第七章



   1


 その広大な地下空間には、当然ながら窓のようなものはない。いったん入ってしまえば目と鼻の先も見えない濃密な闇が全てを支配する。

 懐中電灯を買う事も考えたけど、ディスカウントストアに寄る暇もない。ダークエルフの村松ユキエがスマホの急速チャージャーを持っていたので、それを拝借してスマホのバックライトを当面の光源にする事に。そのまま問題の『地下』へ。銀行の大金庫のような丸くて分厚い扉を開けて踏み込んだ訳だ。

 ……まさか、この忌々しい供饗市の暗部が僕達自身の命を助けてくれる時が来るなんて。

 分厚い扉のロックはマクスウェルが書き換えているから、光十字の鍵では開かない。仮に向こうのシミュレータが力業でこじ開けてきたとしても、通路は蜘蛛の巣のように張り巡らされ、市内全世帯の地下と繋がっている。僕達はどこからでも逃げられる。流石の光十字だって完全包囲はできないはずだ。

「す、すごい。何なんですか、ここ……?」

 黒いワンピースに羽根飾り付きの魔女帽子の井東ヘレンは感心半分不安半分といった調子でかまぼこ状の断面のトンネルをあちこち見回していた。

 光十字の元地下施設の跡地、とだけ答えておいた。

 何が行われていたか、具体的な事まで説明の必要はないだろう。

「マクスウェル」

『シュア』

「井東ヘレン宅、村松ユキエ宅、そして天津サトリ宅をピックアップ。外からカメラで監視されていても、家の地下から直接潜り込む分にはバレないはずだ。たとえ街中の防犯カメラや人工衛星で監視されていたって。それぞれの家からできる限りの食糧と水、その他生活物資をかき集めておこう。短期決戦で終わらせるのがベストだけど、実際には何日籠城する羽目になるかは分からないんだ」

 ヤツら自身の造った仕組みでヤツら自身を欺く。そう考えるとちょっとだけ黒いユーモアに笑いが込み上げる。ここで散っていった多くのアークエネミー達に、少しでも報いる事ができただろうか。

 ……本当なら家に帰りたい。ベッドに潜ってぐっすり眠りたい。

 だけど、光十字の連中が僕達の家に直接襲撃を仕掛けてきたら最悪だ。そうならないようにするためには、『同じ家族でも行方が分からない』状況を作っておいた方が安全なんだ。

 情報は持つだけじゃない。

『知らない』事だって、時には武器になる。

「それから井東さん。『コロシアム』から分捕ってきた薬品はどれだけ余っている」

「えと、ひとまず一式、ほとんど残っていますけど……ひゃうっ」

 ならば良し。

 魔女帽子の飾り布や袖の中、さらには太股にまでカラフルな試験管を忍ばせてくれた後輩に、思わずアユミにやるみたいに頭を撫でてしまった。

 アークエネミーでも機関銃でも投入し放題の光十字と比べて、僕達はあまりに頼りない。ダークエルフの攻撃は基本的に搦め手で即効性は低い。僕なんかやわな軟弱男。頼みの綱はマクスウェルの演算と井東ヘレンの薬品くらいなんだ。

 こっちがやるべき事は三つ。

 当座の安全を確保する事。

 満身創痍の井東ヘレンが回復するまで安静にする事。

 そして、光十字のシミュレータを確実に破壊する事。

 小麦色の肌のダークエルフもとりあえず協力してくれるらしい。今回は彼女の遺体を『引き取って』……つまり僕達の手で解放していない。光十字側に回収された場合、どういう扱いを受けるか想像がつかないんだから当然か。

「でも、そんな大きなコンピュータがどこに隠してあるかなんて分かるの? 光十字にとってもトップシークレットのはずでしょう」

「ああ、でも分かる」

 あそこしかないんだ。

 第三戦が急遽始まらなければ、そのまま制圧できたかもしれなかったんだ。


「公立供饗第一高等学校。僕の通う高校だ。あそこに決まってる」


   2


 どうして僕の学校がそんなものを抱え込んでいるかは知らない。そもそも光十字なんぞと関わりを持っている理由だって。

 だけど、条件が当てはまってしまうんだ。

 昼夜問わずの膨大な通信容量と電気使用量、冷却装置にしてもとてつもない量のプールの水を循環させれば何とかなる。

 本当は今すぐにでも飛んでいって全部台無しにしてやりたい。でっかいハンマーでも振り回して片っ端からぶっ壊してやりたい。

 でも、

「……、せんぱい?」

 かまぼこ状の断面のトンネルの壁に寄り掛かる格好で、ガラスの杖を両手で抱える井東ヘレンが顔を上げてきた。

 それぞれの家から持ち寄った毛布に、フリーズドライの食べ物、後はキャンプ用品の簡易ランプの存在が大きかった。これならスマホのバックライトより長持ちするし、暖も取れるし、お湯も沸かせる。

 食べ物の存在もそうだけど、女の子達はお湯に浸したタオルで体を拭ける事が嬉しかったようだ。

 あちこちボロボロの井東ヘレンを少しでも休ませて、体の回復に専念させてやれる。

「怪我の方はどんな感じ?」

「私は、大丈夫です。すぐにでも……」

「正直に。また体をまさぐって欲しいの?」

「ひゃいっ」

 痛みを思い出したのか何なのか、微妙に顔を赤らめながらマントで全身すっぽりくるんだ井東ヘレンはこくこく頷いた。

「で、でも、お薬も効いていますから、本当に。あと一日か二日もあれば、肋骨も完全に繋がりそうですし」

 改めて思う、カラフルな薬液を自在に操る井東ヘレンは確かにアークエネミーだ。折れた肋骨が一日二日で完全に繋がるなんて言ったら、ノーベル賞でも獲ってそのまま製薬会社を作れる。

「あ、あの、お急ぎでしたら、私はここに置いて、先輩達だけでも先に……」

「光十字が入ってきた時、扉を自由に開け閉めできるのはマクスウェルだけだ。一人で残っていたら袋のネズミだよ」

「でも」

「確かに千載一遇のチャンスは絶対モノにしたい。でも、あれだけ大規模なスパコンは簡単には移転できないんだ」

 これだけ鮮やかに地下を引き払った光十字の事だから、そういう選択肢も頭にあるだろう。でもスパコンの設置条件は複雑で、該当する施設は少ない。電源を点けたまま移動、も流石に無理なはずだ。一方で、次の使用準備にもたもた一週間も二週間もかかるなら、それはもう機材の自殺と一緒だ。連中が再びシミュレータの電源をオンにする前に、マクスウェルのフル稼働で短期決戦に挑めば良い。

 光十字も光十字で、マクスウェルの存在を危惧しているはずだ。

 僕達がシミュレータを狙っているのに、安全にシミュレータを移転させるには僕達を倒さなくてはならない。

 だから心配していなかった。

 それよりガラスの杖を操る井東ヘレンという戦力が完全回復するのを待った方がはるかに勝率も上がるんだ。

 彼女はアークエネミーだけど、吸血鬼の姉さんやゾンビのアユミと違って、感染規模を完全にコントロールできる。派手さはない代わりに思い切り使える力。核爆弾とGPS精密誘導航空爆弾の違いみたいなものだ。考え方次第では井東ヘレンの方が有利だって言えるかもしれない。

 現に。

 ここまで追い詰められても、僕はまだエリカ姉さんや妹のアユミに泣きつくっていう選択肢に現実味を持っていない。

 それはできる。

 でも実際にそれをやったら、何か取り返しのつかない一線を越えてしまう。そんな気がするんだ。

「それにしても、つくづく光十字の大きさを思い知らされる場所よね」

 そんな風に言ってきたのは、ダークエルフの村松ユキエだった。

 全ての扉は施錠されているはずだけど、ノースリーブにタイトスカートの彼女は暇を見つけては長弓を持ったまま蜘蛛の巣状の通路を歩いて探検している。

 ちなみに設備は全て引き払われているため、この地下は言ってみれば入り組んだ大きな箱だ。井東ヘレンや村松ユキエが濡れタオルで体を拭いたり着替えたりする時も仕切りはないんだけど、そこはそれ、距離を離す事で鉢合わせないように努力はしている。

 うん、努力は。

 何故だか道に迷ってぐるぐる回っている内にがっつり鉢合わせ、半脱ぎ女子の涙目ビンタだの高圧電流の矢だの散々ぶつけられた事もあったけど、僕は概ね元気に生きています!

『ユーザー様に報告があります』

「?」

 井東ヘレンからやや離れた辺りで、マクスウェルがメッセージを投げ込んできた。

『第三戦終盤、井東ヘレンが狙撃されかけた件についてです』

「ああ……」

 あったな、そういえば。

 ガソリンでアークエネミーの遺体を燃やして死亡確認を取る、と見せかけて一酸化炭素を多く含む不完全燃焼の黒煙を充満させ、井東ヘレンを事故死に見せかけようとした一件。しかも光十字は無音の狙撃銃まで持ち出して、虫かごの中にいる彼女の頭を撃ち抜こうとしたんだ。

『発砲時の状況から考えて普通のライフル弾ではありません。おそらく四五口径のサブソニック弾ですが、だとすると今度はアークエネミー用に準備した強化ガラスを撃ち抜けない。となると弾頭部分は鉛ではなく、タングステンや劣化ウランなど、もっと比重の重たい金属に差し替えているものと推測されます』

「分かりやすく」

『シュア。つまり極めて無音で破壊力も高いのですが、反面、安定性は悪く弾道がふらつくはずなのです。こんなクセのある狙撃ユニットで正確な射撃を行うには、かなり特殊な技術が必要になります。シミュレータの補助だけでは説明がつきません』

 例えば僕がマクスウェルの補助を受けたってフィギュアスケートで金メダルが獲れる訳じゃない。表示された指示をこなす頭や体は別枠で必要になってくる。

「……つまり光十字の兵隊のスペック自慢か。それが何に繋がっていくんだ」

『ユーザー様。吸血鬼のエリカ嬢とゾンビのアユミ嬢がシミュレータ内で雌雄を決した際、この地下で光十字とも戦ったのは覚えていますでしょうか』

「? それが一体……」

『いるのです。あくまでシミュレータ内の話ですが、四五口径のサブソニック重金属弾を扱うメンバーが。サブマシンガンというより、狙撃ユニットにフルオート機能を足したような奇妙な銃器を携行しているのですが』

 画面に容疑者の顔写真と名前が出てきた。

 普段なら気にしなかっただろう。光十字はみんな敵。だから個々人の善悪好悪なんて関係ない。それで十分だったはずだ。

 でも無理だった。

 これは無視できなかった。

 何でマクスウェルが黒いワンピースに魔女帽子、大きなマントまで揃えた井東ヘレンから少し離れた位置でこんな報告をしてきたのか、ようやくその意味が分かった。

 そこにはこうあった。


 井東たまご。


「……どういう、事だ?」

『シュア。血縁上は井東ヘレンの兄に当たるようです。シミュレーション結果に誤差がなければ彼は光十字のメンバー、それも実働部隊の人間で、極めてクセの強い四五口径サブソニック重金属弾を使った狙撃にユニットを実戦レベルで取り回せる数少ない人材でもあるはずです』

 そうじゃない。

 そんな話をしているんじゃない。

「じゃあ……井東さんは、自分の家族に頭を撃ち抜かれるところだったのか……?」

 自分で口に出して、なお信じられなかった。それは自分の住んでいる街のすぐ足元にアークエネミーの処分場があるのを知った時と同じレベルの衝撃を胸に叩き込んできた。


   3


 僕の見ている前で、黒いワンピースに大きなマントの井東ヘレンは恐る恐るといった感じで両手を上に上げ、大きく伸びをしていた。そのまま腰をねじるようにゆっくりと動かしていく。

 全身各部、特に肋骨の辺りを意識しているんだろう。ややあって、そっと息を吐きながらこう言ってきた。

「大丈夫、みたいです。どこも痛みはありませんし……」

「ほんとに? また前みたいに強がっているんじゃなくて?」

「ひゃいっ」

「ほら軽くなぞっただけで肩が跳ねたし。こっちは? ここは大丈夫?」

「……あっ、あの、先輩、えと、ひんっ……」

 人が心配しているというのに、いつのまにか後ろから忍び寄ってきていたダークエルフに後頭部をチョップされた。そして顔真っ赤で涙目の後輩もノースリーブから薄く肌の色を透かせる村松ユキエにしがみついて背中に隠れてしまう。まあ元気になったんなら良いんだけどさ。

「素人のお医者さんごっこは良いから、これからどうするの?」

「お医者……? ゴクリ今の何気ないやり取りにそのように意味深なメタファーが含まれていたのかよしならばもう一度改めて……!!」

「人生の本題に入って、早く」

 キリキリキリキリ、とゼロ距離で弓を引かれて見えない矢を構えられ、僕は全力で顔を逸らして両手を挙げる羽目になった。

 やだよ感電なんて。殴る蹴ると違ってどう耐えれば良いのかイメージ湧かないし!!

「い、井東さんが回復したなら遠慮する必要はないので、ちょいと光十字側のシミュレータを壊しに行こうかなと思う次第なのですが……」

「そう」

 ゆっくりと構えを解きながら、タイトスカートのダークエルフは怪訝な顔で質問してきた。

「でも実際問題、可能な訳?」

「難しい。でもこの難関を突破しない限り生還の道はない」

 ちょっと考えれば良い。丸腰の僕が供饗市を逃げ回ったとして、マクスウェルの補助を受けた団体が追い駆けてきたとしたら。逃げ切れると思うか。

 ……正直、一日保つかどうかも自信がない。シミュレータの存在もさる事ながら、それを人海戦術の中に組み込まれるのが最悪過ぎる。最適の包囲網を使って最短の時間と労力で確保される。この化学反応は何とかしないとまずい。

 そういう訳で、広大な地下を伝って学校の真下を目指す。安全に進めるけど、代わりに電車やバスは使えない。折り畳み自転車もスタジアム球場に置いてきちゃったし。まあ仮に自転車があったとしても、この暗闇の中で前に井東ヘレン後ろに村松ユキエの雑技団スタイルは流石に難易度が高過ぎるけど。

 井東ヘレンのお兄さんの件になるべく触れたくないのもあった。努めて僕は話題の矛先に気を配っていく。

「そう言えばさ」

「?」

「魔女とか人魚とか出てきたけど、ダークエルフって何でアークエネミーに指定されているの? 確かに寿命はとんでもなく長いかもしれないけどさ、ほら、吸血鬼とかゾンビみたいにあっという間に増えていくって感じじゃないじゃん」

「……よりもよって暇潰し感覚でそこ突いてくる? 私にとっては割と人生の山場っていうか節目なんだけど」

 はあ、と小麦色の肌の少女は息を吐いて、

「私の場合は、感染レベルは低いわよ。人と関わって社会を侵蝕する方法なんて一つしかないし」

「うん? エルフって人に噛み付いたりしたっけ?」

 というか、頭に浮かぶのは森にいる人ってくらいのもので、具体的にどんな生活をしているのか全く想像できない。道端に立つ幽霊くらい現実感がないんだよな。ましてダークだし。

「っ」

 が、何やら村松ユキエは言葉を詰まらせると、顔を赤らめ、唇を尖らせてごにょごにょし始めた。

 そして彼女は諦めたように長い耳を倒して言う。

「……ほ、ほら。ハーフエルフっていうのもいるじゃない。人間の男性と結婚すると、ね? こっこれ以上は言わせるんじゃなーい!!」

 なるほど。

 確かにそうなると、吸血鬼の姉さんやゾンビの妹と比べてかなり遠大な侵略計画になりそうだ。まあエルフ系は寿命がとことん長いから、根気良くハーフエルフやクォーターエルフを増やしていけばやがては人口比率を埋めていく事もできるかもだけど。

 ……ていうか、逆に人間と子供が作れないアークエネミーなんているんだろうか。

「さあ? 動く石像のガーゴイルちゃんとか一本角のユニコーンちゃんとか、諸々試してみる気があるのなら」

「……、」

 少々範囲が広すぎるな、アークエネミー。

「でも、そんなものよ」

 長弓を持つダークエルフはあっさりと言った。

「あなたはそこで線引きした。でも、人によってはもっと手前に引いている。人魚とか妖精とかって時点で即アウトってね。『その感情』自体は誰にだってあるものなのよ」

 ……『コロシアム』を運営している光十字に、熱狂しているギャラリー達。彼らの心は異常じゃない? それは誰にでもあって、僕の胸の中にもわだかまっているもの?

 にわかには受け入れがたい意見だった。

 顔に出たんだろう。

 村松ユキエはくすりと笑ってこう付け足した。

「もっとも、あなたはかなり線を奥に引いているみたいだけどね。傍目に見たらどこに線があるんだか分かんないくらい」

「ん」

 何故だか両手でガラスの杖を握った井東ヘレンまでこくこく頷いている。褒められているんだかけなされているんだかいまいち見えない評価だった。

 そうこうしている内に目的地まで着いた。

 かまぼこ状の断面を持つトンネルを延々歩いているだけだから、実際、目印になるものは何もない。壁には所々に英数字が印字されているけど、こっちは光十字の人間じゃないと解読できないだろう。

 教えてくれたのはスマホのマクスウェルだった。

『公立供饗第一高等学校の敷地内に到達。真上が高校です』

「ぶっちゃけ、敷地のどこに馬鹿デカいスパコンがあると思う?」

『シュア。流石に地上部にはないでしょう。敷地地下に体育館クラスの空洞があるのでは』

 ……だろうな。

 だとすると、面倒臭い。地下から一度地上に上がって、さらに秘密の出入口を探さないといけないのか。こっちはもう地下にいるっていうのに。

 そんな風に考えながら通路の階段を上り、ひとまず正面の丸くて分厚い扉にスマホをかざす。いくつもの金属ロッドの外れる音が響き、ゆっくりと外側に向けて開いていく。

 その動きを待っていた時だった。

 それは来た。


 バチュン!! という金属を削る音とオレンジの火花。


 扉の向こうから撃たれたと気づいた時には、村松ユキエに手を掴まれ、引きずり戻されていた。

「マクスウェル!」

『ノー。このタイミングでの襲撃の可能性は予見できませんでした』

「責めている訳じゃない。扉は閉められないのか!?」

『ノー。一度開放プロセスに入ると完了まで次の動作は受け付けません』

 ガギュン! ビジュン!! とオレンジの火花は断続的にトンネルの中まで入ってくる。

 このまま隙間が広がるとまずい。向こうから狙える角度が増えるし、何よりトンネルに直接踏み込んできかねない!!

『それから銃撃の威力の割に発砲音は極小です。おそらく例の四五口径サブソニック重金属弾ではないかと』

「っ」

 マクスウェルに文章音読サービスをさせていないで良かった。

「?」

 間近の落雷を前にしたようにマントで体全体をくるんで小さな肩をびくびく震わせながら、しかし、井東ヘレンが不思議そうな目でこっちを見ていた。

 気づかせる訳にはいかない。

「マクスウェル、この扉をこっちから突破できると思うか」

『ノー。銃撃の頻度と精度を考えれば、扉を潜る最中に急所を撃ち抜かれます』

「ならこの位置関係を保持しても意味はない。マクスウェル、高校から半径三〇〇メートル以内の扉を全て開放しろ!!」

『警告、それではトンネル内に光十字が入り込むリスクが増大するため、地下全体の安全性が瓦解しますが』

「どの道今夜でケリがつく。向こうのシミュレータを破壊できなければじり貧で沈む。良いからやれマクスウェル。スナイパーは一人だ。一〇でも一〇〇でもある出口を開けば、流石にその全てはカバーしきれない!」

『シュア』

 ガキガキガゴン!! と暗い地下のあちこちから太い金属音が連続して響き渡る。

 僕達は銃弾の入り込む危険な出入口に背を向け、蜘蛛の巣のように広がるトンネルを迂回して、別の開放口を目指す。

 開いた穴から外を見れば、校庭の端だった。ゴミ捨て場とか消火栓なんかがある場所で、僕達が普段寄りつく理由のない一角だ。普段あんまりチェックしていなかったけど、うちの学校周辺の出入口は地下に埋まっていないらしい。地下鉄なのに線路が地上に出ちゃっているようなものかもしれない。

 しんと静まり返った、闇一色。

 校舎の方にも明かりはない。夜間部、つまり姉さん達はまだ来ていないみたいだ。ずっと地下にいたから時間感覚を忘れがちになるけど、校舎の壁に張り付いた時計に目をやると午後八時前だった。

 ……なら、あと一時間以内にケリをつけたい。姉さん達が来る前に。

『ヤツ』はどこだ。

 名前を頭の中で浮かべたくない。ついうっかり口の中で呟いてしまっただけで、すぐ隣できゅっと人の上着を掴む井東ヘレンがどんなパニックを起こすか想像がつかない。

 彼女の家族。

 お兄さん。

 どういう経緯で光十字なんて組織に所属したのか、そして実の妹に銃口を向ける理由は。何もかも想像の外だ。だって僕にはできない。どんな事情があったって、現実のエリカ姉さんやアユミに人殺しの武器を向けるだなんて。

 理解できない人間。

 思考放棄している場合じゃないのは分かっていても、気を抜くと思わず匙を投げてしまいそうになる。これほど待ち伏せが怖い相手はいない。次の一手が全く見えない。まして向こうはマクスウェル以上のシミュレータから全力の支援を受けているんだ。

 安全の確約がなければ、夜の校庭は密林の地雷原と同じだ。実際に埋まっているのが一〇個だか一〇〇個だかは知らない。だけど一つでも踏めばお陀仏。そんな中で最初の一歩なんか踏み出せるか。黒い闇がねっとりとまとわりつき、僕達の足をその場に縫い止めてしまう。

「マクスウェル、スナイパーの位置は分かるか?」

 小声で呼んだが返事がなかった。バックライトも点灯せず、画面が死んでいる。

「マクスウェルっ」

 さらに強めに呼んだが、やはり反応がない。こんな場面で端末の故障か!? と身の毛がよだつが、

「……この暗闇でバックライトを点けたら良い的よ。あなた、命を救われているわ」

 なるほど。

 でも待てよ。光を出してはいけないのはスナイパー側も同じはずだ。『ヤツ』はどうやってシミュレータから支援を受けているんだろう。

「井東さん」

「?」

「メタンガスでも何でも良い。可燃性ガスを作る生き物を体に取り込む事はできる? 僕と村松さんは煙幕に使えるものを探す」

「どうするん、ですか?」

「スナイパーは視界を塞がれると仕事ができない。にも拘らず『ヤツ』は夜の闇も煙幕もお構いなしに撃ってくる。シミュレータに標的位置を予測してもらっているからだ」

「なら打つ手なしじゃない」

「だけどそのデータはどうやって受け取っている? スマホのバックライトも点けられないような環境なら文字は読めない。だとすると怪しいのは音だ。例えばインカムを耳につけて合成音声でサポートを受けているとか」

 村松ユキエのセコンドのおっさんも、慣れない手つきでインカムに集中していたみたいだし。

「まず僕と村松さんが煙幕を張る。『ヤツ』はシミュレータからの声に集中するしかない。そしたら井東さん、可燃性ガスを爆発させて『ヤツ』を……いいや学校全体を爆音の渦に叩き込め。インカムからの声が聞こえなくなればスナイパーは煙幕や夜の闇を越えられない。僕達にも逆転の目が出てくるはずだ」


   4


 そして決行。

 メタンは生物からでも作れる。例えば人間がお芋を食べるだけでも。他にも嫌気性細菌による発酵や、ギ酸なんかからも合成できる。

 ギ酸は蜂の針や蟻の牙に使われる毒、激痛の元だ。そしてカラフルな薬液をしこたま抱えた今の井東ヘレンは毒虫の構造くらいなら普通に使いこなす。多少使い道を変えれば気体爆弾くらい手が届くはずだ。

 ボッバッッッ!! という凄まじい爆発音が夜の学校のガラスをまとめて震わせる。

「今だっ!」

 僕と村松ユキエは、スマホの急速チャージャーの電極と金属クリップを組み合わせて火を熾していた。可燃性のゴミ袋に詰めてあった芝の束なんかに点ければ不完全燃焼の一丁上がりだ。

 火だるまになりつつあるゴミ袋をいくつか校庭に放り投げ、風に流して黒い煙幕を広げながら、僕とダークエルフがまず走る。それぞれバラバラに。シミュレータのサポートがなくなれば暗闇と煙幕のダブルパンチで狙撃は使い物にならない。だけど闇雲に放たれた銃弾だって当たれば致命傷だ。どっちがやられても文句なし。とにかく『ヤツ』が混乱から立ち直る前に井東ヘレン含めた三人で鉄筋コンクリートの校舎を目指す。

「マクスウェル!」

『シュア。北北東一五メートル。一階教室の窓を突き破るのが最短です』

 映画みたいに格好良くはいかなかった。おそらく傍から見たらガラス窓に向かって大の字でダイブしたように見えたんじゃないだろうか。

 甲高い破砕音。

 しかもジャンプは高さが足りず、サッシに爪先を引っ掛けて盛大に転ぶ。辺りの机や椅子を散々巻き込んでようやく体の動きが止まった。

 井東ヘレンと村松ユキエは、一歩遅れて安全に踏み入ってくる。

 あちこちの痛みに呻いている場合じゃない。ガラスを盛大に割ったけどホームセキュリティが作動した様子もない。

「マクスウェルか?」

『ノー。センサー通報を遮断したのは別口です。経路を解析中……』

 光十字側か。

 わざわざいくらでも使える『大人の数の力』を自ら排除したのは、それだけ狙撃で仕留めたいからだろう。それに光十字はアークエネミーを嫌悪すると同時に恐怖している。ダークエルフの村松ユキエはともかく、魔女の井東ヘレンはなりふり構わなくなれば人間に薬を振りかける事で化け物を量産できる。質より量の考え方だとむしろアークエネミー側の戦力を無尽蔵に増やすだけだとでも考えているのか。

 僕はスマホに目をやりながら、

「……『ヤツ』は上だ。階段は校舎の両端に一つずつあるから挟み撃ちにしよう。建物の中じゃ狙撃銃は万全には振るえないとは思うけど、村松さんは常に直線上で相手は狙わないように。せっかくの『感電』なんだ。どうにかして、直角でもクランク形でも電流の通るコースを折り曲げられれば一方的に攻撃できるはず。弓の他に、伝導物質を風に流す方法も考えてみて。井東さんは、そうだな、カニの甲羅とかを参考に大きな盾でも作りながら進んで」

 指示を出して、二人の少女がそれぞれ階段に向かったのを見送る。

『ノー。システムはそのような情報支援は表示していません』

「良いんだ」

 見せられるか、こんなもの。

 僕は手近にあった椅子を掴んで教卓に向けて思い切り投げつけた。

 激しい衝突音と共に、一抱えもある大きな塊が裏から転がり出てきた。

 おそらくは井東たまご。

 僕達が集団で自分の持ち場へ飛び込んでくるのを察知し、一度物陰に隠れてやり過ごそうとしたんだろう。

 それはフルオート付きとはいえ、狙撃銃だと至近距離の対集団戦は不得意だからか。

 あるいは実の妹に顔を見られたくなかったからか。

「っ!」

 黒い夜戦服の男はとっさにやけに太い銃身の、ライフルと拳銃を足して二で割ったような得物を片手一本で跳ね上げた。

 だが引き金を引くより早く僕は叫ぶ。

「マクスウェええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええル!!」

 さらに一つ、椅子を掴んでアンダースローで真正面から投げつける。

 直後にビスバス! と合板に風穴が空いた立て続けにサブソニック重金属弾とかいう長ったらしい名前の銃弾が来たんだ。普通に考えれば眉間か心臓でもぶち抜かれて即死。でも実際にはそうなっていない。間に板を挟んだせいで、貫通時に弾道がわずかに逸れたんだ。

 それでも右肩に噛み付かれたような感触が走った。

 完全には避けられなかった。肩を掠めた。

 激痛と恐怖が追い着くより早く、僕自身も前へ。格好良く拳を握っている余裕なんかない。自分で自分の足を引っ掛けかねない、前へつんのめるような勢いで、ほんの四、五メートルを一直線に突き進む。

 肩っていうよりほとんど頭のてっぺんから井東たまごの土手っ腹にぶつかった。

 肺の空気を口から噴き出す、低くて気味の悪い音を耳にする。

 二人して教室の床を転がる。

 押し倒された井東たまごは相変わらず狙撃銃を掴んだままだったけど、銃身が長すぎてかえって狙いづらいみたいだ。僕は首を振って銃口から逃れながら、スマホのレンズを真下の狙撃手の鼻先に突き付ける。

 フラッシュを一発。

「ぐううっ!?」

 ズバシィ!! という落雷のような閃光と共に井東たまごの呻きが加速する。その間にこっちは狙撃銃の長い銃身を掴み、線路の切り替えレバーか何かのように思い切り倒す。

 トリガーガードの輪の中に、彼の人差し指が通ったまま。

 回転軸にされた井東たまごの手首の方はたまったものじゃないだろう。今度こそ短い悲鳴をあげてグリップから指が離れる。

 奪ってはみたけど、見よう見まねで構えるつもりもない。こんなもの、マクスウェルのサポートがあったって自分の太股を撃ち抜くのがオチだ。だから馬乗りになったまま、銃身を逆さに掴んで棍棒か何かのように振り上げた。いっそ土でも耕す勢いで、井東たまごの顔面目がけて逆さに持った狙撃銃のストック部分を何度も何度も叩き込む。

 両手で顔を庇おうと無駄な足掻きをするその男を、改めて睨み付ける。

 自分でも恐ろしいくらい寒々しい声が喉を震わせた。

「……どうしてなんだ」

 振り上げたまま、どうする事もできず宙ぶらりんになった狙撃銃の重さを手首で感じながら。

「どうしてこんなものを井東ヘレンに突き付けた!? 光十字はアンタにとってそんなに大切なのか! アンタは……アンタは、あの子のお兄さんじゃなかったのか!?」

 だって、理解できない。

 例えばアユミが光十字に命を狙われて、テレビカメラの前に連れ出されて、世界中のみんなに野次や罵声を浴びせられたら。妹のために立ち上がろうって思う事はあっても、光十字の側につくなんて絶対考えない。それはあまりにも思考回路が完全に吹っ飛んでいるってものだ。

「……知らなかったんだ」

 掠れた声があった。

「会場は煙だらけで、そこに誰がいるかなんて分からなかった。全部『ラプラス』の指示だったんだ。だから……」

 それが拙い言い訳だと気づいた途端、躊躇が消えた。

 その傲慢な鼻っ柱を叩き潰すように、逆さに握った狙撃銃を本気で振り下ろした。

 柔らかい音に、手首に返る生々しい感触。

「第三戦が井東ヘレンと村松ユキエの戦いだった事くらい誰でも分かる!! 会場のアナウンスに電光の大画面、オッズ表、得体のしれない自称ファンの横断幕だの団扇だのまで! 一つも見なかったっていうのか、ふざけるな!!」

「あっ、が……」

「それに今回はどうだ。こんな夜の学校に潜んで誰を待つように言われた? 井東ヘレンの名前はなかったか? もしもなかったのなら……どうして真正面から走ってくるあの子を『敵』とみなして銃口を向けられたんだ!! 井東ヘレンはここの一年だ、ちょっと忘れ物でも取りに来れば、学校の敷地にいたって何の不思議もなかったのにだ!!」

 胸を張れないなら何で従った。誤魔化さなきゃならないようなものに家族の魂を売った? 自分が何と何を天秤に載せたのか分かっているのか!?

「……る、せえ……なっ!!」

「っ」

 さらに振り下ろした狙撃銃のストックを逆に片手で掴まれた。手前に引っ張られる。前のめりにバランスを崩す僕に対し、井東たまごは腰を跳ね上げてさらに勢いをつけさせる。

 ひっくり返った。

 せめて狙撃銃だけは奪われないように男の手首を弾く。仰向けになった僕の上に乗り、床を滑る金属塊を未練がましく目線で追い駆けた井東たまごだったけど、すぐに思い直したようだった。その手が後ろに回る。

 すらり、と。

 鞘を滑る嫌な音と共に、三〇センチ定規よりも大振りなナイフがヤツの手の中で月明かりを照り返す。

「俺だってなあ!」

「ぐっ……!!」

 もうスマホも放り出す。勢い良く振り下ろされる刃っていうより、相手の手首の辺りを両手を使って全力で押さえ込む。だけどやっぱり体重を掛けられる分だけあっちが有利だ。じりじりぎりぎりと、少しずつ少しずつ刃の切っ先が僕の胸の真ん中に近づいていく。

 だけど不思議と負けている感じはしなかった。

 至近に迫る汗まみれの顔は、延々と泣き言を吐くだけだったからか。

「やりたくなかったよ! あいつの名前が書類に出てきた時は眩暈が止まらなかったよ! 大体、今まできちんと隠してきたんだ。家族の誰も光十字の裏の顔なんて知らなかったんだ! なのに、何で、こうなるんだあっ!! あんな狂人達に囲まれたら今さら軌道修正なんかできる訳ねえだろっ! 今まで『方針』に背いた連中が何人海だの山だのに捨てられてきたと思っているんだ。できる訳ないっ、誰だって流れに抗える訳がないんだ! だから!!」

 ……ボクチンは悪くない、か?

 言ってみればいつもつるんでいる友達グループがイジメの真似事を始めて、しかもターゲットに自分の妹が選ばれたようなもんか。そりゃ苦しいだろ、ガキ大将には逆らいたくないだろ。

 けどさ。

 泣きじゃくる家族の前で、へらへら笑って、こいつ殴ったらお前は許してやるなんて言葉にすがって、握り拳どころか人殺しの道具まで振り回して!

 最悪だよ、ああ、何もかも!!

 アンタも! アンタを取り巻く環境も、全部が全部!!

「……抗えよ」

 刃の切っ先はもう心臓まで一センチもない。

 だけど僕は目を逸らさなかった。どうしようもなく『人間』で、でもだからこそ絶対に許せない誰かを正面から睨みつけて。

「どれだけ悩んでも良い、膝を抱えて、うじうじ踏み切れないで、恐怖に震えて、ジタバタ転げ回ったって。それでも最後は抗えよ! たったそれだけでアンタは全部チャラにできたのに。誰もが憧れる『人間』になれたのに! だからっ、だからアンタはどこまでいっても光十字なんじゃないか、このバケモノォ!!」

「ッッッ!! お前に、何が……!」

「抗ってる。口先だけじゃない、現にこうして井東ヘレンを助けるために、自分の命を張って! だからアンタみたいな光十字に殺されそうになっているんだろ!!」

「っ」

 こんな程度で言葉を詰まらせるなよ。

 これは本来、アンタが当たり前みたいな顔で冷たい世界に言い放てたはずの特権だったんだぞ。

 どうして僕なんだ。

 アンタがあの子の『お兄ちゃん』になってやれなかったんだ、井東たまご!?

「あの子はずっと一人で抱え込んできたぞ。顔を合わせればお兄ちゃんがお兄ちゃんが言っていたのに、『コロシアム』に巻き込まれてからはぱったり口に出すのをやめていた。家族を巻き込みたくなかったから! 異常な世界の中じゃ名前も出したくなかったんだ!! なのにアンタは訳知り顔で切り捨てた。どうせ冷たい世界じゃこんなもんだろうって、井東ヘレンが一人で戦っている可能性さえ否定した!! 許せるか、そんなもの。そんな野郎があの子の兄貴を語るな! 名乗りたければ家族を守れよ!! 世界を敵に回してその背にあの子を庇うような人間になれよ、くそったれの腰抜け野郎!!」

 ああ、ナイフを押さえる手首が痺れる。筋肉っていうか骨が外れそうな感じ。ここから逆転できる手なんか思い浮かばない。

「……俺に格好良く死ねっていうのか。他人事だと思いやがって。あの光十字と一人ぼっちで戦うのがどれだけ苦しいのか分かっていながら……!」

「だったら僕が協力する」

 でも、これだけは即答できた。

 これはテレビゲームやシミュレータの中の話じゃない。正真正銘の現実、たった一回のミスが命に関わるシビアな世界の話だ。だけど、だからこそなんだよ。やり直しのできない一回限りの人生だからこそ、絶対に曲げちゃあいけない事があるんだ。

「もしもアンタが妹のために命を懸けて光十字と戦ってくれるような、そんな『人間』だって言えるなら、僕も絶対に見捨てない。だからアンタは一人じゃない! 井東ヘレンに生きて欲しいって願うヤツは、世界に一人きりしかいない訳じゃないんだ!!」

「っ」

 一瞬。

 本当に、くしゃりと狂人の顔が歪んだ気がした。

 でも直後に、一気に体重を掛けられる。迷いを振り切るように。

 ダメか……。一体何が足りなかった。どうして届かなかった。同じ手のかかる妹を持つ者同士、通じ合えるかもって思ったんだけど。光十字って大き過ぎる枠組みは、こんなにも『人間』を歪めてしまうのか。

 大振りのナイフの切っ先が、衣服を破って皮膚に薄く刺さっていく。このまま体重を掛けられれば、ハイヒールで踏まれるみたいに胸骨を砕かれて心臓一直線だ。

 そう、諦めかけた。

 その時だった。


 ゴドン!! という金属の震える大音響が炸裂した。


 馬乗りになっていた井東たまごの頭が、くらりと揺れる。そのまま横倒しに倒れていく。

 そして彼の背後に立っていたのは、金属バットのように狙撃銃をフルスイングしたダークエルフだった。

 村松ユキエは長い耳をパタパタ振って、呆れたように言う。

「騒ぎ過ぎ」

「……ああ、くそ」

「あれだけどったんばったんやっている中で、律儀に階段上って持ち場に着いているのなんてあの子くらいよ。流石に狙撃銃相手じゃなかなか教室に踏み込むチャンスはなかったけど」

 その狙撃ユニットを放り捨て、彼女は手を差し伸べてくれた。

 彼女の手を掴んで起き上がる僕に、ノースリーブにタイトスカートの村松ユキエはこう付け足した。

「……それだけ井東ヘレンはあなたを信頼しているって事よ。物静かでなかなか自分から話をしないから分かりにくいけど。あなた、最後ちょっと諦めかけていたでしょう? 勝手にくたばって信頼を裏切るような真似はするものじゃないわ」

 ……まったくだ。

 これじゃ井東たまごを悪し様に言えない。共に戦うって約束したなら、最後の一瞬まで抗わなくちゃ裏切りだ。

 床に転がって動かない男を、改めて見下ろす。僕の代わりに井東ヘレンの隣に立っていたかもしれなかった誰か。いいや、本来だったら絶対そうじゃなくちゃいけなかった。一人の兄の残骸。

「手足を縛るから手を貸して」

「ああ」

 道は分かれた。

 僕達は『敵』を縛り上げてから、『味方』の下へと足早に向かった。

 井東ヘレン。一人の女の子の所へと。


   5


 ラプラス。

 魔女帽子にマントの井東ヘレンと校舎の中で合流すると、僕は思わずそう呟いていた。

 黒いワンピースを纏う金髪の魔女は小鳥みたいに首を傾げている。

「先輩?」

「っ、ああ。狙撃手のヤツが口走っていたんだ。ラプラス。どうやら光十字側のシミュレータの名前らしい」

 語源はもちろんラプラスの悪魔だろう。コンピュータ、シミュレータの名前としてはいかにもって感じだ。おそらく同名のスパコンは世界中にゴロゴロある。田中さんとか山田さん感覚で。実は僕なんかはあまりにベタ過ぎると思って、いったんマクスウェルの悪魔に迂回したくらいだった。

 そのマクスウェルを超える規模だと、もう体育館より巨大なスパコンくらいしか思い浮かばない。光十字が湯水の如く金を使える国際組織ならさもありなんだけど、でもちょっと気になる事もある。

「……何で学校を選んだんだろう」

 そう、ここが元々コンピュータに強い工科大学なら分かる。あるいは防衛学校みたいに一般の出入りが厳しく制限される敷地とか。

 でもただの高校だ。膨大な電気や冷却用にプールの水が使えるにしても、さほど特別性は感じられない。

『わざと関連性の薄い一般施設に埋め込んだのでは? 美術品や骨董品を運ぶ際に強盗の目を欺くため、大仰な警備は敢えてつけないといった話も見られますし』

「街全体にあれだけ巨大な地下空間を用意できた光十字が、今さらスパコン一基隠すのに四苦八苦か? 連中にとっては大部屋を一つ付け足すようなものなんじゃないのか」

 大体、自分で言うのもなんだけど、僕達みたいな学校通いの学生達は口が軽い。というか四角い箱の中に鮨詰めにされる毎日が息苦しくて、濁った水面から必死に顔を出して常に新しい情報に飢えているって感じだ。だから大人のルールの中でありがちな箝口令、口封じなんかほぼ無意味。ここだけの話、なんて前置きされた情報なんかタテヨコナナメそこらじゅうに飛び交っている。

 そんな危険な場所に、わざわざスキャンダルの火種になりそうな大型演算装置を寄り添わせておくか? それがどんなものであれ、公立校の敷地の中に図面にない『大量の電気と水を消費し続ける』設備が隠してあれば、税金の無駄遣いだの何だので総叩きに遭いそうなものなのに。

 学校に通う何百人って生徒の一人でも気づいてしまえば、あっという間に情報の拡散は止められなくなる。

「……何かあるのかもしれない」

 決してそれを歓迎している訳じゃないのに、自然とそんな言葉が洩れていた。

「単なるカムフラージュ、だけじゃない。多くの候補の中からこの学校を選んでラプラスを置いた理由っていうのが」

 さて。

 向こうのラプラスが学校と紐づけられた存在で、管理運営のために協力しているとしたら、当然モニタリングの窓口、制御端末がある。例えば冷却が上手くいかなかった時などに、数値を変更して効率を上げる必要に迫られるんだから。

 そりゃ光ファイバーを一本敷地外に引いてしまえば外部コントロールもできるけど、トラブル解決はソフトとハードの両面を組み合わせなくちゃならない事も多い。いざ熱暴走やサージ電流なんかにさらされた時のため、スパコンの近くにエンジニアを置いておいた方が良いに決まっている。

 となると、

「……あの、先輩。だったらやっぱり校内でネットに繋がった場所が怪しいんじゃないでしょうか」

 あんまりピンと来ていない顔で、しかし横から画面を覗き込む魔女帽子の井東ヘレンがおずおずと言ってきた。

「マクスウェル」

『シュア。この高校では全校生徒の成績表や身体測定データ等をデータベース化し校内イントラネットで保管、共有しています。つまり職員室と保健室が中核。また、教材としてタブレット端末を利用したプロジェクター設備を導入している他、生徒向けの電子教科書の実用試験用に各教室に無線LAN環境が敷設されています。他にも学食や購買のレジにある売上計算用のPOSやホームセキュリティのセンサーや防犯カメラ、トイレ、更衣室等のセンサー類も含めますと、おおよそ全ての施設設備がネット環境を整えています。逆に使えない場所の方が珍しいほどです』

「えっ……トイレ、も?」

 マントの金髪少女は口に片手を当てて驚いた声を出す。

 僕は息を吐いてから、

「今時なら配管の詰まりくらいは自動検知して水道会社に通報してくれるし、あまり長時間個室に籠っていると人感センサーが働いて警備室に警報が飛ぶようになっているんだ。表向きは個室の中で人が倒れていないか調べるためのものだけど、実際には盗撮対策なんて言われているね」

「うええ……」

 黒いワンピースの魔女は返答に困っているようだった。

 まあ、あまり気持ちの良い話じゃないのは分かる。人感センサーは自動ドアの赤外線と同じで、別にカメラのようにくっきり像を保存する訳じゃない。だとしてもやっぱり大歓迎とは言いにくいのが人の感覚ってヤツだろう。僕達は機械にそこまで見守って欲しい訳じゃない、っていうか。

 すると、隣のダークエルフが長い耳を逆立てて、呆れたような声を出した。

「雑学自慢は良いけど、結局ノーヒントって事なの? これだけ広い校内を教室一つ一つ調べるとなるとかなり手間がかかるわよ」

「姉さん達や幹部がやって来る前には撤収させてもらうよ。マクスウェル」

『シュア』

「じゃあ逆にネット電波が飛んでいない区画はどこだ。言ってしまえば、高性能のシールドをこっそり施して室外に電波が洩れないようにしている場所」

『テストシグナルを放ってリアクションを検出中……』

 マクスウェルはわずかな沈黙ののち、

『出ました。旧館三階、図書室に痕跡あり』

「だそうだ。行ってみよう」

 えっえっ? とうろたえたような声を上げるのはガラスの杖を両手で握る井東ヘレン。村松ユキエも長い銀髪を片手で払いながら、やや不機嫌そうな調子で口を挟んでくる。

「本当にそんな所に? なんていうか、ガッチガチの秘密なら校長室とか理事長室とか、お偉方の懐の方がクサくないかしら」

「そういう偉そうな人達は、自分の手元にスキャンダルの火種なんか置かないんだろうさ」

「……火種も何も、自分達がトップの学校でしょう? 敷地のどこから火が出たって責任を取らされると思うけど」

 僕だってマクスウェルが出した答えは意外と言えば意外だけど、でもマクスウェルが言うからには間違いはないだろうとも思う。そして改めて考えてみればそれらしいと納得できる。

「たとえそうなっても、どれだけ不自然でも、絶対にトカゲの尻尾を切れるようにしているんだろう。委員長の話だと図書室は教頭先生の肝煎りで、かなりの私財を寄贈したって話だし」

 つまり、『何か』が表に出たら全部教頭の独断って事でケリがつくようあらかじめ水面下で調整済みという訳だ。苦労人というか何というか。愛読書が『うちの姫がグレてダークエルフになりました』とか『大戦術を極めたオレが異世界で無双』とかだったり、なんか憎めないな、この教頭。

「それに電子化って言ったら貸出図書の管理状況なんて真っ先に実用化される。それが『見えない』っていうならやっぱり怪しいさ」

 そんな訳でひとまずみんなで図書室へ。

 魔女帽子に黒いワンピースの井東ヘレンが小鳥のように首を傾げて。

「あの、鍵はどうするん、ですか?」

「マクスウェル」

『シュア。幸か不幸か、現状、校内のセキュリティは光十字経由で遮断されています』

「つまり?」

『何をしても通報されませんし、痕跡は全て光十字のせいにできるでしょう』

 バカン!! という派手な音が続いた。

 僕の足が施錠された図書室の引き戸を蹴破った音だった。

「……良いコンビだわ、まったく」

 ずんずん中に入る僕に、おざなりに暗闇へ長弓を向けながらダークエルフの村松ユキエがため息をついた。

 暗闇の中にいくつもの本棚の影が浮かび上がっている。だけど僕は無視して、受付カウンターにある薄型コンピュータに注目した。

「マクスウェル、あれか?」

『ノー。シールド区画はカウンターの奥のドアです。おそらく寄贈書をまとめておく書庫でしょう』

 鍵はないので、こっちのドアも蹴破った。

 書庫。

 部屋の大きさは教室一個分くらい。四方の壁は本棚で埋まっているけど、差し込まれたほんの系統はバラバラで、いかにも仮置きって感じが伝わってきた。中央には作業用の机と、接着剤に針や糸。後はエタノールの小瓶に脱脂綿や綿棒などなど。絵の具のセットなんかもある。

 なるほど。

 一般から寄贈された本はいったんここに集められて、傷や汚れを修繕してから表の図書室へ送られる訳か。

 こうして見ると、確かに『肝煎り』なのは良く分かる。カムフラージュやトカゲの尻尾の役割もあるんだろうけど、でもやっぱり、教頭は本が好きって部分までは嘘じゃないんだろう。そうじゃないとここまでできない。

 ただ、今はそっちがメインじゃない。

「マクスウェル、コンピュータらしきものは見当たらない。どこかに隠していると思うか?」

『シュア。室内のレイアウトから個人の行動パターンをシミュレート中……出ました。作業机の絵の具セットです。おそらく二重底になっています』

 指示に従ってみると、確かに薄型のタブレット端末が出てきた。

 スイッチを入れてパスロックをマクスウェル任せで解除。覗いてみれば最低限のプリセットアプリさえ入っていない空っぽ状態だった。代わりにいくつか見慣れないアイコンが並んでいる。

「……スパコンに関する資料がいくつかある。写真、文書、設計図。表計算はお金まわりかな」

「良かったじゃない。……何でそんなに苦い顔してるの?」

 これみよがし過ぎるんだよな。そもそも部屋のシールドや絵の具セットの二重底の存在を教頭本人は知っていたのか。そこから怪しい。セットを大事にしている事自体は室内分析通りだろうけど。

 おそらく『何か』あった時に教頭へ罪を被せられるよう、意図して機密文書を押し付けているっていうか。政治家の汚職事件の時に出てくる『送金を指示した秘書のメモ』くらい胡散臭い。何だか本格的に可哀想になってきたぞ、あの教頭。

 ともあれ、罪を被せるためのものなら、内容に偽りはないだろう。本当の黒幕に塁が及ばないよう制限されている可能性はあるけど、概要、大枠を掴むだけなら問題ないはずだ。

 そもそも何でうちの学校に大型演算装置があるのか。

『答え』はこうあった。


   6


『当案件は「あらゆる災害を克服する」という光十字減災財団の本懐からはやや外れるものの、人的災害、人災の抑止に繋がるという意義は理解できるものと判断し、人材、資金、技術、情報管理等、諸々の分野で提携する事を決定する。

 本来ならば厚労省に太いパイプを持つ我々が文科省を中心とした先方にラプラスを預けるのは、当方の誠意と考えていただきたい。

 この機材が行うのはヒューマンエラーの防止だ。人材の振り分けと言い換えても構わない。

 全国模試、IQテスト、内申点、運動テスト、様々な資格取得……。生徒を測る方法には様々な方式があれど、これといった決め手は存在しない。

 ラプラスはこれらの雑多な情報を全国規模で蒐集し、論理思考に基づいて振り分ける事で、将来伸びるとされる生徒達の「実際の伸び代、余裕」を正確に予測。官公庁や各企業等、適切なジャンル、ランクに見合った斡旋を可能とする。

 これにより、陽の目を見ない才能の持ち主が腐っていったり、または才能を誤魔化して大企業に就職する無能の流入を未然に防げる。

 人材の適切な振り分けは、その国の経済安定化に直結する。これは突発的な犯罪抑止にも繋がるだろう。

 不要な人材が必要なふりをして儲けるのは不毛だ。または必要な人材が不要に虐げられるのも。

 ラプラスは「人間の伸び代」を完全に予測する。

 その範囲は全国教育機関の隅々にまで及ぶ。成績表、内申点、身体測定等の電子化はすでに移行完了しているため、後は雇う側の企業が雇われる側の人材を検索エンジンに掛けるだけで良い。

 キツネとタヌキの化かし合いのように不毛な就職試験や面接等の煩雑かつ非効率な人材募集の時代は終わった。まして不明瞭なツテやコネなど廃絶する。

 これからはクリック一つで求める人材のリストを閲覧できる時代がやってくる。

 人的災害、つまり深刻な犯罪行為の大半は、誤った人材評価から端を発する。

 有用なはずの人材が世間から評価されなかったり、逆に無能な人材が己を天才だと勘違いした時に、自己と他者の評価の誤差が様々な悪感情を生み、そこから実際の凶行に結びついていく。

 ラプラスはその全てを是正する。

 有能は有能の箱に、無能は無能の箱に。全て精査して相応しい人生のレールを敷いていく。全員が正しい評価に基づく人生を歩めば、そこに誤差や齟齬は生まれない、誰もが相応しい人生を送る事。それこそが人的災害、人災の発生を防止する一番の方策である。

 我々はあらゆる災害を克服する。

 それが人の手によるものであったとしても、例外は存在しない』


   7


「……何だ、これ?」

 口の中が、喉の奥までカラカラに渇いていた。

 だって、何だ?

 つまりこれって、センター試験とか就職面接とか、そういう腕試しの機会の前に人生のレールを全部勝手に決められているって話なのか!?

 もっと端的に言えば全国レベルのブラックリストだ。

 ここに掲載された人間は、もう進学も就職もできない。見た目は平等に挑戦権を与えているけど、でも実際にはテストに立ち向かう前から答えは決まっている。五教科で五〇〇満点を採ったって落第が決まっていればハイおしまい。逆に合格予定のヤツは白紙のまま提出したって鼻歌混じりで素通りだ。

 これが正しく回っているだけで大問題。

 ……しかも、『あの』光十字の連中が本当に正しく使っている保証なんかどこにある。例えばヤツらと敵対している僕を気に入らないって理由だけで天津サトリのパラメータをチョチョイと組み替えて落第組に再登録されたら? 僕はこの先、コンビニやガソリンスタンドのバイトの面接さえ蹴られる無職人生を一生過ごす羽目になるって訳だ。

 そして光十字が毛嫌いするアークエネミーなんて言うに及ばず。この先、エリカ姉さんやアユミがどれだけ徹夜を重ねて努力したって、こいつらは嘲笑う。全部無視して落第のハンコを捺して、彼女達の夢を指先一つで奪っていく。気に入らない、くだらない、化け物は化け物らしく這いずり回っていろ。そんな悪意に満ちた言葉だけが全肯定されて、あまりにもあっさりと!

 無茶苦茶ばかりする光十字がどうして社会の裏に深く根付いているか、ようやく分かってきた気がする。

 つまり、エリート官僚だの大企業の若手幹部だのの成功者は、みんなみんなラプラスのお世話になっているんだ。もっと言えば、全国規模の裏口入学の共犯者達がこの国のてっぺんで蓋をしている。金を積んで媚びを売って手に入れた権力をのちに貸し与えると予約して、好きな学校好きな企業に割り振ってもらった。

 そりゃあ光十字が必要とされる訳だ。

 ヤツらの悪事が表に出ては困る人間が多過ぎる。冗談抜きに、このスキャンダルは日本って国の屋台骨を軒並みへし折って大恐慌に突き落としかねない破壊力を秘めている。

 光十字が直接『何か』をしなくたって、周りが勝手に僕達の口を封じに来かねないくらいに。

「……教育機関にヤツらの大型演算装置が置いてあった理由はこれか。ここを中心に、日本中の生徒達が好き勝手にランク付けされて、知らない場所からクリック一つで『出荷』されていたって訳だ」

 人災。

 人的災害を未然に防止する。

 字面だけ見れば確かに真っ当だ。でもこれは、決して争いのない平和な世界を作るためのものじゃない。虐げられる人から抵抗のチャンスを奪うだけ。もっと言えば光十字に与する者にだけ祝福を与え、抵抗者から人生全部を奪い、自分達にとって都合の良い人材のみで政財界の上層部を固めてしまうための下拵え。

 ラプラスはいつから稼働していたんだろう。

 白髪の老人が学生だった頃から動いているとは思えない。でも、だとすると、いつかは代替わりが起きる訳だ。ラプラスのお世話になった卑怯者達が、一斉にトップの椅子を強奪する『節目の年』が。まるで良識のリミットみたいに。

 あまりの馬鹿馬鹿しさに、頭がくらくらする。

 だけど街の地下全域に巨大な誘拐装置を作り上げ、アークエネミー同士で殺し合わせて効率的に数を減らそうとした、いかにも『あの』光十字らしいトンデモスケールとも言える。

 ……こんな悪魔の仕組みは存在しちゃあいけない。

 単純にマクスウェルを超える性能を持つ光十字のシミュレータ、ってだけじゃない。もっと大きな意味で、あまりにも邪悪過ぎる。

 タブレット端末には、いくつかの図面もあった。

 ラプラスの設置場所や、メンテナンス用の出入口も。

 僕はそれだけ確認すると、傍らの魔女やダークエルフにこう告げた。

「……もううんざりだ。こんなのは一秒でも早く終わりにしてやろう」


   8


 光十字が供饗市に安置した人材仕分けシミュレータ『ラプラス』への出入口は、屋外プールの裏手にあった。

 一見すると、道端、一段高いプールの壁に面して置かれたジュースの自販機。

 だけどスマホをかざしてマクスウェルにデコードを頼むと、自販機全体が巨大冷蔵庫のドアのようにがぱりと開いた。

 そして中身は保冷機械や缶ジュースのストックなんかじゃなかった。

 ぽっかりと開いた暗い暗い地下への穴。

「……下りの階段、よね?」

 村松ユキエが長い耳をピクピク震わせながら、困惑した声を出す。

 マントと黒いワンピースの井東ヘレンは小さな手で僕の背中の生地をきゅっと掴んできていた。

 この先にろくなものが待っていないのは、僕だって分かる。だけど光十字の真実に近づくっていうのは、そういう事だ。正しい事をして秘密を暴いているのに、こっちの魂が削られる。そういう種類の邪悪さを持っている連中なんだ。

 でもこの邪悪には、終わりがある。

 僕達の手で終止符を打てる。

 そこを履き違えなければ、戦える。もう見るのも辛いと背を向けないで、真正面から立ち向かえる。そうしなきゃ駄目だ。世界のためとか人類のためとか訳の分からないお題目のために、精一杯努力しているエリカ姉さんや妹のアユミ達の人生に、幸せに、あらかじめ上限のキャップを勝手につけられるなんて絶対に間違っている。

 可能性は、誰の前にも平等であるべきだ。

 たとえそれで一時的に人と人とがかち合ったとしても、その対立は人災なんかじゃない。より高い場所へ向かうために必要な競争、切磋琢磨のはずなんだ。

 光十字の掲げる最適は、光十字しか幸せにしない。そしてそこにはもう新しい可能性はない。競争も切磋琢磨もない快適な世界は、つまりただただゆっくりと衰えて萎んでいく世界でしかない。既存の価値観の焼き増しばかりで、そんな規範から片足でもはみ出した人間は全て排斥されて、やがてみんなでゆっくりと摩耗、衰退していくだけの、刺激なき幸福な世界。そんなもんぶっ壊さなくちゃ『人間』としておしまいだ。

 僕達は暗い暗い地下に向かう階段に足を踏み出す。奈落へ向かう。一歩一歩踏み込んでいくたびに、濃密な闇が、光十字というプレッシャーが、次から次へと絡みついてくるようだった。

 どれくらい下っただろうか。

 言葉少なになる僕達は、時間の感覚さえ曖昧になっていた。

 それでもいつかは終着点に辿り着く。

 地の底。

 ラプラスという悪魔の眠る、地獄の宮殿へ。

 長い長い階段を最後まで下りると、巨大な扉が正面にあった。それは二重扉になっていて、余計な塵や埃、雑菌なんかを運ばないようにするための洗浄室を挟んでいるようだった。

 壊す側の僕達には関係ない話だ。

 クリーニングのための手順を全て無視して、奥の扉も開け放つ。

「くっ……!?」

 LED電球特有の、奇妙に非生物的な白い光が暗闇に慣れた僕達の網膜を貫いた。右のこめかみから左のこめかみへ鋭い痛みが走るのを強引に押さえつけ、閉じようとしていた瞼を半ば暴力的にこじ開けていく。

 凄まじく広い空間だった。

 高さはざっと三階分くらい。大きさはプールや体育館どころか校庭が丸ごとすっぽり収まってしまいそうなほど。

 そして空間全域にそびえ立つのは、まるで無数の墓標だった。

 色は黒。

 縦は二メートル、横は五メートル、高さは天井ギリギリいっぱいまで。石柱ともオベリスクともモノリスとも言えない、とにかく硬質な何かが等間隔で屹立している。数は全部で一〇〇基を超えているはずだ。

 これがラプラス。

 人類の、可能性の墓標。

 僕が組んだマクスウェルを軽々と超える、最強のシミュレータ。おそらく墓石の一つだけで、コンテナサイズのマクスウェル全体よりスペックは上のはずだ。それを三桁単位で並列に繋げて莫大な演算領域や論理思考の柔軟性を確保している訳だ。

 これは、道理で、力負けする訳だ。

 国家プロジェクト並のスパコンが出てくるとは思っていた。だけど実際に敵のスケールを見れば、やっぱり圧倒される。どこまでやっても個人レベル、金属コンテナの中に初期不良で叩き売りされていた新型携帯ゲーム機を大量に放り込んで並列化しただけの僕とでは、設備投資も使っている理論や技術も違い過ぎる。

 たとえるなら、主婦のアイデア料理とフランス料理の三ツ星レストランの違いみたいなものか。力の差、というか、プロとアマの差を突き付けられたような敗北感が全身にのしかかる。

 でも。

 だけど。

 僕が最後の最後まで折れなかったのは、きっとこんな自負があるからだろう。

 ……ラプラス。僕はアンタ達ほど外道な目的で演算装置を動かした事はないぞ。どれだけスペック自慢を重ねたところで、ここだけは揺らぐものか。

「ふっふっふーのふう☆」

 そんな時だった。

 飴玉を転がすような、鈴を鳴らすような、でもどこまでも人を嘲弄する、そんな愛らしさと妖艶さの入り混じる女性の声があった。

 どこから?

 そう、ヤツはいつでも上から僕達を睥睨する。透明なサイコロみたいな虫かごの屋根を好むように。

 無数にそびえる巨大な墓標のその一つ、てっぺんに腰掛ける青い影があった。

「……バニーガール」

「もっと親しみを込めてカレンちゃんとでも呼んでくださいな」

 スナイパーの井東たまごが撃破されるのも織り込み済み。死力を尽くした全てはラプラスの予測の範囲内で、彼女はあらかじめこうなる事を知っていてここで待っていた?

 操られる側がどれだけ計算を重ねたところで意味はないか。

「良いのか?」

 挑みかかるように僕は口を開く。他力本願でも何でも良い。あの南国の蝶のように青く輝く『怪物』に対して少しでも自分が優位に立てるなら、それは全部僕の武器だ。

「狂気の『コロシアム』の仕組みはこんな所まで届かないぞ。アンタにはご自慢のラプラスがあるのかもしれないけど、ラプラスの完全予測の必勝ルートを生身の肉体だけで実現できるかな。何しろこっちにはアークエネミーが二人とシミュレータのマクスウェルがある。一人一人は完全無欠とは言わなくても、みんなで押せば生身のアンタには捌ききれないかもしれないぞ」

 僕の言葉に、左右両隣にいる魔女とダークエルフがそれぞれガラスの杖と長弓を握り直してくれた。

 光十字がどれだけ圧倒的で、どんなに無慈悲でも、それは数の暴力だ。あくまでも人間社会に強い影響力を持っているだけで、彼ら一人一人が超人的な力を有している訳じゃない。

 なのに。

 その青いバニーガールは、天井近くまで伸びた巨大な墓標の先端に腰掛け、黒いタイツに包まれた自分の片膝をゆるりと抱き寄せながら、くすりと笑っていた。

 まだ笑うほどの余裕が、あった。

「そっくりそのままお返ししましょう」

「……な、に?」

「セコンドさん。あなたは一つ勘違いしている。……その『力』が、あなた一人のものであるなどと」

 言葉の直後だった。

『それ』は来た。


 ドゴァッッッ!!!!!! と。

 学校の校庭全体より広い空間がまとめて揺さぶられる、凄まじい大震動が。


 思考が止まった。

 両隣にいたはずの井東ヘレンと村松ユキエ。魔女とダークエルフが真っ先に狙われた。『何に』? それは分からない。全く見えなかった。ただただ恐るべき着弾の震動と同時、塵一つ異物を許さない演算機器保管室にもうもうと綿菓子のように大量の粉塵が立ち昇ったという『結果』だけを押し付けられる。

「げほっ! 井東さん? 村松さん!? かはっ、ごほっごほっ!!」

 一メートル先の視界も確保できない。

 それでも変化の欠片くらいは掴み取った。二人のアークエネミー。どれだけみっともなくても良い、単なる高校生の僕がすがるべき絶対的な切り札。

 彼女達の気配が、消えていた。

 まるで深夜の病院に一人取り残されたような、圧倒的な寂寥感に襲われる。頼れるものがいなくなった、そんな絶望的な感覚に。

 そして。

 そして。

 そして。

「よっと」

 あまりにもあっさりと、近所のコンビニへ出かけるよりも気軽な感じで、その青いバニーガールは僕の前へ降り立った。ふんわりと、一枚の羽毛のように柔らかく。

 だけど待ってくれ。

 この大空間は三階分くらいの高さがあるんだ。整備された墓石のように等間隔で並ぶ演算機器は、その天井にぶつかりそうなくらいなんだ。そのてっぺんから、生身の人間が軽々と飛び降りた?

 まして青いバニーガールの足回りは妖艶なピンヒールだ。あんなのでジャンプしたら、階段二、三段分の高さだって足首をひねりそうなものなのに……。

 これが光十字の力?

 アークエネミーと正面切って戦う人間の、極限の形?

 いや。

 いいや、嘘だろ、まさか……!?

「いやはや、流石に気づきましたか」

 楽しそうに、何より他者を見下した瞳で、青いバニーガールは語る。そうしている間にもおかしな現象は続く。

 いつの間にか、彼女は綺麗にマニキュアを塗った左右の手にそれぞれ純金でできた、白鳥の羽根のような飾りのついた十字槍と丸い片手盾を装着していた。バニー衣装の腰まわりから前の大きく開いたロングスカートのような布地がはためく。そして青く輝く長髪を彩るウサギの耳とは別枠で、人としての両耳にペンでも挟むように大きな鳥の羽根が差してあった。

「改めましてこんばんは」

 もはやRPGでもお馴染み。

 その、女性的だが明らかに戦へ出るための準備を固めたシルエットの正体は……。


「光十字減災財団所属の例外アークエネミー・ヴァルキリーのカレンちゃんでっす☆ ……これから不遜な人間と不浄の化け物に天誅下すから覚悟せよ」