第八章



 不幸中の幸いが一つ。

 炎で焼け焦げた闇夜。瓦礫の街の中で、マクスウェルが完全自動運転仕様のオフロードカーを見つけてくれた。

 あちこちに黒焦げの車が転がり、道路は崩れ、ビルだって丸ごと倒れているような有様だ。普通のセダンなんかじゃ太刀打ちできないけど、砂と岩の荒野を飛び跳ねながら進むよう設計されたオフロード仕様なら何とかなるかもしれない。

「ふぐう。こんなのがもう我が物顔で表を走り回っているんだねえ、この国は」

「場所を見てみろ、ソレノイドモータースのカーディーラーだ。ショーケースの中に飾られてる展示モデルだろ。行けそうか、マクスウェル」

『シュア、車内全権のスレーヴ化に成功、完全掌握完了。念のため、砕けたガラスの破片を踏まないよう脇に掃いておいてください』

「にしても、まさかしゃべるAIが運転する車に乗る日が来るとは、何だか夢みたいな話だ。自分で言ってて足元がふわふわする」

『お次は空飛ぶタイムマシンの出番よねトゥルース』

 地下通路に残していたアナスタシアとも合流し、僕達は大きな車の割にさほど広くもない車内スペースにぎゅうぎゅう詰め。マクスウェルに運転を任せ、瓦礫だらけのラスベガスをひた走る。

「トゥルース、それ何なの?」

「カーディーラーのお客様対応のお茶菓子だよ。チョコ系は全部熱風で溶けてたからクッキー系ばっかりだけど」

 とりあえずみんなで分け合ってかじってみたけど……すんごいなこれ!? ざらめ煎餅どころの砂糖感じゃないぞ!!

「うえっ、げほ! 表にシュガーカットって書いてあるのに!」

「ね、ねえサトリ君。じゃあこれ全部ケミカルな人工甘味料なのかな……?」

「ブラックコーヒーと一緒に噛んでちょうど良いくらいだ!! すっごく喉渇く、ていうかこびりつく!?」

「そりゃまあお茶菓子ですからねえ」

 意外な事にしれっとしているのはパツキンな姉さんであった。一方で本能的な危機を感じたのか、普段あれだけバカの大食いなアユミは最初から手を出そうともしていない。

 目的地はラスベガス郊外にある水瓶、フーバーダム。

 アブソリュートノア04。

 ラスベガスは壊滅した。立派にお仕事を成し遂げたジェームズ=ウィリーウィリーは無事乗船チケットを手に入れただろう。……何者かの手でエリア51から大量の機密データが引っこ抜かれた事実はそろそろ向こうも気づいている頃だろうし、責任を問われるくらいなら、さっさと世界なんか滅んでくれって考えても不思議じゃないんだし。だとすれば、問題のアブソリュートノア04に向かっているかもしれない。当然、チケットには限りがあるため、大規模な護衛団なんて引き連れる事はできない。

 会ってどうするのか。

 何ができるのか。

 分かる事なんか何もなかった。だけど許せなかった。自分一人が生き残るために、言われるがまま人間もアークエネミーも四〇〇万人に牙を剥いたセレブ様が。乗船チケットの受け渡しをしていたという事は、義母さん、アークエネミー・リリスの異名を持つ天津ユリナの『裏の顔』とも接触の機会があったかもしれない。止められたかもしれなかったんだ、彼女を。だけどジェームズとかいう野郎は乗船チケット欲しさに屈した。

 ……偉そうに何を語っているんだ僕は。

 八つ当たり気味なのは分かってる。止める止めないなら同じ家族の僕にこそのしかかる責任だ。でも、できなかったから、僕にはどうにもできなかったから、具体的に世界の裏側にいて全ての事情を知りながら流してしまったジェームズの臆病な傲慢が余計に許せない。

 あんな野郎が方舟に乗って高笑いしながら世界の破滅を乗り越えていく。そんなビジョンが、どうしても。

 と、その時だった。

 フロントガラスの向こうでいきなり何かが蠢いた。おそらくマンホールだ。そこから不定形の物質が急速に盛り上がっていく。

『警告、ジェルです』

「構わない。体積が膨らんでいるのはお姫様ドレスのペチコートと一緒で見かけの問題だけだ。マクスウェル、そのまま弾き飛ばせ!!」

 ガォン! とさらにエンジンが凶暴なうなりを発し、小山のようなジェルの塊のど真ん中にオフロードカーが迷わず突っ込んでいった。粘質な音が炸裂し、花びらに似た巨大な薄膜が舞い飛び、四方八方に赤い粘液が散らばっていく。

 ジェルは生物捕食ベースであって、金属やガラスなどの無機物を率先して食べ尽くす訳じゃない。窓をぴっちり塞いでいれば中央突破も難しくない。

 オフロードカーのコントロールを担当するマクスウェルがワイパーを使ってフロントガラスにこびりついたジェルを拭き落としていく。

 だが、

『警告』

「うわっ!? なんか出てきたわよトゥルース!!」

 助手席のアナスタシアの素っ頓狂な声に僕の心臓が恐怖という名の見えない有刺鉄線で雁字搦めにされていく。

 エアコンの通風孔から何かが滲み出てきている。赤い、半透明の、粘液の正体は……ジェル!?

「はいはいちょっと失礼させていただきますね」

 なんて事のないように言ったのは姉さんだった。彼女は運転席のシート裏のポケットにあったエチケット袋を掴むと、後部座席から身を乗り出してエアコン通風孔に叩きつけていく。

 ジェルが飛び出したのはほぼ同時だった。

 だけどエリカ姉さんのエチケット袋の方が早い。赤い粘液は薄いビニール袋へと閉じ込められていく。全体でウサギくらいの大きさだ。もがくジェルが逃げ出すより早く、姉さんはさっさと袋の口を縛ってしまった。

 ……ジェルは生物捕食ベースで、無機物は食べない。

 だけどそれにしたって鮮やかすぎる。僕や委員長が真似すれば一発で指を溶かされ、続けざまに全身に覆い被されていただろう。

 やっぱりアークエネミー。

 不死性だけじゃない。基本となる身体能力だって桁外れだ。

「よっと」

 窓を小さく開けて内側から暴れるエチケット袋を外に捨てて、当の姉さんはハンカチで自分の手を拭いている。東欧型クイーン級はやる事なす事いちいちエレガンスであった。

 これを考えるとジェルへの正面衝突はあんまり推奨できなさそうだ。だけどジェルの生き残りを見かけるたびにいちいち迂回していたらいつまで経ってもラスベガス市街地から外へ出られない。

「お兄ちゃん、真上のサンルーフ開けちゃうね」

「?」

「ジェルは空気の攪拌に反応するんでしょ。適当にモノ投げまくって連中を混乱させてやる」

 元々このオフロードカーはカーディーラーに飾ってあったもののはずだが、後部シートには大きな段ボールに箱詰めされたオペラグラスがたくさんあった。ひょっとしたらティッシュ配りみたいなもので、夜のパレードに合わせて店先で無料配布するためなのかもしれない。

 マクスウェルがあちこち蛇行し、アユミがそこらじゅうにオペラグラスを投げ込みながら、僕達を乗せたオフロードカーは燃え盛る街を突き進む。

「建物がなくなっていくわね……」

『シュア。市街外周部に到達。ここから先は市外の砂漠になります』

 出口の辺りにはタンクローリーが横転していた。これだけ風景から切り離されていて、何だか不自然に思えた。

「マクスウェル、今のタンクローリーのナンバーは記録しているか?」

『シュア。やはり空軍が置いたジェルの運搬役でしょうか』

「分からないけど一応な」

 未だにジェルがどうやってラスベガスを侵食していったのか、具体的なタイムスケジュールは分かっていない。特に発端、ブレイクアウトについては。ただ砂漠の街はアクセスが限られているから、いくつかのハイウェイと空港をジェルの群れで潰せばあっさり外界から切り離せるのも事実だ。

 ……考えてみれば、まるで供饗市そっくりだな。

 今も轟々と燃え盛る街に背を向けて、僕達は砂漠の一本道を走る。全長二〇〇キロ以上もある巨大な国立公園の西端にある湖にフーバーダムはある。ダムによって生まれた完全な人造湖でありながら、その大きさは琵琶湖に匹敵するっていうんだからこの国のスケールはやっぱり狂ってる。

「マクスウェル、エリア51から抜いた機密データだけでジェルと軍の関連を立証できるか?」

『難しいところです。デジタルデータは複製や捏造が容易で、しかもサイバー攻撃で盗んだデータに対する公的信頼性は低い。極め付けに、元々胡散臭い伝説を多数有するエリア51発の情報では心証も悪いでしょう』

「……そういう意味でも、やっぱり証人は欲しいか。どれだけ性根が腐っていようがエリートはエリートだ。発言には重たい意味が付きまとう。そのジェームズ自身に吐かせられれば」

 こいつを追い詰めれば、芋づる式に激震は我が家にまで襲いかかるかもしれない。一緒にご飯を食べてきた義母さんを陥れる事になるかもしれないんだ。

 本当に覚悟はあるか。

 分かったふりして思考を空回りさせているだけじゃないのか。

 何度も自問自答した。

 だけどどうしても見て見ぬふりはできなかった。ラスベガスの災禍の真相を公にできなければ、世界中の罪もないアークエネミー達が危険視されて魔女狩りのように狩り出される。どうせ間もなく世界は滅ぶんだから、と信仰しているアブソリュートノア側には早いか遅いかの違いでしかないのかもしれない。だけどずっとこのまま当たり前の日々を歩んでいきたい僕達はそういう訳にもいかないんだ。

『ユーザー様。間もなくグランドキャニオン国立公園西端、フーバーダムに到着します。本当によろしいですね?』

「……ああ。姉さん、アユミ。済まない」

「ふぐう。お兄ちゃんが謝るような事じゃないよ」

「そうですよ。……家族だからこそ、止めなくちゃならない事だってあるはずです」

 言葉が詰まった。

 何をどれだけ言われても、多分僕は今日この日の選択を一生引きずって生きていくんだろう。

「トゥルース、辛いところ申し訳ないけど、気をつけてよ。アブソリュートノアとかいう連中はエリア51を顎で使う連中だわ。他にも乗船チケットを餌に、陸軍だの海兵隊だのよその部隊から戦力貸与を受けているかもしれないわ」

「ああ。フーバーダムはヤツらの要塞になっているかもな」

 元々、水瓶の底にアブソリュートノア04なんて特大の爆弾を抱え続けていた施設だ。戦力貸与なんて言わず、直轄警備だっているかもしれない。アークエネミー・リリスが幹部を務める組織なら、人間のみならずアークエネミーの戦力さえ頭数を揃えている可能性だってあるんだ。

 否が応でも緊張が高まる。

 喉がカラカラに渇いて汗が噴き出す。呼吸も心臓もてんでバラバラに自己主張を続けている。


 なのに。

 だっていうのに。


「……?」

 ラスベガスより東へ二、三〇キロ。

 ダム本体から少し離れた場所にオフロードカーを停めてもらって、委員長とアナスタシアには車の中で待っていてもらう事にした。

 そして車から降りた途端に、猛烈な違和感があった。

 いいや、

「何だ、この気の抜けた感じ……?」

 瓦礫と炎の街で観測手達とぶつかった時は、こんなものじゃなかった。空気が固体になったように息詰まる何かがあったはずだ。それが、全くない。単なる観光地だ。あるいは、素人の僕なんかじゃ知覚できないくらい完璧に溶け込んでいるっていうのか?

「どういう事、なんでしょう?」

「ふぐう。意味が分かんないよ……」

 姉さんとアユミも同じ感想らしい。となると、僕が鈍感なだけって訳でもなさそうだ。

 とにかくゆっくりと、闇に沈んだダムに向かう。

 いきなり狙撃銃で頭を抜かれたり、砂の中に埋められた地雷を踏んで粉々に吹っ飛ぶビジョンさえ想像した。だけど、実際にはやっぱり何もない。いっそ場所を間違えたんじゃないかと疑ってしまいそうなくらい誰もいなかった。

「おかしいですね……」

 細い顎に指をやった姉さんが口を開く。

「こういう大きなダムでは自殺防止のために、夜間は必ず警備員が見回りをしているはず。いざその時に体を張って説得できるよう、ドローンや防犯カメラ任せにもしないはずです。それなのに、懐中電灯の光一つないだなんて」

「ふぐう。そもそもフーバーダムって黒部の五倍以上の大出力水力発電所でもあるんでしょ? それなら二四時間操業のはず。夜間に人がいなくなるなんてありえないよ」

 ……何かが起きている。

 気を引き締めろ。目に見える変化があるから異質なんじゃない。ないから異常なんだ。

 ごつごつした岩の塊。崖を丸ごと遮るようなアーチ状のコンクリートの絶壁。バンジージャンプに最適、といった趣の巨大ダムが僕達をお出迎えしてくれる。

 ちなみにこっちはダムの上にあたる。万里の長城みたいなアーチ状の構造体を渡っても、やっぱり警備員らしき影は見当たらない。

 こうして見下ろす限り、湾曲した壁の放水口からは普通に水が噴き出しているし、きちんと人の手で管理されているように見えるんだけど。

「ここからダム湖全体を見渡す事もできますけど」

「秘密はダムの底だよ姉さん。アクセスルートにもよるけど、潜水艇でわざわざ人造湖へ潜っていくんじゃなければ、直通のトンネルか何かがあると思う」

 そうすると、むしろ怪しいのはダムの下に広がるごちゃごちゃしたコンクリの箱。水力発電のタービンルームだ。

 並列に並んでいるんだけど全く水を通さない送水管なんかが一本だけあって、そこからダム湖の真下を走る地下トンネルと連結している、なんて可能性だって十分ありえる。

 ダムのアーチを渡り切ると、職員用の駐車場でもないごつごつした岩場に、直接四駆が乗りつけられていた。

 ここに人の影はないけど、ひとまず完全な無人ではなさそう、なのか?

「マクスウェル、ナンバープレートを撮影して照合」

『シュア。軍用車登録のナンバーを確認。所属はネバダ空軍基地。防弾仕様の護衛車です。かえって普通の兵士はこんな車は使わないでしょう』

「軍のVIP専用車。だとするとジェームズ=ウィリーウィリーか」

『ユーザー様。周辺に無線電波が飛び交っています。状況からしてフーバーダムを根城にしたアブソリュートノア側か、あるいはジェームズ=ウィリーウィリーでしょう』

「あるいはその双方が交信しているかだ。マクスウェル、傍受はできるか」

『オーダーは了解しました。ただし未知の暗号方式です。乱数表や秘密鍵の割り出しから始めなくてはなりません』

『こっちに寄越しなさいよトゥルース。そういうのは得意だわ。ワタシの「鍵束」の中にそのまんま同じものがあるかもしれないし』

 こういう時はキッチンのIoT家電からミサイルサイロまでどこでも侵入して無害ウィルスを送り込み、手当たり次第に善意の警告を飛ばしまくる(自称)正義のハッカー(笑もつけとこうか)様々だ。とにかく場数が違うから、現場から奪ってきた『鍵』もまた膨大なのだ。

『衛星携帯電話ね。やれやれ、地上の基地局や光ファイバーを通さなければ傍受されないとか本気で考えているのかしら、機械音痴のオジサマは。何にもない砂漠でこんな強力な電波ビンビン飛ばしておいて、周りに気づかれないはずがないでしょうに』

「つまりどうなんだ?」

『オスミウム衛星ネットワーク。ワタシが初めて「名刺」を置いてきたシステムよ。二年前から散々無害ウィルスで警告しているってのに未だに脆弱性改修の気配もないわ。ほらよ』

 読み終えた漫画雑誌をこっちに回すくらいの気軽さだった。

 途端にスマホからクリアな英語のやり取りが飛び交う。

「マクスウェル、翻訳頼む。読み返して情報を確かめたいから文章が良い」

『シュア』

 たったの一言。

 それで、均一なラジオノイズのように奥行きを感じられなかった外国語に、一気に深みが増す。細かい凹凸を指先で知るように、意味が浮かび上がってくる。

『危険を冒して護衛もつけずに基地を抜け出してきているんだ。すぐにでも収容してもらうぞ。私は為すべき事を行った。契約の対価を要求するのは当然の事だ』

 言葉の内容からして、ラスベガス攻撃を実行した人物。だとするとジェームズか?

「マクスウェル」

『シュア。すでにオリジナル音声は録音しています』

 結局は不正に秘密鍵を暴いて手に入れた情報だ。難癖をつけられると法的根拠はなくなるかもしれない。

 このクソ野郎を直接押さえたい。

 姉さんやアユミと目を合わせ、そして頷き合った。簡単にはいかないが、やらなくてはいけない事だ。

「マクスウェル、そのまま録音と分析を継続。あと、電波の発信位置そのものを割り出してくれ。ジェームズがアブソリュートノア04に乗り込む前に身柄を押さえたい」

『シュア』

 アブソリュートノア04が具体的に何なのかも知らないけど、人類滅亡を乗り越える想定の施設だ。きっと分厚い金属扉でもあって、いったんロックがかかったらしこたま面倒な事になるだろう。

『発信電波の方向と強度から位置を特定。ダムのアーチ内部、最下層付近にいるようです』

 ちょうど崖下か。

 パチンパチンと指を鳴らして、姉さん達の注意を引いた。そのまま僕達はダムのアーチ上部の端にある出入り口から中を目指す。

 ダムの中なんて初めてなので、これが普通のダムなのか異質なのかは判断がつかない。

 ごちゃごちゃした太いパイプに箱状の小部屋。タンクみたいなものも並んでいる。中に入っているのは水か、空気か、機械油か。この辺りもピンと来なかった。一つ一つの部品がどんな意味を込めて取り付けられたかが見えないため、まるで不時着した宇宙船の中でも探検しているような気分にさせられる。

「ふぐう。どうするの、お兄ちゃん」

「とりあえず下りの階段だ。電波の発信位置を目指そう」

 それにしたってザルな警備だ。誰とも遭遇しない。それともオンリーワンの絶大なアークエネミー個人が守りを固めているとでも言うのか?

 スマホでは翻訳された音声が文章の形でこんなやり取りをしていた。

『おおっ、そちらはIMFの。ゴルフ団体ではお世話になった……』

『あなたこそご苦労様です。急な話になるだろうと見越してここまでヘリを飛ばした甲斐がありましたな』

『ほっほ、私にはすぐに分かりましたよ。ただ、初めて知ったのが人伝てのSNSというのはいただけませんな。事前に教えていただきたかった』

 電話越しのやり取りというより、同じ空間にいる人達の話を電話口で拾っているように聞こえる。アブソリュートノア04の乗船チケットを手に入れたセレブ達が集まり、どこかを目指しているらしい。

「まずいな、そろそろ具体的に乗り込むって感じだぞ。次の階段はどこだっ?」

 ダムの中には一直線の階段やエレベーターはない。小出しにちょこちょこあるだけで、少し降りるたびに入り組んだ通路を歩かされて別の階段を探す羽目になる。やっぱり対テロでも意識しているんだろうか。

「サトリ君、次の階段ですっ。そろそろ最下層のはず」

「っ。とにかく走ろう」

 謎の核心に近づいている。黒幕と距離を縮めている。なのに、何なんだこのちぐはぐした感じは。シャツのボタンを掛け違えたみたいに気持ちが悪い。刺客なんていない方が良いのに、スムーズ過ぎる事が違和感の塊にしか思えない。

 そして僕達はダムの最下層に辿り着いた。

 怪我一つなく、辿り着けてしまった。

「ジェームズ=ウィリーウィリー!!」

 思わず叫んだのは、銀行の丸い大扉みたいなのが今まさに閉じようとしていたからだ。一面は分厚く重苦しい金属を大きなパネル状に敷き詰めた壁。あの大扉が閉まったらおそらく万事休すだ。そして名前を呼ばれて振り返ったのがおそらく本人だろう。ゆっくりと閉じつつある大扉の、三日月みたいになった隙間から、初老の男がこちらを見やっている。

 スマホが翻訳してくれた。


『おおっ、誰かと思えばユリナ女史の! しかしご子息の皆様はアブソリュートノア00にご搭乗のご予定では?』


 まったく予想外の反応だった。

 罵声か嘲弄か。そんな言葉が来るかと思っていたのに、まさかの歓迎ムード!?

 姉さんが忌々しげに口を開いた。

「……ここには委員長ちゃんやアナスタシアはいません。天津家の者だけが揃ってアブソリュートノア関連施設に踏み込めば、抜き打ちの視察か何かだと思われても仕方がないのでは? 私達もチケット持ちって事になっているみたいですし」

 刺客が襲ってこなかったのはそのためか。とっくの昔に気づいていたし、いつでも殺せたけど、そのままVIP扱いで顔パスだったって!?

 知らない間に悪事の片棒を担がされていたような気分だった。口の中いっぱいに苦いものが溜まっていく。

『「ふざけるなよ悪党ども! ラスベガスで何をしたか、洗いざらい吐いてもらうぞ!!」』

『おお、おお。そのような話でよろしければいくらでも。私のような者がアブソリュートノア04のチケットを得られたきっかけ、いいえ人生の金字塔となる話です。いずれカラミティを乗り越えた先に、是非とも勝利の美酒と共にご報告したいと存じております』

「っっっ!!」

 ダメだ。

 全然通じていない。上っ面の言葉だけ投げ合っているけど、そこに込めた感情や想いが一ミリも伝わらない!!

「それが狂人って事だよ、お兄ちゃん。四〇〇万人を犠牲に捧げて手に入れたのはチケット一枚。こいつらの隣には奥さんも子供もいない。自分一人さえ助かれば良い、そのためなら全部捨てられる。そういう狂信集団なんだ、こいつらは」

『子供など、また作れば良いだけですし』

 いっそきょとんとされてしまった。

 アユミの言葉に反応したって事は、翻訳の必要はなかったのか。

『そうですな。カラミティ直後は流石に人口も激減してしまいますから、ご息女のお二方ともお相手をしていただく必要もあるかもしれませんが、その時はよろしくお願いいたします』

「っ!! ふざけんなスケベジジイ!!」

『はっは。どうやら女史のご息女は人とアークエネミーの混血を望まないようですな。では私の担当はよそから選びますか』

 部屋のカーテンでも選ぶような物言いに、今度の今度こそ怖気が全身を支配した。

 ……こいつら、カラミティとか乗船チケットとか、そんなのがきっかけじゃない。恐怖に屈して壊れたんじゃない。むしろ最初からネジが外れていたから、家族も仲間も捨てて迷わず乗船チケットに飛びつけたんだ。

 そうこうしている間にも丸い大扉はゆっくりと閉まっていく。隙間が埋まっていく。

『では皆様、ユリナ女史によろしくお伝えください。そしてカラミティを乗り越えた先にある、新しい世界でまた会いましょう』

「っ!!」

「ダメですサトリ君! 今閉まりかけている大扉に飛びついても手足を持っていかれるだけです!! 扉の可動部位だけで五トン以上あるんですよ!!」

 思わず走り出そうとする僕に吸血鬼の姉さんが飛びついてきた。華奢なように見えても、アークエネミーの腕力相手じゃどうにもならない。

 目の前で大扉が完全に閉まる。空気の抜けるような音に続いて、一〇本以上の太い金属ロッドが軋んだ音を立てて丸い大扉の円周に沿ってロックをかけていく。

 分厚い金属パネルを並べたシェルターみたいな壁と一体化してしまった。

「くそっ! マクスウェル、アナスタシア!!」

『落ち着きなさいって、まず扉のフォーマットをこっちに回しなさいよトゥルース!』

『ノー。接続端子はありません。無線電波や赤外線にも応答せず。完全に独立した体系です』

「大扉の表面で良い、こじ開けて中の配線をいじる事は!?」

『ノー。継ぎ目のない奇麗な構造です。独特の金属光沢から材質はおそらく超耐圧タングステン鋼。手持ち工具レベルで分解可能な部位が見当たりません』

「ならどうやってヤツらは扉を開けたんだ!? ダイヤルもテンキーも静脈認証もないっていうのに!!」

『内側に操作パネルがあるのでしょう。中に管理人を常駐させていれば良いのです。それなら外に余計なインターフェイスを置く必要はありません。内と外で何かしらの通話方法があるか、あらかじめ決めておいたタイムテーブルに従って大扉を開閉するのかまでは分かりませんが』

「っ」

 それじゃあお手上げだ。侵入経路がなければ僕達の技術は何の役にも立たない。

「姉さん、アユミ! 力業で何とか穴を空けられないか!?」

「これはちょっと無理だよ……」

「人間の二〇倍の腕力と言えばすごそうに聞こえるかもしれませんけど、逆に言えば二〇人がかりでもできない事はどうにもならないんです」

 くそっ、八方塞がりか!!

 不正な手段で盗んだデジタルデータだけじゃ公的な証拠能力は万全じゃない。ジェームズ=ウィリーウィリーご本人様を直接証言台に立たせなければ、ジェルや爆撃の真相を明かせずに世界中のアークエネミー達が悪者にされてしまうっていうのに!!

 思わず分厚い大扉の表面を拳で殴りつけた時だった。

『それ』は起きた。

 最初、それは小さな物音に聞こえた。分厚い扉の中で歯車か何かでも噛み合っているんじゃないかって。

 でも違う。

「……?」

 これは……声? 英語のテストもろくにできない僕だけど、何となくそれは規則性を持った人の声なんだなって事は推測できた。

 でも何で?

 ありえないだろ、普通に考えて。

「サトリ……君?」

「しっ」

 突然大扉に耳を押し付けた僕を見て、姉さんが怪訝な声を出す。だけど僕は集中を解かなかった。スマホ相手に語りかける。

「マクスウェル、気づいているか」

『シュア。これまでの会話から採取した声紋と照合、複数ある肉声の一つはジェームズ=ウィリーウィリーと八九・八%で一致しました。扉そのものよりもやや左に寄っている印象があります』

 そろそろと壁の方に向かう。こちらもステンレスかタングステン鋼か、やたらと巨大なパネルが等間隔で並んでいる。当然ながら目で見て分かる範囲にネジやボルトなんて分かりやすいものはない。一枚一枚は僕の身長よりも大きかった。

 あの丸い大扉と同じ厚みなら、下手すれば一メートル以上ある。当然、特に防音遮断材なんか詰めなくても人の声なんて伝わるはずがない。

 なのに。

 そうでなくちゃおかしいのに。

『……、---』

『---。……』

 ……聞こえる。奥から人の声が。内部にスピーカーでも埋めてあって、こっちを撹乱している? でもこんな罠を張る意味が分からない。

『考え方が違うのかもしれません』

「……どういう、事だ?」

『シュア。仕掛けはあった、それは誰かが誰かを騙すためのものだった。ですが必ずしもシステム達を標的にするとは限りません。システム側に罠を仕掛ける合理的理由がなければ、この現象はよそに向けられたものではないでしょうか』

 考え方を変える。

 僕達以外に向けられた仕掛け。

 壁の向こうから肉声が聞こえてくる理由。

「……まさか」

 僕は呟いていた。

 そしていかにも重たそうな金属の壁、そのパネルの一枚の中央へ掌を押し付けていた。

「そんなまさか!?」

 そのまま、ゆっくりと体重をかけていく。

 直後に。


 ぎぃ……と。


「ッッッ!!!???」

 あまりの衝撃に、僕は思わず手を離していた。まるで熱湯の入ったやかんを不用意に触ってしまったように。掌に残る感触だけなら、どこにでもあるものだ。おそらく誰でも毎日感じていると思う。だけど、何でこの場所で。あまりに場違いで、不吉な感じが強すぎる。

 ふらふらと体を揺らす僕は、目についた隣のパネルにも手をやった。今度は何となく予測がついた。

 掌を押し当てて、ゆっくりと体重を掛ける。

 さっきと同じ感触がする。

 つまりは、

「……ドア?」

 呆気なく開いてしまったその先を見て、僕は思わずこう言っていた。

「この壁一面の金属パネル、全部薄っぺらなドアになっているのか!?」

 信じられなかった。コンビニや学校の昇降口なんかにある、押せば開くガラスのドアくらいの重みしかない。壁の厚さも無視していた。いいや、分厚いのは例の丸い大扉だけで、後は全部薄っぺらだったんだ。

 でも、何なんだこれ?

 何だか知らないけどこれはカラミティとかいうもの? 現象? とにかく滅法危険な何かから身を守る虎の子なんだろう。なのにこれじゃあ何の守りにもなっていないじゃないか!?

「……、」

『……。』

 薄っぺらなドアの向こうには当然のように黒幕達が揃っていた。あの老人、ジェームズ=ウィリーウィリーも。だけど僕達はお互いにすぐ掴みかかれる距離にいながら、凍りついたように動けなかった。それどころか震える声一つ発せられない。

 向こうも向こうで混乱しているんだ。世界の謎には全て答えられますみたいな顔をしていたVIP達さえ。

 どれくらいそうしていただろうか。

 一分? あるいは一時間?

 やがて、明らかに僕達以外の足音が聞こえてきた。後ろから、つまりダム側から、でもエリカ姉さんや妹のアユミの靴の音とも違う。ドアを開け放って凍りつき、そのままのろのろと振り返ると、複雑に入り組んだダムの設備の間からぶかぶかの作業服を身に纏う小柄な少女がひょっこり出てくるところだった。白い肌にセミロングの黒髪。でも東洋人って感じもしなかった。顔立ちとしては委員長やアユミよりも、姉さんやアナスタシアに近い整い方だった。

 おそらくは、このフーバーダムの本来の持ち主。アブソリュートノア04を造った者。

 義母さん、天津ユリナの手先。

 敵対するアークエネミー。

「あら。仕掛けに気づかれてしまわれましたか、ご子息。これはプランBで対応になりますね」

「な、なに、何が、何だ……?」

「そしてご安心下さい、皆様。我々はあなた方からアブソリュートノア04を取り上げるつもりは毛頭ございません。この方舟はすでにあなた方のものです」

「何なんだよこれは!? アブソリュートノア04はカラミティとかいう意味不明なモノにも耐える鉄壁のはずだろ! それがどうしてこんな、トイレの個室よりひどい、鍵もかからないような薄っぺらなドアばかり並べているんだ! これじゃ四方八方三六〇度どこから誰だって入ってこられるだろ……!?」

 そもそも薄い壁じゃなくて、薄いドアっていうのが理不尽過ぎる。だってドアは最初から出入りするためのものだ。自分の家の間取りで想像してみれば良い。何でそんな執拗なんだ。露出狂じゃあるまいし、外と繋がる鍵もかからない扉を四方全てに敷き詰めるだなんて単純に薄気味悪くておちおち昼寝もできないだろ。どういう神経していたらそんな設計になるんだ。

 全く一ミリも擁護する理由がないはずなのに、何故だか僕はジェームズ=ウィリーウィリーらVIPの方に立ってこの理不尽を糾弾していた。本能が訴えているのか。後ろ暗いVIP達とこのぶかぶか作業服の少女ならどっちがマシかって。

「ええ、ですから」

 この少女の闇は、多分もっと深い。

 単純な死を超えた何かを宿している。

「せっかくこちらが醜悪なゲスト様を呼び寄せ、他人を蹴落としてでも駆け込んだ藁の家の中で安心させておいて、いざカラミティが来たらそのまま一発でさようなら。そういう因果応報の構造を作っていたのですが」

 言われた事の意味が分からなかった。

 ……つまり、つまり何だ?

 これまで散々義母さん、天津ユリナのご機嫌を伺うためにその手を汚してきたネバダ空軍基地その他諸々のVIP様。このフーバーダムの底に眠る秘密は彼らを保護するためのものじゃなくて、陥れて生の安心から急転直下で死の恐怖へ突き落とすための藁の家に過ぎなかった……!?

「ラスベガスのあのざまは見たでしょう、ご子息」

 ぶかぶか作業服の少女は淡々と告げる。

「方舟は限られた資源です。よってどうしても全員を救う事はできず、人材の取捨選択が必要になってきます。しかし実際には嘆かわしい事に、コンピュータ任せで学歴、収入、身分、功績などの公的記録だけを参考に選別作業を続けていくと、こうなる。我々は上辺のランカーなど求めてはおりません。困っている人を見れば思わず手を差し伸べ、いざという時には自然と助け合う、せめてそんな当たり前の善人を残したかっただけなのです」

 ノアの方舟は、堕天使と人間が交わった結果世界中に悪徳が蔓延ったため、神が一度全世界を洗い流した神話に出てくるものだ。

 ノアは神に命じられるままに、世界からあらゆる動物のつがいを一組ずつ船に乗せた。

 つまり、選んだ。

 もしもその段階で資格なき者が巨大な船を見かけて近づけば、果たして何がどうなっていただろう? あるいは強欲ゆえに船を奪おうとする者が現れたら?

「なんて事だ……」

 確かに。

 ジェームズ=ウィリーウィリー達は責め立てられるべき事をした。ジェルに空爆。赤と黒で埋め尽くされたラスベガスを思い出せばこの手で八つ裂きにしてやりたいくらいだ。

 だけど、これを義母さん達が糾弾するのか?

 だって、こんなの、ほとんどかぐや姫の無理難題と同レベルだろう!? 自分から誘っておいて、機械のやった選定結果が期待外れだったからって無茶振りばっかり繰り返して脱落するのを待って、それでも喰らいついてくる者には偽りのゴール地点を明け渡して、精魂尽き果てた彼らがようやっと安堵したところで謎のカラミティが全てを吹き飛ばす。何だそりゃ!?

 こんなの許されて良いのか?

 というか、そもそもこんな話を耳にして人を見下す事がデフォルトになっていたVIP達は黙っているのか? ジェームズ=ウィリーウィリーだってまともじゃないけど、僕とは違って国際派の高学歴サマならバイリンガルくらい余裕だろう。何より善悪云々以前に怒らせて得する連中じゃない事くらい僕でも分かる。

『は、はは』

 乾いた笑い声があった。

 ジェームズ=ウィリーウィリー。老人達の一人が、徹底的な成功者が、おそらく長い人生で一度も出した事はないであろう声色を発していた。

『ははは。ふはははは。ふっ、ふはっ』

「……、」

『コケにするなよキサマぁあああ!!』

 突然の怒号だった。マクスウェルの翻訳を挟むと生の感情が乗らないからか、奇妙に空虚だ。でも、いいや、むしろこれまでの経緯を考えればここまで爆発しなかった方がおかしかったんだ。世界の裏から人の悪意を見続けてきたこいつらさえ、思わず頭が真っ白になってしまっていたんだ。

 ジェームズ=ウィリーウィリーは高級そうなスーツの懐から、掌に収まりそうな小瓶を取り出した。中には赤い半透明の液体が閉じ込められている。あれは何だ? お酒、いいや香水??? ついつい平素の思考で頭の引き出しを開け閉めしてから、僕は自分が馬鹿かと本気で思った。

 ラスベガスで何を見てきた。

 赤い液体。

 ヤツらは生物捕食ベースで無機物は食べない。

 エリア51ではアークエネミー・ショゴスを参考に何を作っていた。

「ジェル!? こんなトコまで持ち込んできていたのか!?」

 思わず飛び下がる、なんて格好良い事は言っていられず、ほとんど腰は抜けていた。パネルに偽装したドアに背中をぶつけるようにして無理矢理閉める。生物捕食ベースなら薄っぺらなドアでも食べない。姉さんやアユミは襲わせたりしない。そうこうしている間にもVIP達の一人、小瓶を手にした老人は動き続ける。ジェームズ=ウィリーウィリーはその瓶の金属キャップを回して外していく。

 スマホの画面はこう訳していた。

『私を舐めるなよ……。私の運命は私が決める。いくら貴様達とはいえ結末までは好きにはさせん……!!』

 小瓶が振り上げられた。

 居並ぶドアの一つ、唯一開いていたそれを閉め切ったので、今こちら側に部外者は僕しかいない。つまりターゲットにされている。あんなもの投げつけられたら最悪だ。火炎瓶どころの脅威じゃない。分かっているのに腰が抜けてまともに動けない僕は、でもそこで疑問を抱いた。

 ……瓶を投げつけて、つまり割って解放するつもりなら、何でわざわざキャップを外した……?

 ふつふつと何かが粟立つ。小さな違和感のはずなのに、それがあらゆる前提を崩し、奈落へと飲み込んでいく。

 そしてジェームズ=ウィリーウィリーは天高く掲げた小瓶を傾けた。


 いいや、自分の頭の上から被ったんだ。

 スポーツの優勝シーンなんかであるように。


「う……」

 ひどく。

 それはひどく粘質な音の連続だった。

 ジェームズの体と比べて今回はジェルの量が少ない。結果、まるでリンゴが腐り落ちるように頭蓋骨の中へと赤い粘液が潜り込んでいく。後は空気を詰めた人形が萎んでいくようだった。内側から喰われていく人間っていうのは、こんな風に踊り狂うものなのか。

「うっぷ!?」

 事前に薄っぺらなドアを背中で閉めておいて良かった。いくらエリカ姉さんやアユミ相手だってこんなの見せたくない。単純に襲われて死ぬのとも違う禍々しさが胸に絡みつく。スマホ経由でアナスタシアと連絡を取っていたのを思い出して、慌てて指先で背面の小さなレンズを覆う。

『ユーザー様』

「アナスタシアへの映像を一時遮断、音声だけで良い!」

『了解したのでレンズを解放してください』

 目の前で人が溶けていく。巨悪のように見えていたジェームズ=ウィリーウィリーが跡形もなく消えていく。あんな無茶苦茶な末路なのに、悲鳴も何もなかった。高級スーツや肌着も総シルクだったのか、衣服さえ残さない。そして小瓶に収まっていたジェルだけが床で蠢いている。

 ……何だ、これ?

 あれだけ勇ましい事を言っておいて、いきなりの自殺? いいや、運命は自分で決めるとか、結末は好きにさせないとか、そういう意味だったのか。他人の事情で殺されるくらいなら自分の都合で死んでやる。そんな残酷極まる選択を……?

「さて、と」

 あっさりした声があった。

 それこそ学校のトイレの個室やシャワーブースの扉を開けるくらいの気軽さで、再びぶかぶか作業服の少女がこっちに顔を出してくる。いつの間に調達したのか、セミロングの髪を揺らす彼女は何かを引きずっていた。あれは何だろう。火炎放射器か何か……なのか……? 先端に火の点いた大きな金属ノズルとホース、車輪付きで掃除機みたいに引きずり回す円筒タンク。確かにジェルは炎や熱を嫌がる素振りは見せていたけど……。

「それでは今からキレイにします。ですが本当に悔いはございませんか? 特に残されたVIPの皆様」

「……?」

 何だ。この期に及んで何を言っている。ジェームズ=ウィリーウィリーの自殺に使われた少量のジェルは野放しで、黒幕達のすぐ側にいる。いつ近くの人に襲いかかるか分からないんだ。どこの誰であれさっさと処分してくれるならそれに越した事はないだろうに。

「ええ、ですから」

 作業服の少女はにっこりと微笑んで。

 言った。


「真のアブソリュートノアから見放されたという事は、どうやってもカラミティから逃れられない事を意味します。これは最後の機会。もしもこの時点で優しく安全に死ねなかったら、後はじっくり苦しんで逃れようのない絶滅を経験するだけですが」


 悪意であった。

 その笑顔は、かつての青いバニーガールにだって作れたか。

 そして効果も迅速だった。

 VIPの彼らは銃を頭に突きつけられて脅されている訳じゃない。手足を縛られたり、大切な家族を盾にされている訳でもない。

 なのに、

『おっ、俺も……』

『待ちなさい、やるならわたくしが先です!』

『ずるいぞ、そうやっていつでもあなたが……!!』

 冗談……だろう!?

 僕は生活レベルの英語はできない。翻訳はマクスウェル任せだった。だから最初、画面に映った全てがバグやエラーだと思ったくらいだった。

 でも、顔を上げても狂った世界は続いている。

 何でそこで群がる。ジェルから逃げようとして喰われるならともかく、自分から飛び込んでいく! まるでお正月にデパートでやっている福袋の争奪戦みたいに奪い合いができるんだ!?

 現に救いなんかない。

 我先にと小さなジェルに掴みかかっていったセレブな男女はやっぱり事実としてドロドロに溶けていく。丸呑みとかでもなく、腐った木の幹を芋虫が食い散らかしていくように。もう意味が分からなかった。彼らはまるで火の怖さを知らない赤ん坊のようだ。

『だって』

 そもそも英語ができなくても、僕の疑問の視線を受け取ったんだろう、なんか往年の舞台女優みたいな人が半身を溶かしながらこんな風に囁いていた。

 翻訳は狂っていた。そう信じたかった。

『選択肢は、二つしかありませんし』

「……、」

『包丁や鉄砲と違って、恐怖の実感なく楽して逃げられるとしたら、これが国際線の最終便かなあって』

「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」

 ……カラミティって、何だ?

 全身を生きたままドロドロに溶かされるこんな結末が最後の救いに見えるような大惨劇なのか。死ぬほど財力があって人脈があってこれほどの大事件を起こせるパワーが備わっていたはずなのに、そんな連中さえろくに抵抗もせず真っ先に安楽死が浮かぶような有り様なのか。彼らは一足先に何を見て、どこにどんな救いを求めていたんだ!?

 質問したくても誰もいない。

 もう一人も残っていない!!

「これで04の浄化作業もプランBで完了。ご子息、後の始末をするので下がってください」

「うわっ!?」

 火炎放射器の太い金属ノズルの先端を突きつけ、淡々とした顔で凄まじく直線的な炎を操るぶかぶか作業服の少女。マスクも耐火服もなくこんなの振り回すなんてまともじゃない、こっちは傍で見ているだけでストーブの前へ立つように肌がジリジリ痛みを発するっていうのに!

 VIP達を食い尽くした掌大のジェルは不自然極まる炎に追い立てられるように身をくねらせて逃げ回るも、それも上手くいかない。

 居並ぶ扉と同じく、床や内壁も適当に作ってあったんだ。ウレタンなのかプラスチックか発泡スチロールなのか詳しい答えは知らないけど、真夏に車のボンネットにチョコや飴玉を置いたみたいに、あっという間に一面の全てが溶けていく。それらがジェルと混ざり合って、そして階下に落ちていった。

「報告によりますと、エリア51で開発されていた不死兵器・ショゴス亜種は生物捕食ベースで無機物は食べません……」

 歌うように正体不明のアークエネミーは囁く。

「……よって液状化した無機物が絡み合った状態で急速に冷えて固まれば異物を溶かして抜け出す事もできず、固化処理が完了する、と。よし、仮説通りです」

 ぐうの音も出なかった。

 何から何まで僕達の先を行っている。どこまで落ちたか分からないあの残骸を、作業服の少女よりも早く僕達の手で拾い上げる事はできないだろう。向こうの方が内部構造に熟知し、人手の面でも優れている。むしろ敵の要塞の中で何故僕達が捕縛されていないのかの方が不思議なくらいなんだから。

 ジェームズ=ウィリーウィリー。同格のVIP達。

 彼らは助けられない。

 これから七二時間かけてゆっくりと可能性を奪われていく。

「……04って、言ったな」

「はい」

「他のナンバリングはどうなってるんだ」

「00以外の世界各地に眠る01から14までは全て浄水器のフィルターのようなものです。カラミティに飲み込まれる末路に気づかず酔い続けるか、内部で何かしらの結末があったか。何にしても、踏み込んだ時点で滅亡は決定づけられています。彼らは皆醜悪ですが、そうなるくらい依存を高めていなければそもそも各地のアブソリュートノアを執拗に追い求めて辿り着く事もありませんので」

 いいや、単に真実を伝えても彼らは救えないんだ。この04で見てきた通り、目の前で人生のゴールを奪われた人間はその衝撃に耐えられない。それは世界の真実を見せてやると言って、むき出しの宇宙空間で宇宙服のヘルメットを奪ってしまうのに等しい。

 全部。

 結局は義母さん、天津ユリナの掌の上なのか。人の欲望を把握しコントロールし、時には奪い取って自暴自棄に陥らせる事さえ。負の感情の制御において、人間が悪魔に敵うはずもなかったのか。

「何も不安に思う必要はございません。万事滞りなく問題は解決いたしました。引き続き、供饗市にて安心してその時をお待ちください、サトリ様。あなた達はすでに選ばれているのです。本当の意味でね」

「何が万事解決だ。ジェームズ=ウィリーウィリーの証言がなくちゃあジェルや爆撃の真相は明かせない。世界中の無害なアークエネミーが人食い扱いされて弾圧される時代が来るんだぞ!」

「むしろそうなってしまえば、サトリ様も地球人類を見限ってアブソリュートノア乗船をご決断なさるのでは。こちらはユリナ女史の予測ですが」

「っ」

 冗談、だろ……!?

 たった、たったそれだけのため、に、これだけの事をやらかしただってっ!?

「ただしユリナ女史はこうも仰られておりました。乗船に関してはサトリ様の自由意志を尊重すると。よって今回の問題は女史が自ら終息にかかる事にしたようです」

「どうやってだ!? ジェームズもいないのに!」

「ラスベガス空爆作戦はジェームズ=ウィリーウィリー一人で企てられるスケールではございません。すでに別働隊が議会に浸透した別の証人を押さえております」

 シビリアンコントロールの立場から箍を外し、ゴーサインを出した人間か!? 確かにそいつがいれば、ジェームズ以上に有力な証言が得られるはずだけど……。

「何もかも。本当に何もかも、義母さんの掌の上だったって事か……」

「はい」

 一言だった。

 エリア51は確かに実行犯だ。議会でゴーサインを出した連中も同罪だ。でも、そもそもありもしない蜘蛛の糸をちらつかせてリクエストを出していたのは誰だった? そいつが裁くのか。自分からリクエストしておいて、願いを叶えるために必死で動いた者達を切り捨てて、自分は正義の味方ですって事にするのか! 義母さん!? いくら大魔王だからってやりすぎだ。それとも悪魔と率先して契約したがるような不届き者の魂を抜き取るのが通常運転の仕事だとでも言うつもりか!?

「方舟に邪なる者が紛れ込む事は許されません。第一の原則です。ユリナ様は実に合理的な判断をなされたと言えるでしょう」

 ふらつき、潰れてしまいそうな僕の体を、何故だかぶかぶか作業服の少女がそっと支えてくれた。

 二人して、何の意味もない溶けたアブソリュートノア04からダム側へ出る。

「ですが一点だけ、ユリナ女史を出し抜ける事があるかもしれません」

「?」

「ユリナ女史の計画ではアブソリュートノアサイドにとって無益なラスベガスサイドに興味はありません。余計なコストを払ってまで、ジェルから犠牲者を引きずり出すつもりもないでしょう。ただ、事件発生からまだ七二時間は経過しておりません。ラスベガス全域を壊滅に追いやったジェルに適切な出力で遠心分離を行えば、ユリナ女史にとって予想外の結果を生み出せるでしょう」

「無理だよ、そんなの……」

 首を横に振ったのはアユミだった。

「お兄ちゃんだって見なかった? ジェルが全部でどれだけいるかは把握できていない。範囲だって広すぎる。そのラスベガス一帯から全てのジェルをかき集めて遠心分離機にかける? どこにあるのそんな大型機材!? しかも九・五G以上って戦闘機の限界Gとかと同じレベルじゃん!! 普通の機材じゃそんなに遠心力はつかないよ!!」

「……、」

 いや。

 あるいは、ひょっとしたら。

 僕は今、災害環境シミュレータのマクスウェルを従えているんじゃなかったのか……?

「カテゴリー5か」

「ええ」

「どうしてアンタはそんな事僕に教えた?」

「私はアブソリュートノアサイドの尖兵です。基本的にユリナ女史より与えられたオーダーに異議を申し立てる権限はありません」

 ぶかぶか作業服の少女はそこで片目を瞑り、

「……ただ、思考としてはあなた達に近いのです。まったく、もう少しだけ早くご紹介していただければ迷わずそちらに着いたものを。本当に残念です」

「どうしてもか?」

「はい、どうしてもです」

 ……くそ。

 頭を掻いて、それから僕は仲間になれなかった少女から背を向ける。

「姉さん、アユミ。あと一歩だ。このままじゃ収まらない、せめて義母さんの予測を一つでも外してやろう」

「構いませんけど……」

「ふぐう。あんな砂漠の街全体に散らばった相手にどうやって?」

 決まってる。

 僕はすでにその材料も見ている。


「そりゃもちろん、もっと大きな武器を使ってだ」