第二章
1
防水のスマホを持っていたのは大きかった。マクスウェルの補助がなくちゃ作業員に見つかる見つからないなんてレベルではなく、そもそも高炉から安全に出る事もできなかったかもしれない。
火祭さんと一緒だったせいか、自然と帰る先は母さん、禍津タオリのタワーマンションの方になった。
ただし日付も変わって真夜中に、八階の窓から吸血鬼がお邪魔してきたけども。
「サトーリ君」
「姉さん」
「マジ説教するから覚悟しろ」
そう言われちゃったら豪快な金髪縦ロールの姉さんの前で正座するしかなかった。大体吸血鬼の姉さんは夜間部だから、普通科とは肌感覚が違うとはいえ本来この時間は学校に行っていないとおかしい。つまりサボッてでも僕の様子を見に来てくれたんだろう。無下にはできない。
漆黒のゴスロリドレスを纏う姉さんは相当怒ってて感情がセーブできないのか基本的に両手を腰に当てて上から目線、何度も人の鼻先を人差し指で指すお行儀の悪さも顔を出し、何故だか最後は抱き締められてしまった。
でもって。
「お兄ちゃんがいきなり消えちゃったーって、アユミちゃんも相当パニックになっていましたから、後でちゃんと声を聞かせてあげてくださいね」
……家族に無事の報告ってすんごく恥ずかしいけど、まあ致し方ないか。
「あの時アユミが巻き込まれなかったところを見ると、あの巨大ザメ、リヴァイアサンが指定した人間以外は光る海に引きずり込まれないみたいだ。ここだけは安心材料ではあるけども」
「……ただ、釈然としませんね」
「やっぱり?」
「ええ。リヴァイアサンが七つの大罪繋がりでお母さんにちょっかいを出しているなら、まずアークエネミー・リリスが真っ先に狙われないとおかしいです。よしんば搦め手や嫌がらせに特化しているとしても、サトリ君が狙われてアユミちゃんが見逃されるというのも考えにくい。だって二人とも同じ家族なんですから」
……そうなんだよな。
リヴァイアサンの目的が義母さんから大切な人を奪う事だった場合は、アユミも一緒に巻き込むはずだ。むしろ火祭阿佐美が立て続けに狙われる理由の方が見えてこない。
「ひょっとすると七つの大罪じゃないのかもしれない。僕や火祭さん、供饗市の人間だけを襲う別の理由があるのかも?」
「言われてみれば、お母さんもアユミちゃんも、そして私もアークエネミー側でしたね。……あるいは迷いの海に引き込む力は、人間にしか通用しないという可能性もありますが」
その場合は、やはり嫌がらせ説が再浮上する。天津ユリナ、アークエネミー・リリスを直接狙いたいけどできない。吸血鬼のエリカ姉さんやゾンビのアユミも以下略。だからリリスに近しい関係で、かつ純粋な人間のカテゴリにいる僕や、同じ生活圏にいる供饗市民を率先して襲っている可能性だ。
仮説が行ったり来たりしていて自信のなさが露呈しているけど、ここはそれだけ重要で簡単に答えを出せないポイントだ。意味のある空欄として心にメモしておく。
「それにしても、これからどうします。サトリ君」
僕の隣、ベッドに腰掛ける姉さんが根本的なことを尋ねてきた。明日の寝床について言っている訳じゃないだろう。
「水を起点に迷いの海へ落ちるというのでしたら、腰にロープを巻いて、逆の端をベッドやタンスなどの頑丈な家具に縛り付けるなどでも阻止はできそうですけど」
「考えてはみたんだ」
僕は息を吐いて、
「……でも向こうに持っていけるものの細かい条件が分からない。家具や柱ごと向こうに引きずり込まれたら、ただの重石にしかならないし。リヴァイアサンに追われるのはもちろん、水没した状態からスタートだから下手すると水面に顔を上げる暇もなくなるよ。地上からのスタートは経験したけど、あれは想像以上だった」
「なるほど」
当然、こっちの命は一つだ。理不尽な挑戦であっても死んだらおしまい。あんな極限環境でトライアンドエラーなんか繰り返していたら身が保たない。光る地獄に関してはデータが少なすぎてマクスウェルにシミュレーションを組み立てさせる事も難しいし。
「全く水のない小部屋に潜り込むのも考えた。それこそどうしても必要な飲み水はストロー付きの密閉容器で確保するとかで」
「うん」
「ただ問題なのは、リヴァイアサンは何か目的があって僕を指名しているんだ。ランダムじゃない。だとすると僕が地獄と関わりのない場所へ逃げ込むのをヤツが黙って見ているとは思えない」
「でも、リヴァイアサンは獲物を迷いの海に引きずり込まなければ危害を加えられないんじゃあ……?」
「忘れたの姉さん。あいつは僕以外の人間も引きずり込めるんだよ」
「あっ、だとすると」
「現実の僕から安全地帯を奪うために、別の人間を使うかもしれない。巨大ザメが言葉を話すところは見た事ないけど、その気になればビルの壁面いっぱいに文字を刻むくらいはできそうだし」
相手はアークエネミーだ。
見た目がどうだろうが、人並み以上の知性があるものとみなした方が良い。それがコミュニケーションの取れる良心常識を持った知性であるかどうかはさておいて、だ。
高い知性を持つ事と慈悲や博愛の精神を備える事は、必ずしもイコールで結ばれる訳じゃない。そもそも人間みたいに捕食や防衛以外の遊びで他者を害する事ができる生き物は、群れ全体の食物サイクルを守るために自殺できる生き物よりもさらに珍しいんだから。
「天津サトリに水を掛けてこちらに連れて来い。さもなくば連日連夜集中的に狙いまくるぞ。そんな感じの脅迫文を、ですか」
「命は一つだ。トライアンドエラーができないのはみんな一緒。実際には最初から全員殺すつもりだとしても、今命の危機にある他の参加者達には分からない。いきなり天津サトリなんて言われても大多数には誰の事か思い浮かばないかもしれない。だけど手当たり次第に誰でも彼でも要求を突きつけては殺していけば、いつか僕の事を知る人間に辿り着く。何しろ一つの街の中の出来事なんだし」
そういう手を取られると、今、近くに水があるかどうかはあんまり関係なくなってくる。誰か悪意ある人間が遠くから水を運んでくるかもしれないんだから。
それにこっちにしたって、僕一人を害するための無差別殺人みたいな展開はできれば避けたい。
これは前にも考えたけど、そもそも水に触れない、が最善だ。でもそこで思考停止するのも怖い。並行して、巨大ザメとかち合っても生き残れる手も考えておく必要がある。
母さんのマンションと、海辺のコンテナ置き場。高い所と低い所、それぞれのスタートを経験してまた見えてくるものも変わってきた。今ホームセンターやディスカウントストアを回れば、きっと昨日とは違った宝の山に飛びつくはずだ。
2
そもそも、だ。
「おっす」
「火祭さん」
姉さんに念押しされてしまったので今日は学校に向かってから、放課後。湾岸観光区駅前繁華街の大型ディスカウントストアの前で、すんごくギャルっぽい金髪デカ盛りシャンパン色ドレスな火祭阿佐美さんと待ち合わせ。
一緒に中へ入りながら、火祭さんはこんな風に尋ねてきた。
「どういう方向で攻める訳?」
買い物かごを持つのはもうデフォルトで僕の役割らしい。ハンドバッグより重たいものは持てないとか素で言い出しそうだし、普段から肩で風切ってんだろうなあこの人。なんていうか、財布の中にはカードしかなさそうなオーラが滲んでる。
「前回の反省を踏まえてみると、随分受け身だったなあと思いまして」
「具体的に」
「二つのエリアを行き来してるのに、向こうにあるものに遠慮しすぎていたんですよ。叩いても壊しても誰が怒るって訳でもないのに」
なまじ自分の暮らしている街そっくりだったからこそ、そんな遠慮が生まれたのかもしれない。だけど光る海でビルがいくつ倒れようが現実の景色が変わる訳じゃない。コンビナートなんか水没と火の海のダブルパンチだったけど、現実ではニュースになんかなってない。全くの杞憂だったんだ。
火祭さんは体を横にしてあちこちからせり出した化粧品やお菓子の棚の隙間を縫って、形の良い胸をぶつけそうになりながら、何か思い出すように呟く。
「そういえば、昨日のはキツかったわよね。特にラストの煙突の扉! 蹴って破れなかったらあそこで詰んでたし!!」
「ええ、それも一つ」
できればL字の釘抜き、バールみたいに一本あればてこの原理で大抵の扉は破れます的なアイテムが欲しい。……バールそれ自体を持って表をウロウロしているとお巡りさんから職質された時に大変な目に遭うので、あくまでも『同じ事ができる別の何か』をピックアップするべきだけど。
「後は浮力の確保。前みたいにいつでも漂流物に頼れる訳じゃないし、やっぱり自分で一つ用意しておきたいです。もちろん巨大ザメが相手なんだから、そもそも水場に近づかない、入らないのがベストなんでしょうけど」
「浮き輪かゴムボートでも抱えて街中を歩き回る気? 普段の生活に支障が出るわよ」
「それについても、一応考えてあります。まあ、一応程度ですけど」
ディスカウントストアには大抵のものが揃っているけど、工具や防犯グッズなんかが並ぶ辺りに踏み込むと一気に空気が変わる。家族連れで和気藹々っていうよりはごつい男達が秘密の計画のために材料を調達しに来た方が似合いそうな、とでも言うべきか。
「ライフジャケット?」
火祭さんは僕が手に取ったものを見て素っ頓狂な声を上げた。
「最近じゃ川遊びの事故を防ぐためとかで結構普通に売ってますよ。ましてここは防災減災に特化した供饗市ですし」
サイズはどうでも良いんだけど、高校生と女子大生(?)のペアでチャイルド規格のものを選ぶのもおかしいか。ひとまず自分の体格に合ったものを選ぶ。
マクスウェルもスマホの画面からこんな風にふきだしを表示させてきた。
『仕組みは車のエアバッグと同じで、紐を引っ張る事で複数の薬剤を混ぜて瞬間的に窒素ガスを発生させ、バルーンを膨らませる仕様です』
「これなら浮き輪やゴムボートを抱える必要はない。弁当箱くらいのスペースがあれば良い。ライフジャケットをきちんと着込まなくても、分解してバルーン部分をカバンに入れておくだけで浮力の助けになるはずです」
もちろん衣服の下に着けておくのが一番だけど、やっぱり街歩きや学校生活にはとことん不向きで目立つ。何にしても折り合いだ。
「バールの方は? そのままじゃダメなんでしょ」
「キーピックもそうですけど、開錠ツール関係は目的もなく持ち歩いているとアウトですからね。本職の鍵屋さんでもない限り捕まります」
まったくツールナイフだろうが拳銃だろうが好き放題持ち歩けたラスベガスが懐かしい。
なので、これについては馬鹿正直に工具コーナーを見ていても仕方がない。僕達が立ち寄ったのは全身ブランドのカタマリである火祭さんは逆に立ち寄らなさそうな、身だしなみコーナーだった。
「ええと。爪切りと、爪研ぎ用のヤスリ……?」
確かにごついバールの代用品としては相応しくない。でもここは視点を変えてみるべきだ。
「バールに求められているのは金属製の頑丈なボディとてこの力を使うためのL字の形です。でも、これだけならリスクを冒して持ち歩く必要はない。橋の手すり、窓のサッシ、電飾看板のフレーム。直角に折れた鋼やステンレスのパーツなんていくらでもある。向こうじゃ何がどれだけ破壊されたって誰も気にしないし、その都度必要に応じてネジを外して拝借した方が効果的なんです」
「はあ。でも欲しいのはドライバーなんじゃあ……」
「キーピックと同じで、理由もなく持ち歩いていて良いものじゃないんです。マクスウェル、この型番でいけそうか」
『シュア。メーカーによる設計仕様書ではステンレスの爪研ぎは一枚板で成形して、後からゴムのグリップをはめ込んでいます。抜き差しできるようにしておけば、ヤスリ本体より一回り細いグリップ軸がそのままマイナスドライバーの代わりになるでしょう』
言うまでもないけど、プラスだろうがマイナスだろうが、マイナスドライバー一本あれば取り外せる。ネジにもサイズはあるけど、欲しいのはバールの代わりになるくらい頑丈な金属パーツだ。あまり小さなネジは使わないだろう。中、大型に的を絞っておけば良い。
「爪切りの方はペンチの代わりになります。原理は同じですからね」
『多少強引ですが、ネジやボルトの山を掴んで直接回してしまう手も使えるでしょう』
回りくどいけど、これくらいやって初めてカムフラとしての効果が出てくる。光る海を恐れるあまり現実でヘマやって、警官や先生に身動きを封じられている間に水の中へ引きずり込まれる、なんて間抜けな展開にならないようにしておきたい。自由がいるのはサメ相手だけに限った話じゃないんだ。
「でもやっぱ巨大ザメそのものは倒せないのね。ヤツが学習してこっちの手札に次々対応してこなけりゃ良いんだけど」
「それなんですけど……」
声が煮え切らないのは、僕としても未知数な部分が大きいからだ。
「リヴァイアサンを倒せないって考えていたのは、至近距離から猟銃を撃っても分厚い筋肉や脂肪に止められるから、それより強い火力なんか日本じゃ手に入らない。そういう前提があるからでした」
「それが?」
「でも昨日のコンビナート戦で気づかされたんです。光る海でロケーションを破壊しても構わないなら、そんな前提クソ喰らえなんじゃないかって。結局歯止めは効かなかったけど、タンクの爆発や煙突の倒壊は猟銃なんかよりよっぽど破壊力が高いだろうし」
「あ」
「僕達はバズーカを持ち歩いたり戦車を乗り回したりはできない。だけど光る海が現実をベースに組み上げられているなら、現実の供饗市にあるものなら何でも利用できるんです」
「だとしたら、勝機はあるかもしれない……? そう、そうよ! 例えばタンクローリーを爆発させたり山の鉄塔をへし折って水没エリアに高圧電線を叩き込んだりすれば!!」
「一つ一つ試していきましょう。どっちみち、ヤツは嫌ってほど僕達を巻き込む気なんですから」
流石にいきなりタンクローリーや鉄塔を吹っ飛ばす方法を模索するのは難しい。でももっと手軽で、かつ海洋生物にとって致命的な攻撃手段はいくつかある。
僕のお小遣いは限られている。そんな中で手に入りそうなものはと言えば、
「どこ行くのよ?」
「質より値段の投げ売り家電コーナーです」
「何を探しに?」
ビジョンは見えている。だから質問にも即答で返せた。
「型落ちの洗濯機を一つ」
3
いつリヴァイアサンから今日の勝負を仕掛けられるか分かったものじゃない。だからとにかく速度が欲しかった。
現実の供饗市にある建物や物品は、そのまま水没した世界にも反映される。
「こんなものでもかき集めると結構な重さになるんだな……」
そもそも、こいつの重さなんて普段から意識している人なんか相当稀だと思うけど。
僕は抱えていたずだ袋を道路脇に置いて一息。冬場の路面凍結対策の砂袋の中に混ぜ込んでいるから、誰かに拾われる事もないだろう。
いくら巨大ザメが怖いからって、街中にプラスチック爆弾を並べて回る訳にもいかない。現実では何の役にも立たず、魔王の海に入った途端に牙を剥くような何か。そういう形が一番安全だ。
だけど簡単な事でもない。
バトルフィールドは一つの街の全域だ。どこがtoday's exit、ゴール地点になるかは誰にも分からない。自分から水面を利用して青い地獄に飛び込めばスタート地点はこっちから指定できるかもしれないが、ゴール地点の場所によって取り得る移動ルートもがらりと変わるから、ヤマカンに頼る訳にもいかない。
つまり、街の全域にあのずだ袋を仕掛ける必要が出てくる。
作業場はマクスウェル本体のあるコンテナ置き場。そこで用意した山積みのずだ袋を一つずつ折り畳み自転車の荷台に積んで、街の各所に配達している真っ最中だ。
火祭さんにはマスクとゴーグル装着でずだ袋を量産してもらっているので、配達は主に僕の仕事だった。
折り畳み自転車のカーナビホルダーに取り付けたスマホからマクスウェルがSNSのふきだしで語りかけてくる。
『アユミ嬢やエリカ嬢、お隣の委員長などに協力を求めれば作業効率も上がるのでは?』
「その結果リヴァイアサンに目をつけられてめでたく選手登録なんて絶対にごめんだぞ。僕の周りにいるのはみんなお人好しだから、自分から進んでトラブルに首突っ込んできそうだし」
そういう意味では、魔女の伊東ヘレンやダークエルフの村松ユキエなんかにも頼み込めない。彼女達の力も確かに『現代科学では説明できない』破格なものだけど、一面水没した街の中で三〇メートルを超える巨大ザメと真っ向勝負で取っ組み合いできるどうかは難しいところだ。
アユミやエリカ姉さんは生粋の魔王だったリリス、義母さんには手も足も出なかった。そしてリヴァイアサンはその義母さんと同格の存在だという。つまりステージが違う。今度の相手に『アークエネミーだから大丈夫』は通じないのだ。
「街中とコンテナ置き場を行ったり来たりするだけだ。この程度の手間なら吞み込める。これくらいの事で知り合いを事件に巻き込むべきじゃない」
『シュア。ユーザー様がそう選択したのでしたら。ただし皆が納得するとは限りませんけど』
「分かってる。全部終わったらきちんと謝るさ、蚊帳の外に追いやってごめんなさいってな」
一口に供饗市って言っても、海沿いから山間のダムまでロケーションは千差万別だ。一つずつずだ袋を運んではUターンしてコンテナ置き場に戻って……と繰り返すと、何時間もかかってしまう。
分布にばらつきはあるものの、ある程度の配置を終えた時にはとっくに日は暮れていた。いいや、ゲームセンターやカラオケボックスに高校生がいると怒られる時間帯も越えている。
『警告、これ以上は警ら中の警官等からの睨みが厳しくなります。ユーザー様の行動に実害はありませんが、露見してしまえば撤去を命じられるでしょう。派手な動きは控えるべきです』
「了解マクスウェル。続きは明日に回そう」
スマホ経由で火祭さんとも連絡を取り、お開きの旨を説明する。
『……一応うら若きおねいさんが真っ暗闇のコンテナヤードで待ちぼうけなんだけど、迎えに来てくれるとかの男の子的ケアはない訳だ。へえほおふーん』
「ああくそっ、分かりましたよ!!」
本日最後の大仕事が決まった。へとへとの体に鞭を打って、マクスウェルのナビでコンテナ置き場を目指す。
街は今日もいつも通りだった。
こんな時間でも僕より年下の男女が集団で繁華街を歩いている。脇目も振らずに駅へ吸い込まれていくのは家庭持ちのサラリーマンか。客引きは条例違反だって看板があちこちにあるのに、横断歩道近くには必ずと言って良いほど居酒屋さんのエプロンをつけてメニュー表を指先でくるくる回すちょっといかつい呼び込みのお兄さんが立っている。コンビニや牛丼屋なんかはそれこそ人類が滅んだって営業しますと言わんばかりに変化がない。
夜が深い。そろそろ日付も変わる。
……にも拘わらず、この時間になってもまだ襲撃がない。今日はないのか? やっぱり水場に気をつけていればある程度有利に立ち回れるんだろうか。
これからは天気予報にも気を配らないとな。前みたいな不意打ちの大雨は困る。
「マクスウェル」
『シュア』
「……あれから追跡調査はどうなった? その、巨大ザメにやられた被害者について」
『ノー。報告しないのは報告すべき情報が存在しないという事です。過去一〇年に遡り新聞記事の電子版を追いましたが、今回の事例に関係しそうな変死体はありません。今現在も警察や消防の無線を常に傍受していますが芳しい結果は得られず。現場での第一報は改ざんできませんから、何かしらの圧力で封殺されている訳でもなさそうです』
「となると、犠牲者は行方不明になるって感じなのかな……」
『シュア。全国規模で考えれば失踪者は警察に届けられるだけで毎年八万人以上います。大半は夜逃げや家出など自発的な失踪で事件性なしとみなされていますが。故に、「失踪した」というだけで検索してもふるいが甘くなってしまいます』
ただし、とマクスウェルは一拍を挟んでから、
『この供饗市に限って言えば、一月前から急速に失踪報告が増加しています。まだ光十字が根付いていた頃の話ですから、件のリヴァイアサンとは限りませんが、気になる証言が付与されているケースも多々見受けられます』
「例えば?」
『失踪前に該当者は異様に水に怯えていた。全身ずぶ濡れで発見された事があった。ふと目を離した隙にいなくなり、全く別の場所から発見された事がある、などです』
……いずれも今の僕や火祭さんと同じ状況だ。
しかもこれらは警察に通報されている分だけ。誰にも言えずにじっと我慢し続けてきた人はもっと多かったはずだ。
光十字と戦うのに必死だった。
僕は同じ街に住んでいる彼らのSOSに気づいてあげられなかった。
もしも、だ。
あの時並行してリヴァイアサンの事件にも噛んでいたら、僕は青いバニーガール、ヴァルキリー・カレンに打ち勝てただろうか。『全て』のアークエネミーを恐怖支配から解放する。そう言って、光十字を全否定する事が。
「意味ない事か……」
じゃあ光十字の手を貸してリヴァイアサンを撃退するから『コロシアム』を黙認しろと言われても頷けない。どっちみち僕とは交わる事のなかった道だ。
深夜の取引にぴったりといった風情の人気がないコンテナ置き場までやってくると、マクスウェルのコンテナ壁面に寄りかかって爪の手入れをしていた火祭さんがこっちに気づいた。早速ピカピカに磨き直した細い手を元気良く振り回している。
「やっと来たわね。おーいゲーム世代」
「範囲の広すぎるカテゴリで雑に区切らないでくださいよ。流石にテーブル筐体のシューティングとかは触れる機会なかったし」
そういえば山沿いの温泉宿には卓球台やマッサージ椅子なんかと一緒に、未だに伝説のエイリアン撃退シューティングがあるって噂だけど、ほんとなのかしら。
「まあ何でも良いんだけどさ」
よっこいしょ、と微妙にババ臭い掛け声と共にキャバ嬢風のお姉さんが折り畳み自転車の荷台に腰掛けてくる。気さくでボーイッシュなのか優雅なお嬢様なのかババアなのか、相変わらず距離感が掴みにくい。アユミみたいに荷台へがっつりまたがるんじゃなくて足を揃えて横座りな辺りはセレブな生まれっぽいけど。
「運転手さん、タオリさんのマンションまで。うわー、労働の汗と潮風で髪ベッタベタだわ。これ以上はあたしの自尊心が許せーん!」
「居候に自尊心とかあったんですね」
人様の腰に細い腕を回してぎゅむと背中に抱きついてくる火祭さんはあんまりその辺気にしないようだ。今だって二人乗りで後ろに乗るのがデフォルトって顔をしてるし。
ついでに言うと僕みたいなガキンチョ相手だとそっちの方も気に留めないらしい。せっ、背中に当たっていますよ柔らかい塊が! あと人の腰に回した繊細そうな手をおへその下でもぞもぞさせないっ!! ふっ、ふわあ。委員長のシャンプーともエリカ姉さんの香水とも違う微妙に不健康で背徳的なこの甘い匂いは何ですか? 良く分からんがきっと高級ブランドの化粧品関係と見ましたーっっっ!!!!!!
向こうはきっと抱き枕やドでかクッションをお腹で抱えるくらいの感覚しかないんだろう、横座りのまま僕の背中に躊躇なく頰を当てて体重を預けてくる火祭さんは、
「ん? なんかバックンバックン鳴ってるわね。もう息上がってんのインドア少年」
「こっちにだって色々事情ってもんがあるんですっ!」
「ま、そっちもずっと自転車漕いで街中走り回っていた訳だしね。あー、男の子の汗だと不思議と気にならないな。何でだろ、すんすん」
まったく遠慮がなさすぎる火祭阿佐美であった。そっちにとっては塀の上を歩く野良猫見つけたくらいの気持ちでもなー、こっちはもうこの思い出どこの引き出しにしまえば良いか分からなくなってんだからなあ!!
母さん、禍津タオリのタワーマンションは閑静な住宅街っていうより比較的海辺の繁華街に近い。港湾ブロックから自転車を漕いでもそう時間はかからないだろう。
そのはずだった。
だけど駅前のスクランブル交差点で信号待ちしていた僕は、視界の端に嫌なものを捉えた。
「マクスウェル」
『シュア。カメラレンズで確認しています』
カーナビホルダーにはめ込んだスマホからも警告メッセージが飛んでくる。
大きなスクランブル交差点の向こうに誰かいる。時間はもう午後一一時過ぎだから流石に人気もまばらになった中で、灰色の作業服に帽子を目深に被った無精ひげの男だ。
顔見知りじゃない。
問題なのはそいつが右手に重たそうなものを提げていた事だ。白いプラスチックのバケツ。『それだけ』なら重たいはずないのに。
大体、清掃用具も持たずに液体の入ったバケツだけ掴んでうろついているのもおかしな話だ。そんなの鉛筆もシャーペンも持たずに消しゴム一個でテストに挑むようなもんだし。
荷台の火祭さんも気づいたようだった。
「何あれ……? 洗剤とか?」
「もしくは水」
自分の口で囁いて、その乾いた響きに唇が割れるかと思った。
水。
死闘への入口。
信号はもうすぐ変わる。青になればあいつが解き放たれる。多少心配性なくらいでちょうど良い。そう思ってハンドルを掴み直す。今からでもルートを変えようかとも考えたけど、そこでまたも心臓に悪いものを見かける。
少し離れた場所に火祭さんより随分グレードの落ちるガビガビ髪のキャバ嬢らしき誰かが立っていた。防寒よりも露出を抑えるための上着か、ちょっと合成繊維っぽいもこもこコートを畳んで腕に掛けているけど、中から何かチラリと見える。あれは……水鉄砲の銃身の先か? 手押しポンプ式とかだったら子供のオモチャと笑ってられない。
自分の体が縦に収まる程度。ざっとマンホール一つ分の水たまりに接触したらアウトなんだ。バケツ一杯、大型水鉄砲一つだって立派な凶器になる。
「くそっ! マクスウェル、逃走ルート検索!!」
もうじっとしている暇もなかった。さらにハンドルをねじって強引に方向転換し、あらぬ方へと思い切り自転車を漕ぎ出す。途端にスクランブル交差点の信号が青に切り替わり、ガビガビのキャバ嬢が安っぽいコートを放り捨てた。しかもそれで終わらない。何か重たいものが地面に叩きつけられたかと思ったら、ついさっきまで僕達の停まっていた場所にタライですくって放り投げたような水の塊が落下していた。ビルの窓なり屋上なりから落としてきたんだ!
『警告、全周警戒! ルートは予想でしかありません。常に刺客の存在に注意してください!!』
「あれ何!? やっぱりあたし達をサメの所に引きずり込もうとしてんの!!」
「もしくはあなたの濡れ透けが見たいかです。どっちが信憑性あると思います!?」
時刻は一一時過ぎ。もうすぐ今日が終わる。水面から引きずり込めるのは一日一回だけ、のルールが正しいとすると、リヴァイアサンはチケットを無駄にしたくないらしい。
「あいつらは!? 何で同じ人間が巨大ザメの味方してんの!」
「分かりませんよ、光る海で脅されて傀儡にされているのかもしれませんし!」
円形に近いバスのロータリーに沿って全力でペダルを漕ぐものの、そうしている間にも歩道沿いのファミレス前でホースをいじっていた店員さんがいきなりこっちに水流を放り込んできたり、スーツの酔っ払いが手にしたビール缶を投げつけてきたり。こっちは直撃はもちろん、道路に広がる水たまりを踏む訳にもいかない。時間経過と共にどんどん地雷原が増えていく構図だ。
あっちにこっちにS字に蛇行しながら何とかロータリーを越え、駅前から離れていく。
「ちくしょう!!」
そこで全力ブレーキ。前輪後輪のレバーはもちろん靴底まで道路に押し付けて急制動をかける。
こんな真夜中に打ち水って訳でもあるまいに、表に出てきたおじいさんがひしゃくで一面に水を撒いている。
下手な体力自慢で直接狙ってくる輩よりこういう方が面倒だ。幅跳びで超えられない程度の水を道路一面に撒かれると、それだけで逃走ルートを寸断されてしまう。
自転車を止めたまま体をひねって後ろを確認すれば、得体の知れない連中が何人か、明らかにこっちを狙って走ってくるところだった。
決断するなら今しかなかった。
「火祭さん降りて!」
ハンドルからスマホを抜き取ると、僕は折り畳み自転車を適当に投げ出して手近な路地へと飛び込んだ。火祭さんはひとまずこっちについてくるようだった。
「どうすんの、どこに逃げるの!?」
「それなんですけど……」
ざしっ、という靴底のゴムが地面を噛む音が前方から。具体的にどこの誰か確かめている暇はなかった。前も後ろも板挟み。僕達は鉄柵みたいな背の低い金属ドアを乗り越えてビル壁面に張り付いた非常階段に向かう。ばしゃりという水の塊が弾ける音が階下からあった。どこもかしこも大騒ぎだけど、見た目だけなら突然夜の街で悪ふざけみたいな水の掛け合いが始まっただけだ。こんなのじゃ警官だって本腰入れてくれない。こっちは本当に命がかかっているっていうのに!
「どうするの、どこ行くの? 上に上っても追い詰められるだけよ!!」
「ええ! どっちみち今のままじゃいつかどこかでやられます。というか、駅前ブロックは全部打ち水で遮断されて逃げ場もないでしょう。だから発想を変えるしかない!」
「?」
「もう水没した世界で巨大ザメに追われるのが確定なら、せめて少しでも有利なスタート地点から始める」
僕自身だって胸は張れない。本当にこれで良いのかってぐるぐる迷っている。だけど棒立ちのままで事態が好転する事はありえないんだ。
「光る海じゃ五階分くらいは水の中に沈んでしまう。なら地べたの水たまりからスタートするのは論外。最低でも陸からスタートを切りたいでしょう!」
ぐっ! と強い力で腕を引っ張られた。つんのめるようにして僕の体が止まる。怪訝に思って振り返ると、火祭さんが子供みたいに両手で僕の左腕にすがりついて、青い顔で首を横に振っていた。
「火祭さん」
「ダメよそんなの」
「火祭さん! ここで止まっていられない、今から階段を引き返してもヤツらから逃げ切れません!!」
「絶対にダメ!! あれは完全に人知を超えてる。二度ある事は三度あるなんて考えで雑に挑んで生き残れるバケモノじゃない!!」
今までたくさん準備した。
ディスカウントショップで材料になるものを買って、コンテナ置き場で作業して、街のあちこちにそれとなく秘密兵器を配置して。
だけど、いざその時に覚悟が決まる訳じゃない。まして僕はサバイバルの達人とかじゃない。本当に全部作戦通りに行く保証なんかない。だから土壇場で助走を躊躇ってしまった火祭さんの気持ちは良く分かる。
でも、派手な金髪を頭の上でデカ盛りにした彼女だって、代案がある訳じゃない。そして今はあれも嫌これも嫌が通じる状況でもない。火蓋はもうセットされているんだ、いつ落ちるかも分からない!
「とにかくっ!!」
なりふり構っていられなかった。歯医者に行くのを嫌がる子供を引っ張るような感覚で、かなり強引に火祭さんを雑居ビルの屋上まで引きずり上げる。
「あ、ああ、ああああ……」
手を離せば今すぐにでも崩れてしまいそうだった。年下が目の前で見てようが関係ない。火祭さんは身も世もなくなっている。
無理もない。
こんなの大人も子供もないんだ。誰だって怖いに決まっている。
その不安定に揺れる子犬みたいな瞳がこう訴えていた。
見捨てないでくれと。
向こうに行っても手を離さないでくれと。
「……、」
僕が無言で頷いた時、頼りない非常階段が軋んだ音を立てた。屋上の僕達が振り返ってみれば、灰色の作業服を着た男が乗り込んでくるところだった。その手には白いプラスチックのバケツ。不精ひげに見覚えがあった。最初にスクランブル交差点で気づいたあの男。冷静になってみれば、あいつが一番分かりやすく殺気みたいなものを振り撒いていたのか。
僕達は多分逃げられない。
ずぶ濡れ水浸しにされて足元の水たまりから魔王の海に引きずり込まれる。それはもう止められない。
だから。
その時僕の胸でくすぶっていたのは、どうしようもなくブラックなジョークみたいなものの方が近かったかもしれない。だけど不謹慎だろうが何だろうが、確かに目で見てパッと浮かんだ言葉はこれだった。
「火祭さん」
「な、なに?」
「どうせならあいつも一緒に巻き込んでやりましょう。騒ぎの元凶のくせに安全な場所から高みの見物だなんて考えただけで腹立つ」
最初、火祭さんはキョトンとしていた。
ややあって、小さく吹き出した。
良かった、僕は最低限の笑いのセンスくらいは認めてもらえたらしい。
そしてようやく雰囲気の違いを嗅ぎ取って軽くたじろいだ作業服の男へ、むしろ僕達二人の方から雄叫びを上げて飛びかかっていった……。
4
今回は水中の感触じゃなかった。
あるいは初めてかもしれない。僕達は尻餅をついたような格好で雑居ビルの屋上にいて、腰がじんじんと鈍い痛みを発していた。辺りは大規模な停電が起きたように真っ暗で、横殴りの嵐の夜。そしてビルの手すりの向こう、おそらく派手に水没している下界全体が夜光塗料じみた淡い青の光で満たされていた。……大丈夫、シミュレータの中で姉さんとケンカした時を思い出せ。何だかんだで乗り越えられたはず。
と、
「らっ!!」
傍らの火祭さんが僕と同じようにへたり込みながらも、長い足を突き出して何かを蹴り出した。さっき一緒に落とされた作業服のあの男だ。だけどなんか様子がおかしい。大した力も入らなかっただろうに適当に蹴られたまま、公園に捨て置かれた横倒しの三輪車みたいに動かなくなっている。
深く考えている暇はないし、付き合う義理もない。僕はずぶ濡れのズボンから防水スマホを取り出してカメラ機能を呼び出しながら、
「マクスウェル、とにかくズームだ。別の建物の窓をチェック。today's exitの地図があれば撮影して画像分析頼む!」
『シュア』
起き上がって横殴りの雨に翻弄されながら端の手すりに向かってみれば、今回もひどいものだった。真下を見ても道順なんか分からない。青い濁流の中、背の高いビルがあちこちから突き出ているので、かろうじて元あった名残を感じられるくらいだ。
自分達の立つ屋上から真下の壁面の窓を覗くのは難しい。カメラレンズが狙うのは、主に水没した下界を挟んで向かいのビルの窓だ。
『強化ガラス一枚一枚に全く同じ文様がずらりと並んでいるのを確認。水滴が強風や重力で動いただけではああはなりません。today's exitの文字と矢印も確認。よほどひねった見方をしない限り、素直に過去の事例と一致すると判断すべきではないかと』
「具体的にどこを指しているんだ。地図アプリと連動して照合」
何しろ相手は子供がクレヨン片手に近所の地図を描いたようなクオリティだ。しかも最寄りの十字路が二つ三つあるくらいの縮尺。逆に支援を受けられない他の人はどうやって場所の割り出しをしているのか不思議なくらいだった。タクシーや新聞配達みたいに地形を熟知しないと出てこないぞ。
が、
『該当なし、特定できません』
「何だって?」
『元となる手書きデータの精度の問題かもしれませんが、このような十字路の組み合わせは供饗市内には存在しません』
「そんな馬鹿な、GPSと連動した無料のくせにかなり高精度のヤツだぞ。オフラインに蓄積してあるデータだけでも十分機能するはずだ。住宅街の蜘蛛の巣みたいな私道だって網羅しているはずなのに」
『ノー、事実として当てはまる箇所が存在しないのです』
「ちょっと待てマクスウェル、じゃああいつはこの街の外にゴールを置く事もできるっていうのか!?」
夜の嵐に全身を叩かれ、ぐらりと世界が揺れる。一気に心細くなってきた。だってそれだと今日の扉はエジプトのピラミッドにしましょうとか宇宙ステーションまでやってきてくださいとかもありえるって事になってくるぞ!?
『手書き地図に問題があると判断し、検索条件を緩和しますか?』
「……、」
配置はランダム。場合によってはスタート時点ですでに無理ゲーのリスクあり。改めて言葉が内包している理不尽さがのしかかってくる。
「……いや待てよ」
『何でしょう?』
「確かに地図アプリは細かい隙間みたいな小道まで網羅しているけど、私有地や建物の中については基本的に四角い箱だよな。誰もが頻繁に使ってる私道とか、前のコンビナートみたいに複数企業の共同出資で半公共化されてでもいない限り、遊園地の順路とかショッピングセンターの中まで見える訳じゃない!」
これまでの向こうの条件は『街の中にあるドアの一つ』だけだ。例えば完全に個人宅のお風呂場のドアとかだったら、もはや紙だろうが電子だろうがどんな地図にも映らない。あの巨大ザメは僕達に宝探しでもやらせたいっていうのか!?
『屋内構造の把握のため、ウェブキャッシュの中に残る公開されている限りのパンフレットや案内図などを検索。結果、該当箇所を発見しました』
「だとすると普通の家とかじゃないな。どこだマクスウェル、デパートとか空港とかか」
シュア、といういつもの肯定が返ってきた。これでようやく第一歩、問題は山積みだけど闇雲に走り出すよりははるかにマシ。僕達の命はまだ繋がっている。
そんな風に思っていた。
だけど直後にマクスウェルはこう告げた。
『湾岸観光区駅前繁華街。その駅ビル地下に広がる地下街です』
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
意味が分からなかった。
僕はそのまま金属製の手すりの向こうに広がる世界を見下ろす。
轟々という激しい水の音。
「いや、だって」
ようやくそれだけ出た。
「今はどこもかしこも五階くらいまで水没しているんだぞ!? そんな街の中で、さらに地下街に潜れだって!?」
『シュア。それ以外にヒットする地形条件を見つけられません。もちろん、現状ウェブキャッシュに残っている範囲での検索資料しかありませんので一〇〇・〇%の確約もできません。例えば旧光十字の秘密施設の可能性等は否定できないという意味ですが、最も確率の高い箇所となるとやはり駅の地下街という事になります』
「……じゃあ、何か? これから僕達は家を押し流すような濁流の中を素潜りで一五メートル近く沈んで、迷路みたいに入り組んだ地下街を探索して水圧で開くかどうかも怪しいドアを探せっていうのか!? それも潜水艦みたいな巨大ザメに追われたままだ!!」
何重に死の壁が折り重なっているのか、もう見当もつかなかった。そしてきっと水没した街の危険は僕みたいな素人の想像なんかはるかに超えている事だろう。
『ノー』
しかしマクスウェルはこう答えたのだ。
『ひょっとすると、まだ地下街は水没していない可能性もあるのではないでしょうか』
「何だって?」
『この供饗市は災害研究を奨励する減災都市として知られており、そこかしこにシェルターやゴムボートなどが散見されています。防災シャッターが適切に作動し、全ての出入り口が封鎖されていれば浸水を免れている可能性もあるのです。また、隙間などから多少の浸水があっても放水ポンプによって速やかに除去されているかもしれません』
「……、」
確かに一理あるが、やっぱり賭けだ。
光る海での供饗市全域は水没し、大規模な停電に見舞われている。今から正確な被害規模を調べている暇はないけど、仮に予備電源的なものを含めて完全なブラックアウトなら、シャッターやポンプの出番はなくなってしまう。
しばし考え、だが他に道がないのも事実だと気づかされる。巨大ザメがこっちに気づけば、濁流で軋む雑居ビルなんぞ体当たりで突き崩されるかもしれない。また、today's exitに指定された扉を潜らなければどうなるかは未知数だ。一日の終わりに新しい扉が再指定されるのか、二つのエリアでは時間の流れが違うとかで延々このままなのか、ドアからオレンジ色の光が消えてそれっきりなのか。分からない以上は迂闊にボイコットもできない。今、僕達に分かっているのは『殺される前にtoday's exitのドアを潜れば、とりあえずその日一日は生きられる』というシンプルなルールだけなんだから。
横殴りの雨の中、たっぷり水を吸って鬱陶しいくらい重みを増した髪を搔きむしり、僕は息を吐く。
「……危険でもやるしかないのか」
『シュア。仮に現状地下街全域が無事だったとしても、時間との戦いになる可能性も否定できません。今大丈夫な事が、五分後も大丈夫である証明にはならないのです』
そうか。
未だにリヴァイアサンが『わざわざ』毎回出口を設けている理由がピンときてないけど、仮にヤツがフェアな環境で獲物を仕留める事に美学でも持っているなら、非常に有効なんじゃないか。こちらはスタート時点できちんと出口を用意していたのに、あなた達がもたもたしていたからチャンスが失われただけでしょう、って言い草は。
「急ごう、マクスウェル。火祭さんも!」
嵐に負けないように叫ぶ。
そして今回も始まった。水没した街での巨大ザメとの死闘が。
5
スマホを見ると午後一一時三〇分。
あと三〇分で今日が終わるけど、この極限環境じゃカップ麺を一〇個作っている間にどれだけ人死にが出るか分かったものじゃない。うねる水に足がすくむけど、無理にシミュレータでの事を思い出しておまじない代わりにする。
「マクスウェル、まずは駅ビルだ。現在地からのルート検索」
『シュア』
最終的な目的地は地下街だけど、わざわざ濁流の中を一五メートル以上素潜りする必要はない。ここは防災・減災研究で有名な供饗市だ。上層階の窓を割って侵入し、屋内から巨大な密閉容器と化した駅ビルを下へ下へと降りていった方が安全だ。
スマホに表示されているのはGPSと連動し、ドローン運行用の高低差を加えた新型の地図アプリ。オフラインに蓄積したデータだけでも十分使えるはずだけど、赤いラインで記された最短ルートを見れば誰もが首を傾げていただろう。明らかに道順を無視している。ビル同士の階数を調べて似たような高さの屋上をピックアップし、さらに助走をつけたジャンプで飛び越えられる程度の距離があるルートはどこか、で調べているんだから当然だ。
しかも、ここまでやっても安全なんか担保はない。
「風がすごいわね。ほんとにこんなトコ走ったり跳んだりするの?」
そう、今は横殴りの雨も激しい嵐の真っ只中なんだ。助走をつけようにも真っ直ぐ走る事さえ困難で、地面は濡れて滑るし大停電の暗闇の中にバックライト一つだから距離感も掴みにくい。当然、何か一つでも誤れば濁流に真っ逆さまである。
「とりあえずヒール折っておいたらどうです」
「うっ嘘でしょう? トリスメのパリセレ限定モデルなんだけどこいつは光る海の建物なんかと違って壊しちゃったら復活なしなのよねどちくしょう!!」
うだうだ言いながらも決断する時は即決な辺り、火祭さんは背伸びしてカード破産するようなセレブさんではなさそうだった。あのレベルのブランド品でも、捨てる時は捨てられるくらいにしか考えていない。
……ほんとに謎な人だな。今は母さんのマンションに身を寄せているみたいだけど、元々はどんな世界で暮らしているんだろう。
僕自身は一応運動靴だけど、何しろ元から運動が得意な方じゃない。万全の準備を進めたって不意に突風が膨らめばそのまま煽られて即落下もありえる。
『警告、マイクで拾う雑音を元に風向きを表示しますので参考にしてください。完全な向かい風、及び左右誤差三〇度以内の状況ではおそらく跳躍に失敗します』
「この追加の矢印か? 壊れた方位磁石みたいにぐるぐる回ってるけど」
『シュア。平素の環境ではありません、今は嵐の真っ只中にいるのです』
風向き次第で渡れる場所と渡れない場所が交互に切り替わるため、最短ルートだって真っ直ぐ進める訳でもなさそうだ。いつまでも立ち止まっている訳にもいかない。場合によってはかなり遠回りになる事も覚えておこう。
それじゃあ……。
「行くか」
「そうね」
倒れたままの男はどうでも良い。
ひとまず隣のビルへ。
ポケットの中をまさぐり、こっちに持ち込んだマイナスドライバー代わりの爪研ぎヤスリを使って金属製の手すりを外していく。ジャンプのためのルートはできた。
……これが試金石だ。ここで失敗してドボンならもう目も当てられない。不幸中の幸いか、高くて足がすくむって事はなかった。地上が水没していて墜落イコール即死じゃないと頭が平和ボケしているのか、それとももっと根本的に光る海に正しいリアリティを感じられずにいるのか。
とにかくスタートを切る。
助走にかける距離は大体一〇メートルくらい。僕が前へ踏み出すと、隣の火祭さんも釣られるように駆け出した。透明な塊みたいな横風に上半身を下から煽られながらも、そのまま一気に屋上の縁から跳躍する。
隣のビルまでおよそ三メートル。
互いの高低差はなし。
わずかな距離のはずだけど、跳んだ瞬間に体感時間が止まった。いいや風向きが変わった!? ぶわりと透明な壁を顔全体にぶつけられるような感覚に、ただでさえずぶ濡れの全身が冷や汗でいっぱいになっていく。
しかし踏み切ってしまった以上、今さら引き返す訳にもいかない。とにかく祈るような気持ちで先の屋上を睨みつける。
意識より遅れて、肉体が隣のビルへと投げ込まれた。こっちの屋上には最初から手すりがない。立っていられず濡れた地面へ倒れ込みながら、ほとんど咳き込むように深呼吸を繰り返す。
かえって火祭さんの方がしっかりしていたくらいだった。
「早く次に行きましょう。いつまでももたもたしていられないわ」
「分かって、ます。でもさっき向かい風が……」
「向かい風?」
キョトンとされてしまった。
ひょっとすると向かい風なんかじゃなくて、やっぱり恐怖心のせいで体感時間が遅れて感じただけか? もうリアルと妄想がごちゃごちゃになりつつあるみたいだった。
スマホの地図にある有効ルートと、刻一刻と変化していく暴風の向きを確かめ、僕達はさらに別のビルへと飛びかかっていく。
「あのサメはどうしてんのかしら」
金髪のナントカ盛りをすっかり雨風でぺしゃんこにした火祭さんがそんな風に言っていた。
「あんな手の込んだ方法であたし達をわざわざ招待してんだから、放ったらかしって事はないわよね」
「……、」
あんまり深く考えたくないけど、思い当たる節ならあった。
僕と火祭さんが合流している事から、この恐怖の源は一人に一つ与えられた個室じゃなくて、全員で一つのネトゲ空間みたいなものだ。つまり僕達の他にも誰か入り込んでいるのかもしれない。殺人ザメの姿がないなら、多分よそに行っているはず。
ヤツにとっても今夜は想像以上の大漁、入れ食い状態だったのかもしれない。
「……そもそも、あの水掛け攻撃って僕達だけに襲ってきたものなんですかね。比較的用心深い参加者を狙って、巨大ザメに屈した人間が一斉に動き出していたとしたら」
だが、言葉はそこまでだった。
ザバァッッッ!!!!!! と。
はるか遠方で、その距離感を狂わせるほど巨大な影が濁流を割って垂直に飛び出したからだ。
横風の影響なんて微塵もなかった。イルカのジャンプに近いだろうか。だけど三〇メートルオーバーの巨大ザメがやるとあんなにも禍々しいものなのか。自分の体の三、四倍の高さを稼げるドルフィンジャンプだけど、あの巨体だと三、四〇階建ての高級マンションの屋上まで届きかねない勢いだぞ!?
「あ、あれより高い建物なんて、それこそ地元の電波塔くらいしか思い当たらないぞ……」
「それよりあいつ、何で今ジャンプしたの。挨拶代わりのパフォーマンスって訳じゃないわよね」
それもまた、具体的なイメージは恐怖と嫌悪しか生まない。何となくアマゾン辺りの巨大魚が水面近くを飛ぶ羽虫を口で食べるために飛び跳ねるような、そんな情景を連想した。
ではヤツが食べるのは何か。
少なくとも羽虫じゃない。つまりあそこには僕達と同じようにビルからビルに飛んでいた誰かが……?
「くっ、くそ。冗談じゃないぞ!!」
本当にイメージは追いついているか。冷静なふりして置いてきぼりにされていないか。
人が死んでいるんだぞ。
普通もっとこう、足が震えてへたり込むとかあっても良いんじゃないのか。
「ねっ、ねえ、あの壁みたいなの何? たっ高波!?」
「……サメ野郎の巨体が水に落ちたからだ。危ない!!」
感傷に浸っている暇もなかった。
二人して屋上にあった給水タンクの脚にしがみついたけど、幸い、ここまで呑まれる事はなかった。それでも足元から低い震動が伝わり、心臓が痛いほど縮む。
ビルそのものが揺さぶられているんだ。
流体力学とかで計算すればぞっとするはずだ。下手するとこれだけでへし折れかねないぞ……。
「ひっ、火祭さん!」
「ええ!」
慌てて次のビルを目指す。今ので『向こう』のグループもあらかた食い散らかしたのか、リヴァイアサンの針路が変わる。この濁流の中、ちっともブレずにビタリと固定される。明らかにこっちを狙い始めている。来る!?
ビルを立て続けに二つ越えたところで、真後ろから派手な破砕音が背中を叩いた。ついに巨大ザメが体当たりして、あれだけ頑丈なビルを突き崩しにかかった。こっちの足場を奪って濁流の中に引きずり込むつもりか、安易にジャンプしたところで宙を舞う羽虫のように丸呑みするつもりか。細かい事を悩んでいる暇はない。とにかく追い立てられるように次のビルへ。
駅ビルまでまだ少しある。
このままだとリヴァイアサンの方が速いか!?
そんな風に思っていた僕だけど、
「ねっ、ねえ。何か様子がおかしくない?」
「?」
「あのサメ、暴れているっていうよりもがいているような。もしかしたらあれって……」
事前の『細工』が効いてきた。
そういう話をしているんだろうか。
6
光る海は現実の風景を参考に作られる。つまり現実世界であらかじめ信号を壊しておくとこっちでも信号は壊れているはずだ。
変化を持ち込める。この事に気づいた僕達が取った行動は、それ自体ならシンプルなものだった。
『うわっ、わっ、何これ。これ全部潰れたペットボトル!?』
『ええ。ざっとコンテナ一つ分。供饗市って災害関係以外はザルだから、リサイクルしないでそのまま燃えないゴミ扱いなんですよね。どうせ埋立地送りなので拝借しても誰も困らないし、せっかくなんでゴミ処理施設の配送データ書き換えてこっちに運んでもらったんです』
とはいえすごい量だ。
家庭用のジューサーなんかで格闘していたんじゃラチがあかない。そこで目をつけたのは格安の洗濯機だった。斜めドラムとか色落ち防止AIとかそんなのはどうでも良い。古いアパートの玄関先に置いてあるような型落ちの二層式なら、きちんと探せば一万円以内で手に入る。
後は回転ドラムの中に、定規みたいなステンレスの板切れをいくつかくっつければ一丁上がり。元々マクスウェルのために業務用電源を引っ張ってきてもらっているから、変圧器を通して家庭用にボルトとアンペアを調整すればモーターは回せる。そして今は水道ホースを繋げる必要はない。
『火祭さんはとにかくこの破砕機の中にペットボトルを放り込み続けてください』
『えっと?』
『ここ、内側に油性ペンで赤いライン描いておきますから、ここまで粉末が溜まったら、排水ボタンを押してホースから外に繋いだずだ袋へ粉末を送り出す事。当然ですが、自分の腕を回転ドラムや手製のブレードに巻き込まれる、なんてのもナシにしてくださいよ』
『つまり結局何ができるの?』
『ほとんど全ての海洋生物の天敵、マイクロプラスチックです』
何かの流行りみたいにテレビやネットで言葉が出回っているけど、使えるものなら何でも利用させてもらうとしよう。
『こいつをずだ袋に詰めたら、街のあちこちに置いておきましょう。こっちの現実じゃ何も起こらなくても、水没した地獄なら濁流に揉まれて大量のマイクロプラスチックがばら撒かれていきます。それはヤツの心肺器官に確実なダメージを与えていくはずです』
あれだけの巨大ザメなら人間でも自転車でも何でも飲み込みそうだけど、食道から入るかエラから入るかはまた別問題のはずだ。
『でも道端に置いたらゴミの不法投棄とか何とかで回収されちゃわない?』
『ずだ袋があってもおかしくない場所……。そうだな、路面凍結用の砂袋なんか置いてあるトコに混ぜておけば』
かくして罠は敷設された。
こっちは丸一日かけて大量のペットボトルをすり潰し、袋に詰めて、誰にも見つからないようこっそりあちこちに置いてきたんだ。
供饗市全域を完全カバーするには至らなかったけど、巨大ザメからこっちのホームに接近してくるなら話は早い。シミュレータの力を借りてあらかじめ地形の特徴を把握しておけば、どこに多くのマイクロプラスチックが雪崩れ込むか、特に密度の濃い危険コースも予測できる。マクスウェルの試算じゃ最大で自然の海の一二〇〇倍にまで膨らむ水域もあるのだとか。まさに光る海限定の武器だ。
後は逃げ回りながら、ヤツをダメージエリアへ誘い込めば良い。
僕達にはお前ほど大きな歯はない。だけど目に見えない凶器は揃えたぞ。さあ、存分に吸い込んで存分に苦しむと良い。
7
リヴァイアサンが暴れ回るたびに巨大な歯の群れがビル屋上の角を豆腐のように突き崩し、尾びれが高層オフィス一面の窓ガラスをまとめて粉々に砕いていく。
痛みは与えた。
ヤツは確かに苦しんでいる。
「でも弱い! すぐ動きが止まるってほどでもないの!?」
火祭さんは屋上から屋上に飛び移りながら絶叫する。
マイクロプラスチックは呼吸に悪影響を及ぼす懸念があったはず。人間にとっての塵肺みたいなものだ。生体に確実なダメージを与える一方で、ナイフや鉛弾ほどの即効性はないって訳か!
そして当然ながら、もがき苦しむ怪物は平素と比べ物にならない力を発揮する。細かい照準が効かなくなった代わりに一発一発の爆発力が激増した。そんなイメージだった。
「火祭さん!」
「えっ、なに? そっち駅ビルに繋がってないわよ!!」
僕が指差して駆け出した方向を見て火祭さんが戸惑った声を上げる。だけど最終的にはこっちについてきてくれたようだった。
ゴォア!! と空気を破るような咆哮? 破壊音? とにかく何かが背後から響き渡る。
巨大ザメが僕達を追って、鉄筋コンクリートすら破壊しながら真っ直ぐ迫り来る。
「勝算は!? こっからどうすんの!!」
「実はもう十中八九終わっています!」
僕は後ろを振り返りながら、
「ヤツは本気になればビルだってぶっ壊します。だけど抵抗がゼロって訳じゃない」
言ってみれば、一枚の紙を破くのは簡単だけど、一〇〇枚重ねれば鉛弾をも受け止められるようになる感じに近いのかな。
「大体あの巨体だ。建物の密集地帯、狭い路地みたいに窮屈な場所まで誘い込めば、体が詰まって身動きが取れなくなるかもしれないんです」
全長三〇メートル、ちょっとした潜水艦クラス。冷静になれば分かるけど、入り組んだ街の中でヤツが自由に泳ぎ回れる場所って、意外とそんなに多い訳でもないんじゃないか?
今まで立て続けに鉄筋コンクリートの建物を壊しながら迫り来るのを戦々恐々と眺めてきたけど、それだって上手にかわせずに擦っていた、って受け取る事もできたかもしれないんだ。
「でも暴れ回ったらあっちこっちのビルは倒れるのよね!? 結構怒ってるみたいだし!」
「その前に駅ビルに入って地下に潜れば良い。マイクロプラスチックは致命傷にはならないけど、素通りされる訳でもないって分かっただけでも大きいんです。持ち帰って次に繋げましょう!」
路地にはまったリヴァイアサンを迂回するため、若干遠回りのコースを選びつつ、風向きにも配慮して僕達は似たような高さのビルからビルへと跳んで駅ビルを目指す。何分保つかも分からないけど、ひとまず逃げ込んだ先の駅ビルごと体当たりでぐしゃぐしゃにされるって訳でもなさそうだ。
僕達がいるのは五、六階建ての雑居ビルなんかで、てっぺんが展望台レストランになってる駅ビルは一三階まである。今のままだと高さが合わないから屋上伝いで侵入するのは難しいけど……。
「ゴミの吹き溜まりみたいな場所がある」
何かの飾り紐がたなびき、そこに流されてきた瓦礫や鉄くずなんかが絡み合ったんだろう。数メートルの幅をゴミが埋めている場所があった。濁流の水自体は下を潜っていくらしく、まるで浮島か橋みたいだ。
「あれを伝っていけば、窓を割って中に入れるかもしれません」
「マジで!? 足乗せた途端に沈んだら濁流に一直線じゃない!」
念のためマイナスドライバー代わりの爪研ぎヤスリで屋上にあった家庭用テレビアンテナを取り外し、自分達が足をつける前にまずこいつの先端でつついて体重をかけていく。しっかりしているのを確認してから渡っていった。
ちなみに高層階用の強化ガラスらしく、窓は金属製のアンテナロッドで殴りつけたくらいじゃびくともしなかった。
『爪研ぎのグリップ軸の先端で窓を突いて下さい。効率的に亀裂が入るはずです』
マクスウェルの指示に従って、アイスピックみたいにグサリ。蜘蛛の巣状のひびが走ったので、さらに違う場所にもぐさり。陣取りゲームみたいなもので、複数の蜘蛛の巣が重なって亀裂が三角や四角で取り囲んだところからガラスがポロポロ外れていく。
「早く、早く」
「分かってますって!」
本来は窓の内鍵近くに二、三ヶ所打ち込んで人差し指を通す小さな穴を空けるための技術らしい。おかげで人間一人通る大穴を作るのはかなり難儀した。
それでもどうにかこうにか侵入口を作って駅ビルの中へと転がり込む。
「ぶはっ!」
安定した足場に横殴りの雨のない屋内。随分マシになったはずなのに、正常な環境を手に入れた僕達はかえって身震いしていた。ようやっと自分達が全身ずぶ濡れだって事を思い出したように。
スマホを見るとあれから五分くらい経っている。もうそんなに、まだそんなものか。どっちに思考の舵を切るべきか。だけど何にせよ、いつまでも巨大ザメが黙っているとは思えない。そろそろ半ば以上沈みかけた雑居ビルの群れを粉砕してでも自由を取り戻しているはずだ。
僕はスマホのバックライトを右に左に振って、下りの階段を探しながら、
「早く行きましょう。いつまたトラブルが起きるか分かったもんじゃない」
「そっ、そうね。うう、なんか寒い……」
自分の肩を抱いて、ぶるるっと背筋を震わせた火祭さんと一緒にほとんど真っ暗になった駅ビルのデパート内を進む。スマホのバックライトだけが頼りだ。この停電じゃエレベーターは動かないだろうし、ひとまずエスカレーターか非常階段を探さないとな。
「あそこ、エスカレーターじゃない?」
火祭さんが指差した方に向かって、動きを止めたエスカレーターを下る。足場の不安定な階段って感じだ。だけど一階分しかなかった。地下まで降りるには、また別のルートを探さなくちゃならない。
「何でそっち行くの?」
「非常口の表示があります。電気が消えてて分かりにくいですけど」
夜光塗料じみた青の光で満ちる強化ガラスの窓辺に寄り添うように伸びた直線の廊下を歩いていく。
と、その時だった。
べだんっ!! と水没した窓の外側に誰かが張り付いてきた。
「っ!?」
「ッ!!」
僕達は反対側の壁へ勢い良く体をぶつける。驚いたのは単純に大きな音が出たから、だけじゃない。
ただでさえ水面ギリギリだった五階から、さらにもう一階降りているんだ。外はもう完全に水没しているのに、何で強化ガラスに大の字でおっさんが張り付いているんだ!? 流石にっ、シミュレータの中にもなかったぞ、こんなの!
「はっ、早く、何とかして助けなくちゃ……!!」
腰が抜けてわたわたしながらも、火祭さんはそんな風に言ってきた。その意見は、正しい。だけど猛烈な違和感があった。
こっちから見れば水族館の水槽を眺めるようだけど、外はぬめる光だらけの濁流なんだ。掴むところが何もないつるりとしたガラスに、ああもしっかりしがみつけるものなのか?
そう思っていた時だった。
それが見えた。
ぐじゅり、と。
おっさんの口や鼻から溢れる、なめくじに似た粘質な虫のような何かが。
「うっ」
今度こそ。
今度の今度こそ。
その光景は精神の許容を超えていた。
「うわあっ!?」
ひっくり返って尻餅をつく。助ける助ける言っていた火祭さんもその場で目を見開いて完全に固まっていた。
何だあれ?
一体何が起きた!?
ガタガタ震えながらスマホに目をやると、マクスウェルがSNSのふきだしで解説してくれる。
『ウミビルのように見えますが、図鑑にあるものより大分禍々しい印象です』
「うみびる?」
『コバンザメなどの例を出すまでもなく、サメは寄生生物の宝庫です。成体から卵まで、あらゆる段階で危険にさらされています』
僕達の見ている前で、窓が埋まっていく。嵐の夜に飛ばされた葉っぱが濡れた窓に張り付いてくるように。三人、四人、一〇人、二〇人、いやもっと! 見渡す限りのウィンドウが大の字に張り付く人で埋まっていく!?
まさか、そういう事なのか。
表の広い海は巨大ザメ本人が泳ぎ回る。でもケアのできない狭い場所はヒルやコバンザメなんかに任せて追い立て、炙り出す。
連携を取っているんだ。
光る海で受けた傷は現実にも残る。それなら、リヴァイアサンの手先になっていた連中も脅迫を受けていたとかじゃなくて、もっとシンプルな方法で操られていたっていうのか。寄生生物に全身を蝕まれて……!?
アークエネミー。
感染性、増殖性の見られる不死者。
光る海の話は光る海で完結すると思ってた。巨大ザメがどれほど凶暴でも現実まで逃げ切ってしまえば手出しできないだろうって。
でも違ったのか。
戦場に引きずり込まれて寄生虫に感染させられて現実でも操られる。それじゃどこの誰が感染しているか分からないじゃないか! 単純な物理封じ込めだって使えないぞ!?
「火祭さん、早く行こう! 何だか知らないけどここはヤバい。強化ガラスだっていつまで保つか分からない!」
もう走るしかない。巨大ザメに噛み砕かれて死ぬのは嫌だけど、頭の奥まで寄生虫に蝕まれて全身から血を吸われるのだって嫌過ぎる。
神話の中じゃ、リヴァイアサンは世界中の人達にご馳走を振る舞うための食材でもあるらしい。三〇メートルの巨体じゃ足りないと思ってたけど、まさか無尽蔵に寄生生物が湧き出してくるから食糧には困らないって意味じゃあないだろうな!?
ギシギシミシミシ不気味に鳴り響く強化ガラスに急かされるように、僕達は光の消えた非常口案内の電飾を頼りに通路を走る。
非常階段はすぐ見つかった。
エレベーター横に、完全に壁で囲まれた屋内型の階段がある。これなら嵐や濁流も関係ない。
「早く、急いで!」
「分かってるわよ!!」
濡れた靴がつるつる滑っておっかないけど、とにかく手すりだけ掴んで四階から地下まで一気に駆け下りていく。
金属シャッターが全部降りた地下街はまさしく迷路だった。明かりらしい明かりもないので、スマホのバックライトを支えるバッテリー残量がそのまま寿命の長さになる。
シャッターのせいでガラスのウィンドウなんかも隠されているので、例の汚い手書きの地図もない。
「マクスウェル、ゴールの扉はどこだ?」
『シュア。二つ目の十字路を右折してください。シャッターは降りていますが、傍に個人通行用の鉄扉があります。そこがtoday's exitの扉となります』
バゴン!! という轟音が頭上から炸裂したのはその時だった。それから低い振動が天井を揺さぶる。止まらない。どんどん大きくなってくる!?
「どこかの窓が破れたんだ。地上は元から水没してるから、ダムの放水みたいに水が雪崩れ込んでくるぞ!!」
やっぱりさっきの、ガラスに外から張り付いていた感染者達か? だとするとヤツらの口や鼻から飛び出したヒルだの何だの気持ち悪い寄生生物がしこたま鉄砲水に混ざっているかもしれない。そんなので揉みくちゃにされたら一巻の終わりだ。
「とっ、とにかく出口よ!! 今さら引き返せないし!!」
言われるまでもない。高さで言ったら五階以上稼がないと安全は得られないから、今から上に逃げるのは不可能。しかも地下がいったん水没したら、多分水圧でtoday's exitの扉は開かなくなる。
だから突っ走るしかないんだ。
すぐ先、二つ目の十字路を右に曲がったところにあるドアを潜って現実まで!!
「「っ!?」」
とにかく全力で突っ走る。ざぱっ!! と大きな波が岩にぶつかって弾けるような音が背後から響いてくる。もう振り返れない。二つ目の十字路だって言ってるのに一つ目で曲がろうとした火祭さんの腕を掴んで軌道修正しつつ、目的の場所を大きく曲がる。靴底が滑る。喉の奥まで干上がる。無理にブレーキを掛けずにそのまま壁に体をぶつけ、何とか転ぶのだけは避けて再スタート。
長ったらしいフランス語みたいなアルファベットがシャッターいっぱいに躍っていた。元々何の店かは知らないしどうでも良い。問題なのはシャッターの横についてる従業員用の小さな扉だ。
表面はオレンジ色の光で輝いていた。
today's exit。
「届けっ」
背後から迫る濁流は確かめられない。きっと見たら恐怖で魂を縛られる。これ以上走れなくなる。だから前だけ向いて全力疾走、可能な限り手を前へ突き出し、
「届けえ!!」
ノブを掴み、開けるというよりほとんど肩から体当たりをぶちかます。派手な音が炸裂した。やってから、このドアは手前に開くのだと悟る。じんじんする体を引きずって改めて鉄扉を開け、中へと滑り込む。そのまま奥へと倒れ込む。
そして。
そして。
そして。
6
「はっ! はっ! うっぶ……!?」
自分の呼吸とは思えなかった。
ずぶ濡れのまま、火祭さんと一緒に冷たい床に転がっている。彼女は彼女で、戦々恐々といった調子でちっぽけな鉄扉を眺めている。
だけどドアが破壊される事も、隙間から汚れた海水が溢れ出る事もなかった。
今日の戦いは終わったのだ。
ここはもう光る海じゃない。平和で穏当ないつもの供饗市だ。
「は、はは」
巨大ザメの他にウミビルみたいな寄生生物。現実世界のどこまで感染者が蔓延しているのか、平面の地図を使った物理的な追跡調査だけでは把握不可能。さらに問題は深刻化してきているけど、それでも僕達の顔にあったのはまず生き残ったという笑顔だった。
「あははは! はははははははははは!!」
一二時前ならまだ終電前だから、お店は閉まっていても駅員さんなんかは残っているかもしれない。何で閉店後の店内にいるのか説明もできないし、もっと冷静になるべきなんだ。分かってる。でもダメだった。今日という一日がハッピーだったって結論づけないとここで折れる。訳の分かんない感染者から襲われて理不尽に巨大ザメからケンカを売られたなんてネガティブなまとめに入ったら、ここで潰れてもう動けなくなってしまう。
だからとにかく笑い続けた。
深夜の作業中、不意に襲いかかってくる寂しい感を一〇〇倍以上膨らまされたような。とにかく胸に溜まる黒い澱みみたいなのが消えてなくなるまで、この儀式をやめる事はできなかった。
どれくらいかかったか。
目尻に涙さえ浮かべる火祭さんと一緒に、ようやく僕は冷静さを取り戻す事ができた。
「帰ろっか」
「ええ……」
適当に言い合って、マクスウェルの指示に従ってシャッターだらけの地下街を歩いて地上を目指す。実際にどんなセキュリティがあってどうかいくぐっているか、もう頭に浮かぶ事もなかった。マクスウェルにボディがあればお姫様抱っこしてもらえたのに、と結構本気で考えてしまうくらいへとへとになっている。分かっている事だけど、やっぱり命の取り合いっていうのは疲労の度合いが半端じゃない。体育の授業でやってるサッカーやバスケなんかとは次元の違う、頭の芯を引っこ抜かれるような疲労感に襲われる。
眠い。寝たい。泥のように。
火祭さんと一緒に地上に出て、酔っ払ったサラリーマンや大学生の塊なんかを一緒に見る。
「……この中のどれだけが頭の中までヒルまみれなんでしょうね」
「考えたくもない。ねえ、どっかで軽く摘んでいかない? 本格的に外食やらかすと夜食作って待ってるタオリさんの機嫌が悪くなりそうだけど、フライドポテトくらいなら構わないでしょ」
「こんな時間なのに、ポテトなんか食べるんですか?」
「二人で一食。これくらいなら大丈夫でしょ。てか体より心がボロボロだからさ、滅法分かりやすい味を楽しんで少しでも回復させたいのよね……」
その気持ちはまあ分からんでもない。テスト明けで緊張から解き放たれた瞬間に、全力全開でカラオケボックスに飛び込みたくなるのと同じだろう。
ともあれ、これで生存チケットは手に入れた。マイクロプラスチックにある程度の効果は見られたし、この経験を活かして次に繋げよう。一日あれば何だってできる。
そう思って火祭さんと一緒に狭い雑居ビルに入っているハンバーガーショップを目指す。へとへとだったけど、それでも僕達は警戒していた。道路の水たまりは避けたし、道行く人の誰がヒルにやられているか分からないからちょっと距離も取った。
だけど信号待ちしていた時だった。
すぐ目の前を通過した大型ダンプのタイヤが水たまりを踏みつけ、こっちに向かって派手に飛沫をぶちまけてきたんだ。
普通なら文句の一つでも言っておしまいだったのかもしれない。
だけど僕達は、もはや小さな悲鳴も上げられなかった。
「……、」
「……。」
ずぶ濡れ。
足元。
新しい水たまり。
そして僕はスマホに目をやる。時間表示にはこうあった。
00:03
昨日という一日が終わり、今日という一日が始まる。
という事は、向こうのチャージはもう……。
「じ、冗談じゃな---!?」
文句を言う暇もなかった。
僕達は間髪入れず、再び魔王の海へと引きずり込まれていった。