第二章



 ジョン=ノッカー監督の次回作をみんなで作ろう! 我々はベガスで一緒に撮影してくれる陽気なエキストラを待っている!!


 僕達が日本を離れて地球の裏側のラスベガスなんてトコまでやってきたのは、つまりそういう事だった。

 ネット公募の抽選に当たったのだ。

 元々アジア系のエキストラを大量に欲しがっていた事、エキストラ募集というのは建前で実際にはファンサービスに近かった事、去年ジョン=ノッカーは巨大なハリケーンで別荘をなくしたばかりで減災都市・供饗市の危機意識の高さにいたく感動していた事なんかもあったみたいだけど。

「……すまないメイデン」

「ん? 何が?」

「だって僕は同じラスベガスにいながらホテルの部屋から出なかった。委員長を置いておけないとか、行き違いになるかもしれないとか、そんなのは枝葉だ。僕は動かなかったんだ」

「何言っているのよ、逆に出てきたとして何ができたの。そもそも目的地は? ジェルに何が効くかも分からないのに。闇雲に正義を出しても喰われるリスクが増えるだけだわ。むしろ、あの状況で良く堪えてくれた。だからワタシ達はこうして顔を合わせる事ができたんだわ」

 なんて言って良いのか分からなかった。

 怒りをぶつけられる事には慣れていない。だけど、こんな時まで笑って許してくれる友人にどう接して良いのか、見当もつかない。

『シュア。ユーザー様は美少女と見るととりあえず上から目線で罵ってもらいたい残念な人なのですわりが悪いのでしょう。ですがこのままにしておくと放置という新たな世界に目覚めるかもしれません』

「あっ、マクスウェルちゃんやっぱりいるじゃない! ねえねえレッドトゥース飛ばして良い? 洋梨フォンの無線キーボード認証で新しい脆弱性を見つけてさあ」

『ノーです徹底してノー。システムをアジの開きみたいにして眺め回さないでください』

「プログラムのくせして照れ屋だわ。ねえトゥルース、これってやっぱり日本人が組んだからコードの特徴が根暗なこけしヘアの大和撫子になったの?」

『ノー。パンツの柄まで星条旗なガッハッハ笑いのアメリカンチアリーダースパコンにはできない柔軟で繊細な処理体系と言ってもらいたい』

「コンテナサイズの演算機器なんてステイツじゃ童顔の発育不良扱いだわ」

 マクスウェルが上手に割り込んでくれたおかげで、気持ちを整理させる時間をもらえた。

 ……よし。

「おいリアルちんちくりん」

「気にしてるのよっ!! 何よトゥルース、っ、人の頭をぽんぽんしない!!」

「しばらく通信が途切れていたから状況を知りたい。例のジェルはどうなった。こっちのホテルまで入ってきてるか?」

「いや、分からないわね。そろそろあいつのちゃんとした呼び名決めとかない? 屋上伝いで撒いたと思うけど、落ちたジェル達がホテルのエントランスから入ってきたらどうにもならないし。……ねえこれいつまでぽんぽんするの? まったく仕方のないヤツだわトゥルースは」

 文句を言っている割に為すがままだ。何だかプライドの高い白猫の喉がゴロゴロ鳴ってるビジョンを連想してしまう。

「これからどうするか、だけど」

「うん」

 僕の言葉にアナスタシアは素直に頷くも、

「窓の外を見てよトゥルース。表はひどいものだわ、ファミリーカーからシャトルバスまで何でもかんでも転がり放題で煙を噴いているし。今さらあの中をそこらのまん丸軽自動車なんかで進むのは無理だわ。かといってベガスは砂漠のど真ん中にある街だから、車なしじゃとても隣街まで辿り着けないし」

「そもそも僕達じゃ車の運転はできないだろ」

『ノー。プログラム制御の完全自動運転車であればシステムが代行できます』

「通信障害でいつ回線切れるか分かんないマクスウェルに預けるのか? 僕は絶対にやだよ」

「でも、じゃあどうするのよトゥルース」

 アナスタシアがそんな風に小さな唇を尖らせた時だった。


 ばた、ばた、ばた、ばた!! と。

 真上からシーツで空気を叩くようなものすごい音が鳴り響いてきたんだ。


 弾かれたようにアナスタシアは天井を見上げた。いいや、彼女が意識しているのはもっと高い所だろう。つまり屋上だ。

「ねえこれって、ヘリコプターなの!?」

「アンタの国は航空大国だろ。国の西から東へお出かけする時だって新幹線やリニアより、まず旅客機だ。おかげでこっちの国は列車については最先端でいられるけどさ」

 つまり、

「陸路が手詰まりになればレスキューはすぐに大空から攻める。僕達に必要な出口は東西南北関係なしに、真上に開いていたんだ。そういう意味でも下手に出歩かないで、ヘリポートのある頑丈な建物に留まっているのが最善だった」

『もちろん上空から見て全滅と判断されては素通りされてしまいますので、テレビのリモコンなどを窓に向け、不規則にオンオフを繰り返すなどの措置も必要でしたが』

「普通の懐中電灯だと光に集まってくるパターンだったら自滅コースまっしぐらだしな」

『ノー。多くの動物や昆虫は赤外線や紫外線を識別しますので、あまり意味のある対策とは評価できませんが』

 だからここを離れられなかった。

 時差ボケでダウンしたデコメガネ委員長だけでも確実にヘリに乗せたい。今のところジェルは単体行動ばっかりなものの、さっきも言った通りのグンタイアリ想定だと数が集まったら自分達の体でブリッジを作って直接ビルからビルへ渡りかねない。だからむき出しの屋上にいるんじゃなくて、屋上近くの高層階で待機しているのが一番ましな選択だったって訳。

 もちろん。

 どれだけ確率や可能性の話をしたところで、実際にヘリが来てくれなければジエンドだから、アナスタシアを安易にこっちへ引き込めなかったんだけど。

 安全で確実に救助を呼ぶため。

 また、ジェルの届かない大空から捜索すれば手っ取り早く合流できるかもしれないとは思っていたし、メインローターが生み出す突風なんかを利用すれば多くのジェル達を安全に誘き寄せて、その隙に避難誘導できたかもしれないんだけど。

 それでも僕は、アナスタシアを『後回し』にしたんだ。問題発生の瞬間に矢も盾もたまらずにホテルの部屋から飛び出す事なく、冷静に踏み止まった。止まってしまった。

「ははっ」

 だっていうのに、一一歳の少女は無責任に頭をぽんぽんされながら屈託のない笑みを浮かべていた。

 まるで家族に向けるような気兼ねのない笑顔を。

「すごいっ、やっぱすごいわトゥルースは! 供饗市だっけ、そんなトコで暮らしていると意識が変わるの? それとも場数かしら。だって光十字をぶっ潰した英雄だもんね! 考えてる事がいちいちクールだわ!!」

「……、」

 何とも言えずに目を細めていると、スマホの画面が点滅した。わざわざマクスウェルが注意を向けてくる。

『ユーザー様、感傷に浸るのは結構ですが、至急屋上に向かうべきと進言させていただきます。音沙汰なしではせっかく接近してきたレスキューのヘリが着陸せずに立ち去ってしまう恐れもありますので』

「ああ、そうだな。ひとまず屋上だ。委員長、ほら、掴まって……」

「うー」

 怪獣みたいに呻きながら、ベッドの上のしっとり委員長が僕の首っ玉に両腕を回してきた。こんな時にあれだけど大変ドキドキする。匂いとか感触とかぬくもりとか! 鼓動がさ、委員長の慎ましくも存在感のあるお胸様からドキドキを感じるんだよう! あと弱ってる今の委員長ならおねだりしたら何でもしてくれそう!!

 と、何やら背中の方からもむぎゅうと抱き着いてくる謎の力があった。

 めんどくさいアナスタシアその人であった。

「トゥルースはずるいわね。リア充か」

「?」

「そんなにステディにかまけるならもう片方はワタシにちょうだいよ。ちょっとマクスウェルちゃんのコントロール預けてくれたって良いでしょ、ねっねっ?」

『ノー! 警告、かわいいふりして抱き着きながら、がっつり近接無線経由でサイバー攻撃を検知。重大な危機です!!』

 珍しくマクスウェルが『!』までつけて何か訴えかけてきてる。光十字のラプラスから攻撃された時だってこんなじゃなかったのに。僕は真ん前に委員長背中にアナスタシアのサンドイッチ状態でホテルの部屋をうろつき、パスポートやお財布なんかの貴重品をまとめたポーチだけ掴んで、

「それじゃあ屋上のヘリポートだ」

「この部屋お菓子とかないの?」

「さっき見ているだけで胸が悪くなりそうなくらい揚げ物食べてたろ」

 呆れたように言いながら、ベッドサイドにあった日本製の板ガムをアナスタシアへ放り投げる。彼女は彼女で難しい顔で遠ざけたり近づけたり、ひっくり返したりしながら、

「……シュガーレスで無着色。健康食品ね」

「存在自体がケミカルなガムを見てそんな世迷言を言い出すのはお前くらいのもんだ。ほら行くぞ」

「おーけーボス」

 スーツケースなんかは名残惜しいけど、流石に持っていけない。ジェルの騒ぎが終息した後、一週間なり一ヶ月なり経ってから回収できたら御の字だろう。

 ガムを口に放り込んだアナスタシアやぐったり気味の委員長と改めて行動開始。

 部屋のドアを開け、どうするか迷ったけど、一応カードキーは持っていく事にした。こういう普段の癖ってのはなかなか抜けないものだ。

 廊下には誰もいなかった。

 ヘリのローターの音は館内に響き渡っていたと思うんだけど、みんな外に出るのを警戒しているんだろうか。

『どれくらいの想定かにもよります。数時間で問題が解決すると予測していれば、部屋に篭って嵐が過ぎ去るのを待った方が安全と受け取るでしょう』

「表で銃撃戦をやっているからって、わざわざ危険な外に出て逃げ惑う必要はないって話か。でもそれ、見込みが外れたら完全にアウトな気もするけど」

『シュア。災害環境に絶対の正解はありません。正しい答えを導き出すヒントが全て提示されている方が珍しい。多少の経験則は通用しても、結局最後はギャンブルになります』

 ようやっと人様の背中から離れたアナスタシアが、いたずら好きの瞳で言う。

「ルーレットや宝くじっていうよりは競馬やポーカーに近いかもね。うちは優れた予想屋がいて助かったわ」

「……、」

 ヘリだってスペースは無限でない以上、ホテルの全員が殺到していたらそれはそれで危なかった。だけど、このままで良いんだろうか。僕には数時間で自然消滅するようなレベルにはとても思えないんだけど。

 マクスウェルの意見はシビアだった。

『全員をヘリに向かわせた結果、あてが外れて全滅した際の責任が取れるのでしたらご自由に。できなければ、これ以上干渉すべきではありません。大量の選択肢で人々が分岐する事により、一人でも多くが助かるチャンスを掴めると処理すべき案件です』

 かもしれない。

 拘泥もできない。

 ひとまず屋上に出て、レスキューのヘリをきちんと足止めしてからホテルの客室について改めて考えを巡らせても遅くはない。逆にヘリを素通りさせてしまったらみんな揃ってジエンドなのだ。

「……ずるい言い回しばっかり覚えているな、僕ってヤツは」

「ん? どうしたのトゥルース?」

 仲間を信じて一人でここまで辿り着いたアナスタシアはどこまでもあどけなく、そして高潔だった。

『ユーザー様、動画チャットに着信あり。エリカ嬢とアユミ嬢のデスクトップです』

「分かったマクスウェル、出してくれ」

 僕が指示を出すと、スマホの画面が切り替わる。マクスウェルとのコミュに使っている短文系SNSの連動機能だ。このモードだと相手の映像に重ねてSNSの文章を流していく形になる。動画サイトのイメージが近いかもしれない。

 お互いの柔らかい頬を寄せ合って仲良く一つの画面に収まっているのは、豪快金髪縦ロールのグラマラスな吸血鬼の姉と黒髪ツインテールの先端だけ巻いたバターロールでスレンダーなゾンビの妹であった。

『お兄ちゃーん』

『あらあら。何だかそっちも大変って話を耳にしましたけど……まあ大変。早速女の子二人がかりで揉みくちゃになって』

 姉さん達は大丈夫だろうか。

 冷静に考えれば答えは一つに決まっているんだけど、でも自分が大災害(?)の中にいると、ついつい見知った人がみんな窮地にいるような錯覚をしてしまう。

 アナスタシアも『癖』が抜けないんだろう、この非常時にもガラス張りのエレベーターホールの方へ向かおうとするので慌てて呼び止める。

 こういう時は階段と相場が決まっているのだ。

「姉さん、ちょうど良かった」

『ふぐっ!? あたしはどうしたお兄ちゃん!』

『サトリ君はそうやってアユミちゃんの気を引いているんですよ。それで、何か聞きたい事でもあるんですか?』

 うん、と僕は相槌を返してから、

「……人間溶かすドロドロした赤い粘液みたいなのに追い駆け回されてるんだけど、これ何? 一体どんなアークエネミーなの?」

『さあ?』

 意外な返事だった。

 物知り姉さんが可愛らしく小首を傾げるとは珍しい。

『それ、そもそもアークエネミーで良いんでしょうかね?』

「えっえっ? でもだって、ジェル状のアークエネミーなんてこれ以上ないくらい有名どころじゃん。それこそ吸血鬼とかゾンビくらいに」

『RPGの世界ではな』

 ほとんど水着みたいなスポーツウェアのアユミがふぐみたいにほっぺを膨らませながら、

『カラフルな粘液っていうとむしろ原典はファンタジーってよりもUFOとかUMAの方が近いんじゃない? 当然、何かの神話や宗教に根ざした存在じゃないよ』

『形のない化け物の本場は火ですからねえ。次は風でしょうか。何にしても液状で形を持たない怪物って、実際の神話伝承ではほとんど見られないんですよ。水系だと何故だか大抵魚かカエルか美人になっちゃいますし』

「え……じゃああれ一体何なんだ……?」

 非常階段に繋がる金属ドアを開け放ちながら、胃袋に重くて冷たいものが落ちる。さっきのグンタイアリじゃないけど、訳が分からないものを自分の知ってる言葉に置き換えるのは、一種の防衛反応みたいなもんだ。そうする事で納得して恐怖を遠ざける。

 だけど、姉さん達の言葉でふりだしに戻った。正体不明のXの恐怖が、全方位から僕ににじり寄る。

 が、

『普通にジェルで良いのでは?』

「えっ、あ? 何だって???」

『ですから、正体が分かるまでは変数Xくらいの気持ちで、とりあえずジェルと代入しておけば良いんじゃないですか。Xだとイメージしにくいでしょうし』

「お兄ちゃんの頭の中で変に自縄自縛を避けるためなら、敢えて間違った呼び方を貫くのもありだと思うよ」

 そういうものか。

 案外そんなものかもしれないけど。

「……着いたわトゥルース、屋上のドアよ」

 アナスタシアが僕の上着をくいくい引っ張りながらそんな風に言ってきた。

『サトリ君、くれぐれも無茶しないように』

「分かってる」

 言って、金属製の分厚いドアのノブを掴む。鍵はかかっていなかった。非常時には自動的にロックが解除される仕組みなのかもしれない。

 ぶわり、と。

 ドアを開けた途端、塊のような烈風に顔を叩かれた。委員長やアナスタシアの髪も嬲られている。

 エアコンの室外機や電飾看板の並ぶ一角から一段高い位置に、鉄骨を複雑に組んだ巨人のテーブルみたいなものが突き出ていた。あれがヘリポートだ。

 そしてテーブルの真上、一〇メートルから一五メートル辺りの高さに、前と後ろにローターをつけたずんぐりしたヘリコプターがホバリングしていた。

 向こうも向こうで半信半疑だったが、捨て置く事もできずに待機していたんだろう。そして僕達が屋上に顔を出した事で状況が一気に動いた。

 拡声器からがなり立てるような男性の大声があった。

『……!! ---っ!?』

「マクスウェル、翻訳頼む! 僕の英語の点数は知ってるだろう!?」

「トゥルースアンタさあ、Cプラの構文は英語入力できるのに日常会話ができないとかやっぱりおかしいと思うわよ」

 呆れたように言う一一歳の頭を無駄にぽんぽんしながら待っていたが、マクスウェルは反応を返してくれなかった。

 ……?

『警告』

「どうしたマクスウェル?」

『複数の民間気象予報士の個人サイトから情報入手。ラスベガス中心地より南方七〇キロ地点の砂漠にて集中豪雨を確認しました』

「だから……だから一体何だって言うんだ? 街の外で、何もない砂漠で雨が降ってるってだけだろう?」

「うぅ」

 ひどい時差ボケで僕の半身にしなだれかかっている委員長が呻いた。

「ちが、砂漠の雨は、サトリ君が思っているより、ずっと危険、なの」

『シュア。摂氏五、六〇度で一面熱せられた砂漠にまとまった雨が降ると、急激に気圧が変化し、大規模なダウンバーストを誘発させる事になります。もちろん原因は複合的であって、雨が降れば必ずダウンバーストが起きる訳ではありませんが』

「メートルとか摂氏とか、わざわざ面倒な単位を学習させないでよねトゥルース」

「僕はメートルキログラム主義者なんだ。マクスウェル、まとめてくれ。つまり何がどうヤバイんだ?」

 シュア、という簡潔なレスがあった。

 直後にエリカ姉さんやアユミの顔に重なったメッセージにはこうあった。


『最悪、毎秒数十メートルもの猛烈な速度で砂嵐が席巻し、ラスベガス中心街を丸ごと飲み込んでしまいます』


 弾かれたように視線をスマホから跳ね上げた。

 地平線の向こうが煙っていた。それこそ万里の長城みたいに、左右には終わりの見えない分厚い壁がそびえつつある。そして目で見て視認した途端に、もう全部終わっていた。

「逃げろ!!」

 ヘリに向かって叫んだけど、そもそも届いていたのか。

 ゴォッッッ!! と。

 あれだけ雄大で揺るぎない存在に思えたレスキューの大型ヘリが、湯船に浮かべた潜水艦のオモチャみたいにひっくり返った。ホテルの屋上に不時着する事も叶わず、そのまま地上に向けて消えていく。立て直しのチャンスなんかなかった。全ては一瞬だったんだ。

 僕達も終わった事を悠長に目で追い駆けている暇もなかった。

 夜だ。

 日蝕かとも思った。

 あれだけかんかん照りだった砂漠の陽射しが瞬く間に覆い隠され、真夜中みたいな闇がラスベガスを埋め尽くす。びちびちと剥き出しの肌に当たる砂の感触はまるで静電気だった。まともに目も開けていられない。スマホが何度かぶーぶー震えて注意を促してきたけど、手元の画面さえまともに見られない。

 口を開けば腹一杯砂を食べる羽目になるのは分かっていても、叫ぶしかなかった。

「アナスタシア!! 戻れっ、ホテルの中に戻るんだ!!」

「……っ……、---!?」

 少女から何かしら返事は聞こえたが、言葉の体裁を取っていない。僕の声もあんな風に意味をなくしているかもしれない。

 もう意味なんてなくて良い。

 あらん限りの大声で吼えたて、とにかく音源に着いてきてもらえるよう祈るしかなかった。委員長を抱えたままゆっくりと後退する。方向感覚もゼロに近い。屋上の足元に走る、コンクリートの継ぎ目の感覚だけが頼りだった。

 ようやっと屋内に繋がる金属ドアに背中がぶつかる。

 ついでに、アナスタシアの小さな体も飛び付いてきた。ペットロボットも無事だったようだ。

「入るぞっ、開けるぞ、アナスタシア!」

「トゥルース良いからさっさと中に入って!!」

 ほんとに三人揉みくちゃになってホテル屋内に舞い戻り、足で蹴ってドアを閉める。

「うえっ、ぺっぺっ!! 口のジャリジャリがひどいっ!!」

 アナスタシアが砂まみれになったガムを吐き出そうとしたので、包み紙を渡してやる。

 しかしこれで頼みの綱だったレスキューもヘリごと落ちた。

 いや、それどころじゃない。


 ガリガリガリガリ!! と。


 何か、ドアの向こうから聞こえる音がおかしい。こんなにひどいのか? ぶつかっているのはきめ細かい砂だろうに、猛獣の爪がドアの向こうから引っ掻いているような音に聞こえる。

 あまりの異変に、アナスタシアは絹のキャミソールやミニスカートから砂を落としている余裕もないみたいだった。

『サトリ君、サトリ君! 砂嵐が来たなら油断しないで!! すぐにそこから離れてください!!』

「ねえ、さん?」

『シュア。猛烈なダウンバーストでは窓を割って玄関の扉を歪めるほどの被害も報告されます。そして先ほどユーザー様はグンタイアリのたとえを持ち出しました。建物の気密性が破られるのは非常に危険です』

……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。

 僕とアナスタシアは、スマホの画面からわずかに目の焦点をずらした。手元に目を向けたまま、さらに先の足元を観察する。

 元々、地面や壁を自在に這い回るジェルからは、ビルの屋上に上がっても逃げ切れるとは限らない。アナスタシアの件で理解していたはずだ。そしてジェルは空気の振動や流れに反応する。ヘリの爆音にでも誘われ、このホテルの壁面を伝いすでに屋上にいくつかのたくっていたとしたら。

 つまり。

 金属製のドアの下端。


 その隙間から。

 赤い半透明の粘液が、どろっと……。


「うっ」

 背筋を走る怖気に耐えられず、反射的に絶叫が口をついて出てきそうになった時、アナスタシアの小さな掌が僕の口を塞いでくれた。

「ッッッ!!!???」

 立っていられず転げ回るようにして下の階に。だけどまたしてもおかしな現象と遭遇した。

 ドガシャア!! と。

 一面のガラスを盛大に砕くような轟音が炸裂したんだ。つまり侵入口が激増した。そしてこっちにも屋上と同じく、元からなめくじみたいに壁面へ張り付いていた連中がいたとしたら。

「大変な事になったわよ……」

 アナスタシアが呟いた直後、それまで沈黙を守っていた客室のドアが一斉に開く。砂まみれのまま廊下に転がり出た金髪男へ、赤い粘液が毛布を被せるように襲いかかる。

 何もできなかった。

 最後の瞬間、僕と目が合ったようだけど。何か叫んだようだけど。何も伝わらずにそのまま呑まれて溶けていく。

 この時ばかりは、英語ができなくて良かったと思う自分がいた。

 それくらい阿鼻叫喚だった。

 あるいはジェルまみれでドアごと廊下に転がり出て、あるいは蹴破る事もできずにドア板を半端に震わせるに留まり……。兎にも角にも、あっという間に人の命が散っていく。壁には濡れた布みたいなのが張り付いていた。ああ、ヤツらはやっぱり生物捕食がベースで、合成繊維の衣服なんかは食べないんだ。そんな取り留めのない事まで考える。まるで部屋の片付けをしている最中に古い漫画を見つけて読みふけるような逃避っぷりだった。

「客室側の窓が突風で一斉に砕かれて……元から窓や壁に張り付いていたジェル達が……」

「ここにいてもだめだわっ、とにかく階段で下に……」

 突っ走ろうとするアナスタシアを慌てて押さえつける。

「下の階だってガラスはみんなやられてる! ジェルはどこの階にもいるって思った方が良い。このまま一本道の開けた階段を降りても挟み撃ちにされる可能性が高い。窓に面した場所はジェルのいる場所だ!」

「ならどうするのよトゥルース、エレベーターとか!?」

『ノー。当ホテルのエレベーターはガラス張りですので、シャフトを降りるとしてもリスクは客室と大差ありません』

 そう、それが問題だ。

 このホテルはもう安全じゃない。生き残るためには脱出しなくちゃならない。だけど具体的な方法は? 階段もエレベーターも使い物にならないんじゃお手上げだ。

「……いや?」

「どうしたのトゥルース」

「マクスウェル、従業員用のエレベーターはどうだ? いくらピカピカのラスベガスでも、ルームサービスやリネン用のワゴンを運ぶエレベーターまでガラス張りって事はないだろう」

『シュア。館内イントラネットより情報取得。ユーザー様のいる非常階段出入り口から比較的近い場所に三基確認されています』

「アナスタシア、走れっ」

 後ろ髪は引かれる。このままフロアの惨状に目を背けて良いのかって。だけど無理だ。廊下の奥にかけては赤い粘液だらけで、どうやったって横をすり抜けては進めない。

 僕達の動き---つまり空気の攪拌による塵や埃の変化---に合わせてさざ波みたいに反応を返すヤツもいるし、これ以上近づいてバタバタ大気を乱せば飛びかかられる。

 生き残れ。

 何があっても生き残るんだ。

「エレベーターってどうするの? 結局止まっているんでしょ」

「そうでなくてもお行儀良くかごに乗ってるだけじゃ待ち伏せに対処できなくなる。マクスウェル。ドアの右上にはアルファベットでEDE、ボタンパネルに11381518。検索してくれ」

『シュア。エディエレクトロニクス製中型業務用エレベーターのバージョン5です。エアコン設備を簡略化して本体の軽量化を図る事で積載量を向上させたアレンジモデルですね。停電時は扉のレール部分に隠された金属ツメを押す事でロック解除。定規のように薄く細長い金属を使い、ドアと下側のレールの隙間に通してノコギリのように動かすと成功しやすいはずです』

「アナスタシア、十徳ナイフ貸してくれ。ネジ回して壁の消火器のホルダーを外せば、ステンレスフレームがちょうどぴったり使えそうだ」

「メイデンよっ。それにしてもやっぱインターフェイスの柔軟さは他の追随を許さないわね……」

 感心してる場合か。

 手に入れたL字の金属フレームをエレベーターの隙間に通してギコギコ。何だか車泥棒の気分だ。くそっ、それにしても、何気に音が鳴る。大丈夫だろうな、ジェル達が空気の攪拌じゃなくてダイレクトに音に反応するようならもうおしまいだぞ。

 音というより手首に返る固い感触で変化を掴み取った。両開きのドアのど真ん中に指を突っ込み、両手を使って左右に大きく開けていく。

「っ」

 待っているのは四角い巨大な煙突めいた竪穴だ。こんな所を常時蛍光灯で照らす必要はないから、当然真っ暗。底の見えない大穴っていうのは本能的な恐怖を嫌ってほど引き出してくれる。

 命綱なし、向こう一〇階分以上真っ直ぐ貫く高さに、こっちが頼りにできるのは親指より細い金属のハシゴと己の腕力のみ。

 だけど行くしかない。

 唯一窓のない、頑丈なルートだ。

「委員長……。流石に担いで降りるのは無理だ。自分の手足で頼む」

「だ、だいじょぶ……」

「ねえ、奥見えないけど、途中でジェルが待ち伏せなんてしてないわよね」

 アナスタシアが必要以上に怖がって自縄自縛になりかけていたので、僕が先頭で降りる事になった。

 僕はひとまず先にハシゴの横棒を掴んでちょっと下に下がりながら、

「二番目は委員長で良いんじゃないかな」

「えっ、どうしてサトリ君?」

『警告、この状況で真上を見上げる行為は不実と受け取られかねません』

 チッ、マクスウェルは気づいていたか。

 とにかく今はホテルからの脱出が先だ。僕、委員長、アナスタシアの順で縦一列にハシゴを降りていく。

「? 姉さん、アユミ???」

 いつの間にか動画チャットが切断されていた。

『エレベーターシャフトに入ったため、電波状況に難があったのでしょう』

「でもお前は繋がっているじゃないか。本体は日本に置いたコンテナだろ」

『シュア。ただしシステムの場合はホテル館内のローカルなイントラネットを経由していますので。外から直接電波が飛んでくる姉妹とは通信ルートが違うのです』

 暗闇の中、高さの分からない場所を延々下っていくのは恐怖しかないと思っていたけど、実際にはかえって気が楽だった。階段と同じで基本的には一段一段目で見て確かめながら降りていくんじゃなくて、リズムに身を任せるようなものなので困らない。

 ただ、視界を確保できない中で単純作業を繰り返していると、思考が内向きになっていくのが分かる。途中階に辿り着くたびにぴたりと閉じたドアの向こうから悲鳴や絶叫が聞こえてくるけど、それがリアルな声なのか幻聴なのか区別がつかなくなってきた。実際、根も葉もない幻聴であった方が『助かる』訳でもあるんだし。

 どれくらい時間が経っただろうか。

 委員長が短く言った。

「……静かになったね」

 重大な意味を持つ一言だったけど、誰も二の句を継げなかった。委員長本人でさえ。

 そのままさらにハシゴを降りる。

 何だかもう世界には誰も残っていなくて、僕達だけが取りこぼされたんじゃないかって気にさえなってきた。

 そんな心細さの中で、マクスウェルから報告があった。

『ユーザー様、そこが一階です』

「えっ? だってまだまだ先が……」

『地下フロアもあるからでしょう』

 言われてみれば当たり前だった。そして僕はエレベータードアを使って階数を数えるのも忘れていた。自分で考えている以上に頭が混乱しているのかもしれない。

 ちなみに中からドアのロックを外すのは簡単だった。太いレバーのような金属ツメが剥き出しだったからだ。普通に手で押してロックを外し、両開きのドアを開けて無機質な床へと身を乗り上げる。おそらく従業員用のバックヤードだろう。どこかのドアから見慣れたホテルフロントに出られるはずだ。

 誰もいなかった。

 人の気配もなかった。

 ゆったりとした室内音楽だけが遠くから聞こえてくる。そちらに向かっていけばフロントに出られるかもしれないけど……何故だか誰の足も動かなかった。見てはいけないものが待っているだけだ。そんな気がした。

「これからどうしよう、サトリ君」

「すぐ近くに非常口のサインはあるけど……」

 ガリガリガリガリ! という乾いた粒がぶつかるような音がドアの向こうから響く。相変わらずの砂嵐で、まともに立っていられるかどうかも分からない有様になっているはずだ。あんな中を走り回るのは無謀すぎる。何もできずに翻弄されている間にジェル達に取り囲まれるのがオチだ。向こうも向こうで翻弄されているかもしれないけど、互いに目隠ししたままこっちだけ接触イコール即死のペナルティを抱えて闇雲に手探りで移動を続けるなんて怖すぎる。

 かといって、一面の窓を暴風で叩き割られたホテルはすでに安全圏じゃない。フロントから屋上まで、全ての階が汚染されたと考えるべきだ。このまま留まり続けてもいつか見つかり、そして逃げ場を失う。

 そんな中、アナスタシアが静かに顔を上げた。

「いいや、行けるかもしれないわ」

「?」

「これ見てトゥルース、このホテルのセキュリティだけど、地下のブロックだけ独立してるわ」

 しれっとペットロボットの頭として差し込んだ携帯ゲーム機でサイバー攻撃かましていたようだが、今は拘泥していられない。

「下ってカジノだよな?」

「ベガスらしくね。でもってここにあるのは大金庫のはずだけど、それにしては説明のつかない装備が納品されているわ」

「?」

「大型送風機。トンネル工事なんかで中が酸欠状態にならないようにするためのものよ」

「ちょっと待て、つまりそれって……」

「強盗なんかがあった時のために、カジノから地下に潜って離れた場所へ逃げ出すための秘密の通路がこっそり用意してあるのよ。他のどことも枝分かれしてないから、出入り口さえ無事なら汚染もされてないはずだわ。どうするトゥルース、これが最後のチャンスなんじゃない?」