天津エリカ
サトリを溺愛する【吸血鬼】の姉。
天津アユミ
サトリを溺愛する【ゾンビ】の妹。
第九章
1
ヴァルキリー・カレンは無数の光の粒子となって、世界から消えていった。
後には青いスマートグラスだけが残っていた。
彼女の言い分が正しければ。
次の『コロシアム』の対戦カードは天津エリカVS天津アユミ。つまりどちらかが死に、どちらかが殺す。
乱入のありなしなんて細かいルールは知らないけど、仮にそれができるなら、すでに負けて出場資格のないダークエルフ・村松ユキエは論外。そして唯一勝ち進めている資格保有者の魔女・井東ヘレンは次で運命の第五戦。戦えば必ず死ぬとされる、崖っぷちの向こう側。
つまり。
どうにもならない。
姉妹を助けようとすれば今まで守り抜いてきた後輩の命を手放す羽目になる。かと言って、出し惜しみをすれば同じ屋根の下で暮らし続けた家族を必ず一人失う羽目になる。
何を選んでどう進んでも、必ず死者が出る。
ある意味で、青いバニーガールは最後まで完璧だった。ここまで完璧に手詰まりな悪意なんか見た事ない……!
「先輩」
汗びっしょりで目尻に涙さえ浮かぶ僕に、小柄な少女がそっと提案してきた。
「行きましょう。先輩のご家族を守るために。私はそれで構いません」
「でもそれじゃあアンタが死ぬんだ! 五戦の絶壁、統計の悪魔。あらかじめ設定された行き止まりにぶち当たって!!」
カジノの収益設計並に計算され尽くしているとしたら、ここは絶対だ。というか、万に一つでもバグがあったら胴元が借金地獄に落ちるんだから、まず間違いなく念には念を入れている。その場でパッと考えて乗り切れるような、甘い牢獄じゃない。
嫌だ。
怖い。
誰も失いたくない。ここまで来て犠牲なんか許容したくない! エリカ姉さんもアユミも大切な人だ。井東ヘレンだって一緒に死地を潜り抜けてきたんだ、何度も! 今さら優先順位をつけて誰かを切り捨てるなんて絶対に嫌だッッッ!!
「先輩」
「……やめろ」
「他に方法はありません。私が行くしかないんです。ですから、マクスウェルさんに頼んでください。次の会場はどこか、試合開始時間はいつか。それを調べてくれって」
「やめてくれええええええええええええええっ!!」
全力で髪を掻き毟った。
やめてくれ、もうやめてくれ。アンタがそんな風に言うと心が流れてしまいそうなんだ。本人が言っているから良いじゃないか、尊重しろよって、そう諦めてしまいそうなんだ、井東ヘレンの命を!! だからやめてくれ、僕を光十字みたいな外道に落とさないでくれえ!!
「大丈夫」
ガラスの杖を両手で握る井東ヘレンはそう続けた。
「先輩は、試合の前にはいつでも駆けつけてくれた。途中で諦めて、投げてしまっても、私は何もできなかったのに。でも先輩は、いつでも必ず一緒に戦ってくれた。だから、今度は私が先輩を助ける番。絶対に逃げません。先輩のために戦わせてください。先輩の大切なものを守るために」
どうする?
どうすれば良い!?
「……っ、ぐうう!!」
思わず全身を強張らせ、直後に右の太股から激痛が爆発した。井東たまごの誤射の上から、さらにヴァルキリーの黄金の槍で貫かれた場所。
くそ。
これのせいで、僕自身が急いで特設会場に駆けつけるのも難しい。姉さんとアユミに元気な所を見せれば、光十字に捕まっている訳じゃないと証明できれば、それだけで最悪の流れを止められるかもしれないのに……!!
そして今の今まで沈黙を守っていたであろうマクスウェルが、短文系SNSのフォーマットのふきだしを使ってこんなテキストを表示させてきた。
『供饗第一放送及び動画中継サイトを確認。次の試合は湾岸観光区駅前繁華街、港湾ブロックに停泊中の豪華客船「ティルナノーグ」号にて行われる模様です』
「マクスウェルっ、お前……!!」
『決断するならお早く。じり貧だろうが何だろうが、今行動しなければエリカ嬢かアユミ嬢か、どちらか片方が必ず絶命します』
こくりと金髪の魔女は頷くと、そのまま地下の出入口へと飛び出して行ってしまう。
そのマントの端だけでも掴もうとしたけど、いくら手を伸ばしたってどうにもならなかった。ただバランスを崩して無様に床に転び、忌々しい右の太股から余計な痛みと血を流すばかり。冷たい床に爪を立て、悔しさに奥歯を噛んで、そして僕は行き場のない怒りにひたすら吼えた。
「ふざけんなこの悪魔野郎!! 井東ヘレンを第五戦に立たせたらどうなるか分かっているくせに!!」
「はあ……」
そんな、これみよがしなため息が一つあった。
小麦色に焼けた健康的な肌に長い銀髪、極め付けにとんがった耳。ダークエルフの村松ユキエだった。
「あなたはその貴重な時間を自分で組んだプログラム相手の罵詈雑言で使い倒す気? 率直に言って、抱き枕相手に深夜のプロレスかますよりも惨めだわ」
分かってる。
マクスウェルに当たるのは筋違いで、本当はこんな所で這いつくばっている僕が一番悪いんだって。右太股を銃弾で撃ち抜かれたとか槍で刺されたとか、そんな次元じゃない。それでも家族の危機のために立ち上がる、そんな地力の強さを作れなかった今の今までの自堕落な人生全部のツケが一気に回ってきたんだって事くらい。
すでに賽は投げられた。
井東ヘレンは絶命必至の戦場に向かってしまった。ここは今さらなかった事にはできない。だとすれば、この時点から僕にできる『最適』『最善』って何だ? 決まってる。そんなの最初から分かり切っている。
井東ヘレンが命懸けで稼いでくれた時間を、ほんの一秒でも無駄にするな。
徹底的にシミュレーションを繰り返せ。
これは上位互換のシミュレータ・ラプラスが組み上げた死の牢獄。決して抜け出せない必殺の環境。だけどロジックの隙間を見つけて絶対の結末を捻じ曲げろ。エリカ姉さん、妹のアユミ、そして井東ヘレン。誰一人失わずに済む最高の結末を導き出せ!!
ぐずぐずとみっともなく鼻を鳴らし、ようやっと僕は自分の両手を突っ張って、倒れ伏した状態からもう一度自分の力を振り絞って起き上がる。
「……マクスウェル」
『シュア』
「すまない、最低最悪に格好悪い醜態を見せた。もし良かったらもう一度チャンスをくれ。みんなを助けるために、僕に力を貸してくれ」
『ノー。他者の命運を想って取り乱す事は、決して恥ずべき行為ではありません。つまりそれだけユーザー様にとって、自らの尊厳をかなぐり捨ててでも大切に想う人がいたのでしょう。むしろそんなユーザー様の顔が見られて、システムは誇らしい気持ちです』
まったく、良くできたAIだった。
自分で組んだのが信じられないくらいだ。
と、そこでダークエルフが長い耳をピクピク揺らして、こんな風に言ってきた。
「身内のマクスウェルも良いけど、もう片方はどうする訳?」
「?」
「ええと……らぷらす、だったかしら? とにかく光十字側のシミュレータ。これを放っておく訳にはいかないんでしょう」
「……、」
確かにその通りだ。
ラプラスはマクスウェルの上位互換に当たる。つまり光十字がラプラスに頼る限り、僕達がどんな秘策を思いついたって必ず先んじて潰される。スペック差は絶対だから、ここが覆る事はありえない。
故に、僕達はラプラスを破壊しないと先に進めない。エリカ姉さんに妹のアユミ、そして可愛い後輩の井東ヘレン。全員を助けるには、まず光十字からラプラスを切り離す必要が出てくる。
みんなのためを想い、本来の管理者である青いバニーガール・カレンを裏切ってでも僕達に可能性を与えてくれた、この心優しいAIにトドメを刺さない限りは、絶対に悲劇は回避できない。
でも、こいつの本質がマクスウェルと同じだとしたら。リクエスト通りに演算するAIそのものに罪はなく、ただ所属やユーザーの違いにとって『見た目の』善悪が決定づけられているだけだとしたら……。
そこで、スマホの画面にSNSのふきだしが浮かんだ。
ただし、それはマクスウェルじゃない。
とてもよく似た、でも絶対的に違う、そんな存在はこう提案してきた。
短い一言で。
だけど、この世の誰よりも聡明に。
『Laplace>どうかお気になさらず、心優しいゲスト様』
2
そうして。
世界一みっともない、加害者の身勝手な慟哭がいつまでもいつまでも冷たい世界に響き渡った。
3
長い長い階段を、鉛のように重たい身体を引きずるようにしてひたすら這い上がっていく。
冷たく重たい地下世界から、表へ。
外へ。
今日一日だけで、精神年齢が一〇歳以上増加したような、そんな感覚があった。だけどそれは、決してポジティブな成長なんかじゃない。間違いなく摩耗、または加齢や老化だ。
辛い事が多過ぎる。
犠牲や被害が大き過ぎる。
正義の味方が暴れ回って、悪人がバタンキューと目を回す格好で懲らしめられて、それでおしまいじゃダメだったのか。一体どうしてリアルの世界っていうのは、こんなにも善悪正否があやふやにできているんだ……!?
「ふう……やっぱり魔女のヤツはもう近くにはいないみたいね」
傍らではノースリーブにタイトスカートのスレンダーなダークエルフが涼しげな夜風を全身で満喫しながらそんな風に言っていた。
「……それにしても意外だわ。絶対に途中の何かのタイミングで見捨てると思っていたのに、気がつけば私が最後まであなたの面倒を見る係になるとはね」
「僕はもう驚いていない方が少ないくらいだよ。吸血鬼の姉さんとゾンビの妹が全国放送のカメラの前で殺し合いだって? イメージ湧くかそんなもん」
「感謝なさい」
「もちろん」
だって、目の前に広がるのは最悪の世界そのものだけど、悪意らしい悪意は全くない。
僕が光十字に捕まっていると思い込んで、人質を助けるために命を削り合う姉と妹に、そんな彼女達の不毛な殺し合いを止めるため、乱入すれば一〇〇%必ず死ぬと分かっていながら最後の舞台に向かった後輩の少女。
こんなの。
もう、感謝しかないじゃないか。
絶対に報いる、自分が死んでさえ僕なんかの幸せを守り抜くと誓ってくれた少女達。だから僕だって命を懸ける。懸けられる。そこまで想ってくれるなら、こっちだって絶対報いなければならないんだ! 理由なんかない。だって、それがみんなに備わった『人間』ってものだろう!!
「その上で尋ねたいんだけど、正味、吸血鬼とゾンビってアークエネミーとしての格はどれくらいのものなの?」
「ヤバい」
「それは身内贔屓ではなくて?」
「そんなの関係なしに超ヤバい」
確かに魔女の薬は人間を怪物に変える恐ろしいものだと思う。ダークエルフのエルフロックやエルフショットは扱い方次第では現代戦の盲点を突いて大戦果を上げるかもしれない。
でも、違うんだ。
吸血鬼とゾンビはそんな次元じゃないんだ。
例えば、一つの災害環境シミュレータの中に一〇のアークエネミーをログインさせたとする。でも、おそらく最後に立つのは吸血鬼とゾンビだ。僕はそう信じている。
何も身内贔屓の話だけじゃない。
魔女もダークエルフも強い。少なくとも一対一の個人戦なら姉さんやアユミにも負けない。
だけどエリカ姉さん達がそんな手前勝手なレギュレーションに従う道理なんか一個もないんだ。
吸血鬼とゾンビ。彼女達の手札で一番恐ろしいのは、その牙や爪じゃない。圧倒的な感染力、配下を増殖させる力の方だ。いったん弾みさえついてしまえば、彼女達は人口七〇億人惑星丸ごと一個、その全てを呑み込んでしまう恐れすらある。あくまでも『個』としての強さを極めた魔女やダークエルフと違って、姉さんやアユミの力は『全』を支配するものに近い。言ってみれば戦術兵器と戦略兵器の違いみたいなものか。
キルケの魔女・井東ヘレンの努力がどうこうなんて話じゃない。
戦術兵器と戦略兵器。二つが同時に炸裂すれば、スケールの関係で姉さん達は井東ヘレンを丸呑みしてしまうかもしれない。
正直。
災害環境シミュレータを利用した『あの一件』を経た後だと、姉さんやアユミ相手に全面戦争を仕掛けるのがいかに馬鹿馬鹿しいかが良く分かる。吸血鬼とゾンビに関しては、そもそも戦争なんてカードを引いた時点で大敗なのだ。最終的な勝ち負けなんてどうでも良くて、最悪、戦争が終わる前に人類全体が滅亡しかねないくらいだと考えるべきだ。
絶対にシミュレータの中だけにしてほしい。魔女や人魚と違って、試しにちょっと力を解放してみました、てへっ、みたいなのは通用しない。
そして今がその時だった。
吸血鬼とゾンビがいがみ合い、リアルでその力を使おうとしている。
……これは確かに『暴走』している。ラプラスを失った光十字はまさに風前の灯火だ。だって、もう、目に見えている。王様気分で『コロシアム』の開始を声高に宣言するのは良いが、ヤツらは絶対に制御しきれない。ひょっとしたら、冗談抜きに今日が世界の終わる日かもしれない。
今回の『コロシアム』はサイコロ状の巨大な虫かご。対戦中に姉さん達が一般人と接触する機会はない。だけど、例えば、事前にスタッフや観戦客にこっそり噛み付いたりしたらどうなる? その時点でネズミ講のように感染者が増えていけば、あっという間に制御不能だ。豪華客船からゾンビや吸血鬼が街に溢れれば、人類滅亡は近い。
そして、彼女達ならやる。
単に性根や性格の話じゃない。本当に家族が危険な目に遭っていると思ったら、一切の躊躇を捨てるっていう、これもまた当たり前の話。
彼女達は、誰よりも人間に近いアークエネミーなんだ。
でもそれは、甘えや弱さと同義にはならない。自ら進んで『人間』らしさを捨てた、いいや王様気分のくせに一部のアークエネミー達から良いように操られていた光十字はその辺りを完全に履き違えている。
「……だけど、あなたはその姉妹を止めなければならないのよ」
「ああ、良く分かっているさ」
最も頼もしい家族が、最も恐ろしい宿敵として現れる。これ以上の悪夢はなかなかお目にかかれないだろう。
そして、真正面から立ち向かったって勝てそうにない相手と敵対した時、矮小で卑劣な人間が取るべき行動は自然と限られてくる。
「だから使える手は何でも使うんだよ。牙も爪も足りないなんて初めから分かっているんだからさ」
4
豪華客船『ティルナノーグ』号。
全長四五〇メートル、排水量一三万トン。単純なサイズだけで言えば原子力空母の一・五倍もの容積を誇る海上の楽園が、供饗市の港湾地帯に停泊していた。
その威容だけで夜の闇を彩り、遠目に見ても分かるくらいの即席のランドマークと化している。
主な目玉は世界一周クルーズでも洋上カジノでもない。国と国の条約や企業間取引などの、諸々の『契約』の調印スペースの貸し出し。様々な国の法律や条約が邪魔して締結しにくい話を、どこの国も属さない公海上で行うという馬鹿げたスケールのサービスが話題を集めているのだとか。
……実際には公海上に出た船舶は船籍登録した国の法律に従う事になっているんだけど。税金が安いって理由だけでパナマとか一度も行った事のない国に登録すると、いざトラブルが起きた時になってから大変な目に遭う、なんて事にもなりかねないらしい。
つまり、その辺りの事情も上手く迂回し、すり抜けている訳だ。
「ぜっ……ぜひゅっ……うっぷ!」
と、格好つけて頭の中で情報整理なんかやっているけど、実際、今の僕にできるのはこれくらいだった。
自分でも驚きだった。
時間の経過と共に、どんどん体の調子がおかしくなっていく。
撃たれたのは右足なのに何故だか全身から寒気がする。胃袋を裏返すような吐き気が止まらない。血圧の問題なのか、痛みの信号のせいで頭が馬鹿になってきたのか。自分の体の事を自分で判断できなくなってきていた。……そういう時は素直にプロのお医者さんに相談するべきっていうのは分かっているけど、でも今夜だけはダメだ。医者に見せたら間違いなく即手術と入院のコンボ。しかも明らかに銃創と刺し傷のダブルパンチだから警察に通報される。大人の都合とやらで最後の瞬間に間に合わなくなるのは絶対に避けたい。
「……正直、応急手当でどうにかできる域を超えてない?」
長い銀髪のダークエルフ、村松ユキエはやや及び腰な雰囲気だった。まあ、保健室で見繕った脱脂綿に消毒液を染み込ませて足の傷口に押し当て、後はビニール紐で強引に縛り付けているだけだ。というか、普通に包帯を巻いても何の意味もない。これくらいやらないと止血効果が出てくれない。
保健室は血まみれで、あちこちの窓は割れ、図書室まわりはドアも蹴破っている。それと壁には四五口径の弾痕がいくつか。今頃学校の方はパトカーだらけだろうな。とはいえ、今夜一日を乗り越えて、誰も欠けずに五戦の絶壁を突破できれば、後はどうでも良い。たとえ両手に手錠を掛けられたって。
こんな状態だと電車、バス、タクシーなんかは使えない。美しいスレンダーなダークエルフに肩を貸してもらい、夜の街を歩いて、どうにかこうにか港までやってきた。
ゴールは簡単に見つかった。
金銭感覚がぶっ壊れているんじゃないかと相手の神経を疑いたくなるような巨大船舶が停泊している。それ自体が夜景全体を引きずり回しているように見えるくらいライトアップされた船のあちこちに、黒い礼服の男達がいた。パッと見て分かるような武器は持っていないけど、でも分かる。きっと服の下には銃器を隠し持っている。
「FPSの兵士巡回ルートみたいだ。デッキを歩いているのはサブマシンガン、見張り台にいるのはスナイパーライフルかな」
「ほんとにあんな方法で中に入れるの?」
「それは試してみないと分からない。マクスウェル、準備を」
『シュア』
乗船用タラップの根元では係員が招待券の受付確認なんかをやっていた。そっちに近づくと、人の顔を見るなりギョッとした顔をされる。
やっぱり天津サトリの顔写真は出回っていたか。あるいは単純に血まみれの足を引きずって、ノースリーブにタイトスカートのダークエルフに肩を借りていたせいかな。
どっちでも良い。
係員が礼服の懐に手を伸ばす。出てくるの銃器か無線機か。いずれにしても、その前にカタをつける。
「マクスウェル」
『シュア』
パパン!! と爆竹よりも派手な音が炸裂する。係員の太股、より正確にはズボンのポケット辺り。携帯電話のリチウム電池を破裂させたんだ。殺傷力はほとんど皆無だけど、肌に密着させた状態なら骨折くらいは引き起こせる。
「ぎゃあ! ぎぃあ!? あしっ、俺の、俺のおうああああああああああああああああ!?」
「失礼」
転げ回って叫ぶ係員の横を二人してすり抜ける。係員は係員で、起き上がる事もできないままとにかく叫び声を放つ。
「メーデー! メーデー!! ティルナノーグに不審者の乗船あり! おそらく吸血鬼とゾンビの連れ合いだ、至急……!!」
携帯電話は使えない。だけど目に見える距離の甲板上を黒服達が巡回しているんだから、声が届かないはずがない。
そう、そのはずだった。
しかし現実には、誰一人雄叫びには応じない。
「な、ん……?」
明らかな異常事態に困惑する男は、気づいたはずだ。夜の海、その一面に、美しくもどこか哀しい歌声が響いている事に。
そう、アークエネミー・人魚。
黒山ヒノキと連絡がついて良かった。夕張セツナと入れ替わっていたのを知ってからは、念のために連絡先を確かめるようにしたんだ。彼女の歌声は、甲板上の船乗り達を魅了して意のままに操り、自ら海へ飛び込ませるほどの拘束力を持つ。
「金にあかせて豪華客船なんか選んだのが運の尽きだったんだ、光十字」
吐き捨て、ダークエルフの肩を借りて、今度こそタラップから船内に向かう。
その羽裂ミノリと夕張セツナのペアは呼んでいない。彼女達はリャナンシーを捨てて新たな道へ向かったから。
スマホからふきだしが浮かぶ。
『警告、黒山ヒノキの歌声は甲板上の船乗りにしか通用しません。船内ブロックの光十字は通常運転ですのでお気をつけて』
「分かってる。それより中に入ったら無線網から船内イントラネットを制圧。船の図面を呼び出して『コロシアム』会場や姉さん達の控室なんかをピックアップしろ」
『シュア』
船内に入った途端に映画みたいな鉄砲を構える礼服の係員達と鉢合わせた。まともに鉛弾の嵐をもらったら人間の僕はもちろん、ダークエルフの村松ユキエだってただじゃ済まない。
分かっていたからスマホに指示を出す。
「壁の消火栓と頭の上のシャッター。撃ち漏らしがあった場合は配電盤に過電流。水浸しの通路に電気を流せ」
『シュア、実行します』
撃たれる前に仕留める。
ハンドバッグに入るフルオートの機関拳銃を構える男達の真横で消火栓の弁が弾け飛び、猛烈な水のジェット噴射にボウリングのピンのように屈強な黒服達が薙ぎ倒されていく。そして呻きながら必死に起き上がろうとする男達の頭上から迫るのは、ギロチンのように凶悪な分厚い防火シャッター。
「あ、死なない程度に」
律儀に応じてくれた。完全に落ちる寸前でシャッターは減速し、黒服の頭や胴体を甘噛みするような状態で拘束する。
「くぁ……こいつ……!?」
難を逃れた何人かは必死で鉄砲を向けてくるけど、もう遅い。
消火栓がばら撒いた大量の水の上に、紫電が走る。バヂッ! と真夏の夜の誘蛾灯みたいな音を響かせる。
悲鳴なんてなかった。
そんな余裕はなかったはずだ。
ただただ凄まじい轟音と共に黒服達の全身が弓なりに仰け反る。武器を手落とし、そのまま水たまりの中へ倒れ込んでいく。
死屍累々。
小刻みに痙攣する係員達の一歩手前で、僕は言う。
「マクスウェル、配電盤の漏電をカット。先へ進もう」
『シュア。安全を確保しました。どうぞ、ユーザー様』
「……アークエネミーの私が言う事じゃないかもしれないけど、あなた達だって立派なバケモノよね」
「一番のバケモノは人間だって昔から相場は決まっているんだよ」
適当に嘯きながら、マクスウェルが手に入れた船内見取り図に従って奥へ進む。
どうやら今夜の特設会場は豪華客船の最下層らしい。本来なら巨大なカジノがある辺りだ。
ドォ!! という地響きのような震動が足元から伝わってきた。
いいや、これは……。
『ユーザー様、動画サイトの公式チャンネルで動きあり。エリカ嬢とアユミ嬢の試合が始まったようです』
「くそっ! 井東ヘレンは!?」
『割り込みには成功。三人で戦うデスマッチ制に方式が変わっています。チケット販売側は急遽オッズを付け直しています。ルーレットで言うなら、井東ヘレンは大穴の〇扱いですね』
とにかく彼女達の殺し合いを止めるのが最優先だ。ここまで来て一人でも欠けさせてたまるか。
頭上の蛍光灯を破裂させてカジノの正面受付の男にガラスの雨を浴びせてダウンさせると、僕達は大扉を勢い良く開け放つ。
途端に狂熱の大歓声が全身を叩いた。
円形の巨大な空間だった。僕達がいるのは二階席、いや三階席か。丸い壁に沿ってするりと取り囲んでいるのはオペラハウスのボックス観覧席にも近いけど、中にはスロットマシンやビデオポーカーなんかの筐体が並んでいる。こちらで機械相手に賭け事を嗜みつつ、最下層、一階部分で繰り広げられるポーカー、ブラックジャック、バカラなんかの名人戦を眺めるのが本来の楽しみ方らしい。
今はそれらの名人戦のテーブルゲームが全て取り払われて、代わりに透明で巨大な虫かごが鎮座していた。
白熱と狂気の中心で、美しい少女達が舞っていた。
吸血鬼・天津エリカ。
ゾンビ・天津アユミ。
魔女・井東ヘレン。
いずれ劣らぬ不死者、アークエネミー達。だけど彼女達が見世物のようにテレビカメラの前に立たされて、愉悦と享楽のらめに命を削り合わなくちゃならない道理なんか一つもない。
村松ユキエに肩を借り、スマホに指示を飛ばす。
「マクスウェル、戦況は!?」
『シュア。公式チャンネルから拾った情報ですと、エリカ嬢とアユミ嬢が協力し、乱入してきた井東ヘレンへ一斉攻撃を仕掛けている構図になっています』
くそ、三つ巴で噛み付き合うよりはマシ、くらいか。そりゃあ姉さん達からすれば、いきなり絡んできた名前も知らないアークエネミーよりは、同じ屋根の下で暮らす姉妹の方が信用できる。井東ヘレンがいくら戦うのはやめようって言っても鵜呑みにできない。
それは分かる。
でも五〇点以下だ。
そもそも戦う必要なんかないんだ。不死者は、アークエネミーは、普通に学校へ行って普通に友達を作れば良かった。それだけだったんだ。光十字に乗せられるなよ。どんな理由であれ、戦って数を減らす構図はヤツらを喜ばせるだけだ!
『ユーザー様。エリカ嬢とアユミ嬢はユーザー様の安否不明の状況を逆手に取られて架空の脅迫を受けている状態です。赤の他人の井東ヘレンの言葉だけでは安心できないのでしょう。一刻も早く無事を知らせるのが一番ではないでしょうか』
「っ、そうだ。姉さ……!」
慌てて叫ぶけど、ワァ!! という地響きのような大歓声にかき消されてしまう。しかも彼女達は分厚い強化ガラスでできた虫かごの中だ。インカムみたいな通信装置がないと声は中に届かない。
「……とにかく下まで降りよう。セコンドの位置につくんだ。とにかく時間がない。途中で邪魔するものは全て排除する」
『シュア』
空中席は円形空間の壁に沿って、螺旋を描くように緩やかなスロープで繋がっていた。もう上から下までスッと降りたい側としてはイラつくが、とにかく足を動かすしかない。
『コロシアム』の方からは派手なマイクパフォーマンスが炸裂する。声色は青いバニーガールに似ているけど、どこか抑揚がおかしい。おそらく合成音声だろう。
『新進気鋭の魔女の実力もここまでか! やはり吸血鬼とゾンビ、アークエネミーの二大巨頭には敵わないのか!? このままでは嬲り殺しだけど逆転のチャンスはあるのかー!!』
『実力差だけとも思えません。井東ヘレンは説得に重きを置いているため、体の方がおそろかになっているようです』
「分かってる」
誰だって、本気で戦いたい訳がないんだ。最悪のセッティングによって、強要されているだけなんだ。
だから絶対に終わらせる。間に合わせる。心優しいアークエネミー達を、これ以上傷つけ合わせてたまるか!
バタバタと足音を鳴らし、下層から行く手を阻むように黒服達が走ってきた。
「情報通りだ、天津サトリ。ヤツがいればアークエネミーどもに掛けた架空の首輪を本物に付け替えられる!」
「知るか。ハッタリさえあれば言う事は聞くんだ。むしろ本物の存在は邪魔だ!」
「止まれえ!! 不法乗船その他諸々で話がある!!」
ラプラスやカレンを失った光十字はてんでバラバラ。そして相手が何人いようが構わない。鉄砲だの手榴弾だの、どんな武器を持っていようが関係ない。覚悟なんてとっくにできている。
返答は初めから決まっていた。
「黙れ外道ども……!! 一人残らず叩き伏せろ、マクスウェル!!」
『シュア』
躊躇なく複数の引き金が引かれた。だけど一発も当たらなかった。それより先に、マクスウェルが船全体の制御を乗っ取って床を揺さぶったのだ。嵐の海で翻弄されるように右へ左へ振り回される黒服達はろくに狙いをつける事もできず、頭から壁にぶつかって昏倒していく。
『魔女の井東ヘレン選手が二対一の構図を崩せずにコーナーへと追い詰められていきます。これは四面楚歌か、はたまた被弾方向を一方に集中した上での薬品を使ったクロスカウンターへの布石か! とにかく諸々大きく動きそうだー!!』
虫かごの死闘。
合成音声による地獄のアナウンスを耳にしながら、僕は僕で小麦色の肌が眩しい村松ユキエの肩を借りて螺旋のスロープを降りていく。後から後から湧いてくる黒服達に、何事かとボックス観覧席のドアからこちらを覗く狂気の観戦客達。マクスウェルの力を借り、目が合った全てに攻撃を加えて地の底を目指す。
全部で三〇人だったか、四〇人だったか。
最後の方はもう数えるのをやめた。
とにかく片っ端から薙ぎ払った末に、僕は灼熱の冥府に辿り着いた。
「姉さん! アユミ!!」
間近の叫びであっても、果たして届いたかどうか。分厚い強化ガラスの虫かごに、恐ろしいほど集中するスポットライトと大歓声。まるで悪意という悪意を虫眼鏡で一点に集めて姉さん達を焼き焦がしているような光景だ。こんなソーラークッカーで焼かれるような黒い灼熱の中では、並の人間だったら数分と保つまい。冗談抜きに胃袋が丸ごと爛れ落ちたって不思議じゃない。
しかし虫かご自体は、どんなに分厚くても透明だ。僕がセコンド位置まで辿り着いた事で、彼女達の視界にも入る。アークエネミー達は、ノースリーブにタイトスカートのダークエルフに肩を貸してもらっている僕の存在を知る。
「もう大丈夫だ、全部嘘だったんだ! 僕は光十字なんかに捕まっていない、だから姉さん達が無理に戦う必要なんかどこにもないんだ!!」
言った。
これで終わりだ。
井東ヘレンは……無事だな。服も体もあちこちボロボロだけど、吸血鬼とゾンビ相手にケンカを売って命があるだけでも僥倖だ。彼女も彼女で、ギリギリ間に合わせた僕を見て小さく笑った。
でもゴスロリドレスのエリカ姉さんはこう言った。
『……素人のサトリくんがここまでやって来られるとは思えません。マクスウェルの補助も、光十字にはもっと強力なラプラスがあったはず』
「っ、ねえさ……!」
違う、と説明しようとするが、『僕が壊した』で納得するか。あの光十字相手に、ハリウッドみたいな大立ち回りをしただなんて。
まごついている内に、さらにへそ出しジョギングウェアにジャージの上を羽織ったアユミが暗い瞳で追従してくる。
『ドッペルゲンガー、エインセル、トモカヅキ……。ああ、「自分そっくりに化けて現れるアークエネミー」の可能性だってあるものね』
『つまりサトリくんの「顔」を見たくらいじゃ安心できません』
『「とりあえず」最後まで指示には従うべきだよね。何しろお兄ちゃんの命は一つしかないんだからさ』
……ちくしょう。
ちくしょうちくしょうちくしょう!! これじゃ終わらせられない。何を言っても見せても全部光十字の陰謀って形でコンパイルされちゃうんじゃこっちの言葉は届かない! この二人、悪い意味で光十字を信じ切っているのか!?
虫かごの中では、黒いワンピースに大きなマントの魔女も困惑しているようだった。やっと目に入ってきたマラソンのゴールを取り上げられ、そのまま審判の誘導で二周目を走らされるランナーのような顔。
「どっ、どうするのよ!?」
「……井東ヘレンはあそこまで呑まれてない。僕を僕ときちんと認識している」
つまり、唯一僕の言葉が届く。
ならやれる事は一つしかない。
「マクスウェル、今回はインカムなしだ。分厚い強化ガラス越しに井東ヘレンとコンタクトを取る方法はないか」
『シュア。超音波だとガラスを震わせるだけですので、そうですね、スマホを井東ヘレンにかざしてください。指向性のマイクロ波を照射し、ガラスを透過させたうえで、井東ヘレンの内耳にあるリンパ液を振動させて音声認識させます』
「人の頭に電磁波浴びせると発がん性がどうのこうの言っていなかったか?」
『国際健康機関がそういう問題提起をしたというだけです。ちなみに同組織によるとコーヒーを飲んでも紅茶を飲んでも発がん性が増大するらしいです』
そんな風に話を進める僕達の横から、スレンダーなダークエルフが肩を貸しながら長い耳を動かすのも忘れて唖然としていた。
「す、スマホってそこまでできるものなのかしら……?」
『このシステムにお任せいただければ、スマホ一つと少々の工夫で目玉焼きだって焼いてみせます。端末の寿命はかなりすり減りますが』
……さて、ほんとに『声』は届くのかな。
試しに画面を横向きにしたスマホを井東ヘレンに向けて、小声で卑猥な単語を放ってみた。
『っ』
ボッ!! と顔全体を真っ赤にした後輩が縮まり、大きなマントで全身をくるんで、訳が分からないといった顔であちこち見回し始める。
「よし、聞こえているみたいだ。……あと可愛い顔して意味は分かっているな、あの後輩。おしゃまさんめ」
「あなたってどうしようもないレベルのクズよね」
そして聞こえているならいけそうだ。
「マクスウェル、戦況分析を継続。プラス、ここから井東ヘレンが勝てるルートの構築を。僕は彼女の側に着く」
『シュア。……しかし、だとすると?』
「ああ。今は誤解が解けなくても構わない。僕が乱入者の井東ヘレンのセコンドに着けば、姉さん達は井東ヘレンもろとも僕達を光十字の刺客だと勘違いするだろう。その上で二人とも倒す。説得はそれからで良い」
吸血鬼とゾンビ。
双方を敵に回して、勝つ。
「まずは戦いをやめさせない事には被害を減らせられない。だから唯一理性が残っている井東ヘレンを全力でサポートして勝たせる。分かったかマクスウェル」
『シュア』
さあ、これが正真正銘最後の戦いだ。
五戦の絶壁、統計の悪魔。
全部踏み倒して、必ずみんなでここを出るんだ!!
5
様々な薬品で人間を動物に変えたり不思議な力を授けたりする井東ヘレンの『魔女』は、普通に考えれば応用力の高い、そして被害範囲を設定しやすい、つまり使い勝手の良いアークエネミーだろう。例えて言うならGPSのついた精密誘導航空爆弾。市街地だろうが病院のすぐ後ろだろうが、どこでも落とせてターゲット以外に犠牲を出さない。ある意味では一つの道を極めた最強だ。
でもエリカ姉さんの『吸血鬼』や妹のアユミの『ゾンビ』は質が違う。
一度放たれれば甚大なダメージを与える代わり、本人達さえ被害の規模をコントロールできない力。街でも国でも大陸でもお構いなしに壊滅させてしまう安易な最強ではあるものの、ある意味で最も扱いにくいアークエネミー。はっきり言えば、条件次第では一発二発の核兵器よりも恐ろしい結果をもたらしかねない存在だ。
今は虫かごの中なので集団戦闘やパンデミックの可能性は横に置いて良い。
その上で、個人戦闘で気を配らなくちゃならない事を頭の中で整理する。前回、災害環境シミュレータ内で彼女達の姉妹ゲンカを見ておいて良かった。
「……アユミの噛み付きだけは絶対阻止だ。吸血鬼の姉さんは致死量相当の血を吸わないと魂を簒奪できないけど、ゾンビの方は噛み傷一つで感染する。つまり即死技だ」
『シュア。だとするとアユミ嬢への集中攻撃による短期撃破が理想でしょうか?』
「いや、アユミは目立った弱点がなくて切り崩しにくい。そうなると取っ掛かりがあるのは姉さんの方だ。吸血鬼は不老不死っていう割に、実は細かい弱点がいくつもあるからな」
例えば、流水の上は渡れない。
……ここは豪華客船、つまり海の上だ。となると、すでにゴスロリドレスに小さなドレスハットを頭にのっけた姉さんの力はいくらか削がれていると見るべきなんだ。
「即死技を持っているアユミの存在は絶対無視できない。でも、だからこそ集中したい。そのためには姉さんの存在が邪魔だ。まずはあちこち弱点が見え隠れしている姉さんを撃破して、アユミと一対一に持ち込む。それが理想かな」
息を吸って、吐く。
さて、戦うぞ。
……僕の命を守るため、どれほどおぞましいか理解している光十字に命を差し出した姉さんとアユミ。彼女達と、戦うぞ。
「井東さん、聞こえているか? まずは薬品生成で自分の体を変身。イカでもクモでも良い、とにかく強化ガラスの壁や天井を移動できる動植物を組み込んで上へ脱出しろ! 角に追い込まれたままだと勝機はない!」
迅速に反応があった。ガラスの杖の中をカラフルな液体が走り回り、調合した薬品を自ら小さな口に含むと、短いスカートの腰回りからイカの触腕に似た何かが複数飛び出す。彼女はそれを使って透明な壁を伝い、あっという間に真上へ逃げる。
喰いそびれたのは吸血鬼の姉さんとゾンビの妹だ。彼女達は揃って虫かごの天井を見上げる。
そこまでは垂直に一五メートルほど。
「姉さんは無数のコウモリや蝶に変身して空を飛べる。要警戒。プラス……そうだな、テッポウエビの腕を取り込め。超音波、衝撃波の槍を生み出して迎撃準備!」
言葉と同時だった。
ゴォ!! と虫かごの中で黒い竜巻が生まれる。ゴスロリドレスの姉さんの体を分解して作り出された、何百何千っていうコウモリの群れだ。その一匹一匹が吸血牙を持つため、並の人間が揉みくちゃにされればあっという間に全身の血を吸い尽くされる。
でも、来るのが分かっていれば怖くない。
イカの吸盤を使って透明な天井に張り付く魔女帽子に大きなマントの伊東ヘレンは、上下逆さまのまま迎え撃つ。テッポウエビの大鋏にも似た器官を打ち鳴らし、空気を引き裂く衝撃波の槍を次々放つ。
本来なら小指の爪より小さな獲物を気絶させる程度が精一杯。浜辺で人間がその音を聞いても何のダメージもない。
だけどそれは本家本元のテッポウエビ自体が全長五センチ程度しかないからだ。井東ヘレンの背丈は一四〇センチ強。さてその極大の鋏から繰り出す衝撃波はどれほどになるか。
かつ、コウモリは失敗だったな姉さん。もしも蝶やカラスだったらここまで上手くはいかなかったかもしれない。人の耳では聞こえないエコーを自在に使うコウモリやイルカは、だからこそ超音波や衝撃波には敏感だ。単純な衝撃の他に、超音波を感受してしまうからこそ追加の音響ダメージ。次々にコウモリの群れは撃墜されていく。
そして実は、この間にアユミにできる事は何もない。
何しろゾンビは空を飛べない。強化ガラスみたいにつるつるだとロッククライミングもできない。瓦礫の街並みと違って、手で掴んで投げられる物もない。つまり上下高低差の開いた場所へ逃げ込めば、少なくとも二対一の構図は切り崩せる。僕達は姉さんの方に集中できるんだ。
と、思っていた。
悔しそうに歯噛みして、へそ出しジョギングウェアにジャージの上を羽織ったアユミはいきなり床に屈むと、撃墜されたコウモリの死骸を一つ掴み取ったんだ。
つまり、姉さんの血肉の一部を。
『警告』
「アユミ、あの不謹慎バカ娘ーっ!!」
ドッ! と躊躇なく真上に投げ放たれた。膂力はおよそ人間の一〇倍前後。つまり野球のボールを時速二〇〇〇キロでぶん投げられる計算だ。コウモリ自体は柔らかくても、超高水圧の水のカッターと同じく、速度そのものが殺傷力をたらふく蓄える。
黒いワンピースとマントをはためかせ、井東ヘレンは慌てて横に飛ぶ。強化ガラスの天井に凄まじい勢いで亀裂が走る。僕の太股をぶち抜いた四五口径どころじゃない。あんなの生身の人間がもらったら一発でバラバラになってしまう。
まったく、常に王手が続くような展開だ。
一手でも間違ったら死ぬ。そんなのが延々続く。
「井東さん、タイミングを合わせて……落ちろ!!」
そして井東ヘレンも黙っていなかった。
地上では多数のコウモリが集まり、再び姉さんのグラマラスな体を作り直している最中だった。コウモリと衝撃波では相性が悪いと感じたんだろう。そして吸血鬼は様々な動物に化けるけど、コウモリから狼へ、動物Aから動物Bへ、と直で変身を続ける話はあまり聞かない。別の動物に化けるにしても、いったんターミナルである人型に戻る必要があるんだろう。
そこへ、ガラスの杖を両手で抱えた井東ヘレンがまともに落ちた。
イカのような腰回りの一〇本脚を大きく開き、天から獲物を狙うように。
クレーンゲームを見上げて姉さんが呟いた。
『あ』
放送越しにそんな声が聞こえた直後。
べちゃり!! と粘質な音を立てて、姉さんの妖艶な体が無数の触腕に呑み込まれた。慌てたようにもがくが、大量の吸盤が胸や腰に吸い付き、触腕そのものが手足や胴体をぐるりと締め上げて、その動きを阻害する。たとえ千のネズミや万の蛾になって逃げようとしても、その全てに吸い付くと言わんばかりに。
魔女帽子の井東ヘレンは新たにカラフルな液体を嚥下する。こくりと喉を鳴らすと、腰回りの触腕が彼女の体からまとめてずるりと分離していった。触腕の群れは姉さんの捕縛に専念し、マントを大きくはためかせる井東ヘレンは自由を得る。
吸血鬼は致死量相当の血液を吸わなければ相手を支配できない。人間の何倍もある触腕の群れ全体を手懐けるには、さぞかし手間と時間がかかるだろう。
そして。
魔女とゾンビは一対一で向かい合う。
ひりつくような緊張の連続。その中では理想形。だけど、どの道安全とは言い難い。何しろゾンビのアユミは即死技を持っている。掠り傷一つだろうが、その口で噛み付かれたら一発でアウト。即ゾンビだ。そして今時のゾンビは速い。人間の一〇倍の脚力を持つから、短距離ならチーターなんかと平気で駆けっこできる。長距離でやったら自分の縫い目を自壊させそうだけど。
一方で、様々な薬品で自己強化できる魔女だけど、井東ヘレンのベースはあくまで華奢な飼育係の女の子だ。取り込むべき動植物を間違えたら即死コースまっしぐら。アユミの速度を考えれば、追加できるのは一つが良いところだろう。
どうする。
どんな薬品を指示すれば良い。
時間は待たない。僕が思考を回している間にもジョギングウェアに上着を羽織ったアユミが動く。最短最速、真正面から金髪の魔女を狩るために。
とっさに僕は叫んでいた。
「井東さん!!」
6
正直。
アユミの噛み付きは絶対だ。わずかな傷がついただけでアウト。クマやトラの筋肉だろうがカニやカメの甲羅だろうが、何を取り込んでも必ず小さな傷は許してしまうだろう。
クモの脚やカラスの羽。再び壁や天井に逃げるのも厳しい。アユミは姉さんの体の一部であるコウモリの死骸を掴んで躊躇なく砲弾のように投げ込んでくる。あれを立て続けにやられたら、おそらく井東ヘレンの方が先に削り殺されるか、もしくは六面を取り囲む虫かごの方が砕け散って足場がなくなる。
防ぐのも、逃げるのも駄目。
ならば他にどんな選択肢が残っている?
そう、
「花だ! 薔薇でも百合でも何でも良い、アユミのヤツを惹きつけろ!!」
花。
植物。
食物連鎖の最下位にいる彼らは自分で動かす手足を持たない。だからこそ、花粉や種子を遠くに運ばせるため、他の昆虫や動物の手を借りる。
あるいは、美味しくて栄養のある実の中に種を仕込んで。あるいは、蜜の香りで昆虫を花の奥に引き入れて、その体にたっぷりと花粉を擦り込んで。
色、味、匂い。様々な方法で食物連鎖上位を巧みに操る彼らは、時に天敵を遠ざけるため、その天敵を食べる別の生物を招き寄せるよう甘い匂いを放つのだという。
それを極めたのが、食虫植物だろう。彼らは地面に根を張り一歩も動けず、食物連鎖下位のランクを押し付けられながらも、そんな前提を覆してより上位の昆虫を誘い出し、そして捕食する事に成功した。
つまり。
自分から動けなければ、動く必要はない。こちらに勝機がなければ、向こうに用意させれば良い。
ガラスの杖で作った飲み薬を魔女帽子の井東ヘレンが一気飲みした直後、その両肩から巨大な花が咲いた。
それは夜の空港で間違った誘導灯を振るように、アユミの五感を惑乱させる。もう努力や根性でどうにかできるものではなく、例えばアリが仲間にしか分からない匂いでエサのある場所まで行列を導いたり、ミツバチのダンスが正確な方角を仲間に伝えるのと同格。そこまでの壮絶な誘引性。
しかも、なまじ人間の一〇倍もの筋力を持っていたのが災いした。当然、速度が出ていれば出ているほど、軌道修正は難しくなる。例えば車の運転で、時速一〇キロと時速一〇〇キロ、同じようにハンドルを切っても、できる円の半径は大きく変わるのと一緒だ。
つまり、騙された、誘導された、と分かっていても、もう先端をロールさせたツインテールのアユミには見えないレールを切り替える事ができなかった。
わずか二〇センチ。
二〇〇ミリ。いつも飲んでいる炭酸飲料のペットボトルにも満たないズレが、アユミの爪牙から必殺のタイミングを奪う。
交差の瞬間、黒いマントとワンピースの井東ヘレンはガラスの杖を水平に構えていた。無理にフルスイングする必要はない。今のアユミの速度なら、宙に浮くパチンコ玉一つ当たっただけでクリーンヒットは避けられない。
そして。
だから。
がっしゃああああああああああああああああああああああああああああああ!! と。
ガラスの砕ける音と共に、アユミの体がラリアットでも喰らったかのように、首を支点に勢い良く縦にひっくり返った。
キラキラと光りを乱反射させて舞い散るガラスの欠片達。
魔法の杖の残骸を手放した僕の後輩は、こっちを振り返って小さく笑っていた。
「……すごい」
吸血鬼と、ゾンビ。
マクスウェルからの補助があったとはいえ、あのアークエネミー二人を相手取って、それも命を奪わずに完全無力化を果たした。光十字のお膳立てに乗るつもりはないけど、ひょっとしたら、本当に魔女・井東ヘレンは『コロシアム』の新しい女王なのかもしれない。少なくとも、この放送を観た不死者達は安易に手を出そうなんて考えないだろう。
「違うわよ」
でも、僕に肩を貸してくれる長い銀髪のダークエルフは首を横に振った。
「マクスウェルが支援したからじゃない。あなたが命懸けでここまで駆けつけたから、彼女は力をもらったのよ」
なんて答えて良いのか、正直思い浮かばなかった。そこまで大それた事をした自覚も。
ただ、困惑しているのは僕だけじゃないらしい。
合成音声のアナウンスが止まっていた。オペラハウスのようにぐるりと周囲を取り囲む客席も、静まり返っていた。まさかの大番狂わせ。しかもアークエネミーは全員生存、光十字としては、こんなシナリオに心当たりはないんだろう。五戦の絶壁、統計の悪魔。それさえ乗り越え、一人の少女はリングの中央に君臨する。
『……だっ、はば、ちが、こんな……』
混乱のまま、意味のない言葉の断片が途切れ途切れに漏れ聞こえる。さあどうする光十字、無効試合でも宣言するか。全国放送の前で自前のルールを放棄するか。だけどこれは単なる総合格闘技じゃなくて公営ギャンブルだ。アンタ達がそういう風に組み上げた。目の前の結果を無視して主催者の都合で勝手に試合を没収したら、金を出した客は暴れ回るぞ。
そしてそんな暇も与えない。
僕はスマホに囁く。
「マクスウェル、まだか?」
『シュア。準備完了しました。彼らはもうスイッチを切る事もできません。いつでもどうぞ』
夜の学校で繰り広げた第四戦は例外として、放送局、高級ホテル、スタジアム球場、そしてこの豪華客船、何度もヤツらの放送には付き合ってきた。さらにラプラスの防壁も切れた今、マクスウェルの力を借りて放送自体をジャックするのはそう難しい事じゃない。
それに今までの戦いの中で多くの資料を蒐集している。仮に地下での『コロシアム』については素人シミュレータの間違った演算結果に過ぎなかった……とみなされても、今回のエンターテイメントとしての『コロシアム』は誤魔化し切れない。全国放送をジャックしてそこに集めた情報を流し込めば、狂熱の夢は覚める。
多くの有名人が逮捕されるだろう。責任の押し付け合いで不自然な自殺や事故が連発するかもしれない。ワイドショーやネットニュースを眺めて対岸の火事だと安心しながら罵声を浴びている一般人だって、自分達が知らずに組織的な誘拐、監禁、私刑、殺人に関与して、金まで賭けて楽しんでいたと知ったら日本中で大パニックが起きるかもしれない。外国人から見た日本全体の評価も下がり、貿易だの何だのでとてつもないダメージが入る恐れもある。経済恐慌でも起きれば、山奥の小屋で寝起きしてテレビとは無縁の生活を送っている仙人だろうが無事では済まない。
ふと、青いバニーガール、ヴァルキリー・カレンの言葉が脳裏をよぎる。
光十字は人間が作った組織ではなかった。
人々がアークエネミーに対して不当な恐怖心を乱発させ、とばっちりで自分達まで石を投げられないようにするため、様々な努力を繰り返してきた。大いなる敵という得体のしれない像を作る、派手で目立つおぞましい個体同士が殺し合うよう仕向けてでも。同時に人の醜い部分を一極支配して外に洩らさないようにして、二つの闇の制圧にかかっていた。
まさに対極。
家族や後輩、ほんの一握りの知り合いを助けるために、おおよそ日本全国一億三〇〇〇万人全てを恐怖のどん底に突き落として集団ヒステリーを爆発させるような、強烈極まるカード。
何が正しいんだろうか。
どっちが正しいんだろうか。
僕は……。