られたボクシングやプロレスを見よ、ガラパゴス化なんて許さんぞ! 最高にハイリスクで最高にハイリターンな大会にしましょうっ!! カレンちゃんも全力で応援します、どんどんどんぱふぱふぱふーっ!!』

 狂ってる。

 こんな放送を垂れ流しにしている番組側もそうだけど、これは全国放送だろう? 一億何千万人が観ているばかりか、ひょっとしたらネット経由のストリーミング放送で世界に広がっているんだろう? 何で誰も止めないんだ。立ち上がらないんだ!

 画面の下には細長い枠があって、SNSの公式アカウントに寄せられたメッセージがランダムに表示されていた。

 そこにはこうあった。

『うおおー! 久々に血が沸騰してきたー!!』

『いよいよカジノの時代が近づいているのかねえ』

『さっさと怒られてシュンとしろ。だが面白いので対岸から見てる俺www』

 ……実際には、みんながみんな正直な声とは限らない。

 面と向かっての会話と顔の見えない掲示板では人格が変わるなんて良くある事。それにマクスウェルは言っていた、公営カジノに関する意識調査の結果に悩む政治家の思惑も混ざっていると。だとすると、最悪、肯定的な意見は全部スタッフのサクラの可能性だって否定できない。

 でも。

 それでも。

 気持ち悪い。どうしようもなく気持ち悪い。こんなおぞましい殺し合いが奇麗にラッピングされてみんなの食卓の前にポンと置かれているのが受け入れがたい。この拒否感情さえ溶かし、多数派を味方につけて、何の罪悪感もなく笑ったり怒ったりする不死者達をすり潰そうとする悪意に吐き気が止まらない。

『気になる初陣、今後を占う大事な大事な試金石。第一試合の対戦カードはこちらになりますっ!』

「……、」

 ほとんど貧血のように、立ってもいられずふらふらとへたり込む。気をつけないと目の前が真っ暗に落ちそうだ。

 お構いなしだった。

 画面の中のカレンは笑顔でこう言い放った。


『魔女・井東ヘレンVS人魚・黒山ヒノキ! おっとう、初戦から華々しい試合になりそうですぞう!?』


 言葉に。

 頭をがつんとやられた。

 ついさっき、コンビニで会ったウェーブがかった金髪を肩まで伸ばした小動物系女の子を思い出す。スカートがどうのこうの、生活指導の先生から理不尽な因縁をつけられて小さくなっていた、そんなにも無害な後輩を。

 井東ヘレン。

 あの子が……不死者、アークエネミー。

 しかも光十字の手に落ちている、だって!?

 ついさっき。

 ほんのちょっと前にすれ違った時。何かしていればこんな事にはならなかった。いいや、そもそも井東ヘレンはどうしてほとんど面識のない僕にいきなり話しかけてきた? 彼女は自分を付け狙う視線みたいなものに気づいていたんじゃないのか。僕と『お兄ちゃん』は似ていると彼女は言っていた。それだって、誰かに守って欲しいっていう想いがおかしな錯覚を生んでいたんじゃないか。

 自覚のあるなしは不明だけど、SOSは放たれていた。

 僕はそれを振り切った。

 つまり。

 こうなったのは、僕の落ち度だっていうのか……?


『試合開始は本日一〇時より独占生放送! 全国放送、衛星チャンネル、動画配信サイト。それぞれお望みのスタイルで放送局のチャンネルを要チェックです! チケットの締め切りは一〇分前までです! さあさあ奮って参加せよ。「コロシアム」は皆様の興奮と幸せとお金を応援していますう☆』