第三章



   1


 連戦。

 まさかの二連戦。


「がぼっ」

 呼吸が詰まる。

 視界がない。目も鼻も口も粗い塩粒を直接擦りつけられるようにひりひりする。自分が海水の中に投げ込まれたと気づいた時、体が猛烈に引っ張られた。

「げぼごぼ! ごほあっ!?」

 訳が分からずに手足を振り回してもどうにもならない。生き物のようにうねり、複数の水流が常に絡み合う濁流。そいつに巻き込まれたとようやく気づく。

 バッグの中に手を伸ばし、短い紐を引っ張った。

 枕くらいの大きさのバルーンが二つ膨らむ。安物のライフジャケットを分解して手に入れたものだった。とにかくそいつにしがみつき、水面を目指す。

 今回は地上部分で巻き込まれた。水の高さはざっと五階分。一五メートル。間に合うか、間に合ってくれ! それだけ祈って歯を食いしばる。

「ぶはっ!?」

 ようやっと口が波打つ水面から飛び出した。頭がくらくらする。単純に酸欠なのか、水圧の関係で潜水病にでもなりかけているのか。

 助かった、っていう気持ちはなかった。

 何しろこの暗い海には何人あの寄生虫まみれの感染者が漂っているか分からない。詳しい感染方法はまだはっきりしてないけど、決して楽観はできない。この水は汚染されているって考えた方が良い。

 それに、

「火祭さん?」

 バルーンにしがみついたまま、濁流に流されながら僕はあちこちに目をやる。

「火祭さん、どこだ!? ちくしょう!!」

 呼んでも返事はない。

 夜光塗料みたいなぬめる光で青くぼんやりと浮かび上がる濁流。その表面に翻弄されながら、何とかしてビル壁から真横に突き出した電飾看板にしがみつく。

 どこだ。

 くそ、あれだけ派手な金髪とシャンパン色のドレスなんだ。見逃すはずがないのに!!

 どうする?

 この場に留まるか、濁流の中に潜って捜すか。

「……ダメだ」

 僕は首を横に振った。透明度ゼロの泥水の中、この真夜中に明かりもなく捜索を続けるなんて自殺行為でしかない。こっちは一ヶ所に留まる事もできないし、酸素ボンベがある訳でもないんだ。

 だけどやれる事が何もない訳じゃない。

 僕は歯を食いしばって電飾看板を掴み直す。大丈夫、大丈夫とおまじないのようにシミュレータでのケンカを思い出しながら。『焼肉のハルミ』『丸川探偵事務所』などなど、各階ごとに小さな看板を縦に繋いだようなこれなら、梯子代わりに伝って屋上まで上がれる。ざっと三階分。横殴りの暴風雨に耐えながら、どうにかして上りきった。

 僕はスマホレンズを屋上一帯に向けながら、

「マクスウェル、ロープの代わりになるものを見つけてくれ。後は浮き輪も!」

『シュア。家庭菜園スペースにビニールロープが見受けられる他、栄養剤のボトルがあります。中身を空にすれば浮力の足しになるでしょう』

 とにかく時間が惜しい。ロープの束を引っ張り出して先端でボトルを縛り、屋上の手すりから身を乗り出して濁流に目を凝らす。

「いるか、火祭さん?」

『姿は確認できません』

 水の流れは早く複雑だ。もうどこか遠くへ流されてしまったんだろうか。

 最悪、それでも構わない。安全な場所まで一人で逃げ切ってくれているなら。

 そんな風に思っていた時だった。


 ざばぁっっっ!!!??? と。

 目の前の水面を割って、あまりにも巨大な塊がこちらに飛び出し


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 思わず絶叫しながら尻餅をついた。

 巨大ザメ。

 リヴァイアサン。

 馬鹿げた筋肉の塊をバネにするだけでこれだ。僕が転んだ事で狙いを外したギザギザの歯の群れが、すぐ頭の上を突き抜けていく。屋上すれすれで大きなアーチを描き、給水タンクを丸々噛み砕いて破裂させて、全長三〇メートルの巨体はそのまま反対側の通りへと落ちていく。

 まずい、近い!

 寄生生物なんか使うまでもなく、直接僕を仕留めに来てる!?

『警告!』

「分かってる!!」

 そしてこんなトコでサメにやられる訳にはいかない。濁流に呑まれて行方不明な火祭さんを引っ張り上げなくちゃならないんだから。

 ざぱりという水を割る音がまたもや聞こえてくる。あの巨体をぐるりと旋回させ、大ジャンプのための助走でもつけようとしているのか。

 こっちにはリヴァイアサンを直接倒すほどの火力はない。となればやるべきは一つだ。

「くそっ!!」

 とにかく起き上がって、全力で走る。屋上から建物内に繋がるドアへ全体重をかけて体当たりし、そのまま鍵をぶっ壊す。奥へと倒れ込むと同時、真後ろで暴風が唸り、金属質な破砕音が連続した。きっとリヴァイアサンが突っ込んで、ちょっとした物置より大きなエアコンの業務用室外機を押し潰したんだろう。

 恐怖に足がすくむけど、無理にでも階段を駆け下りる。

『どうするのですか』

「ヤツの狙いをよそへ逸らす」

 おあつらえ向きに、梯子代わりによじ登っていったビル壁の電飾看板にはこうあった。

「焼肉のハルミ、これか!?」

 雑居ビルの六階、狭い通路に体を擦り付けながら誰もいない店内に飛び込んでいく。網付きのテーブルが並ぶ一般フロアを無視して厨房へ。銀色の巨大な冷蔵庫から塊みたいな牛肉を引っ張り出し、さらに生ゴミ用のポリバケツの蓋も開ける。

「……サメは血の匂いに敏感だったよな。単なる俗説じゃなけりゃ良いけど」

 とにかく何でも試すしかない。リヴァイアサンにロックオンされたままじゃ火祭さんの捜索だっておぼつかないんだ。

 厨房に面した窓に向かう。横殴りの雨を受けたガラス一面に例の汚い手書きの地図があった。

 today's exit。

 戦う力を持たない僕達にとっては唯一の生還方法だけど、今は細かく地図アプリと見比べている暇はない。

「マクスウェル。写真に撮るから画像解析、地図アプリで照合。ダメなら前と同じでウェブキャッシュに溜まったパンフやサイトの屋内見取り図まで手を伸ばせ」

『シュア』

 足元に備え付けてあった消火器を取り外し、分厚い金属容器の底で窓を破る。途端に暴風雨が舞い込んできて、かえって自分で砕いたガラスの破片を自分で浴びる羽目に陥った。

「うえっぷ! ちくしょう!!」

 だけど気にしていられない。牛肉の塊や売り物にならない脂肪、生ゴミ、傷んだ肉から滲み出た肉汁や血なんかを割れた窓から濁流へと放り出していく。

 これでヤツの気を引ければ、その間に距離を離す事ができる。自由を得れば火祭さんの捜索を再開できる。

 頼む。

 引っかかれ、頼む!!


 ゴドァァァ!!!!! と。

 いきなり真横の壁が吹っ飛んだのはその時だった。


 リヴァイア、サン。

 囮なんかお構いなし、安っぽい雑居ビルの壁なんぞ体当たりでそのまま破壊。あまり広い厨房ではなかったけど、それでも僕の体なんか部屋の端から端まで吹っ飛ばされた。

「がばっ! ぐげはっ、うぶあ!!」

 タイルの壁に激突して床に落ち、そのまま苦痛でのたうち回る。苦しい、息が……。見えない手で胸の真ん中を圧迫されているみたいに、上手く息が吸い込めない……!!

 ……でも、これでもマシな方だ。

 今のは巨大ザメそのものの歯でやられた訳じゃない。噛み付かれたら胴体なんて一発で真っ二つだ。厨房の壁を外から突き崩した時に雪崩れ込んできた建材の破片にぶつかったに過ぎないんだから。

「……、」

 ヤツは全長三〇メートルオーバー。こんな狭苦しい厨房に割って入れるのはせいぜい鼻先くらいだ。だけど僕は見えない圧で押し潰されそうなプレッシャーを受けていた。

 そしてシュウシュウという異音を耳にする。一瞬リヴァイアサンがそういう風に吐息を洩らしているのかとも思ったけど、そうじゃない。ヤツは魚類だ。呼吸の際に気泡なんか吹かない。

 だとすると、

『警告、ガス管の破断を確認。停電下でもパイプそのものが傷つけられればガスの漏出は発生します』

「っ!!」

 それ以上スマホの文字を目で追い駆けている余裕もなかった。半分以上崩れて雨風の入り込む厨房をほとんど転がるようにして一般フロアへ飛び出していく。巨大ザメも僕の動きに合わせて鼻先を追従させようとして、そこでパチンという小さな音が鳴った。おそらく巨体が何かしらの金属を潰したんだろう。

 厨房から出るか出ないかのタイミングだった。

 床を転がっていたはずの僕は背中を大きく叩かれて宙を舞っていた。ガス爆発。熱、音、光、衝撃、そんな事よりまず首がグギッて鳴ったのが怖いっ!!

「がぶあっ!?」

 ろくに受け身も取れずに床を転がり、テーブル席を隔てるぺらぺらのパーティションを突き破って、ようやく動きが止まる。

 厨房のあった方を振り返ると出入り口の四角い枠全部が火を噴いていた。だけどあんなもんじゃリヴァイアサンは死なない。コンビナートを自分から爆破炎上させながら突っ込んでくるような相手なんだから。

『すぐに来ます。対処を』

「どうして囮に食いつかない!? サメそれ自体は目や耳が良い訳じゃないだろう!」

 そもそも海水の透明度はゼロじゃないので、水中生活に視力はあまり重視されない。はずだ。ちくしょう雑学クイズ番組の方がテキトーな事言ってたって話か!?

『詳細を検証した訳ではありませんが、推測程度なら』

「それで良い、お前はシミュレータなんだから」

『サメは血の匂いの他に、頭部前面にある専用のロレンチーニ器官で海水内に流れる微弱な電流を読み取っていたはずです』

「電流だって?」

『シュア。つまりユーザー様も持っている生体電流です。だとすると、冷凍肉などを水中に放っても見抜かれてしまうかもしれません』

 生き餌しか食べない、か。海の王らしくグルメな話だ。だけどそれなら納得できる部分もある。未だに理屈の分からない光る海だけど、ここはリヴァイアサンにとって都合の良い環境が整えられた餌場だ。街全体が水没しているのだってそう。同じように大停電に見舞われているのだって理由があったんだ。

 それなら、

「店員がとりあえず必ず待機している場所……。そうだな、レジカウンターなら」

『よろしければ行動の指針を教えていただけますと』

 僕はカウンターを乗り越えながら、

「水に電気を流せばヤツの自慢の鼻を潰せるんだ。人の体から漏れ出る微弱なものを感知するレベルなんだから、スタンガンみたいな高圧電流である必要だってない」

『ノー。ですが今は大停電の真っ最中で、その電源を確保できるとは思えません』

「忘れたのか、マクスウェル」

 僕はレジの下をごそごそ漁りながら、

「ここは減災都市・供饗市だぞ。懐中電灯の一本くらい常備しているさ」

 一度スイッチをつけてから、保護カバーに守られた電球部分をカウンターの角に叩きつけた。

 ゴゴン!! という爆音と共に一般フロアの壁が外からぶち抜かれ、反対側の壁を破って巨大ザメが海中に逃げていく。テーブルも椅子もメチャクチャだ。端のレジに寄っていなければ即死だったに違いない。

 そして風穴が空いたなら好都合だ。

 僕は壊れて配線がむき出しになった懐中電灯を壁の大穴から濁流の中へと投げ込む。

 Uターンして再びこっちに突っ込もうとしていた巨大ザメの軌道がブレた。斜めに逸れて隣のビル壁を食い破っていく。

 身をすくめながらも、僕はスマホに囁く。

「さっさと行こう。こんなのはいつまでも保たない」

 リヴァイアサンはサメと基幹構造が良く似たアークエネミーってだけで、サメそのものじゃない。例えばコウモリの姿をした吸血鬼は、ただのコウモリより強靭で賢い。同じように、リヴァイアサンには本物のサメにはない器官を持っている可能性だってあるんだ。

 とりあえず火祭さんを探すため、見通しの良い屋上を目指す僕に、マクスウェルがSNSのふきだしを使ってこんな風に告げてきた。

『ユーザー様、先ほどの窓の図面と地図アプリの地形が一致しました』

「今回の出口はどこなんだ?」

 横殴りの雨も激しい屋上に出ながら僕が尋ねると、

『山間部にある旅館新緑(しんりょく)です』

「……ちょっと待て、何だって?」

『間違いありません。today's exitに指定されたドアはそこにあります』

 ……遠すぎる。

 ごおごおと音を立てる青い濁流に目をやりながら、僕は折れてしまいそうな足へ必死に力を込めていた。

 まず湾岸から山間まで向かうには街を丸ごと横断しなくちゃならない。でもってビルからビルに渡るって言っても限度がある。繁華街みたいな密集地帯なら何とかなるけど、ちょっと離れた建売住宅が並ぶ住宅街なんかまとめて水没しているはずだ。屋根伝いのルートは遠出に向かない。

 それでもやるしかない……のか。

 どれだけ理不尽でも、立ち止まれば死ぬだけだ。

「だとすると……」

 度重なる巨大ザメの攻撃ですっかりメチャクチャになった屋上を見回し、金属製のボックスに目をつける。ここが普通の地方都市なら詰んでいた。だけど減災都市の供饗市なら話は変わってくる。

 多くの人が集まる一定以上の商業施設なら、どこにだってあるはずだ。

 エアバッグみたいにボタン一つで大きく膨らむ、モーター付きのゴムボートが。

 ……シミュレーション上で姉さんとアユミが掴み合いになった時にもお世話になったっけ。自分から水に入るなんて完全に自殺行為だから絶対やりたくなかったけど。

 僕は金属ボックスにある大きなツメを外しながら、

「マクスウェル、濁流の流れをシミュレーション。火祭さんがスタート地点からどこまで流されたのかを計算してくれ」

『シュア』

 ボン! と、それこそ車のCMにある実験シーンみたいな音を立ててゴムボートが形を得る。

 膨らませたゴムボートを濁流に投げ、僕自身も飛び乗る。モーターなんて動かさなくても勝手に進んでしまう。いっそブレーキがほしいくらいだった。

『水の勢いと時間経過を考慮しますと、四〇〇メートル先、駅前広場のもみの木周辺が第一候補です』

「また流されたな……!」

 とにかく舵と一体化したモーターを操ってボートを流れに乗せていく。背後で何か巨大な質量が水面を下から割ったようだった。心臓が縮むけど、今さら引き返す訳にもいかない。

 火祭さんは……?

 どこだ。

 彼女はどこにいる!?

 焦る僕はかえって見過ごしそうになった。右に左に振り回していたスマホのバックライトを正面に戻す。

 濁流から突き出たもみの木のてっぺんに、何か黄金色に輝く布のようなものが絡み付いていた。

 彼女のドレスだ。

「火祭さん!!」

 大声で名前を呼んだけど、向こうには応える気力もないらしい。モーター付きの舵を操って、何とかしてもみの木のてっぺんに近づいていく。ボート全体が濁流に流されないよう、そして間違ってもスクリューで傷つけないよう注意して、意識朦朧としていた火祭さんをゴムボートの上へ引っ張り上げる。

「ぷはっ! はあ、はあ……」

 ずぶ濡れドレスのまま、火祭さんは大の字に転がって深呼吸を繰り返していた。ドレスといってもキャバ嬢スタイルなので太股の付け根とか相当危うい事になっているけど、気にしている余裕もないみたいだ。

 そしてこっちもじっくりガン見で人間観察している場合じゃなかった。

 ざばぁ!! と。

 今度の今度こそ、明確に僕達の真後ろで水面が大きく破られたからだ。

「くそっ! マクスウェル、ナビゲーション!!」

『シュア。ただし防災ゴムボートとリヴァイアサンでは、速度差は圧倒的です。ゴムボートも時速一〇〇キロは出せますが、それでも真っ直ぐ走るだけでは振り切れません。ヤツはただのサメでもありませんので』

「分かって、る!!」

 だからといってこんな水の上でボートを乗り捨てたって活路はないんだ。水没した街を横断して山間部を目指すなら、どうやったってゴムボートを使った水上コースは必須。だからtoday's exitの扉を潜るためにも、こいつは捨てられない。

「マクスウェル、スマホレンズから画像分析頼む! 家庭用電源を使わない電池、バッテリー式の電化製品を風景の中からピックアップ!!」

『シュア。筆頭はこのスマホとゴムボートになりますが』

 聞き取りようによっては皮肉や冗談に受け取れたかもしれないが、生憎こっちは大真面目だ。

 そう。

 ボートはこれ一つじゃない。街中に畳んで収納してあるからそっちを使えば事足りる。問題は立ち止まっている暇がなく、かつ、離れた場所にあるボックスを壊すような飛び道具にも心当たりがない事だけど、これだって、

「マクスウェル、映像の中から目標をマーキング!」

『シュア。リヴァイアサンの予想針路も高確率順に風景へ重ねます』

 スマホでかざした風景の中で、ゴムボート収納ボックスの輪郭が白く光る。後はボックスと巨大ザメの突撃コースの矢印が重なるようにボートの舵を操れば良い。

 ヤツはこれだけの濁流の中でもビタリとバランスを保ち、まっすぐ突っ込んでくる。

 ドゴァ!! と半ば沈みかけたビルの屋上を削り取り、リヴァイアサンの腹がボートの収納ボックスを鉄くずに変えていく。バラバラになったバッテリーが濁流に落ちた途端、またもや巨大ザメが不自然な蛇行を始めた。

 効果時間は短いけど、やっぱり有効みたいだ。海水に電気を通すとヤツの感覚器官に狂いが生じるらしい。これがサメ全般の話か、リヴァイアサン限定のものかはどうでも良い。

「どう蛇行するかまで先読みできれば、突き出た鉄筋とかに突き刺す事もできそうなのに。あいつ自身の馬鹿力ならあいつ自身の筋肉だって突き破れるでしょ」

 疲労困憊でイライラしているのか、なかなかに攻撃的な意見を飛ばしてくる火祭さん。だけどこっちは高望みしない。まず生還。それから持ち帰った情報を元に対策を立てて追い詰める。何も行き当たりばったりのギャンブルで全長三〇メートルの巨大ザメに挑む事はない。とことん分が悪い事は分かっているし、命は一つしかないんだから。

 繁華街を抜けて住宅街を突っ切る。この辺は全部が全部水没していて、水面から飛び出すような背の高い障害物は見当たらない。この下に僕や委員長の家が並んでいると言われてもいまいち実感が湧かないくらいだ。

「まずいわね……。サメの独壇場になるわよ!!」

 元々ボート用のバッテリーは防水だ。水に沈んでいるだけじゃ漏電しない。そしてあくまでも水の上を走る僕達は、深い底にあるボックスを破壊する事も叶わない。

 当然、巨大ザメの針路を妨害できなければ追い着かれて丸呑み。激しい濁流だってヤツの足止めにならない。

 猶予はざっと見て三〇秒。

 マクスウェルに頼んでも答えは出ない。この不毛な濁流の中でどうする。どう動く!?

「火祭さん、ケータイは!?」

「えっ? そりゃスマホがあるけど……」

「中身はバックアップ取ってありますよね?」

「ああ、ちょっと!? アドレス帳に、あの子と二人で撮った写真もー!!」

 反撃の隙を与えず火祭さんの手からスマホを奪うと、マイナスドライバー代わりの爪研ぎの軸を画面のど真ん中に突き刺して液晶を叩き割り、手近な濁流へと放り投げる。

 ゴォア!! と。

 すぐそこまで迫っていた巨大ザメの目測が再び狂う。わすかに斜めに逸れたリヴァイアサンの巨体がギリギリのところを掠め、ダンプとすれ違うような暴風を頬に喰らう。

 それでも生き残れば勝ちだ。

 サメほどじゃないけど、こっちも濁流の荒波をバインバイン跳ね飛びながら時速一〇〇キロ以上で突っ走っているんだ。閑静な住宅街なんてあっという間に横断できる。

 住宅街を抜ければ今度は山側だ。

 背の高い針葉樹なんかは頭が出ている。上手く巨大ザメの体がぶつかるよう右に左に蛇行しながら突き進み、そしてついに水面から飛び出した斜面、峠道へとゴムボートごと乗り上げる。

「火祭さん!」

「貸し一だからねあのスマホ!!」

 仲良く手を取り合って手掘りらしき狭いトンネルへ飛び込む。

 真後ろから巨大ザメがジャンプしてきた。

 ゴドァ!! というトレーラーとバスの正面衝突みたいな轟音が炸裂する。ひっくり返って心臓をばくばく鳴らしながら後ろを振り返ると、巨大ザメの口が狭いトンネルの出入り口に押さえつけられていた。

 何度か大きな歯の列が開閉するけど、こっちまでは届かない。中身が空洞なビルと違って、山の斜面をぎっしり固めるトンネルは流石に強度が違うらしい。

 しばらくの抵抗の後、リヴァイアサンは後ろへ引っ込んだ。

「……、」

「……。」

 同じくへたり込んだ火祭さんと顔を見合わせるけど、まさかすぐ近くの出入り口から顔を出して外を確認する訳にもいかない。サメがもう一度ジャンプしてきたらおしまいだ。

「とりあえず……奥から出ましょうか」

「そうね」

 トンネル自体も峠の一部で、つまり上っていた。抜けてしまえば水面ははるか下になるため、巨大ザメも狙いにくくなるだろう。……三〇メートルの巨体で体長の何倍もの高さまで真上にドルフィンジャンプをやらかすから、必ずしも安全の保証はないんだけど。

 恐る恐る、トンネルの反対側に出る。

 相変わらずの大雨。

 だけどあの巨大ザメの姿はない。感覚的には大分下に位置する濁流を切り裂くようにして、ここから離れていく切り立った大岩みたいな背びれが見えた。

「諦めた……? 同じフィールドにいる別の獲物に切り替えたのかしら」

「どうなんでしょう。マクスウェル、リヴァイアサンが向かった先に何があるか分かるか」

『検索条件が曖昧なのでヒット件数は膨大になりますが、危険度の高いものとしては供饗ダムがあります』

「……ダム?」

『仮に破壊されて水位が大幅に上昇すれば、この辺りも水没してしまうのではないかと』

 頭が眩む。

 おそらく僕の顔は火祭さんと同じく、真っ青になっているはずだ。

「マクスウェル、とにかくtoday's exitのドアがある旅館までのルートを表示してくれ! さっさと出ないと収拾がつかなくなる!!」

『シュア』

「待って、何で!? あいつは手掘りのトンネルも壊せなかったじゃない。分厚いダムなんてそれこそ体当たりしたって……』

「ダムの強度はどこでも一定じゃないんです。それこそ放水口の水門なんかをピンポイントで狙われたら、一点の破壊から周りをめくり上げるように破損が広がっていきます」

『圧力の問題がありますから、破壊の程度は亀裂一つで構いません。飛行中の旅客機の機体にわずかな穴が空くだけで空中分解してしまうのと似たようなニュアンスかもしれません』

 何にしてもヤバいって事だ。マクスウェルの指示に従い、アスファルトの峠道から横に逸れて、適当に草を左右により分けただけの獣道みたいな所に踏み込む。これ自体が半分肝試しのような真っ暗ルート。こんな状況じゃなければマクスウェルの案内があったって入りたくない。

 しかも前方になんかいた。

 がさりと草を踏む音と、何かの気配。そして木々の合間に浮かび上がる影。

「……だれ、だ?」

 この魔王の海に引きずりこまれているのは僕達だけじゃない。today's exitのドアが一度に何個作られるのかは実は確かめようがないけど、でも窓や鏡に浮かぶ例の地図を参考にゴールを目指している場合、全く同じ旅館へ大勢が集中する可能性だってゼロじゃない。

 でも、何だか変だ。

 おかしい。

 とっさにバックライトを消している自分に気づく。隣の火祭さんも顔が強張ったままで、すぐ駆け寄ろうとしなかった。それどころか濡れた手で僕の上着を小さく掴んでいる。その指先は細かく震えてさえいた。

 ふらりゆらり、と不安定に頭を揺らし、左右の肩の高さも合っていないまま、横殴りの雨にさらされている人影。

 ぼたぼたと顔から何かが垂れていた。最初、水滴か、そうでなければ涙や鼻水なんかが顔を伝っているのかと思った。

 でも違った。


 丸々と太ったヒル。

 それがまぶたをこじ開け、鼻の穴を下り、ぼたぼたぼたぼたと……。


「うぐっ、はァあ!?」

 叫び、後ろへ下り、靴底が滑ってすぐ後ろの木の幹に背中をぶつける。

 それで気づいたのか、ヤツの首が明確にこっちへ向いた。

 ……くそっ!

「寄生生物の感染者!? ゴール手前を陣取って足止めでもさせてんのか!」

 もう道順なんて気にしていられない。火祭さんの手を掴んで正真正銘ただの草ぼうぼうの中へと飛び込んでいく。

 元々感染者はリヴァイアサンの巨体じゃ入り込めない所へ潜り込み、獲物を表に追い立てる役割を担っていた。言ってみれば猟犬。狭い路地や屋内なんかがそうだったけど、どうやら標高の高い山間部もカバーされていたらしい。

 つまりヤツらに追い立てられ、逃げ回るだけだと水没した方に押し戻されかねない。

 おまけに、ゴォォン!! という重たい音が遠くから響いてきた。

「ひっ! な、なに?」

 火祭さんが肩を小さくして飛び跳ねる。

 どうやら巨大ザメが本格的にダムの放水口にアタックを仕掛け始めたようだった。同じ山間部とはいえ、ここまで爆音が届くって事は土木用の発破かそれ以上の衝撃があるはずだ。一発二発で壊れるとは思えないけど、妨害手段がない以上は時間の問題だ。いつか崩壊が来る。それまでに出口がある旅館を目指さないといけない。森に潜む感染者も脅威だけど、怯んでいたら水位が上がってここも水没してしまう。

「マクスウェル、ヒルに弱点とかはないのか」

『一般的に火に弱く、肌を吸われた場合もライターなどで表面を炙ると抵抗なく外せるらしいです。……が、これは生物一般に言える事で、逆に火の接触で活気づく個体の方が珍しいでしょう』

 大体、この土砂降りの中じゃ大した火は熾こせないし、よしんば大火力を手に入れたとして、今度は大規模な山火事になってしまう。魔王の海の事なんて知った話じゃないけど、自分達が放った火や煙で自分達が巻かれるようでは本末転倒だ。

『ただ、それを言うのでしたら』

「何だマクスウェル」

『シュア。サメの体についている以上、あれはウミビルからの派生でしょう。ならばそもそも無数の草葉や樹木で生い茂る森林、山岳環境に不慣れなのでは?』

「具体的に」

『シュア。つまり紙の端で指を切るように、連中は身をくねらせるだけで柔らかい体表がズタズタになるのでは、と』

「……、」

 思わず下草に覆われた足元を見下ろしていた。

 ……この草自体が弱点? なら、水没した街にいる時と違って黙っていてもヤツらは勝手に弱っていくのか。そりゃまあ、どこまでいっても海産物なリヴァイアサン側が無理矢理陸に適応しようとしている時点で結構無茶しているんだろうけど。

「でもトゲ床ダメージで勝手に倒れるまで待っていられないぞ……」

 都市部と違って本調子じゃない、ってトコだけでも救いなのか。森や山が嫌いって事は、感染者の肉体を離れてヒルだけが独立して地面を這い回っている心配も少なそうだ。

 僕達はその辺に落ちていた長い枝を拾って、一歩先を小さくつつきながら先を目指す。感染者の肉体強度みたいなのが分からないから殴り合いには使いたくない。木々の陰や草の中に感染者が身を隠していないか、踏み込む前に確かめる程度のものでしかなかった。

 ゴォォン!! という大きな音がまた響く。

 まるで破滅の時をカウントダウンする鐘みたいだった。

 途中で身を屈めて草陰に潜り込む事で何度か人影をやり過ごしつつ、奥へと向かう。

「……あれだ」

 木々の隙間を通って背の高い草をかき分け、ようやっと開けた場所に出た。山の斜面に意図して古い造りを再現しましたって感じの木造の屋敷がある。

 駐車場や正面玄関の辺りにいくつかふらつく影があったけど、そんなに知性はないようだった。ルートから外れている間も何度かマクスウェルの指示で方角の修正を頼んでいたのに、あまり音や光へ機敏に反応する感じでもない。

 リヴァイアサンにとっても本道じゃないんだろう。言ってみれば頭についたシラミを使って攻撃しているようなものなんだから。吸血鬼のエリカ姉さんやゾンビのアユミと比べても、今回の感染者は明らかに見劣りする。

「……おっかないけど行くしかないか。火祭さん」

「分かってる。森に引き返したって感染者はうろついてるんだし、危険度はそう変わらないわ」

 流石に真正面から旅館の門へ近づく度胸はない。

 身を低くしたまま塀に沿って早歩きで進むも、裏口の方にもふらふらした感染者が待機していた。簡単な命令を受けて見張りをしているらしい。見つからない内にいったん引き返す。

 ただ、彼らが張っているのは点と点の出入り口だけだ。

 線全体、塀の高さは二メートルほど。

 下から火祭さんを押し上げれば乗り越えられない事もない。

「んんんーう……!!」

 上から火祭さんに引っ張り上げてもらうのはちょっと心配だったけど、こっちも何とかなった。

 敷地まで入ってしまえばハードルは下がる。感染者の具体的は総数は知らない。だけど無数の部屋に分かれた旅館は学校や病院と同じく、外に大量の窓を設けている。その一つ一つに全て見張りをつける訳にもいかないから、侵入経路はいくらでもあるのだ。

 外から見て回って感染者のいない窓を見極め、そっと近づく。鍵はかかっているだろうが、音を鳴らさずに割れば良い。前にマクスウェルから教わった方法だ。マイナスドライバー代わりの爪研ぎの軸を内鍵近くに突き刺した。数センチ離れた場所にもう一発。小さく三角形になった破片を取り除き、人差し指を通して内鍵を開ける。完全に空き巣の手口だった。益体もないけどちょっとドキドキする。

 真っ暗な日本家屋、その屋内は闇の濃度が違う。まして得体の知れない感染者がどこをうろついているか分からない訳だ。

「……マクスウェル、today's exitのドアはどこだ?」

『シュア。中庭に面した離れの入り口のドアです』

 また目立ちそうな場所だな。本館に入る必要があったのかもいまいち謎だけど、ぐるりと外を回るよりも中を横断した方が近いはずではあるか。

 屋内に入った事で、これまで以上に死角も多くなる。長い木の棒は必須だった。扉を開け、まず木の棒を奥まで差し出して、反応がないのを確認してから顔を出す。

 廊下の窓から再び外、中庭へ。

 横殴りの雨に叩かれながら、離れとやらを確認する。日本庭園のど真ん中に小さな小屋みたいなものがあった。客室っていうより茶会のためのスペースって感じだ。複数の池を渡す細い橋があり、本館と繋がっている。

 本来の順路を無視して、僕たちは身を低くしたまま小走りで離れに近づく。

 ゴドシャア……!! という爆音が遠くから響いてきたのはその時だった。おそらくは巨大ザメのダムへのアタック。だけど今までとは響きが違う、変に水っぽい。直感的にまずいと思った。おそらく放水口が砕かれ、ダムが決壊したのだ。

「火祭さん!!」

「ええ!!」

 もうなりふり構っていられなかった。あと何分でここまで水が上がってくるか予測がつかない。騒ぎを聞きつけてあちこちで窓が開き、破られ、そして何人もの感染者が本館から這い出てきた。一階だけでなく、二階、三階からもお構いなしに。何にしても捕まったら終わりだ。とにかく全力で離れを目指す。

 today's exit。

 オレンジ色に輝くデカデカとした出口が目に入る。膨大な水と人の手に追われながら、僕達は板張りの戸へ体ごと体当たりして……。


   2


「ぶはっ!!」

 現実に戻っても、しばらく起き上がれなかった。ほんの少し前だったら生還の喜びに震えていただろうけど、今回はそんな感覚もない。こっちの離れに誰もいないのは幸いだった。そんな風に良かった探しもままならない。

 分かってる。

 体に無茶をさせすぎた。今までの一回一回の大勝負と違って、チャージのタイミングを利用して連戦で来た。逆に言えばここからほぼ二四時間丸々安全になった訳だけど、油断できない。一度に多くの負荷をかけ過ぎたせいで、ボロボロになった体が回復する見込みがなさそうなんだ。

 スマホを見れば、まだ午前〇時五〇分だった。

 あれから一時間も経っていない。

 一秒が長過ぎる……!!

「帰ら、ないと」

 畳の上でもぞもぞしながら火祭さんがそんな風に言っていた。

「スマホ、なくしちゃったし、連絡つかない。タオリさんが心配しちゃう……」

 ……こんな状況でも日常のタイムテーブルが生きている事に、僕はむしろ感心してしまった。この人はスーパーのタイムセールがあればずぶ濡れのまま出かけてしまうのかもしれない。

 だけどその言い草で、ようやく僕の歯車も動き始めた。何をどうしたって現実の時間は非情に進んでいく。こっちの都合に合わせて止まったり戻ったりはしてくれない。それを否応なく教えてくれる言葉だった。

「帰ろう……」

 でもどこに?

 僕の家は義母さんの建売住宅なのか、母さんのマンションなのか。僕は僕の居場所さえ決められずにふらふらしているっていうのに。

「……帰るんだ、家に」

 ほとんど歩く死体だった。どこに行きたいのかも分からないまま、マクスウェルの案内に従ってセキュリティを潜り抜け、旅館の敷地外まで這いずり出る。これじゃ寄生生物に頭を蝕まれていた連中を笑っていられない。

 テレビなんかで行った事もない地方の村が映った時に、縁もゆかりもないのに懐かしいと思う時がある。あれと同じで、僕の頭を満たしているのは存在しない原風景なんじゃないだろうか。

 ちなみに、旅館の敷地から出たって山は山だった。ずぶ濡れの重たい体を引きずってぐねぐねの峠道を歩くだけでもかなり消耗するはずだ。あのリヴァイアサンめ、最後の最後までやってくれる。

「……一応、感染者は現実にも帰還しているかもしれません。暗がりに気をつけて」

「え、ええ」

 幸い、まばらな街灯に照らされた峠道でこれ以上不死者に襲われる事はなかった。途中でやたらライトアップしてボンボン音楽を鳴らしている車ともすれ違ったけど、山だっていうのに随分と磯臭いずぶ濡れの男女に構いたいとは思わなかったんだろう。峠を攻める欲求不満なヤンキー達もそっとしておいてくれた。

 たっぷり一時間以上かけて太股にしこたま乳酸を溜め込み、ようやっと山を降りる事ができた。時間は午前二時前。終電も過ぎてしまった。学生が街をうろついていて良い時間じゃない。

「マクスウェル、お巡りさんの巡回ルートと現在地を地図上にピックアップ。避けて通ろう」

『シュア。各教育機関のサーバーにもアクセスし、見回りの教職員の動きについても重ねて表示しましょう』

「……もう何でもありなのね、あなた達って」

 どこに帰るべきか。

 色々悩んだけど、結局ずるずると母さん、禍津タオリのマンションに向かうようになった。これについては同じ居候の火祭さんの存在は大きい。一人ぼっちだったらどっちにも行けずにコンテナ置き場で膝を抱えていたかもしれない。完全に受け身で甘えん坊の思考だった。家出っていうのは本来、自立や自活のためのアクションだっていうのに、かえって依存が高まっている。

「あら。ここ最近どうしたの、そんな格好で。阿佐美ちゃんが一緒なら心配ないとは思うけど」

 母さんは目を丸くしていたけど、深くは聞いてこなかった。優しい……んだろうか。ひょっとしたら脅えもあるのかも。今の僕達はひどく不安定な関係だから、余計な衝突をすると離れ離れになってしまうって。

 火祭さんに続いて僕もシャワーを浴びて、用意してもらった寝巻きに着替えた。客間の一つでぼんやりしながら考える。


 マイクロプラスチックには一定の効果があった。


 巨大ザメは寄生生物を介して人間を操る。この操られた人間は光る海のみならず現実にも存在する。


 電池やバッテリーに類するものがあれば、サメの狙いは一時的に逸らせる。


 ……収穫はこんなものか。特に電気については優先度が高い。コンビニで乾電池を適当に見繕うだけでも良いなら、命の残機を数百円で溜め込める計算になるんだし。よっぽど大量でない限り、現実の街並みで持っていても不自然に思われない点も大きなメリットだ。

 ただし、ヤツはサメそのものじゃなくて、サメの形をしたアークエネミーだ。知能に関しては人と同等かそれ以上って可能性もある。一度使った手は学習、克服されてしまうリスクもあるから過信はできない。けど、わざわざ今から切る理由はないはずだ。

「……何にしても、また明日か」

 もう日付はまたいでいるけど。

 情けない事に、命を使って稼いだ自由時間だって分かっていても、いったんベッドに寝転がってしまうと身動きが取れない。神経だけが昂ぶっているけど、体はボロボロみたいだった。

 どうやら、ここまでみたいだ……。


   3


「先輩」

 放課後、校門の前で待ち合わせ。

 夜明け前に今日の戦いは終えていたので、丸一日余裕があったんだ。当然、その間何もしてなかった訳じゃない。

 ちなみにお相手、天然のウェーブがかった金髪を肩のラインで切り揃えた小柄な少女の正体は、同じ学校の後輩の伊東ヘレンだった。

 アークエネミー・キルケの魔女。

『コロシアム』の新たな女王にして動物変身の薬を自在に操る後輩ちゃんにちょっと相談があって頼み込んだ。ぶっちゃけ、巨大ザメみたいなびっくり生物系なら、吸血鬼の姉さんやゾンビの妹より、こっちの魔女の方が強そうなんだよな。

 ……本当は誰も巻き込みたくなかったんだけど。いよいよ僕も追い詰められてきたって事か。

「水族館ってお話でしたけど」

「ああ、授業中にスマホで予約は取ってあるから、飼育員さんから専門的な話は聞ける」

 当然ながらサメについての、だ。

「ただ、専門的過ぎると僕の頭じゃ追い着かなくなるかもしれない。そういう時に噛み砕いてくれる役がほしいんだよ」

『ノー。ユーザー様が求める知識は全てこのシステムがご説明いたしますが』

「お前は僕が検索した情報しか出せないだろ。良くも悪くも鏡の奥を覗くようなもんだ。自分にない方向性は手に入らない」

 ちなみに火祭さんは違う意味でNG。素人の僕と以下略な火祭さんが同時に首を傾げるんじゃどうにもならない。そういう意味では、生物の専門家と話ができて、かつ、身近な高校生のトークもできる伊東ヘレンが『通訳』として一番好ましかった。

 と、何だか小柄な後輩は口元に手を当ててくすりと笑っていた。

「どうした?」

「いえ。先輩達は相変わらずなんだなあって」

 ちょっと真意の読めない答えだった。

 ともあれ。

 ここ最近お世話になりっ放しだが、行き先はまたしても湾岸観光区駅前繁華街だった。大量の海水を出し入れするなら、やはり水族館は海沿いの方が設備敷設が簡単なんだろう。

 外観は複数の巨大な立方体を組み合わせてあちこち壁や屋根が泡立つように盛り上がったというか、まあ現代アートっぽい感じ。どちらかというと年齢層高めのデートスポットを狙っているようで、館内に連なるレストランはお酒メインの小洒落た横文字の名前が多かった。近くにある動物園はファミリー向け、キャラクターグッズ推しなので、おそらく役所の方で住み分けをしているんだろう。

 当然かきいれ時は夜だ。アクリル板で遮られたチケットカウンターで暇そうにしているお姉さんに声を掛ける。

「電話で予約した天津です」

「はいはい」

 不思議そうに小首を傾げていたのは傍で見ていた伊東ヘレンだった。

「あれ先輩、チケットは買わなくて良いんですか」

「飼育員のレクチャー付きだし、特別料金だと思うよ。普通より安くなる事はないと思うけど」

 後からやってきた作業服のおじさんの案内で、僕達は水族館の正面入口から中に入る。

「田辺(たなべ)です」

「あ、えと、天津です。こっちは伊東」

 最初から電話で的は絞ってある。伊東ヘレンは順路にあるクラゲやイカの水槽を名残惜しそうに眺めているけど、今日はサメ以外は興味がない。後輩の手を掴み、早足で素通りさせてもらう。

「あっ」

 伊東ヘレンが何か小さな声を出したけど、彼女は俯いてそれ以上何も言わない。何だか耳が赤いような気もするが、今は先に進もう。

「あら」

「?」

 と、そんな僕達に声をかけてくる女の人がいた。長い艶やかな黒髪が特徴の、陰のある女性。パーカーにホットパンツなんて元気いっぱいな格好でも拭いきれないジメッとした感じ。ただ一体誰だ?

「なかなか薄情な反応ね、人魚の黒山ヒノキよ。覚えているでしょう?」

「あの全国放送のカメラとストロボの嵐の中でも全裸髪束で押し通した人魚が、普通に服を着ている、だと!?」

「……どうやら見所が狂っていたようね。何しているの」

 人魚の方こそ一人で何をしているのかも気になったけど、おそらく海産物が恋しくなる時もあるんだろう。吸血鬼の姉さんが何かと言うとコウモリグッズを集めたがるのと同じだ。ちなみにゾンビのアユミは肉が大好きで、スマホケースのストラップとかも骨つき肉やフライドチキンなんかの小さな食玩をつけてる。

 かくかくしかじか説明していると、

「サメのアークエネミーねえ。面白そうな話だわ」

「ついてくるのは構わないけど、こっちは伊東さんを連れてくるのでもう予算いっぱいだぞ」

「そこまで見くびらないでちょうだい」

 ぴしゃりと言われてしまった。

 ちなみにその伊東ヘレンはと言えば先ほどから黙りこくって人の手を強く握り返している。いてて、というかほんとに痛い!? この子こんなに力出たっけ。やっぱりアークエネミーだからか!?

 人が増えても作業服の田辺さんは気にしなかった。一人に説明するのも二人に説明するのも一緒って訳かな。なら何で料金が膨れ上がっていくのか釈然としないけど。

「サメの話でしたね」

「え、ええ。それもホオジロザメとか、獰猛な種類について」

「それなら表の水槽よりも、裏に回った方が良いでしょう」

 田辺さんはにこやかに微笑んで、

「水族館は裏手がかなり広い建物でしてね。表に出ている水槽よりも、お客様から見えない位置にある方が多くの水を蓄えているくらいなんです」

 田辺さんはそんな風にいう。

 水族館の詳しい構造は分からないけど、まあ裏方も大変そうだろう。魚の世話は毎日餌を投げ込んでいれば済む話じゃない。単純に浄水や濾過の他に、水槽を洗ったり、魚が病気になっていないか確かめたり、産卵や出産なんかの手配をしたり。とにかく何につけても奇麗な海水が必要なはずだ。

 こっちはどうして水槽の中の魚がケンカしたり弱肉強食で食べられたりしないのかだってピンときてないくらいなんだ。説明は全て彼に任せよう。

 飼育員さんの案内で壁際にあるスタッフオンリーの扉を潜り、打って変わって狭くて殺風景な通路へ。床も何だかぬるぬるしている。

「サメは見た目と違って臆病な生き物なんですよ」

「臆病?」

「臆病だからこそ、率先して目についた危険の除去に取り掛かるんです」

 なるほど。

 躾のできていない大型犬が誰彼構わず吼えたてるようなイメージが頭に浮かぶ。

「反面、危険を感じない程度のものには鈍感です。サメはコバンザメやウミビルなど寄生生物の宝庫ともされていますが、このためですね。もちろん長い周期では岩に体を擦り付けるなどで除去行動を取りますけど」

「……つまり、例えば赤ちゃんが溺れている場合は相手にしないのでしょうか」

 これが通るなら、弱者に擬態する事でサメの注意をかわせるかもしれないが、

「どうでしょう。海の生き物にとっては、そもそも人間が泳いでいる事自体が未知の現象ですから、脅えて攻撃してくる可能性は高いです。それに、根本的に捕食の対象、つまり純粋な餌として見られてしまえばそれまでですしね」

 やっぱりそう単純じゃないか。

 冷静に考えれば、全長三〇メートルの巨大ザメにとって僕達なんて弱者も弱者なんだろうし。

 他に聞いておきたいのは、

「水族館の方にこんな事をお聞きするのは、気を悪くされてしまうかもしれないんですけど」

「構いませんよ」

「ああいう大きなサメって、どうやってやっつけるんです? 水族館に持ってくるという事は、安全に、殺さず倒して運ぶ方法がある訳ですよね」

「そうですね。魚卵から養殖してしまう方法もありますが、捕獲の場合は基本的に網です。暴れて手に負えない場合は銛の先端に電極をつけた電気ショックを使って気絶させるみたいですけど。海の中は電気が伝わりやすいので、スタンガンの売り文句みたいな何百万ボルトとかではないようですよ」

 また電気か。

 つくづく光る海が停電状態なのが悔やまれる。そうじゃないと僕達も感電しそうだし、何より向こうにとって都合の良い世界なんだから当たり前かもしれないけど。

「ただ、電気ショックの効果は体重換算で決まってきますので、ええと……」

「とりあえず三〇メートルのホオジロザメと考えてください」

「一般ですと最大でも七、八メートルですから。もう本物の落雷でも直撃しない限り、気絶させるのは難しいかもしれません」

 また可能性が断たれた。

 ……のか?

 あの青い地獄は基本的に横殴りの雨が襲う嵐の中だ。言われてみれば落雷は目撃していないけど、何とかならないのかな。

 それこそ、ラスベガスで逆回りの人工ハリケーンを作り出したように。

「また、網を使って退路を断つ方法も難しいでしょう。体格と筋力は単純な比例関係ではなく二次関数的に増幅していきますから、そこまでの巨体になると漁船の方がひっくり返ってしまいます」

 こちらについては同感。何しろ小さなビルなら体当たりで破壊してしまうくらいなんだから。

 ……でも、網を体に絡めてしまう事なら何とかなりそうか。ヤツに手足はないんだから、取り外すのには難儀しそうだ。網一つでは何ともなくたって、何重にも絡めてしまえば尾びれや背びれを固めて身動きに支障を出せるかもしれない。

 後は、そうだな。

「サメは生き物が持っている電気を読み取って襲いかかってくる、という話を聞いた事があるんですけど」

「ええ。先ほども言いましたが、海水は電気を通しやすいですからね。深海の映像などを見れば分かると思いますが、水の透明度は完全なゼロではないので、一定以上の深さになると真っ暗になってしまうんです。なので海での狩りでは、あまり視覚は重視されません」

 田辺さんはさらに通路の奥へと進みながら、

「とはいえ、血の匂いとの併用になりますけどね。この生体電気については専門家でも意見が分かれていて、様々な憶測や伝説の元にもなっているんですよ」

「それはやっぱり電気に関する? 例えばその、先端から電気を飛ばすとか」

「あはは、流石にそこまでは。ただでも、どうだろう……。そもそもサメに限らずあらゆる生物は電気を持っていますから、あれだけ鋭敏な感覚で自分自身から漏出する生体電気をモニタリングすれば、筋肉の細かい動きを調整して特定のパルスくらいなら射出できるかも。ただスタンガンのようなものではなく、パルスや電気信号に近いものでしょうけどね」

「……、」

 でも、待てよ。

 電気ショックには使えない程度の、特定の規則性を持ったパルス。

 あらゆる生体が持つ電気を利用した特定の信号の発信。

 まさか。

 いやでも、それは突飛過ぎるか……?

「ダイブデバイス……」

「?」

 隣で伊東ヘレンが小首を傾げたが、説明するだけの具体性がない。

 でももしも、神経を流れるのと似た信号を水や湿気の中へ伝わせる方法があったとしたら。

 規格外の巨体を誇るリヴァイアサンは、超強力な電波塔とスパコンを備えた、ヴァーチャル施設の拠点みたいになっているんじゃないのか。

 もちろんそれだけだと、入った地点と出る地点が別々だったり、光る海で負った傷がそのまま現実に持ち込まれる事なんかは説明がつかないんだけど。

「ち、ちなみに。どこに向かっているん、です?」

 共に『コロシアム』を乗り越えた戦友の僕への口調と違って、やや人見知りっぽい感じで伊東ヘレンが田辺さんに声を掛ける。何かと言うと僕の背中に隠れがちだ。

「ええ、詳しい説明は実物を見ながらの方が良いかと思いまして」

 実際にホオジロザメでも見せてくれるのかと思っていた。

 だけど田辺さんが鉄の扉を開けると、そこには思いもよらないものが待ち構えていた。


 全長三〇メートルの巨大ザメ。

 リヴァイアサンそのものが、特別規格の水槽の中を悠々と揺蕩っていたんだ。


   4


「く……」

 見た瞬間に心臓が止まるかと思った。

 ヤツなら耐圧ガラスくらい体当たりで突き破れるはずだ。

「くそっ!!」

 叫び、思わず作業服の田辺さんの方を見ると、ぐじゅりという湿った音が響いた。目や口から溢れる柔らかいモノを見て、伊東ヘレンや黒山ヒノキが短い悲鳴を発する。

 リヴァイアサンは自分の体についた寄生生物を使って感染者を増やす。それは光る海のみならず、現実にも侵食している。

 ……分かっていた事だったのに、ちくしょう!!

 サメの器官を利用したパルスがダイブデバイスのように生体の脳に干渉して意識をバーチャルに突き落とすようなものなら、電波塔である巨大ザメだって現場入りしていなければならない。ヤツは戦場だけに潜む存在じゃなかったんだ!

「伊東さん! 黒山さ……!!」

 とにかく逃げようと、少女達に合図を送ろうとした時だった。

 それは来た。


『待て少年。私に敵対の意思はない』


 頭の後ろを殴られたような衝撃だった。

 体が。

 指一本。

 動かない。

 呼吸とか瞬きとか、普段意識していない動作は継続しているけど、それだけだ。まるで全身が石像になったように動かせない!?

 ……脳への干渉。

 さっきの太い『声』といい、こいつ、ここまで……!?

『曲がりなりにも七つの大罪の一つだぞ。この程度の曲芸で驚かれては逆に心外だ』

「……、」

『発言を許可する』

「ぶはっ!? それを信じろっていうのか。いつでも人を殺せる状況を維持しておきながら、無条件で信用しろって!?」

『肉体拘束については本意ではない。この方式で意思疎通をすると、付随して肉体全体を束縛してしまうというだけだ』

 何しろ言葉も文字も使わず、直接脳に電気信号を送りつけられている状態だ。自分の頭の中でどんな化学変化が起きているか分からないっていうのは、やけに心臓を締め付けてくる。

『そしていつでも人を殺せる状況、というのも私の意思でどうにかできるものでもない。私は武器も防具も身につけていない。ただ丸裸で君達の前に顔を出すだけで、すでに致命的な条件を整えてしまう。それだけなのだ。よって深い意味はない』

「なら田辺さんは? 他にも街の中にいるんだろう、感染者が! それも本意じゃないとか言い出すつもりか!?」

『だから、その辺りの意見の違いについて擦り合わせをしたいと言っているのだがな』

 リヴァイアサンに表情を作る機能はないようだが、頭に直接響く声からは憐憫に似た感情が込められているようだった。

 見下しやがって、くそ!!

『そもそも何の狙いもなく、こんな水槽に収まりたいと思うか。ここは湾岸部だ。条件的には海辺からパルスを放ってもあまり変わらん』

「っ」

 田辺さんは……動かない。

 僕達と同じように固まっている? 目や鼻から溢れ出した寄生生物まで……。

『これは広い海を捨てる事で武装解除して対話の席を設けたと受け取って欲しかったのだがね、リリスの子よ』

「何のためにだ……?」

『認識の誤りを正すために』

 リヴァイアサンはそう告げた。

『おかしいとは思わなかったのかね。私が人間を襲うために迷いの海を用意しているなら、どうしてtoday's exitなどという出口を毎回設ける? それ以前に、いくら人間が知恵を絞ったところで、海水に呑まれながらの戦いで脆弱な人がサメに勝てるとでも思っているのか』

「……、」

『確かに私には人を現実から切り離す力がある。このように。だが手段を持っている事が犯人の証明になるとは限らん。それは包丁を使った刺殺体が見つかったら包丁を持つ全ての家庭を処罰するのと同じ暴論だ」

「つまり」

 僕は身動きを固められ、生唾を飲む事もできないまま、

「つまり何だって言うんだ。お前は何が言いたい」

『私がやっていたのは迷いの海に出口を設け、可能な限りの人員をそちらに誘導するため、後ろから追い立てていただけ。言ってみれば、ゲームマスターが構築する仮初めの空間に外からサイバー攻撃を仕掛け、意図しない裏口を設けていた訳だ』

 まるで僕の声真似でもするように、そいつは確かにこう言ったんだ。


『つまり、迷いの海を作って君達を苦しめているのは私ではない。それは別にいる。まずはここを分かっていただけないだろうか』


   5


 信じられない。

 未だに信じられないけど、こいつの言っている事には一応の筋が通っている。

 そもそもリヴァイアサンが僕達を付け狙う理由も分かっていなかった。同じ七つの大罪の内、嫉妬のリヴァイアサンに対して怠惰に関わる魔王……つまり義母さんとの繋がりからちょっかいを出されているのかもって推測もあったけど、正直に言えば弱かった。

 いくら探しても理由が見つからない。

 それはつまり、リヴァイアサンにはそもそも戦う理由がなかったって話なのか?

『私は、というか、我々はリリスのやる事に興味がない。アブソリュートノアとかいう計画についてもな』

「何故? 七〇億人が関わるカラミティから逃げ出すための切符なんだろう」

『その七〇億人が暮らしているのは、この惑星にあるちっぽけな地表に過ぎん。元より深い海の底に住まう我々には、地べたで起きるカラミティなどどうでも良いのだ。最悪、氷河期に突入して地球全土が雪と氷に覆われようが、海底火山の近くにいれば光と熱には困らない』

 ……言われてみれば、そういう話になるのか。

『もっとも、方舟を使わずに生存者が出る事は、リリスの側からすれば由々しき事態らしいがな。汚染が残るとでも考えているのだろう』

 カラミティの具体的な正体は分からないけど、地上で疫病が蔓延したり巨大隕石が落下したりしても、確かに元から陽の光が入らない深海何千メートルの世界は揺るがないのかもしれない。

 人間にはそんな環境で一生を送る体がないだけで。

「我々って言ったな、今」

『魔王の一角として、海洋に棲息するアークエネミーをいくらか束ねさせてもらっている。そちらの人魚の同類などもな』

 リヴァイアサンの言葉に黒山ヒノキが反応を返さなかったのは、動きを封じられているからだ。きっと内心では大パニックになっている。

『元々はリリスの下部組織、暴走した光十字から身を守るために結束した寄り合い所帯だ。とはいえ我らの棲息域は基本的に人とは交わらぬため、大規模な抗争に発展する事はなかったが』

 その光十字はすでに壊滅している。リヴァイアサンの組織の存在理由もまた消えてしまったはずだ。

『そう、光十字の消滅と共に我らもまた安寧を得て組織を解体させる。それで良かったはずなのだ、本来ならな』

「?」

『目的と手段が入れ替わっていたのは、何も光十字だけではなかったという話だ。一部の者が解体を拒み、「戦いを続けるための敵」を求めて徘徊を始めている。手っ取り早く槍玉に挙げられたのが、光十字の上位組織アブソリュートノアを指揮するリリスとその周辺人物だ。特に君はリリスの子であり、乗船チケットを優遇されている身の上だ。ヤツらからすれば格好の的なのさ』

 居場所を守るための戦い。

 それだけ聞けば美談に聞こえるかもしれない。でもその話が本当なら、無意味な脅威論を振りかざす狂犬が群れをなしてその辺をうろついているようなものじゃないのか。

『供饗市全域を巻き込む結果になっているのはそれだけアブソリュートノアが街に深く根を張っているからだろうが、知らずにリリスを擁護している住人を、連中が敵視しているからというのもあるのだろう』

「……連中? 一体誰の事なんだ」

『少しは信じてみる気にはなれたかね、リリスの子よ』

「それはこっちで判断する。大体、お前が完全に白なら田辺さん達の寄生生物はどうなる」

『逆に聞くが、それらが具体的に私の体から分離された瞬間を君は見ているか? サメに限らず、一般に海洋生物とは君が考えるより無慈悲で獰猛にできている。浜辺に打ち上げられた水死体にはエビやカニなど、恐ろしい数の生き物が群がっているものだ。そして私はこうも言ったぞ。私は海洋に棲息するアークエネミーの一部を束ね、今、組織の解体に反対して闘争の継続を願う仲間達が離反している、といった事を』

 ……つまり寄生生物も巨大ザメには由来していない、って言いたいのか。

 正直、リヴァイアサンへの疑いが完全に晴れた訳じゃない。その話が本当だとしても、闘争の継続を求めて次の敵を探し回っているのは、当のリヴァイアサン本人の可能性だってあるんだから。

 慎重に見極める必要がある。

 そのためにも多くの情報を精査する必要だって。

「仮にそれが事実だったとして、アンタは一体誰の手綱を握り損ねたんだ」

『ああ、ようやく話がここまで進んだか』

 事故で電車が止まってしまって立ち往生、いつもは一〇分で着くお店まで一時間以上かかったような声色だった。

 そしてリヴァイアサンはこう言った。


『セイレーン、と言って何の事かは分かるかね』


 ……。

 ギリシャ神話に出てくる海の精霊で、マーメイドやローレライと同じく歌声で船乗りを惑わして船を沈めたり人を溺れさせる美女。ただし下半身が魚なのではなく、どっちかっていうと美しい羽の生えた、鳥っぽい属性だったような……?

『その顔を見るに、多少は覚えがあるようだな』

「サイレンの語源になった怪鳥だろ?」

『結構』

 リヴァイアサンは短く告げてから、

『そう、かの者は海のアークエネミーでありながらその本質に鳥が深く食い込んでいる個体だ。故に我々の一員でありながら、看過できぬのかもしれないな。……海の外の、残りわずかな世界の動向を』

 何となく、獣にも鳥にもなれなかったコウモリの話を思い出す。

「……それにしても、歌声で惑わすアークエネミー、か」

 チラリと目線だけを黒山ヒノキへ向ける。

 まさに彼女は絵本に出てくる人魚のアークエネミーなんだけど、こっちは大勢の人間を光る海に引きずり込むような力はない。何事も個性か。人間から見れば似ているようでも全然違う。

「セイレーンは寄生生物とは縁が薄かったはずだ」

『ヤツが中心にいるというだけで、一人きりで行動している訳ではない。周りに侍っているのはレモラだ』

「レモラ?」

『流石に期待しすぎたか。まあ既存の神話伝承に記載された存在ではないからな』

 リヴァイアサンはどこか鼻で笑うような色を声に載せて、

『プリニウスとかいう学者気取りが描いた百科事典の中に記述のあるアークエネミーだ。それは小魚のように小さく、背に吸盤がある海洋生物。だが一度船底に張り付かれたらどのような軍艦であっても動けなくなるという。またおかしな幻覚を乱舞させるとも言われているな』

 吸着に幻覚。

 むしろこっちの方が黒幕の条件に合致しそうではあるけど……。

『行動に必要なのは能力だけではない。むしろ理由だろう、レモラもまた船底に着く事で船員と関わるが、所詮は水の中だ。その点、自在に空を舞うセイレーンの方がより深い理由や執着を持っていても不思議ではない』

「何か心当たりが?」

『我々は対光十字を掲げたアークエネミーの寄り合い所帯だ。互いに深入りはしない。とはいえ反旗を翻した以上は何かがあるのだろう』

「じゃあ、田辺さんは……」

『今の私は一般公開されない学術研究枠を利用してここに収まっている。その動きを察知したセイレーン側が牽制のために飼育員を手駒に変えたのだろう。私からできるのは行動の抑制だけで、根本解決はままならない』

 なるほど。

 この話の真偽はさておいて、リヴァイアサンから情報は引き出せるだけ引き出せたとは思う。その上で、だ。

「で、僕に何をさせる気だ。わざわざインプットに大ボスが乗り出したって事は、操り人形みたいにどこかへ誘導したいって話だろ」

『元大ボスだがな。今の私はあくまで一アークエネミーに過ぎない。すでに組織は過去のものだよ。君が光十字を潰してくれた瞬間からな』

「……アンタも恨んでいるか? 世界に混乱をもたらした僕を」

『とんでもない。確かに光十字の消滅は我が対抗組織から存在意義を奪った。苦楽を共にした城を引き払うのは寂しいが、それは新たな門出だ。振り切ってでも前へ進むべきだと思う。言われてみれば礼がまだだったな。ありがとう、リリスの子よ。我らアークエネミーのために憤る心を持ってくれて』

 ……そんなに良いもんじゃない。

 喉まで出かかったけど、かろうじて呑み込んだ。伊東ヘレンや黒山ヒノキを助けた事実にまで唾を吐く訳にはいかない。

「つまり、そのセイレーンっていうのは抜け出す気がないのか。対抗勢力としてのピラミッド構造から」

『それどころか城の門を板や釘で塞いでコンタクトを拒絶し、内部の秩序を守るため外部の敵を求めて徘徊を始めている』

「だとすると、あれもアンタが作ったんじゃなくて……」

『セイレーンがレモラのために作った空間へ私が外から干渉していた』

 顔を出さないセイレーンがVR空間を作って、リヴァイアサンがサイバー攻撃でバックドアを埋め込んでいたようなもの、なのか?

『彼女達は一つの時代が終わった事に、早く気づかなくてはならない。それが私の願いなんだよ』

 どっちみち、僕には選択権はない。

 黒幕がリヴァイアサンだろうがセイレーンだろうが、どっちみち今日一日が終われば安全地帯は失われ、いつまた水たまりから光る海に引きずり込まれるか分かったものじゃなくなるんだ。

 こいつの話の真偽は、その時に確かめれば良い。

「……次に光る海で会っても、僕はお前から逃げるかもしれない」

『それで構わんよ。結果として君達の命が助かるなら』


   6


 水族館の出口にはお土産コーナーがあったので、可愛い後輩や本気出すと脱ぐ人と一緒に見て回る事に。

 伊東ヘレンは何か思い入れでもあるのか、クラゲの抱き枕の抱き心地を大中小で調べているようだった。でもって黒山ヒノキは人魚でつまり魚類なのにイルカの映像ディスクを眺めている。

 目覚まし時計やペンライトなんかも置いてある関係か、片隅には乾電池を並べたコーナーがあった。

 電池、バッテリー。

 巨大ザメのリヴァイアサンの矛先を狂わせられる、安価な命の残機。

「……、」

 三本一パック、ステンレスの細い棒に引っ掛けるようにしてディスプレイされている電池を手に取り、指先で弄び、しばし迷う。

 取るか取らないか、で悩んでいるって事は、僕はあいつの言葉をどこかで信じ始めているんだろうか。

 リヴァイアサンに敵意はない。

 他にセイレーンを軸とした別の黒幕がいる。

 ……落ち着け。

 あれはまだ一面的な意見を聞いただけだ。セイレーンとやらがいたとして、全く正反対にリヴァイアサンを糾弾し始めたらどうする。昨日今日の二連戦だってへとへとで、同じ事をもう一度乗り越えられるとは思えない。次にかち合えば敵は学習し、難易度は上がり、生還が難しくなる。仮にリヴァイアサンの言っている事が嘘なら、何の対策も取らずに今日を終えればもう光る海から帰ってこられなくなるかもしれない。

 なのに。

 僕は躊躇していた。

 乾電池、リヴァイアサンへの対抗手段を手に取る事を。

「先輩?」

 横からそんな声が聞こえてきた。伊東ヘレンだ。どうやら中サイズのクラゲまくらに決めたらしい。両手で抱えたまん丸で口元を隠しながら、彼女は上目遣いで尋ねてくる。

「また何か大変な事になっているみたいですけど」

「うん」

「私にできる事があれば、その、何でも相談に乗りますから……」

「私もな」

 ひゃっ、という短い悲鳴が上がる。真後ろから人魚の黒山ヒノキが人の後輩に抱きついたのだ。見ろ、言わんこっちゃない。伊東ヘレンはすっかり目をまん丸に見開き、肩を小さくしたまま固まっちゃってる。

「率直に聞くけど、そのトラブル、今からでも相席できるもの?」

「……、」

 黒髪の人魚の言葉に、再起動した魔女もまたやや期待するような目を向けてきた。ああ、こいつらならそう言うとは思った。僕自身が余計な事に首突っ込んで彼女達を助けてきたから、大きく出られないのが辛い。

 感謝はする。

 だけど首は横に振った。

「生憎と、招待制でチケットを握っているのは僕じゃない。何があったか説明するのはできるけど、『そのもの』についてくるのは多分難しいかな」

 そっか、と黒山ヒノキは残念そうに伊東ヘレンの首っ玉からするすると両腕を放していく。

「……でも、それ以外で何かサポートできる事がありましたら」

「うん、その時は」

 気持ちだけ受け取っておく、なんて薄情な言い回しはしない。確かに死闘は魔王の海で行われるけど、僕達は現実での目も気にしながら行動している。かつて僕がセコンドについていたのと同じで、舞台に上がるだけが助力とは限らないんだし。

 伊東ヘレンに黒山ヒノキ、かつての戦友達と別れて、母さんのタワーマンションまで戻る。

 ……戻る、か。

 微妙に言い回しを変えて『帰る』を避けた辺り、僕は本当に恩知らずな人間らしい。それでいてしっかり傘には入るんだからふてぶてしい。毎日顔を出してご飯をもらっているのに、首輪はついていないから野良猫ですと言い張るようなものだ。

「サトリちゃん、ご飯にしようか」

「うん」

 そういえば母さんはいつでも僕を待っていてくれるけど、どうやってこんなマンションを支えているんだろう。少なくとも会社勤めな感じはしない。

 そんな疑問には、一緒に夕飯を食べた居候の火祭さんが、母さんの見てない夜のベランダで教えてくれた。

「離婚の時の慰謝料が毎月振り込まれる他にも何かあるみたいなのよね。一人なのにファミリー向けをどかんと買っちゃうくらいだし、結構貯め込んでいるようだけど」

 ……安寧会静養病院時代の治験協力費とかだろう、きっと。母さんは母さんで対アークエネミー用に徹底的に人体を改造していたから、その身体は特許特許また特許の塊のはずだ。

「それにしても、離婚の慰謝料か」

「うん?」

「いや、思い切って家を飛び出したつもりだったけど、意外なトコで繋がりがあったって言いますか。僕が食べてたご飯の食費も、実はうちからいくらか出ていたと思うと世界は狭いなあって」

「親の影響なんて一〇〇年経っても抜け出せないわよ。だってあたし達はいくつになろうが母親のお腹から出てきた事実は変えられないんだし、育ててもらった義理も否定できない。だからそれが重苦しくなっちゃう時もあるんだけどさ」

 ……確かに。

 義母さん、天津ユリナのやっている事は容認しがたい。自分の身内を助けたいがために七〇億人の未来を切り捨てて安易な方舟の建造に着手してしまったあの人とは迎合できない。しちゃいけない。でもそれとは別に、義母さんが姉さんやアユミを連れてうちにやってきてくれたのは事実なんだ。新しい家庭、新しい笑顔、新しい毎日。それを与えてくれたのが義母さんだった。冗談抜きに、彼女達がいなければ僕は今でも暗い部屋で膝を抱えていたかもしれなかった。何年も何年も引きずって。

 本当に必要な事は何だろう。

 正義とか人情とかそういう話じゃない。正しい行いなんてクソ喰らえだ。僕はこの恩にどう報いれば良いんだろう。

 少なくとも、それはちっぽけな自尊心を守るために家を飛び出す事じゃない気がする。自立したふりをして何もかも大人達に預けっ放しなこんな状態を作る事なんかじゃあ……。

「……もう何時間かで、今日が終わるわね」

 手すりに寄りかかり、ベランダから平和に見える夜景を見下ろしながら火祭さんはそんな風に言った。

 最悪、日付変更と同時にそこらの水たまりにでも吸い込まれるかもしれない。次に会うのは巨大ザメのリヴァイアサンか、それとも顔も知らないセイレーンか。

 念のため先にお風呂には入っておいた。戦闘準備じゃなくて、今の内にたっぷりお湯を張った湯船に浸かっておきたかったからだ。こういう事も、すぐにまた至高の贅沢になる。安全なんてのは最も高い付加価値だ。宝石や絵画のプレミア感なんかとは比べ物にならない。つくづくそう思う。

 この問題にも決着をつけなくちゃならない。母さんに与えてもらって、義母さんに拾い上げてもらった命をギャンブルに突っ込んでスリルを楽しむようなやり口は、僕だっていい加減にうんざりだ。

 場当たり的にtoday's exitの扉を探して潜るだけじゃダメだって事。それって結局この家出と同じで、自分でやっているように見えて全部目上の人にお膳立てを済ませてもらっているに過ぎないんだから。

 本当に状況を動かしたいなら、庇護の外に出ろ。むき出しの身体で真実の世界を知れ。

 この騒動を終わらせる鍵はどこにある。

 光る海か。

 それとも、今いる現実か。

「……いつまで続くのかしら。こんな事」

「きっと、僕達の手で終わらせるまで」