第三章



 誰もいない、冷房と室内音楽だけのカジノはあっちこっちにチップやトランプがばら撒かれていてひどい有り様だった。だけど幸い、赤い粘液や半分溶かされた被害者なんかはいなかった。

「トゥルース」

 奥へ向かう道すがら、バーカウンターを乗り越えたアナスタシアが何か大きなものを放り投げてきた。ずしりと重たい業務用洗剤みたいな馬鹿でかいケースを両手で受け止めると、

「オレンジジュース?」

「補給は大切だわ。特にツレの委員長は時差ボケで消耗してんでしょ」

 バーカウンターの裏から出てきたって事は、カクテル用のチェイサーかな?

「にしてもこれ何リットルだ。アメリカ人ってこれ何週間かけて飲み干すの?」

「リットルとか言われても分かんないわよポンドとガロンの国だからじゃない?」

 とりあえず三人揃ってグラスに注ぐも、やっぱり一向に減る様子がない。重いしかさばるので、一杯だけ喉を通してボトルは置いていく事にした。

「おっ、あれじゃないトゥルース?」

 奥も奥、ただしフロアの客からも普通に見える位置に、そいつはあった。

 分厚い金属扉は当然のように閉まっていたけど関係ない。サイバー攻撃でさっさとこじ開けて中に入る。

 秘密の地下通路と聞くと、どうしても供饗市の地下に根を張っていた光十字を思い出す。

 銀色のステンレスでできた壁や床に、生物感の全くない蛍光灯が等間隔に並ぶ。

「(……チッ。流石に委員長のスカートの中がそのまま床に反射する訳じゃないか)」

「トゥルース?」

「ちんちくりん僕がいつ貴様をお呼びした」

「こっちだって地味に気にしてんのよっ!  見られたい訳じゃないがそのまんま流されるのも腹立つわ!!」

 ちょいとした掴み合いになりつつ、僕達はこんな風に言い合う。

「これってカジノならどこでも持ってる当たり前の設備なのか?」

「さあ? だけどここはベガスなのよ、金に対する信頼確保のためなら何でもやるわ。実際、銀行強盗なんかも輸送車でも大金庫でもなく、裏口に停まった輸送車からの積み下ろしのタイミングを狙った犯行が一番多いみたいだし、秘密の出入り口くらいあっても不思議はないわよ」

 必要以上にわよわね繰り返しながらアナスタシアはすらすらと答えてくれた。

 ラスベガスはカジノの街だ。その一軒一軒にこんな秘密があるとすると、この街の地下も相当掘り進められているんじゃないのか?

 長い長い直線通路に入ると、意外にたくさんの人がいた。壁に背中を預ける高級スーツの男、床にぺたりとへたり込むバニーガール、お互い体を寄せ合っている老夫婦……。ここにいるのは紛れもない生存者達。騒ぎが起きた時、周囲で聞こえた悲鳴を無視して自分の安全を優先した人間達だった。……もちろん、僕自身も含めて。

 アナスタシアは身振りで先を促しつつ、

「ここにいる連中にかまけても状況は変わらないわ。さっさと奥に行きましょ、トゥルース」

「あ、ああ」

 ジェル相手にこんな言葉は使いたくないけど、状況は常に流動的だ。ここもいずれ安全地帯ではなくなり、やがてポンプで水が押し出されるようにこの人達もよそへ飛び出していくんだろう。

 通路の長さは一キロ以上あったと思う。

 床の真ん中に踏み切りみたいな埋め込み式のレールが走っている事に遅れて気づく。本来は電動の貨車でも使って一気に移動するのかもしれない。

「はあ、ふう。さっきのオレンジジュースが惜しいわね。こんな事なら部屋を出る前に蛇口でボトルに水でも汲んでおくんだったわ。それはまあ運が悪いとお腹壊すかもしれないけど、今なら一本四・九九ドルの炭酸水だのミネラルウォーターだのなんて贅沢は言わないわよ。ねえトゥルース」

「……そうか。水や食糧だって今後は問題になるかもしれないんだ」

 ジェルは生物捕食が基本みたいだったけど、スーパーの肉や野菜……つまり刈り取られて『死んだ』餌を食べるのかまでは今のところ不明。ただし手当たり次第に食い尽くすと仮定すると、問題は非常に厄介になる。

 当然ながら水や食糧を奪われれば僕達は活動できない。対ジェルだけでなく、同じ人間同士での争いも発生しかねない。

 また、人間以外も食べる場合は行動パターンが一段と読みにくくなる。これは物理的な封じ込めで打撃を与えてくるだろう。

「ベガスはもうダメっぽいわ」

「ああ、かもしれない……」

 つい断言を拒んで語尾を濁してしまう自分がいた。

『状況は加速度的に進行しています。ネズミ講のように被害者が増えている場合、やがてラスベガスから人が消え、ジェルばかりが闊歩するようになるのはそう難しくない予測でしょう』

「マクスウェル、被害はラスベガスだけなのか? 他の場所でも同時に起きていたりは?」

『ノー。面白半分のデマが書き込まれている事例もありますが、いずれも客観性はありません。今のところ、被害はラスベガス一点のみに抑えられていると評価するべきです』

 ……抑えられている、か。

 まるでまだまだ幸運みたいな言い方だった。

 だけど実際、こうまでやられてラスベガス行政側が反撃に転じるビジョンはちょっと想像がつかない。何しろ液状の怪物なんてどんな小さな隙間に潜り込んでいるか分かったものじゃない。実際の騒ぎが終息したって風評被害はしばらく続くだろう。砂漠は広い。復旧するより新しいカジノの街を造ってしまった方が簡単そうにさえ思える。

 口数が少なくなってきたところで、ようやく上りの階段が見えてきた。本当に直線の一本道。同じ地下には交わる事のない秘密の通路が後どれだけ走り回っているんだろう。何だか手編みのマフラーを作る毛糸から一本選んで進んでいるような気分だ。

 跳ね上げ式の金属扉に耳を寄せて、外の様子を窺う。

「……風の音はしなくなっているわ」

「単にドアが分厚かった、なんてオチは勘弁してくれよ」

『ノー。民間気象予報士の個人サイトを見る限り、砂嵐に終息宣言が出ています。複数のサイトを回ってソースの信憑性を確認中……』

 天板に掌を押し付けて、それから深呼吸。覚悟を決めると、ゆっくりと跳ね上げ式の扉を開けてみた。

 いきなり暴風で扉が吹き飛ばされる、なんて事はなかった。

 静かだ。

 やっぱり砂嵐は収まっているらしい。ただし暗い。天候なんて関係なく、もう日没寸前になっていた。砂漠の街の美しい夕陽を見ても感動できない。何だか焼き討ちにでも遭っているみたいな気分にさせられる。

 そろそろと表に出てみると、鼻に刺さる酸っぱい匂いがした。レストラン裏手のごみ捨て場だった。カジノの運び屋はゴミ袋やバケツに札束や金塊を詰めて地下に送り出していたのかもしれない。

 そして疑問に気づく。

「……何でこんなに静かなんだ?」

 ラスベガスは住んでいる人より、よそから観光で来る人の方が多い街だ。平日の日数平均では約四〇〇万人強。それだけの人間がジェルに追われて逃げ回っていれば、どこにいたって心を引き裂くような叫び声くらい聞こえそうなものだけど……。

「嘘でしょ」

 おっかなびっくり顔を出したアナスタシアも呆然としていた。

 委員長はそんな一一歳を後ろから抱き締めて不安を中和してあげようとしていた。あるいは総シルクなので衣類の手触りが気持ち良いのかも?

「サトリ君、これって……」

「ああ」

 最悪の予想があった。

 誰かに否定して欲しくて、僕は祈るような気持ちでハードルを置いた。


「もうすでに全滅して……ヤツらに乗っ取られたのか、ラスベガスは」


 気配に対する考え方が変わる。

 生存者というフレーズが頭の中の相関図から消えていく。

 のそり、と視界の端で何かが動いた。

 全く身を隠す素振りを見せない、丸々肥え太った自尊心の塊のような、そんな気配。路地の奥から顔を出したのは……やはり家の冷蔵庫を越える大きさの、赤い半透明の粘液。

 さっきよりも大きい。

 ……いや、いくつかの個体が絡み合っているのか?

 しかし、じっと考えている時間はなかった。

 僕は足元の小石を蹴飛ばし、すぐ近くにあったレストランのウィンドウを叩き割る。派手な音と共にガラスが砕け、風通しが良くなったせいか建物を突き抜けるように風が吹き、砂埃が店内に流れ込んでいく。合わせてジェルが屋内に飛び込んでいくのを待たずに、身振りで委員長とアナスタシアを誘導する。

「(……走れっ)」

 相手は奥から来たので、こっちは必然的にレストラン裏手から表通りへ逃げる事になる。

 だけど、こっちの方が酷かった。

 委員長が視覚で全身を殴られたように大きく仰け反る。

「うっ!?」

 一面の赤。

 滑走路みたいに幅広な大通りが真っ赤に埋め尽くされていた。まるでゼリー状の川だ。ラスベガスにいるのは一体だけじゃない。それにしたって多すぎやしないか!?

『やはり増殖または分裂を繰り返すのでしょうか。だとすれば早急に条件を探る必要があります』

「……いや」

 僕はごくりと喉を鳴らす。

 よくよく見れば、その川は完全な一本の存在じゃない。L字に縦長、X字にお団子……。いくつかの巨大でいびつな塊が隙間なく落ちものパズルみたいに敷き詰められている。同じ色や質感だから分かりにくかったんだ。

「見た目の体積と実際の質量は必ずしも一致するとは限らない。菊の花とか、チアリーダーのポンポンとか、お姫様ドレスのロングスカートを盛りまくるペチコートとか。かさを膨らませる方法はいくらでもあるはずだ」

 つまり薄膜状のボディを張り合わせた集合体のはずなんだけど……どっちみち脅威は変わらない。

 ジェルは触れたものを生物捕食ベースで溶かして吸収する。つまり見かけの変異だとしても、表面積が大きい方が危険なんだ。

 歩道も車道も区別がつかない。こんな中を一滴も触れずに進むなんて古武術のお師匠様だって無理だ。

「……こんなの、さっきまでなかったはずだわ。何よ、自分のカラダの使い方を学習しているっていうの?」

「……、」

 とにかくいったん引き返すしかない。

 気づかれたらおしまいだ。

 僕は身振りで再び委員長やアナスタシアにサインを送って、ゆっくりと来た道を引き返す。

 さっきの赤いジェルが割れたガラスから再び路地へ顔を出したところだった。

 進むも戻るもできない。

 待ったなしだった。

「走るんだッ!」

 大通りも裏道も塞がれている以上、もう中の様子を確かめてもいないレストランに飛び込むしかない。ガラス扉に体当たりするような格好で押し入った途端、街の空気全体がざわりと蠢くのをしっかりと感じた。ラスベガス全体を敵に回した。何となくそんな気がした。

 直後に割れた窓から赤いジェルが飛び込んでくる。二本足で地べたを逃げ回っているだけじゃやられる。頼みの綱はマクスウェルが以前話していた内容だけだった。

 三人揃って、死にもの狂いでカウンターを飛び越えて厨房へ転がり込む。勢い余ってオーブンレンジの扉に背中をぶつけた。豚の丸焼きとか作れそうな業務用のものだ。

 そしてそこにジェルが飛びかかってきた。

「っ!!」

 無我夢中だった。

 とにかくオーブンの蓋を開けて横に転がる。狙いを外して調理器具の中にジェルが飛び込んだ途端、肩からぶつかって強引に蓋を閉めた。

 べぢょり!! と。

 耐熱ガラスの蓋にジェルが張り付いて、直線距離一センチにいた僕の心臓が縮む。華氏? ファーレンハイト? 雄叫びを上げながら、いまいち単位の実感できないオーブンのつまみを無理矢理回す。

 速やかにガスが点火し、そして無慈悲な火葬が始まった。

 目も口もないジェルには悲鳴なんかない。いちいちかまけている暇もない。暴れ回っているところを見ると、これで死ぬかどうかはさておいて、とりあえず辛くて苦しいものらしい。

 ヤツらを後ろに下がらせられれば結構だ。

 僕は調理台の上にあった金物をいくつか手に取るが、包丁や果物ナイフは短すぎてこっちが危ない。仕方がないのでモップの柄の先にダクトテープでくくりつけてから、ガス台のスイッチを弾いて点火した。ジェルに刃物は効かなくたって、金物を丸ごと炙ってしまえば熱を怖がるはずだ。

「委員長、携帯コンロなんかに使うカセットボンベがあるからいくつか確保しておいて」

「う、うん……」

「えとトゥルース、爆弾でも作る気なの?」

「料理の世界には魚の表面に焼き目をつけるための片手持ちバーナーがあるんだ。そいつでこの包丁槍の先端を定期的に熱すれば威力は落ちない。……でも爆弾もありかもな。マクスウェル、アルコール度数の高い火酒をピックアップ。液体洗剤と混ぜてボトルに詰めれば火炎瓶代わりになるだろ」

『警告、災害環境下での火の拡散はあまり推奨しませんが』

「非常時だ。頼む」

 スマホの画面越しに重ね合わせたデータを頼りに、たくさん並んでいる酒瓶から目的の品を抜き取る。

 ずんっ……という低い震動がレストラン全体を突き上げたのはその時だった。

「なに、かしら? 地震……?」

『ノー。地面を伝うというより、壁を振動させる方が近いです。大気の不規則な攪拌が原因でしょう』

 ボンベをたくさん抱えた委員長が不安そうにあちこち見回す。

 アナスタシアもごくりと喉を鳴らして、

「ねえ、まずいわトゥルース。そんなハンドメイドじゃどうにもならないかもしれないわよ」

「まさか……」

『シュア。外壁の震えからの大気流動の物理演算完了。表通りの「川」がまとめて反応を示したようです』

「お、おいっ。あくまで見た目の体積を膨らませているだけだから、実際の重さは変わらないよな。つまり風船や発泡スチロールみたいにふんわりとしか動けないよな!?」

『シュア。ただし、鋼鉄製であれプラスチック製であれ、同じ大きさの団扇が生み出す大気の攪拌、つまり突風に差はありません。あれだけの体積が一挙に振るわれた場合、空気のハンマーが暴威を撒き散らす事でしょう』

「……ッ!?」

 絶叫している暇もなかった。

 作りかけの火炎瓶を放って、とにかく包丁槍だけ掴んで裏口へ走る。全員で扉から路地へ飛び出した途端、レストラン全体が巨大な掌で上から叩き潰す勢いで呆気なくぺしゃんこになった。あまりの威力に、いっそシュールな絵本を読んでいる気分になる。

 複数の歪な水袋を張り合わせたような、首長竜に似た異様がこっちを睥睨していた。

 その頭が大きく振り回される。あんなの直撃したら強酸とか関係なく挽肉にされる。何ができるでもなかったけど、とにかく無我夢中で先端を熱した包丁槍を投げつけていた。

 向こうからすれば小人が爪楊枝を投げたくらいの感覚のはずだ。

 なのに。

 にも拘わらず。

 包丁槍がぶつかった途端、真っ赤な首長竜は苦しそうにのたうち回り、自分で自分の重心を支えきれずにそのまま向こうへひっくり返ってしまった。赤い半透明の花びらみたいなものが大量に真上へ散るのが見える。チアリーダーのポンポンやお姫様ドレスのロングスカートみたいな仮初めのかさ増しを維持できず、元の水たまりみたいなボディに戻っていったのかもしれない。

 でも、あんなに……?

 思わず包丁槍を手放してしまった事に心細さを感じるくらいの、劇的な効果だった。

「っ、とにかく今の内にここを離れよう。委員長、アナスタシア!」

 同じ奇跡が二回も起きるとは限らない。再現実験を繰り返していない以上、実は熱じゃなくて他の何かが原因だった可能性も否定できないんだし。逃げられる時に逃げる。やっぱりこれが基本だ。

「どうするのよトゥルース!?」

「砂嵐は消えた。レスキュー側のやるべき事は変わらない。彼らは空から来るから、ヘリポート近くでサインを送りながら救助の時を待つしかない!」

『ノー。数時間前とは状況が違います。無意味と知りつつの携帯電波などの発信も全く見られません。つまりデジタルな悲鳴が消えました。ごく一部の地下生存者を除き全滅と判断すべきでしょう』

 ……分かってる。

 今やラスベガス滞在の四〇〇万人の大半が呑み込まれたと見て良い。あの花びらみたいなかさ増しで見た目の体積を膨らませられるなら、ビルとビルの間にブリッジを作って乗り越えるどころか、仮初めの巨体を利用した空気ハンマーで高層ビルの壁さえ壊しかねない。さっきのレストランが良い例だ。もう堅牢な砦に閉じ籠ってその時を待つような段階を越えた。そもそも壊滅済みと認識された場合、救助のヘリが派遣されるかだって定かじゃない。

 でも。

 だけど。

 僕は一番可能性の高い選択肢に賭けるしかないんだ。何故ならこの肩に載っているのは僕一人の命だけじゃないんだから。委員長とアナスタシア。最低でも彼女達だけはヘリに乗せたい。絶対に。

 その時だった。

 先を走る僕に、後からついてきた委員長が言葉を投げてきた。

「でも、サトリ君は本当にそれで良いの?」

「っ」

 これが最善だ。

 最も命を減らす可能性を低く抑える人道的な考え方だ。

 なのに委員長はそっと付け足した。

 そっと、刺した。


「だって、それじゃあエリカさんもアユミちゃんも助けてあげられないじゃない」