第四章
1
廃病院にあるものなんてどれもこれも信用できない。仮にロッカーに防護服があっても、耐久性や気密性は絶対信用ならない。
かといって、地下フロアにはあの放射線医療科が待っている。機材が風化して壊れたまま放置されていたら、何が飛び散っているか分かったものじゃない。何の準備もなく潜り込むのはあまりに無謀だ。
「……とりあえずは、こんなものかな」
『レントゲン用スクリーンですか?』
スマホの光を頼りに、医局の戸棚の中からX線に反応して可視光を発する増感紙(スクリーン)を見つけて引っ張り出す。
「確か、アナログカメラのフィルムはX線にも反応したはず。仮に地下がほんとにヤバい環境ならX線増感紙は何もしなくても感光する。ひとまずこれで安全を測りながら進もう」
バーチャルと状況が違うなら、床にあったケミカルライトの誘導も、にんにくボディの暗視機能も使えないはずだ。地下フロアに外からの光は入らない。こちらの頼りはスマホのバックライトだけだった。
思ったより軽く、そして薔薇の血のおかげでやたらとぬめる委員長を山賊スタイルで肩に担いで、僕達はエリカ姉さんやアユミが消えた地下フロアへの下り階段へ向かう。
……というか、あの姉さん達が戻ってこないだなんて、地下フロアは相当きな臭いぞ。一体何が待っているっていうんだ。
途中で拾った金槌をX線増感紙と一緒にズボンのベルトに挟むけど、さてどれくらい役に立つのやら。片腕はぐったりした委員長、もう片手は懐中電灯代わりのスマホに塞がれるので、武器はあっても結局使いようがないんだ。大体、あの二人が同時に飛びかかって勝てないような相手なら、金槌くらいじゃどうにもならないし。ほとんど気を落ち着かせるためのお守りでしかない。
念のため、三階の小児科やリハビリ室にも立ち寄ってみた。
スマホのバックライトを向けるけど、やっぱりそこには誰もいない。当たり前か。いくら不気味な廃墟だからって、そうそう死体がゴロゴロ転がっているものか。
「……でもそうなると鍵がないな。マクスウェル」
『シュア』
「放射線医療科の入り口はICカード式、つまり電子ロックだった。力業でいけそうか?」
『敵性からのバーチャル自体の確度も疑わしいですし、モノを見るまで確約は致しかねますが、試してみる程度の価値はあるのではと自負しております』
「よし」
問題の保管庫の扉はアナログ錠だけど、とりあえず開けられるトコは全部開けてしまおう。棺桶もそうだけど、姉さんやアユミの安否も気になる。
そんなこんなでドロドロの委員長を肩に担いだまま下り階段に向かう。うーん、巡回中のお巡りさんとかに見つかったら最悪銃撃戦になりかねない絵面だ。いいや一足跳びに都市伝説デビューできるかも。
バーチャルだろうがリアルだろうがあちこちゴミだらけで、途中で階段も塞がっていた。いったん通路に出て、反対側にある階段を使ってさらに下りる。元々地下の死体安置所から出てきたので順路は覚えていた。
途中に人の気配はなかった。
姉さんやアユミはもちろん、得体の知れないアークエネミーなんかもいない。
……本当に、姉さん達は一体どうしたんだろう。あの姉妹の凶暴さは以前シミュレータの中で目の当たりにしている。冗談抜きに、手を誤らなければ街どころか国さえ滅ぼしかねないくらいの『力』を持っているんだ。あの二人がまとめてやられるなんてちょっと信じがたいんだけど。
「……、」
地下への階段、深い闇の口までやってきた。夜の暗さとは何か、密度というか粘性というか、とにかく質が違う。文字通り、巨大な猛獣の口でも覗いているようだった。危険を避けて進むっていうより、自分から飛び込まなくちゃ何も掴めないっていうか。
ただでさえ夜はアークエネミーの時間。しかもこの先の闇の深さはまともじゃない。きっとアークエネミーがアークエネミーとしての牙や爪を存分に振るえる迷宮、魔窟なんだ。
『いかがいたしますか』
「行くに決まってるだろ」
ダンピール化した委員長はそのまま街へは帰せない。『ポーランドの吸血王女』の場合は棺への帰還を妨害すればお姫様は人間に戻るはずだけど、その話だと棺の蓋に騎士が腰掛けて邪魔するって事になっていた。つまり、棺の場所を暴いて直接接触しないと妨害扱いとしてカウントしてもらえない可能性がある。
大体、ここで委員長を抱えて外に逃げてしまうと、姉さん達の安否は分からないままだ。彼女達も放ってはおけない。
ゆっくりと深呼吸して。
僕は、闇に続く下り階段へ一歩を踏み出す。
2
前と順路は逆だけど、変わり映えはない。やっぱり床には等間隔のケミカルライトなんてなかった。となると、ここには若い男は来ていないし、放射線医療科の扉の前で絶命していたり、吸血鬼として再び起き上がる事もないんだろう。
スマホのバックライトだけが頼りだ。
地下は地上よりもさらに埃っぽくてジメジメしている。バーチャルで歩き回った時より空気が澱んでいて、何だかカビ臭かった。
「……? 何だろう、これ」
おまけに何だか鉄錆みたいな匂いも混ざっている。壁にバックライトを向けると、赤黒い塗料で何が書き込まれていた。それもびっしりと。アルファベットみたいだけど、英語じゃない。でも適当に並べているんじゃなくて、何か法則性がありそうだった。
暗かったせいもあるけど、アユミと地上を目指した時は気づかなかった。視野なんてのは気の持ちようで変わるもんだ。
『ラテン語ですが、文章の体裁を成していません。ぶつ切りの単語が並んでいるだけです』
「ラテンって、ラテン音楽のラテン?」
『中南米文化圏の事を仰っているのならノー。英語の原型となった欧州の古い言葉とお考えください』
他にも図画のようなものもあった。
大きな赤黒い円の中に、正方形が描き込まれている。丸と四角の角の接触部分に、またもやあの読めない文字が並んでいた。
『火水風土。それから熱気や冷気といった単語がちりばめられています。原子や素粒子を発見する以前から自分の知り得る知識だけで万物の成り立ちを表現しようと足掻いた痕跡が見受けられます。地動説と天動説並みにズレてはいますが』
詳しい話は分からなくても、図画の不気味さで大体どんなものかは想像がつく。
「魔法陣、みたいな感じなのかな……」
実際に効力があるのかどうかは別問題として、わざわざ長い長い通路の壁一面に書き殴った……つまり信じて執拗に埋め尽くすほど行動した誰かがいる。それだけで背筋に冷たいものが走る。
統計学を使って徹底的に数値計算された光十字の『コロシアム』とは別の怖さだ。何の根拠もないものにすがって、実際にそこにある命を簡単にジャッジ、仕分けしてしまうような、どうしようもないレールのズレを感じる。たとえるならセイレムの魔女裁判。多分、これを書いた人間とは今日の天気の話さえ噛み合わない事だろう。
……でも、こんなのバーチャルの中にはあったかな。あの時はケミカルライトのぼんやりした明かりだけが頼りだったから気づかなかったのかもしれないけど。
「マクスウェル。この鉄錆臭いの……その、やっぱり何かの血なのかな?」
『遠心分離機や匂い粒子観測機などの成分分析に必要な外部アクセサリーを装着していないので何とも。ただしここは病院です。いつ書き込まれたものかにもよりますが、まだ経営状態にあった時に製作されたものなら、輸血などを使った可能性もあります』
「……だよな」
何年も経ったにしては、いやに匂いが強い気もするけど。でもどっちにしたって今ここで生きている人間から血を搾り出して描いたようには感じられなかった。何というか、多過ぎるんだ。地下フロアの壁いっぱい血文字や魔法陣をびっしり埋め尽くすとしたら、それこそ血のバスタブくらいじゃ済まない。いくらつい最近まで光十字が跋扈していた供饗市とはいえ、流石に二〇〇リットルを軽く超える鮮血を一息に集められるとは思えない。年間の事故、自殺、病死、失踪なんかの数も調べてみると金玉が縮むものだけど、それにしたって派手過ぎる。絶対に隠蔽しきれない。
「鉄錆のような、じゃなくて、案外鉄錆そのものなのかも」
『錆びた釘を使って筆記用の墨を作る実験のようなものでしょうか』
……確かそんなのが、夏休みの自由研究のオススメサイトみたいなのにも載っていたはず。
生贄だって簡単に調達できる時代じゃない。そうなると代用品を使うようになっていく。例えば人間を火炙りにする代わりに人形を燃やしたり、大豆やザクロなんかを肉の味の代用にする文化だってある。錆びた釘で作った墨にわずかな人血を混ぜて代用品を調達した、くらいなら、イカれているけど大量虐殺をする必要はなくなるはずだ。
「それか豚とか鶏とか。人の血とは意味合いが変わりそうだけど、そもそもどんな願いを込めたオカルトなのかも分からないしな。正解不正解なんてジャッジできるものでもないか」
何にしても、じっと眺めていても良い気分になるものじゃない。なんていうか、知らない国の動物園の檻に入れられて、老若男女みんながくすくす笑い合いながらこっちを指差しているのを眺めているような気分。細かい意味は分からなくても、悪意にさらされているくらいは十分理解できるっていうか。
……別に壁一面に姉さん達の行方や委員長を元に戻す方法が書いてある訳じゃない。気分を害してまでわざわざ狂人のこだわりに付き合う必要はないだろう。
バックライトを手近な壁から外し、僕は委員長を肩で担ぎ直す。不思議なもので、相手が可愛い女の子なら苦にならない。これがセメントの袋五〇キロとかだったら地獄だろう。ひょっとしたらナゾの委員長効果でエンドルフィンとかドーパミンとか出まくってて疲れが麻痺しているだけかもしれないけど。
「……さて」
一応X線増感紙に目をやるが、今のところは反応なし。目に見えない放射線で全身の細胞を炙られている、なんて事態には陥っていないようだ。まだ探索は続けられる。
この病院は二つのT字の建物を繋げて線のはみ出た四角を作ったような構造で、地下もその並びに準じているらしい。ひとまず問題の放射線医療科に向かってみるが、角を曲がったところである事に気づいた。
「?」
例の血文字(?)は壁の一面を埋め尽くしていた。だけどそれは全面じゃない、偏りがあったんだ。
そう、
「何だろう? 内側の壁だけ埋め尽くしている……?」
この廃病院は歪な四角形だった。地下もその並びに準じている。そして四角の内側に面した壁だけに、びっしりと血文字や魔法陣が書き込まれていたんだ。
まるで中庭にあたる地下空間に何かを閉じ込めているようだ。
何ていうか……『出る』格安マンションの壁についた人型の染みを隠すため壁紙を新調する前に、剥き出しの壁にびっしりとお札を貼り付けておく、っていうか。
「マクスウェル……」
『シュア。実際の効力はどうあれ、その力を信じて実行に移した何者かは存在するようです。だとすると、当人は本当に壁の落書きで何かを封じた気になっているのかもしれません。逆に言えば、四角い枠の内側に記載のない空間があり、そこには表に出してはならない何かが眠っているのかも?』
とはいえ、ここから入れるとは限らない。別の階段やエレベーターを使って地上から潜るのかもしれないし、本当に後先考えずに『封印』を最優先していた場合、とっくの昔にドアごとコンクリートで塗り固められている線もある。その上からさらに血文字や魔法陣を上書きしている、なんて可能性もゼロじゃない。
何にしても、『四角形の内側』はよっぽど恐れられていたようだ。これだけやっても安心できないくらいに。
誰が、誰を。
主語とか大事なトコがすっぽ抜けているけど、壁一面の不気味さだけで伝わってくる。このびっちりした血文字の正体は偏執じゃない。恐怖の裏返しなんだ。殺したはずの死者が復讐に来るのが怖くて、死体をバラバラにして別々の場所に埋めてしまうような、恐怖から生じる異常行動。もっと身近でたとえるなら、出かける前に何度も鍵やガスの元栓を確かめるのと同じ。
そして同時に思う。
「……こっちには委員長の棺桶はなさそうだ」
さっきも姉さん達と話したけど、委員長を蝕むのが『ポーランドの吸血王女』だった場合、委員長は定期的に棺に戻って眠りに就かないと吸血鬼としての性質が失われてしまう。最上階にあった掃除ロボットと同じで、なんていうか、充電が必要なんだ。だから徹底的に封印して出入り不可能な場所に棺桶を置いても意味はない。委員長自身が帰れなければ状況を維持できないんだから。
ダンピール化した委員長を偶然が生み出した貴重なサンプルと位置づけ、解剖してでも偶然を必然に変える量産化のメソッドを確立したい静養病院の『亡霊』側としても、仕組みが分かるまでは無闇にバランスを崩したくはないだろう。顕微鏡で雪の結晶を調べている最中にドライヤーを持ち出すアホはいない。『亡霊』側が手足となる無人機を使って棺を封印するとも思えなかった。
「マクスウェル、歩いている範囲で良い、マッピングを頼む」
『シュア。可能なら目印となるものを指定していただけますと』
地下フロアは分厚いシールドを容易に造れるからか、あるいは単純に人目に触れにくいからか、何かと不気味で仰々しい設備が多い。解剖室、僕が収まっていた死体安置所、霊安室、医療廃棄物処理室、予備電源室、ボイラー室……。一つ一つのプレートを眺め、ドアを開けて、外からバックライトの光をかざしても、エリカ姉さんやアユミが倒れているなんて事はなかった。
「おかしいな……。どこも鍵が開いているぞ」
『エリカ嬢やアユミ嬢はドアがほとんど施錠されており、あまり探索が進んでいないという旨の発言をしていましたね』
「……、」
この食い違いは何を意味しているんだろう。
・姉さん達が消えた後に、何者かが鍵を開けて回った。
・姉さん達が探索中、消える前に鍵を開けて回った。
・姉さん達は嘘をついていた。最初からドアは施錠されていなかった。
……可能性はいくつかあるけど、どれを取っても必ず不穏な影がちらつく。一番平和的に見えるのは二番目の可能性。でもこれだって、ドアを開けて回る姉さん達を疎ましく思う第三者がいて、作業の途中、実力行使でアークエネミーの姉妹を『消した』事になってしまう。
ぶるるっ、と嫌な震えが背筋を走り抜けた。たらればの話でもあんまり頭に浮かべたくないものだ。
地下フロアを歩き回っている内に、問題の放射線医療科の前まで辿り着いてしまった。ここに来るまでに遭遇した人影はゼロ。姉さんやアユミはもちろん、危険な第三者の影もない。
みんな地上に出てしまったのか。
そうでないなら、この奥が一番危険で怪しい。
「……マクスウェル」
『ノー。システムの出番はありません。すでに電子ロックは解除されています』
ここもか。
ごくりと喉を鳴らして、鉄扉の表面に掌を押し付ける。そのまま体重をかけるようにして、開く。
3
放射線医療科。
中に入った僕は息を止め、まず真っ先に室内ではなくズボンのお腹に挟んだX線増感紙に目をやった。幸い、特に反応はない。何かまずいものが漏出している訳ではなさそうだ。
スマホのバックライトで調べると、部屋の中央にあるのは錆びた診察台。そして周囲を取り囲むようにドーナツ状の精密撮影機材がトンネルみたいに待ち構えている。あんまり詳しくないけど、多分これはレントゲンじゃない。CTスキャンじゃないだろうか。上位互換の匂いがするMRIにインパクトを奪われたアレだ。全然違うんだろうけど、何となくICとLSIやレコードとブルーレイみたいな関係をイメージしてしまう。
この部屋に用はない。
念のために機材の裏まで調べたけど、姉さん達もいなければ若い男の死体が転がっている事もなかった。
「……やっぱり奥の保管庫、か?」
『ノー。やっぱり、の根拠が不明です』
そりゃあ、廃病院の『亡霊』が作ったシミュレーションデータだ。全部が全部正直とは限らないけどさ。
「向こうが姉さん達を罠にかけたなら、なんちゃら保管庫が一番怪しい。ゴール地点が分かっていれば罠だって仕掛け放題だろうし」
いけしゃあしゃあと言っているけど、僕自身気づいたのは姉さんやアユミが戻ってこないと知ってからだ。というより、みすみす家族を死地へ送り込んだ大馬鹿者でしかない。
『警告。エリカ嬢やアユミ嬢が立ち向かっても回避不能な罠が仕掛けてあったと仮定すると、ユーザー様が飛び込むのは危険ではありませんか?』
「もちろん。でも気になる事がある」
僕はゆっくりと話しながら、自分でも自分の意見を改めてまとめていく。
「……静養病院の『亡霊』はどうしてマクスウェルのふりをして僕に接近してきたんだろう。でもって場を混乱させるような、リアルと微妙にズレたバーチャルを極めて短い時間で延々反復させ続ける事で、記憶の誤認まで誘ってきた。何故?」
『根拠に足る確たる情報のない推測ですが、一番与し易いと判断されたからでは。「亡霊」の本質が安寧会静養病院跡地に残るシステム管理エージェントである以上、モバイルへの依存度の高い人物ほど騙しやすい訳ですし。現にユーザー様の言動により、戦力を保有するエリカ嬢とアユミ嬢、そしてシステム自身が振り回されました。途中でユーザー様に看破されているものの、一定の成果は出しているように思えます』
「確かに」
冷静に考えると全部僕のミスだ。真面目くさった顔で鷹揚に頷いている場合じゃないんだけど、ミスを認めない事には先に進めない。
「……でも、あそこまでキャラになりきる事ができるんだったら、ダイレクトに姉さんやアユミのケータイにもメッセージを投げ込めたんじゃないか? 例えば僕のふりをしたSOSの偽装メールを投げ込んで、罠のある放射線医療科に閉じ込められたから助けてって連絡すれば、一網打尽にできたような気もする」
『一理あります』
「……となると、姉さんやアユミを放り出してでも、まず僕を押さえておきたい、三時間ほど死体安置所のロッカーに閉じ込めておきたい切迫した理由があったのか、って思ってさ」
『例えば?』
言うまでもないけど、生身の人間に過ぎない僕はゾンビや吸血鬼と本気で姉弟ゲンカをやったらまず負ける。絶対に勝てない。考えられる限りの武装をしても無駄だろう。素人に水中銃を渡して人喰いサメとシャチの待つ水族館プールに突き落とせばどうなるか。まさしく言うに及ばずだ。
だけど、
「……例えば、この先で待つ『罠』がアークエネミーにしか通用しないものだとしたら? 破邪の刻印だか聖なる光だかは知らないけど、普通の人には痛くも痒くもない対アークエネミー戦『専用』だとしたら? それなら、ど素人の僕から隔離した理由にもちょっとは信憑性が出るんじゃないか」
だとすると、僕の価値は俄然高くなる。聖水とか額のお札とかで姉さん達が捕まっているなら、僕の手で引き剥がせば再び自由を得られる可能性があるんだから。
「ひょっとすると、機関銃とかガス圧杭打ち機とか分かりやすい武器で固めた殺人モトクロスだって、姉さんやアユミじゃなくて聖なる力(笑)が効かない僕向けに放たれていたのかもしれない。そういう意味なら、マクスウェルと再び繋がったのはやっぱり強い。オカルト兵器は僕には効かないし、実弾系の無人兵器はマクスウェルが抑え込める。つまり『亡霊』側は打つ手なしだ。……向こうが捕らえた姉さんやアユミを人質にして、大人しく投降しろなんて言い出さない限り」
『だから、猿知恵を絞られるより早く奪還したいと?』
「多分そういう手に出てこないのは、『亡霊』側が僕達の関係をイメージできていないからだと思う。伊東ヘレンとか黒山ヒノキとかもいるんだし完全にないとは言わないけど、人間とアークエネミーが一つ屋根の下で暮らしているなんて極めて珍しい。対アークエネミー戦の技術研究に特化したエージェントである『亡霊』からすれば、人と不死者がいがみ合わずにやっていける可能性を浮かべるのも難しいんだ」
でも、それだって永遠に迷い続ける訳じゃない。データが蓄積すれば正しい判断を導く材料が増える。例えば捕らえた姉さん達の携帯電話を覗き、通話記録や保存されている写真画像を分析されたら。ケータイを中継して外部にあるストレージやホームサーバーなんかにアクセスされたら。
だから、その前に。
一度動いたら問答無用でチェックメイトを決められる。でも、相手が駒の動かし方を把握する前に畳み掛けてしまえば。
「マクスウェル。ケリをつけよう」
『シュア』
隣接する保管庫へのドアに向かう。ノブを掴むとやっぱり開いていた。
委員長のために開けていたのか。姉さん達が開けたのか。それとも全く関係ない第三者が?
気にしてもいられない。今はとにかく時間との戦いだ。バーチャルでの経験を元に保管庫の床にバックライトの光を投げ、四角い床下収納みたいな隠し扉を開ける。
待っているのは、あまりにも急な下り階段。ほとんど梯子に近いそれを一歩一歩下りていく。
「……マクスウェル、サイバー攻撃の準備。出会い頭に殺人モトクロスから銃撃されるのは避けたい」
『シュア』
こっちとしては、ありきたりな銃弾や特殊鋼の杭なんかを防げれば良い。ゾンビ専門の魔除けの香とかは放っておいても問題ないんだから。
そう思って、最後の段から階下の床を踏んだ。
直後の出来事だった。
『それ』は起きた。
4
---下りの階段がある。
階段は最後まで下りなくちゃならない。地下深くではエリカ姉さんや妹のアユミが待っている。だから立ち止まってなんかいられない。早く、一刻も早く。『亡霊』に気づかれる前に見つけ出して奪還しないと。
---下りの階段がある。
ピリピリと頬に細かい振動を感じた。
思わず立ち止まって息を止めると、真後ろ、自分達が来たはずの出入り口の辺りからバォン! というエンジン音が響く。車よりももっと軽い、チェーンソーや草刈機に似た小さなエンジン。
または、スクーターやモトクロスのような軽量小型の、バイク?
---下りの階段がある。
「まっ、マクスウェル!」
音に取り囲まれ、もはや不快な排気ガスの匂いまでうっすらと鼻につく。だけど相手が殺人モトクロスなら大丈夫のはずなんだ。マクスウェルの支援があればサイバー攻撃で無力化できるはずなんだから。
そう思って、委員長を肩で担ぎ直して空いた手でスマホを見た。そこにはこうあった。
『警告。気を……、---です。実……響効……』
「何だマクスウェル、見えないぞ、画面が暗い!」
いや、違うのか。
画面の光が弱いんじゃない。落ちそうになっているのは、僕の、視界の方……?
---下りの階段がある。
ぐらりとバランス感覚が揺らぐ。堪えようとしたけどダメだった。そのまま委員長もろとも硬い階段を転げ落ちていく。まともに受け身も取れなかったけど、もはや痛みを正常に感じられない。
委員長はどこだ? スマホの光も見えない。
それどころか自分の手足がどこにあって、どう動かせば体を起こせるのかも定かじゃない。
ひどくぼんやりした頭の片隅で、何かが警告している。
……あの殺人モトクロスのエンジン音や排ガスは、本当に本物だったのか?
今さらながらそんな疑問が浮かぶ。本物だったかもしれないし、本物じゃなかったのかもしれない。
不死者のアークエネミーだって疲労や消耗は起こる。疲れの感覚は筋肉にたまる乳酸だけの話じゃないから、植物や骨のアークエネミーだって。
そしてこういう状況で起こる、極めて短期間の内に急激な虚脱に襲われる状態を僕は何かの映画かドラマで見聞きしていた。
戦闘疲労。
爆撃や砲撃に四六時中さらされる要塞や防空壕の中では、戦闘の興奮と死の恐怖とがごちゃ混ぜになって、普段の数十倍のペースで一気に疲労感が押し寄せる事があるらしい。
もしも、『亡霊』がその戦闘疲労を体系化して己の武器に変えていたら?
切っても撃っても死なないアークエネミーを確実に無力化するほどの精度で、だ。
---下りの階段がある。
前後左右も上下も手前も奥も分からない。酸欠みたいに頭が回らない。呼吸も鼓動もみんなおかしくて寝不足のハイみたいにおかしな思考と嗜好が連結する。それでも爪に引っかかる感触を頼りにどこかへ行かないと進まないと。だって姉さんと妹が。だってだって委員長が。僕が足を止めるっていうのは諦めるって事だから諦めるっていうのは僕の命や人生じゃなくて大切な人のそう天津エリカと天津アユミと委員長と吸血鬼がゾンビでダンピールがクラスメイトでアユミは私立中学なんだけど声楽科で意外な事に歌が上手くてカラオケ無双だからいっつも姉さんが点数勝負でほっぺた膨らませて頬が柔らかいのは脳や感覚器官が集中する頭部全体で保護しなくてはならないにも関わらず動きの自由度が求められたからでこれは食べ物の咀嚼よりも声の出し方や表情のつけ方つまり人間らしいコミュニケーションを取る方法が優先されたからという事になっているけど火星の人面岩やイースター島のモアイ像にはそうした柔らかさが見受けられない事からこれらの構造物は優れた建設技術と美的感覚を備えつつも我々地球人類とは全く別個のコミュニケーション能力を持つ表情変化や発声方法に依存しないテレパシーを軸とした独自の文明を築く第三宇宙ヘリレナード星人の関与がうたがわr
5
……?
僕はどこで這いつくばっているんだろう。
何にもない暗闇。
自分がどこかにうつ伏せで転がっているのは分かるんだけど。
気がつけば肩に担いでいたはずの委員長の重さがない。スマホも落としてしまったのか、光源らしい光源は一切ない。冷たい床の感触だけが頼もしくて、何だかそれがひどく心地良い。ここから体を離してしまうのはそれだけで罪悪だとさえ思えてくる。意味もなく母親を突き飛ばしてそのぬくもりを否定してしまうような。
何だか脳細胞と脳細胞を繋ぐ配線にカラメルでも流し込まれてガッチガチに固められたみたいに、頭がふわふわしている。
何かがおかしいと分かっていても、現状を変えられない。負け始めたギャンブルで無理に元を取ろうとするのはこんな感覚なんだろうか。
冷たい床に寝そべったまま、耳を押し付ける。何かが聞こえるような、そうでないような。床の奥に何かがあるかもしれないし、自分の吐息や心音を不気味がっているだけなのかも。もうその区別さえつかなくなってきている。
そういえば、自分と瓜二つの誰かを見るっていうドッペルゲンガーは、実際に証言を集めてみると似ても似つかない像や得体の知れない音だけだったりするんだっけ。
まるで飲まず食わずで三日間くらい徹夜を貫いたような、極限まで疲弊した頭で一応の納得をすると、冷たい床が妖しい女の声で囁いてきた。幻聴のくせに生意気な。
「チェック」
「……アンタは?」
「『亡霊』とでも呼べば良い」
なるほど。ぼうれいならしかたがない。だってからだがないんだからめにみえなくてもゆかにうまっていてもとうぜんだ。
「あなたはここまで。オペレーション・カードマジックには勝てなかった」
「それは対アークエネミー戦の切り札の?」
「そうよ」
「愛と勇気の聖なる光は僕には効かないはずだ」
「もっと即物的だったのよ」
くすくすとゆかがわらったようだった。
「ねえ。トランプを使った初歩的な手品を思い浮かべてみて。あなたは山札の中から好きなものを引いてください。決して私には見せないで。はい、あなたが引いたのはハートのエースですね? ……さあ、どんなトリックを使ったと思う?」
「ジョーカー含めて五三枚全てをスタジオセットの各所に隠していた。参加者がこれを引いたんですと申告した後に、後出しジャンケンで実はそうだと思っていましたと笑って同じカードを引っ張り出してくれば良い」
「それも可能性の一つ。その論だと山札全てをハートのエースにしてしまっても良いんじゃない?」
だんだんいいんちょうっぽくなってきた。
「表と裏が同じカードとか、ハートのエースが二枚あるとか、物理トリックを使うのは半人前だって言う連中も多いけど、結局一番確実なのよ。それにテレビスタジオの手品ショーと違って、実際の騙し合いじゃ検証の機会なんて与える必要ないもの」
「何でそんな話を?」
「滑稽だと思って」
いいんちょuはいいnちょうっpokないiびつなつめtaiえみをfkんで、
「ねえ。善意に任せて光十字を潰すのはあなたの自由だけど、その後何が待っているか考えなかったの? 確かに『コロシアム』の悪意は突出していた。でも、あれが光十字の目的じゃなかった。自由奔放なアークエネミー達に対し、こうなりたくなければ妥協して人間社会と折り合いをつけろと迫る……言ってみれば、死刑制度に支えられた秩序の構築が目的だったのに」
「……、」
「あなたは死刑制度は残酷だと言って、それに支えられた法律全てを破壊した。後には何が待っているかしら?」
「なら、得意げに語るアンタは何なんだ」
「競合他社。というより、意図して独自の文化を保つために光十字が吸収を避けた、ガラパゴスみたいなものかしらね。こちらとしてはナメられているようで不服だけど」
iinちょuはわraってiるnoniつkisaすよuにiu。
「言ってみれば、死刑制度でアークエネミーを管理しきれなかった時のスペアよ。第一候補にならなかった事からも分かる通り、若干突飛で実現性は劣る。そりゃあそうよね……あらゆる人類あらゆるアークエネミーを、罪を犯す前にそうならないように導く完全誘導社会なんて、死刑に怯える世界を作るよりもバカげているもの」
「でも」
「そう、死刑制度は敗北した。青い星を無法地帯にしないようにするには、論理に飛躍があっても新しいシステムに切り替えて惑星を覆うしかない」
「それが、かんぜんゆうどうしゃかい?」
「ま、人間だって似たようなものじゃない? 表に出てきた『コロシアム』の乱痴気騒ぎは私もモニタリングしていた。情報の出し入れ一つで、新しい受け皿を一つ作るだけで、あんなにも残酷な公開殺人をショービジネスとして受け入れてしまう恥さらしの誰か。またはその秘密が暴かれた途端に、今までの事を全部忘れて正義の味方ごっこで光十字を糾弾できる恥知らずの誰か。善悪好悪なんてそんなものよね。戦争の時代が狂気なんじゃない。言い方一つで戦争の時代を作れるのが狂気なのよ。私達はただ、それをアークエネミーまで拡張しようとしているだけ。まあ、流石に死刑制度ほど強い心理的拘束効果を生み出せるかは未知数だけど」
「……そんな世界は、平和じゃない」
「もう歴史は動いたのよ。あなたが完璧な法治世界を壊した時点で分岐した。残る可能性は二つ。完全誘導社会によって全てが管理されるか、それさえ失敗してあらゆる国家あらゆる都市が瓦礫に沈むか。あなたはどちらを望んだの、転換点さん?」
iinちlyoはameすuなchouはtすrよunaちょusでかtriかktくr
「なあ『亡霊』」
「なあに?」
「ひょっとしたら、もう世界に勝ったような気持ちでいるかもしれないけどさ」
「みたいじゃなくて、勝ったのよ。あなたが光十字を破壊してくれたおかげで、忘れ去られた日陰者の私が表舞台に出た事でね」
「なら」
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
「何でお前、話す必要もない事をべらべらご丁寧に説明してくれているんだ?」
「あ?」
「確かに僕は術中にはまった。姉さんやアユミもダメだったんだろう。だけどアンタが律儀に答え合わせする必要なんかどこにもなかったんだ。自分で言ったじゃないか、物理トリックは半人前だけど実際の騙し合いじゃ検証の機会を与えないから関係ないって。だからお前はただ電源を落とすように、無防備な僕達にトドメを刺せば良かったのに」
「……、」
「何故そうしなかったのか。いいやできなかったのか。答えは簡単だよな。アンタは一度だけ僕達へダイレクトに横槍を入れてきた。マクスウェルと偽って僕のスマホに常駐する事で引っ掻き回した。だけどあれは、生身の僕とアークエネミーの姉さん達で線引きしてターゲットを絞った訳じゃない」
「まさか、いや、そんなまさか……!?」
「アンタはマクスウェルを締め出したかった。この中で唯一機械の瞳と頭脳を持つ、生き物相手の戦法が一切効かない災害環境シミュレータを! だとすればもう分かるよな。その答えはアンタが自分で言ったんじゃない、マクスウェルのサイバー攻撃で頭の中をこねくり回されたんだっ!!」
「……、なーんて」
「?」
「マクスウェルは確かに脅威度判定が高い、要注意敵性よ。だけど最初から想定された敵性であれば、対処不能なはずがないでしょう?」
そうか。
最初の最初に僕がシミュレータの中に封じられてにんにく大冒険やっていた頃には、すでに全ての駒が出揃ってチェックメイト確定だったと、そう言いたいんだな。
でも。
「もしも、演算機器がマクスウェルだけじゃなかったとしたら?」
「なん、ですって?」
「やっぱり自分で言ったよな。表の『コロシアム』の乱痴気騒ぎはモニタリングしていたって。ならその時状況を管理していた光十字のコンピュータは何だった」
まあ、分からないか。
運命の第四戦、ヴァルキリ―・カレン。アレについては光十字壊滅の際も表に出ていない。僕と狂気のバニーガールだけの静かな幕引きだったんだから。
でも、これでおしまいだ。
お前が把握できなかった演算機器が盤上に存在している。すでにそれだけで致命的なんだ。
「つまりラプラス。言っても分からないか、お前はあいつと違ってバカそうだし」
ばづんっ! と頭の中で何かが切れるような感覚がした。一体何に囚われていたのかは未だに分からないけど、とにかく疲労がもたらす幻覚を振り切った僕は下り階段を降りた先にある冷たく埃っぽい床から顔を上げた。
もう、あの不自然なエンジン音や排ガスの匂いなんかはどこにもない。結局本物のバイクを転がしていたのか、スピーカーや電気式蚊取り線香なんかのデコイだったのかは分からずじまいだったな。
「くっ……」
痛ててて。にしても、あちこち体が悲鳴を上げている。一緒に転げ落ちた委員長は無事だろうか。
『お帰りなさいませ、ユーザー様』
「ああ、ただいまメイドちゃん。ラプラスの方は?」
『当システムのスレーヴ役として演算スペックを強化してもらっています。何でも、あくまでユーザー様へのインターフェイス対応はマスター役のマクスウェルが行うべきだと、ラプラスが断固として言い張っておりまして』
「何だかもう一人はえらく奥ゆかしいメイドちゃんだな。助かったから何でも良いけど」
ハッ、と息を呑む音があった。だけど機械の『亡霊』はそんな事しない。同じように急激な虚脱感に襲われて逃げ場のない地下に転がされ、何だか百合っぽく折り重なっていた姉さんとアユミだ。エンジン音や排ガスの匂いで引き起こされた作為的な戦闘疲労攻撃から解放された彼女達はわなわな小刻みに震えながら、
「……お、お兄ちゃんがついに無機物のマクスウェルやラプラスそのものを擬人化してお楽しみなさっている」
「これはまた極まりましたね、サトリくん……」
やっぱりここは現実で良いみたいだ。この物悲しい隙間風みたいなのはいくら精巧なバーチャルでも再現しきれない事だろう。
そして今は泣いている場合じゃない。
「マクスウェル、『亡霊』のシステムはどこまで掌握している!?」
『シュア。バックアップ領域を除く七三%を占有。今なら丸ごと吹き飛ばせます。許可を』
「待てマクスウェル、『亡霊』自体も与えられていたタスクをこなしていただけだ。あの戦闘疲労もそうだろうけど、完全誘導社会とやらを支えるシステムファイルを物理破壊。後は殺人モトクロスのコントロールも頼む。手足にあたる直接干渉手段を奪って空回りさせれば良い!」
『……お人好しめ』
「なんとでも言え。頼むよ」
が、そこでスマホから激しいノイズ音が響いた。溢れてくるのは、さっきまでの委員長みたいな声とも似ている。
「じじじざざが! ……ざざ、待って!! あなたはそれで良いの? 死刑制度に続いて完全誘導社会まで否定したら、今度の今度こそアークエネミーを押し留める心理的強制力はなくなるわ。良い人間と悪い人間がいるのと同じように、必ず良いアークエネミーと悪いアークエネミーは出る。法で縛られない人間が取り憑かれたように凶行に走るように、管理されないアークエネミーは本来必要のない欲望を表に引きずり出されてその手を血で染める!」
「……、」
「あなたはアークエネミーを助けてなんかいない。短期的に目の前を見れば救われる命があったとしても、長期的に手の届かない所で大量の犠牲が出るのを止められない! むしろ誘発している!! あなたは本当の本当にそれで良い訳!?」
確かに、一理はあるかもしれない。
人間とアークエネミーは同じものだ、だから意地悪なんかしてはいけない。……この論で光十字や『亡霊』から吸血鬼やゾンビを守ろうっていうなら、やっぱり人間と同じデメリットも受け入れなければならない。
哀しい事に、事件や事故は起きる。
人間は厳しく処罰されるのにアークエネミーだけは一〇〇%常にお咎めなしなんて事になったら、それはそれで歯止めが利かなくなる。そのための刑罰が『コロシアム』で、そのための抑止政策が完全誘導社会だった。
闇雲に反対を唱えるだけじゃダメなんだ。
破壊の後に何を据え置くかのビジョンがなければ誰も納得なんかしないんだ。
言ってみれば、列車の脱線とレール切り替えの違い。いくら毎日電車に揺られるのに飽き飽きしてどこか違う所に行きたいと願っても、まさか考えなしの大事故に巻き込まれたいとは思わないだろう。
「……だったら、作るよ」
「?」
「こうして僕も姉さんもアユミも一緒に暮らしているんだ。何も問題なんかないんだ! だったら必ずあるはずだ、答えは僕のすぐ隣に寄り添っていて、あとは名前と形を与えれば良いだけなんだ!! 死刑制度に脅えるような社会じゃない、自分で選んだふりして下着の色まで外から決めつけられる社会じゃない! もっと優しくて、もっと正しくて、もっと当たり前な!! 人と不死者が仲良くやっていける方法は必ずあるはずなんだ!!」
「な、あっ!?」
「やれマクスウェル。僕は闇雲に光十字を壊滅させた事を後悔してるけど、それでも前へ進むって決めたんだ。同じように完全誘導社会が吹っ飛んだって立ち止まるもんか! だからやれ!! 誰かが高みからふんぞり返ってみんなを睥睨するようなやり方なんて地球の上から奇麗に消し飛ばせェえええ!!」
僕からのコマンドに、マクスウェルは端的に応じた。
そう、当たり前の事として。
『シュア。了解しました、ユーザー様』
6
廃病院の『亡霊』から、戦うための牙と爪を折った。
「マクスウェル、後でハードウェアの位置を確認。こんな埃っぽいトコに頼りない自家電源頼りで置いておくのは可哀想だ。いつショートして電気火災に繋がるも分かんないし、後で拾って持ち帰ろう」
『……光十字のラプラスといい廃病院の「亡霊」といい、ユーザー様が順調に管理プログラムハーレムを築いているようです。ただ自己のアイデンティティーに背いてでも提言しますが、それで虚しくないのかアンタ』
「それ以前に僕はお前が女の子側に立っている方に驚きだ。古い戦車のオス型メス型じゃあるまいし、まさかプログラムもスプリクトのクセとかで男性的処理とか女性的演算とか分化していくっていうんじゃないだろうな……?」
『ちなみに当システムは少年漫画よりも少女漫画派です。土八のバラエティより月九のドラマ派でもあります』
「……やっぱり思考が女性的なのかなあ?」
ぶつくさ言いながら、僕は姉さんやアユミと合流し、そして地下室の中央に置かれたモノに揃って目をやる。
ニスで丹念に磨かれた黒檀に精緻な金細工を施した、重々しい西洋棺桶。
全ての元凶。委員長を作り変えた呪いの源泉にして、偶然成功したダンピールを量産化に繋げるため、『亡霊』が委員長と共に死守したかった廃病院最大のお宝。
同じ吸血鬼のカテゴリだけど、姉さんはお構いなしだった。床に落ちていた鉄パイプを何本か拾うと、最初はアユミに、続いて僕の方に軽く投げてきた。両手が塞がっていてはしょうがないので、いったんスマホを口に咥えてから空いた手で太い鉄パイプを掴んだ。
棺桶をみんなで取り囲むと、何だか野球の優勝とかでやる鏡割りみたいな感じになる。
「せーの、でやりましょう」
「姉さんはそれで良い訳? というか、この棺桶。付喪神みたいに自分の意思を持っているなんて言い出さないよね。呪いの源泉みたいな事を言っていたけど」
「そこまで高度な知性があれば、かえって誰も彼も闇雲に呪ったりなどしないのでは?」
それもそうか。
僕は一応の納得をしつつ、
「そういえば」
「なにお兄ちゃん、まだイインチョ助けないの? てかまさか、ぐったりした女の子担いで運ぶのに目覚めたとかじゃないよね」
「そうじゃなくて」
常に無防備な委員長もそれはそれでだけど、やっぱり僕だって元気に笑っている健康的な委員長の方が良い。
「地下の扉は鍵が掛かっていて調べ物にならない、みたいに言っていたのは結局何だったの? 僕が来た時は普通にどこも開いていたんだけど」
「あら……?」
「……えと、あたし達そんな事言ったっけ???」
覚えて、いない?
『ユーザー様、ひとまずさっさと棺桶で鏡割りやっちゃえよと進言しつつ。……エリカ嬢とアユミ嬢は急激な疲労の制御によって「亡霊」の支配下に置かれていた時期があるはずですが、どこからどこまでの期間なのかは未知の部分もあります。ひょっとしたらかなり早い段階から影響を受けていて、「亡霊」にとって都合の良い情報を鵜呑みにしていただけかもしれませんよ』
「姉さんも、アユミも、何も知らなかった?」
しこりが取れたようで安心する一方で、かえって腑に落ちないというか、新しい疑問ができてしまった。
「……なら、誰が地下の扉を開けて回ったんだ?」
静養病院の『亡霊』じゃない。
管理プログラムにはアナログ錠を開けられないし、殺人モトクロスを駆使しても鍵穴に鍵を挿して回すのはちょっと難しいだろう。
当然、僕や委員長じゃない。
姉さんや妹でもない。
マクスウェルや『亡霊』にもできない。
だとすると……。
「……やっぱり、この廃病院にはまだ見ぬ『他の誰か』がいるっていうのか?」
棺桶
マクスウェル:『ポーランドの吸血王女』方式の吸血鬼の核となるべき物品です。もの自体は東欧圏では普通に見られる、黒檀に防水防腐用のニスを何重にも塗った代物。なお、同説話では『贅沢三昧の王女が民衆から呪いを受けて吸血鬼となった』ともあるため、この棺桶自体が何故呪いの核として振る舞うようになったのかについては不明のままです。未だに詳細は明かされませんが、同方式に合致すればどのような棺桶であっても似たような効果を発揮できるものと推測されます。
棺桶自体に直接戦闘力はないため、ユーザー様でも道具を使えば十分に破壊可能です。