第四章



 やあみんな、天津サトリだよ。

 世界的企業ワイルド@ハント相手に一芝居打って安全圏まで逃げ切った後はアユミ、姉さん、アナスタシアなんかと素直にお祭りを楽しんですっかりへとへと。久しぶりに気持ち良く朝を迎えた訳なんだけど、いやあまいったな。


 天津ユリナと禍津タオリ。

 二人の母さんが朝っぱらから壮絶な笑顔で向かい合っているんだけども!?


「……。」

「……、」

 居心地の悪いエレベーターのアレを七〇〇倍くらい濃縮したような空気に、寝ぼけ眼のまんまうっかりリビングに顔を出しちゃった僕は完全に凍りついていた。

 あの真夏の太陽みたいにいつでも明るいアユミが階段の辺りでこそこそしている時点で迫りくる危機に気づくべきだったんだ。

 ……ていうかそれは良いとしてダイニング側でまごまごしてる父さんは何なんだっ!? アンタこの複雑極まる家庭環境については割と全ての元凶っていうか責任を持って爆弾処理するべき立場の人だよね!!

「あら、午前中は主婦にとって地獄の戦場タイムだって事くらいあなただって分かるでしょうに。失礼、『元』専業主婦だったかしら」

 先手の義母さんがいきなりひどいっ!!

「私はすでに禍津に姓を戻し、この家を出た人間です。だから今さらこの子の生活態度や教育方針に口を出すつもりはないわ」

 でも全く堪えた様子もない後手の母さんも怖いってば!!

「……でもそれがこの子の身の安全に直接関わる案件なら話は別よアバズレ。あなた、自分の子供の命の危機にも気づかずに人の親でも気取っているの。アークエネミー?」

 ……うん?

 なんか、雲行きが怪しくなってきたぞ。朝っぱらから特濃の昼ドラに巻き込まれたって顔してる場合じゃないような? てか何で僕の命がまな板に載ってんの!? メチャクチャ話題の中心じゃないか!!

「私が『狩る側』だっていうのは知っているわよね、怪物」

 言いながら、母さんは小さなバッグから取り出した紙の資料を適当に放った。

「先日から出回っている最有力の手配書。懸賞額は東欧で一国を支配し尽くした人狼よりも上。複数の仲介人を挟んでいるけど依頼主は十中八九モンスター企業のワイルド@ハント経営陣ね。……で? どうして化け物退治の手配書に人間のサトリちゃんが挙げられているのかしら。近くにいて何も気づかなかったの? 分からないと言ったらその時点で前歯とさよならさせるわよアバズレ」

 ギロリと義母さん、天津ユリナから横目で睨まれるし。あふん、そいつは親に迷惑かけやがっての顔かな!?

「で、でも大丈夫だよ!」

 ああ情けない、ママンからの圧に負けて声が上ずるだなんて意地とプライドが全ての思春期高校生失格だ。でも絶対に普通のご家庭じゃ味わえないプレッシャーなんだってば!!

「多分これ、情報がちょっと古いんじゃないかな。ビッグデータを逆手に取ってワイルド@ハントに間違った犯人、ゼロから作ったポゼッションスピリットっていう架空のハッカー集団を追わせているから、今も僕がロックオンされているとは思えないんだけど」

「つまりサトリあなた結局危ない事はしていた訳!?」

「そこで責められるのはサトリちゃんじゃなくて全く状況を把握していなかったあなたでしょうがアバズレぇ!!」

 二大怪獣がついに取っ組み合いになって間に挟まれた僕が揉みくちゃなんだけど、こんな終わった問題をぶり返しても仕方がないだろう! あと父さんが助けに入らなかったのはきっちり記憶しておくからなっ!!

 と、そんな風に思っていた時だった。

 朝のニュースを垂れ流していたリビングのテレビがこんな風に言ってきたんだ。


『続いてのニュースです。ハッカー集団・ポゼッションスピリットによるサイバー攻撃の声明が発表されました』


 あっ?

「ああ!? 何だこりゃ、マクスウェル!!」

『ノー。システムは関与していません。ポゼッションスピリットなるハッカー集団が存在しない事も確認してからデータ操作を行っています』

 でも現に実際の事件は起きている。

 さらにアナウンサーはこう続けたんだ。

『同集団は今朝、供饗市を中心に周辺七つの街で起きた鉄道管制システムの故障による広範囲での運行停止問題への関与をネット上で認めており、ただいま、朝のラッシュと重なった事で通勤通学に多大な影響が……』

「誰かが、僕達の作った架空のハッカー集団を乗っ取った?」

『ノー。しかしポゼッションスピリットという名前はワイルド@ハントのメインフレーム内にしか存在しないはずです。有象無象の愉快犯や模倣犯に利用されるとは思えません』

 二人の母さんの目線がすごーく厳しいけど、時間は巻き戻らない。

 テレビはまだなんか言ってやがるし。

『……また、ポゼッションスピリットはこの一件に限らず今後も続けて犯行を重ねる旨も発表しており、当局ではこれがホワイトハッカー達の祭典、テクノパレードとも関連している可能性も視野を入れて捜査を始めたとの事です』

 ははあ、つまりワイルド@ハントはまだ僕を諦めていないのか。

 ハックも何も、物流の帝王たるワイルド@ハントは元から鉄道、港湾、空港、さらには車の自動運転やドローン宅配まで、様々な輸送インフラを開発、提供している。つまり弱点だって知り尽くしているはずだし。

 第一優先はポゼッションスピリットだけどどうも嘘臭いから、その名を騙って悪さを続ければ仕掛け人の僕がボロを出して止めに入らざるを得ない。そんな風に考えたんだなちくしょう!!



 ちょっとトイレに、と完璧な演技で席を立ったはずなのに実の母、禍津タオリが割と本気のタックルをかましてきたので何とかこれを回避して、迫り来る二人の母さんに隅でこそこそしていた全く役に立たねえ父さんを投げ込んでみた。そんじょそこらのラブコメではできない特濃昼ドラな新世界でも展開しておくれ。その間に僕はお風呂場の方に回って窓から脱出を図る。

 ちなみにお隣さんのお風呂もビタリと間近。至近数メートル先では幼馴染みのデコメガネ委員長が毎朝の儀式をしている真っ最中であった。

「やあおはよう委員長、朝シャンにぴったりの清々しい朝だね!」

「ぎゃーっ!!!???」

 この窓、角度的にウチからしか見えないからって不用心だな。うふふそれに石鹸やアヒルのおもちゃが飛んでくるくらいなら可愛いもんだ。あとやっぱり委員長はこんな時でもメガネ外さないのな! 一〇〇点、全体的に文句なし一〇〇点満点の絶品でございます!!

「さ、さ、サトリ君は朝っぱらからパジャマで何をしてるの!?」

「朝っぱらから窓開けて全裸にメガネと石鹸の泡だけの委員長にお願いしたいんだけど着替え貸して」

 別に女物の衣類に興味がある訳じゃなくて、委員長の家には今でも僕のための着替えや靴が用意されているのだ。……離婚のゴタゴタの際に良くこっちに逃げ込んでいた時からの名残で。

 委員長が脱衣所に引っ込み、ドカドカと荒々しい足音が家の中に響き、そして僕は顔を真っ赤にした制服の幼馴染みから男物の私服とビンタをもらった。

 物陰で衣類に袖を通していると、濡れ髪の制服委員長が小首を傾げた。

「あれ? でもサトリ君、その服じゃ学校どうするの?」

「……、」

「あっ、その今さら気づいたかって沈黙! ま、ま、待ちなさーい!!」

 委員長が慌ててこっちに回り込んで来ちゃうとそこにはまだ着替えが終わっていないギリシャ石像モードの天津サトリが待っているんだけど、これは僕の意図じゃないぞ。委員長の方から押し入って来たんだからなっ、ノーカウントだ!!

「わあーっ!?」

 さてわざわざポーズを決めて委員長のメモリーにとんでもないものを焼き付けたところで本題だ。逃げろっ!!

『……ユーザー様の半分は最低でできていると思います』

「もう半分が最高なら文句なしだろ」

『その返しも含めて全部最低です』

「大体、委員長はああ見えて鍛えているから正攻法の真っ向勝負じゃ逃げ切れないよ」

 事実、突然のサトリショックから立ち直った委員長が早くもこっちをロックオンし始めている。くそ、振り切るにはもう一発必要か。

「ははは委員長全力全開で人を追い駆けるならもう少しスカートは長めにしておいた方が良いな! サービス精神の塊め!!」

「ッッッ!?」

 慌てて内股になって両手でスカートを押さえた時点で勝負は決まった。無事に振り切って行方をくらます。

『サイテー』

「お前からご褒美もらっても嬉しくないよ」

 僕は立ち止まり、一息ついて、

「母さん達も有耶無耶になったみたいだな。じゃあ戦闘モードに入ろうか。ポゼッションスピリット。僕達が作った架空のハッカー集団になりすまして無差別攻撃を繰り返すワイルド@ハントに一発デカいのをぶちかまそう」



 ひとまず海側に向けて歩を進めながらマクスウェルと世間話を。

『正確な数や位置は非公開ですが、ワイルド@ハントのセントラルサーバーはおよそ一四〇の国や地域に建設されているとされています。該当国の取引データを一手に集めた上で、同格のサーバー群と共有する事により全世界のビッグデータを万全で取り扱えるようにしたものですね』

「知ってる」

 様々な紛争や情報盗難を避ける意味で看板も下げておらず、外からは何の建物かも分からなくしているらしい。そう、らしい。自称だけの内輪トークはいくらでもネットに出回っているけど、目撃談なんてどれもこれも信憑性はない。

 その上、

「日本だけセントラルサーバーはあるけど永遠にメンテ中とかいう噂のアレだろ。なんかこの国だけ海外の部署に肩代わりしてもらっているんだっけ?」

『まったくこれだからですか?』

「まあ所詮は国外の企業の決定でしかないんだけどね」

 当然、僕達としてはワイルド@ハントの深い情報が欲しい。となると巨大企業の全データにフルアクセスできるこいつが標的になってくる。

『日本のデータ処理をどこが肩代わりしているかは不明ですが、防壁は堅牢で供饗市から攻めるにしても物理接触なしでは限度があります』

「中まで忍び込めないなら、外までお宝を持ってきてもらえば良いのさ」

 僕は適当に言って、

「この供饗市にもワイルド@ハントの物流基地があったはずだ。まずはそこに忍び込んで、どこかで間借りしているセントラルサーバー行きの報告書の書式ファイルを手に入れる。後はウィルス付きのデータを正規内部ルートからそのセントラルサーバーに送り込めば、一四〇のエリアを統合した膨大なデータの星空を表に出してもらえるぞ」

 どっちみち、ポゼッションスピリットの件がなくてもこっちだってワイルド@ハントのセントラルサーバー扱いの機密データには用があったんだ。いわれのない『作られた虐待』が世界規模で実験を繰り返しているなら、そのリストを手に入れて全員をビッグデータの檻から解放する必要があるんだから。

 目的の物流基地は、湾岸の倉庫街にあった。大きさは体育館四つ分くらい。一つの建物としては破格のサイズだけど、これでも世界の隅々に根を張るワイルド@ハントとしては足りないくらいらしい。

 海を越えて港から運ばれた多数の物資はあの中で細かく仕分けられて、注文を出した各家庭に向けてトラックやドローンを走らせる訳だ。

 さて。

『警備は厳重ですよ』

「分かってる」

 人件費や配送時間の短縮を行っているなら、実際に大量の荷物を仕分けしているのはロボットカートだろう。仕事場訪問みたいな番組で、そこらのスクーターより速くて重たいカートの群れが巨人の機織り機みたいに縦へ横へと動き回っている映像を見た事がある。人間の職員なんて数人程度で、郵便局のハガキ仕分けシステムみたいに宛先が読み取れずエラーになった分だけ人の手で処理するようになっているはずだ。セキュリティだっておそらく大多数の警備はカメラやセンサーに任せているだろうけど……それでもこっちはただの高校生なんだ。そんな簡単に建物の奥の奥まで侵入させてもらえるなんて甘い事は考えない。

「でも建物に入らない程度ならどうだ? このフェンスを越えるくらいなら僕でもギリギリ何とかなるだろ」

 表に関して言えばあちこちにコンテナや木箱が山積みにされているため、固定のカメラからは割と死角が多い。総面積に反比例して人間の巡回要員は極端に少ないから、実質的にフリーパス状態だろう。全ての出入り口をカメラやセンサーに押さえられた建物の中さえ入らなければバレる事はなさそうだ。

 当然、重要なモノは全て建物の中だ。外をうろついただけじゃ何も手に入らない。物流基地のサーバールームにオンラインアクセスしている時間が十数秒しかないから、盗み出すべきはおそらくチーフスタッフが正規報告用に貸与されているのはUSBに挿して認証解除するハードウェアキー。これがなければどこの国に借りているんだかも分からない、一四〇のエリアを同期したセントラルサーバーにはサイバー攻撃を仕掛けられない。

 ここには魔法の鍵を取りに来たんだ。

「よっと」

 ひとまず行ける所まで行ってみるまでだ。

 金網のフェンスを乗り越え、カメラの死角となる位置取りをマクスウェルにガイドしてもらいながら、大きな建物の裏面へと回り込む。

『どうするつもりですか?』

「派手にやろう」

 施設の図面はすでに押さえてある。

 建物全体は体育館四つ分くらいあるけど、サーバールームや責任者が収まる事務室は端の方に寄せられていた。外国の建築でありがちな、コンテナみたいにフレームで六面の壁、床、天井なんかをはめ込む組み立て式だ。……ま、予想通りすごい突貫だな。大きなハコモノの内部に、後から物置みたいな部屋を付け足したのかな。外から見ているだけで取り付けボルトの位置が分かる。

「ここと、ここ。この柱と、うん、このボルトがあれば良い」

 ……そしていけないなあ。ロードローラー? 操業アシストシステム? なんて言っているけど、実質的には無人運転と変わらないじゃないか。公道を走らせない私有地限定なら問題ないと思ったかな。どうやらネット通販で空き箱が溜まるのはお客さん側だけじゃないらしい。おそらく邪魔な木箱を潰して再利用資材に回すためのものだろうけど、これを使わない手はない。

「こっちから忍び込めないなら、向こうから出てきてもらおう。マクスウェル、そこのロードローラーの制御を奪っておけ」

『シュア。そのワイヤーはどうするおつもりですか?』

「決まってんだろ。あれとこれを結びつけるんだよ」

 準備が整ったら始めよう。

 僕は少し離れた木箱の裏に隠れつつ、スマホに命令を飛ばした。


「マクスウェル、ロードローラーを全速前進! ワイヤー使ってサーバールームを引っこ抜け!!」


 直後に起きたのは大爆発だった。

 僕の親指より太い金属ワイヤーに引っ張られ、薄い壁の向こうからコンテナ状の組み立て式ルームがそのまんま飛び出してくる。ロードローラーはロードローラーで金網のフェンスを突き破り、車輪も持たずに地面に床を擦り付けて盛大にオレンジの火花を散らす部屋を連れてサンタクロースのように旅立ってしまった。

 言うまでもなくこの施設の心臓部だった、全ての荷物の配送状況をICタグで追跡管理するサーバールームだ。

 ……厳密に言えば外から見てむき出しだったボルトや鉄骨部分にワイヤーを固定し、多数の金具で繋がっていた小部屋も一緒に引きずり出したんだけど。

『なっ、あ!? 何だあ!!』

『追え、とにかく追い駆けろ!』

 数少ない職員や警備員が慌てふためいたところでもう一発。

「マクスウェル、今度は事務室だ。丸ごと引っこ抜け!!」

 全く同じ事の繰り返しだった。二台目が動くと体育館四つ分もの巨大施設の壁を突き破って小部屋が丸ごと盗まれていく。しかも今度は肝心要のハードウェアキーを持つ責任者を乗せたまま、だ。

「事故を起こさないよう適当に街中を引きずり回して時間を稼いでおけ」

『構いませんが、こんな事したら全世界を結んで同期する親玉のセントラルサーバー側から警戒されてアクセスを遮断されますよ。現場責任者のチーフスタッフが首から下げているハードウェアキーも凍結され、別の中身が再配布されるはずです』

「でもそのハードウェアキーの中身を入れ替えるデータ交換作業は普通の電波に乗って飛んでくるはずだ。このスマホで傍受すれば、そっくり同じフリーパスが手に入るぞ」

 元々ああいう魔法の鍵は長くても数日スパン、短ければ一回の使用ごとに鍵のファイルが新しいものに差し替えられる。そう聞くとさぞかし堅牢に思えるかもしれないけど、逆に言えば頻繁に交換するって事は頻繁に通信している訳で、つまり送受信のタイミングさえ分かっていれば横槍を入れるチャンスもあるってだけだ。

 よほど強烈な指向性電波でもない限り、無線通信は基本的に平等だ。該当エリア内にアンテナを立てれば誰だって受け取れる。

「ワイルド@ハントがどんなスパンで鍵のファイルを交換するかは知らないし、最悪、何日もなんて待っていられない。ならこっちから緊急交換のきっかけを作ってやるまでだ」

 何が起きたかも分からず、とりあえず社用車に乗って持ち去られた部屋を追い駆け始める職員達。

『周辺を飛び交う一〇〇八種の電波情報を全て傍受。うち、ハードウェアキーと書式が似通ったデータを発見しました。電子発行書の名義はワイルド@ハント米国本社、円周率のような答えの出ない数式に見せかけた固定の暗号鍵です』

「よし、今日も清々しい一日だ」

 もちろんマクスウェルみたいに特別なシステムがないとこう簡単にはいかないんだけど。すっかり誰もいなくなった敷地から僕は普通に歩いて立ち去っていく。

 大切な宝物を分厚い金庫に隠しましたと言われて素直に最深部まで向かうような頭の硬い人間はこういうのに向かない。なら金庫に入れておくと湿気にやられますよと嘘をついて、当人の手で宝物を金庫から取り出してもらうくらいの柔軟性が必要だ。

「手に入れたハードウェアキーの中身を使ってセントラルサーバーにフルアクセス」

『ワイルド@ハントセントラルサーバーインド担当ニューデリー局への侵入成功しました』

「いん……? 何でまた!?」

『人口爆発を想定して緊急増設を行ったものの、意外と小幅な伸びだったので空き容量が余っていたようです。まあ、日本の人口なんて彼らの一〇%程度ですからね』

「……僕達は端数切り捨ての誤差扱いかよ」

『全てのセントラルサーバーは権限が同一ですので、一四〇の国や地域にある全データにアクセス可能です』

 少し離れたチェーンの喫茶店に入って適当にコーヒーを頼み、座席に腰掛ける。どうやら空いている時間帯みたいだな。

「念のために別口でバックドアを埋め込んでおこう」

 まどろっこしいかもしれないが、全く同じ鍵が二つある状態は異状なんだ。今はチーフスタッフが部屋ごと引きずり回されて混乱の極みにあるはずだけど、ちょっと冷静になれば怪しまれて鍵が凍結されてしまうかもしれない。

 その点、新しく埋め込んだバックドアなら誰にもログイン状況やデータの流れを監視されないから、凍結や逆探に怯える事なく思う存分フルアクセスできる。面倒でも安全策を取っておくべきだ。

「処理が終わったらハードウェアキーを捨てて、バックドアから再アクセス」

『シュア。乗り換えに成功しました』

 これで怖いものはナシ、と。

 僕が欲しいのは二つ。

 世界規模で無作為抽出して行われる『作られた虐待』を食い止めるための該当者リストと、僕達が容疑を逸らすためにゼロから作った架空のハッカー集団ポゼッションスピリットの名を騙って悪さをしているのは誰なのか、だ。

『該当者リスト出ました。総数五一二名、意図して地域や文化の異なるパターンを網羅しようとしていたと思われます』

「それだけの人間を苦しめて、生き血をすするように実験の精度を上げていった訳か。人間か、アークエネミーか。そんなどうでも良いくくりを調べるために。今すぐ潰せるか?」

『シュア。家庭環境の悪循環である閉鎖状況に風穴を空ければすぐにでも。これは一例ですが、防犯マップに手を加えて該当者宅至近の街灯に防犯カメラをつけてもらうだけでも計算上劇的な変化が期待できるはずです。環境変化の作業完了まで二時間もかからないでしょう』

「頼む」

『作られた虐待』はこれで経過観察だ。改善が見られない場所にはアラートを点灯してもらって、個別に対応していけば良い。

 今できるのはもう一つ。

 ポゼッションスピリットの件だ。

『ワイルド@ハントと提携している広告代理店に同名の単語が浮上しています。どうすれば大衆の悪感情を誘発できるか、専門家に意見を伺っていたようですね』

「でも広告アドバイザーにサイバー攻撃の腕はない。やられたのは鉄道インフラで元々ワイルド@ハントが開発提供しているものとはいえ、教えられた通りに脆弱性を突く実行犯はきちんとした知識を持つ人間のはずだ。誰が依頼して、誰が引き受けた? この二つは絶対に押さえておきたい。後腐れなく叩き潰すために」

『シュア。体面の問題からか、ハッカー集団に類する直接の言動は見られませんが』

「絶対にここにある。保安部門とかセキュリティ外局とか、適当な肩書きをつけているはずだ」

『見つけました。社外取締役幹部の中にそれらしい経歴の持ち主がいます。アジャスト=レックス。工学のスペシャリストですがそもそも出生、国籍、学歴のデータに不審な点があり、しかも複数の口座を経由した金の流れを追う限り鉄道インフラ障害のタイミングと直近、前後で挟んで一〇〇万ドルずつ入金されています。細かいリベートの積み重ねを装っていますので、仮に最終的な送金先を特定されてもまともな計算方法ではバレないように細工されていますが』

「典型的な前金と後金だろ。そいつをピックアップ」

 アジャストに、レックス。

 名前自体も新しく調達しているのかもしれないな。存在しないはずの社会保障番号を差し込んで。

 にしても、今までの異能ハッカーを抱えるハックオアスレイブでさえあくまでも外注の下請け部門扱いだったのに対して、今度は経営に口を出せる幹部レベルが顔を出したか。社外扱いとはいえそんな位置にハッカーを据え置くだなんて、ワイルド@ハント側にとっても虎の子だったのかな。

「じゃあポゼッションスピリットについては何か出たか。アジャスト個人のストレージ……は覗き見できる訳ないか」

『ユーザー様、ベンチマークテスト前に勝手に諦められるのはいわれなき侮辱と受け取っても?』

「お前は純粋なハックマシンじゃなくて、災害環境シミュレータの応用でそういう機能を代替しているだけだろ。松明で人を殴り倒すのと処刑斧を振り下ろすのの違いだ。どうしたって第一線の本職とは差が出る」

『……、』

「わざわざテンテンを返すなよマクスウェル。大体、何でお前がコンプレックスを抱く必要があるんだ。殺す事しかできない斧と、闇を照らす事も家に火を点ける事もできる松明。どっちが優れていると思ってるんだ?」

 ともあれ、標的はまるで凄腕の猟師が篭る吹雪の山小屋だ。しかも手の中で猟銃を磨き続けているような。正攻法で押し入れば蜂の巣になりかねない。そしてこっちは共倒れの死闘なんか望んじゃいない。

 死ぬなら一人で死ね。

 それじゃあハンターが想定もしていないような搦め手を考えよう。

「……マクスウェル、バックドアはこのまま有効だな」

『シュア。いつでもワイルド@ハントの最深部、セントラルサーバーニューデリー局から全データに群へ接触可能状況を維持しています』

「ならいったんログアウト。別口の外堀から埋めていこう」

『具体的には?』

「故障した鉄道管制インフラ」



 そう。

 今朝方この供饗市を中心に大規模な鉄道インフラ破壊が行われたのは事実。でもその犯人がポゼッションスピリットと何で断定できる? 現場に何かしらのデータの痕跡でも残っていたっていうのか。

 犯行声明のネット動画はそれだけじゃ痕跡としては弱い。基本的に匿名が前提のハッカー達は便乗やなりすましも得意だからだ。

 そして改めて大混雑の駅に向かい、駅員に食ってかかる人だかりの横をすり抜けて駅ビルと連結している駅舎の奥へ。黄色い半帽のヘルメットに反射テープをつけた作業服のおじさんの腰にあった携帯端末にスマホを近づけ、短距離無線経由で情報取得。運行障害と復旧状況について現場で流れる正確なデータを手に入れる。

『列車の運行間隔調整システムに不正アクセスが行われたようで、確認が取れているだけで三二ヶ所の脱線、四件の追突、三件は橋やトンネルで立ち往生しています。幸いどれも扱いは軽く、負傷者はいても死亡者はいません』

「わざとだろ。ポゼッションスピリットを悪目立ちさせる事で間接的に僕を攻撃したいけど、ワイルド@ハント自慢の鉄道インフラのイメージが修復不可能になっても困るってだけだ」

 大元の鉄道管制に忍び込むのはやっぱり難しいけど、不正アクセスやウィルス感染の有無を調べるだけなら末端のセンサーに触れるだけで良い。自撮り棒の先につけたスマホを駅のホームから一段低い線路へ伸ばし、等間隔でレールとレールの間に埋め込まれた機材へ数センチまで近づける。こいつは赤外線だ。

『悪意のあるソフトウェアを確認、組成を見るに無害ウィルス「ウェザーアラート」の亜種で、本来なら存在しない毒性が付加されています』

「アナスタシアのウィルスを拾って加工したのか?」

『電子発行書の署名は、(ノД`)ポゼッションスピリット(*´Д`*)凸となります。バカでも分かる動かぬ証拠ですね』

 元々アナスタシアは個人、企業、政府を問わず脆弱性の更新を怠るユーザーに無害なウィルスを送りつけて善意の警告を行う事で自身をホワイトハッカーと規定していた。

 それが自前のウィルスへ勝手に手を加えられて多くの被害を出し、しかも個人的な知り合いである僕を陥れる目的で振るわれていると知ったら……。

「……こいつはあの子には絶対に内緒だな。一発で沸騰するぞ」

 そして頭に血を上らせても事が良い方向に運ぶはずがない。アジャスト=レックス。下手に突っかかってもヤツの思うつぼになる。

 意外と長い話になりそうだったので手近なハンバーガーショップに入る。さっきも喫茶店を使ったばかりだからお腹は減っていない。適当にポテトだけ頼んでガラガラのお店のボックス席に腰掛ける。……このガラガラぶりなら迷惑はかけないよね?

「マクスウェル、ウィルスを献体として凍結保存。仮想領域でソースを分解精査しろ」

『ここにはアナスタシア嬢のウェザーアラートの模造品しかありませんが』

「毒性部分はヤツのオリジナルだ。マクスウェル、その危険なコードをコピーして新しいウィルスを作成、ああ、毒性部分はコードを一文字削ってエラー扱いに。実被害は必要ない。準備ができたらセントラルサーバーの……インド窓口? とにかく最奥にログインして、全世界に根を張るワイルド@ハント全社の社内ネットに送りつけろ。巨大な衛星から末端のペットロボットまで全部だ」

『シュア』

「事前察知して侵入をブロックできたデバイスはどれとどれだ?」

『検索結果一件です』

「ならそれがアジャスト所有のハックマシンだ」

 全世界未公開のウィルスを、それも防壁内部から送り込まれたものを、事前察知して対応できる人間は非常に稀だ。映画に出てくるようなミラクルハッカーか作成者ご本人様と見て良い。

「具体的にハックマシンの正体は?」

『テキサスにあるワイルド@ハント物流管理AI研究所の実験演算機器の三号機です。ようは砂漠のど真ん中に建つ巨大な冷凍倉庫とずらりと並んだ並列マシンの組み合わせですね』

「でもこの中はヤツの工作室だ。アナスタシアの無害ウィルスを改変して僕達に罪を着せた証拠のデータだって収まっているはずなんだ」

『ノー。ファイアウォールは堅牢で、普通の手段でデータを引っこ抜けるとも思えません』

「……マクスウェル、この施設の中には誰がいる?」

『基本的に固定のカメラと巡回用の飛行ドローンのみで、警備やメンテナンスの人員は非常サインがなければ入れない仕様になっています』

 なら安心だ。

 分厚いファイアウォールを攻めるのは難しくても、扱う人間側に隙があれば難易度は変わってくる。

「マクスウェル、アジャスト名義の整備マニュアルを偽装しろ」

『誰に読ませるためのものですか』

「適当な電気火災を起こして、外にいる消火部門に踏み込ませるんだ。これだけ広大でしかも普通の放水で消せない特殊状況を想定している場合、地元の消防隊に任せるとは思えない。ワイルド@ハントは自前の災害対策部隊を常備させているはずだ」

『偽装マニュアルには何とお書きすれば?』

「電気火災が片付いたらシステムチェックのため、内部の機材にモバイル機器を繋げるように。彼らには健康診断のつもりで外部インターネットに膨大な機密データを投げ捨ててもらおう」

『わお、世界最大のATM詐欺です』

 命令権の強い縦社会は、だからこそ疑問を挟みにくく個人個人は騙されやすい。

 そして外からは堅牢なシステムでも、内部の機材にモバイルを挿してしまえばハードルは格段に下がる。そのモバイルを出島のような窓口にして、どこにでも転がっている市販品のファイアウォールを何とかすれば良いだけなんだから。

「よし、よし、よし……」

 地球の反対側では無事に想定通りの混乱が起きて、多数のデータが手中に雪崩れ込んできている。無料のストレージで足りるかな。でも、セントラルサーバー経由で内側から派手にウィルスをばら撒いたし、流石にこれ以上あのバックドアを使い続けるのは苦しいかもしれない。

 再戦はない。

 この一発でケリを着ける。

 そんな風に思っていた時だった。ガタンと、薄っぺらなパーティションを挟んで背中合わせに腰掛けていた誰かが立ち上がったようだった。

 ……いや?

 スマホカメラから僕の肩越しに背後を観察できたマクスウェルがふきだしを撒き散らす。

『警告!! アジャスト=レックス張本人です!!』

 バヂン!! という鈍い音が頭の中で炸裂する方が早かった。

 スタン、ガン?

 よりにもよって電極を頭に押し当てたのか。痛いというより気持ちが悪い、吐き気がする。自分の体も支えていられず、僕はそのまま目の前のテーブルに突っ伏していった……。



「……う」

 何だ。

 どこか、そう、冷たくて硬い場所を引きずられている……?

 ここはどこだ。

 僕はどうなった。

 スマホは、取り上げられたか。マクスウェルや家族に繋がるデータは守れているのか。

「ある店の空気はそこに通う常連で変わる。君はもう少し立地について考えてみるべきだったな。ここは社宅の近くでね、客層の七割はワイルド@ハント関係者だよ。何の変哲もないチェーン店だが商品管理がザルでさ、よその店よりポテトの量が多くて気に入られていた」

 ……アジャスト=レックス。

 金から灰色に変わりつつある髪を後ろに撫で付けた、白人の大男。高級スーツの上から防寒性じゃなくて陽射し対策だろう、くたびれた夏用の薄いコートを羽織った中年のおっさんだった。企業経営者っていうよりは、成り上がった汚職刑事って方がずっと似合う。ルールは守るが、そのルールで人を傷つけて甘い汁をすする人間の顔だ。

 睨みつけても意味はない。僕を後ろ手に縛っているのは、合成樹脂の結束バンドか? そもそも両手が自由だとしても、こっちはただの高校生だ。マクスウェルの補助もなくスタンガンを手にした大人と徒手空拳で殴り合って制圧できるとも思えない。

 運び込まれたのはタイル敷きの床に銀色の調理器具が並ぶ、窓のない部屋だった。裏手の厨房だろうか。

「ようこそゴキブリ野郎、我々の城へ」

「……ありえない。いくら御用達だからって店内でスタンガン振り回して子供を奥へ引っ張り込むような真似を、ここの店員達が見過ごす訳ない! 小金を掴ませて黙らせられる限度を超えてる!!」

 声に、しかしアジャストは何も言わなかった。ただ一際大きな業務用の冷蔵庫にチラリと目をやっただけだ。

 ……おい。

 まさか……だよな。

 言われてみれば、気を失って以降、僕はお店の奥へ引きずり込まれたのに誰の顔も見ていない。囁き声一つないのもおかしな話だけど!!

「お前のスマホは見せてもらった。洋梨フォンのバージョン8オメガ、敢えての高機能旧式機か。渋いチョイスだ、率直にそのセンスは好感が持てる」

「……テキサスにあるアンタのハックマシンはもう丸裸だ。露出狂のお嬢ちゃんは恥も外聞もなくコートの前を広げて表へ機密データを見せびらかしてるぞ」

「しかも躾もできている。お前のガイド役はスマホを操作する者へ無条件に従う訳でもないらしい。おかげで中のデータを調べる前に全部吹っ飛ばされたよ。単なるデータ処理だけじゃない、リチウムイオンバッテリーを起爆してオレの指を吹っ飛ばそうとしやがった! ははっ!!」

「ポゼッションスピリットの正体はじきに割れる! アンタの城はもう崩れた!!」

「そんな事は、どうでも良い。……忘れたのか、そもそもオレがポゼッションスピリットになりすましたのはネットワークの裏に潜ったお前一人を水面まで釣り上げる事、それだけだった」

「……最初から、テキサスの施設を丸ごと釣り餌として使い潰すつもりだったのか? あれ一基でいくらかかると思っているんだ」

「ざっと五〇〇億ドル、今日の日本円なら四兆九〇〇〇億程度かな。確実に敵を葬る戦争費用としてなら安いくらいだ」

 ……国家予算とかで出てくるレベルの金額だぞ。

「さてゴキブリ野郎。オレの方はこんな感じだ、でもお前に活路はあるかな。ほらご覧の通り、頼みの綱のスマホはバッテリーが吹っ飛んでバラバラだ。もうジメジメした日本のオタク臭い手作りコンピュータとおしゃべりはできないぞ」

 ガチャリという金属音が響く。

 調理台の上にあるのは、何だ。後ろ手に縛られたままタイル敷きの床に転がされているとそっちの様子は見えない。でも何にしたって嬉しいものじゃないはずだ。

 ……つまるところ。

 義母さん、天津ユリナ達がアブソリュートノアなんてものを作って少数でも乗り越えようとしていたカラミティとは、まさにこれだった。

 人を人とも思わない究極のモラルハザード。しかもそれが世界同時多発的に、惑星を飲み込む規模で発生する瞬間に怯えていた。だから義母さんは自分達の手を離れて暴走する光十字が世界に放映した『コロシアム』を見ても熱狂する事も仕方ないねと諦める事もなく、当たり前のようにふざけるなと反発できる強い心の持ち主だけを方舟に乗せようとしていた。

『その日』は近いらしい。

 ならば気が早い話だけど、一足先に該当者が徘徊していてもおかしくない。普通に考えれば絶対にありえない事をやらかす野郎が。

「四兆九〇〇〇億……それにしたってこの大金だ。お前一人を追い詰めるのにここまでかかった。確かにこれは戦争費用として見れば安い額だが」

 そう。

 例えば、こうして厨房に人を閉じ込めて調理器具を吟味している、全く後先を考えないアジャスト=レックスのように。

「……人間一人が殺される恨みとしては、高い方だよな?」