第一章



1(にんにく一個)


 今置かれている環境、そして僕にできる事を考えてみよう。

「記憶が混乱しているのね」

「そりゃでっかいにんにくにされたくらいですからね! 前後がどうなったのかサッパリ分からないよ!!」

「落ち着いてサトリ君。そして大声を出してはダメ。一つ一つ片付けていきましょう?」

 委員長はあちこち血だらけな部屋のベッドに腰掛け、まん丸にんにくな僕を膝の上に乗せると、

「まず、ここは私達の住んでいる供饗市と隣街の境にある、静養病院っていう古い病院の跡地よ。深い森の中にあるから、モービルアースとかで衛星から見ないと存在さえ知られない。何でこんな所に病院を建てたのかは謎だけど、人目に触れたくない患者さん向けだったのかもしれないね。経営難になって夜逃げ同然で院長達は行方を眩ましちゃったから、錆びた医療機械なんかは結構そのまま放置されているの」

 いや僕としてはにんにくの方が気になるんだけど、話の腰は折れないか。何しろ相手は良い匂いのする委員長で、僕何だか知らない内に膝枕されているし! すりすり!!

「私達は学校と役所の許可をもらって、この廃墟で何が起きたのかを調べるつもりで来たの。社会科学習よ。どうして病院が立ち行かなくなったのか、取り壊しが始まらないのは何故なのか。その辺りをそこそこ調べて授業中の発表会で説明して、大人の世界も色々大変なんだなーっていうのが分かればそれで良かった」

「……人目につかない秘密の病院に、夜逃げ同然の失踪案件? 言うほど簡単そうな事情とも思えないけど」

 特に、あんな血染めドレスが徘徊しているとあっては。あれがこの病院の荒廃と密接に関わっている場合、院長とかの経営陣が突然失踪したのも、一概に夜逃げ目的とは限らないかもしれない。

 あるいは、どこかに埋まっているか。

 それとも、血染めドレスと同じく闇の奥を這いずっているか。

 そういう可能性だって。

「あはは。今にして思えばね。でも学校の先生も役所の係員も、別に気にしていなかった。二つ返事でオーケーしてくれた。ほんとに危なかったらどこかでストップがかかるだろう。そんな風に思ってた。でも違ったのね。本当に恐ろしいものは、誰も知らない場所に埋もれているんだ。そもそも予測できるような恐怖なら、最初から誰も罠に引っかからないんだって、どうして気づかなかったんだろう……」

 まいったな。

 吸血鬼なら同じエリカ姉さんの領分だけど、こういうケースの場合ってどうなるんだろう。ご近所付き合いというか、縄張り争いというか。正直、あの血染めドレスに姉さんの名前を出しても素直に身を退いてくれるとは思えない。というか、そもそも言葉が伝わるかどうかさえかなり怪しい。安易に試したくもない。

 あいつは、姉さんや妹のアユミとは何か違う。アークエネミー、不死者だって女の子じゃないか。そんな風に思えるものが、今のところは一つも見つからない。

 純粋な怪物。

 目で、耳で、鼻で、舌で、肌で。何か一つでも向こうに存在を感知されたら、それだけでこちらの命が散る。なんていうか、そういう……人との迎合を決して許さない、生粋の夜の空気を纏っている。

 僕は考え、そして基本中の基本を尋ねた。

「……どうしよう?」

「そうね」

 委員長は巨大にんにくな僕を膝の上に乗せたまま、

「まず第一に、アレは倒せない。倫理とか人間性の話じゃなくて、純粋に物理的にどうにもならないの。一時的に怯ませたり、転ばせたり、間違った方に誘導させたりはできるかもしれないけど、倒して一件落着は絶対にない」

 ごくりと、実際には何が鳴っているんだか分かりもしないにんにく内部で音を鳴らす僕。

「……で、でも。でもだよ。このままここに隠れ続ける訳にもいかないだろう。それは解決になってない」

「あはは。確かに。ケータイの電波も通じないから助けも呼べないし、学校の先生や役所の人が帰ってこない私達の様子を調べに来てくれたとしても……無警戒で今の病院に入ってきたら、私達の二の舞になっておしまい。多分外からの助けはあてにならないわ。それどころか、下手すると吸血鬼の数を増やすかも」

 言うと、委員長は柔らかい両手でにんにくな僕を挟み込んで持ち上げた。彼女自身もベッドから腰を浮かせると、そのまま部屋を……そう、今さらながら気づいたけど、いやに埃っぽい個室の病室を横断して、壁際へ近づいていった。

 厳密には、分厚い遮光カーテンの引かれた窓辺に。

「見て」

 わずかにカーテンの端を開いて、委員長は突き刺さるような陽射しを僕に当ててきた。

 かなり高い。三階、いや四階くらいはありそうだ。だけど今は眼下に広がる緑の海を眺めている場合じゃない。

「……まだ陽は高い。今、病院から出ていく事ができればあの吸血鬼は外まで追ってこられないと思うの」

「確かに。でもさ委員長、それって逆に言ったら……」

「うん」

 委員長も口には出したくないんだろう。だけど情報共有のために、やりたくもない仕事を引き受けてくれた。


「陽が沈む前にここを出られなかったら……吸血鬼は平気で外まで追い駆けてくる。そうなったら、きっともう助からない。街へ出る前に絶対森の中で捕まるでしょうね」


2(にんにく一個)


 意外とにんにくでもできる事はあるらしい。

「おっ」

 委員長の手から離れて床をころころ。手も足もついていないにんにくボディだけど、中の重心を操れるっていうか。感覚的には空っぽのボールの中に小さな鉄球があって、それを動かすと前後左右思い通りの方向に転がれるってイメージが近い。

 この小さな鉄球みたいな感覚を操るのが基本らしい。下から上に反動をつけるとジャンプもできた。大体、委員長のおへそくらいの高さがギリギリみたいだけど。

「……でもこれだけでどうやってあんな血染めドレスと戦えって言うんだ。実際に目が合うどころか同じ部屋にいるだけで金縛りみたいなのに襲われるような相手だぞ。中国拳法極めて気功を覚えて新聞紙で岩を真っ二つにできるようになったって無理なのに」

「でもサトリ君、にんにくは吸血鬼の弱点って良く言うじゃない?」

「だからそのにんにくをどう使うのかって話だよ子猫ちゃん」

「ええと、投げつけたり」

「投げ……っ!?」

「……すり下ろしてドアとか床一面に撒いておくとかどうかしら。バリアーみたいにならないかな」

「待って待って待って! 前提というか、僕の基本的人権が紙くずみたいに空を飛んでいる気がするけれども!? にんにくだからって雑に扱わないで、もっと大切にして。同じ一個の命が宿っている訳よ!?」

「でもサトリ君、さっきなんか増えてなかった?」

「う……うん???」

「ほら、植木鉢に挿して、お水をあげて、窓のカーテン開いてお陽様に当てたら……なんか花が開いて……」

「いやちょっなっ、何にも覚えてないけどもー!」

 僕は一体どこへ行こうとしているんだ?

 だけどにんにくボディの使える機能は全部知っておきたい。そもそも僕のにんにくボディが知らぬ間に増殖しているとして、そいつらはどうなったんだ。ともあれ、ものは試しとばかりにチャレンジしてみたかったんだけど。

「植木鉢はこの病室にはないわね」

「えっ」

「ここからだと、ナースステーションに枯れた観葉植物があったかな。水道も止まっているんだけど、三階の消火栓が壊れていて、壁から……」

「そんな面倒なクエストになるなら良いよ! 委員長はここで待っていて。とにかく相手は吸血鬼だ。生身の人間な委員長が無防備にうろついているのが一番危ないんだから」

 というか、にんにくな僕は廊下の隅に寄ってじっとしていれば生ゴミ扱いで素通りされたりはしないのか。いや流石にぶっつけ本番で試してみる気はないけど。

 そういう訳で、いったん委員長を病室に残してころころ。床は汚れたモップを引きずったみたいに甘ったるい血でべったりだった。気味が悪かったけど贅沢は言ってられない。とにかく薄く開いたままのドアから廊下に出てみる。

 やっぱりどこも薄暗い。カーテンや木の板で封印された窓から洩れるわずかな光だけが頼りだ。

 そして思った以上に雑多だった。

 汚いバケツがいくつも並んでいたり、廊下一面に錆びた金属棚が山積みしてあったり。下りの階段が丸ごと全部ゴミで塞がれている場所もあった。壁にある見取り図も当てにならない。思った以上に迷宮化している。ちなみに煙草の吸い殻やスプレーの落書きなんかはなかった。わざわざこんな不便なトコまで遊びに来るヤツもいないのか。

「……ナースステーション、あれか」

 ただ、そんな中でも目的の場所を見つけるのは難しくない。よっぽどアレな設計じゃない限り、ナースステーションは複数の廊下が交差する、つまり一番人の通りが多い場所に作るのが当たり前だからだ。その階のどこでトラブルが起きても真っ先に駆けつけられるよう、そして内外の人の出入りを監視する意味でも、『交通の要衝』に関所を置くのが妥当なのだ。

「それにしても」

 カウンターの上には確かに鉢植えがある。茶色く枯れた葉っぱが固まっているだけだけど。でも、あれをどうやって運ぼう? とりあえず、他には水と日光が必要っぽいんだけど。

「よっと」

 カウンターのギリギリまで寄ってから、にんにくのまま垂直にジャンプする。委員長のへそ上くらいまでは跳べるので、カウンターの上とかなら、ギリで飛び乗れる。

 が、

「……手も足もないけど、やっぱり押すしかないのかなあ」

 植木鉢は陶器製だから、落としたら割れてしまいそうだ。今のままじゃどうにもならない。

 まったく、つくづくこの巨大にんにくっていうのはやりにくい。もしも委員長の話通りにボディを増やせるなら、上から落として下から受け止めて……みたいな事もできたかもしれないけど。

 と、そんな風に考えて一休み。カウンターの上から下界を見下ろした時だった。

「おっ」

 思わず声が出る。

 何だ、カウンターの上からどうこうしなくても、最初からあるじゃないか。ナースステーションの手前いっぱいに広がる待合室のベンチの列の端、窓際辺りに草花っていうより大きな『木』を植えるためのバケツみたいな鉢植えがある。

 さらに下には一回り大きなお皿みたいなものが敷いてあった。しめた。水受けだ。人が舐めるにはヤバ過ぎるだろうけど、土を湿らせるくらいなら関係ないはず。委員長情報も案外当てにはならないな。危うく得体の知れない血染めドレスが徘徊する中、あっちもこっちも駆け回る余計なクエストを強いられるとこだったぞ。委員長には後で文句言ってまたすりすりさせてもらおうっと!

 そんなこんなでカウンターの上から飛び降りて床をころころ。大きな鉢どころか、近くの窓枠までジャンプするのも難しくない。分厚いカーテンを引くのは手こずったけど、結局、まん丸にんにくと窓ガラスの間にカーテンの布を挟みながらじりじりと窓辺を移動する事でクリアする。

 はあ、はあ。カーテン一つ動かすだけで重労働だよ。やっぱり人の体が恋しい。ていうか根本的に僕はどうしてにんにくになっているんだ。悪い魔女に魔法でもかけられたとでも? だったら魅惑のデコメガネ委員長姫のキスでもなきゃ元には戻れないぞ。はあはあ!!

「よっと」

 とにかく今は鉢植えだ。

 映画館の映写機みたいに埃っぽい空気を貫く陽光に照らされた土の上に飛び込む。予想通り湿っていた。ややすえた匂いはするけど、にんにくな今の僕に言えた義理じゃないか。

 ……自分が増えるってどんな気分なんだろう?

 所詮は増殖したってカボチャみたいにでっかいにんにくだろうけど、でもやっぱり不思議な気持ちだ。マシンスペックの関係でマクスウェルも完全バックアップは取れないから、プログラムのあいつにも未体験な事をやろうとしている訳だ。

 でも、あれ?

 ちょっと待てよ。

 今の僕はでっかいにんにくボディなんだけど、これって確かいくつかの実が集まって丸くなってるんじゃなかったっけ。となると、増えるっていうのは、ひょっとしてまん丸ボディが四つに八つに裂けて中身を撒き散らすって事なんじゃあアガがががががががががががががががが……っ!?


3(にんにく八個)


 危うく意識が飛びかけた。

 いや、ほんとに一本線で連結しているのか。あのにんにくとこのにんにくは同じものなのか。物質転送装置っぽい疑問ににんにくの中心がきゅっと縮む。

「おいおい……」

 でかい鉢植えの真ん中にばっくり裂けたデカにんにくの成れの果てが。そして周りには先ほどと何ら変わらぬ巨大にんにくが僕も含めて八つほど。やっぱりアレ、死んだのか? でもちょっと待て。周りにいる他にんにく達は思い思いに動かないぞ。試しに右に左に頭の中だけで思い浮かべてみると、その通りに動いた。一つ一つをバラバラに操るのは足の指を一本一本開いたり閉じたりするのと同じで苦労するけど、気合を入れれば何とかなりそう。試しに床の上でヤツらを横一列に整列させてみた。

 一段高い鉢植えから睥睨し、確信する。

 これ、意識まではコピーしていないみたいだ。にんにくボディは量産できるけど、操っている意識は『僕』一人だけ。つまりそこで裂けている僕と、今ここにいる僕に違いはない。ファイルはコピーしたんじゃなくて移動しただけだったんだ。

 となると……、

「すごい、純粋な無限一アップ状態じゃないか! 水と土とお陽様だけなら条件も厳しくない。いくらでも増やせるぞ。にんにくだから何だってんだ。万でも億でも増殖して押し潰せば一万円札だって人を殺せる。こっちはにんにくなんだ、吸血鬼だって押さえられるさあははははー!!」

 だったらとにかく手数を増やすに限る。あの頭が裂けるような感覚はあんまり繰り返したくないけど仕方がない。主従がはっきりしていたって痛みは平等に伝わってくるんだ。バケツみたいな植木鉢にぎゅうぎゅう詰めになってポップコーンみたいに弾けていく方向で。

 そんな訳でぽこぽこぽんと。

 しかしまあすごい勢いだ。倍々どころの話じゃないからあっという間に待合室がにんにくだらけに埋まっていく。この分ならほんとににんにく大雪崩が実現するかもーーー。


 ……べちゃり。


「あ」

 にんにくヘッドが捉えたその水っぽい音。それで今までの気分が一瞬で吹っ飛んだ。どうして気づかなかったんだ。かくれんぼじゃあどうやったって数が増えれば悪目立ちする。しかも今の僕はにんにくだぞ。匂いの事とかちょっとは考えろ丸出しバカーッ!!

 ゆっくりと振り返る。

 予想通り暗がりから飛び出してきたのはあの血染めドレス。そして左右に転がるなんて考えている暇もなく、脳天に落雷のような勢いで五指の爪が振り下ろされ


4(にんにく三〇〇個)


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 絶叫だった。

 もう叫びながら逃げ回るしかなかった。

 四方八方に散らばるにんにく達。その何割が爪で裂かれてスライスに、足で踏み潰されてすりおろしになったか分からない。数えていられない。最初は痛くて怖かったけどあっという間に感覚が麻痺してきた。まるで冷たい雪の中に手を突っ込んでじっと待つように、一定以上の刺激や痛みを感じない。潰れてひしゃげて中身を飛び出すごとに意識が個体から個体へ移っていく。何となく知った。このストックがなくなって意識が行き場を失った時、僕は本当の意味で死ぬんだって。

 ……一見馬鹿馬鹿しいけど、でもやっぱり血染めドレスは本物だ。にんにくだって生のままならそれなりに硬い。熱も通していない野菜を爪だけで包丁みたいにスライスするだなんて、空手の達人がビール瓶の口をチョップで切断するどころじゃないんじゃないか?

 ただ。

 逆に言えば、だ。どれだけ怪力でやられようが、一つでもにんにくボディが残っていれば僕の勝ちだ。他は全て捨て駒にできる。数なんてまた植木鉢に潜って増やせば良い。今度は悪目立ちしないくらいの残機を稼げば。

 ゴバドグギ!! と何かを砕くような切断するような、いいやいいとこ取りで潰し切るような嫌な音が炸裂した。

 くそっ、勢い余って鋼鉄の防火扉まで濡れた紙を裂くように……っ!

「……っ!?」

 でもって、怯んでいるのは僕だけじゃなかった。あの血染めドレス、吸血鬼もまた、自分で撒き散らしたにんにくの断末魔、独特の臭気を放つ汁を浴びて仰け反っている。やっぱり通用するみたいだ。完璧に倒す事はできなくても、ノックバックする。降って湧いた希望がさらに痛みや恐怖を意識から追いやる。動きを邪魔できるなら、その間に命綱役のにんにくだけ遠くへ逃がす事ができる!

 そうと分かれば、

「ものども出陣じゃあー!!」

 相撲の行司さんが持ってるウチワみたいなのを振りかざすつもりで叫ぶ。バラバラに散らばっていたにんにく達が一斉に吸血鬼へ飛びかかる。僕達は手も足もないけど、自分の意思で転がったり、委員長のへそ上辺りまでジャンプする事もできる。ギリギリまで近づけば下から突き上げるボディブローくらい実現できる。

 もちろんそう簡単には当たらない。ほとんど全ては旋風のように翻る爪で切断されてスライスにんにくに。でも良いんだ、返り血ならぬ返り汁を浴びせられればダメージを受けるんだから。あはは僕の体液まみれになるが良い! かっ、顔を背けて嫌そうな目つきで臭いと言ってみろおー!!

「おっ」

 と、いくつかのにんにくが接近しすぎて血染めドレスのスカートの中へ潜り込んだ。彼らの視界は『歩きながら考え事をする時に頭に浮かぶ切り分けられた映像』みたいな形で一歩離れた僕にも伝わる。

 スカート組が真上を見上げると、下着までぐっしょりと赤く染まっていた。徹底しているけど卑猥な記号だなあ! だけど容赦はしない。ようやくのボディブローチャンス。踏み潰される前に大ジャンプだ、みんな一斉に突撃しろー!!

「……、ぐっ……!?」

 血染めドレスが突き上げるような多段ヒットを受けてわずかに跳ね上がった。

 チャンス。

 散々言ってきたように吸血鬼は倒せない。僕の目的はにんにく一つでも良いから安全に逃げ切る事。残機なんて後で増やせる。今は確実な株、実の部分を残す方が大事なのだ。

 血染めドレスはスカートの中で暴れるにんにくに集中していて、視線はほぼ真下に固定されている。床も壁も潰れたにんにく特製サトリ汁でべったり。猛毒の泥沼状態になっているから、こっちに追ってくるのも難しいはず。

 今ならバレない。

 この隙に逃げるに限る。

 一歩離れた床にいた僕は、後を彼らに任せてころころと待合室を離れていく。


5(にんにく二一個)


 やれる事は分かってきた。

 一度に多くのにんにくを増やしすぎると個別に動かすのは難しくなるし、匂いや気配が大きくなりすぎて察知されやすくなってしまう。

 だけど適度な少数精鋭部隊を作れば、あの絶望的な徘徊モンスターだって翻弄できる。片方が騒いで血染めドレスの注意を引いている間に、もう片方が委員長を連れて逃げ出す事だって。

 ……大事なのは二つ。

 僕はどれだけやられても良いけど、絶対に残機をゼロにしない事。そして委員長は常に一人だ。残機なんかない、擦り傷一つだって負わせられない。

 僕が死んで盾になる。

 あれ、にんにくなのに格好良いな。

「……委員長?」

 そんな風に思っていたのに、もう次のトラブルだった。

 古びた病室に戻ってきたのに、待っているはずの委員長がどこにもいない。

「委員長ってば!? くそ!」

 念のためベッドの下とかも調べてみたけど、やっぱりデコメガネの幼馴染みはどこにもいない。にんにくのくせに頭の後ろでチリチリ焼けるような焦りの感覚はそのままだ。

 でも待て、落ち着け。例の血染めドレスはさっき僕達にんにく軍団が足止めしたはずだ。委員長があいつにやられるとは思えない。危険な状況だけど、まだ希望はあるはず。たった一つの体で危険な探検を続ける彼女と合流するのが先か。

 と、そこまで考えて、嫌な考えが頭をよぎった。

「……どうして吸血鬼が血染めドレス一人だって決めてかかるんだ?」

 血染めドレスが人を噛んで仲間を増やすなら、犠牲者が出ている可能性もある。夜逃げ同然で『失踪』したとされる病院の旧経営陣は? 委員長は学校の調べ物で来たって言っていたけど、本当に僕と委員長の二人だけ? 班行動で他にも生徒や引率の先生が来ていたとしたら、彼らは一体どこへ行った???

 まずいな。

 にんにく軍団の強みは集団戦を仕掛けられるところにあったけど、こうなると難易度は変わってくる。一箇所で血染めドレスの注意を引いていても、別のルートを他の吸血鬼が塞いでいたら万事休すだ。GPSマップみたいに全体像を真上から観察できない以上、ゴミの山で通路や階段を寸断された実寸大迷宮と化した病院は、どこが死の行き止まりかも分かったものじゃない。いきなり鉢合わせて逃げ込んだ先が行き止まりだったり、他の吸血鬼の待ち伏せで挟み討ちになったり、とかだったら逆転のチャンスはなくなる。

 委員長をやらせる訳にはいかない。

 頭の片隅にあった『他の視点』や遠隔で伝わってくる痛みも消えた。血染めドレスを足止めしていたにんにく軍団は全てやられたらしい。これで僕の残機も一個に逆戻り。あいつも再び自由に廃病院を徘徊する。

 それでも行くしかない。

 委員長を吸血鬼から守れるのは、巨大なまん丸にんにくになった僕しかいないんだ。


6(にんにく一個)


 さて、具体的にどこから委員長を捜そう? 言われてみれば、僕はまだこのフロアさえ全て見て回った訳じゃない。

 とはいえ、委員長の名前を大声で叫びながら闇雲に全室を調べていく訳にもいかない。あの血染めドレスはまだ同じ階にいる。今やられたら残機ゼロでおしまいだ。死亡リスクは最小限に抑えたい。

 どうする。

 どうやって最短最適の答えを導き出す?

 病室の床をころころ転がりながら考える。大体、委員長はどうしてこのタイミングで病室を出たんだろう。物音がしただけで迷わずベッドの下に隠れて息を潜めた委員長だ、可能なら冒険は避けたいと考えていたはず。そしてこの部屋、さっき血染めドレスが暴れたせいであちこち血まみれだけど、それ以外主立った破壊の痕跡もない。

 案外、別の吸血鬼がやってきたから慌てて逃げた、でもないのかも。

 ……でも、自発的に委員長が病室から出ていくとしたら、それこそ理由は何だ? 水や食べ物に困って? 他の生存者の助けを求める声を耳にして? 窓の外で誰かが建物に近づいてくるのを見て? ダメだ、想像の域を出ない。確たる根拠は一つもない。

 結局、自分の足で調べるしかないか。

 改めて、ドアの隙間からにんにくを半分出す。廊下には……人影なし。安全地帯なんて一つもないけど、何となく危険な『外』に出た気分になる。

「おや?」

 さっきは気づかなかったけど、改めて埃っぽい床を眺めてみると、いくつか気になるものがあった。足跡だ。真っ赤なモップを引きずったようなのは血染めドレス、細いラインを引いているのは僕が転がった跡、他にもう一つ、この病室から立ち去るように別方向へ離れていく小さな足跡は……。

「委員長か」

 呟いて、僕はひとまずそっちに転がってみる事にした。しかし、危ないな。血染めドレス側もこの足跡を見て獲物を追い駆けているとしたら、隠れる側は圧倒的に不利だ。それだけの頭、理性がない事を祈るしかない。

 そして足跡の主に会う前に、またおかしなものを見つけた。

「?」

 廊下の真ん中に、白い粉を使って直径一メートルくらいの円が描いてあった。何だか魔法陣みたい。恐る恐る近づいてみる。粉の正体は……黒板とかで使う普通のチョークみたいだ。解体工事用のサインとかよりも、おまじないみたいな匂いがする。

 だけどこれで、何となく、ピースが集まってきた。

 大きな廃屋、徘徊する吸血鬼、そしてチョークの円。該当する『伝説』を僕は知っている。


「……ポーランドの吸血王女、かな」


 昔、吸血鬼の姉さんがそんな絵本を読んでくれたのを覚えている。

 不思議と一度も本名が出てこない、童話の中のお姫様。

『あるお城に美しいお姫様がいました。だけどお姫様は贅沢三昧わがまま放題で民衆から恨みを買って、強い呪いを受け、なんとびっくり、吸血鬼になってしまったのです』

 これを聞いた時、姉さんも含めて吸血鬼っていうのはどいつもこいつもゴージャス仕様の女王様みたいな連中しかいないんだろうか、と思ったものだ。

『吸血鬼となったお姫様は夜な夜なお城の中を徘徊して、使用人や騎士達を次々と毒牙にかけるようになりました』

 この生き方には、蜘蛛のような性質をイメージする。彼女はあくまで自分のテリトリーから出ない。網を張り、中に入った者を捕食する。時には自分自身の美貌や境遇すら餌にして。

『お姫様を救う方法は一つ。彼女が徘徊している間にお城のどこかにある棺桶を見つけて、蓋を封印し、二度と中に入れないようにする事です。実は呪いの源は棺桶で、この中で眠らない限り呪いの補充は効かなくなるんです。つまり一定期間締め出してしまえば、お姫様は元の人間に戻れるんですよ』

 ここも、よそとは大分違う。

 いったん吸血鬼になり長い時間が経っても、正しい手順を踏めばきちんと元に戻るだなんて大サービスは他じゃなかなか聞かない話だ。

『とはいえ、それは簡単ではありません。何しろお城は迷路のように入り組んでいて、吸血鬼となったお姫様にはどんな攻撃も効かないんです。奥にある棺桶を見つけるまでは倒す方法もありません。見つかったらおしまい。唯一できるのは、床に白いチョークで円を描く事です。中に入れば、吸血鬼のお姫様には見えなくなります。耳なし芳一みたいにね。つまり、ひたすらかくれんぼしながらお城の奥を目指すしかないんです』

 ここで姉さんが和風なたとえを出したので、幼い僕の頭は大分混乱したものだった。丸坊主の坊さんがドレスのお姫様に挑むビジョンが離れなかったんだ。

『ちなみに無事にお姫様を人間に戻した騎士は、その後お姫様と結婚した、というパターンもあるみたいですよ。きゃっ』

 そこまで思い出して、ちょっとにんにくの動きが止まった。

「……一体姉さんはうとうとしていた僕に何を吹き込もうとしていたんだ」

 でもこのパターンだとしたら、廃病院のどこかに血染めドレスの棺桶がある。やられる前にそれを見つけ出せばゲームセット。世界一有名な吸血鬼文学じゃないけど、にんにくたる僕の汁を棺桶の蓋にたっぷり擦り付ければ『封印』代わりになるだろう。今ここに何人いるかは知らないが、生存者は全員生きてこの廃病院を出られるはずだ。

 だけど、吸血鬼としての格、強さだって半端じゃない。吸血鬼も色々いるけど、『ポーランドの吸血王女』の場合、心臓に杭を打ち込んでもおそらく死なない。太陽の光も行動を阻害する程度で消滅を促すほどじゃない。何しろ呪いの源泉である棺桶を何とかしない限り、無尽蔵のエネルギーを補給し続けるんだ。血を吸う事さえ二の次。五指の爪が唸れば生のにんにくはもちろん鋼鉄の防火扉さえ濡れた紙のように引き裂いてしまう。無補給無尽蔵の最大出力で延々破壊行動を続けるとしたら、街を滅ぼすような総合的な観点はどうあれ、個体としての強さだけならクイーン級と恐れられるエリカ姉さん以上かもしれない。吸血鬼としても異質な、自分の手で力をコントロールできずに振り回されている感じがするのも、その無尽蔵過ぎるエネルギーのせいなのか。

「……それに、委員長はチョークを持っていなかった」

 大事な事だからこそ、言葉に出して一つ一つ確認していく。

 実際にこうして廊下にチョークの円がある以上、生存者達がこのエピソードを知らないとは思えない。その上で、どうして委員長はあの病室でベッドの下に隠れたのか。床に大きく円を描かなかったのか。

 多分、ストックが切れたんだ。

 ほんの一欠片さえ。

 チョークの存在は残機の数だ。円を描けなくなったら死が近づく。飛び地のような既存の安全地帯に頼るしかなくなる。いざという時その場で円を描けなくなるのは、どれだけ心細いだろう。委員長はそんな状態に陥ったまま、危険な廊下をうろついている事になる。

「……待てよ」

 だとすると、委員長が自発的に消えた理由もその辺りにあるかもしれない。残機扱いのチョークを回収に行ったか、あるいは身の危険を感じて既存のチョークの円のある場所まで逃げ込んだか。そう考えると、病室のドアもベッドの下も一〇〇%安全とは言えない小部屋からわざわざ離れた理由にも一応の納得はできる。僕が待っていてと言っても、間近に危険が迫れば動かざるを得ないだろうし。今は携帯電話やスマホで密に連絡を取り合える訳じゃないから、そういう行き違いもあるかもしれない。

 ……問題は、病室近くのチョークの円とやらがここにあって、委員長がいないって事だ。

「となると、やっぱり追加のチョークを探しに行ったのかな。……でも、それはどこだ」

 立ち寄ったナースステーションはどうだったか。あんまり粉が散らばる黒板やチョークは使っていない気がする。予定表や伝言板だって普通はペンを使うホワイトボードじゃないか。だとすれば、清潔第一の病院でそれでも黒板がありそうな場所は、

「小児科のリハビリ室、とか。学校に合わせた環境を整えているなら。委員長もそっちかも」

 だとしても、委員長は責められない。残機のあるなしがどれだけ心に響くかは、にんにくになった僕だって良く分かる。

 ひとまず小児科まわりを調べて、ダメならさらに一考、ってとこか。

 ……今はとにかく最優先から潰していこう。チョークの円を無視して廊下の奥に続く、埃の上の小さな足跡を追い駆けるんだ。その先がチョークのありそうな場所ならドンピシャなんだろうし。

 そう思って通路を進む。

 あちこちガラクタだらけの廊下は場所によっては通り抜けるのも大変で、普通の人なら体を横にして背中を壁に押し付けながら進まないといけない場所も多い。一方で、使い物になる道具となるとめっきり減る。辺りには角材や崩れたスチールラックの支柱なんかもあるけど、棒切れ一本であの血染めドレスに立ち向かえばどうなるかは一目瞭然だ。アレは人喰い虎なんかの比じゃない。

 そして植木鉢やジョウロなんかもなかった。残機を増やせないまま暗がりの奥へ進むのはなかなか堪える。今やられたら僕は終わりだ。委員長だって助けられない。

 そんな風に考え、先へ先へととにかく転がっていく。埃の上の足跡が辿る順路としては、例のナースステーションを大きく迂回してエレベーターや非常階段が集まるホールへ近づこうとしたようだ。

 が、

「……ちょっと待った」

 実際にエレベーターホールへ転がり出て、僕は思わず洩らしていた。

「委員長はどこだ? 何で足跡が消えているんだ!?」

 埃の上の足跡がふっつりと途絶えていた。

 でも、ここで何が起きた? 委員長は壁や天井でも伝ったっていうのか。あるいは埃に良く似た何かを振り撒いて自分の足跡を消した? ダメだ、想像にリアリティがつかない。きっと答えはこんなものじゃない。

 考えろ。

 どんな手を使ったにせよ、委員長の質量がここで消えてなくなる事はない。必ず何かしらの方法で移動はしている。だとすればどこ? 委員長が自発的に消えたのなら、やっぱりチョークのある場所が怪しい。命の残機を手に入れる前に吸血鬼から足跡を辿られるのが怖くて何か細工をしたのかもしれない。一方で、第三者の手によるものだとしたら? 緊張が高まる。例えば壁や天井を平気で這いずる吸血鬼が攻撃したとしたら。でも、その場合は何でこの辺りが血まみれになっていないのかが気になる。委員長の怪我はもちろん、血染めドレス自身、むせ返るような薔薇の匂いを振り撒く血で全身くまなく埋まっているんだから。

 ……何が起きたにせよ、ヤツは関わっていないのかもしれない。

 ジャングルで足跡を残さないようにするには、ブーツに厚い布を何重にも巻いたりするらしい。委員長はここでゴミの山から何かを見つけて活用し、足取りを消してから再出発したのかも。

 とにかく調査続行だ。

 ひとまずチョークのありそうな場所。エレベーターホールの壁にあった見取り図を目にする。大きなT字の建物を二つ重ね、四角形の頂点から余分に棒が飛び出たような構造の建物だった。ここは四階で、小児科関係はない。下の三階にあるらしい。

「しかし……」

 この病院、思ったよりも大きくない。最上階が五階で、病室、診察室、検査室、手術室と全てが収まっている。学校の校舎二つ分くらいのスペースに、総合病院に必要な医科が全部入っているんだ。内科、外科、眼科、耳鼻科、婦人科、小児科、歯科、整形科、心療内科、放射線医療科……。バリエーション自体は豊富だけど、逆に言えば病室自体のベッド数はかなり圧迫されている。つまり患者を捌くサイクルは逼迫されないとおかしい。まして駅前でもない、こんな深い森の中だ。病院の経営はピンとこないけど、旧経営陣が夜逃げ同然で消えたと言われれば、なるほど納得してしまいそうではあった。

 ……少ないベッド数に豊富な医科、そして人目に触れない深い森。やっぱりVIP向けのお高い入院生活用なのかも。政治家とか企業幹部は大病を患うと世間に知れては困る、みたいな風潮が未だにあるみたいだし。スポーツ選手の肘や膝の故障手術とかだって、マスコミなんかに張り付かれずゆっくり治療に専念したいだろう。

 でも、そこに血染めドレスが顔を出したのは何故だ?

 ポーランドの吸血王女なら、勝手に外を這い回って新しい寝床を調達したりはしない。ヤツは常に呪いの棺桶と共にあるからだ。だとすると、その棺桶を誰かがここまで運んできた事になる。

 そもそも『彼女』は誰なんだ?

 呪いの源泉が棺桶だとすると、『彼女』は元々普通の人間だった事になる。呪いを受けてああなったんだ。だとすると、五体満足の素体はどこの誰で、どうやって調達した?

「はてな、はてな、はてなばっかりだ……」

 分からない事があっても立ち止まってはいられない。未解決の問題は頭の片隅にストックし、僕は動かないエレベーターの横にあった非常階段を目指す。上への階段は、踊り場に溜まった人の身長よりも堆く積まれたゴミの山で見事に封鎖されていたけど、小児科のある三階へ続く下り方向は普通に通り抜けられた。

 こちらも似たような外観だけど、埃っぽい床が荒らされている。何かが暴れたようで、あちこちに血の跡と薔薇の匂いもあった。これでは元々足跡があったとしても辿れないだろう。

 見取り図を眺めて小児科の位置を確認。リハビリ室も隣にある。

 廊下の途中で鉢植えを見つけた。窓のカーテンを開けて陽射しを取り込み、ひとまず土の中に埋まってみる。


 頭が弾けて僕は八人になった。


 無論全員が巨大なにんにくだ。ひとまず残機が無事に増えてホッとする。今度こそにんにく軍団みんなでころころ転がって問題の食堂に向かう。

 小児科の隣にあるリハビリ室も酷い有様だった。

 単純な時の流れによるものじゃない。明らかに破壊の痕跡があった。テーブルの天板は破れ、椅子は壁まで投げ飛ばされて、元はどういう配置だったのかも想像がつかない。あちこちに割れたガラスのようなものもあった。窓のものじゃない。これはコップのような容器だ。床には折れて粉々になったチョークが撒き散らされて汚れている。

 ……例の血染めドレスが?

 いいや、場合によっては命の残機を巡って生存者同士で掴み合いになったのかも。何にしても随分前からこんな感じらしい。床のチョークの残骸には埃が絡みついている。この調子だと委員長がここにやってきても成果はないだろう。こんな結果になったから彼女は枯渇していたのかもしれないし。

 彼女がここを何度も訪れるとは考えにくい。

 念のため隣の小児科診察室も調べてみるが、あまり期待はしていなかった。

 そしてそこで見た。


 うつ伏せに倒れたまま動かない、人間の死体を。


7(にんにく八個)


「うっ……!?」

 思わずにんにくヘッドからそんな声が洩れていた。

 相手は高そうなスーツと腕時計をはめた、年配の男性だった。僕の父さんよりも上みたいだ。もうおじさんというよりはおじいさんに差し掛かっている、恰幅の良い誰か。血の量自体は少なかった。脳天が裂けて床にコップ一杯分くらい赤黒い染みがこぼれている。ドラマで観たら、こんなのでほんとに死ぬのか疑ってかかったところだろう。

 だけど、専門の医者じゃなくても一目で分かる。あれは死体だ。心臓や手首の調子を確かめるまでもなく、僕達とは違うモノだ。ミステリーなんかじゃ犯人が死体のふりをして容疑者リストから外れたりするけど、あんなの嘘っぱちだ。ここまで異形な存在感を放つ死体にどうやったら化けられるっていうんだ。

「……、」

 そして、問題がもう一個。

 あれが本当に死んでいるのは間違いないとして……再び動き出す事はあるのか? 例えば、その、血染めドレスの傀儡になっていたりする可能性は?

 おっかない。

 スーパーおっかない。

 とにかく今の残機は八つあるんだ。何も全員で近づく事はない。いつでも逃げられるようににんにくを一つ食堂の出入り口まで転がし、さらに決死隊を二つほど選抜。ぴくりとも動かない不発弾のような死体に向けてゆっくりと転がっていく。

 辺りには聴診器やペン立てなんかが乱暴に散らばっていた。鈍器って感じでもないから凶器じゃない。おそらく無事なチョークとかを探して引っ掻き回していたんだ。元々誰かに追われていたか、あるいはその音を聞きつけられたか。どっちみち、彼の望むものはここにはなかった。

 うつ伏せのまま何かを掴もうとするように伸ばされた腕、その指先に恐る恐る触れてみる。でも、反応なし。死後硬直とかいう感じもせず、普通にぐにゃぐにゃしている。死んだ直後じゃなくて、逆に時間が経ちすぎて硬直が解けたんだろう。あと、独特の匂いがした。単純に豚肉や牛肉が腐るのとは違う、血の匂いなんかでもない。他の何とも形容できない、オンリーワンのすえた臭いの正体は……死臭ってヤツか。僕は自分が強い匂いを放つにんにくで良かったと真剣に考え始めていた。シャワーもお風呂もないこんな廃墟で死臭まみれの体をいつまでも引きずるようになったら、気が触れて全身の皮膚を引っ掻いていたかもしれない。

 この死体は明らかに吸血鬼のエリカ姉さんとは別物だ。死者には申し訳ないけど、生き物独特の気配とかぬくもりとか、そういうものがない。ただただモノとしての強烈な存在感で周囲を威圧するばかりだった。

 きっと、ただの死体だ。

 アークエネミー、不死者とは違うはず。

「ホッ……」

 ……としかけて、新たな疑問がよぎった。なら、これをやったのは血染めドレスじゃないのか? 犠牲者を吸血鬼にする力を持たない……人の手によるもの? 確かに鈍器を使ったり、その凶器を現場から持ち去っているところを見ると、暴走した吸血鬼っていうよりもっと罪に脅える知性や理性を感じさせるけど。

 でも、だとしたら、誰だ?

 今ここにいる人間が全部で何人かも分からない。けど、その中には委員長も入っていなかったっけ……?

「冗談じゃないぞ」

 思わず呟く。意味なんてないのに。

「……マクスウェル、悪趣味なシミュレーションだって言ってくれよ。これはただのゲームだって。僕はまだ委員長と血染めドレスとおっさんの死体しか見ていないんだ。これが三文推理小説だったとしてももうちょい容疑者がいたって良いだろうに!」

 返事なんかあるはずなかった。

 ここにあるのはにんにくと死体だけだ。

 そして絶望の目で死体を見やると、おかしなものを見つけた。このおっさん、空いた手で小さなブリーフケースを掴んだまま死んでる。高級で頑丈そうな革張りケースの角には赤黒い染みもあった。実際に何度か武器としても振るったのか。そんな乱暴な扱いをしたせいかは知らないが、おざなりな鍵が壊れて半開きになっていた。

 にんにくのてっぺん、とんがった所を隙間に差してぐいぐいケースを開いていく。

 中にあったのは、

「病院のパンフレット、見取り図、鍵束、手帳、IDカード……?」

 特に最後のが気になる。見れば、パンフレットにある病院のマークと同じだった。肩書きや名前を見てみると、そこにはこうあった。


院長・鬼山光弘(おにやまみつひろ)


「……、」

 小さな顔写真は、死体のおっさんと同じものだ。きっと本人で間違いない。でも、だとすると、彼は吸血鬼にやられたんじゃなくて、ほんとに夜逃げだったのか? それが今になって捨てた病院跡地に舞い戻り、そして何者かに頭をかち割られた……?

 意味不明だ。前後の出来事が繋がらない。彼は自分の意思でここに来たのか。それとも逃げた先を暴かれて何者かに連れて来られたのか。またしても立ち塞がるのは疑問だ。でも、何となく、ICチップのついたIDカードや鍵束、見取り図やパンフレットを見るに……彼も彼で、何かしらの探し物があったんじゃないだろうか。

 重要なものも多いけど、にんにくには手も指もない。特に、カードや鍵束を持ち運ぶには、

「……刺すしかないか」

 決死隊一号が突撃し、二号と一緒に鍵束をプレスする。続けてIDカード。どっちも硬かったのは幸いだ。見事ににんにく一号に突き刺さ……痛てて。くそ、地味に痛い! まったく、こんなのでも苦労させられる。何とか遮断できないのか個々の感覚をさ!!

 傷ついた二号は匂いがキツイだけの役立たずなので、いったん廊下に出てもらい、鉢植えの中で弾けてもらおう。残機が増えすぎると血染めドレスを呼び寄せるので、増えすぎた分は手近な病室の片隅にでも待機させる。これでもしもの時に軍団みんなが全滅しても、あっちに意識を移してコンティニューできるようになった。このにんにくは何気にヤル。できるにんにくだ。

「他に気になるのは……手帳か」

 あからさまに頭の中で考えている事が全て事細かに書いてあるとは流石に思えないけど、断片的な情報だけでも欲しい。特にここに来た目的や他の人間との待ち合わせの予定とか。

 だって、他の人間がいれば安心するんだ。

 死んだ院長の直接の知り合いが廃病院にいれば、そいつの方が怪しい。今日たまたま出くわした委員長よりも、ずっとずっと。

 幸い、革張りの手帳にはボタン留めみたいなものにはあっても、鍵はついていなかった。にんにくヘッドで表紙をめくるのは大変だけど頑張ってみる。

「?」

 最初の方にあったのは数字の羅列だった。桁は多いけど電話番号とかじゃない。増えたり減ったりするその数字は、どうもお金に関するものらしい。家計簿みたいにきっちりしている訳でもなく、走り書きの印象だった。

 夜逃げの話があるし、あんまりプラスのイメージはない。

 その数字の山が唐突に消える。変わって神経質そうな文字でこうあった。


 因果応報だ。

 私の宝に手をつけるからこうなる。


 相変わらず意味不明だけど、そのすぐ後には病院の見取り図らしきものが書いてあった。ただしうろ覚えなんだろう。細部は結構大雑把で、本人も自覚があったらしい。途中で作業をやめている。


 記憶はあてにならない。

 サルベージには正確な資料が必要。


「……サルベージ?」

 掘り起こす。引き上げる。借金に追われた男はこの廃病院から何を手に入れようとしたのか。どんどん黒い方向に転がっていく気がしてならない。

 さらに別のページにはいくつかの写真が挟んであった。

 白い部屋に置かれた黒檀の棺。診察台の上で胸元をはだける女性。真っ赤な試験管の列。医者や看護師と思しき集合写真。


 まだ動いているとは驚きだ。

 いや、だからこそ私もここまで来た。


 ……棺でも引きずり出して、換金しようとしたんだろうか。それで返り討ちに遭ったか、別の生存者グループと対立したか。

 他の人間の匂いも確かにした。冒頭の一文といい、誰かを罵倒するような走り書きがいくつか見られる。

 となると、まずいな。

 この廃病院、血染めドレスの他に金の亡者が何組か紛れているかもしれない。ここで倒れている院長同様、今も無事かどうかの保証はないけど。委員長がそれに気づいていない場合、血染めドレスに集中するあまり厄介な相手に背中を預けている可能性もある。

 ……そして、委員長自身はこの話を知っていたのか。班行動だとしたら、他のメンバーは。それ次第ではさらに状況は複雑になってくる。

 ただ、朗報がない事もない。

 例えばさっき決死隊一号に突き刺した鍵束やIDカードだってそう。後は写真の存在も大きい。黒檀の棺。何を探せば良いのか、モノの具体的な外観が分かったし、同じ写真の中にある白い部屋は是非とも訪ねてみたい。

 同じブリーフケースの中にあった薄いパンフレットをにんにくヘッドの先端でぐりぐり開くと、当たり障りのない見取り図の一箇所に赤いペンでバッテンが記されていた。

 地下一階、放射線医療科の立入禁止区画。

 ……傍らに同じペンで書かれている文字は、廃棄資源一時保管庫?

 普通の人間なら尻込みするところだろう。でも今の僕はにんにくで、しかも残機はいくらでも増やせる。

「……よし」

 消えた委員長の足取りは掴めなかった。

 生存者が何人いて誰と誰が金の亡者なのかが分からないのは怖いけど、目下最大の脅威はやっぱり血染めドレスだ。委員長の安全を守るためにも、先に地下を調べて棺を探した方が得策かもしれない。


8(にんにく一五個)


 放射線医療科。

 あんまり縁はないけど、きっとレントゲンとかCTスキャンとかそっち系だと思う。地下にあるのはX線とかが洩れないように、分厚いシールドを施す必要があるからか。放射線は生き物はもちろん、機械だって故障させる。携帯電話の電波一つに気を配る病院側としては、細心の注意を払っておきたいはずだ。

 にんにくを転がして階段を降りると、暗黒の異世界が広がっていた。当たり前だけど、窓も電気もないから光がない。かと言って血染めドレスがどこを徘徊しているか分からない中で手作り松明片手に探し物をするのはあまりに危険だ。

 普通なら断念してしまうだろうけど、そうならなかった。床におかしなものが転がっていたんだ。

「……ケミカルライト?」

 アイドルライブなんかでみんな一緒に振り回しているアレだ。まるで目印みたいに、等間隔で床に置いてある。火を使わないから火事にならないし、電気がなくても光を出せる。確かに便利なものだし、床に置いていった側からすれば光を辿るだけで元の階段まで安全に戻れるだろう。ヘンゼルとグレーテルのパンくずみたいに。

 ……でも、やけに用意が良いのは気になる。初めから探索準備を固めてきたみたいだ。何となく、この先に向かっても委員長はいないような気がした。

 というか、委員長がいたらそれはそれで嫌だな。なんて切り出したら良いのか想像がつかない。

 床に置かれたケミカルライトが導く先は、パンフレットにあった放射線医療科と同じ順路だった。ここまで来て偶然とは思わない。明らかにこいつは僕や院長と同じ場所を目指している。

 暗がりは怖い。

 そこは吸血鬼の領域だ。

 余ったにんにくを三階の空き部屋に隠していなければ、いくら残機を増やせる僕だからってこんな所を転がろうとはしなかっただろう。

 でも行く。

 ケミカルライトの光は置かれた場所だけを淡く照らし、あんまり闇全体を拭う感じはしない。途中で何度も障害物にぶつかり、にんにくの薄皮をすり減らしながら、それでも奥へ奥へと八個体制で進んでいく。

 そして見つけた。

 放射線医療科の大きな両開きのドアと、そこに寄りかかるような格好で崩れ落ちている誰かを。

「……、」

 若い男だった。

 高校生にも見えない。チャラいけど、僕なんかよりもっと上だ。

 それだけでホッとしている事に、委員長じゃないのを冷静に確認している事に、前に見た時より衝撃が小さくなっている事に、僕はどうしようもない嫌悪感に陥る。

 ケミカルライトを床に置いていたのは彼らしい。乱闘でもあったのか、ケミカルライトの近くにズタズタにされたナップザックが転がっていた。そしてようやく遅れて気づく。ほんのりと犯行現場に残る、あの薔薇の血液の甘ったるい匂い……。

 彼は『危険』かもしれない。

 ドアに寄りかかっているため、中に入るには死体をどかす必要がある。そしてそのドアには、自らの血で大きくこう書き殴ってあった。


 あけて


「……、」

 大体、どんな末路かは分かった。

 場所は正しかったけど、鍵がなかった。安全に出口まで辿るために置いていたケミカルライトもかえって仇となった。血染めドレスにでも気づかれ、目印を辿られて、そして逃げ場を失ったんだろう。

 そんな風に思っていた時だった。


 ごんっ。


 という、音が。

 鍵のかかった両開きのドアを向こうから叩くような音が、確かに。

 ……いや、待て。

 鍵がないから彼はここで死んだんじゃないのか。そうじゃなかったのか? そりゃあドアの外と中で事情は変わるかもしれない。外からは鍵が必要でも、中からはつまみをひねるだけで開け閉めできるのかもしれない。でも、だとしたら。最初は扉は開放されていて、その後に内側からロックされたとしたら……。

 血文字は『あけて』だった。『あかない』ではなく『あけて』。そのわずかなニュアンスの違いに、どす黒いものを感じる。

「待ってくれよ、ちくしょう」

 仕方がなかったのかもしれない。土壇場のギリギリで、ドアを閉めなければ全滅していたのかもしれない。だけど、ここで確実に一つの選択があった。ドアの向こうにいるのは誰なのか。一つの顔が浮かびそうになり、慌てて否定する。あれだけ捜し求めていたはずなのに、今はどうしても再会したくない。こんな場所では、絶対に。

 にんにく決死隊一号に埋め込んでいた鍵束やカードをヘッドの先端でほじくり返す。いてて、てかほんとに痛いっ! 治りかけのかさぶたを無理して剥がすみたい!! い、一号はそれでダメになってしまった。にんにくの屍を乗り越えてドアノブあたりの高さまでジャンプし、どうにかこうにかカードを読み取り機にかざす。

 電気なんて通っていないはずだった。

 なのに不思議とブザーが鳴り、そして両開きのドアはひとりでに奥へ向かって開いていく。支えを失った死体が向こう側へ崩れていった。

 そこに。

 その先に。


「……サトリ、君……?」


 転がる死体と委員長。

 最悪の組み合わせが待っていた。


9(にんにく一四個)


 そもそも僕は前提が分かっていなかった。自分が何でにんにくになっているのか。血染めドレスは誰なのか。そして、どうして委員長はこんな廃病院にやってきたのか、その本当の理由だって。

「良かった、相手がサトリ君で。あの吸血鬼だったらどうなっていた事か……」

「うん」

 自分なりに調べて分かった事はいくつかあるけど、パズルのピースが足りない。そしてそれは意外にも廃病院や吸血鬼の謎ではなく、むしろ僕や委員長といった身近な方こそが欠けているのに、ようやく気づいた。

「委員長はどうしてここに?」

「逃げてきたのよ。サトリ君、待ってあげられなくてごめんなさい。後、そっちの人は? サトリ君のにんにくボディじゃ……何もできないはずだよね?」

「ドアの前に寄りかかっていたんだ」

「そう……。放射線医療科ってやっぱり壁が特殊なのかしら。誰かがいるなんて全然分からなかった」

 全てをいったん疑ってみよう。

 委員長の言っている事は正しいのか。本当に学校の行事で来たのか。班行動をしていて他のメンバーと離れ離れになっているという予測も合っているのか。

「委員長」

「なに、サトリ君」

「そういえばさ、委員長って何でこの病院に目をつけたの?」

「えっ」

「ほら、学校の課題とか言ってたじゃん」

 僕はその小さな驚きに極力リアクションを返さないようにしながら、

「でもレポートまとめるだけならもっと近場でも良くない? まあ同じ街の中なんだけどさ、ケータイ電波も届かない森の中まで入るの大変じゃなかった?」

「ああ……」

 委員長は少し口の中で発音を転がすような間を空けてから、

「確かに近所のコンビニをいくつか回って同じ商品取り扱っているのに売れる店売れない店が分かれるのはどうして? みたいな風にもできたんだけどさ」

「うん」

「自分の住んでいる街の中に、自分の知らないものが混じっているのって、気にならない? 私、つい最近までこんな深い森に病院があるなんて知らなかった。廃墟って言っても私有地だろうし、普通に調べようとしても役所の許可なんか下りない。いい機会だと思ったのよ。……一人でこんなとこに忍び込むのはやっぱり怖いしね」

 論調は間違っていない。いつもの委員長の好みや考えとも大幅にズレてはいないと思う。大体、変なものを変なまま放っておけたら委員長は委員長なんてやっていないんだ。仕切り屋は何でも自分で整理整頓したがる癖みたいなものがある。例えばみんなでつついている鍋の中に自分の知らない食材がいつの間にか紛れていたら、きっと委員長は放っておかない。誰が持ってきたのかいったん聞いてみると思う。

「ところで委員長」

「なあに?」

 にんにくに口はないけど、感覚的には息を吸って吐いてみた。

 そして言う。


「それじゃあ理屈が通らないんだよ。だって今ここは真っ暗闇で、ケミカルライトの一つもないんだから」


 そう。

 ケミカルライトを置いていたあの男と委員長が一緒に来ていたなら、この地下を歩き回れたのは頷ける。だけど委員長が先に来て部屋のドアを閉め、後からやってきた若い男の存在に気づかなかったら……彼女は何を頼りに暗闇を歩いていたんだ。こうしている今だって懐中電灯一つ取り出さない。ケミカルライトやスマホのバックライトだって見せる気配もない。

 大体、今回の吸血鬼が『ポーランドの吸血王女』方式で日光や心臓に杭でも即死させられなかったとしても、やっぱり陽射しでダメージは受けるんだ。仰け反っている間に逃げられるかもしれないんだ。だとしたら、真っ先にやるのはチョークの円とかいう話じゃなくて、窓という窓のカーテンを開け放ち、打ちつけられた木の板を引き剥がす事じゃないか? にんにくの僕と違って自由に動かせる腕が二本もあるんだから。なのに実際にはそうやっていない。あくまでも陽の光を遮り、薄暗い中を這いずって、吸血鬼側の環境に合わせている。

 極め付けに、この光一つない放射線医療科。

 僕はにんにくだ。目も耳もない。さっきは暗闇に怯んでいたけど、光がないならないなりに周りに何があるかを把握できるらしい。言ってみれば自分で調整できないオート補整の暗視機能みたいなイメージ。

 でも委員長は違う。彼女はあくまで人間。目や耳で周りの情報を探れなければ、そこで立ち往生しないとおかしいのに……。

「委員長」

「なあに、サトリ君」

 怖い。

 尋ねたくない。

 こんな可能性に具体性なんか持たせたくない。

 でも。

 だけど。


「噛まれたのか、ひょっとして」


10(にんにく一四個)


 それは考えられる限り最悪で、でも全ての物事に一応の説明をつけられてしまう、悪魔の仮説。


 例えば、最初にベッドの下で血染めドレスをやり過ごした時、本当にあいつはこっちに気づかなかったのか。同族だから捨て置いていた可能性は? 


 例えば、委員長が病室から消えたのはこの放射線医療科、もっと言えばその奥に隠された棺に誰かが近づこうとしているのを察知したから、という可能性は?


 吸血鬼が関わっていない事案としては、食堂横の厨房で倒れていた院長の件がある。あっちはそこで倒れている若い男……棺を狙う金の亡者同士で争い合ったんじゃないだろうか。

 棺の場所を巡っての押し問答か、吸血鬼が間近に迫ってのチョークの奪い合いかは分からないけど。

「サトリ君」

 委員長はこんな時でもいつも通りだった。

 こんな暗闇の中、どんな機材が破断して放射性物質が漏れていてもおかしくない中でさえ。

「本当にそんな風に考えてる? 私が徘徊する吸血鬼に噛まれていて、すでに意のままに操られる眷属になっているって」

「だって、それで説明できてしまうんだ」

 僕はたじろぎながら、

「考えたくない! でもパズルのピースがかっちり綺麗にはまってしまうんだ。一度イメージしたらもうそれ以外の組み立て方が見えないんだよ!! だから否定してくれ。委員長、首筋でも何でも見せて私は噛まれていませんって言ってくれよ!!」

「落ち着いて、サトリ君」

 委員長は暗闇の中で人差し指を立てたようだった。

「サトリ君、あなた勘違いしている。全てのピースを集めたつもりになっているけど、実はそうじゃない。一番基本的な謎が放ったらかしになっているでしょう?」

「何が……これ以上一体何が隠れているっていうんだ!?」

 僕の質問に、委員長は立てた人差し指をわずかに動かした。それだけで僕の頭は真っ白になりかけた。

 そう。

 委員長は僕の方を指差したんだ。


「サトリ君。あなたは何でにんにくなの?」


11(にんにく一四個)


 基本。

 まさに根本となる質問だった。

「えっ……あ……?」

「ほら、答えられない。ねえサトリ君、おかしいとは思わなかった? 仮に自分でしゃべって転がる大きなにんにくがあったとして、どうして私はこのにんにくをサトリ君だって断定しているの? たとえ私が一〇〇の質問をしてにんにくが全問正解したって、普通なら顔も体もないにんにくをサトリ君だなんて考えないでしょ。まして、土に埋めておけば無限に増えていくんだから、『どの』にんにくがサトリ君かなんて特定できる?」

「……、言われてみれば」

 にんにくの区別なんて近所を散歩している野良猫どころの騒ぎじゃないくらい難しいはずだ。

「これは私が人間だろうが吸血鬼だろうが、どっちにしたってにんにくを外から眺めているだけで分かるものじゃないはず。ほら、欠けたピースが見えてきた」

「……、」

「それからもう一つ。この安寧会静養病院の跡地を徘徊している血染めドレスの吸血鬼は一体誰?」

「え、ええと、『ポーランドの吸血王女』って呼ばれている方式で……」

「それは大して重要じゃない」

 ばっさりやられた。

「問題なのは、棺桶付きの吸血鬼を何で病院側が手に入れたのか。そして、それを手に入れるとどうして大金に繋がるのかよ。サトリ君、ちゃんと考えはまとめてある?」

「あ、あう、ええと……」

「人身売買みたいな線かしら? でも、そこまでイリーガルならもうアークエネミーにこだわる必要なんかない。言っては悪いけど普通の人をさらって売り飛ばした方が危険は少ないわ。現にこの廃病院じゃ何人も倒れているんだし」

「で、でも、吸血鬼ってフレーズに変なプレミアがついていたりするかもしれないじゃないか」

「確かに。軍事、医療、美術、何だって不死の魅力は引っ張りだこよね。ただそうなると、徘徊する吸血鬼を捕まえるために、ある技術が必要になってくるわ」

「あ」

「……吸血鬼を殺さずに、かつ安全確実に捕縛する方法。借金漬けの院長は起死回生のためわざわざ危険な廃病院に舞い戻ってきた。だとすると、彼は知っていた事になる。その方法を。そしてその方法はどこで、誰を使って実験されてきたものだったのかしら」

 まさか。

 いや、まさか。

「この病院はアークエネミー……中でも吸血鬼を倒すための方法を研究する施設だったっていうのか!?」

「ご明察。今度のパズルの形はいかがかしら」

 暗闇の中で、まるで見えているように委員長は片目を瞑りつつ、

「あの血染めドレスは病院側にとってのダミー人形、体のいい仮想敵のつもりで引き取っていたのね。で、研究が頓挫したのか、サンプルの吸血鬼が檻から逃げたのかして病院は壊滅。院長も借金や人命責任を振り切るために行方を眩ませるしかなかった。でも、何年足掻いたって彼はその筋の専門家だから、暮らしを守るためには同じ事をやり直すしか道がなかった。きっと、それ以外に稼ぐ方法が思いつかなかったのね」

「だから、もう一度どこかで研究を始めるために、吸血鬼の棺を拾いに来たのか……」

 若い男の方は同業他社だろうか。あるいは院長を追っていた借金取りとか。今となっては調べようがない。

「この病院には人がアークエネミーに対抗するための術がある」

 委員長は両手を広げて、

「……そんな事など露知らず、私達は廃病院の奥まで踏み込んじゃったって訳。そこで良くないモノに触れた。おかげでサトリ君はしゃべるにんにくになっちゃったし……私は、こうなった」

「っ」

 そう、そうだ。

 根本的に委員長の体はどうなってしまったんだ。どうして暗闇の中でも視界を確保できているんだ!?

 焦る僕の視界に、おかしなものが浮かび上がった。

 ギラリ、と。

 メガネの委員長の口の端から、何か鋭いものが---?


「ダンピール。人間と吸血鬼が半々って感じの状態らしいわね、今の私」


 ……。

 姉さんが。

 確か、小さい頃に、絵本を読んでくれて。

『ダンピールは吸血鬼が人間に噛み付いて増やした仲間ではなく、吸血鬼と人間の間に生まれた赤ちゃんの事なんです。え? 赤ちゃんの作り方? もっもう! そういう話はまた今度! です!!』

 そう。

 そうだ。

『ダンピールは肉体的にも精神的にも、吸血鬼と人間、どちらにでも転がりかねない存在です。力に溺れれば吸血鬼になりますし、制御できれば強大なハンターとなる。まあ、私達みたいな吸血鬼からすれば、どっちが正しくてどっちが幸せかは微妙にねじれて見えるんですけどね』

 ちなみに力の不安定なダンピールはあまり長生きできないらしい。不老不死まで宿る訳ではないのだとか。人のために戦っても報われない、それでもなお短命の命を他人のために燃やし尽くせる者だけがハンターになれるらしい。

 ……何だか美談に聞こえるけど、そもそも姉さんみたいな吸血鬼を傷つけるつもりのない僕としては、根本のところが理解できない。そして今はどうでも良い。

「い、委員長?」

「なあに」

「大丈夫なの、ダンピールって。だってそれ、つまり委員長……!」

「あはは。にんにくになっちゃったサトリ君に比べたらどうって事ないよ」

 そりゃあそうかもしれないけど。短命どころかにんにくって一年草だか多年草だか知らないけど! でもそんな事よりまず委員長だ。一体全体どうなってんの!?

「見て、サトリ君」

 委員長は笑っていた。

 淡く笑ったまま、小さな手鏡を取り出したんだ。にんにくヘッドでも覗き込めるよう、優しく角度を調整してくれたけど、

「っ!?」

「吸血鬼は鏡に映らない、だったわよね?」

 どう言って良いのか分からなかった。

 僕は吸血鬼の姉さんやゾンビの妹に意地悪するつもりはない。だけど、これはなんか違う気がした。

 納得ずくで噛まれて仲間入りするならまだ良いんだ。だけど僕も委員長も違う。どこかの誰かは、こっちの都合なんか少しも聞いちゃいない。

「……私もサトリ君も、実際のところどれくらい体が安定しているかは分かんない。トップだった院長があの体たらくでしょ? 理論はあっても完成してないようなものに命を預けている状態なのよ、今の私達って」

「そっか……」

 委員長がチョークの円に頼らずにベッドの下に隠れたのもそのせいか。自分の中にある吸血鬼の部分がどう反応するか分からないんだ。それは生粋の吸血鬼である血染めドレスとの戦いを避けるのも。ダンピールとしての力をちゃんと振るえるのか、自分の体を自分の力で壊さないのか、誰も太鼓判なんて捺せないんだ。

 この廃病院じゃあ委員長は吸血鬼からはハンターと見られて、人間からは暴走したアークエネミーと見られる。どっちつかずの一番危ない状態だったんじゃないか。なのに僕は一方的に彼女を疑って……。

「ごめん、委員長」

「別に良いよ。私としては、にんにくになっちゃったサトリ君がパニックから脱してくれただけでも奇跡みたいなものだし」

「でも、そうなると別の線が出てくる訳か。血染めドレスを何とかするだけじゃダメだ。僕達が元に戻る方法も見つけないと」

「どっちみち、この病院を自由に行き来して調べ物するなら、やっぱりあの吸血鬼は何とかした方が良いとは思うけどね」

 そんな風に言い合っていた時だった。


 のそり、と。


 嫌な音が。生きている人間にしてはいやに柔らかい、でも決して幻聴にはないリアルな重さを伴って、暗闇の部屋で新しい音が響き渡る。

 あの、むせ返るような薔薇の匂いはしない。けどそれ以外でこんな死の空気を撒き散らす存在って言ったら……。

 ドアの前で寄りかかっていた若い男。鍵がなくて放射線医療科には入れず、あの血染めドレスの毒牙にかかったんだったか!?

「くそっ!」

 のろのろと身を起こす男に自分以外のありったけのにんにくを差し向ける。でも決定打にはならない。仰け反らせて隙を作るので精一杯だ。しかも男は放射線医療科のドアの方を塞いでいる。奥にいる僕達は部屋から外へ逃げられない!

「サトリ君、ここに入ったって事は鍵を持ってる!?」

「ああ。厨房で倒れていた院長のブリーフケースから失敬した鍵束とIDカードが! でもそれがどうしたの!?」

「この奥に一時なんたら保管庫のドアがあるけど入れない。相当分厚いから立て籠もれるかもしれないわ! その鍵束のどれかが鍵穴に当てはまるなら……」

 根本的な解決にはなっていない。でも当座の危機を乗り越えるために頑強なシェルターが必要なのも事実だった。それに、奥に隠されているのが『ポーランドの吸血王女』に出てくる呪いの棺桶なら、大元に接触できる。元栓を閉めてしまえば血染めドレスから派生した若い男の吸血鬼もダウンさせられるかもしれない。

「何にしても奥の保管庫だ。委員長、鍵は任せた!」

「うん!」

 委員長と二人で部屋の奥に向かう。流石は放射線医療科、そのドアには物々しいあのマークで警告があった。だけどにんにくの僕やダンピールの委員長には関係ない。そのまま鍵を開けて中に飛び込む。

 白昼夢のように脳裏に浮かぶ別の視界、にんにく残機達のビジュアルが次々に消えていく。もう若い男に差し向けたにんにく達は全滅したみたいだ。

 レントゲン関係か何かの機材が埃を被っている他、プラスチックらしきコンテナケースも並べられていた。鉛の板でも内張りされているかもしれない。下手に開けない方が良さそうだ。流石にどんなものかは詳しく分からない。そして機材に埋もれるように、床下の収納スペースみたいな四角い引き戸があった。委員長が取っ手を掴んで持ち上げると、急な下り階段が待っていた。

 甘ったるい薔薇のような、香煙のような、おかしな匂いが漂ってくる。あるいは、あの血染めドレスがこぼす血の塊から匂うものと同じような……。

 てんっ、てんっ、と階段を転がるようににんにくボディが降りていく。

 狭い部屋だった。辺りにぼんやりした光があるけど、ロウソクとかじゃない。きっと夜光塗料か何かだろう。そしてうっすらとした光に輪郭だけ照らされて、『それ』は静かに佇んでいた。

 黒檀に金細工の、重々しい西洋棺桶。

 呪いの源泉。血染めドレスに吸血鬼としての力を与えているもの。逆に言えば、これさえ封印してしまえば当座の危機は脱せられる。後はゆっくりと僕達が人間に戻る方法を探せば良い。

「委員ち……」

 手繰り寄せた光明に、思わず喜びを分かち合おうと振り返ろうとした時だった。


 ドぐちゃエっッっ!!!???

 何かが、上から僕の、体をつぶ……?


 声も止まった。視界と思考が散り散りに散らばる。特徴的な刺激臭が一面に広がり、ああ、にんにくの頭が踏み潰されたんだなあと遅れて気づいた、もう振り返れない。潰れたまま動けない。誰かがにちゃりと靴底から湿った音を立てて、僕の上から足をどかした。いいや、もう一度踏み潰そうとしている。この哀れな残骸から、完全に意識を消し去るために。

 でも、これはあの若い男じゃない。血染めドレスでもない。ヤツらが分厚いドアの奥に先回りするチャンスはなかった。

 だとすると、

「やっと、ドアが開いた」

 ……いいん……。

「せっかく棺があっても、部屋に鍵がかかっているんじゃ補給ができないもの」

 そうか。

 鍵は一つしかない。それも病院の院長が外から持ち込んだものだ。となると、ここのドアは元々開いていた。小児科診察室で倒れていた院長は、棺桶や吸血鬼を回収に来たんじゃない。扉を封じて棺桶と血染めドレスを遮断しに来たんだ。それ自体には成功しても、帰り道でやられた。

 血染めドレスとしては棺桶と繋がる巡回ルートを早く復旧したかった。そうしないと『充電』ができずに、吸血鬼としての力を失うから。

 そんな血染めドレスに委員長が協力しているって事は……。

「ダンピールの話は、嘘だったのか」

「……、」

「シンプルに噛まれて吸血鬼になって、そのまま舌先三寸で僕を騙して掌で転がしていたのか、委員長……!?」

 そういえば廊下で委員長の足跡が消えていた。壁や天井にしがみついたにせよ、靴に何か巻いたにせよ、隠したかった理由があったって事か。

 返事は靴の踵だった。

 今度の今度こそ、僕は真上からの衝撃で四方八方に散らばって……。


12(にんにく七個)


 委員長の七変化は完璧だった。僕が人間だったらあそこで命を落とし、真実は誰にも伝わらなかった。

「……ハッ!?」

 だけど今の僕はでっかいにんにくだ。そして委員長は正確にいくつ増殖したか知らなかった。

 そう、病院三階の空き病室に、余った分を待機させていたんだ。

 そして、

「……、」

 僕達七人のにんにくはころころと転がって下りの階段を目指す。

 してやったように考えているかもしれないけど、委員長も委員長で案外抜けている。にんにくは吸血鬼の弱点で、棺に刷り込めばそのまま封印になる。世界一有名な吸血鬼小説でだって、棺の封印には聖餅やにんにくを使っていた。

 そして放射線医療科の室内で若い男が暴れたせいでにんにくのすり下ろしがあちこちに散らばっているはずだ。挙げ句、委員長は棺を安置している一番の隠れ家で僕を踏み潰した。当然、あの匂いをばら撒く実や汁は一面に飛び散っただろう。

 棺を守るつもりが、かえってきつく封じてしまったんだ。

 もう血染めドレスは棺桶に戻れない。吸血鬼としての力を補給できない。何かのタイミングで充電が切れて、彼女はただの人に戻るだろう。

 めでたしめでたし。

 ……とはならない。確かに『ポーランドの吸血王女』のヒロインはそれで救われる。でも、彼女に噛まれた配下は? 一緒に救われるのかどうか、実は詳しい記載はない。

 だから。

 だから。

 だから。

「……、」

 暗い暗い地下は、恐ろしいほど静まり返っていた。床に等間隔で置かれたケミカルライトの案内に従って僕達七人のにんにくが転がっていくと、さしたる妨害もなく目的の放射線医療科まで辿り着いてしまう。

 何より吸血鬼達が死守したかった棺桶があるはずなのに。

 中に踏み込むと、にんにく汁の海の中で若い男がうつ伏せに倒れていた。そのままぴくりとも動かない。完全に死んでいる。いや、死に返ったとでも言うべきなのか……。

 もちろん、いくら吸血鬼の弱点とはいえ、にんにく単品でここまで劇的な効果は出ない。これはもっと別の理由だ。棺桶が封じられ、大元の血染めドレスが人間に戻ると、配下に供給されていた力も遮断される。だけど棺と直接繋がった吸血王女と違って、配下の遮断の仕方は雑なんだ。だから丁寧に生きた人間には戻れず、そのまま屍をさらす羽目になった。

 嫌な感じがした。

 この先に進みたくなかった。

 だけど何故だか僕達にんにく軍団はころころと転がって奥へと進む。保管庫の分厚いドアの鍵はかかっていなかった。四角くく切り抜かれた地下への入り口も。そしてどこまで行っても人のいる気配がない。静まり返った無人の廃墟そのもので、物音一つしない。

「いいん、ちょう……?」

 夜光塗料で妖しく照らされた暗闇。

 中央に置かれたままの黒檀の棺。

 やっぱり、生き物の気配はない。あるのはただただ無機質な静寂と、廃墟と一緒に風化されていくような格好で、重たい棺にのしかかったまま全く動かなくなった……、


「委員長ッッッ!!!???」