第五章



1


「むにゃ」

 そんな可愛らしいデコメガネ委員長の寝起き顔であった。

「あっ、あれ、なんかスカートの中がぐちゃぐちゃしてる……。って、何これえっ!? 全身血まみれだし薔薇の匂いがすごいし何だか良く分からない廃墟でサトリ君に山賊スタイルで抱えられているしい!!」

「ははは委員長まだまだ記憶が混乱しているのかいでも大丈夫もう怖い事は終わったよ」

「お兄ちゃんさあ、清々しい顔で笑ってこっそりイインチョの太股に頬擦りしてないで、良い加減に下ろしてあげたら? 正面から見るとスカートの中すんごい事になってるけど」

「うそっ、アユミちゃん見えてるっ?」

「パラボラアンテナみたい」

「うそォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」

 本格的にバタバタ暴れ始めたので、そろそろ潮時かな。僕は肩に担いでいた委員長を素直に床に下ろしてあげる事に。ふっ、嫌がる事を無理強いする男ではないのさ僕は。委員長の水着ダンスファイルセットとか、隠れてこっそりはするけどな!

 ちなみに呪いの棺桶とやらは、複数の鉄パイプの先端、ゴルフクラブで言うところのヘッドが蓋の部分に突き刺さって、完全にご臨終していた。見事な鏡割りスタイルで大変おめでたかった。委員長は噛まれて吸血鬼になったんじゃなくて呪いを浴びて吸血鬼になった経緯があるので、源泉のアイテムを砕く事で元の人間に戻せる訳だ。

 ……こんなの特例中の特例だ。ベースが『ポーランドの吸血王女』だったのは完全に幸運だった。かえってその辺にいる普通の吸血鬼に噛まれていたら、万に一つも元に戻れる可能性はなかったはずだ。

 僕は吸血鬼の姉さんともゾンビの妹とも仲良くやっている、つもりだ。だけど彼女達に自分や大切な人を差し出せるかっていうのは、また話が違う。それは多分『共存』じゃない。

 呪いの棺桶を破壊し、委員長がダンピールから人間に無事戻ったのを確認すれば、こんな所に用はない。X線増感紙に異状はないけど、やっぱり何の安全の保証もない機材で埋まった放射線医療科にいつまでも留まりたいとは思えない。こうしている間にも、錆びのひどい所や割れたプラスチックの亀裂から何が漏出するか分かったものじゃないのだ。

 そんなこんなでひとまず地下を抜けてみんなで一階を目指す。ぞろぞろ歩けば真夜中の廃病院も怖くないから不思議だ。

 姉さんが口を開いたのは、一階の広いロビーに辿り着いてからだった。予約、会計、薬の受け渡しまで対応しているためか、長椅子を全部取っ払えばバスケットボールくらいできそうだった。

「で、サトリくん」

「うん」

「……これからどうします?」

 姉さんが言っているのは、この安寧会静養病院跡地に潜んでいるであろうまだ見ぬ誰かへの対処だろう。老若男女、ついでに言えば人間かアークエネミーかも分からないけど、こうまで徹底的に姿を隠しながら僕達のやる事にはしっかりと干渉してくるとなると、相当きな臭い感じはする。肝試しに来た勇気ある少年がたまたま困り果てた僕達と遭遇して親切心を働かせてくれた、とかじゃないと思う。それにしては行動に隙がなく、尻尾の先さえ掴ませない周到さを感じさせるからだ。

 例えば、たまたま火事の現場に出くわしてとっさに取り残された子供を助けに飛び込んだ人は、両手に手袋をはめて口にタオルを巻き、帽子の中に髪を詰めてマスクで唾液が飛散しないよう気をつけて、一切痕跡を残さずに行動しようなんて考えないのと同じ。

 そして正体を隠しながら付きまとってくる輩を無条件で信頼できるほど、今日の僕達は平和な道のりを歩んでいないのも事実だった。

 地下の鍵をわざわざ開けて回ったのは一体誰なんだ。

 非常に気になるところではあるけれど……、

「でも、もっかい委員長が捕まってやり直しなんていうのはやだよ。撃破じゃなくて回りくどくても人に戻したところはヤツにも多分見られてる。僕達に用があるなら委員長を手元に置いて人質にしたいって考えるようになるかもしれない」

 廃病院の管理プログラム『亡霊』なんかはその辺の機微が分からなくて見送っていたところもあったけど、今度はおそらく人間かアークエネミー。吸血鬼の姉にゾンビの妹とかち合う前に、比較的御し易い素人の僕や委員長を確保するっていうのは割と簡単に思いつくはずだ。

「ねえお兄ちゃん、けどそれってさあ」

「ええ。『ポーランドの吸血王女』みたいに行動範囲が決まっていればその外に……自宅に帰してしまう事で委員長ちゃんの安全は担保できますけど、そうでなかったら、あまり意味がないのでは? 普通に一軒家に押し入ってさらいに来るような、と思うんですけど」

「ああもう! 吸血鬼は家主の許可がないと中に入れない、みたいな伝統的ルールはなかったっけ!?」

「それはまあ一応。ただし相手が何のアークエネミーなのかもはっきりしていないため、人狼とかスケルトンとかだったら普通にアウトなんですけどね」

「てか、そもそもアークエネミーだっていう確証すらないじゃん。普通の人間で普通の殺人犯かもよ」

 くそっ、それじゃ結局どこにも安心材料がないじゃないか! 向こうはこっちの顔を知っていて、こっちは向こうの顔を知らない。つまり今取り逃がせば見えない位置から一方的に叩かれ続ける羽目になりかねない。自宅は大丈夫か、学校は巻き込まれないか、出かけている父さん母さんや姉妹の安否は。そんなのをいつまでもいつまでもぐるぐるぐるぐる悩み続けなくちゃならないだって? 冗談じゃない!!

「……予定変更だ。今夜全部のケリをつけよう。後腐れなんか残したら面倒な事にしか繋がらないぞ」

 しかしこの広い安寧会静養病院跡地でたった一人を捜し回るかくれんぼをやるなら、それはそれで大変だ。何しろ向こうは無理して廃病院に止まらなくちゃいけない理由はない。身の危険を感じたら撤退の選択肢も頭に浮かぶはずだ。こっちにはプログラムのマクスウェルや縁の下のラプラスもいるとはいえ、基本は片手の指で数えられる程度の人手しか割けない。病院側の殺人モトクロスのコントロールも破壊しちゃったから今さらカメラを借りる訳にもいかないし。全ての出入り口を見張る事さえ難しいし、変にバラバラで行動すると個別に返り討ちに遭うかもしれない。特に頭でっかちの僕と人間に戻った委員長は要注意だ。

 分散するならエリカ姉さんと妹のアユミをまず割って、僕と委員長をそれぞれにあてがうのが基本。これ以外のやり方だとアークエネミーなしの素人人間グループができてしまうため、多分ストレートにやられるか人質にされる。

 それか全員でぞろぞろ探索するかだ。一番安全である一方で大人数になれば自然と物音が出る頻度は高まるし、捜索に時間がかかる。正面から調べている間に裏口から逃げられていました、なんてマヌケな状況を最も作りやすい。

 どうする。

 ここはどっちを選ぶべきだ……?

『ユーザー様』

 と、マクスウェルがSNSのふきだしで横槍を入れてきた。

『動画共有サイトで気になる動きをキャッチしました。今置かれている状況と無関係とは思えません』

「動画、共有……?」

 真っ先に思い浮かぶのは、まだ見ぬ誰かがデジタル式のビデオカメラやスマホのレンズなんかを使って僕達の様子を撮影していた可能性。でも何のために? ヤツが人間だとしたら、姉さんやアユミの馬鹿げた徒手空拳を世界に公開して、無駄な脅威論をぶつくらいか。……それは半年前なら大衆扇動できたかもしれないけど、今はもうダメだ。何しろつい先日、アークエネミー同士の戦いを大々的にショービジネス化した『コロシアム』が全国放送されて、一部はネット経由で海外まで席巻したんだから。確かにアークエネミーの戦いは派手だけど、もうみんな刺激に慣れている。それに光十字が壊滅した事からも分かる通り、今の時流はどちらかと言うとアークエネミーを被害者の枠に収めたがるカラーが強い。変に差別的で悪印象を煽る動画をアップしても、投稿者が袋叩きにされるだけだ。

 考えをまとめてマクスウェルに話したけど、返事は意外なものだった。

『ノー。そういう意図ではないようです』

「何だって?」

 眉をひそめる。他には……まさか、マクスウェル自体が脅威の的にされているとか? とにかくスマホを操って、問題の動画を確認してみる事にした。

 マクスウェルの案内で辿り着いたのは、下手したら地球人口より多んじゃないかっていうほど溢れ返った有象無象の動画の内、赤丸急上昇の人気アイコンがつけられたもの。

 タイトルは『拍手を贈りたい』。

 みんなで顔を寄せて一つのスマホを凝視する。やっぱり場所はこの安寧会静養病院跡地だ。暗視機能を使っているためか画面は粗くブレもひどいが、動画の中で語っている内容はしっかりと耳に届く。

 というか、フォーカスされているのは吸血鬼の姉さんやゾンビの妹じゃなかった。そしてダンピール化した委員長でもなければ災害環境シミュレータのマクスウェルでもない。

『……だったら、作るよ』

 僕だ。

 どこの誰だか知らないけど、こいつは何故だかただの人間のはずの僕に注目している。

『こうして僕も姉さんもアユミも一緒に暮らしているんだ。何も問題なんかないんだ! だったら必ずあるはずだ、答えは僕のすぐ隣に寄り添っていて、あとは名前と形を与えれば良いだけなんだ!! 死刑制度に脅えるような社会じゃない、自分で選んだふりして下着の色まで外から決めつけられる社会じゃない! もっと優しくて、もっと正しくて、もっと当たり前な!! 人と不死者が仲良くやっていける方法は必ずあるはずなんだ!!』

 でも、何で。

 こんな青臭い言葉の応酬に何の価値がある? アークエネミーの生態や特徴を紹介した方がはるかに有意義ってものじゃないのか?

『やれマクスウェル。僕は光十字を壊滅させた事をこれっぽっちも後悔してない。同じように完全誘導社会が吹っ飛んだって後悔なんかするもんか! だからやれ!! 誰かが高みからふんぞり返ってみんなを睥睨するようなやり方なんて地球の上から奇麗に消し飛ばせェえええ!!』

 細部をいくら調べても訳が分からない。

 だけど答えは意外なところにあった。目を皿のようにして動画を隅々まで見て回るために、初見ではコメント機能を切っていた。それを動画に重ねて再生した途端、言葉の洪水が襲いかかってきたんだ。


『よく言ったあ!!』

『オレ今まで背中丸めて雪男だっての隠してきたけどもうやめるわ。こんな時代なら生きていける』

『あぶねーにゃあ。あとちょっとでニンゲン見限るところだったよ』

『何にしてもぼくたちの事はこいつに任せとけばだいじょぶじゃね?』

『てか先日「コロシアム」を潰して囚われのアークエネミー助け出した人』

『きゃー抱いてー!』

『絶対こいつ巨大イカのクラーケンだわ』

『冗談抜きで国際的な窓口とかやってほしい。人間との揉め事にいちいち首突っ込んでくれないかな。ナントカ大使とかテキトーな枠ない訳?』

『ニホンのハイスクールやはりアタマおかしいネ魔法使いとかサイキッカーとかベリーベリー多すぎヨ愛してるう!!』

『何で日本語漢字変換使ってカタコトなんだよこいつ』

『実は恥ずかしがり屋の小柄おかっぱ着物少女だからに決まってんだろ心の目を開け覚醒なさいジュライの武士よ』

『単に人間かアークエネミーかでどっちかに肩入れするんじゃないのが良いですよね』

『人間でも不死者でも、良いヤツは褒めるし悪いヤツは叩く。ったく、何でこれだけの事ができないのかね、博識なその他大勢サマは』

『ハーフ化した女の子を諦めきれずに棺桶探し頑張る少年に泣いた! (ぶわり)』

『マセガキはマセガキだけどな』

『英雄は色を好むんでしょ』

『勝った者が正しさを作る典型みたいな格言だぜそれ』

『変に自己犠牲出して私も噛んで仲間にしてくださいとか言われても重たいし、しょーじきこれくらいの距離で良いよね』

『なんか大佐と呼びたい』

『ベレー帽も眼帯も葉巻もないのにか!?』

『大佐!』

『たいさあ!!』

『てかもう拡散し始めてるし!?』


「……なんだ、これ?」

 思わず、お祭り騒ぎを外から眺めるような気分で呟いていた。この中心にいるのは本当に僕なのか。発信者不明のコメントに埋め尽くされただけで、地球の反対側にいる誰かくらい遠くに感じる。いいや火星人が人間そっくりな皮を被って動き回っているくらいグロテスクで受け入れがたい。あんなのが天津サトリなのか? 一体『僕』はどこへ行った!?

「……サトリ、君を……英雄に仕立てるための動画……?」

 委員長が混乱をそのまま口に出した。

 補足を入れたのは意外にもアユミだ。

「ううん。これ、下手したら動画だけじゃない。廃病院の事件全体が、お兄ちゃんをデコレートするために利用されていたんだ」

「サトリくんを中心に世界中のアークエネミーを束ねるため……? いえ、そんなに単純とも限りません。カリスマを作った上で大々的に殺害してしまえば、大勢が寄りかかっていた分だけ衝撃も大きくなる。その混乱が世界同時多発的なアークエネミーの暴走に繋がる、なんて線にも繋がっていくかもしれません……」

 何にしてもまずい。

 動画をアップしたヤツが世界に僕をどう見せたいのかは謎だけど、拡散させた情報を世間で熟成、定着させるには一定の時間が必要だ。鉄は熱い内に打つべきだけど、冷やして完成させるものだから。つまり静養病院に潜む誰かさんの今回の仕事はこれで終わり。いよいよここに残る理由がなくなった。ノーヒントのままじゃ取り逃がす。

「マクスウェル! 動画の配信者は? どうせお決まりの『複数のサーバーを経由して』だろうけど、それでも無茶振りする。全部紐解けそうか?」

『シュア。ユーザー様ご自身で組み上げた当システムの論理演算能力を舐めないでいただきたい』

 あくまで理論上なら、絶対に追跡不可能な経路なんて存在しない。それじゃAからBにデータを送れないからだ。ドラマや映画で良く耳にする『海外のサーバーを踏み台にしているのでうんぬん』は技術的に追えないという意味ではなく、いろんな国の司法機関とすり合わせをしなくちゃならないからとにかく面倒です、という意味の方が近い。どこもかしこも捜査協力の国際条約を書面でサインしている訳じゃないし、それが大使館とか軍事衛星とか、政治的にアンタッチャブルな経路を踏み台にしていればなおさらだ。一国の警察が地道に追跡しようとしてもよそから待ったがかかって迷宮入りになる。

 つまり。

 ハナから相手の許可など取らないマクスウェルにとって、あまり意味のある壁じゃない。

『……光ファイバーを使って地球をたっぷり四周した上、途中で遠隔操作系ウィルスに感染していた民間のゾンビPCを五台も踏み台にしていましたが、おそらくここが始点です。これより奥は存在しないと思われます』

 こういう時、情に流されないマクスウェルは完璧に仕事をこなしてくれる。

 かえって結果を受け取った僕の方が混乱するほどだった。

「何だよこれ、マクスウェル、これも中継の踏み台じゃなくて?」

『ノー。そこが始点です』

「……うそ、だろ」

 誰も動けなかった。

 暴かれた名は、僕のスマホの中心に添えられていた。動画投稿に使われたスマホの契約者情報が表示されている。


 天津ユリナ。

 ……再婚してうちにやってきた、僕の、義母、さん……?


2


 姉さんとアユミを連れてきた義母さんは、正直に言うと最初は苦手だった。母と呼ぶには歳が若いけど、姉と呼ぶには離れている。美人で優しいけれど、だからこそ距離感を掴みにくい。いつでも義母さんの周りをうろうろもじもじして話しかけられるのを待っていた僕は、正直に言って再婚したての側からすればかなり面倒臭い子供だったと思う。向こうは嫌な顔一つしないで遊んでくれたけど。

 苦手という印象の根っこには、まだ母という言葉にもう一人の女性を思い浮かべる方が多かったから、というのもあるだろう。

 苦手意識がなくなったのは非常に現金な理由で、授業参観だった。年齢不詳で下手すると大学生でも通ってしまいそうな美人で優しい母親の存在はクラスの中でも話題になり、何故だか僕のステータスとしてひっついてきたのだ。他のクラスメイトなんかは、恥ずかしい、何でこのタイミングで香水? 真珠のネックレスはないわー、などと頭を抱える中で、素直に自慢できるスラリと背筋を伸ばしたその女性は、何だか眩しいものに見えていた。

 この人を母と呼べば胸を張れる。

 ほんと、子供の欲望とは恐ろしいもんだ。

 ……ぶっちゃけ、これはエリカ姉さんや妹のアユミについてもそうだけど、もしも僕の傍にデコメガネ委員長がいなかったら、あわや大惨事、相当ヤバいトコをこじらせていたんじゃなかろうかと当時を振り返って思う。そういう意味でもフツーの人な幼馴染みには感謝しかない。委員長が好きで良かった。くそっ恥ずかしいなあもう!!

「でも、その義母さんがどうして……?」

 意味が分からなかった。

 だからもう答えは出ているのに、否定材料を探す方から始めてしまった。

「そっ、そうだ。マクスウェル、発信源はあくまで義母さんのスマホなんだろ? だったらどこかで盗まれたのかもしれない。悪意のある誰かが僕達を混乱させるために……」

『ノー。天津ユリナ嬢はパスロックを覚えるのを面倒臭がって基本的に全て生体認証にしています。指紋、静脈、虹彩、耳孔……。いずれも複製は困難です』

「そういうアークエネミーがいるかもしれないだろ! 見た目のボディを自由自在に作り替えるとかさ!!」

 同じ家族でも、姉さんや妹が敵に回ったように見えた時とは足元の崩れる感じが違った。大人が、揺らぐ。この衝撃は僕達子供にとっては半端な事じゃない。思春期だの反抗期だので大人は汚い先生は頼りないって好き放題言っているけど、いざ『そのもの』を目撃するのは全然違う。なんていうか、これは、そう、あの感覚だ。絶対安全で何も心配いらないと思っていた家の中で、気がつけば父さんと母さんが致命的に冷え切っていて崩壊寸前だと今さら遅れて知らされた時のような、幸せに思えた記憶を全部否定されるような感覚……。

 じわりと床を這うようにして忍び寄る崩壊の気配だけで足がすくむ。目眩がして呼吸がおかしくなり、額からいやに冷たい汗が噴き出して止まらない。

 こんなのもう姉弟ゲンカとかそういう次元じゃ済まないような気がする。僕の人生を支えている当たり前の安心が脅かされている。また崩れるのか。全部なくなるのか。もう嫌だ! 同じ屋根の下で暮らす家族が赤の他人に切り分けられていくところなんか何度も何度も見たくない……っ!!

『……、』

 対して。

 埒が明かないと考えたのか、マクスウェルは僕への応対よりも別の行動に出た。スマホのアドレス帳から見知った番号を呼び出し、通話を掛けたのだ。

 そう。

 繰り返すけど、通話を。


 ごくごくありふれた、吹けば飛ぶように軽い流行歌のメロディが単調に流れていた。


 闇の奥から、廃病院全体から、じんわりと滲み出るように。だけどそれだけで、僕は家って単語がガラガラに崩れてゲシュタルト崩壊でも起こしたような気分にさせられた。頭の芯っていうより、ダイレクトに心臓。家から出た途端、出会い頭にダンプカーが真正面に迫るような理不尽極まる衝撃がキリキリと胸を痛めつける。

 そこに。

 その奥に。

「ユリナ、さん……?」

 なんて呼んだら良いのか迷って、何故だかまだ再婚して日も浅い、他人行儀な頃まで逆戻りしていた。頭は否定しても、もう心臓が認めている。この恐怖を。そして一から距離を測り直せと無意識の内に迫っていたんだ、きっと。

 対して、粘度の高い闇がくすりと笑った気がした。

 そして僕の知らない妖艶な誰かが一歩、闇の奥から姿を現してきた。

 平均的な女性よりやや高い身長。姉さんを超える、持て余すような色白の肢体。ゆるふわの長い赤毛はヘアゴムを使って頭の後ろで縛っていた。格好は黒の下着がうっすら透けてしまうほど薄いブラウスとお尻の形が浮き出るくらいぴったりしたジーンズ。これだけだけだとラフな印象があるし、女子大生と言われてしまえばそのまま信じてしまいそうだけど、上からエプロンを一つ重ねると途端に家庭的な印象がぐっと増す、不思議な人だった。

 でも。

 そんな当たり前が、異質を極めた安寧会静養病院跡地にいるのが一番おかしかった。集合写真を撮ったら何故だか足の数が増えている、よりなお不気味な存在感で景色の中から浮かび上がっていた。

 あの頃と同じ、柔らかいけれど少し困ったような、とてもとても優しい顔。

 そして放たれる、人を安心させる声。


「あら。そこは親しみを込めて、お母さんって甘えてくれて良いのよ?」


3


 待ちに待った強敵との対峙、なんて好戦的に笑っていられる状況じゃなかった。何でここに、何をしている、動画の配信は、その意図は、そもそも人間とアークエネミーの関係にどんな風に関わっている。聞きたい事はたくさんあったけど、舌を動かす事さえままならない。

 くらりと視界が揺れたかと思ったら、僕はそのまま派手な音を立てて床に倒れ込んでいた。傍から見れば、年若い義理の母に正面から優しく話しかけられただけで、大の男がショックを受けて棒切れみたいに転がった訳だ。それも憧れの女の子の、目の前で。さぞかし滑稽で情けなかったに違いない。クラスのお調子者に知れたらどんな悪意満点のあだ名をつけられても文句は言えない。

 だけど、ここが限界だった。

 本当に、もう、心の芯を抉られ過ぎた。

 そしてやっぱり『同じ』家族だからだろう。横倒しの僕より先に、胸の痛みを理解してくれたエリカ姉さんと妹のアユミの方が爆発した。

「「な・に・を!! してやがるんだこんのクソババアがァあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!???」」

 右と左から爆音が炸裂し、広いロビーに残っていた長椅子がまとめて吹っ飛んだ。ゾンビと吸血鬼、使い方次第では都市はおろか国家や大陸さえ危ぶむほどの代表的アークエネミー達。そんな彼女達が怒りに任せて突撃していく。

 でも。

 なのに……!?

「あら」

 近所のスーパーに出かけようとしたら、ちょうどパラパラと小雨が降り始めたのを見たような、そんな柔らかい声だった。

 それだけで。

「な、あっ!?」

 ぐるんっ!! とエリカ姉さんの体が空中で縦に回った。ゴスロリドレスや豪快な金髪縦ロールが遅れて円形に舞う。そして赤毛の義母さんは……天津ユリナはいちいち娘の落下を見届けない。その真下を潜り抜けると、出鼻を挫かれて目を白黒させるアユミの襟首を掴んだ。

「うっ!!」

 そのまま軸足を中心に勢い良く体を回し、ハンマー投げのように小柄とはいえアユミの全身を宙へ、真後ろに投げ放つ。

 空中で姉と妹が激突し、ろくに受け身も取れないまま、まとめて汚い床へと落ちた。恐ろしく派手な音が炸裂する。地に堕ちてもがく姉妹が起き上がる前にいくらでも追撃できただろうに、天津ユリナはわざわざそのチャンスを棒に振る。トドメなど、いつでも刺せると言わんばかりに。

 チャンスを捨てたユリナが取った行動はシンプルだった。

 振り返ったんだ。

 黒い下着がうっすら透けるほど薄いブラウスにぴっちりジーンズの怪物が、いつまでも無様に倒れている僕の方に。

「……アンタ、一体何者なんだ……!?」

「我は天津タイゾウの嫁にして、天津サトリの母なる者なり。その名はゴゴイチのママ会に勤しむパートのレジ打ち主婦、天津ユリナ! ずばしぃーん!!」

 そんな訳があるか。

 そんな雑に扱って良い訳あるかっ!?

 ゾンビも吸血鬼も本領は感染力勝負だろうけど、個体一つだって人間の膂力の一〇倍二〇倍はあるはずなんだ。どう考えたって生身の人間が素手の勝負で敵うはずがないのに……!!

 いっそ目の前にいるのは火星辺りからやってきたリトルグレイで義母さんそっくりの皮でも被っているって説明された方がまだしも納得できそうだ!!

 いや。

 待てよ。

 母親と呼ぶには異様に若い見た目。ゾンビや吸血鬼を同時に相手取っても不足のない桁外れの身体能力。そして何より、元からアークエネミーの『娘達』を連れてうちにやってきた経緯そのもの。

 まさか。

 うそだろ、そんなまさか……!?

「あ、んた」

「んふ。お母さんに向けてアンタだなんて反抗期かしら? 良いわよ何でも大歓迎。むしろサトリの中学時代はちょっとお利口さん過ぎてお母さん心配していたんだから。さあ、コブシとキックで思う存分コミュしましょう。お母さんの艶かすぃーいやられボイスを引き出せるかなー?」

「アンタ、アークエネミーだったのか! 義母さん!?」

「アークエネミー。今でこそ伝染性の高い不死者を指す言葉として広まっているけど、元々は大いなる敵、そこから転じて魔王全般の冠になったのは知っているかしら?」

 ニィ、と。

 それまでなかった、獰猛で蠱惑で媚態で危険に笑顔の質を変えた天津ユリナが宣言する。


「アークエネミー・リリス。あらゆる色魔の始祖でよろしければ、その質問にはイエスと答えてあげましょう」


4


 何が

 、記憶が 破れ

 頭 ……追い着かな

「かはあっ!?」

「あぐう!!」

 何度目になるか分からない、姉さんとアユミの苦悶の声でようやく現実にピントが合う。一体あれから何が起きたんだったか。記憶が混乱しているのかあまりに非現実的な挙動が繰り返されたせいか、どれだけ頭の中で情報を反復させても全然整理した気にならない。

 とにかく全然歯が立たなかった。

 エリカ姉さんとアユミは何度も何度も天津ユリナに立ち向かった。そのたびに、まさに赤子の手をひねるように、の連続が待っていた。僕だって歯を食いしばって起き上がり、意味不明な雄叫びを上げながら突っ込んでいった。ゆるふわの長い赤毛をヘアゴムで束ねた義母さんはこんな時まで僕を殴らなかった。ただほっそりとした手が伸びて頬を優しく撫でられたかと思ったら、何かが起きて、そして竜巻にでも巻き込まれたかの如く体が猛烈にスピンしていた。背中から落ちたのは言うに及ばず。一発で呼吸困難だ。

 リリス。

 アダムの最初の妻にして、子殺しと淫蕩の魔王。多くの悪魔を産み落とし世に混沌をもたらすトップランカー。単体としての強さはもちろん、アザゼル同様悪魔の数を増やして地上を埋め尽くさんとした存在。ちなみにアザゼルの時は最終的にノアの方舟と大洪水によって世界を一掃する必要があった。リリスにもそのレベルの地上汚染ができると考えて良いはずだ。

 もちろん。

 そんなランクの大物が物質的な肉体を持ってこんなちっぽけな島国に佇んでいるだなんて、規格外の馬鹿げた話は信じたくもないけど……!

「……、」

 そんな中で一番冷静だったのは委員長だったかもしれない。あるいは義母さんよりも。家族の外、いいや離婚のゴタゴタをお隣から俯瞰で眺めていた彼女だからこそ、頭に血が昇らずに済んだのかもしれない。

「……おば、さん? それって、まさか、おじさんも、何も知らずに……?」

「やだ委員長ちゃん、あの人は出会い頭にいきなり看破してくれたわよ? 『なにカマトトぶっているんだ、魔王』ってね。いやー殴り合った殴り合った。でもおかげで良い出会いになったわ。光十字の研究者でありながら人とアークエネミーの共存を本気で願う夢追い人。個人の情と組織の命の間ですり潰されそうになっている健気な魂!! ああっ、可愛くて可愛くて仕方がなくて、気がつけばべったり状態になっていたの。あ、あらごめんなさい。年甲斐もなくはしゃいじゃって。おばさんの惚気話なんて聞くものじゃないものねおほほほほ」

 呑気に笑っているが、倒れたまま僕は汚れた床に爪を立てていた。

 まただ。また僕の知らない家族の顔がしれっと出てきやがった。父さんが光十字の関係者? つまり姉さんやアユミを苦しめていた側だった? こっちは一回も聞いた事ないぞ!!

 鎖で押さえつけられた猛犬みたいに首を振って姉妹の方へ目をやると、何故か瞳を逸らされた。

 知っていたんだ、部分的にでも。

 母さんが何かしらのアークエネミーである疑いや、研究施設を出入りしていた父さんを。

 僕だけが。

 ちくしょう! 僕だけが!!

「……そんな顔しないの、サトリ。あの人は大学院で無邪気にアークエネミー研究を進めていた中で滅法危険なブラック企業にそうとは知らず絡め取られちゃっただけだし、光十字の中でもアークエネミー達の待遇改善を叫び続けていた穏健派だった。鼻摘まみで倍近く年の離れた若造からくすくす笑われてでもね。……それに、罰なら受けているわ。光十字の所業の一部が明るみに出たせいで、あの人は一度、最愛の人との間に致命的な亀裂を入れてしまったんだから。自分の業が幸せな家庭を引き裂いてしまうっていうのはね、それはそれは苦しい事なのよ」

「……、」

 何だ、それ。

 今の境遇に不満はない。エリカ姉さんも妹のアユミも家族になれて良かった。本当にそう思っている。

 でも、もう一人の母さんが消えてしまったのは。あの日、あの時。一方的に愛想を尽かされて、邪魔者扱いのお荷物感覚で、玄関の前で背中を向けて捨てられたのは。僕の中で家族って言葉が一度ガラガラと崩れてしまったのは、みんな、みんな……!!

「どこまで……アンタら二人して、どこまで僕の人生を振り回せば気が済むんだァああああああああああああああああああああああ!?」

 絶対に動かないと諦めていた全身がミシミシと不気味な音を立てる。今のでどれだけ体内に負担がかかったかは知らないけど、それでも立ち上がる。

 対して、黒い下着がうっすら透けるほど薄いブラウスにぴっちりしたジーンズの悪魔は人差し指を軽く振った。

「ダメよーサトリ。あなたは赦しの英雄、人と不死者を繋ぐ公平なアークエネミー達の希望なんだから。そんな風に怒って慣れない拳なんか握らないの。お母さんがせっかく用意したセッティングが台無しになっちゃうし、グーは殴った方も痛いのよ? ほんと、ビギナーが無茶すると自分の指を折っちゃうくらいにね」

「うる、さい」

「サトリ、お母さんに挑みたいなら掌打か武器持ちにしなさい。ほら、お母さんの真似してー、こう構えてー、足から腰に力を移す事を意識してー……」

「うるさいっっっ!! さっきから何なんだアンタ!? 一体僕達に何をさせようとしているんだ!!」

「何って」

 むしろ、アークエネミー・リリスの方にきょとんとされてしまった。


「もうすぐ世界が終わるから、その前になるだけ救済準備をしておきたいかなあーって。ほら、大洪水の前にでっかい方舟造るというか」


 …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。

 何を。

 何が、どうして、何だ?

 この人今なんて言った……ッッッ!?

「あれ? むしろ今まで気づいてなかったの? こんなにビシバシ予兆は出ているのに。というかサトリ、あなた災害環境シミュレータなんて大仰なもの一人で組み立てて喜んでいたでしょ。なのにどうしてこんな分かりやすいカラミティを予測できていないかなあ」

 何でもっと早く夏休みの宿題をやっておかなかったの。そんなお小言を聞かされるような調子だった。

 でも、待て。

 ちょっと待てって!!

「一体何を始めようっていうんだ!?」

「だかーら、私達は来たる破滅に備えてアブソリュートノアを建造しているだけだってば。あっ、言っておくけどカラミティ自体は私達はノータッチよ。加えて言うと、これはアークエネミー、魔王としての顔を使ったプロジェクトだから、人間側の元研究者であるお父さんにも関係のない話。もうっ、サトリが光十字潰しちゃったおかげで今あの人仕事行くふりして毎日ハロワに通い詰めているんだからね。それでも文句一つ言わないお父さんの懐の広さにこっそり感謝なさい。ただし絶対本人の前ではやめておいてね、オトナにもプライドってものがあるから」

「……、まさか」

「本当に? もっちろん。アークエネミー自体はずっと前からいたんだけど、ここ最近急激に数が増えたって報告もあるわ。方舟に乗るためになりふり構っていられないのね。まあ、いくら不死者でもカラミティに曝露すれば耐えられるとは思えないし」

 美しい誰かはやれやれと息を吐いて、

「私達の見立てではアブソリュートノアが完成しても地球全生命の三六%拾えれば良い方ね。ていうか昆虫王国コスタリカとか生息数多すぎ! 深海魚とかもサンプル確保するの超大変だし、とてもじゃないけどリミットまでに全部は手が回らないわ。どこかで妥協するしかないんでしょうけど、でもなあ。ケツァールは是非とも番で押さえておきたい……」

「……んげんは」

「うん?」

「人間は、どれくらい乗せるつもりなんだ?」

 僕はアブソリュートノアとやらがどんなものなのか知らない。馬鹿正直に大きな船か、あるいはロケットみたいなものか、どこかの地下に途方もなく広大なシェルターでもあるのか。

 地球人口は七〇億人。その半分を切り捨てると宣言しただけで惑星を埋め尽くす最終核戦争が起きるだろう。それはつまり、世界を二分してどちらか片方に絶滅しろと迫るに等しいんだから、誰だってなりふり構わずに徹底抗戦するはずだ。

 ところが。

 天津ユリナの返答は恐るべきものだった。


「困っちゃうわよねえ。全部で何千人くらいになると思う?」


 ……ケタが。

 この人、今、なんて?

 そりゃあ、確かに一つの乗り物にどれだけの人数を収容できるかって言われたら現実的には大体それくらいが限度だろうけど! 最大級の収容人数を誇る原子力空母だの豪華客船だのだって一億も一〇億も七〇億人の誰も彼も乗せられる訳ないんだけど!! でも、だってさ、でも、それじゃあ……!!

「大丈夫よ。計画関係者には優先搭乗権が与えられる。サトリ、あなたはプロジェクトリーダーであるお母さんの家族で、しかも面積の限られたアブソリュートノア内で人とアークエネミーがいざこざを起こさないよう優しく見守る赦しの英雄になるんだから。二つの意味でも絶対にチケットを逃す事はない」

 にこりと笑って、悪魔が言う。

「それに安心なさい、抽選にあぶれた六九億ナンボだって見捨てる訳じゃないわ。きちんと遺伝子サンプルを採って極小冷凍保存を施すから、生きた証がなくなる訳じゃない。まあ二重螺旋の塩基配列には記憶や人格は書き込まれないからその辺りは難しい問題ではあるけどね。でも何もできない訳じゃない。カラミティが過ぎ去って、再びこの惑星が清浄な青を取り戻したら、もう一度大地に種を蒔きましょう? 人は強い、すぐにでも活気を取り戻すわ。星を埋めるほどにね」

 そうじゃない。

 そんな事は聞いていない。

 もしもこの回答が万全で何の落ち度もない一〇〇点満点だっていうのなら。もしもあなただけは確実に助けてあげると甘く囁いて僕が頷くのを待っているとしたら。

 この人は、やっぱり悪魔だ。

 どれだけ論理は正しくても、本質は誘惑する者。様々なものを天秤に掛けてこっちの魂が堕ちるのをひたすら待ち続ける存在。

「……アンタ、一体何を考えている」

「家族との穏やかな日々。ただ優先搭乗権を人数分確保するのにかなーり手間取ってね。気がつけば要職に収まっちゃった☆ お母さんとしては、一家揃ってアブソリュートノアに乗る、それだけだったんだけどなあ」

 本当にそうなのかもしれない。

 その健気さでもって誘惑するのかもしれない。

 こんなに頑張ったのに、家族のために両手を血で染めたのに、その努力を無に帰すのかと。戦争でペンギンと飼育員が離れ離れになる映画を観て涙を流さないヤツは人間じゃないと罵られるのと一緒で、良心や優しさを盾にこっちを雁字搦めに縛り付けるつもりなのかもしれない。


「ふざけるなよ、義母さん」


 だけど違う。

 本当の正しさっていうのはポーカーで役を作るのとは違う。条件AとBに加えてCを並べたら五〇ポイント分泣かなきゃならないなんて話じゃない。戦争の映画? ペンギンと飼育員? だからどうした。どれだけ感動的だろうが、そこに安易なビジネスの匂いがしたら素直に顔をしかめて良い。無理して泣かなきゃならない理由なんかどこにもない。不謹慎だの自粛ムードだの、そういう見えない何かに押し固められて型枠通りに泣いたり笑ったりするような連中に何が宿る。宿る訳がない、そんな所に正しさなんか宿らないんだよ。だって、何でそんな顔になっているか自分で分かっていないんだから。

 見失うな。

 自分で自分を見失うな。

 ムードに流されて、感動を覆い被せられて、何だかここらでちょっくら一泣きしておかないと悪いような気がする空気に魂を持っていかれるな。人の心はその人のものだ。映画館で自分以外の観客全員が号泣していようが、吹き替え担当のお笑い芸人の棒読みで台無しだと思ったら素直にあくびして良いんだ、そんなもん。

「あら意外。突っぱねるの? 死ぬだけなのに」

「ああ」

「ひょっとして反抗期継続かしら。ねえサトリ、あなたやっぱり中学時代が大人しすぎたのよ。あそこでちゃんと暴れておかないから、こんな大事な場面でこじらせちゃうの。普通の高校生だったら親の用意した道に屈辱は感じるけど、でも素直に安堵して頷くのが正解よ。だってそうじゃないと死ぬもの、一〇〇・〇%確実に」

 さっきから何の話をしているんだ。

 僕はカラミティとか人類全体の運命とか方舟の順番待ちとかどうでも良い。

 天津ユリナ。

 義母さん。

 アンタの用意した道には、一つ決定的なものが欠けているって話をしているんだ。

「だって」

「?」

「だってそれじゃあ、大切な人を守れない。大切な人が大切に思っている世界も守れない。義母さん、アンタの息子がそんなつまらない未来を選ぶとでも思っているのかあ!!」

 正直、立っているのがやっとで誰かの命を抱え込む余裕なんかなかった。だけどその時、僕はその背に一人の少女を庇う格好になっていたはずだった。ああ、顔が熱い。後ろを振り返れない。今ここで委員長と目を合わせたらきっと頭が爆発して死ぬ。

 でも、譲れるか。

 ここだけは、絶対に。

 たとえ何があっても。本物の魔王、正しい意味でのアークエネミーを敵に回すとしても。

「格好いーいなあ。流石はあの人を血を引くだけの事はある」

 天津ユリナは薄く笑った。

 まるで極大の悲劇や不幸を持ち出して人の善性を試すような、蠱惑の笑み。

「でも神話クラスの魔王相手に何か一つでも意地を通せると思っているのかしら? ……反抗期の時間は終わりだ、クソガキ。手足振り回す程度じゃどうにもならない現実っていうのを教えてアゲル。絶対の壁の前で打ちひしがれて、ちょっぴりオトナになると良いわあ☆」


5


 しかし実際、リリスってどうなんだろう。

 世界最大規模の魔王、その一角。という割に頭からツノが生えている訳でもなければ背中に翼が生えている訳でもない。口から炎を噴き出す事もなければ石化の瞳で睨みつけてくる事もない。今まで何年も一緒に暮らしているけどアークエネミーだなんて欠片も疑わなかった。

 つまりそれくらい人間っぽいって話。

 ……バーチャルだって善し悪しだ。あれだけ散々にんにくの体をスライスされたり踏み潰されたりしてきた。おかげで痛みの恐怖に足がすくむのもちょっとは押さえられている、気がする。

 今ならやれる。やってやる。

 そう思っていた。

 なのに。

 にも拘わらず。


 圧倒的。

 それはもう格闘技や護身術というよりも、夜会の空気をごっそり奪う蠱惑の舞踏。


 こっちだって一応体重は六〇キロくらいはあるんだ。短距離の全力なら時速二〇キロ程度なら届く。何だそれくらい、と思うかもしれないけど、これでも受け身を一切気にせず真正面から全力全開で体当たりすれば、スクーターと軽めの激突くらいの衝撃は走るはずなんだ。体重五〇キロに届かない、黒い下着がうっすら透けるほど薄いブラウスにお尻の形が分かるくらいのぴっちりジーンズを穿いた華奢な義母さんならそのまま突き飛ばされたって不思議じゃない。

 だけど、実際には。

 天津ユリナの身体がぐるりと回った。その赤毛がテールランプみたいに後を追い、大きな円を描く。華やかにギリギリでこっちの体当たりを避けたかと思ったら、背中に柔らかい感触が密着した。よりにもよって背中と背中。ピタリと合わせたまま義母さんは回転扉に張り付くような格好でさらに勢いを増す。

 まるで霧か幻にでも全力で飛びかかったように、そのまま突き抜けた。四角い柱に鼻から激突する。

「かはあっ!?」

「あら痛そう。でもその一つ一つがあなたに厚みを持たせていくのよ、サトリ」

 ゆったりした声に背筋が凍る。振り返る暇もなくとにかく真下に落ちるように身を屈める。

 あれだけ頑丈だった柱が丸ごと揺さぶられ、側面に大きな亀裂が走る。正体はおそらく顔の高さまで上がった長い脚。あんなもん後頭部に直撃してたら延髄が潰れた空き缶みたいにぺしゃんこになっていたぞ!!

 全身冷や汗まみれになりながら、僕は後ろよりも手元に視線を投げた。スマホの画面、マクスウェルからの助言は何文字追い駆けていられる……!?

『警告。左に

 そこが限界だった。とにかく指定された方向に全力で転がる。顔の高さ、ロビーを支える太い柱に亀裂を入れた天津ユリナの脚が、横から縦に。流星のように落ちたカカトがごっそりとリノリウムの床を抉る。

 しかも避けても転がった途端に背中全体へ灼熱の痛みが走る。歯を食いしばって画面に目をやれば、

『警告。左にご注意ください。割れた蛍光灯の破片が散乱しています』

 ……くそっ、マクスウェルのシミュレーションが正しくても、こっちが文字を目で追って具体的に体を動かすのが間に合わない。ノストラダムスの予言じゃないんだ、後から答え合わせに使うんじゃ何の意味もないのに……!

 義母さんは追撃してこない。

 姉さん達や委員長も放ったらかし。

 光十字や静養病院の連中とは根本が違う。最短最大のダメージで畳み掛けようとしているんじゃない、できるだけ楽しい状況を引き延ばして堪能しようとしている。

 そう。

 自己の目的のためにプロが大人気なく素人の高校生に牙を剥くんじゃない。逆だ。むしろサービスで聞き分けのない子供に目線を合わせてプロの世界を見せているっていうか。

「サトーリ。今日はとことん付き合ってあげるけど、あらかじめ答えだけは言っておくわね。あなたはお母さんには勝てない」

「っ」

「確かにお母さんはアークエネミーとしては分かりにくいかもしれない。全身が竜の鱗で覆われている訳でもないし、お尻に九つの尻尾がついている訳でもない。でも、だからこそなのよ。エリカやアユミ、さっきまで片足踏み外していたハンター委員長ちゃんならともかく、サトリ、あなたに負ける可能性だけは絶対にない。何故ならば」

『リリスは今でこそ魔王の一角にされ、学説によっては七つの大罪の一つ、怠惰を司ると言われています。ですが元々はイヴ以前、アダムと共に初めて神の手で造られた人間であるともされています』

「……にん、げん……?」

「そ」

 天津ユリナは簡単な調子で、

「アダムは神の手で創られ、イヴはその肋骨から枝分かれさせて新造された。つまり男女はどちらも欠けていて、一つになるために結婚なんて儀礼を挟んだりしている訳ね」

「……、」

「ところが、お母さんはそうしたプロセスを踏んでいない。アダムから分かたれた存在じゃないから。誰よりも憎まれながら、実は誰よりも完璧なヒトって構成要素をワンセット余すところなく揃えている。深海をたゆたう生きた化石みたいにね。……ねえサトリ、アダムカドモンって言葉を知っている? ヒトの原型、本来あるべきヒトの理想像のようなもの。神にも等しい力を振るうために、一部の魔術結社なんかが瞑想だの隔絶だので躍起になって世俗の手垢をこそぎ落として目指そうとする考えなんだけど。ただこれは肋骨を起点に分化し、原罪にまみれたアダムやイヴから生まれたモノが目指すのは正直かなり厳しい。今は医療が発達して寿命も延びたから、一生かけて自己錬成を繰り返せばギリギリ何とかなるかもしれないけどね。で・も」

『警告!』

「元からどこが欠けるでもなく、最初から邪悪ではあっても禁断の果実には一度も手を伸ばさなかったお母さんには関係ない。ヒトとして未完成なサトリが、ヒトとして完成済みのお母さんに敵う道理はない。だ・か・ら、吸血鬼やゾンビなんかはともかくとして……同じヒトの枠組みにいるサトリには、万に一つも勝ち目はないのよ?」

 美しい言葉の端が、ブレた。

 真正面から地獄が迫る。舌舐めずりすら見せる狩人が。

「わあっ!!」

 こっちはガラスだらけの床を転がってでもカカト落としから逃れた直後だ。ろくに起き上がる事もできず、足掻きのような気持ちで床に転がっていたベニヤの板を掴む。おそらく窓を塞ぐための資材が余ったんだろう。

 だけど盾みたいに掲げた木材は抜き手一つでぶち抜かれた。心臓が大暴れする中、怪我なんて気にする余裕もなくさらに何度も床を転がり、服も髪も細かいガラスまみれになっていく。その間にも天津ユリナの追撃が来る。あるいは手が、あるいは脚が。

 その内に気づいた。

 一応生き永らえているけど、こんなのは僕の偉業じゃない。マクスウェルの恩恵でもない。相手は地球七〇億人全てを相手取ってなお君臨し、学説によっては七つの大罪の一角を管理支配するといわれた正真正銘の魔王。どんな風に抵抗しようが、素人の高校生がその辺転がった程度で回避できる訳がないんだ。

「……義母さん」

「なあに、サトリ?」

「ひょっとして遊んでるの」

「何だったら接待プレイと呼んでもらっても。家族で楽しむパーティゲームで髪の毛掴み合うのってなんか違うでしょう? 大丈夫、お母さんは魔王であるからして、こういうホスト役は大の得意だから、決して飽きさせないわよ。伝説の勇者様御一行をもてなすのなんてちょう簡単なんだから」

 トランプを使った初歩的なカードマジックと同じだ。普段は全然ついていけない速さで動くのに、致命的な一撃が飛んでくる直前だけ変なクラックがある。一秒の三分の一もないけど、それが動画のガタつきみたいに違和感を与えてくる。ようは、わざわざ警告を出してから後出しで必殺技を放っている感じ。とはいえ頭に血が上ったままなら全然気づかなくて、勘が冴えているって思い上がったに違いない。『あくのだいまおうリリスにおいつめられ、ついにひめられたさいのうをときはなったゆうしゃアマツサトリ』だなんて盛大に勘違いしていただろう。

「くそっ!!」

 時代劇やカンフー映画なんかじゃ、主演はもちろん、斬られ役、やられ役の倒れ方でも画面の完成度は段違いに変わるらしい。だからこそ、義母さんはああ言ったんだ。

 もてなす、と。

 ガチの魔王相手にまだまだ人間だってやれるじゃん、俺特別じゃん、やっぱ最強の天才はやる事が違うじゃん。……そんな風に気持ち良く付け上がらせる事で人外への畏怖や努力の必要性を忘れさせ、それ以上の成長を止めて錆びさせるエキスパート。怠惰を司る大悪魔の候補に挙げられるのもそのためか。

 目を慣らすな。いい気になるな。こんなのは英会話レッスンでゆっくり優しく発音してもらっているのと同じ。これに慣れてしまった状態でいきなりニューヨークのど真ん中に放り出されたら絶対ついていけない、言葉の洪水に呑み込まれる。だから体内時計を正確に維持しろ。そうでないと、いつかどこかでやってくる落差にやられる。頭が真っ白になった直後に一発で勝負を決められる。

 警戒していた。

 ちゃんと分かっていた。


 だがその分かってる感さえも致死の毒。

 一瞬後には天津ユリナは僕の懐深くまで滑り込んでいて、そして躊躇なくみぞおちで轟音と衝撃が炸裂した。


6


 最初、息が詰まって。

 痛みと苦しみが追い着くより早く、僕の靴底が両方とも汚れた床から浮かび上がる。そして体全体が地面と水平に吹っ飛ばされた。鈍く、重たい音。一度受付用のカウンターに背中から激突し、勢いを殺せず真上に跳ねた。そのまま奥へと落ちる。

「かはあっ!? うぐっ、えうあうあ、げほごほっ!! ぐうううううう……っ!!」

 呼吸ができない。

 絶叫さえ詰まってくぐもる。

「あはーはー、サトリ。あなたはそうじゃないでしょう?」

 カウンターを挟んだ向かいから、かつこつと足音が響いてくる。

「あなたは少年マンガの主人公じゃない。理解不能な状況や怪物と遭遇した場合、真っ先に拳を握るような人格の持ち主だった? ゾンビや吸血鬼相手にそんな事やったらどうなるか、分からないって事はないわよねえ」

「っ」

「いつものサトリなら、まず身を隠し、そして観察していた。挙動から生態を、言動から伝承を、マクスウェルでも使って解析させていたんじゃない? あなたはたった一つの命の価値を分かっていて、だからこそ、勝てる状況を作れるまでは絶対表に出てこない。違う?」

 まさか。

 斬られ役として相手を調子づかせるとは予想していたけど、まさか、すでにその時点で……?

「今日は勝てるかもしれない」

 天津ユリナの言葉が、刺さる。

「今なら行けるかもしれない。赤信号でも渡れるかもしれない。この牌は通るかもしれない。だめよーサトリ。可能性はあなたの都合に合わせて後出ししてくれない。量子論だって実生活で役に立つほど万能じゃないんだから」

 爆発があった。

 間に挟んだ樹脂製のカウンターごと蹴りを叩き込まれたんだって気づいたのは、随分後だった。おそらくスタンドライトやカウンターの上に置いた端末のために埋め込まれていたであろう電源ケーブルが千切れてのたくる。遮蔽物が砕け、背中に重たい衝撃が走り、全身がカウンター奥に並ぶ金属ロッカーに激突する。

 もう、呼吸困難どころか咳き込む事さえ忘れた。今、義母さんがどんな姿をしているのかも見えない。スパークした視界の向こうでは美しい女性が立っているのか、それとも人の皮を脱いだ有角の怪物が蒸気じみた呼吸を繰り返しているのか。

 ダメだ。

 力が入らない。

 今自分が考えている事、苛まれている恐怖、必死の抵抗、それだって全て台本に沿ったものでしかないのかもしれない。

 義母さんには僕を殺す意図はないだろう。自分でそう言っていた。そもそもそんな土俵に上げてもらってもいない。殺し合いの次元に僕は立っていない。

 ……最初に手を誤った?

 例えばホッケーマスクにチェーンソーを抱えた怪物を目撃して、必死に息を潜めるか呑気に声をかけるか。そんな初歩の初歩の選択ですでに間違えていた?

「ぐっ、けほっ……いいや」

 ほとんど散らばりかけた意識を必死でかき集める。

 そうじゃない、間違ってなんかいない。だって天津ユリナの流れに乗っかる訳にはいかないんだ。七〇億人の中からたった数千人、一%未満の人間だけを生かす未来なんか認めちゃならないんだ! 『人類』は滅亡しないかもしれない。ゴキブリ以上の繁殖力であっという間に惑星を掌握するかもしれない。だけど、だからって七〇億の死を見送っても許されるっていうのは絶対に違う。おかしいって言わなきゃいけない! 誰も言わなければ、本当にここでレールが切り替わる……!!

 できる事は。

 ここからできる事。

 僕は伝説の格闘家でもなければ体の中に魔王の魂を埋め込まれた勇者でもない。正直こんだけズタボロにされた後に自分の力だけで起き上がる事さえ難しい。あちこちに散らばる割れたガラスみたいに鋭い樹脂製カウンターの残骸や千切れてのたくる電源ケーブル。こんなのを掴んだって絶対に天津ユリナ、義母さんには届かない。今さらスマホ越しにマクスウェルからアークエネミー・リリスについての特徴や伝承を検索してもらっても、その知識を役立てる行動に結びつけられない。

 でも。

 待った。

 いや、ひょっとしたら……?

「どうしたの、サトリ。もう男を見せるの疲れちゃった?」

 間近にまで、黒い下着がうっすら透けるほど薄いブラウスにジーンズの魔王が迫る。

 ゆっくりと腰を落として、身を屈め、その細い手が僕の髪を掴む。

「がっ!?」

「ギブアップならそれでも良いわ。気絶はやり方次第で意外と気持ちイイっていうのを教えてあげるから怖がらないで。でも、お母さんとしてはもう少し格好良いところが見たかったなあ、っていうのが正直な気持ちだけど」

「……、」

 隙を作れ。

 床に散らばる鋭い樹脂の破片や電源ケーブル。こいつを活用するために。一秒の半分でも良い、とにかく義母さんの頭の中を真っ白にしろ。

「か」

「か?」

「義母さん……」

「なあに、サトリ?」

 そして。

 ろくに身動きを取れないまま、僕はゆっくりと口を開いた。言い放った。


「15ae89fa33c4eb21ff」


 天津ユリナが、わずかに眉をひそめた。

 だけどいちいち言い直さない。それをやったら意味はない。

「いつもの僕らしくない、ってアンタは言ったよな。義母さん」

「……。ちょっと待って。さっきの」

「だけど義母さんこそ少しは考えなかったのか。何もかもが都合良く回り過ぎているって。まるで世界全体が優しくガイドしてくれているみたいだって」

 義母さんは、馬鹿じゃない。

 アークエネミー・リリス。その名を冠するに値する実力を持っている。でも、だからこそ。彼女は絶対に気づく。些細な違和感に。

 彼女が着目したのは、僕の表情か。あるいは指先か。どっちでも良い。分かるはずだ、天津ユリナなら。僕の体が小刻みに止まるのを。通信の悪い動画サイトみたいにモーションが飛んでいるのを。

 そして言え。

 決定的な一言を。

「ダンピール化して手に負えなかった委員長には、カチューシャ型のダイブデバイスを頭に引っ掛けて身体と意識を引き離して保護したんだ。……同じ事が自分の身に起きていないって、どうして委員長よりも手に負えないアンタに断言できるんだ。僕も姉さんも妹も、もうそれくらいしか打つ手はないって分かっているくせに」

「さっきの声と動きのガタつきは、何かのバグやエラー……?」

 ゆるふわの長い赤毛をヘアゴムで束ねた天津ユリナは身を屈め、僕の髪を掴んだまま辺りへ目をやり、

「くっ!! 一体いつからシミュレータの中に……!?」

 言いかけたアークエネミーの言葉が途切れた。理由は単純、僕の手が音もなく床を這っていたからだ。正確には千切れてのたくる電源ケーブルを掴んでいたからだ。


「なんちゃってな」


 バヂィ!! という凶悪な音が響いた。頭を掴まれていた関係でこっちまで派手に震える。

 天津ユリナは本物の魔王。でも同時にアダムと一緒に作られた人間でもあるらしい。だとすると体の構造は変わらない。首を絞めたり麻酔を打ったり電気を浴びせれば、普通に意識を失うはず。

 あっけないものだった。

 悲鳴も絶叫もなく、美しい魔王は横へ崩れるように倒れていく。


7


 ゆっくりと息を吸って吐いて、少しずつ調子を確かめるように全身の筋肉に力を加えていく。折れたり千切れたりはなさそうだけど、ほとんど騙し騙しって感じが近かった。今日もう一回無茶をしたら、今度こそ筋肉という筋肉が千切れそうな気がする。

 ようやく身を起こしても、しばしの間呆然としていた。

 本当に何なんだ、今日っていう一日は。

 姉さんと妹は大ゲンカだし、マクスウェルのふりした廃病院の『亡霊』が殺人モトクロスを団体様で差し向けてくるし、委員長はダンピールになったり人間に戻ったりで忙しいし、なんかネットで中継されてアークエネミー達から英雄扱いされ始めてるし、挙げ句に黒い下着がうっすら透けるほど薄いブラウスにぴっちりジーンズな義理の母さんは本物の大魔王サマでございました。何だこりゃブログに書いたら一発で閲覧者が去っていくよ波が引くようにな! まともなのが僕しかいないって、それはそれで針が振り切れ過ぎてないか!? 自分で言うのも何だけどさっ!!

 明示されないものの創世記の中にさえその影を匂わせる悪の権化にどこまで通用するかは分からないけど、とにかくコンセントから引っこ抜いた電源ケーブルの束で天津ユリカの両手を後ろに回して縛っておいた。少なくとも野放しよりはマシだろう。

「……さ、サトリくーん?」

「委員長」

 義理の母を縛り上げながらのろのろとそっちを見ると、誰のものだか分からない血で真っ赤になった委員長がメガネをくいくいやっていた。エリカ姉さんやアユミもこっちに近づいてくる。どうやらひとまず全員無事だったみたいだ。やってるのは親子ゲンカだっていうのに、この結果が奇跡に思えて仕方がない。この短い間に一体何度修羅場を潜り抜けてきたんだ、僕達は。

「怪我とかありませんか……と聞きたいところですけど、こりゃあ怪我してないトコを見つける方が大変みたいですね」

「ふぐうー。どこまでも大人気ないヤツだったな、お母さん」

 ……そうだ。

「姉さんやアユミは知ってたの? 義母さんが、その、超弩級のアークエネミーだったって事」

「分かる訳ないでしょう。何となーく同族の匂いはしていましたけど、まさかリリスだなんて。ガチの魔王じゃないですか」

「ええと、あたしがゾンビでお姉ちゃんが吸血鬼。髪の色だって黒と金。お兄ちゃんと合流する前から、フクザツなご家庭っていうのは想像つくよね?」

「まあ、何となく……」

 僕自身、親の離婚なんて面白い話題じゃないから、あんまり深く切り込まないのがマナーだと思ってきたけど。そうか、父方の僕だけじゃなくて、母方の姉さん達にとっても義理の関係だった、って可能性もあるのか。

 けどまあ、その辺はおいおいだ、姉さんやアユミに話す気があるなら教えてもらうし、その気がないなら掘り返せない。何にしたってこんな不気味な静養病院に留まって押し問答を繰り返す必要はないはずだ。やる事は全部済ませた。後の始末は家に帰ってからで良い。


 ……。

 本当に?


 何だろう、何かを忘れていないか。畳み掛けるようにピンチの連続だから放っておいたけど、まだこの廃病院には謎が残っているはずだろう。

 そう、そうだ。

「……義母さんは何でこの病院にやってきたんだ?」

 安寧会静養病院跡地での出来事を中継配信する事で、世界中のアークエネミー達からの反応を窺っていた。そんな素振りはあったけど、でもそれ、義母さん自身が現場入りする意味ってあるのか。事前にあちこちにカメラを仕掛けておけば問題なく中継はできるし、何より当初は廃病院の『亡霊』の全機能は生きていた。殺人モトクロスのカメラだって使えたはずだ。

 義母さん、天津ユリナにとって、僕達の事も『目的の一つ』だったのかもしれない。ここから疑い始めたらキリがないし。だけど、目的が一つ限りじゃないとしたら。わざわざ彼女がこんな森の奥にある廃病院まで直接足を運んだ『二つ目の目的』は何だ……?

 廃病院については最上階から地下まであらかた調べ終えている。ここは光十字式の『コロシアム』、つまりアークエネミーに対して死刑制度を導入する事で恫喝・抑止するシステムが破綻した時のためのスペアプランを研究していた場所だ。アークエネミー、不死者を殺すんじゃなくて、その動きを外部からコントロールする事で犯罪の芽を潰し、社会秩序を維持する仕組みをずっとこねくり回していた。

 ……だけどこれ、義母さんにとって必要なものか。彼女の言い分によれば間もなく世界は終わる。助けられるのはアブソリュートノアに乗せられる数千人だけ。つまり、今ある仕組みが木っ端微塵になるのが前提な天津ユリナにとって、社会を掌握する仕組みなんて宝の持ち腐れなんだ。テストで一〇〇点を採る方法があっても、学校自体が爆破されてしまえば何の意味もないのと同じっていうか。

 でも、それ以外だと何だ。

 廃病院の『亡霊』は、テスト用の仮想敵として『ポーランドの吸血王女』に由来する呪いの棺桶を確保していた。委員長が巻き込まれたように、あれさえあれば無限に吸血鬼を用意できる。……でも、『あの』大魔王がわざわざ追い求めるかっていうと、結構微妙なところだ。言っちゃなんだけどアークエネミー・リリスと吸血鬼じゃ格が違いすぎる。サタンとサキュバスを戦わせるようなものだ。しかも吸血鬼で良ければ、すでに我が家にはクイーン級のエリカ姉さんがいる。わざわざよそから吸血鬼を調達し直す理由は全くない。

 だとすると、まだ『それ以外』がある?

 どこぞの聖典にも記される大魔王が思わず足を運んでしまうほどの、恐るべき何かが。

「……待てよ」

「サトリ君?」

「あるじゃないか……まだ調べていない所」

 そうだ。

 この病院の地下フロア。歪な四角に近い順路の内、内側に面した壁だけが血文字や魔法陣でびっしり埋め尽くされてはいなかったか。ドアらしいドアはなく、下手すると出入り口ごとコンクリで埋められてしまったかもしれない封印区画。……あそこには一体何が眠っているんだ。少なくとも『ポーランドの吸血王女』絡みじゃない。別の場所で棺桶は破壊しているし、呪いに蝕まれていた委員長もきちんと助けた。

「……、」

 物事には、始まりがある。

 そもそもこの静養病院の連中は、何がきっかけで完全誘導社会なんて馬鹿げたものを追い求めるようになった。いいや、何を見て、何を恐れて、そうしないとまずいと絵空事に本腰を入れていった? 何かがあるはずだ。手に負えない汚染事故に石棺で蓋をするように、わざわざ封印区画を設けて必死で闇に葬ろうとした、何かが。

「一体……」

 気がつけば、誰に向けるでもなくぽつりと呟いていた。

「一体、地下には何が……?」

 答えなんて誰にも期待していなかった。

 だけど現実には、優しい女性の声で返答があった。電流を浴びて気を失い、後ろ手に縛られていたはずの義母さん、天津ユリナからだった。


「……決まっているじゃない。正真正銘のバケモノよ」


 詳しく聞き返す時間はなかった。

 ズズン……ッッッ!!!!! と。直後に廃病院全体が、いいやひょっとしたら周りの暗い森まで全部が全部、下から突き上げるような凄まじい震動に襲われた。

 何となく、分かった。

 義母さんはこうなる前に何かしらの手を打ちたかった事。そのスケジュールを僕達が邪魔してしてしまった事。間に合わなかった結果最悪の事態が地下の封印区画から噴き出してしまった事、なんかが。

 ただでさえ安全性なんか担保のない廃墟は、もう丸ごと崩れない方がおかしいくらいの状況だった。でも僕達の意識はそんな当たり前の恐怖心なんか微塵も感じていなかった。もっとまずい、致命的に狂暴凶悪な、何かの到来。そっちに意識を完全に奪われていた。

 来る。

 何かが近づいてくる。

 かつこつと、ただ、かつこつと。時計の針みたいに正確な音の連続の正体は、足音だった。それはエレベーターホールの方から、いいや併設された非常階段の方から響いていた。安寧会静養病院跡地全体の崩落、倒壊よりもなおおぞましき恐怖。これだけの存在が二本足で地を踏んでいる事実が逆に新鮮で、場違いなのに笑ってしまいそうだった。

 誰も動けなかった。

 僕も、委員長も、エリカ姉さんや妹のアユミも、大魔王の天津ユリナまで。

 そして。

 そして。

 そして。


 ぬっと。

 何か滑らかなシルエットが、廃病院の正面ロビーに姿を現して……。