第四章
1
「……、」
目覚まし時計の音に頭を叩かれる。
意外な事に、そのまま朝を迎えた。水没した戦場には行っていない。前日の内にお風呂に入り、その後はベッドから出なかったので、人の体を光る海に押し込むような大きな水がめに触れる機会がなかったせいか。
これまでの傾向を考えると、リヴァイアサンであれセイレーンであれ、その日のチケットはしっかり使い切るらしい。繰り越して一度にタメ撃ち、といった事もできないんだろう。なので油断はできない。今日中のどこか、日付をまたぐまでに必ず一回仕掛けてくるはずだ。何だったら前々回と同じく、寄生生物の感染者を使ってでも。
「おはようサトリちゃん」
「うん、おはよう」
母さんは朝食べない派らしいので朝食はない。もはやちょっと慣れた感じで台所の冷蔵庫を開けて、魚肉ソーセージを発掘する。火祭さんは普段どんな生態をしているのか全く謎だけど、僕には学校があるのでとりあえず制服に着替えてタワーマンションを出る。
表を歩いていると、ポケットに入れていたスマホがぶーぶー振動した。
『へれん>先輩、手はずの通りに』
短文系SNSのふきだしを眺め、僕はレスを返してから再びポケットにしまう。
いつもの通学路。
少なくとも、見るからに怪しげな感染者は徘徊していない。とはいえ水族館の田辺さんがあの有り様だったんだから、本格的に溶け込んでいる間は外から見ても分からないのかもしれないけど。
……それに、セイレーンとやらの影もない。
無事に学校まで辿り着くと、もう一回スマホが震えた。
『へれん>先輩の後をつけている人はいないようでしたよ』
「……ふむ」
伊東ヘレンには僕のちょっと後ろを歩いてもらって、尾行の有無を確かめてもらっていたんだけど。
「マクスウェル、上にドローンは飛んでいたか?」
『ノー。操縦用の電波などは検知しておりません。ある程度は自律したプログラム航行も可能ですが、誤差修正のため電波時計のように定時で電波の送受信を必要とするはずです。そうした痕跡も見当たりませんでした』
「衛星は?」
『未登録のゲリラ衛星などもありますから確約はできませんが、特には。気象衛星、軍事衛星、民間地形測量衛星など三九基がユーザー様の頭上を通過しておりますが、いずれも全体走査に過ぎず、特定の個人をクローズアップして追い駆けている様子はありません』
……何気にすごい事をしているんだけど、全部マクスウェル頼みなので僕本人に自慢できるものが何もないのが哀しい。
しかし本人は顔を出さず、カメラを利用している訳でもない、か。
下駄箱で上履きに履き替えていると、追いついた伊東ヘレンが直接話しかけてきた。
「結局どういう事なんです、先輩」
「それなんだけどさ……」
協力を求めた時点で詳しい事情も説明しているから、この子相手に遠慮する必要はない。
「リヴァイアサンの話が本当なら、セイレーンとかいうのが僕を付け狙っている事になる訳じゃない?」
「ええ、まあ……」
「だけどどうやって狙いを定めて攻撃してきてるのかなって。リヴァイアサンは現実に水族館の水槽に収まっていた。だからセイレーンもこの供饗市にいて、僕の事を暗殺者や狙撃手みたいに追い回しているのかなあって思ったんだけど」
「あてが外れてしまった、と。じゃあやっぱり、サメさんの言っていた事は嘘で、セイレーンなんていないんでしょうか」
「だったら話はシンプルで助かるんだけど、いまいち確証がないんだよなあ……」
『何かが見つかる』のは分かりやすい証明手段だけど、『何かが見つからない』は毒にも薬にもならない。セイレーンは本当にいないのか、たまたま席を外しているのか、このままじゃ判断がつかないからだ。
それにもう一つ、
「……あるいはセイレーンがいるとしたら、細かい狙いなんてつけなくても歌声一つで供饗市全域を丸呑みするっていうのか。だとしたら凶悪過ぎるぞ」
ぶっちゃけるとこれが一番の懸念だった。あのリヴァイアサンさえ『介入する』『横槍を入れる』という言葉を使っていたので、(セイレーンが本当にいるとすれば)その構築能力は七つの大罪以上って事になるのは予想がついていたんだけど……。
細かい条件は分からないけど、最悪、雨の日にいきなり数十万の人が光る海に突き落とされるかもしれない。一度に押し込める人数制限がなければそれができてしまう。
「仮にセイレーンが本当にいて、しかも実際には現実で煩雑な条件を並べないと光る海に標的を落とせない。そんな結果が出てくれればパーフェクトだったんだけどな」
絶えず僕を尾け回して位置情報を探りながら準備を進めて海に落とす。こういうパターンだったらその手順が終わる前にこちらから距離を詰める事でチェックメイトを決められた。それこそ防犯カメラの多い繁華街にでも誘い込んでから、マクスウェルの力をフル活用してしまえば、逆にセイレーンの居場所を炙り出して先手を打てたかもしれなかったのに。
相手が供饗市のどこにいても、いいや、街の外から直接広域を汚染できる場合は事情が変わってくる。本当にいるのかどうかも分からない幽霊みたいな存在に脅えながら、一方的に嬲り殺しの憂き目に遭う訳だ。
そう、これまでと同じように。
いっそリヴァイアサンのガセだと断言できれば気が楽なんだけど、そこまでの情報もない。今はセイレーンはいなかった。でも一分後がどうなのかまで証明してくれる訳じゃない。
学年の違う後輩ちゃんと別れていったん自分の教室に。
「サトリくん」
そして我らがデコメガネ委員長は朝っぱらから腰に両手を当てて仁王立ち、ほっぺたをふぐみたいに膨らませて大層ご立腹であった。ぶっちゃけ、風呂上がりに楽しみにしていたアイスを横から姉さんに盗られたアユミくらい分かりやすい。
「ちょっとここ来て。座って、正座。ナウ!!」
「クラスのど真ん中でかい!?」
なかなかに難易度の高いご命令ではあったが、クラスのみんなに差をつけるまたとない機会(ごほうび)。甘んじて美味しくいただく事にする。ふふふ手を出すなよ他の男子と一部の百合、こんな委員長についていけるのは僕だけだーっ!!
「サトリくんの家から鬱々としたオーラがすごいんだけど。家の前黒猫だらけで屋根はカラスとコウモリばっかりになってる」
「……冗談じゃなくてほんとに義母さんか姉さんが呼び寄せていそうだな……」
「あなたが呑気に家出なんかしているからでしょう!? 大体家出って! きちんと衝突する勇気もなく自活する覚悟もなくふらふらしてるだけ。それでボクチン格好良いとか本気で考えてるの!?」
ぶっ、ぶぐふう……!?
調子こくんじゃなかった、流石は委員長だ。この僕が数日間の命を懸けた実体験の果てに悟った答えをものの十数秒で圧縮して叩きつけてくるとは!! あなたはどうしようもない悪臭まみれの馬鹿ですって惚れた女の子からデコに特大のハンコを捺されるこの気分はどうだ!? ぶっちゃけ頭がぐらぐらしてもう吐きそう……!!
「はっ、はきゅふう、はふー、はふー」
「過呼吸気味になってもダメ。まだ許さない。だってユリナのおばさんマジ泣きしてるの私見たんだから。台所の勝手口から裏に回った所で、一人で崩れ落ちてこっそり泣いてるのお隣の窓から見ちゃったんだから。あなたにどんな正義があろうが、何を抱えていようが、世界の仕組みがどうあったってサトリくんの鼻っ柱はここで完全にへし折る。分かったサトリくん? それじゃあ行くよ」
あああああ。
こりゃもうダメだ。そんな何かを背負ってしまった委員長には誰にも敵わないのだ。そもそも委員長が委員長と呼ばれるようになった所以はきちんと存在しているんだから。
「別に家族でケンカをするのは良い。人間なんだから意見が食い違ったり譲れなくなったりするのも当然。だけどサトリくん、どうしてあなたは対話をしないで黙って立ち去ってしまったの!? それは相手から可能性を奪い、見限り、蓋をしてしまう行為に他ならないって気づかなかったの!? そんな訳ない。サトリくん、あなたなら分かるはずだものね。他ならないあなただけはそれがどれだけ辛い仕打ちか分からないといけないものね!!」
委員長は見ている。
僕の家の事情を、あるいは当事者だった僕達の誰よりも冷静に。だからこそ、その言葉は刺さる。断片の集合で、クラスの他の誰にも分からなくても。僕の胸にだけは、これ以上ないくらい刺さる。
ある家庭の終わりは、母さんが家を出て行った事で終止符が打たれた。
実際にはその決断にも色んな想いがあったんだけど、でもあそこで一度終わってしまった。僕達はバラバラになった。
委員長はそれを見ていたんだ。
全てを失って壊れた人形みたいに転がる僕を見ていたんだ。
だから怒っている。
本気でなりふり構わず怒っている。
その痛みを知る者が、その痛みを押し付ける側に回るのかと。それも家族と決めた者に対して一方的に。
拝聴するしかなかった。
異議なんか唱えられるか。ただただ正座で耳に入れる以外に何ができる。
「甘えるな、誰かが何とかしてくれるなんて考えるな!! サトリくん、あなたは誰もが当たり前のように永遠に続いていくと信じているものが簡単に音を立てて崩れていくのを知っているはずよ。だったら甘えるな!! たった一つの選択の誤りが何をもたらすか、それを常に考えながら一生懸命生きるの。あなたにできるのはそれだけでしょう!?」
いっそぶん殴って欲しかった。
そっちの方がはるかに気が楽だった。
だけど委員長は僕の瞳を覗き込むだけで理解したんだろう、鼻から息を吐いてこう断言した。
「ダメよ。それをするのは私じゃないわ。だから自分の手で決着をつけてきなさい、サトリくん!!」
2
しかしまあ教室のみんなにとっては訳が分からなかっただろう。僕だって誰でも彼でも家の事情に踏み込んでほしくはないから、これくらいでちょうど良いんだけど。
当然あれこれ憶測は飛び交っただろうけど、最終的には、
『まあ、天津とイインチョは大体いつもあんな感じだし』
『あいつなんか小学校の頃から叱られっ放しだったよな?』
で丸く収まってくれたようで何よりだ。
そして放課後。
全てがオレンジ色に染まる時間帯。
「……、」
「なに、私がついていった方が良い?」
未だご立腹な委員長と別れて、僕はその家を見上げていた。幼馴染みの委員長宅のお隣さん。
つまり、僕の家を。
……まいったな。確かにそりゃそうなんだけど、こっちも覚悟が決まっている訳じゃない。大体、急にいなくなったら今度はタワーマンションで待っている母さんや火祭さんに心配をかけてしまいそうだ。
インターフォンは……流石に押す必要はないか。曜日を考えるとパートのレジ打ちとかママ会とかもないだろう。義母さん、天津ユリナはいる。家電に一本連絡を入れて確かめるまでもない。
本当に委員長は見ている。
こうまでされたら顔を合わせるしかないじゃないか。
「……た、ただいまー」
恐る恐る玄関のノブを回し、そんな声を出した。
そしてうっすらと開いたドアの向こうから、猛烈な違和感が噴き出してきた。
……何だ、この匂い?
鉄錆臭い、とも違う。何かが腐ったような……いや、そうでもない。少なくとも真っ当な家の中から漂ってくるものじゃない。
「義母、さん?」
引き返すべきだったのかもしれない。
だけど僕は思わず中へ、ゆっくりと踏み込んでいた。形のない得体の知れない何かが自分のテリトリーをじわりと侵食していく。そんな場面に出くわしたような気分だった。
母さん、禍津タオリのタワーマンションに比べれば随分こぢんまりとした、だけどどこにいても寂しさを覚えない満たされた家。
その廊下は夕暮れのオレンジに染まっていた。
何か塊のようなものが床にあった。
「……、」
ようやく。
ここまで来て、思い当たるものがあった。この匂い。侵食の象徴。普通の家ならありえない不快な臭気。その正体が。
磯の匂いだ。
岩場に溜まったまま腐っていった海水の匂いだったんだ。
「義母さん!!」
廊下の真ん中にあった塊の正体もすぐにピントが合った。天津ユリナ。頭の後ろで縛った長い髪も、ぴちぴちのブラウスやジーンズも、何もかも禍々しい海水でずぶ濡れになった僕の家族だった。ほとんど四つん這いに近い状態でうずくまって、お腹を押さえたまま震えていたんだ。
だけど思わず駆け寄ろうとする僕に、義母さんは離れた位置からふらつく手を動かし、掌をこっちにかざした。
ぬるりと。
赤黒い液体で濡れた手で、こっちに来るなと。
「……サトリ、『片道切符』は使い切った?」
「?」
「まだなら、近づいちゃダメ。水たまりを踏めば、向こうに引きずり込まれる……」
どういう事だ?
決まっているだろう! 馬鹿が!!
リヴァイアサンだかセイレーンだか知らないけど、ヤツらが戦場に引き込める人数は一人きりじゃない。僕と火祭さんが一緒に逃げ回っていた事からも明らかじゃないか。
僕達だけじゃなかった。
自分だけ躍起になって助かろうとしていた裏で、他にも巻き込まれていた人がいた。僕が家出している間にも、その人は電話越しに心配して相談に乗ってくれた。
考えてみれば当然だ。
黒幕にとって一番関心の高い人物はアークエネミー・リリスだ。僕を巻き込んで人質に取る他にも、彼女を直接光る海へ突き落とすリスクだってあるはずじゃないか!
「でも、何でこんな……。そうだ、義母さんはリリスとかいう特大の魔王で、並の吸血鬼とかゾンビとか、普通のアークエネミーくらい簡単にひねっちゃうって話じゃ……」
「は、はは。買いかぶりよ。廃病院で怖い目に遭わせ過ぎちゃったかしら。実際には相性や条件で色々変わってくるの」
義母さんはうずくまったまま、無理して笑みの形を作ってくれた。僕がパニックを起こして駆け寄り、水たまりを踏んでしまうのを避けるために。
「それにしても……サトリの『片道切符』がまだだったら、ただの行き違いかあ。あんなに粘らずさっさと帰還すべきだったわね。単純に戦略ミスだわ、たはは」
「……、」
何だ、それ。
つまり何か。義母さんは自分一人なら切り抜けられたのか。なのにいるかどうかも分からない僕を捜すため、あんな危険がいっぱいの水没した戦場に延々と居残り続けた。巨大ザメ、セイレーン、寄生生物、感染者、そんなのがうじゃうじゃいる中、孤立無援の四面楚歌で、だけど自分の身の危険を顧みずにひたすら僕の名前を呼び続けて。それで、それでこんな目に……!?
なんて。
なんて馬鹿なんだ! 僕は!?
何が家出だ、顔を合わせ辛いだ。それでも事前に定時で連絡を入れるよう取り決めをしておけば、僕の身の回りで異変が起きているかどうか義母さんに伝わる仕組みを作っておけば、こんな無用な探索なんかさせずに済んだかもしれなかったのに!!
委員長の言葉が刺さる。
僕達にとって家族は絶対じゃない。一度バラバラに砕け散るところを見ている。だからたった一回の選択の誤りが何を招くのか考えて生きていくしかない。互いを尊重し合って。全くその通りだった。
自分の子供が不規則に死地へ投げ込まれていると知って、平気な顔をしていられる親なんているか。何としても飛び込むに決まっている。それとは逆に、自分が死地にいると知った親が子供にそれを知らせるか。子供まで死地に誘うと分かっていながら。内緒にするに決まっているだろう!
僕はマクスウェルなんて大層な演算機器を作っておいて、こんな簡単な事さえ予測できなかったのか!?
「ダメよ、サトリ……」
うずくまったまま、腐った海水と血の匂いを振り撒く義母さんは必死に言葉を紡ぐ。
僕はそんな義母さんに駆け寄る事も、お腹の傷口を手で押さえてやる事さえできない。
水が。
巨大ザメだかセイレーンだかの大顎が、邪魔してやがる……!!
「……激情に飲まれてはダメ。あなたは光十字とは違うやり方で人とアークエネミーを結びつけるって決めたでしょう?」
「っ」
「それなら、ダメ。あなたの胸で渦巻いているものに身を任せてはダメ。その先にあるのは、懲罰感情で埋め尽くされた光十字と全く同じ血まみれの道でしかないんだから……」
「でも……っ」
見過ごせっていうのか。
義母さんの血を礎にして、乗り越えろって。それが正しい事なんだって。そう言うのか。
だけど僕は正しい事がしたい訳じゃなかったんだ! ただ泣かされる人を放っておけなかった、血を見るのが嫌だった!! 姉さんやアユミを守りたかった、魔女の伊東ヘレンやダークエルフの村松ユキエ達の側に立って光十字の横暴を食い止めたかった。それだけだったんだ。それだけだったはずなのに、どうしてこうなる!? 僕はこんな所に縛られて、義母さんをこうした黒幕を野放しにしなくちゃいけないんだよお!!
「……同じなのよ……」
義母さん、天津ユリナは震える声でそう言った。おそらく単純な痛みじゃない。自分の傷が息子の夢を奪い取ろうとしている。その事実に震えてくれているんだ。
「光十字の背中を押していた狂気の出処も、そんなものだったのよ」
……僕はどうすれば良い?
リヴァイアサンなりセイレーンなりがこれで止まるとは思えない。次は姉さんかアユミか、それとも委員長か。伊東ヘレンや黒山ヒノキは何故無事だと太鼓判を押している? 向こうは指先一つで指定すれば誰だって登録して光る海に引きずり込めるアークエネミーだっていうのに。巨大ザメ、セイレーン、寄生生物、感染者。そんなので満たされた水没した戦場へと。
対話か。
闘争か。
いずれにしても……。
「……、義母さん。大魔王だろうが何だろうが、普通の病院でも大丈夫なんだよね? 風邪引いた時とかに頼ってるし」
「サトリ……?」
「マクスウェル、ひとまず救急車を。ヤツは選んだ人間しか引きずり込めない。救急隊員は多分大丈夫だ」
義母さんは死地から今帰ってきたところなんだろう。全身はずぶ濡れで、廊下にはうずくまった彼女を中心に海水と血の混じり合った水たまりが広がっていた。
入り口は、ある。
僕はまだ『片道切符』が残っている。ここを潜れば黒幕が待っている。誰であれ、人の親をこんなにしたクソ野郎が!!
「だめっ、サトリ!!」
義母さんの言葉も最後まで聞かなかった。
大きく一歩。
僕は生まれて初めて、自分から地獄の戦場へと踏み込んだ。
3
光る海の濁流は普段の地上を基準にすると、平均して深さ一五メートル。背の低い建売住宅が並ぶ平べったい住宅街なんかまとめて屋根まで水没してしまう。まして屋内からのスタートなら、もうそこは迷宮に近い。
「……、」
だけどいきなり引きずり込まれるのと、自分から飛び込むのじゃ勝手が違う。ロスがない。僕は泳いで廊下からリビングを抜け、すでに水圧で砕かれていたガラス戸から庭へ出る。後は酸素を求めて真上に向かえば良い。
間に合うか。
間に合わせるとも。
酸欠なんかよりも、むしろ潜水装備もなく水深一〇メートル以上を短時間で浮上すると潜水病なんかが怖いくらいだ。
「ぶはっ!!」
波打つ濁流に顔を出す。相変わらずの横殴りの雨。水自体は青くぬめった光を放っているはずだけど、分厚い雲に空を覆われているとはいえ、今はまだ日没前だ。明るくなった映画館のスクリーンみたいに、夜光塗料じみた光は拭い去られていた。
流れに逆らっても意味はない。とりあえず浮かぶ事だけ意識して流されるままに身を任せながら、防水のスマホを取り出す。
「マクスウェル、現況の確認」
『シュア。today's exitに指定されたドアの位置は不明。ヒントとなるべき情報もありません』
水没したここでは大停電が起きているため、防犯カメラなんかの恩恵は得られない。マクスウェルにとっての視界はほぼこのスマホレンズが全てだ。
つまり僕が見ていないものはマクスウェルも見ていない。庭に繋がるルートは水圧でガラスが砕けていたし、他に窓や鏡に類するものはなかったからな。
『ただし負傷した天津ユリナ夫人が自宅屋内にいた事、水たまりが外から中に這いずる格好になっていなかった事を考えると、案外近場なのかもしれません。そう、例えば天津家の内部にあるドアの一つとか』
その話が本当なら、僕は濁流に呑まれてみすみす出口から遠ざかっている事になる。だけど恐怖はなかった。むしろ自分の目的を果たすまで、もう戦場から出るつもりもない。
とりあえずは巨大な湖のように陸らしい陸が何もない住宅街からどうやって行動の取っ掛かりを得るか、だ。リヴァイアサンであれセイレーンであれ、あのアークエネミー・リリスを負傷させ身動き取れなくさせるくらい凶暴な相手なんだ。いつまでものんびりはできない。
その時だった。
「……?」
濁流の真下で、何か巨大な……それこそちょっとした潜水艦くらいの影が揺らいだ。
間にいる僕を巻き込み、その背に乗せるように、その何かは濁流を割って顔を出す。
リヴァイアサン!?
『発言するが構わんな?』
脳に直接声が響いた途端、水族館に続いてまたも僕の身体が動きを止めた。
『今までは動きが止まった途端に海へ落ちて溺れる可能性も考慮して控えてきたが、正直見ていられん。こちらの方がまだリスクは少ないだろう』
くそ、指先まで……。攻撃の意思がなくてもこれか!?
激しい風や濁流の中でも大したものだった。下手なビルの屋上よりも安定しているかもしれない。
『セイレーンを捜すのは得策ではない。私自身、あちらこちらを回っているが尻尾を掴めずにいるからな』
ああそうかい。
だけど今はそれよりもっと知りたい事がある。
『発言を許可する』
「……お前は知っていたのか」
『何を?』
「義母さん、天津ユリナが僕を捜して何度もこのくそったれの海に足を踏み入れていた事をだ! 知っていて水族館では隠していたのか!?」
『当たり前だ。そもそも誰の頼みで君を出口に追い立てていたと思っている。まあ、リリスに頭を下げられずとも元々行ってきた事ではあったがな』
またしても。
ここにも義母さんが出てくるか。知らないのは僕だけで、勝手に飛び出していったバカ息子を守るために身を削って……!!
『悔やむな少年、親の心とはそういうものだ。むしろ子への計らいを逐一伝え聞かせる親など恩着せがましくて敵わんだろう』
「僕はお前まで信じている訳じゃないぞ」
『それもまた道理だ。私も君達の家族の絆に割って入るつもりは毛頭ない。旧知のリリスと交わした約束さえ守れれば』
……僕は義母さんと電話で相談していた。
あの時は七つの大罪の頂点を担う者同士の対立かもしれないなんて話も出ていたけど、どこまで真実だったんだろう。
こいつの話が正しければ、最初にタワーマンションのお風呂場で騒ぎに巻き込まれた時、すでにリヴァイアサンは僕を出口に追い立てるために行動していた事になる。義母さん、天津ユリナに頭を下げられて、だ。
挑めば挑むほど、自分の小ささ醜さを思い知らされるような話だった。リリスにしてもリヴァイアサンにしても、やっぱりそれだけスケールが違うって訳か。
『してどうする?』
金縛り状態のまま問答無用でドアまで連れて行って強制送還という訳ではないようだった。親の気持ちは把握しているが、子の自由も保障してくれるらしい。できた教育者かこの魔王は。
「どこか適当なビル群で降ろしてくれ。いつまでもアンタの世話にはなれない」
『多少はまともな顔つきになってきたようだが、先も言った通りセイレーンは容易に見つからんぞ』
「確かに」
調べようにも調べ尽くせない。そもそも僕達にはこのフィールドがどこまで広がっているかも正確には把握できていないんだから。この供饗市全域か、地球丸ごと全部か、宇宙にまで手を伸ばしているか。しらみ潰しについては、それによって難度がかなり変わってくる。
一方で僕はセイレーンがいるなら近くだとも考えていた。おそらくこの街のどこか。地球の裏側から直接僕を襲えるようなら、もっとやりようがあったはずだ。
そう考えると、
「まだ調べていない所がある」
『具体的にどこだ』
「なあ。セイレーンっていうのはマーメイドやローレライみたいに美しい顔と歌声で船員を惑わして船を沈めるアークエネミーなんだろ。でも一方で下半身が魚なんじゃなくて、大きな翼を持った個体だ。海鳥からの連想なんだな。だとすると、海の王じゃ調べきれなくても無理はない」
言いながら指でも天に向けてやりたかったけど、生憎と口以外は指一本動かせなかった。
だから言葉で告げた。
「大空。それも一面の分厚い雨雲より高い位置を飛んでいれば、地べたからどれだけ見上げたって見つかるはずないだろ」
4
現実とは勝手が違うのだ。
普通ならセイレーンが雲の上を飛んでいたって、レーダーや衛星があれば位置は捕捉されてしまう。今は地デジ電波を使った降水レーダーなんかもあるみたいだし。だけど青い戦場じゃ濁流と大停電で通信インフラも壊れているため、そうした設備の出番もない。
地上からの見た目さえ誤魔化せれば、真実はねじ曲げられる。
雲の高さも種類によって違ってくるんだろうけど、二〇〇〇から三〇〇〇メートルくらいと見て良い。雲にも重さがあって、こんな土砂降りにお似合いの、たっぷり水分を溜め込んだ分厚い雨雲は下に降りてくる傾向が高いからだ。とはいえ本気で目指すならヘリや飛行機が必要になるけど、平べったい空港は水没しているだろうし、使えたとしても専門的過ぎて手に負えない。供饗市には海も山もあるけど、やはり悠々と雲を突き抜けるような派手な高峰はなかったはずだ。
だけど使える手はそれだけじゃない。
ここは光る海だ。
現実とは勝手が違う。そっちがその気なら僕だってやらせてもらう。白黒はっきりつけよう。セイレーンがいるなら叩き落とすし、いないと証明されたらリヴァイアサンが敵だって事になる。
「そこで良い、降ろしてくれ」
『しかし』
「身体の自由を返せよ」
リヴァイアサンの声が途切れた。同時に僕の手足が自分の考えで動かせるようになる。ヤツの巨体はこの風や波の中でもしっかり安定しているので、さしたる苦労もなかった。
巨大ザメの背から水没しかかった建設途中のビルの途中階へと足場を移していく。
僕は最後にこれだけ言った。
「アンタが敵じゃない事を祈ってる」
すでに接続は断たれているので返事はなかった。僕はビルからビルへ、リヴァイアサンは濁流の奥へ、それぞれの道を行く。
防水のスマホがSNSのふきだしで語りかけてきた。
『どうするのですか?』
「具体的な指示はこれから出す。雲の向こうにセイレーンがいるなら炙り出して叩き落としてやる」
『ノー。そういう意味での問いかけではありません』
「……、」
知らないよ、自分が何をやりたいかなんて。
個人の動機を満たす正当な理由があればアークエネミーを私刑にかけても構わない。これじゃ義母さんの言う通り、丸っきりこの街の地下に眠っていた光十字の闇と変わらない。
かといって、アークエネミーに何をされても無条件服従だなんて、そんな事を望んだつもりもない。
平等でいたかったんだ。
みんなで笑い合っていたかったんだ。
それだけだったのに、どうして。
「……とにかくセイレーンが本当にいるなら、直接顔を合わせる。話をするにも、ヤツだけ高みの見物じゃあいつまで経っても何も解決しない」
『シュア』
さて、それじゃ具体的な方法に移ろう。
最低でも上空二、三〇〇〇メートル以上の高さを飛び続けるアークエネミー・セイレーンを落とすにはどうすれば良いか。
僕には雲の上に上がる手段はないし、高射砲や地対空ミサイルを何万発も乱射して弾幕を張れる訳じゃない。
だけどここで諦められるか。
答えなんてどこにでも転がっているんだ。
「マクスウェル、供饗市の災害環境シミュレーションマップの中から可燃ガスの配備状況をチェック。地下配管網で整備された都市ガスじゃなくてプロパンのボンベを使っている家庭やお店を特にチェック。ダメならディスカウントストアやホームセンター。威力は劣るけど、携帯コンロ用の小型ボンベでも数を揃えれば武器になる」
『分厚い金属管でも使った極悪なペットボトルロケットでも作る気ですか?』
そんな事ができたらさぞかし面白そうだけど、多分命中率を維持できない。対空戦闘で一番大切なのは威力や飛距離じゃなくて、まず照準だ。レーダーや赤外線と連動して細かく動く誘導尾翼を用意できない場合は、こうするしかない。
点ではなく面を埋め尽くす。
上空に今もヤツがいると仮定して、街のどこを飛んでいても被弾するように、あらゆる隙間を埋め尽くす。針の一つも許さず、だ。
「片っ端から爆破するぞ、街の全てを」
僕は言った。
感覚的にはシミュレータと似たり寄ったり、どうせ現実には反映しない光る海での街並みだ。破壊に躊躇する必要はない。姉さんとのケンカの思い出も手伝って、うねる水の怖さにもそろそろ慣れてきた。
「その上で不完全燃焼を誘発して、大量の黒煙を空一面に送りつけてやるんだ。これだけ濁流があれば湿った可燃物……紙や木なんて腐るほどあるだろうしな」
『シュア。つまり化学戦ですね』
ここはヤツらが用意してくれた光る海。現実でのルールを先に無視したのは向こうだ。自分で作ったメリットがそっくりそのままデメリットにひっくり返る瞬間を味わうと良い。
「さあて、炎の熱が生み出す上昇気流に舞い上げられた一酸化炭素で満たされた黒い空で、ヤツはどれだけ足掻けるかな」
5
特に気を配る必要はなかった。
灰色のプロパンガスタンクを見つけるたびにホースにちょっと細工をして、数十秒の時間差を空けて爆発するように仕向ける。今は消防隊がいないから、いったん火が回ってしまえばビルが丸ごと燃え上がるまで邪魔は入らない。横殴りの雨も押し寄せる濁流も、水面から突き出たビル構造体の火を消すには至らないのだ。
そして多数の建材が絡み合ってできた巨大なビルは、一棟燃え広がるだけで大量の黒煙を大空へばら撒いていく。猛烈な突風の中でも決して消える事なく、薄く薄く広がり流されながら。
僕は自分が炎や煙に巻かれる前に次のビルへと飛び移り、
「マクスウェル、このビルもやろう。中に人がいないかチェックするぞ」
『シュア、カメラやマイクで拾ったデータから気象条件を計算。一酸化炭素の分布予想を更新します』
あらかじめプロパンガスタンクのない建物には、火炎瓶代わりの小型ボンベを投げ込んで着火する。人さえいなければ躊躇する必要はない。電波塔だろうが市議会だろうがみんな焼き尽くしてやる。
『次、六棟目です』
「これが終わったらゴムボートで他のブロックに移動しよう。街全体を黒煙で包み込むんだ」
巨大ザメの猛威がない場合、恐ろしいのはウミビルに似た寄生生物レモラとその感染者だ。リヴァイアサンの話が正しければ、義母さんがやられたのはおそらくこっちだろう。感染者の歯や爪にやられたのか、あるいは体内に潜り込んできた寄生生物レモラを無理矢理引きずり出して駆除したのか。
だけどヤツらには数の暴力がある代わり、巨大ザメのような速度はない。濁流の上を時速一〇〇キロ近くで突っ走るモーターゴムボートがあれば振り切ってしまえる。
「どうせなら派手にやろう」
『シュア。この先は中央金融区ビジネス街、選り取り見取りです』
「ああ、いつでもご予約で満席ですとか言ってハナから客を入れるつもりもない小洒落たレストランとか大嫌いだったんだ!」
さらにいくつかのブロックを回って、次々に火を放っていく。
思えば、黒幕からの攻撃が激化したのは三、四日目の『日付をまたいで二連戦』だった。ではその直前、二日目には何があったか。いちいちマクスウェルに確認を取るまでもない、コンビナートでリヴァイアサンが暴れて大火災を起こしていたんだ。
あれがきっかけで激化したのなら、やっぱり効いてる。黒幕はこの街で大火災を起こして欲しくなかったんだ。
しかしトドメを刺すなら、あれより大規模な火災にしなければならない。一点のコンビナート火災程度では黒幕は天から落ちない事は証明されている。
だから数で押す。
一つで足りなければいくらでも積み重ねる。
『大気中の一酸化炭素の濃度が上昇しています。風向きに気をつけてください』
黒煙は下から上に向かう。炎が生み出す上昇気流に乗った一酸化炭素も。横殴りの雨風にさらされて大きく広がるから、上空に向かうにつれて隙間はなくなるはずだ。複数の火元から流れ出る黒煙は絵の具を厚塗りしていくようにその濃さを増していき、やがて上空一帯に呼吸不可能な死の領域を作り上げていく。
下にいてもひどい有り様だけど、上はもっと地獄だろう。
『計算が正しければ、上空は危険域に入りました』
「……そろそろか」
セイレーンはアークエネミー、不死者だ。極低温貧酸素の大空をホームにしている事からも、僕達人間なんかよりはるかに頑丈にできているんだろう。
だけどお前は無敵の存在じゃない。
リヴァイアサンは言っていた。セイレーンは海の所属でありながら空に生きる個体だと。つまり純粋な意味での水中生活ができない。銀の弾丸や聖別した騎士の剣が通じるかは知らない。だけど少なくとも、お前はレベルに違いこそあっても、人間と同じように空気を奪われれば『窒息』するって事を明かしてしまったんだ。
だから落ちてこい。
落ちて証明しろ、この黒く汚れた天空から。
お前がリヴァイアサンの陰に隠れてこそこそ動き回っていた黒幕なんだって! 街のみんなを巻き込み、義母さんを、僕の家族を傷つけたクソ野郎だって事を!!
『警告』
「っ」
マクスウェルからの報告に、僕は弾かれたように手元のスマホから真上の空を見上げていた。
分厚い黒い雲を突き破るように、黄金の何かが光った。
いや、あれは。
落ちてきているんじゃない、こっちに向かって!?
『耐ショック姿勢を推奨!!』
「それじゃダメだ!!」
躊躇している暇なんかなかった。
ゴムボートから飛び降りた直後、天から落ちた黄金のアークエネミーが躊躇なくゴムボートを引き裂き、木っ端微塵に破裂させていた。
6
濁流に落ちる。
ボートの支えを失って流される。得体の知れない寄生生物がうじゃうじゃ湧いている危険もある、汚れた海水を。
「はは」
それでも僕は笑っていた。
水面から突き出したビルの壁に手を伸ばし、しがみつきながら。
「やっぱり出たな、セイレーン! これで黒幕がはっきりした!! ははははっ!!」
リヴァイアサンの言っていた事は嘘じゃなかった。ヤツは騙し討ちなんかで義母さんを傷つけた訳じゃなかった。それだけで笑みが止まらない。
そして黒幕を落とした。
誰もが苦渋の顔で呑んできた濁流に、ヤツ自身の顔を押し付けてやる事に成功した。
どうしてだろう。
邪悪な喜びが腹の奥から湧き上がって仕方がない。誰かを傷つけるという薄汚れた行為にこの上ない達成感を覚える。たとえるなら、RPGでラスボスを倒した後に出てくる極悪なダンジョンをクリアしたような。
『警告』
マクスウェルが告げた。
『……ユーザー様、今は泣いている場合ではありません。気をしっかり保ってください』
「……、」
泣いてる? 僕が???
横殴りの雨のせいじゃなくてか。意味が分からなかったけど、悠長に鏡を見て自分の顔を確認している時じゃない。
ヤツはいる。
アークエネミー・セイレーン。
全ての黒幕。
ゴムボートを引き裂いて一度は水中に没したその身体が、再び水面から浮かび上がる。やはり水中行動は苦手。だが上空は炎の熱が生み出す上昇気流に持ち上げられた一酸化炭素をしこたま含んだ黒煙に満ちている。結果、今のヤツは上も下も封じられ、人の手が届く半端な中空に漂うしかなくなっている。
千載一遇だ。
ようやっと掴んだ。ここで畳み掛けなければ逆転の目を失いかねない。
なのに、
「な……」
まるで水面に降り立つように重力を無視して静止するその姿に、僕は思わず目を見開いていた。
少女から大人の女性に差し掛かる、成熟しかかった肉体。一応白いゆったりとした布を巻きつけているけど、袖とか裾とかが決まっている訳でもなさそうだ。ほとんど半裸と言った方が近いのかもしれない。
いわゆる翼は二本の腕と同化していた。正確には頭から伸びる長い長い金髪を二又に分けて左右の腕へぐるぐると巻きつけ、黄金の翼のようなシルエットを作っていたのだ。セイレーンはマーメイドやローレライに近いらしい。人魚の黒山ヒノキが長い黒髪で尾びれを形作っていたのと似たようなものなんだろう。
だけど、問題はそこじゃなかった。
その顔を、僕は知っていた。
長い長い金髪にも、覚えがあるはずだった。いつもはナニ盛りと言うんだかも分からないキャバ嬢みたいに派手派手にまとめているけど、真っ直ぐ伸ばせば腰を越えて足首くらいまで届いてしまうであろう、それを。
僕は言った。
いつまでも頭の中から消えてくれない唯一の心当たりを。
「……火祭、さん……?」