第〇章



「あれえ? タオリさん、また誰か拾ってきたんですかあ。ま、居候のあたしに言えた義理じゃないですけどお」


 ボロボロだった。

 打ちのめされていたんだ。

 世界の誰かにじゃない。自分自身の醜さに。

 意気消沈したまま白いワンピースの上からカーディガンを羽織った女性、『かつて母だった人』に手を引かれて見た事もないタワーマンションまで---住宅街にあるようなどれも形の同じ団地とかじゃなくて、これ自体が海辺の繁華街のランドマークになりそうなヤツだ---連れてこられたと思ったら、いきなりそんな素っ頓狂な声に出迎えられた。

「タオリさんほんとにそういうの好きですよね。前もペット禁止なのに大きな犬を連れてきて管理人さんに怒られたばっかりじゃないですかー」

 母さんと話しているのはシャンパン色のドレスにド派手な金髪の女性。正確にナニ盛りという髪型なのかは知らないが、何だか華道に新しい風が吹き荒れてレボリューションしたような頭のシルエットだ。実物は見た事ないけど、ドラマの中に出てくるキャバ嬢みたいな女の人だった。両手や首まわりもアクセサリが多い。多分高校生じゃないと思う。でも大学生のイメージよりもちょっと若い印象もある。見た目の派手さに幻惑されているんだろうか、いまいち年齢を掴みにくく、距離感を測りにくい印象もあった。

 母さん。

 禍津タオリは音もなく小首を傾げて、

「分かるの?」

「そりゃもう。あたしとおんなじワケアリでしょ。大体、今何時だと思ってんですか。タオリさんせっかくフリーになったっていうのに、ただ理由もなく若い男の子を部屋に連れ込むような事はやんないじゃないですか。もったいない」

 キャバ嬢はひらひら手を振ってこう続けた。

「あたしは火祭阿佐美(ひまつりあさみ)。よろしくね家出しょーねん」

「ああ、ええと、あの」

 この人は誰だ?

 母さんは廃病院の地下に三年以上閉じ込められていたはずなんだけど、つい最近知り合って意気投合したんだろうか。

「なに、自己紹介もできねーの?」

「天津、サトリ……です」

「あまつ?」

 火祭さんとやらから怪訝な声が返ってきた。明らかに眉がひそめられている。どうやら母さんと仲が良いようで、僕達の家の事情にも詳しいようだった。

 つまり、離婚を経て母さんが旧姓に戻っている事も。

「そりゃあ、まあ、大変だ……。た、タオリさん? ひょっとしてやらかしちゃった!?」

「別に家から連れ去った訳ではないのよ? サトリちゃんがボロボロの顔で夜の街を歩いていたから心配だっただけで……」

「んな言い訳身内にしか通じませんって! ああもう、とにかくウチの顧問弁護士に連絡しますから正直に経緯を話してください。あたしが何とかしてみますから。親権関係はマジでややこしいってのにこの人はもおーっ!!」

 自分で盛りに盛ってる金髪をぐしゃぐしゃに掻き回しながら、火祭さんはスマホでどこかと通話を始めてしまった。派手な見た目と違って周りの面倒ごとを抱き込む人情派なのかもしれない。

 あと顧問弁護士? そんなのに知り合いがいるって事はセレブな人なのかな。お抱えの医者とか運転手さんくらい縁がないけど。

 電話片手にベランダに出ていったキャバ嬢(?)へ目をやった母さんは、それからくすりと笑ってこっちを見た。

「大丈夫。阿佐美ちゃんが何とかしてみるって言ったら絶対叶うから、サトリちゃんは何も心配しなくて良いのよ」

「あの、」

「詳しく話をしなくても構わない。必要だと思っている間ここにいて、大丈夫だと思ったら帰りなさい」

 破格だった。

 でもだからこそ、僕は母さんがどうしてここまでしてくれるのか、しこりのようなものが取れなかった。

 声に出さなくても顔色だけで疑問を読み取ったのか、肩の力を抜いてこう囁いた。

「分からないくらいでちょうど良いのよ。サトリちゃんの歳ならね」

 いくつかある部屋の中で、彼女は僕をリビングの方に案内し、テレビのリモコンに手を伸ばしていた。

『持ちネタ一〇〇人斬り? ヨユーですよモノマネ一本二〇年をナメないでくだしゃあーい! どっ、わっはっはっ!!』

『アメリカ、ラスベガスで発生した粘液型アークエネミーによる大規模なインフラ打撃は、軍関与の見方が浮上した事で議会の総辞職の可能性まで……』

『クイズ海洋生物! 今回のテーマはサメ! 何かとおっかないイメージですが実際に凶暴なのはさほど多くもなく』

 いくつかチャンネルを切り替えていくけど、おそらく好みの番組がある訳じゃない。僕の気を紛らわせる、それでいて刺激の強すぎない選局に集中している。

「時間も時間だけど、お夜食だと思えば良いのかしら。サトリちゃん、パンケーキ作ってあげましょうか」

「?」

「好きだったでしょう、上からアイスクリーム載せたヤツ。阿佐美ちゃんが食べ尽くしていなければ、冷凍庫にバニラが残っているはずよ」

 一瞬何の事か言われた意味が分からなかったけど、母さんの記憶違いじゃない。そういえば小さな頃はそんなのばっかり食べていた気がする。

 思い出の中で家族の時間が止まってしまっているのか。だとすれば哀しいと思った。この人はまだ新しい家族を作って新しい人生に踏み出せていない。離婚の時、僕が母さんについていかなかったばっかりにそうなった。

 母さんは羽織っていたカーディガンをゆっくりと脱ぎながら、ベランダの方に声を掛けた。

「阿佐美ちゃん、お風呂はどうなってる?」

「うん、うん、だから最優先で! ……はい? バスタブのお湯はそのまんまですよタオリさん帰ってきてから入ると思ってましたし」

「ですって。お湯を沸かし直すから入ってきなさい。サトリちゃんも疲れているでしょう?」

「え、でも……?」

「衣食住。心が悩んでいる時は体を満たしてしまうのが一番なのよ。それとも久しぶりにお母さんと一緒に入りたい?」

「はいはいややこしくしなーい!! 聞こえてんだよぜんぶー!!」

 ベランダから例の火祭さんが乱入してきた。

 それから彼女はこっちをズビシと指差すと、

「ルールは一つ。タオリさんに迷惑掛けるのは良い、あたしの立ち入る話じゃないし。だけど泣かしたらあたしが殴るわ、タオリさんがどんだけ止めても。アンダスタン?」

 高級そうな腕時計を拳じゃなくて掌の方に巻き直している辺り、女の人だけどケンカ慣れしてそうだ。あれは文字盤で引っかくつもりか。こくこくと頷くと、火祭さんは一気に相好を崩した。仲間として認めてやる。そんな顔だった。

「なら良い。あたしも世界にケンカを売ってやる」

 そんなこんなで脱衣所の方へ押し込まれてしまった。この分だとバニラアイスの載ったパンケーキもほんとに出てくるかもしれない。

 一人きりになった脱衣所で、鏡を見ながらスマホを取り出した。

「マクスウェル」

『シュア。通話三四件、メール二〇件、短文メッセージ五八件。対応はいかがいたしますか』

「悪い……。保留で構わないか」

『ヘタレの極みでがっくしですが、未読のまま捨てろと仰らなかっただけでも救いのあるヘタレではないかと』

 分かってんだよ自分が最低に格好悪いって事くらい。

 ラスベガスは粘液型アークエネミーのジェルにやられた。鎮圧に乗り出した空軍の爆撃で壊滅だ。ジェルが飲み込んだ人達は助け出したけど、それだけだ。裏にはアブソリュートノアとかいう方舟の乗船チケットの話が絡んでいて、義母さん、天津ユリナは書類上の優先順位だけで機械的に選ばれた連中がチケットを独占し、本当に残るべき人があぶれるのを防ぐため、先手を打って彼らを一掃したらしい。わざと災害を起こし、腹黒な連中に偽りの方舟を与えてそれ以上を望まないようにする形で。

 で?

 だから何だ。

 結局真相を知った僕は何をどうした。義母さんに当たり散らすだけ当たり散らして、でも、もうやらないと確約を取り付ける事すらできなかった。ごめんなさいの一言さえ引き出せなかった。

 いいや、本当は分かっていたんだ。何をどうしたって望みの言葉は出てこないって。

 分かっていて、家族を傷つけた。

 正義がどうこう、大きな計画を止める。そんなのは二の次で、僕は自分の中の鬱憤をぶつけるくらいしかしてない。挙げ句に自分から逃げ出して、行き場を失って、今度は一度は切り捨ててしまったはずの実の母さんにまで迷惑を掛けている。

 ……こんな人間になりたかったのか?

 小さな頃にクレヨン使って画用紙いっぱいに描き殴った将来の自分はどんなヤツだった?

『システムは先ほどこう評価させていただきました。ユーザー様は救いのあるヘタレだと』

「違いが分からん」

『あの時、ユーザー様の前にはいくつかの道がありました。天津ユリナ夫人と戦って家から追い出すか、自分が出ていくか、見て見ぬふりをするか、などです』

 マクスウェルはいくつかSNSのふきだしを連続表示させていき、

『ユーザー様は世の理不尽に黙っていられず、しかし家族の居場所を取り上げる事もできなかった。だから自分から出ていった。……だとすればユーザー様はあまりに脆弱で、正義感を忘れず、そして優しい。自前の正義で視野が狭まり、家の中で拳を振り上げる輩よりは救いがあるのではと申し上げているのです』

 それは。

 ひょっとしたら、夫婦ゲンカの果てに自ら家を出て行ったかつての母さんと同じ道をなぞったんだろうか。

『結果として、ユーザー様だけが全てを失った。正義に背を向けてへらへら笑うか、正義を振りかざして相手を威圧していれば違った道もあったのに。……なら、その選択は誇るべきでしょう。システムはヘタレなユーザー様をサポートする事もやぶさかではありません』

「そうかい」

 ようやく、鏡の中で憔悴しきった僕の顔がわずかに笑った気がした。ちょっとおだてられたらすぐ世界の見方を変えてこのざまだ。我ながら情けないけど、いつまでも停滞している暇はない。

「マクスウェル。アユミや姉さん、あと委員長のケータイにメールを頼む。軽めに家出したけど心配しないでくれって」

『警告。誰がどう見たって事件に巻き込まれて嫌々書かされているようにしか読めないと思われますが』

「だから僕じゃなくて、マクスウェルから出してくれって言っているんだ。お目付役が一緒にいるって分かれば姉さん達も安心するだろ」

『……むしろバケモノ姉妹の嫉妬が怖いのですが。無人島に一つだけ持っていくもの議論に巻き込まれたとでも言うべきか』

 洗濯機の上に置いたスマホにタオルを被せてから、僕は着ていた衣服を脱いでお風呂場に向かった。湯船はウチより広い気がする。操作パネルを見るとIoT家電のようだった。ネットに繋がっていて、スマホにある帰宅スケジュールに合わせてお湯を沸かしてくれるらしい。……けど、危ないな。サイバー攻撃受けたら火事でも一酸化炭素中毒でもやりたい放題にならないか、これ。後でマクスウェルに脆弱性をチェックさせよう。いや、ホワイトハッカーのアナスタシアがそういうの好きだったっけ。餅は餅屋だし頼んでみるか。マクスウェルと勝負の形にすれば絶対乗ってくるだろうし。

 洗面器を使って湯船のお湯をすくい、軽く汗を洗い流しながら、僕は考える。

 何にしても、明日からだ。

 何をどうしたら問題が解決するのか分からないけど、このままにはしておけない。地球人口を破滅させるカラミティに、方舟のアブソリュートノア。目を逸らしている訳にはいかない。

 そんな風に考えて、湯船に足の先から入っていく。

 直後だった。


 落ちた。

 どこへ? もちろん湯船に張られたお湯の中に、だ。


 一気に頭の先までお湯に沈んだ。息もできず、両目に激しい痛みが走り、頭の奥までお湯の熱でカッと埋め尽くされる。訳が分からない。最初、石鹸でも踏んでひっくり返ったのかと思った。だけど違う。僕の体は明らかに縦に沈んでいる。……底が、ない……!? まるで足のつかないプールへ無理矢理入ったようだ!

「がばごぼっ!! げぶっ!?」

 手足を振り回す僕は明らかに泳いでいた。古井戸から真上を目指すように、とにかく空気を求めて水面へ。ようやっとお湯を割って口いっぱいに酸素を取り込むが、異常事態は終わってくれなかった。

「なっ、ん……?」

 浴槽の床は元に戻っていた。僕のお尻はつるりとしたプラスチックみたいな感触に支えられている。

 だけど今度は辺りが真っ暗で電気が通っていない。それでも周囲の様子が観察できたのは、やはりお湯のせいだった。

 奇怪だった。

 まるで夜光塗料みたいに、青くぬめる光を放っている。湯船だけじゃなくて、タイル張りの壁なんかの水滴もぼんやり光を放っている。洗い場の壁にある鏡には、何か変な模様みたいなのが書き込まれていた。

 そういえば、ドキュメンタリーの動画で見た夜光虫なんかが海一面でこんな光を放っていたか。

「……何なんだ、くそ」

 とにかく湯船から転がり出ると、濡れた全身も同じ色にうっすら輝いている。不気味さよりも恥ずかしくなってきた。とにかくタオルで全身を適当に拭き取り、脱衣所に向かう。

 びちびちびちびち!! と。

 何か大粒の雨が壁を叩くような音が響き渡っていた。

 ……? まるで台風みたいだな。だけど表は星空だったはず……。

「マクスウェル。何がどうなっているんだ、マクスウェル?」

 元あった衣服を纏い、洗濯機の上、タオルで覆っていたスマホを掴もうとした。

 が、反応がない。いくら呼んでもマクスウェルと繋がらない。アンテナはいつの間にか圏外。使い物にならない。

 この停電、ブレーカーが落ちたとか小さなレベルの話じゃないのか?

「……、」

 しばし考え、それから僕は気づいた。

 洗面台の正面にある鏡。そこに何が書き込まれている。文字を使った文章って感じじゃない。

 そういえば……。

 僕はもう一度風呂場のドアを開けた。やっぱり。洗い場の壁にある鏡にも、同じ模様がある。

 何なんだこれは。

 脱衣所に戻って鏡に顔を近づける。いくつかの線が交差していた。T字路や十字路だろうか。手書きの雑な地図の一点、十字路の角の一つに矢印がくっついている。

 見ている前で変化があった。まるで付着した水滴が垂れるように、青い夜光塗料の光が付け足されていったのだ。

 today's exit。

 それだけ。

 何だこれ。ひとりでにこうなったのか。風呂場を確かめると洗い場の鏡にも同じ文字があった。そんな馬鹿な。偶然文字に見えるとかじゃなくて、本当に?

 まるでシミュレータか、あるいは夢の世界にでも突き落とされたような気持ちだった。

 あの不自然極まりない格好で湯船の中に落ちた瞬間から、何かがおかしい。

「母さん。そうだ母さんなら」

 何か知っている。……のだろうか?

 とにかく一人きりで悩む必要はない。そう思って、今度は脱衣所からリビングに向かう扉を開け放った。

 直後。


 びちびちびちびち!! と横殴りの夜の雨が顔いっぱいにぶつかってきた。

 部屋なんかなかった。

 戦争映画の空爆みたいに抉り取られ、嵐の夜がそのまま見えた。


「なっ、あ……?」

 意味が、

 。何だこれ

「母さん! 火祭さん!?」

 叫んでも無駄な事くらい分かっていた。だけど声が返ってくるのを必死で願い続けた。

 ここは何階だった?

 何でごっそり、部屋っていうか背の高いマンション丸ごと削り取られたようになくなっているんだ。

 嵐の雨風の向こうに見えるのは僕の住んでいる供饗市だけど、僕の知ってる街なんかじゃない。真っ暗闇の景色をあの青い光が埋め尽くしていた。水嵩が増しているなんてレベルじゃない。学校くらいの高さなら余裕で水没してる。道路の区別なんかつかなくて、黒い水で埋まった場所とそこから突き出たビルの頭くらいしか存在しない。

 母さん達はどうなった。

 それに同じ街にいるアユミや姉さん……父さんに、義母さんも!? お隣の委員長だって!!

「マクス、ダメだくそっ!」

 スマホがどこにも通じないのがこんなに心細くなるなんて思ってもいなかった。この理不尽さを誰とも共有できず、一人で抱えるしかない。とにかくどこかと連絡を取って、見知った人の無事を知りたかった。

「電話……」

 ふらふらと、現実から遊離しかけた頭がそれだけを求める。

「そうだ、使える電話を見つけなきゃ」

 意識の片隅、いやに冷静な部分が否定している。家電を見つけたから何だ。大昔の黒電話ならともかく、今時の多目的な電話は電話線だけで電気を賄っている訳じゃない。辺りは真っ暗だし、停電になったら普通に使えなくなる。だから見つけたって意味ないぞ、って。

 だけど僕の頭の大部分は冷静になる事を嫌っていた。とにかく電話に飛びつきたかったんだ。

 リビングはすっかり形をなくしていて、取り残された壁にわずかな床の残骸がくっついているくらいだった。この嵐の中、幅一〇センチもない取っ掛かりを頼りに壁にへばりつきながら歩くなんて自殺行為だ。分かってる、だけどすぐそこに電話が。当たり前のものが目に見えているんだ。

 だから、一歩踏み出そうとした。

 だけど、実際にはそれさえままならなかった。

 何故ならば。


 巨大なサメが。

 それこそ潜水艦なんじゃないかってくらいあまりにも大きすぎるサメが、うねる水から


「う」

 それで現実感が戻ってきた。

 最大級にイカれた光景が、最もリアルな死の感覚を思い出させてくれた。

「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 一体何階分までせり上がってきたのか分からない水嵩から、さらに飛び出してきたのはざっと見ても三〇メートル以上の巨大なサメ。その筋肉の塊を全部跳躍に使ってきた。黒々としたトンネルじみた大口に魅入られそうになった僕は、情けない事にそのまま真後ろにひっくり返っていた。

 体はずぶ濡れの脱衣所の床へ。

 そして優雅にアーチを描いて飛び出したサメが、真上を突き抜ける。コンテナを引きずる大型トレーラーの正面衝突みたいだった。嵐よりも落雷よりも凄まじい音と共に、かろうじて四角い形を保っていた脱衣所の壁や天井がバリバリと砕けて風雨に流されていく。あっという間にグシャグシャだ。あいつ、建物の壁なんか気にしていない。言われてみれば消えてしまったリビングだって、壁や床の断面はどれもひどくギザギザしていた。

 あれが。

 あいつが、全ての元凶……?

「っ」

 細かく考えている暇はなかった。壁も天井も砕いて襲いかかってくるって事は、おそらく閉じこもっていても無意味だ。あいつは僕がここにいる事を知った。次の突撃で壁ごと突き破ってきたら、そのまま胴体丸ごと食いつかれてジ・エンドだ。マンションそのものだってへし折れかねない。

「うわあ!!」

 服を着たまま壊れた脱衣所から風呂場へ。浴槽に面した壁には窓があった。とにかくガラス窓を開け放ち、真下に目をやる。

 その高さにくらりと視界が揺らぐ。

 だけど直後に真後ろから凄まじい破壊音が炸裂した。いいや、背中に何かが突き刺さるような重たい感触。

 サメの歯じゃ、ない。

 だったら一撃で噛み砕かれている。

 おそらくもう一度脱衣所にアタックを仕掛けられ、その時破壊されて飛び散った壁の材料が背中を強打したんだ。

 だけど関係なかった。

「ごっ、ぷ……?」

 一発で呼吸が詰まる。断崖絶壁から背中を突き飛ばされるようにバランスを失う。

 すぐ向こうは開いた窓だった。

 そうかここは八階だ。

 ようやく思い出した時、僕の体は横殴りの雨が激しい嵐の夜に投げ出されていた。

 何か絶叫していたはずだけど、思い出せなかった。

 そのまま何もできずに三階分くらい落ちて、それから顔を強く叩かれるような衝撃に目を白黒させる。

 地面じゃない。だったら即死だ。

「ぶはっ!!」

 全身ずぶ濡れで顔を磯臭い水面から出すと、やっぱりだった。青く滑る光。街を埋め尽くす膨大な水の中に落ちたんだ。強い流れの中で四苦八苦しながら、何とかしてほとんど埋もれかけた街路樹の先を掴む。多分、高さにして四階から五階くらいはありそうだ。

 だけど、水中はヤツの独壇場だ。

 このままここにいたらやられる。どこか、どこかにベランダとか非常階段とか、建物の中に入れる場所はないのか……!?

 背筋を凍らせながら辺りを見回した時だった。

 何かが見えた。

 水没していない建物の窓という窓。そこに全く同じポスターで壁一面を埋めるように、統一された模様が描かれていた。今僕が溺れかけている青い光でだ。いいや模様じゃない。あれは地図だ。子供が手書きで描いたような、目印しかない雑な地図。T字路に十字路。その十字の角の一つに矢印。そして唯一記されたアルファベットらしきものの羅列。

 today's exit。

「何だって言うんだ……」

 最近はみんな地図アプリ任せだからしばらく連想が繋がらなかったけど、よくよく考えれば見覚えがある。

 今では水没して道路も信号も分からないけど、ついさっきまで身を寄せていた母さんのマンションの近くだ。十字路の角の一つ、根っこの部分。ぐるりと首を回すと、確かに何かがあった。青い夜光塗料みたいなのでぬめる光ばっかりの中、一つだけ灼熱に煮えた鉄みたいな輝きが見て取れた。

 あれは……ドア?

 ボウリング場の建物だった。どこにも面していない、壁に直接くっついた奇妙な鉄のドアがある。多分、消防のはしご車が使うためのものだろう。街全体が水没した今なら、泳げば直接取り付けそうだ。

 そして僕には時間がなかった。

 自分で考えるまでもなく、濁流に耐えられない。水没しかけた街路樹のてっぺんから指が外れた途端、ものすごい勢いで流される。奇しくもオレンジの輝きのある方向だった。

 背後からは巨大な圧が。

 あの規格外のサメに見つかった。それがはっきりと分かる。かえって後ろは振り返れなかった。確認してもいないのに、ヤツがこの濁流の中ビタリと正確にこっちへ向かってくるのが嫌ってほど伝わったんだ。流れに身を任せるだけじゃ心細くて、見よう見まねの不格好なクロールを始める。

 何だって言うんだ。

 あの扉がどうだって言うんだ。

 分からないけど、とにかく水の中にいるのはまずい。泳いで泳いで泳いで、ボウリング場ののっぺりした壁にくっついていた鉄のドアに取り付く。ノブを掴んで開け放ち、そのまま水族館のオットセイみたいに身を乗り上げていく。

 直後だった。


 ふっ……と。

 全て幻だったように、壊れた街が消えてなくなる。


「……、え?」

 パコーン! という小気味の良い音は、おそらくこんな時間まで遊んでいる人達が表のホールでストライクでも取ったんだろう。

 後ろを振り返ってみれば横殴りの雨も水没した街も青い光も……そしてあの巨大なサメもなかった。ただただ静かな夜の街があって、ここが五階相当の高さだと否が応でも伝わってくる。下に水がないから、ここから落ちたらおしまいだ。

 壁に直接くっついた鉄扉から顔を出せば、母さんのマンションも見えた。一〇〇メートルも離れていない。そして当然のように壊れている様子もなかった。

 何だ……?

 ……夢だとしたら、僕が脱衣所やお風呂場で倒れていない理由は?

 きちんと『移動』自体はしているんだぞ。体だって青く光ってはいないもののずぶ濡れだし、

「痛っつ」

 それに、ずきりと背中から鈍い痛みの感触。あのサメが脱衣所を破壊した時に、砕けた建材が当たっていたはず。

 傷がそのままだとしたら。

 『あそこ』でサメに襲われて死んだら、やっぱり命を落とす事になるのか……?

 料金を払っていないのに店内にいる事に説明をつけられない。非常階段を通って店員さんに見つからないようにボウリング場を出て、僕はひとまず母さんのマンションに戻る事にした。

 単なる夢じゃない。

 世界が二つあって、何かのきっかけで行き来しているような、そんな感じ。

「お湯……いや、水か……?」

 思わず街灯の下にあった水たまりを避けながらそんな風に呟いてしまう。

 あの時、そうだ。湯船に入ろうとしたらいきなり足がつかないほど深くなって、溺れたんだった。そして水面から顔を出した途端、景色は一変していた。

 夜の湖に浮かぶ月へ飛び込むように。

 何を非現実的な。

 そう笑うべき……なんだろうか? お風呂場からありえない距離を移動して、雨も降っていないのに全身ずぶ濡れで、背中に鈍痛が走っていても、まだ『気のせい』の一言で片付けるべきだって。

 高層マンションの三階までは海辺の繁華街という立地に合わせた軽めのショッピングモールになっていて、特に道路に面した一階部分はハンバーガーショップやコンビニなんかの明かりが煌々と点いている。おそらく深夜バイトの店員さんがレジカウンターで暇そうに立っていて、つまり何が言いたいかっていうと、ついさっきまで濁流の中にあったとは信じがたい平和な風景が広がっていた。

 駐車場は基本的にターンテーブルとエレベーターを利用した地下方式。住人用の玄関もちょっと目立たない位置にあった。出入り口には簡単なオートロックがあったけど、部屋番号をプッシュするとあっさり母さんと繋がる。

『えっ? サトリちゃん、どうやって表に出たの?』

 戸惑いながらも、一度は脱衣所やお風呂場も見て回ったんだろう。それからすぐに正門のロックを解除してくれた。

 やっぱり夢遊病みたいにその辺歩き回って、後から都合の良い記憶を捏造している訳じゃなさそうだ。

 お風呂場、脱衣所、リビングの順に出て玄関へ向かえば、母さんや火祭さんに見られてしまう。でもそれ以外に八階のバスルームから外に出る方法はなくて……現に、僕はこうして表をほっつき歩いている。

 何かがおかしい。

 何かに巻き込まれている。

 でもそれは何だ。あの巨大なサメや水没した街は何を意味しているんだ。

 答えが出ないまま、エレベーターがやってきた。

 なんと中には火祭さんが乗っていた。

 彼女は小さくグーを作って片目を瞑り、

「タオリさん泣かしたらあたしが殴る。ルールは説明していたわよね?」

「すみません……」

「まあ良いけど。てか何でずぶ濡れなの? 磯の匂いもするし。この辺釣り堀なんてあったっけ? いくら海沿いだからって、まさか浜辺や堤防まで出かけてないわよね」

 どうやら火祭さんは僕を迎えに来てくれたらしい。エレベーターから降りる気配はなく、そのまま上階にUターンするつもりのようだ。

 狭い中じゃこの匂いも迷惑だろうな。

 そんな風に思っていた僕だけど、ふと気づいた。こっちに背を向けて階数表示に目をやっている火祭さんからシャンプーやコンディショナーらしき花の香りがする。髪はドライヤーで乾かしてから盛りまくったんだろうけど、元から全く隠す気もないうなじの辺りも肌の色がほんのり上気していた。

 ……シャワーでも浴びたんだろうか?

 でも母さんがお風呂の事を尋ねた時は『そのままにしてある』と答えていた。つまり母さんが戻ってくる前に、すでに一回お風呂に入っているような口ぶりだったはずだけど……。

 どうでも良いか。

 それより自分の身に降りかかった問題だ。思わず僕は呟いてしまった。


「「はあ、何だったんだあの巨大ザメ」」


 ん? と。

 僕と火祭さんは同時に眉をひそめ、そして顔を見合わせた。

 何でここで声がハモる。

 ていうか巨大ザメの事を知っている。

 火祭さんはそんな顔だった。多分僕もおんなじ表情を浮かべている事だろう。

「まさか……」

「……あなた、も?」

 驚いて声を出した直後、柔らかい電子音が鳴った。エレベーターが目的階に辿り着き、そしてドアが左右に開いていった。