第三章
夜になった。
吸血鬼のエリカ姉さんの独壇場になる時間だ。一緒にやってきたゾンビのアユミはアークエネミーなのに、どっちかというと昼のイメージが強いんだよな。
ともあれ、いつも以上に人でごった返すお祭りムードな駅前で合流。こうなると姉さん、アユミ、アナスタシアと不死者ばっかりだ。人間が僕しかいないぞ。
「あり? お兄ちゃん、イインチョには声かけなかったの?」
「妹よ。テクノパレードだなんて色気も可愛げもないハッカー達のお祭り騒ぎにどこの馬鹿が耐性を持たない大切な女の子を引き込むというんだ。僕は委員長から疲れたようなため息をつかれるのだけは絶対に嫌だからな」
ふぐうー!! とアユミはまたもやほっぺたを膨らませているけど、こっちはむしろ未だにどうしてこの二人がこんなニッチなお祭りについてきたいと言い出したのが謎で仕方がないくらいなんだ。まあ、同じ家族の姉妹と歩き回る場合はそういう気遣いがいらないから気が楽でもあるんだけど。
「七時半ですし、とりあえず定番ではありますが、食べ物関係から見て回ってみましょうか」
「アユミが滅法楽しみにしてるのにもじもじしていてなかなか言い出せなかった辺りをズバッと言っちゃう姉さんは流石だよね」
「ふぐっ!? お兄ちゃん、そんな人を食欲の権化みたいにだね……!?」
「アユミちゃん。サトリ君はそうやってアユミちゃんの可愛い反応を引き出したいだけですよ」
ハッカーに老若男女の区別はないけど、こうして見るとやっぱり男の方が比率は高めかな。ドラマとかで良くある、華のキャンパスライフでも工学部は男ばっかりの法則がスライドしてきているのかもしれない。
「ところでお兄ちゃん、腰に何引っ掛けてるの? でっかい水鉄砲???」
「秘密兵器だよ。これでも掘り出し物だったんだ」
そんな風に言い合ったのち、
「わっ、何あれ!? メカがお盆に載せたカキ氷運んでるよお兄ちゃん!」
「ベースは爆弾処理ロボットだよあれ。市販で流れているとも思えないし、一体どこから図面を盗んで組み立てたんだか」
「3Dプリンタを悪者にするのやめてほしいわよね。技術自体は良いものなんだから」
「あらサトリ君。あなたは必ずメロン味を選びます、ともメニューに書いてありますね。誘導尋問みたいにこちらの言葉を引き出すんでしょうか」
「うん。行動予測アルゴリズムでも使って先読みして、他の意見を封じるようにコメントを飛ばしてくるのかもね」
……というか、基本的に何でも斜に構えて上から目線になりがちな僕達エンジニア系と違って、反応がスレてない姉妹の反応が新鮮なのか、なんか周りにパフォーマーが増えてきたような?
ちなみに夜の稼ぎ時になるとやっぱり軽食関係の出店が増える。内容は焼きそば、たこ焼き、お好み焼き、りんご飴、カキ氷、チョコバナナ、などなど定番のラインナップに、一部クレープ、ドーナツ、フランクフルトなんかの洋物が混ざっている感じだ。駄菓子とご飯の中間、といった独特の温度感は忘れかけていた子供の部分を内側から引き出してくれる。
特にこの国の縁日をあまり知らないアナスタシアは目を丸くしながら、
「日本の食べ物ってどうしてこんなにあっさり仕立てられるのかしら。お菓子一つでもお上品よね」
「日本で生まれた食の中でも最もギットギトな駄菓子系だっつってんだろどういう食生活してたらこのラインナップがさっぱり系に見えるんだ!」
「え? ロサンゼルス大会の時はピザとかフライドチキンとか厚切りハムのステーキとかプーティーンとかばっかりだったわよ。知ってる? 山盛りのフライドポテトをチーズとラードとグレービーソースでひったひたにしたヤツなんだけど……」
「……なんか食に戦いでも持ち込んでんのかアンタの国は?」
流石は肉野菜肉肉米パン野菜どころか肉肉ニワトリ肉ニワトリ後サプリの文化だ。野菜どころか魚にもあんまり興味がないのに健康大国とか言い張るトコはやる事が違う。
ともあれ。
「聞いた話だと後で花火もやるみたいですね」
「多分あっちこっちで撮影用のドローンが飛び回るからちょっと離れて見た方が良いよ。最悪、花火そのものと接触して墜落してくるかも」
姉さんやアユミがいるのでジャンクの見本市や四人同じ卓で角突き合わせているのにやってる事は自前のプログラム同士の麻雀戦なんていう濃いエリアよりも、普通のお祭りっぽい辺りを選んで歩く。それでも金魚すくいの代わりに小さなロボット魚が泳いでいたり、シミュレータによる先読みありのビンゴ大会なんかをやっていたり、要所要所にイカれた匂いがじわりと漂っているけど。
「……この金魚ロボ、ほんとに取れるのかなあ? なんか薄紙を近づけると逃げちゃうんだけど」
「パズルで考えるんだアユミ。逃げる方向は一定だから、こっちとこっち、二ヶ所から差し込めば角に追い詰められる」
一風変わっているけど、やっぱり良い思い出になるお祭りの景色だったと思う。
そこでスマホが振動した。
画面の中でマクスウェルはこんなふきだしを表示させてきた。
『サイバー攻撃を感知。明らかにユーザー様のモバイルを狙った行動です。水際で処理していますが、手動対処に移しますか?』
「……、」
僕はすぐに辺りを見回したりしなかった。そんな事をしても何かが分かる訳じゃない。下手をすれば光ファイバーと無線LANを駆使して相手は地球の裏側から攻め込んできたのかもしれないし。
……酔狂なハッカーが辻斬りに来た訳じゃなく、しかもアナスタシアの話が正しければ、相手はワイルド@ハントが抱えるハックオアスレイブか。
「うん? どしたのお兄ちゃん」
「いや。それより確実に一匹取るぞアユミ、お前に華を持たせてやる」
何もアユミや姉さんに心配をかける事もない。僕はいつもの音声認識ではなく画面に文字を打ち込んでマクスウェルとやり取りする。
『マクスウェル、後手に回ったふりをしてハックオアスレイブの攻撃を継続させろ。その間に詳しい手段をチェック。方法が分かれば相手の輪郭は浮き彫りにできる』
『すでにタスク実行中です。いわゆるアリジゴク型で、偽の公衆無線ルーターを利用して標的を引き込み、モバイル内部の情報を盗み出す手法だと思われます』
……ヤツらは諦めていない。
港のコンテナ置き場ではしくじったけど、僕がワイルド@ハントに楯突いて『作られた虐待』を暴いた張本人だって公的な証拠を探し回っている。サイバー攻撃まで仕掛けてきて。
『確定』すれば僕の人生はズタズタにされる。それどころか同じ家で暮らす家族だって危ない。
しかも、敵を排除すればヤツらは調子づく。一度は中断した『作られた虐待』を繰り返すかもしれない。
ひとりがいい。
そうすれば、もう、だれにもめいわくをかけないから。
おとうさんもおかあさんも、みんなわらってくれるから。
バカなヤツだと笑ってくれ。
縁もゆかりもない赤の他人。助けたって何か見返りがある訳じゃあ、ご褒美や懸賞金がもらえる訳じゃない。こんなので世界の巨人たる国家を超えた大企業に楯突くのかって。
だけど僕はどうしたって、蹲ったまま虚ろな瞳で呟いていたあの小さなエルフの少女を思い出してしまう。かつての僕と同じ、いいや、いわれのない暴力までついて回ったあの子の顔を。
たまたま何かのきっかけで昔々の秘密基地に足を運んでみただけだった。
そこで打ちひしがれた先客を見かけただけだったんだ。
だけど。
それだけだったけど。
……許せるか、絶対に。
ようやく取り戻しつつあるんだ。親子が一つの肉まんを二つに割って食べ合うような関係に戻りつつあるんだ。ワイルド@ハント? ハックオアスレイブ? どんな思惑があろうが知った事か! 彼ら両親は離婚しないで済んだ、僕の家とは違ってきちんと歩み寄って修復した。それは当たり前のようでいて、実際にはとてもとても大変で、尊い事なんだ! せっかく治りかけたかさぶたを無遠慮に抉り出すような真似は絶対に誰にも許さない!!
「……、」
ロボット金魚すくいを終えて、送風機だらけでまともな弾道にならない輪投げにチャレンジしながら、親指だけでスマホを操作。
『それだけ? 無線ルーターがメインとなると、基本的には蜘蛛の巣みたいな待ちの姿勢だ。個人標的とは思えないランダムさだな』
『公衆無線ルーターは基地とモバイルだけでなく、各社の基地と基地でも通信を繰り返しています』
『そりゃそうじゃなくちゃ世界共通のインターネットにならないしな。大体、同じエリアで似たような周波数を飛ばして混線しないように相互監視しているはずだし』
『……つまりアリジゴクの標的はモバイルではなく、展開エリア内の全基地局となっているようなのです。基地局の認識電波を感知次第、応答コードに偽装したマルウェアを送りつける手法らしく』
「わっ! 何でお兄ちゃんのはちゃんと飛ぶの?」
「扇風機の首振り角度と回転数からシミュレータで目に見えない複雑な風の動きを計算して輪投げの弾道予測しろって遊びなんだよ、これ」
当然、個人のコンピュータをどれだけ堅牢に固めようが、個人機器と世界全体とを結ぶ中継ルーターが汚染されていれば防御面は相当怪しくなってくる。
そして僕のスマホとコンテナ置き場を繋いでいるのはあくまでも一般回線だ。そこを狙ってきたって訳か。
『基地局の乗り換えは?』
『随時。ただし相手の攻撃は公衆無線LANから個人宅のだだ漏れ屋内無線機器まで、発見次第手当たり次第といった印象です。今のままでは安全な回線を確保できなくなるのも時間の問題となります』
「アユミはくまさんのぬいぐるみ、アナスタシアはプラスチックのお風呂ウサギさん、姉さんはガラス細工のハイヒールかな」
「「贈り物に格差を感じる」」
ちんちくりん二人のジト目はさておいて。
『じゃあマルウェアが扱っている脆弱性は? 侵入口を潰すかワクチンを作って駆除する事で無線ルーターの安全性は取り戻せないか』
『すでに確認されているだけで二四種の悪意あるソフトウェアを検知しています。ハックオアスレイブとやらは自作のマルウェアの披露に固執するのではなく、似たような被害を出すものを片っ端から送りつけてこちらの反応を伺っているのではないかと』
『面倒な相手だな……。大元の感染ルーターを特定してデータの元栓を締めれば攻撃が収まるって訳でもないんだろ』
『それなのですが、気になる点があります』
『何でも報告』
『シュア。最初に汚染電波を発したアリジゴクですが、この無線ルーター、どうも発信源が動いているようなのです』
『うん?』
輪投げは終わったので次へ、と思ったけど想像よりもアユミがごねたので引き続き留まる。シミュレータの力を借りないと探知機なしで地雷原を渡るようなものなんだけど、よっぽど悔しかったのかな。
『平均時速三キロ。およそ徒歩と同程度で、ユーザー様と同じ会場を不規則に移動しています。ただし誰かを追っているというより、エリア一帯の無線ルーターを探して汚染している印象ですね。地図アプリと重ねると車道も歩道もお構いなしですが、建物を透過する事はありません。……だとすると、空飛ぶドローンなどを使っているのではない限り』
『……ハックオアスレイブは地べたに、同じテクノパレードの中にいる? 地図アプリの測量員みたいにコンピュータの詰まったリュックでも背負って? マクスウェル!!』
『シュア。いちいち「!!」などつけんでもハックオアスレイブへの攻撃許可をいただきましたのでこれ以降は容赦なしです』
ぼんっ!! と思ったより近い所で何かが爆発したようだった。いや、車のエアバッグみたいに頑丈で大きな風船が一気に膨らんだんだ。そしてどよめく群衆の中から、膨らみ切ったリュックを背負った小男が月面旅行みたいにぶわりと浮かぶ。
あれが元凶、ハックオアスレイブ。
オンラインデータを好き放題書き換えて、一人の少女が裏で両親に迷惑をかけ裏切っているように見せかけて。外から様々な圧力をかけて、いわれのない暴力を振るわせた張本人……!!
ヤツは地球の重力を感じさせない動きで一息に大型観光バスの屋根に足をつけると、さらに次の一歩で五階建てはありそうな雑居ビルの屋上まで飛び移ってしまう。
思わず前提を捨てて叫んでいた。
「ホバリングスーツか。逃げられる!?」
ようはアドバルーンみたいな大きな風船で浮力を確保して自前の体重と綱引きしながら、小型のガス噴射装置で舵取りする飛行機械だ。どちらかというと『飛ぶ』というより『跳ぶ』の方が近いオモチャだったけど、言ってみれば助走なしの一歩一歩を棒高跳びみたいに増幅できる装置なんだ。軍隊なんかが山岳用装備として大真面目な顔して研究していたはず。
『ハックオアスレイブは逃げながらでも周辺の無線ルーターを汚染し続ける事が可能で、システム達を攻撃可能な状況を維持します。従って相変わらずこちらが不利である事実をお忘れなく』
「分かってる。行くぞマクスウェル!!」
「えっ、あ? お兄ちゃん!?」
「姉さん、アユミとアナスタシアをよろしく。全周警戒で!!」
「はいはい」
ひとまずアナスタシアは姉さんとアユミに預け、僕も僕で人混みの隙間を縫って走り出す。ホバリングスーツは浮く事に重きを置いているから、飛行機とかヘリコプターみたいにいきなり速度で突き放されたりはしない。だけどやっぱり道順や人混みを無視して最短距離をまっすぐ進める向こうの方が圧倒的に有利だ。それに地上から見上げるとビルの広い屋上は死角になりやすい。一度見失ったらどこに潜まれてこっちのデータを狙われ続けるか分かったもんじゃない!
『ユーザー様は地上、ハックオアスレイブは空中。仮に追跡に成功したとして、どう決着をつけますか? 一つの屋上で追い詰めても、標的が右に左に次々別の屋上へ飛び移ってしまえばこちらはなす術もありません』
「……マクスウェル、例の秘密兵器とスマホを同期」
がしゃり、と僕は腰に差していた両手持ちの水鉄砲みたいなデバイスを取り出し、
「完了次第ヤツを、ハックオアスレイブを撃ち落とす」
『シュア、了解しました。いつでもどうぞ』
銃大国のアメリカでもあるまいし、地上を離れてしまえばもう手出しはできないとでも考えているんだろう。
だが甘い。
僕は走り込みながら太い銃身を天に向ける。火薬は使わないので反動を考える必要はない。見ようによってはガンマイクにも似たそれをビタリと遠く離れた空飛ぶ小男に突きつけ、プラスチックの引き金を引いていく。
アンチマテリアルレッドトゥース。
完全にふざけた名前を刻んだ最終兵器から放たれた電波信号が、ハックオアスレイブの小男を宙に浮かばせる飛行機械に致命的なダメージを与えていく。
そもそもこいつは無線ヘッドフォンやキーボードなどに使う近距離専用のレッドトゥース電波に強い指向性を与えて、一〇〇〇メートル先のデバイスに不正なデータを打ち込むオモチャだ。いつどこから狙われるか分かったもんじゃないから、夕方の間にアナスタシアとあちこち見て回って見繕ったジャンクの一つだった。
『マルウェア注入は阻止されましたが、そもそも高出力の電波がハックオアスレイブのシステム構成の連結を破綻させたようです』
「ま、大仰な装備の割にケーブル類があんまりなくて妙にすっきりしてるから、きっと無線で管理してるんだろうなとは思っていたけど!」
ようは妨害電波を飛ばしたようなものだ。ウィルスに感染させてレジストリを細かく書き換えなくたって動作不良は起こせる。
バランスを崩した風船小男はどこかの屋上に不時着するつもりのようだった。不調は一時的であっても、自分の命を預ける飛行機械だ。なまじウィルスみたいに明確な原因を特定できなければ、安易な再フライトには挑戦できないだろう。誰だって亀裂の入った宇宙服だけ渡されて宇宙船の気密ドアの前に立たされれば躊躇する。命っていうのはそういうものだ。
アナスタシアが棲息しているハッカーの世界だと、攻撃があったかなかったかよりも、あったかどうかいまいち判断がつかない、っていう結論の出ない不調が一番怖いんだし。
僕はそこらにあった針金を使ってレッドトゥース砲を近くの道路標識の金属ポールに縛り付け、角度を調整してビルの屋上辺りに突きつけながら、
「マクスウェル、ビルの図面から非常階段の位置をチェック。ハックオアスレイブが墜落を恐れてまごついている間に屋上まで上がってケリをつける!」
『シュア。非常階段は外付けです、やや奥まっていますので路地の中に入る格好になるはずです』
そうと分かれば善は急げだ。
地上からレッドトゥース砲の電磁波攻撃を投げかけているからハックオアスレイブの小男はこっちが下から狙い続けているとしばらく勘違いするだろうけど、それだって無限に続く訳じゃない。あの小男が冷静さを取り戻す前に畳み掛けないとチャンスを失ってしまう。
路地に飛び込んで問題の階段を見つける。錆びた金属のタラップの出入り口は鍵付きの扉で塞がれていたけど、安っぽい鉄柵の延長みたいなものだ。施錠にこだわらずそのまま乗り越え、非常階段を駆け上がっていく。
実際に屋上へ踏み込んでみて舌打ちした。
「何だこりゃ、ごちゃごちゃしてるな。ヘチマか朝顔の蔓にでも侵食されたジャングルジムみたいだ!」
『ユーザー様、すでに危険域です。物音や肉声にはご注意を』
下から見上げた時は、せいぜい家庭科室が四つ分くらいだと思っていた。でも実際にはビルの屋上って言っても平べったい正方形の大地が広がっている訳じゃなくて、貯水タンクやエレベーターのモーター室などはもちろん、冷蔵庫よりも大きな業務用エアコンの室外機が並んでいたり、家庭菜園があったり、コンテナ型の物置が何段も積んであったり、とにかく節操がない。こんなにした所有者自身が煩わしいと思っていたんだろう、わざわざ工事用の足場やハシゴを斜めに立てかけた階段までつけてショートカットコースがあちこちに作ってあった。
まるで立体迷路か、映画に出てくる新兵訓練施設だ。前後左右上下、どこからあのハックオアスレイブの小男が飛び出してくるか分からない。
「……マクスウェル、地上に置いてきたレッドトゥース砲はまだ生きてるよな」
『シュア。スマホと正常にリンク中です。代替レーダーとして周辺住宅にある衛星放送電波の受信状況のブレから空中の異物を監視していますが、当屋上からホバリングスーツが飛び立った痕跡はありません』
となると、あの小男もこの屋上にいる。
ごくりと喉を鳴らして、僕は身を低くした。家庭菜園から飛び出した蔦に覆われたフェンスに沿って、ゆっくりと奥へ。
……くそ、追い詰めているのはこっちのはずなのに、向こうが着陸場所に機転を利かせたせいで逆に追い込まれたような気分だ。
「ハックオアスレイブは今もアリジゴク攻撃を続けているんだよな。電波の発信位置から居場所が分からないか?」
『近距離すぎてあてになりません。この屋上のどこか、というくらいしか』
きち、きち……と小さな金属音が横手から聞こえてきたのはその時だった。
……いや、横手?
蔦で塞がれたフェンスの向こうに、何が……?
『警告!!』
何かを察知したってよりも、単にマクスウェルからのメッセージに思わず首を縮めた直後だった。
ゴッッッバッッッ!! と。
フェンスを突き破って、向こうから飛んできたのは……砲弾か何かか!?
厳密に何が起きたか悟るのは無理だった。ただぐしゃぐしゃにひしゃげたフェンスが丸ごと千切れてこっちに吹っ飛んできて、ただただ余波のようなそれに引っ叩かれてコンクリートの上を転がる羽目になったんだ。
いきなりの爆音に屋上だけじゃなくて地上のお祭りさえざわめきで埋め尽くされていく。くそ、将棋倒しなんて起きてなければ良いけど。
「がっ、ば……!!」
『警告、まだ何も終わっていません。手近な遮蔽に隠れてください!!』
こっちはもうマクスウェルからの文章を視覚で処理できない。それくらい異様なモノが視界に侵入してきている。
何だあれ?
何だあれ何だあれ何だあれ何だあれッッッ!?
……目で見たものが本当に正しいなら、それは五本の吸盤付き触手を手作りクッキーのような星形に広げている、まん丸のタコだ。何かのドキュメント番組で観た事がある。人工筋肉が実用化されれば犬や猫、カニやサソリ、そして人間のようなロボットよりも、立つ必要のないナメクジやタコのような軟体系の方がデザインしやすいって。
当然、ただのオモチャじゃない。
現にこうしている今も、高圧電流じみた不気味な音を散らしている。
あのまん丸のタコの胴体、ひょっとして円周ループ状の砲身か何かか? それこそレールガンとかの!!
まん丸の胴を直立させるだけで三メートル。五つの触手をピンと伸ばせば倍近くに増えそうだけど、あのまん丸の中身が円周ループのレールガンなら、おそらく人が潜り込むスペースはない。あれはああいう砲撃ドローンだ。即座に距離を詰めてこないところを見ると、移動はおまけであって床でも壁でも天井でもとにかく自力で砲撃位置を確保するため程度のものなんだろう。
だけどあんなサーフボードより巨大な塊、絶対にハックオアスレイブの小男は持ち歩いていなかった。ここに落ちたのも完全なイレギュラーだったはずだ。なら一体あの最終兵器はどこから出てきたんだッ!?
まん丸ボディの中央にある大穴、つまり砲身がこっちを向く。
紫電の瞬きが凶暴に音階を変化させていく。
「ッ!!」
へたり込んだままとっさに横へ転がった途端、恐るべき暴風が空間を突き抜けた。バキバキと音を立ててショートカット用の建設足場が崩れ、噛み千切られてギザギザになったエアコン室外機の残骸があちこちを飛び交う。
考えろ。
考えるんだ。
……ただのまぐれでこんなラッキーは起こらない。そもそも無防備だった初撃を外す事がおかしいんだ。だとするとこっちが避けたんじゃなくて、向こうが逸らした。照準計算アルゴリズムが獲物を追い駆けるより優先して『何か』を割り込ませたんだ。
だとすると、
「マクスウェル、弾道の先に何があるかをチェック。おそらくハックオアスレイブは自前の兵器で誤射されるのを恐れてる!!」
『アンノウンとユーザー様を結んだ直線の延長線上に予備発電用のガス管が走っています』
「弾道計算予測!」
叫び、家庭菜園から流れてきたスコップを掴んで横振りで一〇メートル先の金属柱、そこへ寄り添うように縦に走る細い管へと投げつける。
ぶつかって激しい音が鳴る。
実際にそれでガス管が傷ついたかどうかは分からない。だけど立体的に交差するジャングルジムみたいな屋上の上層から、何かガサリと物音がした。
炎、煙、熱は全部上に向かう。だから爆発を嫌っていたのか。
「あそこだ。ハックオアスレイブの『安全』に干渉する、壊れたらまずい柱や可燃物なんかを全て算出。非破壊設定のオブジェクトに寄り添いながら移動するぞ」
『シュア。映像にカーソルを直接重ねて表示します。円から円へ跳ぶように移動して下さい』
スマホの風景へ飛び石みたいにコースが描かれるけど、状況は常に流動的だ。大元の小男が移動すればこれらの条件も崩れてしまう。
待っていてもどうにもならない。
こっちにも負けられない理由がある。
僕や家族の人生は自分で守る。そしてアンタ達を増長させて『作られた虐待』を再開させる訳にもいかない!!
五本の触手を星形に広げてその場から動く事もなく、常に対人レーダーや赤外線誘導でこっちに睨みを利かせるタコの正面を横切りながら、僕も崩れかけたジャングルジムの上を目指す。
……それにしても、あんな三メートル以上ものタコ型砲撃ドローンなんてどこから取り出した? サイズ的には僕のベッドより大きいかもしれないんだ。さっきも考えたけど、両手で抱えて持ち運べるようなものじゃないぞ。
「いや、それを言ったら最初のホバリングスーツだってそうか」
あれは着込む装備だからかさばらないけど、どうしたって目立つ。言ってみればスカイダイビングの格好でそのままいつもの街並みを歩くようなものなんだから。今はハッカー達の祭典、テクノパレードの真っ最中。でもパフォーマーやコスプレイヤーのお仲間ならともかく、人の波に溶け込んでこっそりアリジゴク攻撃なんてやってるヤツがそんな悪目立ちしたがるか?
「……だとすると、あのホバリングスーツもタコと同じく、いきなり出てきたのか。それこそ手品みたいに」
普通に考えたら絶対にできない事をやってくる。物理法則だけでは説明不能なレベルの何かを戦術に組み込んでくる。
つまりは、
『それがアークエネミーの「力」、異能ハッカーの本領なのでしょうか』
「決めの台詞まで予測するなよマクスウェル」
港に当たりをつけて、レトロマシン専用の侵入システムを調達したのも、みんなこの辺に仕掛けがあったのかな。
階段代わりに斜めに掛けた梯子を上って上層へ。雰囲気的にはこちらも似たり寄ったりだ。中の空いた四角い筒をいくつか並べてジャングルジムを作ったって感じ。
「……いい加減にこっちも武器があった方が良いな」
おそらく足場のボルトを締めるためのものだろう。そこらの柱に結構雑にスパナが下げてあったので拝借しつつ、誘蛾灯を分解して中の電子基板を抜き取る。
「業務用はおっかない。このコンデンサ見ろよ、僕の親指より太いぞ」
『調子づくのは結構ですが、感電しても知りませんよ』
電源は太陽光発電の蓄電池で良いか。バイクなんかに使っている文庫二冊分くらいのバッテリーをそのまま代用しているので、これを借りておく。
後はその辺にあったビニール傘の周りに針金をステッキキャンディのように巻いて諸々接続すれば、立派なスタンロッドの完成だ。
「マクスウェル、画面を通して通電と非通電の物質を色分け。場合によっては壁や床に通して飛び道具にできる。……僕自身の足を伝って自爆しなければだけど」
ハックオアスレイブの小男が吸血鬼やゾンビと同格のアークエネミーならこれでも足りないくらいだ。だけど同時に、彼らは『何でもできる』訳じゃない。どれだけ摩訶不思議な現象に見舞われてもここを押さえておけば、迷いの森に踏み込まずに済む。
……ヤツが何でも思い描いた通りのデバイスを呼び出せる力なら、こんなレベルに留める必要なんかない。大空にブーメランみたいな爆撃機を飛ばせば抵抗なんか押し潰せるし、砂漠を埋め尽くすほどの演算機器の山を作れば力業でマクスウェルの防壁を貫通できたはずなんだ。
でもそれをやらなかった。
いいや、できなかったとしたら理由は何だ。
質量? 複雑さ? 有人と無人の壁? 一定以内の距離?
あの人工筋肉のタコが僕を襲えないのと同じ。相手がどれだけ大きくても、ルールが分かれば逆手に取って封殺できる。元より向こうは人間なんかと比べ物にならない不死者だ。考える事を放棄した先に未来なんかない。
そんな風に思っていた。
その『唸り』が炸裂するまでは。
ガォン!! という無骨なエンジンの咆哮が屋上全体を威圧する。
冷や汗が噴き出した。
この入り組んだジャングルジムで車の可能性はない。だとするとエンジンを積んだ『武器』の代表格と言えば……、
「チェーンソー!?」
慌てて叫んだ直後、コンテナ状の物置の陰からそいつは現れた。風貌は中年であっても僕より背の低い男。ハックオアスレイブ。腰だめに構えているのは土のこびりついた動力工具……!!
タコの他に新しく呼び出したのか!?
「くそっ!!」
慌てて距離を取ろうと後ろに下がる。
直後。
ぞわり、と。
得体の知れない何かが背筋を撫でた。根拠も何もないのに、何故だが僕は美しい死神の指先を連想した。
そう。
そうだ。
『土のこびりついた』チェーンソー? ホバリングスーツやのろまなタコと同じく、手品のように取り出したのに……???
「……ヤバい」
ヤバいヤバいヤバい!!
だとすると……!?
ドガッッッ!!!!!! と。
チェーンソー男とは全く別方向、真横の壁が突然大きくぶち抜かれる。
……ハックオアスレイブの目的は、チェーンソーに意識を引きつける事で僕を危険な柱から遠ざける事にあった。そうすれば『本命』が射線を確保して遠距離攻撃で仕留められるから。
つまり、チェーンソー自体はその辺の家庭菜園なんかで拾ってきたもので、デバイス呼び出しは別の所で使っていた。
完全な不意打ち。
にも拘わらず僕の意識がまだ繋がっている理由は……。
「がっはあ!?」
自分のお腹にスタンロッドを押し付けて高圧電流を流し、不規則な方向に体を跳ね飛ばしたからだ。それで向こうの照準予測からわずかに外へはみ出る事ができた。
一発はしのいだ。
だけど体はまともに動かない。立ち上がる事もできず、何とか這うように進む。壁の大穴の向こうに見えるのは、杭か何かで地面に打ち込んで固定する三脚で支えられた、バズーカ砲みたいに太い金属パイプだった。火薬の爆発音や匂いはしなかった。あの感じからするとイギリス辺りの珍兵器と同じく、人の腕より太いバネか何かを使って金属砲弾でも打ち出しているのか。
あれに睨まれるまでもなく、今真下から星形に触手を広げたタコのレールガンで床をぶち抜かれたらおしまいだけど、そうはなっていない。
わざわざ囮として拾った動力工具を使っている辺りからも明白。
「はっ、はっ……」
つまり、ヤツのデバイス呼び出しは一度に複数はできない。新しく作ったり呼び出したりってよりも、粘土みたいに決まった質量の素材を変化させているって方が近い。バネ砲台に変換したって事は、今下層にタコはいないんだ。
しかも爆撃機とか核爆弾とかふざけたスケールのものは持ち出さない。何かしらの範囲が定められている。
極め付けに、ハックオアスレイブは僕の目の前で瞬時にデバイスを出現させたり切り替えたりはしない。あの小男はいつだって待ち伏せして、安全な位置から奇襲を仕掛けてきた。
「ぐっ……」
……準備に手間がかかるんだ。
だからたとえ素人の人間相手でも、無防備に体をさらせない。
掴め。
生き残って手に入れたデータを信じろ。
ここから先はかなり憶測の色が強くなるけど。
それはおそらく実際に手を動かす作業じゃない。例えばミニチュアを作ると原寸大が実体化するとか、チラシの裏に絵を描くと紙から浮かび上がるとか、そういうのじゃない。何だかんだで、驚いて身じろぎすれば物音が聞こえるくらいの距離感だった。その手の手作業をしているにしては、素材を削る音も塗料の匂いもしなかった。袖や指先にも汚れはない。だからトリガーはおそらくモバイル。CADで3D設計図を作るとか、フルカラーイラストを完成させるとか、設計図や三面図を眺めて完璧に構造を頭へ叩き込むとかだ。
そして、細かい発動条件まで突き詰めて証明する必要はない。倒すだけなら、『攻撃の起点はどこにあるか』さえ分かればそれで十分なんだから。
そもそも、ハックオアスレイブが焦りを見せたきっかけは何だった。
僕に屋上で追い着かれたから?
いいや。
レッドトゥース砲の強力な指向性電波を浴びせられたからだ。サイバー攻撃よりもホバリングスーツの墜落よりも、まずジャミングでモバイルの通信を切断される事を何より恐れたんだ!
ドドンドンドン!! と暴れ回るエンジンを抱えたチェーンソーを手に、小男がこっちへ歩いてくる。別方向からのスプリング砲は、二発目を撃たない? 反動を利用して強力なバネを縮める仕組みは備わっていなかったのか。
声には出せない。這いずって少しでも距離を離しながら、僕は手の中のスマホを親指で操作する。
まだ諦められない。
ここでは死ねない。エリカ姉さんやアユミ達をヤツらのまな板には載せない、戻りかけた笑顔を『作られた虐待』で再び粉々に壊してしまう訳にはいかない!
醜悪でも良い。
酒井イオリ。あの子を助ける事で、代替的に自分の過去を乗り越えたいだけだったとしても!!
『マクスウェル。ハックオアスレイブは周辺の無線ルーターへ手当たり次第にウィルスを流し込んで、それを利用したモバイルの通信データを奪い取る悪質なハッカーだ』
『シュア』
『でもそれは、感染ルーターからハッカーにデータを送るホットラインを手当たり次第に作っている事も意味する。……付近でまだ無事なルーターを検索して、先にこっちからウィルスを仕掛けておけ。ハックオアスレイブがホットラインを開いたらウィルスが逆流して親玉のモバイルを感染させられる』
『それでは不特定多数のルーター利用者を感染させる事になりますが』
『ハックオアスレイブは数十種類のデータ流出ウィルスをランダムに使っているんだったな。その全ての脆弱性の窓口を奇麗に潰してあるモバイル限定で攻撃開始』
『了解しました』
自分の使っているウィルスに自分で感染するようなバカはいないけど、ウィルスによっては市販のセキュリティソフトじゃ対応していないものもある。ぴったり狙いすましたように全部潰しているとしたらそいつが黒だ。
『バックドアの設定完了、標的のアークエネミー・ドワーフのモバイルのコントロールはいつでも奪えます』
ドワーフ?
ああ、ドワーフ!!
北欧神話に出てくる小人で手先が器用な事で知られ、特に純金を使って神々の武具を作る話で有名な種族だ。言われてみればって感じだし、純金はアクセサリの他に精密回路の配線なんかにも使われていたっけ。
……テレビ局から逆探が進んでいたとしたら、例のトランクルームから調べ始めて、ハニーポットに使ったタワー型パソコン辺りに行き着いたのかな。あれは完全に破壊してから複数の残骸を別々に廃棄したはずだけど、壊した機材の一部分からでもある程度データを復元するようなハードウェアを組み上げたんだ。もちろん例の純金で。そして港に踏み込んで、今度は貨物リストを管理するレトロマシンに目をつけた。僕の名前は掴めなくても、業務用電源や冷却装置に関するデータがあればマクスウェルのコンテナは特定できる。
現代のドワーフにとってはサイバー攻撃が神々の怒りにあたる訳か。悪魔の名を冠したシミュレータを使う側として、こいつは肝に銘じないとな。
『標的のシステムファイルを破壊して停止させますか?』
『それじゃ五メートル以内にいる何の特別なスキルも持たない普通に怪力なアークエネミーとチェーンソーの奪い合いになるだけだ! マウンテンゴリラと相撲を取るより悲惨な目に遭う!!』
エリカ姉さんや妹のアユミが聞いたらあらあらふぐうと怒りそうだけど、事実ただの人間じゃアークエネミーとの力比べには勝てない。見た目の体格なんか何のあてにもならないんだ。
『メインタスクは指示する。サブとして時間を稼がなくちゃ。ハックオアスレイブのモバイルに入ったんならメールを攻めよう』
『暗号化されている上、そもそもモバイル本体ではなく別口のメールサーバを攻略しなくてはなりません。かなり時間がかかりますが』
『メールフォルダを狙うんじゃない。仮想キー入力の予測変換ファイルにアクセス。ぶつ切りの単語が良く使う順に格納されているはずだ。固有名詞を洗い出せ!』
言ってみれば工場出荷時から組み込まれた悪意のないキーロガーだ。メールを丁寧に暗号化していても、こっちがおろそかになっているケースは少なくない。
『ビッグデータ、ワイルド@ハント、検索、アークエネミー、反応、ハックオアスレイブ、実験、投入、個人宅、直接的、外注取引、請求書……』
『広告用の感情予測アルゴリズム。一番不安を煽る並びに変換しろ』
もうチェーンソードワーフは目と鼻の先だ。僕が殺されれば誰も彼もがまな板の上に上げられる。黙って三枚に下ろされる前に、僕は小さな画面に並べられたいくつかのふきだしから必要なものを選んで肉声で世界を震わせた。
「失敗したな。機密データが洩れてるぞ」
「……?」
僕は這いつくばったまま、画面は見せないようにスマホを軽く振って、
「たかが個人宅の虐待騒ぎに大企業のハッカー部隊、ハックオアスレイブが駆り出されるなんておかしいと思っていたけど、ようはワイルド@ハントの実験だったんだろ。ビッグデータは市民生活に溶け込んだアークエネミーを見つけ出せるか。いわれのない迫害や虐待だって、言ってみればソナーやレーダーみたいなものに過ぎなかった。軽く波を放って、反応を見る。それだけのために。普通の人間とは変わった傷の治り方、既存の生物学や物理法則だけでは説明のつかない力の発露。そんなのを利用してな」
自分で言っていて、鳥肌の立つ言葉だった。
これが真実を突いているかはまだ分からない。あくまで断片的なフレーズを繋ぎ合わせて最も不安を煽るようにしただけだ。
でも、意外と当たっているんじゃないのか?
エルフのアークエネミー、酒井イオリ。
そもそもワイルド@ハントは何故彼女を標的に選んだんだ? 言い換えれば、あの子でなければならなかったんだ。善人にしても悪人にしても、もっと目立つ連中なんていくらでもいただろうに。
この世界にはアークエネミーがいる。地球人口全員が人間って訳じゃない。役所に登録するよう仕組みはできているけど、後輩の伊東ヘレンなんかはつい最近まで自分をただの人間だと思い込んでいて、書類作成を怠っていた。そしてここから先が重要なんだけど、人間とアークエネミーでは条件が違う。例えばビッグデータを使った化粧品や健康食品の広告をばら撒いても、元から不死者の彼らは半ば脅しめいた加齢や病気への恐怖を利用した後押しにはなびかないんだ。ワイルド@ハントは情報で世界を制する。だから人の世の、外側にあるものまで完全にコントロールしようとしている訳だ。そういうレイアウトを固めようとしている。
作られた虐待。
相手が普通の人間より頑丈だからと、それだけの理由であんな手を使って。こんな仕組みが完成したら、定時のスキャンくらいの感覚で悲劇が繰り返されるようになる!
一方で青い顔をしているのはドワーフも同じだった。ただしハックオアスレイブは世界的大企業の深刻なモラルハザードよりも、どこぞの掲示板に雇用主の機密データが貼り付けられた可能性を考えているんだろうけど。
「アンタ達が求めていたのは何より反復実験だった。つまり数をこなすって事さ。エルフの酒井イオリは元から役所に登録されていた。こんな方法を使わなくても見つけられるものを、アンタ達はわざわざ別の方法で検索し直した! ……あの『作られた虐待』は一件だけじゃなかったんだ。最初は簡単な所から始めて、徐々に難易度を上げていく。やがては本当に本人さえ自覚のないアークエネミーでも簡単に検索支配できるように! 今一体世界中でどれだけの実験を並列進行させているんだ!?」
「デタラメだ! スパイダー蒐集じゃあそんな文言は引っかからない。世界のどこにもそんなデータは張り出されていない!!」
「問題なのはどこに貼り出されたかじゃない。現実に僕がこれを知っていて、そいつはどこから洩れたものなのかって事さ」
ニヤリと笑って僕は続ける。
「アンタのモバイルから流出したって事が判明すれば、親玉のワイルド@ハント米国本社はどう思うかな。所詮は外注雇われのハッカー集団、ハックオアスレイブ。従順なふりをして内側からデータを引っこ抜いていたんだーなんて疑惑が浮上したら、こいつを払拭するのは相当大変なはずだぞ。何しろ罪もない子供に作られた虐待を浴びせて暴利を貪るような連中だ。アンタの親玉はプロの裏切り者にだって甘い顔をするとは思えないけど」
「……そのスマホを渡せ」
「これでもこだわりを持って、敢えての旧式モデルを選んでいるんだ。画面に見知らぬおっさんの手垢がつくなんて御免だよ」
「そいつを調べればはっきりと分かる! だからそのスマホをこっちに渡せえっ!!」
激昂したハックオアスレイブの小男はチェーンソーだけじゃ足りないのか。視界の端で何かが黄金色に輝いたのを確かに目撃した。
土壇場で間に合ったか!
『分析完了、ドワーフのモバイルは供饗市内に持ち込まれた業務用印刷機と頻繁にアクセスを繰り返しています。都市設計ジオラマにおける厚紙模型用で、コンテナサイズのものです』
ああ、画面の中で設計図や三面図をいじくるんじゃなくて、遠く離れた場所で実寸大の模型を作る事がトリガーになっていたのか。確かにそれだと大きすぎる爆撃機や複雑な化学現象が絡み合った核爆弾なんかは用意できない訳だ。
ともあれ、これで助けられる。
僕の大切な家族も、いわれのない暴力に苦しめられ続けてようやく再出発を図った小さなエルフの少女も!!
「仕掛けろマクスウェル!!」
『シュア』
決着なんて一瞬あれば十分だった。
ゴッッッガッッッ!!!!!! と。
ドワーフの立っていた場所からわずか五センチ横を、破壊の暴風が吹き荒れる。
スプリング砲の代わりに姿を現したのは、キャンプ用品のプロパンガスの爆発力を利用した杭打ち砲だった。親指より太い鉄の杭を五〇メートル飛ばすもので、その弾体の重さと速さから当たれば対物ライフルより極悪な爪痕を残す。……図面だけなら案外そこらのブログにだって転がっているものだ。英語とロシア語の翻訳さえできれば相当イカれた自由研究を覗き見できる。
ただ。
ハックオアスレイブの異能ハッカー、ドワーフには訳が分からなかっただろう。自分が指示を出した兵器とは違うモノが組み上げられ、しかもコントロールを失って管理者ユーザー自身へと襲いかかってきたんだから。
だけどアンタの『力』はモバイルから命令され、遠く離れた場所にある印刷機が吐き出した厚紙模型と同じ兵器の実物をドワーフの異能で組み立てる、といったものだ。
大元のモバイルを乗っ取って間違った図面を印刷機に送り込めば、想定外のモノを作らせられる。後はそれをドワーフが『今から力を使う』と決めたタイミングで放てば、ヤツの異能をそのままハックできる!
「なっ、あ!?」
「案外コントロール難しいんだな。あと、チェーンソーのエンジンは切っておいた方が良い」
僕はスマホの画面にある十字の照準線、つまりプロパン杭打ち砲のカメラ視界を覗き込みながら、
「動かしたままだと、千切れたチェーンが暴れ回るぞ」
二発目がチェーンソーの側面に直撃した。ブレード部分が真横にひしゃげてチェーンが千切れ、激痛に暴れる蛇のようにのたくる。ドワーフが顔面を切り刻まれずに済んだのは、あまりの威力に両手からチェーンソーのグリップをもぎ取られて瞬時に距離が離れたからだろう。壊れて横合いに吹っ飛んだ動力工具は液漏れを起こし、ついにはガソリンに着火して盛大な炎を上げる。
「うっぐ、ううう……!!」
指の方も無事じゃなかったのか。モバイルまで取り落としたハックオアスレイブの小男は自分の両手に目を落としていた。何だか青紫っぽく変色している。
「協力しろ」
油断なく遠方のプロパン杭打ち砲を突きつけながら、僕はそう吐き出した。
「黙っていればアンタは近い内に口封じで始末される。アンタが今まで散々やる側として見てきたようにな」
「……、」
「誰が憎いかなんて話じゃない、単純に生き延びる方法は一つだ。ワイルド@ハントを潰して膿を出し切る、これしかない」
こっちにだってワイルド@ハントを潰す理由はできた。
仮に『作られた虐待』が僕達の予測通り全世界で無作為抽出して実験を繰り返しているのなら放っておけない。小さなエルフを一人助けてめでたしめでたしにはできないんだ!
歯を食いしばったドワーフは足元のモバイルをこっちに蹴飛ばした。商談成立って事らしい。
「……まずは僕が自由に動ける環境作りからだ」
僕はモバイルを拾い上げながら、
「マクスウェル、モバイルを有線で繋ぐからデバッグモードを立ち上げろ。テザリング設定をオンにして、標的モバイルを僕のスマホ経由でネットに入るように設定し直せばルーター汚染と同じ効果が出る。ヤツが受け取る全データにアクセスできるはずだ」
『ノー。ですがハックオアスレイブは外注スタッフですので、ワイルド@ハント内部のストレージにフルアクセスできるとは思えません』
「まだまだ予測が足りないな。最後まで話を聞けって」
僕は笑いながら、
「ワイルド@ハントの武器はその販路に根ざした惑星規模のビッグデータだ。だけどビッグデータは殻に閉じこもっているだけじゃ手に入らない。警察署、裁判所、市役所、テレビ局や新聞社、病院、学校、スーパーにコンビニまで。色んなところから情報を掠め取って、一つの大きな怪物を作っている」
例えば役所で管理されている住民票をコンビニコピー機から取り出している人は、そのデータが業務用コピー機のメモリ内にそっくりそのまま残るという事実を少しは考えてみるべきだ。便利なサービスは常にデータを危険にさらす。だから本当にその手間は惜しむべきなのかって事を。
『おや、だとすると』
「ワイルド@ハント本社は狙えなくても、データ提供元の小さなお店は普通のウィナーズに普通のボードンかアステルスキー辺りだ。まあ店によっては洋梨マークのオシャレなダックのデスクトップかも。役所や警察だって精々自前のサーバーを立ててセキュリティ会社と法人契約を結んでいる程度。そっちのデータを差し替えて狂った情報を集約させれば、親玉のワイルド@ハント本社の一番奥で間違ったビッグデータ、腐った金の卵を産み落とさせる事ができる」
たとえ一万人にアンケートを取っても、その全員が山ごもりしていたら都会の若者の声なんか分析できないって事。今欲しいものが猪の肉になってしまう。
つまりワイルド@ハントがどこからデータをかき集めているか、その店舗のリストがあれば十分攻撃は可能だ。そして当然、外注保安部門という肩書きを持ったハッカー集団ハックオアスレイブは非協力的な会社からは無断でデータを引っこ抜くよう指示を受けていただろう。白と黒を見分けるリストがないと仕事にならない。
『八九社二五六団体がヒットしました。これでも彼のセクション担当分のみ、つまり氷山の一角でしょう』
「もうカメラのついた自販機でジュースも買えないな。それじゃマクスウェル、ワイルド@ハントのスィーツ(笑)なスパコンが偽りの結論を出すよう各社のデータを差し替えろ」
『具体的に何を?』
「データ上にしかいない架空のハッカー集団をゼロからでっち上げるんだ。ちゃんと過去に活動していた痕跡を残し、足跡を辿れば一本の歴史が見えるように。そいつらを供饗第一放送がやらかした、いいやワイルド@ハントの実験だった『作られた虐待』を暴いた最有力容疑者に仕立てれば良い。そこのドワーフ一人の報告よりも、みんなで集めたデータの方が信憑性が高くなるようにな。それで僕は自由の身だ」
僕はすでにこうしてハックオアスレイブと事を構えているけど、今はハッカー達の祭典テクノパレードだ。いきなりいわれのない疑惑でスマホを辻斬りされたから反撃に打って出たと言えば筋は通る。世界中からここに足を運んだハッカーやエンジニアならこれくらい珍しくない。……むしろ、コミュニケーションや腕試しとして悪意のないサイバー攻撃を繰り返している、とでも言うべきか。
『タスク設定完了、実行中……』
「さあ、これでワイルド@ハントの精鋭達はいもしない亡霊を一千年追い駆ける羽目になるぞ」
確かにビッグデータは便利だけど、妄信すれば足元をすくわれる。個人が小さな違和感を覚えても、巨大な演算機器が導き出した答えを覆すのは容易じゃないんだ。
『架空のハッカーグループの名前はいかがいたしましょう』
「僕のセンスから遠い英単語を二つ選択」
『シュア。ではポゼッションスピリットで』
まずはこれが第一歩。
容疑から外れて自由を取り戻した後は総攻撃の時間になるぞ、ワイルド@ハント。