• 火祭 美鳴嬉

    火祭 美鳴嬉
    阿佐美の異母妹。アークエネミー・セイレーン。


   第六章



   1


 日付が変わった。

 向こうのチャージも終わったか。またいつその辺の水たまりからヤツの戦場に引きずり込まれるかは分からなくなった訳だ。

「マクスウェル、警報を無力化」

『シュア』

 そして僕は一人、湾岸観光区駅前繁華街の水族館まで足を向けていた。当然、とっくに閉館しているが関係ない。マクスウェル頼みでセンサーやカメラを殺してもらって敷地内に踏み込む。あっちもあっちで手はず通り進んでくれていると良いんだけど。

『警備員の巡回ルートは把握していますが、レモラ感染者の動きは予測がつきません。お気をつけて』

「ああ」

 今にして思えば、ここにいた田辺さんはリヴァイアサンからの干渉で完全に動きを止めていた。田辺さん本人どころか、目や鼻から漏れ出たレモラまで。

 やっぱり美鳴嬉さんの言う通り、レモラへの干渉力ならリヴァイアサンの方が上だ。そしてリヴァイアサンのサポートを受けていたなら、義母さんが何時間光る海を探索しようが感染者にやられるはずがなかったんだ。いつでも動きを止められたんだから。

「……あの野郎魚肉のつみれ鍋にしてやる……」

『お腹が減ってイライラしているんですか?』

 電子ロックを解除して屋内へ。明かりの消えた真っ暗な水槽の間を通って従業員用の扉へ向かう。途中で何度か警備員の影を見かけたけど、幸い巡回ルート通りだった。レモラに感染しているかどうかは知らないけど。

 ドアを開けた途端に目が眩む。従業員用の扉の先は普通に電気が点いていた。

「……くそっ、公共機関め。お金とエネルギーの無駄使いだ」

 明かりがあるのはメリットともデメリットとも言えるけど、そもそもレモラ感染者の視界条件も謎だった。こっちが暗闇を味方につけたつもりでも、相手が猫みたいに夜目が利くとかいう話だったら馬鹿みたいだ。せいぜいポジティブに活用しよう。

『ユーザー様』

「分かってる」

 言いながら、僕は手の中で弄んでいたものを頭から被った。二四時間営業のディスカウントショップで手に入れた半帽のヘルメットだ。ぺこぺこの安物である。

 さらにドアを一枚潜ると、例の巨大水槽だった。

「リヴァイアサン」

 ヤツは悠々と泳いでいた。矮小な人間を顎で操って、さぞかしご満悦な事だろう。人間を超えた気分にでもなっているんだろう。

 確かに思考の部分、特に悪知恵ならそうかもしれない。

 だけど人の情の部分ならお前は赤点で落第だ。同じアークエネミーの義母さんや美鳴嬉さんにあった家族を想う気持ちがこいつには微塵もない。

 こいつは負の感情、嫉妬の部分でしか人を理解していない。

 何かしらの会話を試みたのか、リヴァイアサンの鼻先がこちらを向く。

 だけど異変に気づいたんだろう。

 僕には何の声も届いていない。

「お前の支配はもう受けないよ」

 こんこん、とヘルメットのこめかみ辺りを指先で叩きながら、

「お前はセイレーンと似て非なる方式で脳を操る。確かパルスだったよな。こいつは安物だけど、内側には溶かした釣りのオモリ、鉛を薄く塗り込んでおいた。だからマイクロ波だろうがX線だろうがもう届かない」

 そして会話の必要はない。

 こっちから一方的に言葉が届けば問題ない。宣戦布告は誰だってできるんだ。

「……何しに来たかは分かってるんだろ。義母さんを傷つけ、美鳴嬉さんを利用し、レモラの制御も奪って、街の多くの人を人質に取った。そのツケを払ってもらおうか」

 ふい、とリヴァイアサンは水槽のガラスからわずかに離れた。聞く耳を持たない、じゃない。助走をつけてガラスを叩き割るつもりか。こんな小僧の一人二人、噛み殺してやれば問題ないと。

「僕はこう言ったはずだぞ」

 だけど策士を気取る割に、意外と頭は軽いんだな、リヴァイアサン。

 こっちは一対一の決闘を気取る必要なんかないんだぞ。

「お前はセイレーンとは似て非なる方法で脳を操るってな!」

 つまり僕は美鳴嬉さんへの対策はしていない。歌声、超音波を使った彼女の誘導があればあの戦場に行ける。

 元からあった水たまりを踏むだけで良い。そして相手は最初から水槽の中だ。


「向こうで決着をつけよう、クソ野郎!!」


   2


 魔王の海に飛び込んだ途端、僕の全身は濁流に呑まれていた。

 そしてすでにリヴァイアサンはその三〇メートルの巨体を強化ガラスの壁に叩きつけ、粉々にしている。

 一見して自殺行為。

 むしろ本格的な水中戦になればエラも水かきも持たない人間が巨大ザメに勝てる道理はない。

 ……とでも思ったか。

 これはアクシデントじゃない。僕は意図してこの環境で戦いを挑んだっていうのに!

「ごぼっ!!」

 唇を引き結んでも塩辛い味が広がり、両目も薄く針の先で刺されるように痛い。

 今回はリヴァイアサンが用意したtoday's exitのドアはないはずだ。だけどセイレーンの美鳴嬉さんに代わりの出口を用意してもらっている。一番近くのドア、僕がやってきたあのドア。そこが青く光り輝いていた。あれを潜るだけで生き残れる!!

 ゴォア! と水が吼えた。

 あまりの大質量に濁流が撹拌されているんだ。大自然をねじ伏せ、ビタリと狙いを定められる。一直線の追いかけっこなら瞬殺。だけど人間用に設計された、それも裏手の細い職員通路を三〇メートルの巨大ザメがすいすい通れる訳がない。言ってみれば狭く入り組んだ路地をスクーターで進むか大型トレーラーで侵入するかだ。ヤツはその巨体故に、何度も切り返しを繰り返さないと通り抜けできない。

 その間にドアへと取り付いた。奥に向かって開くから、水圧に押されて開かないなんて展開にもならない。

 わずか一分足らずの逃避行。

 あいつの頭は疑問でいっぱいだろう。だけど答えるつもりは毛頭ない。

 これが人間の戦いだ。表面化した時にはもう八割方終わってる。根回しの恐ろしさを知れ。


 僕はドアを開け放った。


   3


 大量の水と共に元の現実に戻ってきた。

「ぶはっ! がはごほ!!」

「ちょ、大丈夫?」

 慌てたように火祭さんが駆け寄ってきてくれた。リヴァイアサンやセイレーンは現実にいる間しか他人を光る海に落とせないらしい。美鳴嬉さんの言葉が正しければ、びしょ濡れで水たまりを作る僕に近づいても問題ないはずだ。

 そして彼女『達』がここにいるという事は。

「じ、じゃあ行くよー? せーのっ」

 何とも緊張感のない声だったけど、腐っても相手はアークエネミー、不死者だ。

 バゴン!! という轟音と共に分厚い両開きの鉄扉が折れ曲がり、続くもう一発で完全に蝶番が壊れて水中へ沈んだ。


 そう、リヴァイアサンが出入りに使っていたゲートが。


「……何しろ三〇メートルの巨体だ。どこにtoday's exitの扉があろうが、その身体じゃ潜れないだろ。現実と青い戦場を隔てる扉だけは、壊して押し拡げる訳にもいかないし」

 そしてヤツが愛用していた、唯一巨大海洋生物を潜る前提で設計された大型ゲートは現実側から破壊した。ここが使えなくなれば、ヤツは当然……。

「僕にはアークエネミーを殺す決断はできない」

 吐き捨てるように、今はいない誰かに言った。

「だから世界を丸々一つ使った永劫の牢獄で孤独な自由を謳歌するといい、海の王」

 ヤツの影響が現実からなくなれば、レモラ感染者は美鳴嬉さんの命令によって元に戻せるはず。リヴァイアサン本人による犠牲も出ない。仮に光る海に感染者が残っていても、巨大ザメには通れない小さな出入口を作って拾い上げれば良い。

 これでチェックメイト。

 完膚なきまで僕の理想通りの展開だ。

『残酷ですね、ユーザー様』

「否定はしないよ」

 だけどリヴァイアサンが自分の欲望に従ったように、僕も自分の理想を押し通させてもらう。

 血は流さない。

 だからそれ以外の全てを許容しよう。

 お前と会う事はもうない。

 僕だけに限った話でなく、地球全人類全アークエネミーのスケールで、だ。

「帰ろう」

『シュア』