第二章
1
始まった。
ついに始まってしまった。
全国放送で生中継の殺し合い。アークエネミー同士をかち合わせて確実に数を減らす光十字の処分策。
レベル4、『コロシアム』。
『レディースアンドジェントルメン! 本日の司会進行はこのカレンちゃんが務めさせていただきます!! さらに解説には格闘技、生物学、宗教論などなど、こちらの専門家の皆様が多角的かつ質の高い情報を……』
青いバニーガールのマイクパフォーマンスが続く。
一〇時スタートなんて言っても、すぐさま殺し合いになる訳じゃないらしい。この辺りはバレーボールなんかの国際試合の中継番組と一緒か。そして長ったらしいセレモニーにいちいち付き合う必要はない。
猶予は一五分から三〇分……は、ないだろう。
何にしても有効に使うしかない。
「井東さん、これを!」
「?」
係員の手でケージから出された金髪の少女に、僕は小さなインカムを握り込ませる。
「こうなったらやるしかない。だから井東さん、まずはここを生き残ろう!」
「……、」
小柄な少女は何か言おうとして、しかし言葉は出ないようで、そのまま左右を係員に固められ、手にしたガラスの杖と共に透明な虫かごの中へと身を投じていった。
悔しい。
でもまだだ。まだ繋がっている。
細い細い糸だけど、まだ希望は捨てるな!!
「マクスウェル。まずは双方のスペック確認だ。魔女と人魚。まるで童話に出てくるような組み合わせだけど、彼女達は実際問題『何を』『どこまで』できるんだ?」
『シュア。前提として、人魚は洋の東西で大分特性が変わりますが、わざわざ魔女とぶつけているくらいです。よほどの変化球でもない限り、西洋圏の人魚でしょう』
短文系SNSベースだと一度に大量の文章は送りきれないのか、メッセージが立て続けに連投されてくる。
『その上で、西洋圏の人魚の特徴は歌声で船乗りを誘惑し、海へ落とす事です。水底へ引きずり込む理由は諸説ありますが、人間の捕食、異性の蒐集、外敵の排除などです。いずれの場合も、一度引きずり込まれれば脱出の見込みはありません。いくつかある対抗策は「人魚の歌声に惑わされない」予防策であって、海に落ちてからのリカバリーについての記述はありません』
「……それ、どこから集めてきたデータだ?」
『シュア。ネットから無作為に』
パパパパパ、と画面へ次々に表示されるのは、個人・企業を問わない様々なサイトだった。中には自作の小説サイトやゲーム攻略が高じて辞典化したまとめサイトなんかも普通に混じっている。ハープを持っていたりいなかったり、水着っぽい衣装のデザインに差異こそあれ、下半身が魚になった女性が海から突き出た岩に腰掛けて歌を歌っているのは概ね同じ。それらを見ながら、率直に僕は思う。
……正直、あてになるのか?
何度でもコンティニューできるゲームの攻略情報じゃない。知ったかぶって赤っ恥をかく程度の掲示板の書き込みとも違う。
命だ。
人の命を乗っけた選択に使えるのが、誰がまとめたかも分からないネット情報だけ……?
「いや、立ち止まってもいられないか。取捨選択はこっちでやるしかない。マクスウェル、魔女の方は? というか、そもそも魔女ってアークエネミーなのか」
『シュア。魔女狩りや異端審問の時代には、魔女はすでに同じ人ではないものと法的に定める事で、様々な拷問、処刑、財産没収などに動いていたようです。つまり「人」権の剥奪ですね』
「井東ヘレンは中世の魔女なのか?」
『ノー。あくまで一例です。公式アナウンスの情報が正しければ、キルケの魔女という話でした。同人物はギリシア神話で語られています』
「具体的に」
『キルケは特別な薬を調合し、人間を動物や異形の怪物に作り替える事で知られています。これはギリシア神話の神々が人間に天罰を与えるものとそっくりです。この技術を引き継ぐ者達を指してキルケの魔女と分類しているのでは』
……。
なるほど、それでか。
正直、吸血鬼やゾンビと違って、魔女がアークエネミーに分類されているのはちょっと違和感があったんだけど。
「マクスウェル。不死者、アークエネミーの定義を頼む」
『シュア。一つ、生物学の法則を無視して寿命を克服したか、計測不能レベルの長寿の存在。一つ、人間から派生したか、人の手で作られた存在。一つ、他の正常な人間への伝染、感染が予想されうる存在。条件次第で細かく変動しますが、概ねこうなります』
「……つまり神様の技を盗んで下界にばらまく、神様の薬で人間を異形化させる、どっちにしても感染源って見られた訳か」
そう考えると、吸血鬼やゾンビのお仲間っていうのにもぴんとくる。
「じゃあ根本的な核心を。……井東ヘレンは本当に魔女なのか。光十字のでっち上げじゃなくて?」
『判断が難しいところです』
マクスウェルがハイともイイエとも言わないなんて珍しい。
『医療記録上では過去一回の骨折とインフルエンザでの入院履歴あり。快方まではあくまで平均の範囲内です。ただし』
「ただし?」
『井東ヘレン当人ではなく、同室の患者達の治りが早い。いえ、処方される薬が副作用もなく効き過ぎているとでも言いますか』
自分は人のまま、周りに変化をもたらす存在。
魔女。
『おそらく今の今までノーマークだったのも、この変則パターンのためでしょう。動画サイトに井東ヘレンが飼育係として面倒を見ていたインコの映像があります。彼女が包帯を巻くと怪我をした小鳥が異様な速度で回復していくといった隠し撮りで、これが検索網に引っ掛かったのかもしれません』
……何をやっているんだ、くそ。
他の命を助けて自分が捕まる? 窮地に陥る? それのどこがモンスターだっていうんだ。
いいや。
ひょっとしたら井東ヘレンは、光十字に捕まるまで自分の力や性質に自覚さえなかったんじゃないか。
日々回復していく小鳥を見て、不思議な事はあるものだと首を傾げながらも、ちょっとした奇跡に喜んでいたんじゃないか。
これが排除されるべき悪なのか?
むしろ勝手に女の子を隠し撮りして、本人の許可も取らずに公開して、正義の皮を被った下世話な好奇心丸出しで不気味がって糾弾するヤツが同じ学校にいるって方がはるかに嫌悪感が強いのは、アークエネミーを家族に持つ僕だけなのか?
『ユーザー様、光十字は人道・医療分野に強い影響力を持つ世界最大の国際組織です』
マクスウェルは冷静に切り込んだ。
『表向きは非営利団体として登録されていますが、各国の製薬会社や医療機器メーカーを中心に相当額の献金を受けています。国の薬事審議や企業の福利厚生基準、生命保険などの裁定にも深く影響しているからでしょう』
「分かりやすく」
『シュア。彼らからすれば、治りの早い遅いは関係ないのです。自分で作った商品は決められた数値通りに効いてくれなければ困る。万が一、井東ヘレンの周辺で人が倒れれば自分達の商品が糾弾されるかもしれないのですから。不安定な奇跡などビジネス上のリスクにしかならない……という輩の後押しを受けている可能性はないでしょうか?』
……なんて事だ。
数値通り、ビジネス上のリスク? もしもの仮説だとしても、それはあんまり過ぎるぞ!
井東ヘレンは自分から何かした訳じゃない。周囲の人は快方に向かう事はあっても実際にネガティブな健康被害に向かった人は出ていない。それでも、『かもしれない』だけで処刑台に引っ立てるだなんて……。
「分かったマクスウェル、経緯はどうあれ井東ヘレンは不死者、アークエネミーっていうのは間違いないな? 彼女は冤罪じゃなくて、『できる』とみなして」
『シュア。十中八九』
「なら魔女は何ができる? 人を動物に作り替える薬を作る、キルケだか何だかの話をしていたけど……」
その時だった。
天井一面の大型照明の向きが変わる。莫大な光に目が眩む。そして巨大なサイコロみたいな透明の虫かごの上で、マイク片手の青いバニーガールが狂喜の声をがなり立てる。
『ではでは会場の空気も暖まりましたし、長話はこの辺りにしてメインイベントに移りましょう。魔女VS人魚、勝つのはどっちだ! 特設会場で、ライブビューイング会場で、テレビの前で、とにかくチケット握り締めてご覧ください!! これが最先端の総合異形格闘技、「コロシアム」だあーっ!!』
「ちくしょう……!!」
何にしても時間がない。
井東ヘレンは力を持っているが、自覚さえない状況だ。今のままじゃ普通の女子高生、飼育係と同じくらい。地肌に直接髪束を巻き付け、海の中でも呼吸のできる人魚とかいうのに嬲り殺しにされる!
『互いの長所短所を活かせないのでは意味がない! 条件を五分にするため、人魚の黒山ヒノキ選手に合わせ、リング内は水深一メートルほど注水させていただきます』
っ。
『代価として魔女の井東ヘレン選手には四二種の化学薬品を無償で貸与いたします! さあお二人とも思う存分っ、人間離れも現実離れも極めに極めたアークエネミーの力を発揮してください!!』
ふざけるな……っ!
思わず手の中のスマホを掴み直して叫ぶ。
だけど相手はマクスウェルじゃない。虫かごの中の井東ヘレンだ。
「井東さん! その薬を見て使い方は思い浮かぶか!?」
『……あの、ええと、あのう……』
耳のインカム越しにスマホへ返る声は要領を得なかった。当たり前だ、何だあの銀のワゴンに乗ったカラフルな小瓶の群れは? カクテルどころか蛍光塗料だってもう少し大人しいぞ。しかも周りは腰まで浸かる水の中。あれが劇薬だとしたら、扱いを誤って周りに落ちるだけでまずい!
そうこうしている間にも勝手に状況は進む。
カレンとかいう女はこう言い放つ。
『それでは新時代の幕開けを伝える貴重な第一戦、時間無制限デスマッチ! 張り切って参りましょーう!!』
刑務所の扉が開くような、低くて太い電子ブザーが延々と響き渡った。
試合開始の合図。
だがそんなものは、一秒後に吹き飛ばされる。
人魚。
自らの長い髪束を痩身に巻きつけた、海の女王を中心に。
ぶぶわっっっ!!!!!! とサイコロ状の虫かごを埋める水面に不規則な波紋が浮かび、そして全ての面の強化ガラスが白く細かい亀裂で埋め尽くされた。身動きの取れない魔女・井東ヘレン側じゃない。人魚・黒山ヒノキ側からの第一撃だった。
だけど水を操っているんじゃない。
ガラスを壊す力でもない。
歌。
音波。
その圧。
吸血鬼の姉さんやゾンビの妹と違って、人魚は相手の肉体を作り替える訳じゃない。だけどのその歌声は嵐の夜をも突き抜け、戦場の船乗りを骨抜きにし、意のままに操って海へ落とす。その命すら差し出し、捧げる格好で。そういう意味での感染源、ヒトを支配するアークエネミー。
「あぐぅあっ!?」
間接的なスピーカーさえ破壊しかねない危険な爆音。スマホを掴んでいた僕まで耳を押さえて体をくの字に折る羽目になった。
ただし。
音源、元凶は。
莫大な歌声を放つ人魚・黒山ヒノキじゃない!?
ゴッッッガッッッ!!!??? と。
小動物のように肩を縮めてびくびく震える、ウェーブがかった肩まである金髪の少女。井東ヘレンを中心に、横薙ぎに三日月を描くように噴き出した紅蓮の炎の爆圧が、人魚の歌声を押し返した……ッ!?
『井東ヘレンの言動を再チェック、音声の振幅に不自然な揺らぎあり。おそらく緊張状態で呼吸が乱されているためと推測』
画面の中でマクスウェルがメッセージを連投してきた。
『その薬を見て使い方は思い浮かぶか。ユーザー様の質問に対し緊張したのは、使い方が分からなかったからではありません。一目見て、直感で分かってしまった事を伝えるのを躊躇したのでしょう』
「……っ!!」
分かってしまった事が、ある種の証明。
吸血鬼が血の匂いに、ゾンビが肉の味に敏感であるのと同じように。その魔女は手先の感覚で怪しげな薬品の使い方を理解してしまい、そしてそんな自分に絶望した。
唖然とする僕の前で、井東ヘレンは無数の透明な管や瘤がついたガラスの杖を掴み直す。トランペットやトロンボーンみたいな管の群れにカラフルな小瓶の口を突き刺し、いくつもあるピストンを楽器の演奏のように激しく操作していく。
カラフルな液体が絶叫マシンみたいに透明な管を潜り抜けていく事で色分けされ、ようやく僕はガラスの杖の全貌が見えてきた気がした。
「何だ……あれ? 縦に伸ばしたコーヒーサイフォン……?」
『シュア。分析完了、原理は変わっていません。加熱と冷却、蒸気の操作による蒸留や分留。そのために必要なバーナー、還流冷却、三又フラスコ、全て揃っています。空気圧縮を利用した加圧や減圧にも対応しており』
「つまり何だ!?」
『ユーザー様の高校にある化学実験室が丸々一つあれ一本に詰まっています。ちょっとした化学兵器くらいなら合成可能なはず。流石は医療系に強い光十字です』
……後は初めてそれに触れたのに使いこなしている井東ヘレンもか。
便利過ぎるパソコンやスマホって、余計なサービスの多さにかえって圧倒されるものなんだけど。そういう迷いも見当たらない。
そうこうしている間にも、小さな魔女がガラスの杖の中で組み合わせたカラフルな薬品が解き放たれるたびに、炎の塊や真空刃の竜巻が虫かごの内側を席巻していく。
これを、井東ヘレン自身はどう受け止めているだろう?
自分は特別な存在だと胸を張っているか。
一層小さく見えるその背中は、とてもじゃないけどそんな感じじゃない。
そして人魚の……黒山ヒノキの方も黙っていなかった。
彼女の武器は歌声だけではなかったらしい。だけど大量の水を操って鉄砲水で押し流す、なんて真似でもなかった。
もっと予想外のものだった。
両足に巻きつけた長い髪束、尾びれが水面を叩いた直後、
「な、ん!?」
岩。
虫かごの床や水面を突き破り、巨大なサメの歯のように鋭い岩が何本も人魚の手前に飛び出した。井東ヘレンが呼び出した炎の塊を弾く盾として。
……岩を、操る?
海に住む人魚なのに?
いや。
「マクスウェル、人魚の絵画を出してくれ。どれもこれも、岩に腰掛けて歌っていないか」
『シュア。それがいかがいたしましたか?』
言うまでもないが、船員を船から落としたり船ごと沈めたりする人魚は海難事故の擬人化だ。出没スポットは大体難所と言われる暗礁や海峡である事が多い。
でも、人魚は海の、水の象徴じゃなかったんだ。
岩。
岩礁。
水面下に潜み、知らぬ間に船と激突し、船底に大穴を空けて無慈悲に船員の命を奪う。そんな鋭い岩を擬人化したものだったんだ。
だとすると、まずい。
井東ヘレンの足元から直接『突き上げ』が来るかもしれない。
いいや。
そもそも。
「というか、人魚のヤツはどこ行った……!?」
いない。
正面から歌声を撒き散らすだけでは押し負かされると感じたのか。でも逃げるとしたらどこへ。
決まっている。
黒山ヒノキは人魚だ。
痩身に長い髪束を巻き付け、尾びれを形作り、水の中を自在に泳ぐ。そして虫かごの中は水深一メートルほど水没させてある。
極め付けに。
人魚が歌声や岩礁で船員を海へ突き落とし船を沈めるのはあくまで前座、下拵え。その本懐は落ちた人間に牙を立て、捕食するためだ……なんて説もなかったか。
井東さん、とスマホに叫ぶ暇もなかった。
彼女の小柄な体がいきなり消えた。水の中へ。まるで足首にロープを巻いて車で引きずられるような不自然な挙動だった。
青いバニーガールがはしゃぐ。
『おおっとう! 女の戦いは水も滴る水泳大会に超進化したかあ!? どうせならポロリもお願いします!! たくさん数字を獲りましょうよう!!』
うるさい黙れ。
何であいつ美人なんだ。あんなのでも注意しないと胸の谷間や腰のくびれに魂持っていかれそうになる。
呪いの念を送りながら僕はスマホに叫ぶ。
「井東さん! ヤツは水の中に引きずり込んだ人間を捕食する。逆に言えば自ら出れば安全を確保できる。風とか何とか使って、そう、例えば空飛ぶ薬なんていうのは作れないか!?」
『ノー。井東ヘレンがキルケの魔女なら、そういう使い方は間違っています』
マクスウェルが冷静に否定してきた。
『ギリシア神話系なので、火水風土の四大元素を操って万物を形作る、などの思想を利用できるのでしょう。これは物理法則や化学式の話ではなく、そういうオカルト、そういうアークエネミー、と仮定するしかありません』
「それは? マクスウェル、こっちは時間がない!」
『シュア。火水風土を直接使うのは、砂糖や小麦粉を直接食べるのと同じです。パンやケーキに加工した方が味や栄養吸収の面でも効率が優れる、とたとえれば分かりやすいでしょうか?』
「つまり何だ? キルケの魔女……井東ヘレンにとっての料理っていうのは!?」
『言うに及ばず、「人間を動物や怪物に作り替える薬品」です』
……いわく、神々の天罰を人間が再現したもの。
『スキュラという怪物がいます。元は美少女だったものが、キルケの薬で異形化した結果、海を支配し英雄六名を殺害するに至ったと。人魚にぶつけるよりも、井東ヘレン当人が飲んだ方が効率は良さそうです』
もうトラの爪やサメの歯なんて話じゃない。伝説の勇者様御一行をまとめて棺桶にぶち込める大魔王にでもなれるっていうのか。
だとしたら、
「井東ヘレンは薬の使い方は分かっているはずだ。とにかく動物図鑑でも恐竜図鑑でも何でも良い。彼女にインスピレーションを与えられそうなアーカイブを全検索!」
『シュア』
とにかく時間が足りない。
水に沈められた人間の限界は数分。でもこれは潜水の訓練を積んだプロがストップウォッチ片手に挑んだ結果だ。素人の僕達が不意打ちで沈められた場合、いきなり肺に水が入る事もある。
インカムがまだ使えれば良いんだけど。
エリカ姉さんや妹のアユミと一緒にリビングで観たテレビの内容と、お菓子片手の家族の議論を思い出す。最強動物決定戦議論。アユミのヤツはカバとかゾウとか大型草食動物系、姉さんはサメとかシャチとか海洋肉食生物、僕はなんて言ったっけ……。
「とにかく今は人魚を引き剥がすのが先だ」
『水中戦ですと、やはりサメでしょうか』
「いいや引き剥がすだけならタコやイカの方が効率が良い。井東さん! 聞こえているか、井東さん!!」
返事がない。
単純に水中で口が開けないって訳じゃないだろう。サインを送るだけなら指先でインカムを軽く叩くだけでも事足りるんだ。
『返答を拒絶しているようです』
何故?
僕達は信用されていない?
いいや、だとしてもおかしい。彼女は彼女で水の中に沈められ、あと一〇〇秒もないの命だ。信じる信じないなんて二の次で、誰のどんな情報だってとりあえず欲しがるはずだ。それこそ溺れる者が藁を掴むように。
だとすると、何だ?
察しろ、読み取れ。井東ヘレンの心中を。
死の淵にいる彼女に気紛れだの何だので寄り道している余裕はない。きっとここには命を賭けるだけの何かがある。それが分からない限り、井東ヘレンに僕達の言葉は届かない。
……。
いや、まさか……?
「マクスウェル」
『シュア』
「データを出してくれ。多分これでいける」
思い出す。
エリカ姉さんや妹のアユミに、僕はなんていう最強動物を提示したのかを。
大きく息を吸って、吐き出し、可能な限り胸の中から緊張を追い出す。
そして言う。
「……井東さん、聞いてくれ」
返事の有無はどうでも良い。
聞こえている事さえ分かれば。
「僕は今まで君を助ける事しか考えてこなかった。いいや、今でもそれは変わらない。だけど、もしも君が望むなら、僕は違った道を示す事もできる」
一秒でも、一瞬でも構わない。
届け、間に合え。
最後の瞬間に。
「だから騙されたと思って僕の言う事を聞いてくれ。僕から提示できるのは一つ、それはトラでもライオンでもない。つまりは……」
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
ざぱり、と。
水を割る音が響き渡った。
それは僕の持つスマホからで、アクセスの繋がったインカムからで、すなわち持ち主の魔女・井東ヘレンが水面に顔を出した音だった。
逆に。
誰かが勝つという事は、誰かが負けるという事も意味している。
『おおっとう? これは一体どうした事でしょう』
青いバニーガールが遠くからズームで追うカメラの視点に向けて無意味に前のめり、首を傾げて胸の谷間を強調させながら怪訝な声を出す。
答えはすぐに来た。
ぷかり、と。
驚くほど穏やかに、無音で、もう一つの影が水面に浮かんできたのだ。
人魚。
黒山ヒノキ。
制御のための意思を失ったからか、痩身に巻いていた長い長い髪の毛が、水に揺られて少しずつほどけていく。
『これはこれは、まるで死んだ魚のように浮かんでいるぞう! でも水中で一体何があったのか。まーさーかー人魚の黒山ヒノキが水の中で溺れた訳でもあるまいし!!』
ヒュン、という風切り音が全てを物語っていた。
ガラスの杖の魔女・井東ヘレン。
彼女の小さなお尻の辺りから、長くて太い透明な尾のようなものが複数、九尾の狐みたいに逆立っていたのだ。
つまりは。
クラゲの触手を。
2
『結局、毒を持つ生き物には敵わないと思う』
リビングでそんな話をしていた。
アユミやカバやゾウ、姉さんはサメやシャチ。テレビ番組を観ながら僕が提案した最強動物と言えば……。
『スズメバチにしても、サソリにしても、マムシやハブにしても。体積差数十倍以上の人間を仕留められる大番狂わせってそういうものだろう?』
『でもでも、クマさんはハチミツを手に入れるためならスズメバチの巣でも掘り返しますよ? 全身刺されてのた打ち回りながら、でもハチミツぺろぺろをやめられないカワイイ子だったはずです』
『いやスズメバチってハチミツ集めないし、あれ幼虫食べてるんじゃないの? 確か見た目はグロいけど栄養食だったよね、ハチの子』
『えっ、ええ!? そんな、そんな馬鹿な私のカワイイ子クマさんのビジョンがあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!』
『とにかくさ』
一口に毒を持つ生き物って言っても色々いる。でもって、大抵は『その毒が効かない別の生き物』が存在する。力業で蜂の巣を襲うクマとか、イソギンチャクと共生している小魚のクマノミとか。
でも。
そんな中に一つだけ、そういう例外を持たない究極の毒を持つ生き物がいる。
『イルカンジクラゲ。オーストラリア近海に出る殺人クラゲだ。全長は成体でも二センチ未満で海水浴場のサメ用ネットを潜り抜けるほど小さいけど、こいつは一刺しで人間を確実に仕留める毒針をぎっしり備えている。ハブの血清みたいな生還の可能性も残さない。透明だから形も見えない、幼体なら米粒の一〇分の一以下だからどんな網の目でもすり抜ける。多分こいつが、僕の中では最強だ。トラよりもサメよりも、絶対に会いたくない相手だよ』
3
皆が呆気に取られていた。
だけど関係ないんだ。
群衆にとっては血沸き肉躍る戦いよりも、まずは手の中で握り締めたチケットだ。そして勝敗は決まった。どんな内容であれ、結果が出たのなら賭け事も成立する。
世界を震動させるような大歓声が、一歩遅れてやってきた。
経緯を追えないからと言って、今さら没収試合にする事もできないのだろう。虫かごの上の青いバニーガールも流れに乗っかっていく。
彼女はその場でぴょんぴょん跳ねて、スレンダーなくせに豊かな胸を無駄に揺らしながら、
『おおっとおおっとう!! オッズを無視した番狂わせがやって参りましたあ! 試合を制したのは虫も殺さぬ顔の小動物系、井東ヘレン選手! 見たところクラゲ触手の毒針で一刺し、かにゃ? 見た目と違ってえげつない、だけどだからこそみんな騙された! 貼り付けた電極による心停止も確認済みです!! 彼女は見事やり遂げたあーっ!!』
四角い虫かご、その対角線の向こう。
一人の青年が絶叫しながら崩れ落ちていた。彼は、人魚・黒山ヒノキの何だったんだろう。家族か、友人か、あるいは恋人? それはもう分からなかった。ただ、あのアークエネミーのために涙を流してくれる人がいたんだっていうのが理解できただけで。
僕にとっては、エリカ姉さんやアユミがショービジネスで息を引き取るのを目の当たりにしたようなもの、なんだろうか。
僕は彼に殺されるかもしれない。
名前も知らない相手だけど、何故かそこだけ理解できた。
そしてもう止まれない。
払い戻しの狂熱が覚めない内に、さっさと『確定』してしまおう。
地上の僕は、虫かごの上から下界を睥睨する、長い髪も衣装も密林の蝶みたいに青く輝かせたバニーガールに叫ぶ。
「おい!」
『はいはーい。魔女のセコンドさんですね? 一体どうされました、念願の初勝利なんですからもっと笑って! スマイル!!』
ほっぺたの前で緩くグーを握ったくりくり目は完全に無視する。
「報酬の確認をしたい」
『初陣ですので井東ヘレン選手には一千万円を贈呈します。これはあくまでベース、次からは勝てば勝つだけ倍々ですぞー。細かい入金方法はカメラの外でした方がよろしいのでは?』
「それだけじゃないはずだ」
息を吸って、吐く。
目的のために、外道に落ちる。
「勝者は敗者の遺体を手に入れられる。捕食にしても調合素材や取り込みにしても、使い方は自由。そういう話だったはずだ。忘れるなよ」
『あっはは! もちろんでっす。アークエネミーは人間じゃありませんから死体遺棄や損壊には当たりません。それは我々光十字がお約束します。でもでも西洋の人魚は食べても不老不死にはなりませんよ?』
「使い道は、アンタの気にする事じゃない」
そこまでだった。
喜怒哀楽では表現のしようがない、名状しがたい雄叫びが僕達の会話を遮った。言うに及ばず、相手方のセコンドの青年だ。
冒涜はしている。
だけど済まない。負けたアンタにはもう状況を動かす資格はないんだ。だから今は、黙って見ていろ。
青いバニーガールは強烈なスポットライトの下で手の甲を使って額の汗を拭い、腋を見せながら、けらけらと笑って言う。
『まあ、魔女は何かと入り用ですしね。あるいはそっちのお兄さんの趣味実用かにゃ? よくよく見ればなかなかソソるカラダつきですし☆ まあまあ余計な詮索はいたしません。これは勝者の権利! 勝手に生ゴミを処分してくださるなら私達も止めはしませんし!!』
いちいち神経を逆撫でする声で、青いバニーガールは締めくくっていく。
『ではでは今回はこの辺りで締めとさせていただきます! ギャンブルに勝った方も負けた方も、引き続き「コロシアム」で熱い夜をマンキツしましょう!! それでは皆さん、よい夜を。あでゅー!!』
4
冷たい部屋で、キャスター付きの担架に乗せられて。まるでホテルのルームサービスか何かのように、『それ』は運ばれてきた。
仰向けでぴくりとも動かず。胸の高さで白いシーツを掛けられた、蒼ざめた『それ』。
人魚。
黒山ヒノキ。
「……ほ、本当に……?」
びくびくしながら、魔女のコスチュームに身を包みガラスの杖を手にした井東ヘレンがか細い声を上げてくる。
「本当に、私達のものに……なったん、ですか……?」
「ああ、言質は取ってある。全国放送のカメラの前でね。今さら決定は覆せない、何が起ころうとも」
ここには僕達以外誰もいない。
お楽しみの時間だから誰にも邪魔はさせない、とだけ言うと、何故だか係員達は下衆に笑って引っ込んでくれた。
みんな死ねと本気で呪う。
そして僕達は敗者と向かい合う。
死体は語った。
「……かっ、は! うぐぅえ!? げほっ、がはごほ!!」
それはまるで。
目覚まし時計のタイマーに叩き起こされたような、そんな予定通りの咳き込み方だった。
これが井東ヘレンからの『要求』だった。
トラやライオンでは駄目。サメやシャチも受け付けない。そもそも井東ヘレンは戦いたくなかったのだ。殺し合いなんてしたくなかったのだ。だから人魚の手で水の中に沈められ、わずか数十秒の命と分かっていても、『殺して生き残る選択肢』は絶対に掴まなかった。
気づいてからも大変だった。
人魚・黒山ヒノキを殺さずに試合を終わらせる。無効試合とか何とか言われてやり直しにされても困る。確実に勝負を決し、かつ、負けた黒山ヒノキを虫かごから解放できる方法はないか。
その結果がこれだった。
猛毒による仮死。
そして、勝者が敗者の遺体を回収する権利。
二つを組み合わせれば、助け出せる。
最悪の『コロシアム』から、命を一つ逃がす事が。
というか、成功して良かった。
殺人クラゲが参考だったから、息を吹き返さない可能性だって当然あったんだ。
それに、シーツを胸の前でかき集める人魚はなかなかの美人だ。戦っている間は割とそれどころじゃなかったけど、布越しの盛り上がりを見るに、姉さんにも負けないものを持っているかもしれない。
殺さなくて良かった。
「……わ、たし、かはっ!? どうなったの、試合は、だって……」
「良いんだ」
何にしても、余計な事を考えられるようになったっていうのは結構な事だ。生きるか死ぬか、そんなメチャクチャな状況の外に脱したっていう意味なんだから。
だから、今さら多くを語る必要はない。
恩を着せるつもりもない。
「終わったんだ、全部。アンタは元の場所に帰れる。それだけ覚えていれば大丈夫だ」
合点がいかない顔の人魚はひとまず放って、僕は小さな魔女と向き合った。
「何度も使える手じゃない。光十字も気づけば対策してくるはず」
「……分かって、います……」
そもそも『コロシアム』に出口はない。何回勝てば解放とか、優勝すれば抜け出せるとか、そういう救済ルールのあるものじゃない。
死なないなら死ぬまで連戦させる。
次から次へとアークエネミーを檻へ投じ、殺し合わせ、代替わりの繰り返しによって誰もが短命、生き残れない仕組みを作る。
処刑装置なんだ。
スポーツ大会じみたフォーマットは誤魔化しに過ぎない。
だからルールに従っているだけじゃダメだ。これはあくまで時間稼ぎ。井東ヘレンが命を食い繋いでいる間に、自由に外を歩ける僕にはやる事がある。
公衆の面前で堂々と行われる、頭のイカれた『コロシアム』。でも無理を通すためには様々な印象や情報を操りねじ曲げる仕組みがあるはずだ。それを暴いて破壊すれば、みんな当たり前の事を当たり前に気づくはずだ。こんなのはおかしいって。その声が、本当の意味で井東ヘレンらアークエネミー達を解放する巨大な圧になる。
こんこんこん、とドアの向こうからノックする音があった。
係員か、警備員か。
何にしてもドアを蹴破って強行突破は難しいだろう。大義名分を得た黒山ヒノキはともかく、井東ヘレンは連れ出せない。
ここで僕が暴れて取り押さえられれば、セコンドという細い細い繋がりさえ絶たれてしまう。
「……、」
ヤツらは壊滅しなくちゃならない。
本当は分かっていたはずだ。場当たり的に井東ヘレンを連れ出したって何になる? 彼女は家を捨てて雲隠れするのか、光十字は日本どころか世界一〇〇ヵ国以上に根を張っているんだ。全てを捨てて逃げ回ったって、そこまでやっても安心なんか得られない。
逃げるだけじゃダメだ。
立ち向かわなければ追い詰められる。
時間がない。
自由に話せるリミットはすぐそこだ。
だから。
一番大切な事を、端的に切り出した。
「それでも感想を聞きたい。僕は、君のパートナーとしては不足か? 信用には足らないか?」
返事は一つだった。
僕は井東ヘレンと握手を交わした。