第五章



 激しい目眩と頭痛に頭を叩かれた。

 だけどこめかみからアイスピックをねじ込まれるようなその痛みで、ようやく気づく。僕はまだ死んでいない。何がどうなったのか理解が追い着かないけど、ひとまずラスベガスの街に落ちたのは中型核投下爆弾じゃなかったみたいだ。

 無様にぶっ倒れたまま強引に目をこじ開ける。床は斜めに傾いていたし、外壁なんかごっそりなくなっていた。普通の爆弾、なんて呼び方をしても良いものなのか。とにかくそいつはこのビルに直撃しなかったらしい。表の爆発の余波を受けただけでもこの有様だ。

 外の空気が焦げ臭い。

 プログラム制御で自動的に切り替わる電飾看板の光の洪水で溢れ返っているはずの街並みは、赤と黒ですっかり焼き上がっていた。そして黒煙に汚された夜空の向こうで、得体の知れない複数の影がVの字を作っていた。そこから豆粒みたいなものが列を作って地上へ投げ込まれていく。

 あれが全部。

 これだけの破壊力を持った……爆弾?

「は、はは」

 現実感なんかなかった。

 この場に居合わせているのに、破壊が遠い。まるでスクリーンの向こうを見ているみたいだ。努力しようがしまいが変えられない結果を目の当たりにした時に、人はこんなにも世界を諦めてしまうものなのか。

 でも実際、運は良かったんだ。

 どこかに落ちた爆弾がほんの一〇メートルくらいこっちに近づいていたら、それだけで僕達は衝撃波で全身の内臓を体の中から絞られていたかもしれない。こうやって、手足も頭も全部揃っている。それだけでも幸運だったんだ。

 そんな風に思っていた時だった。

 掌が、何かぬめるような感触を受け取った。

「……や、やあトゥルース……」

 うそ、だろ。

「済まないわね、ドジっちゃったわ。はは、ネットじゃ色々ピンチを切り抜けてきたけど、リアルでこんなに死を感じるのは初めてだわ……」

 同じ場所にいたんだ。

 すぐ隣に倒れていたんだ。条件なんて完全に五分のはずだった。なのに何でアナスタシアのキャミソール、そのお腹にビル壁を支えていた人指し指より太い鉄筋が刺さっているんだよっ!?

「待てよ、何だこれ、待ってくれ!! アナスタシア!?」

「メイデンだって言っているでしょ……」

 起き上がる事もできずに這いずって小さな体を抱き寄せる僕に、青白い顔の友人はそれでも笑ってくれた。

 やせ我慢しているのか。いいや耐えられるはずがない。

 だとすると、もう、痛みの感覚もなくなっているのか……。

「ヤバくなったら、ワタシの事は置いていってちょうだい」

「嫌だよ、何だよ、その諦めの良さは。もっと足掻けよ! 泣いて叫んで助けてって言えよ!! こんな時まで上から目線をやめられないのかよ!?」

「なに、言っているの……。これでもとっておきだったなのよ。何とも思ってないヤツのために、わざわざ顔を作ったりなんかしないわよ。トゥルース、アンタがいなけりゃワタシはとっくに一一歳のガキに戻ってたわよ。馬鹿みたいにわんわん泣いて手足を振り回して、自分の傷を広げていたわ。見せたくないのよ、そういうの。アンタにだけはさ」

 少し離れた所で、片手で頭を押さえながら起き上がった姉さんがこっちを見て驚き、そしてわずかに唇を噛んだ。尖った八重歯が、いいや吸血鬼の牙が自前の柔らかい唇の端へわずかに沈み込む。

 そういう選択肢も、必要になるかもって事か。

 ここで儚い命の器が砕けていくのを黙って見ているくらいなら、いっそ。


 ……噛んでもらった方が。


 首を横に振る。

 ダメだ、姉さんに罪は負わせられない。いったん滑り降りたら、何でもかんでもそれで『助けた事』にしてしまう。そんなの絶対にダメだ。

 大体、こんな小さな女の子が傷だらけの体に残っていた力を振り絞って、ここまで言ってくれたんだ。

 対する僕が姉さんのスカートを掴んで後ろに引っ込んでいられるか。応えるんだ。この命を守るために立ち上がるんだよ、この僕が!!

「アナスタシア……」

「何よ、情にほだされて愛の告白でもしてくれるの?」

「アンタは僕が助ける。反論なんかさせない、それが世界の誰であってもだ」

 小さな友人からの、言葉が詰まった。

 いいや。

 その小綺麗で高飛車な顔が、不意打ちでも食らったようにくしゃりと歪んだ。何かの箍が外れそうになっていた。両手で顔を隠したいだろうに、彼女は満足に手を動かす事もできなかった。

 やがて彼女は震える唇を動かして、言った。

「……馬鹿野郎だわ」

 アナスタシアの腹に刺さった鉄筋はここでは抜けない。余計に出血が増すだけだ。

「マクスウェル、このスマホ無事か」

『シュア』

「ハーバルサイエンスのイントラネットを調べろ。ここで応急手当できるかチェック」

『ノー。通信途絶。回線というよりサーバーが破壊されています。アクセス不能』

「ならここから近くにある病院を検索! アメリカは医療消費大国だ、こんなセレブな街なら弁護士と同じくらい医者だって溢れ返っているだろう!?」

『ですが、ユーザー様の手で手当を行うのですか? 明らかに腹腔と血管の縫合が必要な状態です』

「アメリカの法律は知らない。だけどこの国じゃリモートオペ用の手術台も珍しくないだろ。マクスウェル、適当な大学病院から医療マニュアルを検索。できれば外科手術用のシリアスゲームのソフトウェアがあると良い。お前の演算力にものを言わせて今すぐ反復学習開始、全部叩き込め。マクスウェル、僕の願いにアンタが具体的な技術を提供してくれ!!」

『シュア。必要データにアクセス中……。各病院からのリモートオペに関する医療データ提供サービスより逆算完了。機材についてはカジノ・デザートドリームの地下駐車場が一番近いです。ハーバルサイエンスから徒歩一〇分。ただし爆撃状況により地図上の道順は役に立たない可能性もあります、ご注意を』

「駐車場?」

『VIPお抱えの主治医の専用トラックです。内部で手術可能。よほどクライアントが健康に気を配っていたんでしょう』

「あらかじめ救急車を待機させるどころか、自前の小さな病院を持ち歩いていたっていうのか。だったら検査入院よりもジョギングに精を出せば良いものを……」

 ともあれ、やるべき事は決まった。

 僕はぐるりと辺りを見回す。委員長は……気を失ったままか。アナスタシアと違って怪我はなさそうだけど、本来ならあれが正しい。アークエネミーでもない生身の人間の僕が普通に起き上がっている方が普通じゃないんだ。

 ハーバルサイエンスは壊滅した。姉さん達も解放された。アユミの防腐剤に関するデータは世界中に拡散している。彼女達にはもうこのラスベガスでやり残した事はないはずだ。

「姉さん、アユミ。僕はもう一つだけやるべき事ができた。姉さん達は先に委員長を連れて逃げて。軍の目的がラスベガスの熱処理なら、街を出て砂漠に入れば爆弾は降ってこないと思う」

「何言っているんですか。サトリ君にだけ格好良い事はさせませんよ」

「ふぐうー。この状況で怪我人抱えた生身の人間放り出す方が怖いよ。辺りはジェルだらけで、しかも夜空から一発二トンが雨あられだよ? あたしだって頭の上に直撃したら流石にバラバラになる破壊力だっていうのに」

 ……良い家族を持った。

 一度だけ何かのけじめみたいに頭を下げて、それからすぐに切り出した。

「始めよう!」

 これは努力しようがしまいが結果を変えられない事態なんかじゃない。

 そんな風には呼ばせない。

 全部僕達がぶっ壊してやるからな、アナスタシア!!



 スチールラックの柱を二本引っこ抜いて、適当な白衣を二枚重ねにして、まずは即席の担架を作った。

 前後を鉄筋が貫通しているアナスタシアは、おんぶも抱っこもできない。横倒しにしたまま担架に預け、アユミと二人がかりで持ち上げる。気絶したままの委員長は姉さんにおぶってもらう事にした。

 両手が塞がるので、スマホを持てない。仕方がないので担架の上、アナスタシアの頭の横に置いておいた。

「行くぞアユミ、落とすなよ」

「分かってるって」

 ビルの状態も悪い。いつ亀裂の入った天井が崩れて冷蔵庫より大きなコンクリートの塊が降ってくるか分かったもんじゃない。

「フロアの外は普通にジェルとかハーバルサイエンスの生き残りとかがいるぞ。気をつけるんだ」

「お姉ちゃん」

「お任せあれー」

 いや、その姉さんだって迂闊に接触したら生物捕食されちゃうんだし、気絶した委員長を背負ったまま前衛に立ってほしくないんだけど、贅沢言ってる場合じゃないのか。

「戦うんじゃないよ」

 担架を両手で掴んだまま、アユミが何の気なしに言った。

「お姉ちゃんは吸血鬼で、つまり体が再生するアークエネミーだもん。その気になったら手足千切って放り投げれば撒き餌になるでしょ?」

「姉さん馬鹿野郎……ッ」

 思わず状況を忘れて叫びそうになる。美人の家族にそういうのしてほしくないんだよ! バーチャルの姉妹ゲンカでも結構堪えたっていうのに!!

 が、

「……覚悟していた割に、横槍入りませんね」

「しなくて良いのそんなの。……でも、これも空爆の影響か?」

 この非常階段だって所々が破壊され、禍々しい赤と黒の夜景が覗けていた。そこかしこからサウナみたいな熱風が入り込んできている。直接炎を浴びなくても、ジェルの行動の自由は抑制されているのかもしれない。あるいは激しい音響や震動がヤツらの感覚器官を狂わせているのか。

 何でも良い。

 こっちは立ち止まっている暇はないんだ。

 先に進めるなら行ける所まで行くしかない。

「……大丈夫だ」

 自分以外の命をこんな間近に感じた事はなかった。

「大丈夫だからな、アナスタシア」

 早くアナスタシアに返す。それだけを思って、万に一つも段を踏み外さないよう気をつけながらしっかりと足を動かし続けた。

 担架の重さなんか気にならない。

 むしろこんなに軽い事が逆に激しく不安を煽ってきた。

 何とかして一階のエントランスまで戻る。ガラスは全部割れて半分潰れたような出口から外へ顔を出す。


 真っ赤な地獄が広がっていた。


 あれだけ豪華絢爛を極めたラスベガスはもうない。どうやったらそんなに燃え上がるのか、鉄筋コンクリートの高層ビルの窓全部から轟々と火を噴いている。窓辺で不自然にくねっている黒い影はジェルだろうか。生存者でない事を祈るしかない。

 息を吸って吐くだけで気が滅入る。煙の匂いが肺の奥まで溜まる。担架の上のアナスタシアがまた心配になってきた。

「爆撃機編隊は少し離れた所を空爆しているみたいですね」

 気を失った委員長を背負ったまま、姉さんが遠くを見ていた。

 ボワドガボガドボッッッ!! と。

 濁音の多い低い爆発音と地上の粉塵が、乱立するビルの向こうで帯状に炸裂していた。あんなもんに巻き込まれたら逃げ場なんかない。空間ごと圧搾されて原形も残らないぞ。

 同じように炎の照り返しで赤く爛れた夜空を見上げるアユミがこんな風に言ってきた。

「お兄ちゃん、裏手に回ろう」

「良いけど、そんなので何とかなるのか?」

「いえ、それで正解です。どうやらラスベガスをブロックごとに切り分けて、炎の壁でジェルを封殺しようとしているみたいですね。つまり縦横に走る大通りに沿って焼夷弾を落としているみたいで」

「……でもそしたら僕達だって炎の壁は越えられ、いや、待てよ?」

 担架の上のスマホがメッセージを飛ばしてくる。

『シュア。大抵のカジノには地下ルートの脱出口が個別に用意されていたはずです。決して交わる事なく、それでいて全体を見渡せば蜘蛛の巣のように広がる直線トンネルの網が』

 ……だとすると、あれだけやったって完璧じゃないじゃないか。炎の熱に負けたジェル達が地下に逃げ込んだらどうなるんだ。

 疑問は尽きないけど、軍(?)の作戦はこれで終わりじゃないかもしれない。ジェルはゴムやプラスチックは食べないようだし、大雑把に街を切り分けてから分厚い防護服着た火炎放射器部隊でも送り込んで、屋内や地下も炎で一掃……なんて可能性もありえる。

 ただ、そもそもジェルって炎で明確に『死ぬ』のか?

 確かに炎を避けて行動しているのは事実だけど、僕達は今の今までトドメを刺した瞬間には立ち会っていない。もしも場当たり的な焼夷弾や火炎放射器で炎を浴びせて、それだけで『倒した気になって』残骸を確かめるために鎮火を待ったりしたら……終わったと思った頃に再び大変な事になるんじゃないのか、これ?

「歩いて一〇分の距離なら同じブロックだよ。秘密のトンネル探しに明け暮れる必要はないはず」

 とにかく目的のカジノの地下駐車場まで急がなくちゃならない。セレブな手術車が瓦礫に埋まったり炎に巻かれたりしたら、アナスタシアの手当てもできなくなってしまう。

 担架を抱えたまま狭い路地に入ると、さっきよりも炎の照り返しがなくなったせいか、ぐっと闇が深くなった。足元が心配だ。それに熱風が抜けているせいなのか、一気に汗が噴き出す。呼吸が詰まるような、見えない壁のような暑さを感じた。

 街を焼いて作った暑さが、風の形で顔にぶつかってくる。まるで焼死体と頬擦りを強要されているような不快感が襲ってくる。

「しっ、ストップお兄ちゃん」

 担架を抱えて前を進むアユミが、腰をひねって行く先を眺めたまま小さく呟いていた。路地を抜けた先の、別の大通り。赤と黒で染まる瓦礫だらけの街並みを見据えながら、彼女は囁く。

「……三つ向こうの瓦礫の山。陰で何かチラチラ動いてる」

 ごくりと僕は喉を鳴らしていた。相手は誰だ。人か、それともジェルか。どっちにしたって身の危険は否定できない。ここまで生き残ったって事は、ここまで生き残るためのシビアな選択を繰り返してきた危険人物って事でもある。……自分で言えた義理じゃないけど。こっちは重たい担架を抱えている以上、敵対意識むき出しの相手から見据えられたら、反撃も逃走も相当厳しくなってくる。

 ヤツはどっちだ……?

 自分の心臓さえやかましく思える中、必死になって手も届かない領域を我が物にしようと視線を巡らせる。

 やがて。

 のそりと遮蔽の裏から出てきたのは、

「っ!? ジェル!!」

 まずい。アユミやエリカ姉さんだってアークエネミーだけど、生身の徒手空拳で挑めば生物捕食に特化したジェルに繰り出した手足の先から喰われてしまう。しかし今から逃げ切れるか。重たい担架を抱えたまま!!

「……ワタシは、良いわ。トゥルース早く逃げて……」

「うるさいアナスタシア、ちょっと黙ってろっ」

 ところが、意識のない委員長をおぶった姉さんはゆっくり優しくこう言ってきた。

「サトリ君も落ち着いて。どう、どう、お静かに」

「……?」

 疑問に思う僕だったけど、そうこうしている間にもう次の動きがあった。

 ジェルが。

 行く手を塞いでいたはずの赤い粘液が、全く見当違いな方向に這いずり始めたんだ。

「ジェルは体表面を使って空気中の微粒子を消化する事で、擬似的に空気の攪拌を感知して獲物を追い駆ける。ですよね?」

 姉さんはそんな風に言っていた。

「爆撃であっちこっちが燃え上がって気流が複雑化している上、煤や煙が空間中に微粒子を過剰供給しているんです。向こうの感覚器官もまともに働いてくれないんでしょう」

 そうか。

 何しろ異常な上昇気流のせいで局所的に炎を飲み込んだ、オレンジ色に輝く竜巻が縦断していくような地獄絵図だ。完全に普段の地球を超えた環境なんだ。

「お兄ちゃん。ゆっくり行こう、ゆっくり。今なら横をすり抜けられる……」

「……、」

 迂闊に返事もできなかった。

 喉が詰まったように呼吸もままならない。とにかく指示に従うしかなかった。感覚器官をかき乱されているとはいえ、まだ目に見える位置にジェルがいるんだ。森の中でばったり遭遇した馬鹿でかい熊が、いつまで経っても姿を消してくれないようなこの感じ。何かの気紛れ一つでヤツが向きを変えたら、それだけで一気に全滅もありえる。

 普段だったら絶対にこんな道は行かない。不発弾なんて爆発するしないに関係なく、わざわざ近づこうなんて考えない。

 ……アナスタシアの命が危なくなければ。

 ごくりと喉を鳴らして、アユミと歩幅を合わせて担架をゆっくり運んでいく。足場もおぼつかない瓦礫の詰め合わせを踏み越えて。視界というより頭の奥がくらくらした。いつまで歩いても死神が背中にへばりついたような感覚が消えてくれない。

「大丈夫……みたいですね」

 やがて、背後を振り返った姉さんがそんな風に言った。

 ようやっと詰まった息を吐き出したけど、何の保証もない。一秒後にいきなり足元の瓦礫の隙間から赤い粘液が湧き出したらそれでもうおしまいなんだ。ここは大きな道だから爆撃もありえる。

 現実は非情で、どこに死の行き止まりがあるか分かったものじゃない。

 世界最強の米空軍だって完璧じゃなかった。ジェルは追い詰められつつも、まだこのラスベガスを這いずっている。

「はあ、はあ」

「サトリ君、呼吸に注意。苦しいからって必要以上に深呼吸を繰り返すと過呼吸にやられて思考を奪われてしまいますよ」

「ならどうしろっていうんだ……」

「自分の歩幅と呼吸のリズムを合わせると比較的自己制御しやすいです。まあこれは、どちらかというと光十字側の技術ですけどね」

「……、」

 何故かすぐには参考にできなかった。僕みたいなモヤシ人間にも汗臭い意地ってものがあるんだろうか。正直に言って、自分で驚いていた。

『ユーザー様、目的地に到着しました』

「?」

『カジノ・デザートドリームです。建物の上半分が折れて倒壊し、電飾看板も落ちているため分かりにくいかもしれませんが』

 まるで戦争映画の世界だった。

 元は劇場やショッピングモールなどと同居する高層ビルだったんだろうけど、半分以上ぼっきり折れて背の低いビルの群れに大量の瓦礫を雪崩れ込ませていた。表に面した壁は残らず黒ずんでいる。地面でバチバチ火花を散らしているのは、多分電飾看板の成れの果てだろう。

 言われなければ何が何だか分からなかったはずだ。

「マクスウェル、地下への入口は?」

『半壊した屋内に入り、下り階段に向かうのが最短ルートです。裏手に地下駐車場直通の車両用スロープがありますが、位置関係から見ておそらく瓦礫の山に埋もれています』

 最後の最後まで命懸けだ。

 ジェルや空爆だけじゃない。僕達の周りはこれ以上ないくらい多くの死で溢れている。

 一面砕けたガラスだらけの地面をじゃりじゃり踏みながら、ただでさえ暗い夜の中、内部で配線が千切れたのかまともな照明もない屋内に入っていく。

「……今に電気火災になるぞ」

『ガス管なども心配です』

 非常口を示すランプさえ点いていない中では、スマホのバックライトがこんなにも頼もしい。やっぱり夜の住人なのか、やたら夜目の効く吸血鬼の姉さんのアドバイスもあって、どうにかこうにか金属探知機ゲート手前、右側にある地下駐車場行きの下り階段を見つけ出した。

 ドアは歪んで開かなかったけど、委員長をおんぶしたまま姉さんが大変美しいおみ足を上げて足の裏を押しつけるようにキックを一発かますと、金属のドア全体がくの字に折れて奥へ吹っ飛んだ。

「……、」

 両手で担架を支えながら、首をひねるようにして地下への階段を見やる。ここまで来ても安心はできない。炎に負けて屋内に引っ込んだジェル達がひしめいていたら一巻の終わりだ。

『ジェルは空気の攪拌に反応します。エリカ嬢がドアを蹴破っても反応がなかったところから見るに、階段に潜む可能性は低いでしょう』

「ゼロとも言い切れないけどな。進もう」

 ジェルは熱を嫌う。誰かの手が空いていれば、表で散々燃えている瓦礫の中からオレンジ色に赤熱した火かき棒代わりの鉄パイプの一本でも拾ってくるだけで大分変わるんだけど、贅沢も言っていられない。

 一歩一歩気をつけながら、暗い階段を降りていく。最後の段を踏んで、そっと一息。そして扉を潜って広いスペースに辿り着いた。

 地下駐車場。

「マクスウェル。詳しい位置は? こんな状況じゃ防犯カメラも屋内イントラネットも潰れていると思うけど」

『シュア、問題ありません。該当車両のドライブレコーダーの映像より位置を特定。縦四列目横一五列目の医療用トラックです。サイズは宅配業者程度、周辺車両のミラーから、側面に二匹の蛇が絡みついた十字架のデザインが確認されます。捜索の参考に』

「アスクレピオスか」

 したり顔で呟いたところで、こんな雑学、非常時には何の役にも立たない。早く手術車に向かってアナスタシアを助けないと。

 地下駐車場は半分、いや三分の一くらい天井が崩れて瓦礫で埋まっていた。

 問題の手術車は結構ギリギリだ。飛び散った小石大の破片が跳ね飛んだのか、フロントガラスは細かい亀裂で真っ白に埋まり、車体もボコボコにへこんでいる。

『車両後部の精密医療機器に息吹を与えるには、まず運転席側に向かい、エンジンをかける必要があります』

「分かった。アナスタシア、ゆっくり下ろすぞ」

「……もう。好きに、してちょうだい……」

「女の子が簡単に言うような台詞じゃないな。アユミ」

「分かった。ゆっくりね」

 いったんアナスタシアを載せた担架を床に下ろし、僕は両手の自由を得る。解放された二の腕が今さらのようにビリビリと鈍い痛みを発していた。ついつい車体の下を覗いて赤いジェルがいないか確かめてしまった。

 もちろん手術車の鍵なんて持ってない。

「マクスウェル、扉のロックは? 今時の車なら大抵電波か赤外線だろ」

『ノー。腐っても医療関係だからか、ロックは一般車より厳重にできています。一本の鍵で電子ロックとアナログキーを併用しているため、システム単体では解除不能です』

「ああそうかい」

 瓦礫の中から電話帳サイズのコンクリートを拾い上げると、運転席側の窓を叩き割った。派手にガラスが飛び散る。僕はブロックを捨てて窓から中に手を伸ばし、手動でドアロックを外す。

 ちなみに防犯ブザーは鳴らなかった。瓦礫が押し寄せた際にフロントガラスを割っているし、その時に散々喚き散らして力尽きたのかもしれない。

「サトリ君はこう、非常時に限って男らしさが五倍増しになりますよね」

 じゃあいつもはどうなんだと姉さんの評価が気になるけど、問答している暇はない。座席に散らばった細かいガラスを適当に払いのけると、運転席へと乗り込んでいく。

「マクスウェル、これからどうすれば良い。エンジンの点火は? バッテリーだけじゃ心細いよな」

『エグゼス社の開発サーバーより図面をダウンロード。こちらの指示に従ってハンドル下のカバーを取り外してください』

 今時の車は古い刑事ドラマみたいに千切った配線を繋ぎ合わせたくらいじゃエンジンは反応しない。何でもかんでも暗号化された信号制御だから、不正な通電があれば逆にシステムは閉じてしまう。

 でも逆に言えば、プログラムに強い端末を内部配線に接続できれば話は変わる。

「驚いたな。まんまスマホの接続端子とぴったりだぞ」

『完全自動運転への切り替えを視野に入れて規格を統一した結果でしょう。メンテナンスケーブルからの直結で、車内システムに侵入できます』

 車はハンドルを回せばその力がタイヤに伝わるんじゃなくて、電気信号でサーボ(つまりモーターの一種)を回してタイヤに力を伝える。もう分かると思うけど、間のプログラムをいじればやりたい放題だ。車体の下に爆弾を貼り付けるよりもはるかに自然に物騒な事にも使える。こんなのをAIに制御を預けて世界と繋がるインターネットにまでそのまんま窓口を開ける時代になったんだから、世界ってヤツは順調に破滅に向かっている訳だ。

 ガォン! という派手な音と共に車が振動し、ヘッドライトが点灯した。速度計や燃料計などのデジタル表示が闇に浮かぶ。

「マクスウェルはどうする?」

『エンジンが点火すれば、接続は不要です。ユーザー様のお供をさせていただければ』

 そもそもマクスウェルにはリモートオペの手術台を制御してもらわなくちゃならない。接続ケーブルからスマホを引っこ抜くと、運転席から降りて車体後部へ向かった。

 両開きの扉を開け放つと、奥には半透明の分厚いビニールシートの壁があり、さらにその奥にはロボットアームやコンピュータなど、びっしりとハイテク機器が並んでいた。全体的には歯医者さんの椅子がSSRカードにグレードアップした感じだ。

「……さてマクスウェル、お前の手を貸してくれ。僕には何が何だかさっぱりだ。手術のやり方どころかプロの手の消毒方法だって見当もつかない」

『シュア。マニュアルの解析と反復学習は仕上げています。スレーヴ医療システムとコンタクト、マスター権限で正常通りに掌握。ユーザー様は当システムの指示に従ってください』

「お前に全部任せるよ。僕の大切な友達を頼む」

『シュア』

 そこから先は正直言ってあんまり覚えていない。何だか無駄に豪華で多機能なシステムキッチンに入ってスマホでお料理サイトを見ながら慣れないお弁当を作っているような気分だった。殺菌消毒のレベルは髪の毛一本許さない手術室っていうよりは、急患が運ばれてくる緊急外来の応急チームって感じの方が近かったと思う。まあ、アナスタシアには鉄筋が刺さったままだし、そのせいで衣服も脱がせられない。やれる事に限度があるんだろう。

 姉さん、アユミ、委員長は車の外だ。様々な機材が並ぶ車内はスペースも広くないし、消毒面の都合もある。

 ただ、特に頭に焼き付いた事が一つある。

 一番思い出したくないものに限って、だ。

『止血、縫合、輸血の準備は整いました。栓の代わりをしていた鉄筋を引き抜いてください。そうしなければ先に進めません』

「鉄筋を? 僕が!? ぜっ、全部マクスウェルがやってくれるんじゃないのか!」

『ノー。手術台のアームは精密さのみを追求しているため、こうした力仕事には不向きです』

「麻酔はっ? アナスタシアはまだ起きてる!」

『ノー。全身麻酔をゆっくりかけている時間的な余裕はありません。また、今の衰弱した状態から麻酔下に置けばそのまま命に関わります』

「せっ、せめて局部麻酔とか何とか……」

『出血から時間が経っています。さらに麻酔が効くまで待っている暇はありません』

 一一歳の女の子のお腹を真っ直ぐ貫通した鉄筋を掴んで手前に引っこ抜く。

 目眩がするような時間だった。

『幸い、鉄筋自体は折れ曲がっている訳でもなく、大きな突起もありません。ゆっくりと、確実に、真っ直ぐ引けば周辺の組織を傷つける事もないでしょう』

 マクスウェルはそう言っていた。

 でも実際に掴んで力を込めると、何かひどく柔らかい抵抗感があった。指先全部に震えのような怖気が走る。奥歯を噛み締めてもカチカチという音が止まらない。

「……ははっ。泣くんじゃないわよ、トゥルース。女の子の前でしょ」

 かえって、ハイテクなまな板で為すがままなアナスタシアの方が気丈だった。

「どっちに転がっても、アンタには感謝しているわ。だから迷わないで、たとえ何があってもワタシ達は友達だわ」

 自分は何かとんでもない事をしているんじゃないか。人を助けるつもりになって実際にはその体を内側からズタズタに引き裂いているんじゃないか。そんな気になってくる。

 それでも何とかして人差し指の太さの鉄筋を最後まで引き抜く。

 緊張の糸が切れた。

 血まみれの忌々しい鉄筋を抱えたまま、僕は後ろに尻餅をついてしまう。

 スマホがぶーぶー振動して注意を促してきた。

『このまま止血と縫合に入ります。アナスタシアの衣服を脱がしている余裕はありません。シルク製のキャミソールの布地を一部切り裂きますが、事後承諾をお願いします』

「ああ……」

『基本的な術式はこちらで実行しますが、指示に従ってアナスタシアの体の向きを変えていただけると助かります』

 記憶は途切れる。ここから床に手をつけてしまった僕は手袋を替えて消毒洗浄からやり直し、人間っていうよりマクスウェルに操られるぽんこつなマシンになっていたんじゃないかって思う。右から左に、上から下へ。そんな一定の流れに身を委ねていないと心が保ちそうになかった。

 が。

『ちょっと待ってください。ユーザー様、これは少し妙です』

「何だマクスウェル、ここまで来てトラブルなんて言わないよな!? もう栓をしていた鉄筋は抜いた後だぞ!」

『いえ、術式の手順に問題がある訳ではなく、そもそもアクシデントではありません。予想外ですが、嬉しい誤算です』

 ?

 何を言っている???

『栓となる鉄筋を抜いた以上は傷口から出血しなくてはおかしいはずなのですが、予想以上に少ないのです。普通ならありえない』

「たまたま、太い血管や臓器を避けたって事か……?」

『ノー。位置関係的に見てありえません。そもそもこの出血はすでに収まりつつある。人間ではありえない回復速度で、です』

「ちょっと待った! それってまさか……」

 アナスタシアはまだ意識があった。

 だけど唖然とする僕を見て、目を逸らすように首を動かした。それで何となく確信ができた。

 マクスウェルは答えを述べた。


『シュア。アナスタシアはアークエネミーである可能性が非常に濃厚です』


 マクスウェルの機械的な作業が続いた。

 人の体の中に無機物の指先が押し入り、針を刺して糸を通していく光景はなかなかに目眩がする。

 全ての作業を終えて、傷口全体を大きなガーゼで押さえつけたマクスウェルが言った。

『全タスクを要求通りに完結しました。後は容態の安定を確認してから患部にモルヒネを打てばおしまいです。これで手術は完了ですが、最初から全て蛇足だったのかもしれません』

「……、」

 無事に終わった。

 手術台のアナスタシアは生きている。

 またあの減らず口を聞ける。

 ……本来だったら泣いて喜ぶべき場面だろう。だけど僕の頭は雑念だらけで、天津サトリって人間がどれだけ矮小かを嫌っていうほど教えてくれた。

 寝かされたままのアナスタシアは小さく笑っていた。

 そういえば、手術中彼女はこう言っていた。

 どっちに転がっても感謝する、たとえ何があってもワタシ達は友達だ、って。

 騙す意図はなかったんだろう。

 だけど話す機会がないままに、押すも引くもできなくなって、こうして手術台の上で露見した。おへそのピアスを隠しながら生きてきた人が盲腸にやられた時と一緒だ。

「……教えてくれ、アナスタシア」

「メイデンよ。くそっ、やっぱり誤魔化しきれなかったわね。現場で雑にボロ布押し当てるくらいにしてくれれば奇跡の生還とかで誤魔化せたものを、こんな本格的な手術台まで出てきたんじゃお手上げだわ」

 自嘲気味に、必要以上にわよわね言いながらアナスタシアは呟いていた。

「全部話すわ」

「うん」

「だけどその前に身勝手な質問を一つだけさせてちょうだい。トゥルース、ワタシ達はまだ友達かしら」

「ふざけるな」

 一言で切って捨てた。

 衝撃で目を見開く一一歳の女の子に、僕は続けてこう言った。

「……親友に決まってんだろ。そうじゃなくちゃ爆撃されてるジェルだらけの街の中、こんないつ崩れるか分かったもんじゃない半分潰れた地下まで付き合うもんか」

 しばらく、アナスタシアから返事はなかった。だけど、そのくしゃくしゃの顔を見れば十分だった。

 どんな秘密があろうが、そもそも同じ人間じゃなくたって。絶対にこの子は敵じゃない。

「……ワタシのハンドルはメイデンよ。こいつはあるアークエネミーから拝借してるの」

 やがて、アナスタシアはそう切り出した。

 さっきよりも随分肩の力を抜いて。

「シルキー。欧州の家につくアークエネミーよ。絹のドレスを好んで、家事全般を肩代わりして屋敷を守るけど、気に食わない主人は怪我させてでも屋敷から追い出す。ま、日本にだって似たようなのいるでしょ。何だっけ、ザシキワラシ? あんなのを想像してちょうだい」

 ヨーロッパ版座敷童。

 なるほど、そういう存在なら、吸血鬼の姉さんやゾンビの妹みたいに、外から見ても人と見分けはつかないかもしれない。

 それにしても絹のドレス、か。

 言われてみればキャミソールもミニスカートも全部こだわっていたっけ。

「何で隠してた?」

「……恥ずかしいでしょ、職業メイドとか。ワタシのキャラじゃないわ」

 不貞腐れたように言うアナスタシアに、どっと疲れが出た。

 外見年齢一一歳の欧風メイドに飛び級で大学へ通う不死者の天才ハッカーか。確かにてんこ盛り過ぎてちょっと笑える。

「それに、このベガス、ワタシ達の隠れ家でやってる事を考えればね。トゥルース、アンタが『ワタシ達』の味方だっていうのは百も承知だわ。アンタがたった一人で光十字を挑みかかってくれた時、背筋に電流が走ったのはワタシだけじゃないわ。天津サトリは間違いなく救世の英雄だったのよ、少なくとも『ワタシ達』にとってはね」

 その『ワタシ達』は、おそらくハッカーとかクラッカーとかの事じゃない。

 人間の僕には所属のできない、近くて遠い向こう側の世界だ。

「だけど、ネット社会に絶対なんて言葉はないわ。ワタシはトゥルースの腕には一目置いてるけど、ステイツは通信傍受の最先端よ。念には念を入れておきたかったの。だからメールや動画チャットじゃ話せなかったのよ」

「……何だ? このラスベガスで一体何をしてたんだ?」

 それ次第では、ジェルの出現や軍の爆撃にも違った意味が生まれかねない。

 そしてアナスタシアは言った。

 身近な隣人たるアークエネミーが。

「ねえトゥルース。ワタシ達アークエネミーは単体なら確実に人間をしのぐわ。だけど全体の数じゃあ圧倒的に人間に負けているの。そうなると、身を守るために必要なのは腕っ節じゃないわ。いかに少ない数で、いかに多くの群衆を支配して自然な形で安全圏を築けるか。そもそも争っているという気配すら見せずに全世界全人類からひっそりとリソースを奪取するにはどうすれば良いのか。そのために必要なものは、このベガスに全部揃っているの。それは何と何だと思う?」

「……?」

 一瞬、思考に空白があった。

 そして浮かんできたものは、

「まさかっ」

「お金と情報、でしょ?」

 アナスタシアは青い顔なりにニヤリと笑って、

「歴史上最初に紙幣って概念を記した書物が何だか知っているかしら。提唱したのは政治家じゃないわ。ある作家が自分の作品の中でメフィストフェレスって架空の悪魔の口を借りて世界に言い放ったの。未だ発掘されていないものの、推定埋蔵量から算出した金銀財宝の所有権を先に譲渡できる書類を作ってはどうか、ってね」

「……、」

「その名を冠した巨大なコンピュータが存在するの。メフィストフェレス。それはベガスで電子制御されているあらゆるカジノあらゆるマシンあらゆるギャンブルの結果を集中管理する唯一無二のスパコンなのよ」