第一章
1
ちなみに脱衣所には問題なくスマホがあった。マクスウェルとも会話できる。
『質量保存の法則が覆されました』
「?」
『ユーザー様の衣服はここに畳んであるはずなのですが、ではユーザー様が今着ているものは何なのでしょう? それにユーザー様の手にあるスマホは? SIMの登録番号まで同一どころか、画面に付着した唾液の飛沫や指の油脂等の生体痕跡まで一致しています。謎は尽きませんが、ひとまず競合を避けるためどちらか片方のSIMを抜く事を推奨します』
「……冗談、だろ」
瓜二つのスマホを見比べながら、思わず呟いていた。
潜水艦じみたビッグサイズの人喰いザメや街全体を水没させる青い水に比べればちっぽけかもしれない。だけど悪夢みたいな主観に具体的で客観的な『誰でも一目で分かる』物証が出てきた気がして、僕の肌で音もなく鳥肌が湧き立ち始めていた。
まずい気がする。
自衛の必要がありそうだ。
あの極彩色の中で、鏡や窓にはこうあった。today's exit。今日の出口。今日の? 何でわざわざ前置きを付け足す。ただのexitじゃダメな理由は? それって明日も明後日もあるって事になるじゃないか!
「……マクスウェル」
『シュア』
「調べて欲しい事がある」
もちろん巨大ザメについて、だ。
僕は脱衣所の鏡で自分の顔と向き合いながら考える。
火祭阿佐美は僕と同じような体験をしている。つまり理不尽に水没した街で巨大ザメに追われて生き延びた。
それにtoday's exitという文言から、おそらくこいつが始まったのは今日が初めてじゃない。前々から連なる出来事に、今日から僕も合流して巻き込まれる羽目になったと考えるべきだ。
となると……僕以外にも、似たような経験をしている人はいるかもしれない。それが一定数を超えていれば、ネットの中で噂になっている可能性だって。
「荒唐無稽と笑うかもしれないけど、ひとまず指示に従ってくれ。巨大ザメのアークエネミー、光る海でサメに追われた経験、today's exit、青い水と電球みたいに光る扉。まずはこの辺で検索。ワード同士の関連性の高いサイトから順に表示」
『システムには自発的に笑うような高度な機能はありません。検索を実行します』
服はどうしようか迷ったけど、磯臭いまま母さんの部屋をうろつく訳にもいかない。それにマクスウェルの言が正しければ、洗濯機の上にある方が本物で、今僕が着ているのは怪奇現象の物証みたいなもののはずだ。
意味はないけど、ひとまず脱いで乾いている方に着替えてみた。
『ユーザー様、いちいちレンズ部分にタオルを掛ける意味はないのでは?』
「マナーだ。僕は風呂場とかトイレとかにケータイ持って入る人間はあんまり好きじゃない」
『しかしお風呂好きの委員長は確か』
「言うなよお前を悪用しないよう渾身の力で毎日毎晩我慢してんだから!!」
再びスマホを掴み直し、
「で、検索の方どうだった?」
『サメのアークエネミーについては該当せず。ソロモン七二の悪魔にフォルネウスという個体がいますが、その程度でしょうか』
「それって三〇メートル以上あってそこらのビルなら薙ぎ倒すくらい?」
『身体データまで詳細に解説しているサイトはほとんど見られませんが、いまいち特徴との合致を感じられません。そもそもソロモン関係に名を連ねている時点で基本スペックは高いのかもしれませんが。言語、学問、芸術に関するスペシャリストで敵を改心させる力を持つようですが、つまり直接暴力に特化している訳ではないのでしょう』
「ふうん、今じゃ人喰いザメなんてバケモノの代名詞みたいな扱いなのに、意外なもんだ」
『また、サメに追われる、というフレーズに関しては都市伝説系の掲示板でいくつかヒットしています。それもIPアドレス程度の簡易追跡ではありますが、この供饗市を中心に』
「内容まとめてくれ」
『先に忠告しておきますが、今日のネットロアの半数以上はフリーライターの自作自演とされています。自分で撒いた噂を自分の本で紹介して情報通を気取るためのものですので、信憑性に関しては強く心理的なフィルターをかけておく事を推奨します』
言ってみれば、ポマードやべっこう飴の売り上げを伸ばすために口裂け女の噂を流しているようなものだ。何とも世知辛い世の中だが、とにかく藁でもすがりたい。……大体、今回に限って言えば『本物』なのはもう確定しているんだ。フリーライターのデマから始まったにしても、それならそれで書き込みした当人の周りにサメに関する大きな秘密がありそうではあるし。
マクスウェルに複数のサイトや掲示板、SNSなんかの情報を要約してもらうと、人喰いザメの噂はこんなものらしかった。
水面を境に現世の人間は光る海に引きずり込まれる(名称についてはウミホタル、青い地獄、夜光虫、王の海など他多数。多くの人に語り継がれるためと推測)。選定理由は不明。該当者は自分の体が通り抜けられるくらいの表面積があれば危険と見て良い。
また、衣類や道具もそのまま持ち込めるので、自分から飛び込む場合は万全の準備をするべし。
一度引きずり込まれた経験を持つ者は何度でも危険にさらされる。
なお、一日一回が限度のようで、光る海から帰還した場合、残りの時間で再び引きずり込まれる事はないらしい。
引きずり込まれた場合、水没した街で全長三〇メートル以上の巨大ザメに命を狙われる事になる。
光る海では鏡に準ずるものにtoday's exitという出口のドアに関する地図が表示される。
出口の位置は毎回変わるが、法則性は不明。新しくドアが作られるのではなく、現世に存在しているドアの一つが指定されるらしい。
場合によっては無理ゲーな距離や位置にあるドアが指定されるケースも想定される。必勝法は特にない。目撃談を語る生存者はその全員がたまたまドアの近くにいて、易しい道順を選べたに過ぎない。
光る海で受けた傷は現世に戻っても継続される。つまり向こうで死亡すると現実でも死亡すると推測される。
ドアを潜れずに死体となった者がどうなるかは不明。現実に戻るのか、行方不明扱いになるのかも含めて。
一度引きずり込まれた人間は、延々とこの挑戦を強いられる。光る海から抜け出すか、巨大ザメを倒すか、生き残るための選択を迫られる。
「……冗談じゃないぞ」
都市伝説なんて往々にして当事者には出口がないものだ。それを対岸の火事として眺めるのが面白くて広まっていくものだ。
だけど、こいつはちょっと条件が厳し過ぎやしないか!?
「何度でも引きずり込まれる、全部巨大ザメの気分次第で倒し方も分からない、出口の位置は完全ランダムで場合によっては無理ゲーもあり。これじゃあ延々ロシアンルーレットに付き合わされるようなもんだ。その日一日を幸運で乗り切ったって、ずっと続けていたらいつかどこかで必ず破綻する。統計ってそういうもんだろ!?」
思い出してみれば良い。
あのオレンジに輝くドアがほんの一〇メートル奥にあったら? あのまま追いすがる巨大ザメに噛み付かれて水底に引きずり込まれていたはずなんだ。
『ノー。落ち着いてくださいユーザー様。あくまでネットに流れている、それも十中八九捏造された噂に過ぎません。ここに並べられている条件が本当に実際の現象と一致する保証はどこにもないのです』
「そうだっ、そのフリーライターっていうのは?」
『書き込み日時順に辿っていけば判明します。およそ一月前、まだ光十字が活動していた頃です。ですがこの発信者は正直どうでも良いのです』
「……?」
『仮にライターがネットロアに関与するなら、それは自分の記事にしたいからです。最初から怪奇現象があったとして、それをそのまま書いても記事にならなければ、面白くなるように内容を書き換えて再発信するのが彼らの仕事なのです』
「つまり……訳知り顔で語っている最初の発信者自身が相乗り、便乗しているだけって可能性がある訳か?」
『シュア。仮にこれだけの現象を素直に自力で調べ尽くしていたのなら、そのままでも十分にスクープです。無料の書き込みではなく有料の書籍にするはず。何も分かっていないまま金のなる木に作り変えてしまった可能性の方がはるかに高いでしょう』
なら、どうしよう。
僕は別にネットの情報を否定して欲しかった訳じゃないんだ。
確定が欲しかった。
イエスならイエス、ノーならノー。情報の真偽がはっきりすればそこから積み上げられるのに、これじゃいたずらに不安が膨らむだけだ。具体的に何をどうすれば生き残れるのか、一つもはっきりしない。
どこを起点に何を調べれば良い。じっとしていても事態は好転しない。いつまた変則的なロシアンルーレットに巻き込まれるのか、あんな人を殺すために存在するような水の世界に引きずり込まれて巨大ザメに追われるか分からないっていうのに……!!
『僭越ながら、一つ一つ足場を固めていく事を強く推奨します』
「それはどんな?」
『シュア。火祭阿佐美の目撃談とユーザー様の目撃談は本当に一致しているのかを検証してみるべきです。また、傷がそのまま持ち越されるなら、過去の新聞記事などからサメの歯にやられたような不自然な傷を持つ急患あるいは遺体に関する情報がないかを洗ってみるべきではないでしょうか』
そうか。
人が突然お風呂場から消えた。道端の水たまりを踏んだら落とし穴にはまったように沈んだ。こんな話なら与太扱いされてしまうかもしれない。
でも、例えば海とは無縁な内陸にある施錠された四畳半のアパートの中から、サメに噛まれたようなぐしゃぐしゃの変死体が出てきたら大ニュースだ。その記録は奇妙であっても残さざるを得ない。発信者不明のネットロアよりよっぽどしっかりとした公的記録として保管されているはずなんだ。
……死者に関しては光る地獄で置き去りになって行方不明扱い、とかだったら厄介だけど、調べてみる前から挫折を怖がる必要はない。今は何でも試してみるべきだ。
『他にもユーザー様の知り合いで似たような体験をした者がいないかも確認してみるべきでしょう。そう、例えばアユミ嬢やエリカ嬢などにもです』
「そうだっ、みんなは!?」
水没した街はもうない。今は雨粒一つない静かな夜だ。だけど黒々とした水に呑み込まれた街を眺めた時のあの恐怖は未だにしつこくこびりついている。自分もそうだけど、他のみんなだって。あの高さまで水が押し寄せたら、きっと建売二階建ての僕や委員長の家は屋根も見えなくなっていたはずなんだ。
身近な人の死。
たらればであっても十分怖い。
スマホを指で操作して、アドレス帳で行ったり来たり。家の誰に連絡するかで迷ったけど、結局義母さんにかける事にした。……なんていうか、ここ一回迂回したらギスギスしたのがずっと尾を引きそうだったから。
コール音一回で相手は出た。
開口一番こうだった。
『ぐじゅ……ひっく、ふぁいサトリ……?』
「ええー!? 何でそんなに泣いてんのよ義母さん!!」
『全部言わなきゃ分からぬかあー……うっく、ぶええ!!』
おかしい。
なんか自分の中で親ってものの像が崩れつつある。あと神話に出てくる大魔王ってこんなに泣くもんなのか。
「ええと、なんていうか、ごめんなさい」
『何に対するごめんなさい!? そこ重要だからちゃんと言って!!』
なんかすげーややこしい事になってそうだけど……とりあえず無事みたいだ。
冷静に考えれば怖い夢を見た後にパニックに陥って家族に電話を掛けているようなものなんだけど、笑っている余裕はなかった。
「義母さん、ちょっと聞きたいんだけど」
『どこいんの? そっち行って良い?』
……。
「多分またチェーンソーが乱れ狂うだろうからダメ」
『んっ? チェーンソー……???』
やばいっ余計なヒントを与えたか。
「義母さん、光る海に引きずり込まれて巨大ザメに追われるって言って、何の事か分かる?」
『詳しく』
義母さんに言われて説明したけど、話している内に空振りかなと思えてきた。初耳みたいなリアクションだったからだ。
『ぐじゅ、巨大ザメのアークエネミーねえ』
「ホラーの定番の割にあんまり種類はないみたいな話はマクスウェルからも聞いたけど」
『サメならな』
含んだような言い方だった。
『ほいサトリ、アークエネミー談義に入る前にまずベースになってるサメの基礎知識から入りましょうか。ぶっちゃけサメって言ったら何を連想する?』
「馬鹿でかい海洋性の肉食魚」
『ホオジロザメのイメージかしら』
「あとキャビアとフカヒレ」
『キャビアのチョウザメはチョウザメ目で独立しているんだけど……まあ、なんか美味しそうなイメージもあるわよね。実際にサメの身それ自体はあんまりなんだけど』
義母さんは笑っているようだったけど、特に遮ったりもしなかった。まるで自分の望んだ方向に話が流れていくのを確認して満足しているみたいに。
でも、こんな世間話が何に繋がっていくんだ?
『ねえサトリ。ここで大事なのはサメの生態とか、実際のサメの大半はプランクトンや小魚専門で本気の人喰いは少ないとか、そういう話じゃないの。そのイメージで良いのよ』
「えと?」
『世界で最も大きな海洋肉食魚で、しかも食用としてもレアリティが高い。……何もサメにこだわる必要なんかなかった。神話的スケールで語られる「その存在」を思い浮かべる段階で、民衆みんながイメージしやすいのがその魚だったってだけなのよ』
「んっ? んんっ???」
『動物のキリンと伝説の麒麟は全然違う造りなのは分かる? バクと獏でも良いけど』
「まあ……なんとなく……」
あんまり縁はないけど、確か父さんとか義母さんとかが吞んでる缶ビールにそんなマークがあったっけ?
『まず伝説があって、後から動物が発見された。何となく記述が一致するから関連づけられているけど、実はルーツは関係ない。そういう変な風に絡み合った生き物っていうのがいるの。この場合は「世界最大の巨大魚で食べ物としても非常に高いレアリティを持つ」ね。ふっふふ、哺乳類じゃなくてあくまで魚類なのがポイントかしら。だからシャチじゃなくてサメなのよー』
つまり何なんだ。
人間は何と何を見間違えたらあんな巨大ザメに納得を感じてしまうんだ。
『まだ分からない?』
そのものズバリな答えが欲しかった。
義母さんはあっさりこう言い放った。
『リヴァイアサン。ベヒーモスと共に終末の生き残り全員の口を満たすために神が創り出した、最大最強の贄たる魔王よ』
言われて。
だけど、スケールが違いすぎて僕はしばし理解の流れを寸断させてしまった。
「りば、何だって? どうしてそんなもんが東の果ての島国なんかに遊びに来てるんだっ!?」
『それ言ったらお母さんもアークエネミー・リリスなんだがな』
くそっ有名人相手にスケールの話をしてもまともな答えが返ってこない!? なんか『ハリウッドセレブと友達になる方法? ビバリーヒルズでいつもの道を散歩する事です』って真顔で答えをぶつけられたようなこの敗北感……!!
『こいつについてはお母さんも今すぐはっきりした事は言えないかな。光る海だか幻覚だかに引きずり込んで獲物を襲うプロセスも神話伝承には見当たらないし。炎や煙を吐くって話が絡んでんのかな。ただ』
「……まだなんかあんのかよ」
『リヴァイアサンがわざわざ供饗市を選んでやってきたのは、記念碑的な意味があるからかもしれないわ。つまり観光。……何しろ、ここは対アークエネミーの代名詞だった光十字の壊滅の引き金となった因縁の地でもあるし』
……それだと暗に僕自身が招いたようなものじゃないか。
けど、リヴァイアサンの目撃談は一月以上前、つまり光十字壊滅前からって話じゃなかったっけ。
『あとリヴァイアサンって七つの大罪で嫉妬を司るらしいのよね。ちなみにリリス、つまりお母さんは怠惰を担当してる』
「つまりどっちもすごい魔王って事でしょ?」
『でも七つは多いわよねえ。学説によっては一つの席にダブリもあるから両手の指を超えちゃうし。なんか量産される最強主人公みたいにさ、最強に宿る意味が希釈してる。だから雌雄を決しようとする魔王が出てきてもおかしくないのよ。何しろお母さん達はわるーい悪魔のそのまたてっぺんだから』
「……、」
『この辺関わっているとしたら……こりゃあ挑戦状みたいなものなのかもしれないわね』
2
それにしても携帯電話で良かった。
ムチャクチャ食い下がってくる義母さんに対し、必殺の『あっ今電波がアンテナが一本でもしもし義母さんあっあー!?』がなければ到底乗り切れなかったからだ。
『ぜってーバレてると思います』
「そうかなあ?」
結局母さんのマンションのお世話になったけど、まともに眠る事はできなかった。良く掃除の行き届いた、でも防虫剤みたいな匂いのする客間の一つをあてがわれたまま、何度かうとうとした事はあった。だけどそのたびに何もない場所でガクンと落ちる夢みたいなのを見て飛び起きたんだ。
気がつけばカーテンの隙間から朝日がこぼれている。ベッドサイドの時計に目をやれば午前六時前。高い階だと小鳥の鳴き声とは縁がなくなるものらしい。
「想像以上だ……」
ベッドの上で思わず呟いてから、もそもそと客間を出る。何だか喉が渇いていた。あれだけ水を怖がって何もない場所でも脅え続けてきたっていうのに人間とは難儀なもんだ。
台所で透明なガラスのコップを一つ拝借して、浄水器のついた蛇口をひねる。当たり前になみなみと注がれていく透明な液体、その揺れる液面を見てコップを掴む五指がわずかに震えるのが分かった。
大丈夫。
だからどうした。
そのままコップの縁を唇に当て、頭ごと真上を向く格好で一気に喉へ通していく。喉元から全身に何かが染み渡っていくのが分かる。恐怖を食った。我が物にした。そんな感じだ。ひょっとしたら人間がわざわざ自分の体より大きな猛獣や巨大魚なんかを率先して仕留めていったのは、恐怖を克服して自分の血肉に変えていく儀式だったのかもしれない。
「おあよー……」
ガチャリとドアの開閉する音と共にそんな間延びした声が飛んできた。母さんじゃなくて火祭さんみたいだ。マジで居候らしい。流石にこんな朝っぱらからクジャク盛りとかフルーツ盛りとかド派手な髪型にはしていないようで、だらんだらんに下がった金髪は何だかメデューサっぽい。
ちなみに寝間着についてはぶかぶかのワイシャツだった。一体誰のものだと言うのだ。
「……タオリさん朝食べない派だから待ってても無駄だよ。お腹減ったんならなんか適当に冷蔵庫のもの摘むしかない」
「へえ」
僕がまだ小さかった頃は毎日朝ご飯を作ってくれていたと思ったけど……やっぱり、こんな事でも負担をかけていたんだろうか。思えば僕は台所に立った事はなかった。ご飯なんて当たり前に出てくるものだと思っていたから。
火祭さんは火祭さんで宣言通り勝手に人ん家の冷蔵庫をがぱりと開けて、
「っ」
なんか肩が強張っていた。気になって彼女の肩越しに中を覗いてみると、どうやら牛乳やオレンジジュースと一緒に並べてある二リットルのミネラルウォーターのボトルに釘付けになっているみたいだ。
水。
死闘への入口。
そういえば簡単な話しかしていないけど、彼女も同じ問題に巻き込まれていたんだっけか。
「……、」
緊張するのも無理はないと思うし、克服の仕方は人それぞれだろう。僕は空になったコップを流し台に置こうとして、それからやっぱりスポンジを手に取った。母さんは召使いじゃない。何でもかんでも任せて良いはずがなかったんだ。
「……あなた、良く平気で濡らせるわね、その手」
「そりゃ怖いですけど、いつまでも拒否っている訳にもいかないですし」
「うっ……」
「それこそ水なんて衣食住全部ついて回ってくるんじゃあ? 飲み水とかお風呂とか以外にも、洗濯物だってトイレだって……」
「くそう、ほんとにこれからどうすれば良いってのよ」
入る、落ちる、引きずり込まれる。
深さは関係ない。表面積だけで条件が満たされるなら、もう道端の水たまりさえ危ない。とにかくこのサイズの水には気をつけなくちゃならないのは事実だ。流し台に広がる薄い水の膜だって十分怖い。でも何でもかんでも脅えているだけじゃこっちが先に干からびてしまう。
「……オレンジ、いやりんごジュースにしとこう」
火祭さんは迷い箸みたいに指先を行ったり来たりさせながら、大きな紙パックを一つ取り出した。正直あんまり意味のないこだわりというか、お風呂にカラフルな入浴剤を入れたくらいで何か状況が変わるとも思えないけど、彼女なりに必要な儀式なんだろう。
ステンレスの調理台の上に直接腰掛け、何故だか一蓮托生な火祭さんはこんな風に切り出してきた。
「でもって少年よ」
「何ですか」
「……ぶっちゃけこれからどうする? サメさん相手にサバイバル。最大でも一日一回ってだけで、アポもなく何月何日に始まるかも分かんない。しょーじき付き合いきれないんだけど」
それは誰だってそうだろう。二度とあんな目には遭いたくないし、避けられる方法があるなら全部試したい。
もちろん関わらないのが一番だ。
水に触れない、サメには関わらない。
……でも、正直それだけで大丈夫か? 言ってみれば地震や台風は怖いから巻き込まれた時の事なんて考えるのはやめようよ、と同じ思考停止に陥っている気がする。
最善は分かる。
ただそれとは別に、次善についても考えておくべきなんじゃないのかな……。
「ぶっちゃけますと」
「うん」
「火祭さんがどんなルート辿ったかは知りませんけど、自分的に前回超ピンチだったのは、縦にも横にも移動の自由が全くなかった事にあると思うんですよね」
八階のバスルームの窓から見下ろした世界は絶望的な高さだった。水没した街の中、ビルからビルへ速やかに渡る方法があったら何か変わっていたかもしれない。
「……today's exit。ドアの指定位置によっては無理ゲーになるっていうのも考えてみれば当然っていうか。手の届かない高さにあるドアで、途中の非常階段が嵐やサメに壊されたらお手上げですし。そういう意味でも移動手段の確保は急務だと思います」
ビニールロープの束だって何重にも重ねれば体重くらい支えられるはず。丸めた状態ならカバンの中にだって入るだろう。
……僕達は水の中に引きずり込まれて魔王の海に落ちる。やり方次第では、事前にロープを体にくくりつけておく事で落ちるのを防げるかもしれないんだし。
「根本的に、サメをやっつけてめでたしめでたしにはならないのね」
「そりゃ、まあ」
大体、潜水艦サイズ、三〇メートル以上ある巨大ザメだぞ。あんなもん至近距離からショットガンをぶっ放したって分厚い筋肉や脂肪が弾丸を受け止めてしまうんじゃないか? 街にある自転車だの道路標識だのを振り回したくらいで何とかできるビジョンは全く浮かばない。それとも光る海に怯えて四六時中バズーカ砲でも抱えていれば良いのか。そんなもの持って街をうろついていたら、僕達の方が怪物扱いされてしまう。
……何とも笑える話だけど、ここまできてまだ世間体ってヤツが邪魔してくる訳だ。あんな馬鹿げた存在が社会の仕組みを利用してこっちを苦しめにきているのは何とも皮肉だった。
相手はただの動物じゃない。知性を持ったアークエネミーって訳か。
「何であたし達なんだろうね」
額に手をやり、調理台の上に腰掛けた火祭さんはそんな風に言った。
……ここが光十字壊滅の引き金となった地で、リヴァイアサンと義母さんが共に七つの大罪を司る魔王と目されているから、って仮説は伏せておいた方が良さそうだ。
大体、それだけで説明できるとも限らないんだし。
僕や義母さんがリヴァイアサンから狙われるのは分かる。だけど火祭さんに飛び火する理由はちょっと説明がつかない。いや、それを言ったらリヴァイアサンの目撃例は一月以上前、まだ光十字が壊滅する前からあったんだ。僕や義母さんを中心に周りへ被害が拡散しているって訳でもない。義母さんはああ言っていたけど、ヤツの行動パターンについては全然未知数だ。
「……何にしても、明日も生きていられますように」
「まったくです」
お互いの生存報告のため、僕と火祭さんはスマホのアドレスを交換する事になった。
昨日一日でどれくらいの人が巻き込まれたんだろう。そしてその内の何人が帰って来られなかったんだ。ひょっとしたら、無事に出てこられた人間の方が少ないくらいなのかも。この辺りは後で真剣に過去の事件記録を洗ってみる必要がありそうだ。
3
昨日は終わった。
向こうは装填完了。またいつどこで水辺から死地に引きずり込まれるか分かったものじゃない。よって、呑気に学校へ行っている場合じゃなかった。最悪、今日もまたあるとみなして万全の準備を進めておく必要がある。
ネット口座にこつこつ貯めていたお小遣いをスマホとATMで引き出し、近場のホームセンターで必要なものを見繕っていく。
続けて向かった先は港沿いのコンテナ置き場だった。
「マクスウェル。電波法はひとまず無視して、基地局に頼らない独立局のホームサーバー設定だとどれくらいまで電波を飛ばせる?」
『シュア。完全にリミッターを切れば半径二〇キロまで安定、ギリで三〇キロ前後です。ただし著しくバッテリーを消費する他、各部パーツの劣化促進、使用者の健康面も保証いたしかねます』
「二〇キロか。ひとまず安心かな。それでも山間部で届かなくなった場合は導線や針金ハンガーなんかでアンテナなんかを拡張するか、増幅器をつける必要がありそうだけど」
『? いずれにせよ非推奨の設定です。行動の意図を提示していただいてもよろしいでしょうか?』
「サメと戦う時は街中全部停電しているんだ。水没や嵐のせいかどうかは分からないけど。だから普通の電源や通信網には頼れない」
スマホ自体はバッテリーで動いていたとしても、地上の基地局は電線から電気を受け取っている。仮に一メートル先の相手と通話するにしたってケータイ同士で直接やり取りするんじゃなくて、電波はいったん基地局に飛んで戻ってくる。だから基地局がダウンしてしまうと、マクスウェル本体とスマホを繋いでいるラインも途切れて使い物にならなくなってしまうって訳。
これを家庭用機器だけで直接やり取りするのが独立局のホームサーバー。家の中であらかじめ認証してあるゲーム機とかレコーダーとかを一括無線管理するためのものだけど、マクスウェルとスマホを結ぶ直通ラインを確保するだけならこれで十分だ。
後は、と。
僕はコンテナの金属表面を手の甲で叩きながら、
「お前は元々ある程度は防水していたけど、せいぜい雨風にさらされても雨漏りしないよう扉にゴムのパッキンを挟んでいた程度だ。……今日は本体を大工事するぞ。とにかく最低でも都合五階分の水圧に潰されないようにしないと話にならない」
『ノー。言うほど簡単ではありません。腕時計と同レベルとお考えかもしれませんが、これだけ大きな中空空間を賄うとなると要求される強度も変わってくるはずです』
「ああ。だけど誰が潜水艦を作るなんて言った?」
僕はホームセンターの大きな紙袋を地面に置きながら、
「元から大きな空間を抱えていて風船みたいになっているんだ。水漏れを防いで本体と地面を繋ぐ留め具の杭を外しておけば、地上が何メートル水没しようが水面まで浮上してくれるんじゃないか。それこそ中に空気を詰めたビーチボールみたいにさ。お前は液冷だから密閉したって熱暴走は起こさないだろ」
ま、ほんとに流されちゃ敵わないし、ボールと違ってひっくり返るのもまずいから、言うほど簡単でもないけど。太い鎖に起き上がりこぼしみたいな錘も必要だった。
『電源はどうするのですか』
「実際にサメから追われている時間は短い。せいぜい一〇分から、そうだな、長くても三〇分くらい確実に保てば良い。それ以上なら多分喰われて死んでる」
マクスウェルは携帯ゲーム機のコアを一四〇〇台ほど並列に繋いだハンドメイドで、言ってみれば究極のタコ足配線状態だ。一般電源のコンセントじゃ賄いきれないから業務用送電をお願いしてあるけど、それくらいの短時間なら大型のリチウムイオンバッテリーでも何とかなる。
電気自動車のパーツはちと手が届かないけど、電動アシスト自転車のバッテリーパックをいくつか並べるだけでも大分違うはずだ。ただまあボルトとアンペアには気を配る必要があるけど。
『しかし存在するかも怪しい未確認座標での自由を確保するために現実で準備を進めるとはおかしなものですね』
「まったくだ。あらかじめどのドアが出口扱いされるか分かっていたら、事前に壁へ梯子を掛けたり屋上と屋上をベニヤで繋いだりしてルート構築しておけるんだけど、流石にそこまでは望み薄だろうしな」
現世のデータを下地に光る海を上書きしているなら、こういう事もできる訳だ。あの水没下でもマクスウェルが使えるか否かは、かなり大きい。絶対に手放したくない命綱だし。
マクスウェル本体に、冷却装置専用のコンテナも。
ホームセンターで手に入る中では最も太い、公園の車停めに使うくらいの鎖を引っ張り出して、僕は言う。
「それじゃあ久しぶりにやりますか。オモシロ工作シリーズ」
4
「ふぐうー」
人が額に汗して馬鹿デカいニッパーのお化けみたいなワイヤーカッターで太い鎖をぶった切っていると、海辺のコンテナ置き場にそんな奇怪な鳴き声が響き渡った。
ツインクロワッサンならぬバターロールな義理の妹、アユミであった。
制服姿のゾンビがやってきたって事は、もう放課後か。スマホを見れば午後四時半辺りだった。お昼ご飯を食べ損ねた。空模様も何だか知らぬ間に分厚い曇天になっている。
「お兄ちゃん何でマクスウェルを鎖で繋いでるの? お気に入りは束縛したい系?」
「色々あるんだよこっちは」
「お互いにな! お兄ちゃんさっさと帰ってきてよお母さんすっかりほげーってなって意気消沈モードで家事スキルとか全滅してんだから」
ま、家族の間のトラブルなんて飛び火しない場所から見ればこんなもんか。こっちは割と人生の岐路に立ってるのに、アユミのヤツはお構いなしだ。
「洗濯物は溜まる一方だし朝ご飯に人数分のカップ麺が出てきたんだよ。良いか朝からだ!! これから朝昼晩全部こんな感じだったら三日くらいであたし達の方が先に壊れちゃうよー」
「そこで自分がご飯作るとは言わないのな」
「お兄ちゃんには言われたくないよ」
そうなんだけど。
改めて思えば、子供なんだから当たり前って言葉にほんと寄りかかっていたんだな。
「何だか義母さんには悪いから、今度から外で食べるようにしようかな。マクスウェル、お前の演算能力を切り売りすればバイトの代わりにはなるよな? 実験車の空力計算の足しにするとかで」
「やめてお母さんの頭からツノ生えるから」
何故だかアユミが早口で割り込んできた。
妹は胡散臭そうな目でコンテナを見上げて、
「てか全体的に何やってるの。こんなトコにこもって接着剤の匂いにまみれているなんて不健康だよ」
「言わんとしている事は分かるが、でも早急に防水対策を強化しておく必要があったんだよ。……これでよし、と」
あらかじめ固定用に地面へ打ち込んであった杭に余裕を持たせて鎖を巻きつけ、僕は頷く。
コンテナの方はすでに手を加えてある。と言っても元からある四角い箱の要所を確認して、分厚いゴムの接着剤であちこちを埋めたくらいだけど。
「お兄ちゃん今日どうすんの」
「そうだな」
僕としても母さんのマンションか元いた家か寝床を決める必要があるけど、でも気になる事もあった。
……火祭阿佐美さんが巻き込まれたのは、僕の身近にいたからだ、って可能性は?
実際には僕が関わる一月前から問題の現象は起きていた訳だけど、いまいちルールが解明されていない。例えば僕が街ですれ違った人が立て続けに狙われている、とかだった場合、リスクは減っていないんだ。
そう、大切な人に寄り添うほどトラブルに巻き込んでしまうリスクが、だ。
だとすると……どっちも頼れない。
「試してみたい事もあるし、今日はここで仮眠するよ。明日がどうなるかは分からない」
「いやだー!! じゃあ夜もカップ麺確定じゃん!!」
「姉さんにご飯ねだりなよ」
「お姉ちゃんもほげーってなってんだよお馬鹿さん!!」
そんな事言われたってアユミやエリカ姉さんをみすみすあんな問題に巻き込むのは絶対に避けたい。特に吸血鬼の姉さんは『流れのある水は渡れない』って弱点があるから、水没した戦場で巨大ザメに追われる展開はかなり相性が悪いはずだ。僕自身、バーチャル内で似たような事やっているんだし。
と、その時だった。
ぽつっ、と鼻先に冷たい感触がぶつかってきた。
「ふぐっ?」
アユミも変な声を出して真上を見上げている。一面を覆い尽くしているのは、例の分厚い雲だった。灰色からすっかり黒々と色を変えた雨雲から、立て続けに透明な粒が落ちてくる。
あっという間だった。
「うにゃあ!?」
「まずい、マクスウェル!!」
ドザッ!! とそれこそゲリラ豪雨の勢いで大量の雨粒が地面に叩きつけられる。もう水たまりを避けて通るとかそんな次元じゃない。ほんの五秒一〇秒で世界が一変する。まるで地面一帯が土色に濁った薄い鏡にでもなったかのように。
巨大な水面。
人を光る海に引きずり込むモノ。
「えっ、あ……お兄ちゃ!?」
最後までアユミの声を聞いている暇もなかった。掴むものもなく僕の体は落とし穴にでも落ちていくように垂直落下していく。
5
いきなり天地がひっくり返った。目も開けていられず、呼吸が詰まる。凄まじい力で揉みくちゃにされながら、かろうじて自分が濁流の中にいる事だけ掴み取る。
「がばっ」
意識した途端に、目と鼻と口の全部に猛烈な痛みを感じた。塩を直接擦り込まれたような味と痛みだ。
「がばごぼ! がうがっ!! ごほおっ!?」
あの水没した光る地獄だ。だけど今回はスタート地点がタワーマンションみたいな高層建築じゃない。地べたから始まるとこんなに不利なのか!?
……とにかく。
上に。水面に。でも上ってどっちだ!? どこに向かえば当たり前の空気と再会できるっていうんだ!!
何もできずもたもたしている間に頭の芯からカッとした熱が爆発した。酸素、が。手足の先から力が抜け、ろくに抵抗もできずに磯臭い濁流に翻弄されていく。
でも、かえって功を奏したのかもしれない。
人間は元々黙っていても水に浮く構造で、俗に言うカナヅチは変に水を怖がって無意識に力を入れてしまうから沈んでしまうんだとかいう話を聞いた事がある。
何であれ、ようやく僕の顔が荒れ狂う水面を突き破る。
「ぶはっ!! げぼごぼ!!」
あれだけ恋い焦がれた酸素なのに、かえって肺がびっくりしてまともに吸い込めない。口を開いても湿っぽい咳ばかりが吐いて出る。
それでも再び手足が活力を得る。
天然の浮力を奪われるのが怖くて、思わず両手を振り回す。とっさに指先に当たった固い感触の正体は……金属コンテナ? 高層マンションみたいに水底から突き出ている訳じゃない。きっとピラミッド状の山が崩れた上で、中に空洞のあるコンテナが思い思いに浮かび上がっているだけなんだ。
マクスウェルは……ダメだ。どのコンテナが本体か分からない。とにかくいつ沈むかも分からない水面ギリギリに四角い屋根が浮かぶコンテナの縁を改めて両手で掴み直して、その屋根に身を乗り上げていく。
「はあ、はあー!!」
仰向けに転がり、大の字になって、ようやく本当に自分の意思で空気を取り込む。落ち着け、大丈夫。水没した風景なんてシミュレータの中でも味わってきたはずだ、あれと同じ。いつまでもくらくらする頭を振ってみれば、相変わらずの真っ黒な分厚い雲に横殴りの雨。ただしまだ日没前だからか、水にまとわりつくあの夜光塗料みたいにぬめる青い光の勢いは弱い。
……そうだ。
あの青い光と言えば……例の地図はどこだ。today's exit。液体や水滴で濡れた窓や鏡に描かれる手書きっぽい地図は……。
「いや、冗談だろ」
改めてむくりと身を起こし、周囲を観察する。一面は土色に澱み切った濁流。そして複雑に絡み合う波間で浮き沈みしている金属コンテナの群れ。それだけだ。地図はおろか、そもそもピカピカに磨いた窓や鏡に類するものが見当たらない。
場合によっては無理ゲーになる。
そんな噂話の一文が脳裏をよぎる。まずい。そりゃあ現実の風景をベースに魔王の海が構築されているんなら、座標によって鏡や窓の数にだってバラツキはある。それこそバレエ教室なら壁一面が大鏡になっているだろうし……雑にコンテナを積んだだけのヤードなら望み薄だ。
「くそったれ! マクスウェル!!」
『シュア。具体的なオーダーをお願いします』
かろうじてスマホを経由してマクスウェルの力は借りられる。だけどマクスウェルに尋ねたって今日の出口、today's exitの位置が分かる訳じゃない。
ざぱりと水を割る音が響いた。
揺れるコンテナの上で恐る恐る振り返ると、あれは何だ? 遠くの方ではそこらのテントよりも大きくて禍々しい、鋭く尖った三角形の岩みたいなのが濁流の水面を切り裂いている。
……サメの、背びれ?
おい、嘘だろ。冗談だよな、おいって!?
ビタリと止まっているのがかえって不気味だ。体が大きい方が濁流の影響を受けやすいんじゃないのか。大自然をねじ伏せるほどの筋力があるのか、特殊な鱗なんかで軽減しているのか。
「とにかく移動したい!! ルート構築、水面から離れるにはどうすれば良い!?」
『シュア。手っ取り早いのはコンテナを運ぶガントリークレーンに昇ってしまう事です』
それ以上は待てなかった。
こんなに理不尽で不条理な場所で、月並みな恐怖になんか囚われている暇もない。
とにかく助走だった。
頼りない小舟みたいに上下に揺れているコンテナだけど、サイズだけならちょっとしたバスくらいある。存分に走って、そして跳んだ。
あっちこっちにはピラミッドが崩れてたくさんのコンテナが桜の花弁で埋め尽くされた池みたいに浮かんでいるんだ。
水に入ったら巨大ザメ、リヴァイアサンの独壇場だ。だからとにかくコンテナからコンテナへ、頼りなくても飛び移っていくしかない。
ゴァア!! と。
何か咆哮じみた大音響が背中を叩く。サメって鳴くのか? それとも規格外の肉体を振り回すと辺りの空気が悲鳴を上げるのか。流石に今すぐ答えは出せそうにない。
正直寄り道なんてしている暇はないんだけど、ついつい後ろを振り返ってしまう。サメの速度って時速どんだけだ。未だに喰いつかれていないのが逆に不思議なくらいだったけど、自分の目で眺めて何かの片鱗を掴む事に成功した。
「……何だ? 手当たり次第にそこらじゅうに浮かんでいるコンテナに噛みついてる?」
『シュア。サメは海中視力そのものが優れている訳でなく、海水内に溶け込んだ血の匂いや獲物が漏らす生体電流を読み取って正確に追跡するはずです』
「金属のコンテナが電気の流れに干渉している? あるいは鉄錆を血の匂いと誤解しているのか……?」
『詳細は不明ですが、本物と偽物を並べれば見分けるくらいの感度はあるでしょう。平たく言えば、ユーザー様が海に落ちていないからこそ成立している偶発的なデコイではないかと』
まったく我ながら恐るべき幸運だけど、ここまでカードを揃えたって安全神話は存在しない。リヴァイアサンは手当たり次第に足場となるコンテナを破壊しながらこっちに接近してくる。立ち止まっていたら僕は束の間の浮島を失って濁流にドボンだ。そうなったら巨大ザメは幻惑の森を抜け、一直線に溺れる生肉に突撃してくるだろう。
従って、やるべき事は一つだ。
絶対に足を止めるな。濁流に浮かぶコンテナを次々と飛び移って、どうにかこうにか巨大ザメの入ってこられない内陸部まで逃げ込め! だっだだ大丈夫、水没した風景はシミュレータ内で吸血鬼の姉さんとケンカした時にも経験済みだ。頭上をまたぐ巨大なガントリークレーンも一見すると安全地帯に見えるけど、何十メートルもある作業用梯子をもたもた昇っていたら巨大ザメの大ジャンプ一発で噛み付かれて即死だ。大体、リヴァイアサンは三〇メートル以上の巨体でその気になれば母さんのマンションをごっそり抉るほどの力と重さを誇る。仮に運良くガントリークレーンのてっぺんにある操縦席まで辿り着いても、多分鋼の支柱ごとへし折られて濁流に真っ逆さまだ。
そこまで考えて、不意に僕の頭の中でガントリークレーンの存在感がぐわんと大きく膨らんだ。
あんなトコに籠城したって百害あって一利なしだ。だけどガントリークレーンのてっぺんには操縦席がある。そう、電話ボックスみたいに強化ガラスの板で取り囲まれた透明な箱が。
そしてtoday's exit、オレンジに輝く唯一の出口の位置は何故だか窓や鏡などに青い光で描かれていく。
「マクスウェル! 望遠モードでガントリークレーン操縦席を撮影。窓に何か浮かんでいないか画像解析!!」
『シュア。六面全てに同一の図画を確認。何かしらの手書きの地図とも受け取れます。供饗市全域の道路網と照合、一致する条件を検索中……』
もちろん悠長に待っていられない。こうしている間にも真後ろからは潜水艦じみた巨体を誇る殺人ザメは辺り一面の金属コンテナをポップコーンみたいに食い散らかしながらこっちに迫ってきている。僕だっていつでも命懸けだ。横殴りの風雨にさらされ、つるつる滑る金属の屋根を踏んで、絶えず波間に揺れるコンテナからコンテナへ次々と飛び移っていく。一度でも落ちたら、たった一〇秒未満の速度ロスがあれば即死決定だ。必要以上に心臓がバクバク鳴って胸がキリキリ痛む。
『該当情報を確認。湾岸観光区港湾工業地帯の一角です。船から見る夜景見学の一環である工場見学ツアーとしても有名なスポットで……』
「要約してくれ!! 長文に付き合っている暇はない!!」
『シュア。そのままコンテナルートで北西に二〇〇メートル移動してください。華丘(はなおか)重工業鉄鋼コンビナートC棟高炉にある煙突側面のメンテナンスハッチにtoday's exitの表記があります』
「まだ長い!」
『行間を読む力を養いなさいと進言しつつ。つまり巨大煙突に朝顔の蔓のように巻きついている螺旋階段を昇って、途中にあるドアを開ければ帰還条件達成です』
マクスウェルの文章を目で追うよりも、問題のコンビナートに突入する方が早かった。コンテナからコンテナへ飛び移る僕のアクション自体はへっぴり腰でも、コンテナ群自体だって濁流に揉まれて常に激しく移動している。言ってみれば空港なんかにある動く歩道に身を任せているのに近い状態なのかもしれない。
運自体は僕に向いている。
今、僕の人生は追い風だ。そう信じたい。
土色の濁流に飲み込まれ、どこが陸地でどこが海なのかも判然としない港湾ブロック。だけど背の高い煙突だけは森みたいに乱立していた。
相変わらず決まった陸地に恵まれず、コンテナ間を飛び移っている僕の視界の端に何かが映り込む。
ひらりと、別の方角から居並ぶコンテナを伝ってこっちに合流してくるのは……。
「火祭さん!?」
「おっとマセガキ、あなたも引きずり込まれた口?」
色を染めたのか抜いたのか、とにかく長い金髪をキャバ嬢みたいに豪快に盛り、僕達高校生には出せない肉感的なボディラインをシャンパン色のドレスで包み込んだ、意外と正体不明なセレブさん。よくあんなひらひらだらけのドレスでこんな殺人アスレチックを動き回れるな。だけど火祭阿佐美とここで鉢合わせた事には大きな意味がある。
……つまり、この恐怖は共有できるモノだ。個人個人が見る夢とは違って、全ての参加者が同じtoday's exitのドアを目指す羽目になる。前の日も二人とも生き残っているって事は、ドアは早い者勝ちの使い捨てゲートって訳でもない、のか?
条件次第では初っ端から無理ゲー。ある意味で分の悪いロシアンルーレットに誰かの頭が吹き飛ぶまで延々参加を強要されるような有様。
そりゃ当然だ。巻き込まれた地点によっては街の西から東に丸々横断しろなんて迫られる可能性もゼロじゃない。高層建築さえ突き崩す巨大ザメに追われながら、水没した嵐の街を徒歩で移動して、だ。最初の位置関係でしくじれば生還の見込みは限りなくゼロに迫る。しかもそれはこっちの努力でパーセンテージを変えられる訳じゃないときた。
「にしても、あんな手書きの汚い地図だけで、良くコンビナートの煙突なんて分かりましたね」
「人間、生きるか死ぬかになれば頭の回転だって跳ね上がるもんよ。なんか小さい頃に行った遠足で見たなーって思い出しただけ。あの子に写真見せびらかしたっけとか」
……僕はそこまでじゃないけど、これはマクスウェルがいるからかも。漢字の変換機能が読み書きを衰えさせてしまうように、便利すぎるエージェントにも功罪はある。何でもアナログな火祭さんの頭じゃ絶えず走馬灯が乱れ狂っているのかもしれない。
ベキベキメキメキ!! とさらに金属を噛み砕く音が背中を叩いてくる。
まずいな、さっきよりも近い。手当たり次第に濁流の漂流コンテナを噛み砕いている巨大ザメだけど、寄り道したって向こうは海の王者だ。走って飛び跳ねるくらいじゃ振り切れないのかもしれない。
そんな風に思っていた。
甘かった。
ドガッッッ!!!!!! と。
今度こそ、ようなじゃなくて、正真正銘の大爆発が僕達の真後ろで炸裂した。
意味が分からなかった。
とにかく爆風に押されて前へつんのめりそうになる身体を押さえつけ、今にもひっくり返りそうなコンテナの上でいったん四つん這いになってバランスを取る。ずぶ濡れドレスの火祭さんは勢い余って派手に倒れ込んだので、慌てて覆い被さった。こんなところで転がって濁流に落ちたら一巻の終わりだ。
二人して抱き合いながら、恐る恐る背後を振り返ってみれば……土色に激しく波打つ水面が一帯オレンジ色の粘つく炎で埋め尽くされていた。
「ばくはつ……? コンビナートで取り扱ってる石油関係か……???」
コンテナと同じくタンク関係も波間に揺られていたんだろうか。それとも巨大ザメが接触したか、自分から噛み付きに向かって……。
だけどこんなので終わらなかった。
夕暮れの海みたいに燃え上がる水面を破り、あの鋭い岩に似た背びれが音もなく滑るように移動しているのが見えたんだ。激しい濁流など意に介さず、まるで物理法則全体から切り離されているかのように。
「お構いなしかよ、くそ!!」
逃げ回るしかなかった。
あっちこっちで激しい爆発を生みながら追いすがるリヴァイアサンに、僕達はコンテナからコンテナに跳んで目的の煙突を目指す。まだ距離はあるのに爆発の衝撃波は僕達の体力をゴリゴリと削り、時にはアーチ状に伸び上がった粘着質の炎が先行して頭上を追い抜いていく事もあった。正体は火炎瓶のお仲間みたいなものなので、慌てて漂流コンテナの移動ルートを変えないと降り注ぐ可燃物を頭から被って火ダルマ確定だ。
お巡りさんの拳銃くらいじゃ止まらないとか考えてた。
でも実際、ここまで頑丈なのは予想外過ぎる。やっぱりただのサメじゃなくてアークエネミー。自分からコンビナート火災を巻き起こしてその爆発の中を平然と泳ぎ回るなんて、もう火炎放射器やバズーカ砲を持ってきたって真っ向勝負を挑む度胸なんか湧かないぞ!!
「火祭さん!!」
「分かってる、あれよね!!」
結局逃げるが勝ちなのだ。
いくつか街路樹みたいに等間隔に並ぶ灰色の塔の群れが迫っていた。直径だけで教室と同じくらいあるんじゃないだろうか。円筒形の巨大煙突の側面には理容店の軒先にあるカラーポールみたいに錆びた金属製の螺旋階段が巻き付いていた。
正直、居並ぶのはどれも同じ型の煙突だ。
だからコンテナからコンテナへジャンプしながら、僕は視線を上げた。
ある。
まるで定規の目盛りみたいに縦一直線等間隔に並ぶ鉄のドア。その一つがオレンジ色に輝いている。
煙突側面にデカデカと印字された文字に目をやれば、
「C棟高炉! 上から見て四つ目の鉄扉です!!」
下から数えなかったのは言うまでもなく地上が水没して見えなかったからだ。螺旋階段にも濁流から覗いている部分から手すりを越えて途中参加させてもらう。実際にはすでに五階以上の高さのはずだ。
飛び移る。
ドガッ! ズドッ!! と。水面ギリギリから螺旋階段を駆け上がっている最中も、真下の濁流からは立て続けにくぐもった爆発音が響いていた。同じタイミングで猛烈な熱気の塊みたいなものが突き上がってくる。
火祭さんは手すり越しに下界を眺めながら、恐る恐る呟いていた。
「ストーブの熱気って下から上に上がるものよね。このまま蒸し焼きにされなきゃ良いんだけど」
ぞっとする意見だった。力馬鹿の巨大ザメにそんな頭脳プレーは望んでいない。
だけどもっと考えるべきだった。
そう、ヤツの得意技はそもそも力押しのはずなんだ。
ごごんっ!! と。
直後にいきなり足元が激しく揺れた。いいや、単なる振動じゃない。世界全体が斜めに傾き始めている……!?
「あいつ、体当たりで高炉まとめて根元からへし折る気か!?」
「冗談でしょ、ピサの斜塔より頑丈そうな塊なのに!」
火祭さんは走りながらそんな風に叫ぶ。そうしている間にももう一発。この濁流の中でもビタリと静止して、正確に狙いをつけての破壊行為。こっちはもう結構な高さだ。どこから何が突き出ているか分からない濁流に落ちたら、下は水でも命の危険がある。それが三〇メートル級の潜水艦じみた巨大ザメならなおさらだ。
「どうすんの!?」
「下に降りてもあんなの倒せません! この高さも武器にできるかもしれませんが、投げ落とす石や岩のストックがない!」
「だから結論どうすんの!?」
「煙突が倒れる前にドアを潜る。これしかないでしょう!!」
さらに不安定に軋む金属製の階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、ギリギリのところを走り続ける僕と火祭さん。
ようやっと目的の扉まで辿り着いた。
ドア表面を鮮やかに彩るオレンジ色の光に導かれ、肩から寄りかかるようにドアを開けようとして……気づいた。
ガシャン!! と。
軋むような音がするだけで、びくともしない。鉄のドアが開かない!?
「じ、じょうだ、やめなさいよそういうの!」
「マジですって鍵がかかってるんです!」
こういうところも、現実を下地に作られた戦場だからか。だけど引き返す訳にはいかない。水没したコンビナートをくまなく探して鍵を見つけ出す余裕もない。
たった三二グラムのアルミと亜鉛の合金があるかないかでこの大騒動だ。
知った事か。
僕と火祭さんはお互いの顔を見て頷き合うと、鉄のドアを靴底で思い切り蹴飛ばした。派手な音が響く。さらに煙突全体が右手側に傾く。もう倒れるのは確定だ。背筋は凍るが、無理矢理恐怖を押さえ込んでもう一回。何度でも!
バガン!! という派手な音と共に、金具を壊すような感触が靴底に返った。勢い良く鉄のドアが奥へ開け放たれる。
これ以上待っていられなかった。
僕達はそのまま転がり込むようにドアを潜っていく。
6
最悪の気分だった。
「がはっ、げほごほ」
体に悪い、油が燃えるような匂いで現実に引き戻される。僕も火祭さんも海水でずぶ濡れになっていて、しかも場所は一般人立入禁止のコンビナート内部、高炉の整備点検口だった。こんなところを見つかったらイタズラ扱いじゃ済まされない。最悪、大規模火災や海洋汚染を目論むテロリストなんかと勘違いされるかもしれない。
それでも帰ってきた。
二人して背後を振り返れば、さっき自分達で蹴破ったはずの鉄扉がすました顔できちんと施錠されていた。あの光る海でサメが何を壊しても現世には影響しなかったように、内鍵のかかった扉は扉のままだった。
……今回はたまたま運が良かった。
これが女子トイレとか更衣室とか委員長宅のお風呂場とかの扉を指定されたら何がどうなってた? 誤解を解くためにどんな言葉を駆使すれば納得してもらえるか、全くイメージできない。
「向こうは、どうなったのかしら」
鉄扉を見ながら火祭さんはポツリと呟いた。
「あの煙突、明らかに倒れていっていたわよね。あたし達は間に合ったけど」
そう、そうだ。僕と火祭さんが行動を共にしたって事は、一つきりの魔王の海に参加者が集まる形になっていたはずだ。つまりあの時、僕達の他にも巻き込まれていた人がいたって可能性もあるのか……?
「煙突が倒れた後でも、ドアさえ潜れれば問題ないのかもしれない」
多分、理屈では正しいはずだ。建物の構造とか関係なくドア単体がゴール扱いなら、煙突が立っていようが倒れていようが関係ない。
「だけどそれって、叩きつけられてバラバラになった煙突がどうなるか誰にも分からない訳じゃない? ドアの部分が濁流の底に沈んじゃったら、見つけるのさえ困難だと思うけど……」
「……、」
言わんとしている事は分かる。大量の瓦礫が散乱しているであろうあの濁流に潜って出口に近づくだけでも大変だし、しかも水中はリヴァイアサンの独壇場だ。何にしたって僕達の前と後とじゃ難易度は全く変わってくるだろう。
運が良かった。
それしかなかった。そして今日の分は終わったけど、明日も幸運かどうかは誰にも分からない。
「……保たないぞ、こんなの」