• 酒井イオリ

    酒井イオリ
    アークエネミー・エルフの少女。


 第一章



 ひとりがいい。

 そうすれば、もう、だれにもめいわくをかけないから。

 おとうさんもおかあさんも、みんなわらってくれるから。


 それは、本当に単なる偶然。

 たまたま耳にしてしまった一つの声。

「……、」

 子供の頃に作った秘密基地へ久々に出かけたら先客がいたのだ。暗い暗い瞳を揺らし、顔にかかった前髪を払う事さえ忘れて力なく呟いていた小さな少女の言葉を思い出す。

 ……僕だってそうだった。あれくらいの歳の頃、頑張って水泳で一等賞を獲った時にプラスチックの小さなトロフィーをもらった事がある。だけど家の中では金切り声と共にお皿が飛び交っていて、何か説明する暇もなくオモチャのようなトロフィーも掴み取られて壁に向かってぶん投げられていた。

 僕は義母さんやエリカ姉さん、妹のアユミ、それから委員長にも助けてもらった。色々な事情はあったんだけど、でも周りに優しい人達がいなければどうなっていたか分からない。

 酒井イオリにはそんな人がいない。

 それで良いのか。単なる人口分布の問題だったって。

 そして僕は夕焼けで真っ赤に染まる巨大な高層ビルを見上げていた。

「マクスウェル」

『シュア』

「バカなヤツだと笑ってくれ」

『ノー。システムにはそのように高度で無意味な機能はありません』

 供饗第一放送。

 アークエネミー同士が殺し合いを演じる『コロシアム』が大々的に表舞台に出てきた時も大変お世話になった場所だった。正直に言って良い印象はない。だからこそ遠慮する必要もなかった。

 作られた虐待劇。

 エスカレートを望む大人達。

 お金や視聴率、利益のためのスクープ捏造。

 ……そしてどれだけの茶番だろうが、実際にあちこちアザだらけになって、泣き叫ぶ事も忘れて、ただただ疲れ果てて力なく項垂れる一人の少女。

「先輩」

 声をかけられて振り返ると、可愛い後輩がやってくるところだった。肩で揃えたウェーブがかった金髪の女子高生、伊東ヘレン。同時にキルケの魔女のアークエネミーで、地獄のバニーガール達が設けた『五戦の絶壁』をも越えて生還した『コロシアム』の若き女王。

「悪いね、こんな事に巻き込んで」

「何言っているんですか。かつての私と同じように、誰かの手を必要としている子がいるってだけでしょう? だったら無下にできるもんですか」

 本当に良い子だった。

 巻き込んだ者の責任として、絶対に累は及ばせまいと心に誓う。

 それから改めて、挑みかかるように言った。

「始めるぞ」

「ええ」

『シュア。何なりとご命令を』

 夕暮れの中を歩きながら僕は改めて最終確認を取る。主に伊東ヘレンと前提条件を合わせるためにだ。

「ネットジョークの一つに『最高の恋人』っていうのがある。どんな女性でも必ずモノにする色男の話だ。さて伊東さん、それはどういう条件を揃えたヤツだと思う?」

「もう質問自体が馬鹿にされてそうなんですけど」

「あくまでたとえ話だよ」

「うーん、それなら……。やっぱり頼り甲斐があってどんな時も信頼できる人でしょうか」

「……、」

「ん? あっ、まさか!」

「ほほーう、伊東さんは顔とか偏差値とか言わない人種か。良かった良かった」

「ちょっと先輩、これって何かの心理テスト的なものだったんですか!?」

 顔を真っ赤にしてわたわたしている後輩ちゃんだけど、残念ながらネットジョークの答えはそうじゃない。

「……顔、学歴、金、社交性。色々あるけどもっと確実な手が一つある。その色男に忠実な部下が一人いれば良い」

「……、それって」

「相手の女の子の好みや弱みを徹底的に調べさせ、波長が合うように見せかける。さらにライバルがいるならみんな殺してもらえば失敗しない」

 僕は小声で早口に、

「そいつを色男じゃなくてテレビ局がやろうとしている。私情ではなくビジネスで。カメラの前で事件を起こして視聴率を稼がれる前に食い止めたい」

「でも先輩、ジョークじゃなくて実際の話なんですよね。テレビのためにそんな事したら捕まっちゃうんじゃあ」

「明確な殺人や強盗ならね。ただし閉じた家の中での暴力は民事か刑事か、今でも判断が難しい。警察でも介入しにくいんだ。しかも映像の切り取り方次第では単なる殺人より虐待の方が刺激が強い。グレーゾーンで効果大。捏造屋にとっては旨味しかないって訳」

『シュア。主犯はテレビ局でほぼ確定ですが、全体像はそこだけではありません。いわば金の流れによって多くの悪党を結びつける依頼リストがあるはず。それを手に入れられれば中心から末端まで犯罪構造の全セクションを一掃できるのですが』

「えと、今回は殺し屋さんなんて物騒な人は出てこないんですよね?」

「ああ。あくまで直接子供を叩いているのは両親だ。だけど外から怒りを駆り立てる方法なんていくらでもある。例えばアカウント乗っ取り。小さな子供が親に隠れて掲示板で家族ルールの悪口を書き込んだり、ソシャゲやピンクサイトで大量のお金を使っている……ように見せかけるとかね」

『今のはあくまで一例ですが、悪党の図式が分かれば具体的手段も明らかになる事でしょう』

 僕がやるべきは簡単だ。

 このくそったれの学芸会、作られた虐待劇の根っこを断つ。そのためにエスカレートを望みカメラに収めて全国にばら撒こうとする外道どもの証拠を手に入れる。

 作られた虐待の猛威にさらされた酒井イオリの自宅周辺には、それとなく撮影班が張っていた。素材が一定以上溜まれば大々的に報道される。あの子のプライバシーなんて微塵も考えないで。

 路駐の社用車から引っこ抜いた情報から察するに、

『ターゲットは進藤マツリ、年齢二八歳性別女性。報道制作局に在籍。「コロシアム」放映は過激なバラエティの色が強かったですが、書類上は報道扱いにし、言論及び報道の自由を振りかざす事で各種の倫理案件を振り切るために名義を貸していたようです』

「結果は光十字の大敗だから、こいつもキャリアにダメージを負っただろう。でもって局内で失った信頼を取り戻すために、安易なスクープの連発に走ったって感じかな」

「……、」

 隣を歩く伊東ヘレンの顔がわずかに曇る。『コロシアム』の事を思い出しているのか、そこで悲劇が終わっていなかった事を憂いているのか。

 ……『カラミティ』の正体を義母さん、天津ユリナから聞いていると他人事ではいられない。いよいよカウントダウンが目に見えて表面化してきたって訳だ。

「外からテレビ局を攻めても限界があった。そもそも腐ってもマスメディアの一角だからサーバーの防御も固いしね。進藤マツリ本人が持ち歩いているタブレットとバックアップ用のハードディスクが狙い目かなとも思ったけど、そう甘い話でもないようで」

「えと?」

『彼らはサイバー攻撃を恐れている訳です。タブレットは電波を遮断する鉛で内張したケースに収めていて不規則かつ短時間のみ通信するため狙って侵入を図るのは難しく、バックアップのハードディスクに至っては社屋内の分厚い金庫に保管されていて手出しできません』

「で、それを何とかすると」

「そゆこと。僕達の手でどうにもならないなら、方法を改めるしかない。つまり、向こうから持ってきてもらう」

 とは言ってもフルフェイスのヘルメットで顔を隠して裏口からこっそり侵入する訳じゃない。セキュリティっていうのは設計だ。防犯カメラやセンサーの位置には一つ一つ意味があって、盤面は最初から詰め将棋みたいに雁字搦め。だから頑張ろうが頑張るまいがスパイ映画みたいにこっそり社屋へ潜り込むのはまず無理だ。

 でも、それがどうした。

 だったら場外乱闘上等だ、馬鹿正直に盤の上になんか上がってやるもんか。僕一人でもやれない事はないけど、やっぱりかつての『コロシアム』で直接テレビカメラを向けられた被害者がいた方が万全だ。

「手はずの通りに」

「了解です、先輩」

「困ったら預けておいたメガネ、そう、そのスマートグラスを掛けて。視界の中に話すべきテキストを表示する」

 僕と伊東ヘレンは二人してテレビ局の正面受付に入る。

 そして営業スマイル全開の受付嬢に小さな魔女は開口一番こう言い放った。

「局長さんにお話があります。すぐに案内してください」

「はい? あの、失礼ですがどちら様でしょうか。アポイントなどは……」

「あら。それが御社の正式な答えでよろしいのでしたら」

 伊東ヘレンはさして表情を変えずに、

「先日の『コロシアム』での一件について、示談で済まそうかと思ったのですが、門前払いならそれでも結構です。こちらは何も痛みません。弁護士の先生からお互いの今後のために必要な事を聞いてくるよう助言をいただいたのですが、この分だと法廷闘争になりそうですね。未成年に対する殺人教唆に監禁、傷害、公共の電波を私物化しての殺人中継の放映、及びギャンブル化での利益供与。衣装替えと称して衣服を奪ったりもしてくれましたっけ。塞がりかけたかさぶたを剥がすだけで、一体どれだけの逮捕者が出るでしょうね。それがあなたの選択一つで決まったんです。私は何も困りませんけど、はて、あなたはどれくらい恨まれるんでしょう」

 しっ、少々お待ちください!! と受付嬢の様子が一変した。時折こっちをチラチラ見ながら内線電話でどこかと連絡を取り合っている。

「(……肝が据わったねえ)」

「(……先輩ほどじゃないです)」

 肘で小さく脇をつつき合う僕達の前で、冷や汗まみれの受付嬢が受話器を置いてこっちへ向き直った。

「たっ、ただいま担当の者が参ります。そちらの椅子にお掛けしてお待ちいただければと」

「そりゃどうも」

 僕達は小さなテーブルが並ぶ一角へ歩きながら、小声で次の手を打ち合わせる。

「伊東さんはできるだけ周りの目を引きながら時間を稼いで。具体的な指示はスマートグラスに表示する」

「えと、こっちはマクスウェルさん、じゃないんですよね?」

「ラプラス。大丈夫、こいつ自身は悪いヤツじゃないよ。おい、可愛い後輩を頼んだぞ、傷一つ許さないからな」

 ブィンブィン、と僕のスマホが短く振動した。任せておけと言っているらしい。

「……かつて『コロシアム』を支えたスパコンが今度はアンタ達に牙を剥くんだ。自業自得を存分に浴びるといい」

 やあやあどうもこのたびは! と揉み手で近づいてきた中年から初老に差し掛かる高級スーツの男を横目で見ながら、僕は伊東ヘレンと別れて人の波に乗る。

 奥に入る訳じゃない。

 僕達の担当は他にある。

「マクスウェル、バードウォッチングに戻るぞ。バイク便の方はどうなってる?」

『シュア。すでにネットで手配を終えています』

「バイク便そのものに化けて奥まで入れたら簡単だったんだけどな」

『中小企業でセキュリティ対策も外部委託。運送会社の社員登録へデータを差し込むのは容易いですが、決まったメンバーの顔は局の受付担当に覚えられているでしょうからね』

 どれだけコンピュータをいじくり回しても、結局最後に立ち塞がるのは人か。

 でもそいつはこっちの武器にもなる。

 僕は悪目立ちしないくらいの速さでせかせかとテレビ局を出て、道路を挟んだ向かいのビルへ向かう。

 スポーツジムや屋内プールに軸足を置いた商業施設だ。芸能人がお忍びで使ったり、パパラッチを避けるためにここで着替えて地下駐車場から出ていくなんて噂が広まって繁盛しているようだけど、さて真相はどうなのやら。

 用があるのはそっちじゃない。

 偽名で借りたトランクルームの鍵を開けて中に入る。ここは後から増設したスペースのようで、本来なら物置には必要のない曇りガラスの窓がついているのが特徴か。でもって物置なんだから人が居座ると怒られるんだけど、中はお菓子の袋やペットボトル、毛布に枕、型落ちしたタワーパソコンまで置いてある始末だった。

 ……さて。

「レーザー盗聴を再開しよう。僕がロッドを動かすから、データの処理は頼んだぞ」

『シュア』

 レーザー盗聴は窓へ目に見えない光線を当て、ガラスの微弱な振動を読み取る事で室内の音声を読み取る機材だ。これがあればいちいち社屋に潜って装置を取り付ける必要も、バッテリー交換のために何度も出入りする手間もいらなくなる。……意外とその辺にある家電やオモチャを分解すれば材料が手に入るのは内緒である。

 忘れてもらっちゃ困るけど、これでも僕は一人で実用レベルの災害環境シミュレータを組み上げている。こういうはんだ付け作業は嫌いじゃない。

 伊東ヘレン、進藤マツリ、後はこれからやってくるバイク便に適当なADも。あのビルの中で追跡しなくちゃならない人間は結構多いしね。

『正面入り口前にカーゴボックスを積んだオフロードバイクの停車を確認。ナンバープレートから例のバイク便で間違いありません』

「早速だな。伊東さんに連絡。トイレでも何でも良いから、いったん席を立たせてくれ。事前に渡しておいた荷物を投下してもらう」

『シュア』

「ああ、進藤マツリと同じセクションのADをピックアップ。決め打ちの文面を送りつけておいてくれ」

 テレビ局の中央サーバーややましい事を抱えたターゲットの進藤マツリはともかく、周りの部下のケータイやスマホはザルだ。いくらでも外から汚染できる。

『レーザー盗聴ではどこを重点的にチェックするおつもりで?』

 ……そりゃ一番大切なのは可愛い後輩だけど、今は心を鬼にしないとな。

「ターゲットの進藤マツリ」

『なるほど』

 薄く開いた窓から大きなポンプ式の水鉄砲のようなロッドを動かす。スマホのスピーカー越しに、道路を挟んだ向かいのテレビ局でのやり取りが聞こえてきた。

『ちょっと! さっきのメールは何? 私はこんな指示出していない!!』

『えっ、でも確かにハードディスクを大至急映像会社に送ってほしいって』

『……っ』

『レギクス34のブラックカバー、カードサイズのですよね?』

 よし、よし、よし。

『そもそも、あれがどうして……』

『はあ。普通にその辺のデスクに置いてありましたけど』

 よし!

 ……当然ながらADへメールを送ったのは僕達。バイク便を外から呼んだのもそう。だけどこれで進藤マツリの悪事が詰まったバックアップハードディスクがそのまんま手に入るとは思わない。

 ADがバイク便に渡したのは、全く同じメーカー、型番の商品だ。新品なんだから中身はまっさら。ついでに言えば、これは伊東ヘレンの手を借りて所定の場所に置いてきてもらったものに過ぎない。こんなのハッキングでも何でもない。

「……でも進藤マツリには違いが分かるかな。そろそろ自分の名を騙る第三者が介入してきた事には気づいているはずだ」

 くそっ! という悪態がスマホの向こうから聞こえてきた。

 そう、彼女だってすぐには信じない。というより、最初は何かの間違いであってほしいと思うはず。だから兎にも角にも『安心』が欲しいんだ。

「マクスウェル」

『シュア』

 こっちがやるのは簡単。

 ヤツのハードディスクを守る分厚い金庫は指紋とナンバー入力で開くデジタル式だけど、わざわざネットには繋げていない。

 だから手出しできないって?

 いいや違う、あの手の金庫は大抵強い衝撃やバーナーの炎なんかへの対策が講じられている。

「マクスウェル、周辺の空調機器を掌握。金庫に向けて温風を浴びせ続けろ」

『シュア。メーカーの設計仕様から考えるに、分厚い金属の一点に熱を溜め込めば攻撃されたと誤認して緊急ロックモードに移ります。ドライヤー程度の温風でも効果ありです。難度の高いビル空調システムに入らなくても、いつから置かれているかも分からない私物のファンヒーターで十分でしょう』

 お古でも問題ない。こっちはあらゆる防壁を潜り抜ける必要なんかない。堅牢なシステムの前で指を咥える事になったって一向に構わないんだ。

 そう、無機質なエラーだって時には味方になってくれる。

 つまり、

『どうして……?』

 戸惑う声があった。

 それはすぐに苛立った叫びに変わる。

『これで開くはずでしょ、ちくしょう! 何でっ、何でよ!?』

 ……ここが正念場だ。

 本物のハードディスクを見つけて安心してもらっちゃ困る。だけど僕達の金庫への小細工が露呈してもいけない。

 焦ってパニックになり、番号を押し間違えた。いいや、そもそも頭の中に浮かぶ番号は本当に正しいのか。

 そんな風に、誰にも相談できない事は自分で処理してもらわないと。

『内山!!』

「……、」

『例のバイク便の伝票は!? 今時ならGPSで荷物がどこ通っているかくらい追跡できるでしょ!!』

 静かに拳を握り締めた。

 スマホに向かって囁く。

「マクスウェル」

『シュア』

「ケリをつけよう」

 モバイルのレンズを向けて拡大してみれば、苛立ったキャリアウーマンが窓辺に寄ってタブレット端末を取り出しているのが分かる。普段は鉛で内張したケースに収めていて、電波そのものを遮断しているモバイル。そいつを指先で操作しているようだ。

 ぶぅーん、とトランクルームの中で低い唸りがあった。

 適当な安物のタワーパソコンだ。

『アクセスを確認』

 今の僕達にはマスメディアの一角であるテレビ局の堅牢なシステムには入れない。エルフの少女、酒井イオリの事を考えるとノーヒントでじっくりやるには時間が足りないんだ。だけど出入りしているバイク便は情報セキュリティでは一段劣る中小企業。その気になれば制服やバイクのデザインを引き出したり、社員登録自体を書き換える事だってできない訳じゃない。

 本物の制服や社員証を身につけてバイトのふりをしたって、出入りの人間はみんな顔見知りだ。いつも挨拶を交わしている警備員や受付嬢には怪しまれてしまう。だけど利用価値はそれだけじゃない。

「伝票に書かれた平面コードは疑わないよなあ、普通。受け取ったADや進藤マツリはもちろん、手渡した本物のバイク便の方だって。URLの英数字と違って目で追っても違和感の出るものじゃないし」

 進藤マツリを極限まで不安で揺さぶる事。

 ヤツ自身の手で平面コードにレンズを向けさせ、指定のアドレスにアクセスしてもらう事。

 ……つまり、すぐそこで低い唸りを上げている安物のタワーパソコンへ。

『荷物追跡サイトに偽装したハニーポットへの誘導に成功しました。事前に仕込んでおいた流出ウィルスに感染させ、タブレット内の全データを抽出します』

「一丁上がり!!」

 進藤マツリが主導していた『作られた虐待』の全体像を明かす証拠は、ハードディスクとタブレットの両方に入っている。僕達は金庫の中身にこだわる必要なんかない、どちらか片方からデータを引っこ抜ければ良かったんだ。

 外から開かない城門は、ターゲットから直接内鍵を開けてもらえば良い。

 重要なのはプログラムじゃない、進藤マツリの指をいかに思い通りに操れるかが問題だった。

『それにしても、機材に侵入できないなら持ち主の心をコントロールすれば良いとは、なかなかにイカれた発想ですね』

「最近じゃセキュリティソフトの警告を装ってユーザー本人の手で共有設定をいじらせる攻撃手段も珍しくなくなってきたよ。ATM使った振り込め詐欺だってそうだろ」

 不正な侵入やらウィルスやらだって、何でもかんでも自由自在にコンピュータを操れる訳じゃない。それより焦りでも怯えでも良い、とにかく人間を揺さぶった方が大きな被害を出す事もある。外からは堅牢な城門だって、中から開けるのは容易いんだから。

 絵本の中に出てくる狼だって慣れない化粧や声真似をして標的の信頼を得ようとする話はあるんだし。姉さんみたいな吸血鬼も招かれないと家に入れないんだっけ?

『しかし、不正な手段でコピーしたデータは証拠能力が一段落ちるはずですよ』

「別に警察や裁判所に提出する訳じゃない」

 事件によっては大々的に世間に知られてしまう事が被害者にダメージを与えてしまうものもある。虐待なんてデリケートな問題を世間のまな板に載せるつもりなんかないんだ。

 ウィルスまみれのハニーポットを使って抜き取ったデータに目を通していくと、色々分かってきた事がある。

 いくつかのアングラな業者と、彼らに任せた業務内容ごとの送金データ。

「……スマホ感染型の一一〇ウィルスか。あの子の電話から一時間に二万回も通報してる事になってる。普通に考えれば手動でできるはずないって分かりそうなものなのに」

『では不要な連続通報によって家庭全体に迷惑を掛けられたと感じた両親が激昂して?』

「いや、もうちょい複雑だ。同時にご近所へ両親の学歴に関するデータが流れてる。普通の大学に見えるけど、学歴コンプレックスなんだな。……しっかり周りを温めてから、親の育て方にも問題があるみたいな事を言わせて暴発の引き金にしていたんだ」

 ウィルス自体の有無はスマホを調べれば分かるけど、それだって変なサイトを覗いたからだろうとか囁かれたら、やっぱり子供の素行や品性が疑われる事態になりかねない。そしてご近所中が言う訳だ。子供も子供なら親も親なんだろうって。

 気づいていない間に感染していたんだってあの子が本当の事を話しても、気がつかないくらい変なサイトに夢中だったのかって周囲の怒りを煽るだけ。いったん孤立してしまった子供の言う事なんて誰も取り合ってくれない。必死の訴えは下手な言い訳にしか受け取ってもらえない。黒幕は指一本触れずにあの子の人生を書き換え、両親を具体的な暴力へと駆り立てた。

 ……完全にふざけてる。ネット社会の悪い部分だけを凝縮したような話だ。このモラルハザード、いよいよ『カラミティ』が近づいているって訳でもあるのか。

「さあてそれじゃあ決着だ。マクスウェル、送金情報をチェック。各銀行へその全員の口座に凍結リクエストを出しておけ。犯罪口座扱いだ」

『シュア』

「それが終わったら進藤マツリ名義で番組企画書を作成して、適当な外部のネットストレージに保存。そこから流出したように装って場末の掲示板にでも貼り付けてくれ。タイトルは、そうだな。激撮二四時、潜入捜査でサイバー窃盗団を暴く! でどうだ」

『……やってる事は全く同じなのでは?』

「わざとだよ。意趣返しと呼んでくれ」

 突然の口座凍結に驚いた業者達は慌ててネット全体を覗き見して情報を集めようとする。そしてあの捏造虐待の件に関わった業者の財産ばかりが立て続けに凍結され、唯一まとまった口座情報を知る依頼人のテレビ局が暴露番組の企画を通そうとしていると分かればどんな顔をするか。

 間違いなく報復のサイバー戦争が始まる。

「作られた虐待は進藤マツリが落ち目の人生を大逆転したくて手を伸ばした悪行だ。こいつが番組制作から身を引けば、少なくとも閉じた家に外から力が加わる事はなくなる。虐待の真実なんて表に出す必要はない、さっさと退場してもらおうか。局に大迷惑をかけてこいつを懲戒処分にしてやろう」

 ここまでやればもうトランクルームでバードウォッチングに勤しむ必要なんかない。

 ……けど、そうだな。

 なんかモヤモヤすると感じて思い返してみれば、悪党に一言言ってやるのを忘れていた。

「マクスウェル、無理に侵入しなくて良い。テレビ局の総合受付に電話して進藤マツリを呼び出してくれ。もちろんこっちの素性は辿られないようにな」

『シュア。では名刺代わりに、そこのハニーポットを経由したIPフォンから掛けましょう』

「ボイスも波形をいじってくれよ。テレビ局はそういう音声分析に詳しそうだから念入りにな」

 不審げな受付嬢の案内から保留音へと続き、そこからさらにカップ麺が作れそうなくらいの間があった。

 それだけ向こうはてんてこ舞いなのか、あるいは警戒しているのか。

『だっ、誰!? 一体どこの誰なの!!』

「はろはろー。このIP名義から掛けているのにまだ分からないか? なら結構」

『あっ、あなたさっきのバイク便? どうしてっ、あのサイト、私のデータ……! 好き勝手してくれたせいでこっちがどれだけ迷惑を被っていると思っているのよ!?』

「そっくりそのまま返してやるべきかな。アンタがあの子の家を追い詰めたように、アンタも見えない亡霊に振り回されて仲間達と髪の毛を掴み合うといい、元は一つ屋根の下でな」

 一方的に通話を切る。

 ……これでしばらくは放送局に大規模なサイバー攻撃が繰り返されるだろう。何故こんな事になったのか、調査委員会だって発足されるはずだ。その過程で全ては暴かれる。

『何故あんなリスキーな挑発を?』

「ヤツがしらばっくれたら匿名で今の会話をテレビ局の上に送りつけるためだよ」

 調査委員会がどこまでやろうが、おそらくこの件は明るみにはならない。あまりにも報道機関としての体面が悪すぎるからだ。でも怒り狂ったハッカー達をなだめるため、上は組織から切り離すべき生贄のヤギを求めるだろう。一体何から成分抽出したのかも分からないサプリメントを飲んで安心を得るように、何かしらの儀式をしたがる。区切りをつけて汚れを落としたいはず。明るみにしたくないからこそ迅速に切り捨てが行われるんだ。

 僕達に必要なのは、内部の調査委員会や上層部を納得させる程度の資料だった。外部の警察や裁判所に提出するほどの法的根拠はいらないから、オリジナルのタブレットやハードディスクを機材ごと盗み出す必要はない。

 むしろいざ裁判沙汰になったらどう転ぶか分からない、ギリギリのラインの方が腹黒な連中は保身に走りやすい。一〇〇%確実に負けると分かったら逆にみんなで身を固めて下手人を匿ってしまう可能性が出てくるんだし。災害下では名前も知らない人々が一致団結するのと一緒で。

『外的圧力は消えました。しかし彼女の両親は一度振り上げた拳を下ろせるでしょうか』

「だから要観察だよ。もしも暴力がまだ止まらなければ容赦なしだ。……あの子の両親は操られていた被害者ではなく自発的な加害者と認識を改め、徹底的に攻撃する」

『シュア。了解しました』

 使い捨てのハニーポット、型落ちしたタワーパソコンの電源を落としつつ、僕は遠い生贄に言葉を捧げた。

「荒野をさまよえ、進藤マツリ」



 そして全ての話を聞き終えたバスタオルのアナスタシアは小刻みに震えながら厳かにこう呟いた。

『……トゥルース、アンタは一つだけ間違えたわ』

「何がだよ」

『それはワタシを呼ばなかったって事よ! 何これずるいっ!! どうしてこんなレジェンドにワタシを引き込んでくれない訳!?』

「答えはそうやってあの子の人生をオモチャにしそうだったからだっ!」

 はあ、とアナスタシアは息を吐いて、

『んで、結局そのエルフの子はどうなったのよ』

 僕はアナスタシアに一枚の写真を送信した。それはコンビニの表にある防犯カメラが写したモノクロの何気ない一枚。日々の記録の中に埋もれていくデータの一つでしかない。

 歯医者の帰りのご褒美だろう。若い親子が二つに割った肉まんを頬張っている画像だった。まだまだぎこちないけど、そこにはきちんと笑顔がある。

 ……問題を解決したって、すぐに全て変化する訳じゃない。犯した過ちも、心に負った傷も、そう奇麗になくなる事もない。

 でも、お互いが勇気を振り絞ってこの一歩を踏み出していけたのなら。

 もう暗い穴の奥底でうずくまる必要はない。彼らは再びこの助走から広い世界のどこにだって羽ばたいていけるはずだ。

 間違いなく。

 絶対に。

『……良いわね』

 アナスタシアはそう言った。

 ここだけは茶化さずに。

『ねえトゥルース。今世界じゃ一日に一二〇億枚もの写真が撮られているらしいわ。その分消すのもためらわなくなった。防犯カメラ、ドローン、ドライブレコーダーに無数のIoT家電なんかの無人カメラが氾濫したせいで生産数は地球人口を軽く超えてるの。かつてプロの写真家にしか許されなかった、信心深い人からは魂を抜かれるとか三人セットの時は真ん中の人が早死にするなんて噂が流れるくらい神秘のヴェールに包まれた至高のアートは、素人どころか人の手からも離れて、その価値なんて紙くず以下になってるわ。これは動画まで含めればもっともっと膨らむわね。……でも』

「でも?」

『やっぱり世の中にはあるものね。一目見ただけで魂を揺さぶる一枚っていうのがさ』

 ……まったくだ。

 カラミティは近づいているかもしれない。でもただ黙ってその到来を待っているものか。

 と、そんな風にしんみりしようとしていたのに、アナスタシアはこう続けてきた。

『うおー! 血が滾ってきたわ。せっかくのハッカー達のお祭りなんだから今から遊びに行きましょうよトゥルース!!』

「こっちはもう風呂に入るんですけど!?」

『ワタシは時差ボケでむしろ今から本気が出るトコなの! 来ないなら良いわ、日本は治安が良いって話だし一人で夜の街をぶらつくまでよ』

「待て一一歳それは許さん」

『鬼さんこちらっ、嫌ならホテルのドアの電子ロックでも封じてみたら? そういう勝負も悪くないわ』

「マクスウェル」

『えっ、あ!? う、受けて立つ!!』

 慌てたように携帯ゲーム機付き小型犬ペットロボットを掴み直したアナスタシアを見て、僕は息を吐いた。ま、これくらいで欲求不満のむらむらがなくなるなら良いか。嵐の夜長の退屈をオンラインのゲーム大会で誤魔化してもらうようなものだ。

『シュア。ホスト国のハッカーとしては負けられませんね』

「だから言ってるだろ。僕はハッカーを目指した訳じゃない」