第六章



 実際のところ。

 僕は過去にも似たような過ちを一度経験していた。

 そう、世界一〇〇ヶ国以上に根を張る光十字減災財団を壊滅させた時だ。

 光十字にさらわれ、テレビカメラの前で互いに殺し合いをするよう強要されたアークエネミー達を助け出すため、僕はこの国際組織の悪行を暴いて壊滅させた。

 結果、待っていたのは世界各地で行われてきた慈善事業の無期限凍結、新薬開発の遅延、途上国の治安悪化に伴う経済の停滞……。

 今でも僕が決断した事は間違えていないとは思う。アークエネミー達の命が失われなくて本当に良かった。

 だけど。

 あの混乱でどれだけの人が人生を踏み外したかは、もはや正確な数さえ把握できなくなっていた。

「前もあったから今回も大丈夫……じゃないんだ」

 僕はワイルド@ハント最終バックアップ、セントラルサーバー日本エリア担当施設を離れながらそう呟いた。

 今は、そうだな、公園とかに行きたい。直前でハンバーガーショップで奇襲を受けたのもあるけど、作戦会議なら取り戻した青空を見上げながらにしたい。

 ……自分のやった事は間違っていなかったって、誰かに証明してほしい。そんな気分だった。

「前のダメージを引きずっているから、今回も耐えられるかは分からない。おそらく義母さんの予測は正しいと思う。……僕はまた正しいと思う事をして、もう一つの悲劇を選んだんだ」

『……トゥルース』

「だけど前と違うのは、今回は事前に予測がついていた事だ。だからもう何かが起きるまで見過ごしたりしない。舵は切った。その先にある破滅を止めないと!」

 方針なんか最初から決まっているんだ。

 ワイルド@ハントの『作られた虐待』は止めなくちゃならなかった。ドローン禍だって放っておけなかった。

 まだ騒ぎの影響が尾を引いているのか、誰もいない児童公園にあるペンキの浮きかけたベンチに腰掛け、僕は会話に意識を集中していく。

『世界的企業ワイルド@ハントが失われた場合の損失は計り知れません。単一企業体としての影響ももちろんですが、同社は情報と物流に浅く広く業務提携を広げているため、共同計画を進めている企業や団体は少なからず悪い影響を受けるでしょう』

 ……例えばここ最近じゃ鉄道インフラなんかにも噛んでいたっけ。

『企業に限定してない辺りがヤバそうだわ』

『場合によっては国際規模の非営利団体や国家そのものと契約を結んでいるケースもあります。山岳地帯に輸送インフラを築いたり、砂漠の国に送水管を通したり』

「ようは、国家規模の買い物難民問題を何とかしようとしていたって訳だ。それがいきなり手を離されたら、比喩表現抜きに干からびかねないぞ」

『ユーザー様も他人事ではありません。別口の独立行政法人を経由していますが、日本政府もまたいくつかの国家的プロジェクトをワイルド@ハントに委託している状態です』

 風化してペンキの浮いたベンチを軽く撫でる。木材、金具、台座のコンクリ、有機塗料。さてこいつは何%が国産なんだろう。全部海外製と言われても今さら驚かない。

 ……そもそも食料自給率一つ見れば分かる通り、この国って何で存在を維持できるのか不思議なところがあるからな。つまりそれだけ『よそ』からの『持ち込み』を頼りにしているって訳だ。

 国土が小さいから生産力が弱く、かといって四方を全て海で囲まれた島国は物流の問題から逃げられない。かつて黒船だの蒸気船だの言われてきたものがGIとか農薬漬けのワックスオレンジを積んだ貨物船団とかになって、今はネットやら通販やらに名前を変えてる。

「ドミノを止めるには?」

『極めて困難ですが、ワイルド@ハントそのものの救済を求めないのであれば』

 頼りない背もたれに体重を預ける僕に、シミュレータはさらにふきだしで説明を重ねていく。

『ドミノ倒しは、ワイルド@ハント壊滅の報を受けた他企業が守りに入り、切らなくても良い安全な契約まで見直し、貸し渋りなどに移ってしまう事で次々と連鎖していきます。つまり逆に言えば、嘘でも良いから皆が強気の判断をするように仕向けられれば、ドミノを阻止できる可能性が出てくるのです』

『……でもそれは、相当強い嘘になるはずだわ』

 アナスタシアが難しい声を出す。

『確かに世の中には、どうしようもない理由で株価が大きく動いたって瞬間はあるわ。係員の聞き間違いで桁を二つ間違えて売買しちゃったり、自動取引プログラムがウィルスに感染して地獄の投げ売り合戦になったり。戦争が起きる災害が起きる、世界は予言の通りに滅びるんだって話が広まって値崩れした事だって』

「ああ。それがある事と、意図して起こせるかは別問題って話だろ」

 公園から青空を見上げれば、豆粒みたいに見える旅客機が細長い飛行機雲を引いていた。

『というか、できたら人類の頂点に立てるわよ。ベガスのデータを抽出して実験してたウチのスパコン、メフィストフェレスがまさにそれを目指していた訳だしね』

 有史以来あらゆる人を振り回してきた、金という概念を丸ごと支配する。

 まさしく前人未到、か。

 でもそれくらいの奇跡を持ち出さないと、もうカラミティは防げない。あれだけの力を持っていた義母さん、天津ユリナさえ世界を諦めてしまうくらいに。

 そう、

「影響力なんて言ったらそれこそ義母さんのアブソリュートノアが一番適任っぽいけど、でもダメなんだよな。その義母さんが止められない前提で話を進めているんだから」

『……フリーメイソンがままごとに見える秘密組織でしょ。あれ以上に惑星を覆い尽くす組織なんて聞いた事もないわよ』

「……、」

 僕は安全を取り戻した青空を見上げながら、少し考えた。

 でも、あるいは、あまりに突飛過ぎるか、でも今は、むしろ、そう、それくらいの派手なカンフル剤がないと……。

『ユーザー様。人の持つ最大の力はシステムにも不可能なレベルの情報連結機能、すなわち発想です。今はどんなに些細な意見でも俎上に並べるべきだと進言させていただきます』

「ああ、そうだな」

『笑わないから話してみなさいって。大体いっつもトゥルースばっかり面白い事を形にしててひどいわ』

 良い仲間を持った。

 間違いなく僕はそう言える。

「ひょっとしたら、義母さん達アブソリュートノアの発言力があればみんな騙されるかもしれない。世界恐慌なんて起こらない、だから安心してビジネスに励んでくれって流れを作れるかもしれない。でも、肝心の義母さん達はもうカラミティありきの諦めムードだからそもそも協力してくれない」

 まったくもって他力本願だけど、今の僕達に手の届く『世界の範囲』ってのを考えると、義母さんやアブソリュートノアは絶対に無視できない。

『ようは、天津ユリナ夫人を動かせれば勝機が見えるという話でしょうか』

『それこそどうやってよ!? ベガスの時に散々味わったわ、あれが自分の考え曲げてワタシ達に着くなんて想像もつかないわよ!』

「……それなんだけど」

 これから言うのは荒唐無稽の極みだ。

 でも、そもそもアブソリュートノア自体がお伽話に片足突っ込んだような存在なんだ。真っ当な方法じゃ交渉のテーブルにも着けない。だから破天荒なくらいじゃないと、使えるカードが手元に集まらないんだ。

 僕は膝の上に置いた小型カーナビに目をやって、

「良いかアナスタシア。おそらく世界の水面下、僕達にはさっぱり見えない裏の裏じゃあ、アブソリュートノアって単語はいつもちらついているんだと思う。でもやっぱり言葉だけが一人歩きしていて、それが何なのか正確に知ってる人は一握りしかいないんだ」

『そりゃまあ。そうでなくちゃ、ベガスにあったアブソリュートノア04のトラップにああも世界のVIPどもが引っかかる訳ないわよね』

 誰もが怯えているのに、誰もがその正体を知らない。どういう思想でどんな母体に支えられていて命令系統はどうなっているのか構成人員はどれくらいなのか組織図や敵対図についても何一つ。

 それが不気味だったのかもしれない。

 でも、だとすれば、だ。

「つまり、さ」

 僕は自分の舌で唇を舐めて湿らせた。

 そして言った。


「誰も知らないアブソリュートノアの最上位組織。僕達で勝手に作っちゃったらどうかな?」


 沈黙があった。

 ひょっとしたら何かとんでもない事を言ったんじゃ……。なんて気にさせてくれる、胃に悪い沈黙。

『は、はは』

「アナスタシア?」

『あははは!! つまり存在しないフェイクニュースで世界経済を操ろうっての!? トゥルース、アンタはいつもそうだわ。人がカーレースに勝つためエンジンがどうのタイヤがこうの燃焼効率空気抵抗重心計算とにかく色々必死に計算している横で、しれっとした顔して太陽圏脱出ロケットとか作ってんだから!!』

 なんかお気に召したようだ。

 一方のマクスウェルはと言えば、

『当システムはあくまでもリスク回避用の災害環境シミュレータです。故にネガティブ寄りの提案になるのをご容赦ください』

「大丈夫だ。本題は?」

『一般になりすまし行為は悪感情を生み出すものです。つまり、あのアブソリュートノア側から本格的に敵視されるリスクがあります。それも極めて高確率で、です』

「……、」

 さっきとは違った種類の、ドライアイスみたいに固まった沈黙が襲いかかってくる。

 あの、義母さんと。

 アブソリュートノアと。

『ユーザー様が今日まで生存できた大きな理由として、天津ユリナ夫人の関係者である点はもはや無視できないでしょう』

『マクスウェルアンタ!』

「いや、良いんだ」

『一転してアブソリュートノア側を本気で敵に回してしまった場合、のしかかるリスクはこれまでの比ではなくなるはずです。……世界は救われるかもしれないが、ユーザー様個人の身命の保証はない。そういう選択になりますが、覚悟はよろしいでしょうか』

 たとえどんなあいてでもぜったいにあきらめないでさいごまでたたかうぞ。

 優等生みたいな模範解答を並べるだけなら簡単だ。だけど僕はこの街の地下で行われてきた光十字の『コロシアム』から連綿と続く流れを見てきている。世界の仕組みを丸ごと押し流すほどの強烈な激流。それが僕っていう個人にぶつかってきたら? どう考えたって勝ち目はない。そのままバラバラにされるだけだ。

 義母さんは僕を守ろうとしている。そこに間違いはないと思う。だけど、そのために方舟を壊して家族全員の命を危機にさらすと知ったら、おそらく天津ユリナも本気になる。第一目標を捨てて第二目標に下方修正し、『できるだけ多くの』家族を守る方向に集中するかもしれない。

「……マクスウェル、アナスタシアも。その前に一つだけ確認を取らせてほしい」

『シュア』

『何よ改まって』

 息を吸って、吐く。

 そして言った。

「アンタ達は、アブソリュートノアと仲良くやっていく気はあるか? いいや、そこまでじゃなくても良い、どうにか『折り合い』をつけて付き合っていくつもりはあるか?」

 それはつまり、光十字の『コロシアム』やラスベガスのアブソリュートノア04と『上手に付き合っていく』って事だ。……少なくとも、自分は負の選定に選ばれる危険はないから、って考えで。

 奇麗ごとじゃない。

 優等生も今はいらない。

 シビアな現実の話をしよう。


「……なあ、そっちの方が怖くないか?」


 こんなのはマフィアやギャングを頼ってしまうのと一緒だ。一時的には心強く思えたとしても、その後はずぶずぶの恐怖に絡め取られて身動きが取れなくなる。『コロシアム』にアブソリュートノア04、あんなのの片棒を担がされて人生の退路を失ってしまう。

「どちらかを選べば楽ができるなんて甘い話じゃないんだ。どっちにしたって地獄を見るのは同じ。なら、右と左、どっちの地獄に飛び込みたいかって事に焦点を当てるべきなんじゃないかな」

 そして、だ。

「……地獄に立ち向かうなら総力戦だ。それこそ一分の隙も与えず、完膚なきまで叩き潰す。アブソリュートノア側に一回でも反撃のチャンスを与えたらこっちは粉々だ、だからこそ」

 尻込みなんてしていられない。

 やるしかないんだ。

 地獄の引力を振り切って元の毎日に戻るためには、何としても。


「アブソリュートノア、人類の方舟を丸ごとハックする。これ以上のアイデアってあるか?」


 これが僕の出した答えだった。

 知恵を全部搾り尽くしても、これ以上が出てくるとも思えない。

 果たして。

 アナスタシアもこう答えていた。

『……パーフェクトだわ』

「アナスタシア?」

『登山家は誰もが知ってる山を見て登りたくなるだなんて言い出すようだけど、トゥルースは違う。誰も見た事のない馬鹿デカい山を見つけ出すところから始めてしまうのよ。そうそう、そうじゃない! 全ての元凶がアブソリュートノアなら、何でそれをハックしようって考えなかったのよワタシ!!』

『ノー。下部組織であった光十字のラプラスですら正面突破は不可能でした。アブソリュートノアの情報管理システムはさらに先を行くはずです。簡単なタスクとは思えません』

 分かってる。

 そもそも世界はアブソリュートノアって言葉をぼんやりと知っているけど、それが何なのか詳細は誰も知らない。あれだけ大々的に動いておいて報道各社、諜報機関、暇なネットユーザーまで、誰も彼も尻尾を掴めないなんて普通じゃない。そして普通じゃない事は放っておいても自然に生まれるものじゃない。きっとアブソリュートノアは自分を守るために相当えげつない仕組みを産み落とし、ひっそりと世界に拡散させている。

 でも。

「ヒントが何もない訳じゃないんだ」

『どういう事でしょう』

 僕はベンチの背もたれから体を浮かせ、前のめりで語る。

「アブソリュートノアはこの街にある。供饗ダム、その底に。ラスベガスのアブソリュートノア04はこいつを模倣していたに過ぎないんだよ」

 そう、義母さんはあの時確かにこう言っていた。


 ……だからサトリ、お母さんはあなた達を回収したらいよいよダムの底にあるアブソリュートノアに向かおうと思う……。


 その言葉に反発して僕は走行中のトレーラーから飛び降りて、ここまで道を繋げてきたんだ。

 これから敵になるかもしれない義母さんの言葉にすがるなんて自殺行為かもしれないけど、僕を助けるためにトレーラーでハンバーガーショップまで突っ込んできた時の天津ユリナはそれだけ余裕がなくて、あそこでの言葉に駆け引きはなかったように思える。

『それだけでは糸口になりません』

「マクスウェル、アレはこの街にあるんだ」

 僕は繰り返すように言った。

「いいか、アブソリュートノアは鉄壁で、いくらマクスウェルでもそう簡単に防壁や通信暗号を解けるとは思えない。ここまでは共通認識で良いな?」

『……不本意ながら』

「でも、マクスウェルの力を借りても解読できない暗号なんてそうそうないんだ。ましてペンタゴンだのMI6だの映画の中に出てくるような連中ならともかく、こんな何もない地方都市でそんな高度な暗号通信が飛び交うとは思えない。いくら今がホワイトハッカーの祭典で世界中から変態どもが集まっているとしてもだ」

『まあ、大学なんかも結構ザルだしねえ』

「ワイルド@ハントもしっちゃかめっちゃかになったから派手には動かないだろう。だとすると、この街を行き交う『解けない暗号』がかえって僕達にヒントを与えてくれるんだ。中身は分からなくても良い、送信と受信、それぞれの場所を割り出せばアブソリュートノア関係者の潜伏先や取り扱っている地上アンテナの位置なんかが分かるはずだ」

 そして勘違いしてもらっちゃ困るのは、今の僕達の最大の目的は『アブソリュートノアの口を勝手に借りて、世界恐慌を引き金にカラミティへ落ちていく人々に歯止めをかける事』だ。アブソリュートノアの悪事を暴いたり、方舟自体を木っ端微塵に破壊する事とは話が違う。

 自分自身への確認の意味を込めて、僕は口の中で呟いた。

「必要なのはアブソリュートノアの言葉だって知らしめるための信憑性だ。なら、別にアブソリュートノアの中央コンピュータの最深部まで潜る必要はない。表層のアンテナを特定して、そこから『アブソリュートノアらしい』文面を装ったメールを世界中に一斉送信すれば、傍目には違いなんて分からないんだ。本物のアブソリュートノアはカラミティに対抗するための組織だ、おそらく始まってしまえばひとまず注視するはず。どっちみち外の世界は滅ぶものとみなしているなら、僕達を殺すのは完全に失敗してからでも良い。いいや、単純に方舟の外に締め出すだけでも」

『技術的な難易度は下がっても、身命に被るリスクは何ら変わりません』

「分かってる。でもやるしかない」

 何にしても時間はない。

 放っておけばドローン禍を起こしたワイルド@ハントへの責任論から世界恐慌に発展するのは間違いないんだから。それは多大な社会的ストレスを上昇させ、破滅的なモラルハザード、カラミティへと繋がっていく。

 こればっかりは絶対に止めなくちゃならない。

 僕は公園のベンチから立ち上がり、こう告げた。

「始めよう」

『シュア。ユーザー様にその覚悟がおありでしたら、これ以上止める言葉は持ちません』

 ……さて。

 ほんとにそんな勇ましい心があるのかどうかは、僕にも分からないけど。



 ドローン禍が終結したので、ひとまず僕は徒歩でアナスタシアと合流する運びになった。場所は彼女が泊まっているビジネスホテルのラウンジだ。

「カフェの店員も見事に消えてるわね。まあ不味いコーヒーとパサパサのサンドイッチしか出てこないからこれでちょうど良いけど」

「……また勝手にエナジードリンクなんか持ち込んで」

「コンビニもスーパーも人いないけど、自販機は普通に動いてるのよ。それにしても表はすごいわね。足の踏み場もないくらいドローンの死骸だらけ。あれってレアアースの潜在鉱山になっていないかしら」

「基板から掘り返す手間を考えたら、時給一三〇〇円の牛丼屋で素直にバイトした方が効率的だよ。ボランティア精神なら止めないけどさ」

 向かいの席へ座る僕に、彼女は新しい缶をこっちに軽く放り投げてきた。

「まだまだ長丁場になりそうだし、トゥルースも全身の血管に炭酸とカフェインぶち込んでおいたら?」

「その炭酸を投げるなよな。ほら乾杯」

「ぎゃー! こっちに飲み口向けてプルタブに爪引っ掛けないでよ、怖い!!」

 実際には不発だった。シャンパンみたいにはならない。そんなこんなでアナスタシアから渡された銀色の缶を掴んで軽く乾杯。

「魔王リリスにさらわれたっていう吸血鬼とかゾンビとかとは連絡ついた?」

「姉さんもアユミも音沙汰なし。しかも発信元を逆探するような動きもあった」

「……もうアブソリュートノアの中、か」

 彼女は小さく呟いた。

 僕も息を吐いて、

「義母さん達はドローン禍が収まっただけじゃ納得しない。そこからカラミティに繋がるって信じてるから、アブソリュートノアの扉を開けるつもりはないんだ」

「ま、ある意味自前の檻に怪物達が引きこもっていて外は安全って事でしょ。ポジティブに捉えましょうよ」

「だな」

 ……義母さん、天津ユリナの話だと『コロシアム』のようなモラルハザードの中でも大衆に流されず我を失わない強い精神の持ち主が条件みたいな話もあったけど、どうもおっかない印象の方が強いんだよな。

 僕はテーブルの上にカードサイズのカーナビ本体を置いた。

 アナスタシアは眉をひそめて、

「……トゥルース、またポケベル並に衰退期の機材に手を出してるわね。一体どんなカルトに宗旨替えしたの?」

「いつも使ってるスマホはワイルド@ハントのセレブ様のせいで天に召された。間に合わせなのは分かってるよ」

「ああ情けない! 言ってくれればスペアのモバイルくらいくれてやったのに!」

「基幹OSにどんなウィルス仕込んであるかも分からないハッカー手作りのオモチャなんて受け取る気ないよ」

「マクスウェルちゃんなら間違い探しくらいパパッと終わらせてくれると思うんだけどなあ」

「で、解決時間から駆除方式まで片っ端からモニタリングしてベンチマークテストにでも洒落込む気か?」

 脱線してしまった。

 そろそろ本題に入ろう。

「マクスウェル、アブソリュートノアが使っている疑いのある高い暗号強度の通信はキャッチしたか?」

『シュア。解読を考慮しないのであれば。山岳保養区にある通信塔と市外各地を結ぶ未知の信号を捉えました』

「それって?」

「ダムのある場所だ。山の中でケータイや防災無線を使う時はみんなこの通信塔を経由して電波を増幅するはず」

「もはや身を隠すつもりもないって訳ね。カラミティが来て全部破壊されるから偽装の必要はないって本気で信じているみたいだわ」

「マクスウェルあってこそ、暗号強度の件がなければ分からなかったさ。元々ダムは貯水量や水質のデータを絶えず水道局とやり取りしている訳だし、気象台とも連携して川が氾濫しないよう放水量を調整している。膨大な通信の中に覆い隠してしまえば違和感なんかどうとでもできる」

「親バカだねえ」

「正当な評価だよ」

『ストレートに褒められるのは慣れていません。対処に困ります』

 さて、そうなると当座の目的地は山の中にある通信塔だ。こいつに細工をして僕達のメッセージがあたかもアブソリュートノア最上層部にある誰も知らない謎の機関から発しているように偽装できれば、ワイルド@ハント崩壊から始まる世界恐慌、そして極限モラルハザードのカラミティを抑制できるかもしれない。

 今は麻酔でもフェイクニュースでも何でも良い。とにかく世界中の人達に、『嘘でも良いから』絶望して投げやりにならなくても大丈夫だって強いメッセージを投げ込む必要がある。

 僕達は缶のエナジードリンクを一気に呷って、

「今度はハードウェアクラックだ。アナスタシア、忙しくなるぞ」

「へっへっへー。通信インフラに手を加えて電波ジャックかあ、これはこれで燃える展開だわ」

 二人してビジネスホテルを出る。

 表は足の踏み場もないくらい墜落ドローンで埋め尽くされているので、自転車すら使えない。僕達は誰もいない街を歩いて山間部へ向かう。

「天気だけ見れば絶好のお散歩日和ね。へっへへ」

「どこがだよ。これじゃハッカー達のお祭りだってメチャクチャだろ」

「分かってないわね。実際問題ワタシはね、トゥルースの隣を歩けたらそれで良いのよ」

 む。

 こんな所でカワイイアピールを決めおって。芸術点でもくれてやろうかオマセさん。

 ちなみに山へ向かうと言っても所詮は一つの街の中だ。さほど時間はかからない。

「誰も知らない謎の機関なんて、どうやってリアリティを与えるの?」

「変に映画みたいなスパイ組織を作るより、大元は陳腐だったって方がらしさが出る。ほら、世界的なOSやコンピュータ、後はSNSなんかを作った大企業が元はニッチなギークの集まりだったとかさ」

「具体的には?」

「そうだな。寂れたパズルゲームの対戦ロビーとかどうだ? ログインするけど誰もゲームなんかやってなくて、世界の破滅ばかり語り合ってる。でもゲーム内でしか使えない記号や表情モーションばっかりで意思疎通しているから、逆にどこからも傍受される事はなかった、とか」

「……ニッチだねえ」

「実はそいつらが暇を持て余したセレブ達で、各々自前で大邸宅の庭に拵えていたシェルターを一括化したのが始まり始まり、なんてので大体の味付けは決まりだな」

「でもそうなると、意外と歴史は浅い組織だったって事になりそうだわ。我々は偉大な聖者が十字架に架けられるのをこの目で見た! とかいう始まりじゃなくなりそう」

「ようは、今の時代、この瞬間の光十字やアブソリュートノアの舵を握る最高機関であれば良いからね。独立した新興勢力が組織全体を乗っ取っている事にでもしてしまえば良い」

「吸収合併で長年続いた組織の体質がガラッと変化する、か」

「良くある話だろ、世知辛いけど」

「パソコンのマザボとかね! マジで変な資本注入があった途端にブランドマシンの中身がガラッと変わるんだから!!」

「……また変なの掴まされたのか? タワーなのに買った瞬間から拡張スロットが全部埋まっちゃってる謎マシンとか」

 そうこうしている間に山のぐねぐね道に入った。こんなところにまでドローンが落ちている。流石に繁華街ほど密度はないけど。

 問題の通信塔は遠くからでも良く見えた。複数の山々に囲まれた陸の孤島の壁の部分。そのてっぺんから鉄骨を組み上げた背の高い構造物が頭を出していたからだ。

「うへえ、結局全部上がるの!?」

「そりゃあ山頂が一番遠くまで電波を飛ばせる位置取りなんだから仕方がないだろ。楽して高さを稼げるんだし」

「ろ、ロープウェイとかで優雅にハイソに上りませんこと?」

「それって襲撃犯の立てこもるビルの最上階にエレベーターで向かうようなもんだぞ。ほらアナスタシア、絶好のお散歩日和なんだろ?」

「うへえー、はいきんぐう? この歳にもなって遠足とかありえないわ」

「アナスタシア、自分が今年でいくつになるかちょっと指折りで数えてみたらどうだ?」

 一一歳は両手の指じゃ数えきれないわ! と的確なツッコミが返ってきた。

 途中で謎の覆面集団が検問を敷いているなんて事もなく、僕達は順調に山道を登っていく。

「うー」

「アナスタシア?」

「うー」

 ……参ったな、我らが小さな台風サマがうーしか言わなくなってしまった。履いている靴も長時間の歩きに向いているとも思えないし、こりゃほんとに足が痛くなってきてるのかも。

「うー、トゥルースう……」

「はいはいお姫様、おんぶでよろしければ」

「その言い回しはちょっと引っかかるわね。お姫様だっこにしてもらおうかしら」

「あれは山道じゃしたくない。かなり腰にくるんだよ」

「誰かした事あるの!?」

 ……主に朝方、眠くて頭が左右にふらふらしてる甘えん坊吸血鬼姉さんをクイーンサイズのベッド下にある棺桶へぶち込む時などに、とは言わないでおこう。本人の名誉のために。

 ちなみにおんぶも手馴れたものだった。ゾンビのアユミはほんとにご立腹すると暴れるんじゃなくて、その場でうずくまって動かなくなっちゃうんだよな。そのくせレッカー感覚でおんぶすると結構簡単に機嫌が戻ったりする。

「何だか他の女の香水を嗅いでいるような気分だわ……」

 人様の背中に張り付いておいて言いたい放題であった。古い家に着くシルキー、メイド妖精とは思えないわがままお姫様ぶりだ。

 軽い割に柔らかいアナスタシアを背負ったまんま山道を行く。一一歳なんてこんなもんか、あんまり人を抱えている重みはなかった。気合を入れすぎてパンパンに膨らませた遠足リュックくらいの感覚だ。

 途中に道の駅があったので小休止。やっぱりドローン禍のせいか人気はなかったけど、自販機は偉大だ。

 もうダイエット印とかどうでも良いから、とにかく世界で一番有名な炭酸飲料を買う。

「日本は良い国だけど炭酸が弱いのが大きな欠点よね」

「車とか工場とかの排ガスもさ、奇麗に濾過してジュースにぶち込めたら温暖化もなくせただろうにな」

 ゴミ箱に空き容器のペットボトルを放り捨てると、気を取り直して再び山頂を目指す。もう何も言わなくても定位置って感じでアナスタシアは僕の背中にひっついてきた。

 目的の通信塔まで後ちょっとだ。

 のんびり歩くというより、むしろ通信塔に辿り着いてからが本番なので、意図してペースを落として体力の温存に努める。

「そろそろじゃないか」

「うー」

「アナスタシア、うーじゃない。おいっ、首筋をがじがじ噛むな、頬ずりするんじゃない」

「……、おにーちゃーん」

「残念ながらその甘え方は無効だ。アユミで散々慣れてる。あいつは噛み付いてきたりはしないけど」

「チッ、ブルジョアジーめ」

 ようやっとお姫様が背中から降りてくれた。

 さて。

 相手がアブソリュートノア関係者ならスナイパーの一人二人くらい平気で調達してくるだろうし、超常現象をバンバン使うアークエネミーが待ち伏せしていたって不思議じゃない。何だか字面にするとふわふわしているけど、実際問題、過去にも伊東たまごとかヴァルキリーとか、それっぽいのとは遭遇している。

 どれだけ意味があるのかは分からないけど、何となく身を低くしてゆっくりと山頂に向かう。

 が、

「……あれ? 特に誰もいないな」

 辿り着いてしまった。

 複雑に鉄骨を組み上げた、三階建てくらいの鉄塔だ。コンクリの土台を兼ねた半地下スペースの他、鉄塔上部にも見張り台みたいな部屋がある。

「そんな日もあるって事じゃない? 何でもかんでもアブソリュートノアの掌の上じゃやってられないわよ」

 そりゃまあそうだし、アブソリュートノア重鎮はみんな扉の向こうに引きこもっているから今は世界全体がフリー状態になっている、って可能性もあるのかもしれないけど。

「まずいな、順調に進んでるのを見るだけで不安になってきてる」

『ユーザー様は元々踏んづけたい派より踏みつけられたい派ですのでいつもの調子が戻ってきただけでは?』

「……トゥルース、おんぶよりお馬さんごっこの方が良かったかしら?」

 鉄塔は思ったよりも小さかった。山頂に置いておけば元々高さは稼げるって事だろうか。あんまり高くしてしまうと重心が上がるから、今度は地震や突風災害の揺れが怖くなる訳だし。

 上に向かう方法は二つ。鉄塔外周に絡みつくような金属階段か、中央を貫く剥き出しの作業用エレベーターだ。どっちも一人二人が使えばぎゅうぎゅうって感じ。

 跳び箱くらいの大きさの金属の箱もあった。

「非常電源かしら」

「縁日の屋台に毛が生えたくらいの出力だぞ。通信設備の維持は無理だな。吹雪の夜に暖を取りながら救助を待つくらいしか考えてないのか?」

 まずは基部にある半地下の建物に入る。特に鍵などはかかっていなかった。

「休憩室か宿直室か、そんな感じかしら?」

「かもな」

 テレビにテーブル、冷蔵庫に電子レンジ。後は二段ベッドがいくつか。奥に扉があったけど、そっちも単なるユニットバスだった。

 通信関連の設備はない。

 ……だとすると、やっぱり上かな。

 エレベーターは鉄塔の中央を貫いていたけど、ここから直接は扱えないみたいだ。一度外に出て、半地下の屋根に当たる部分に上らないといけないらしい。

 部屋の片隅で金属製の工具箱を見つけたので拾い上げつつ、

「一応階段だよな」

「トゥルース、後で脚揉んでくれる?」

 外に出て鉄塔外周の金属階段へ。所詮は三階くらいと思っていたけど、体感的には結構すごい。山の上だから断崖の分だけ高さを稼いでいるんだ。風も強くて辺りはギシギシ不気味に軋むし、地味に足がすくむ。

「何でよりにもよって足場を金網にするかね! おっかない!」

『重量と金銭面でのコスト減、後は下からの突風を受け流すために決まってんだろと念のため回答しておきます』

「スカート女子の人権を完全に無視した建築だわ……」

 天体望遠鏡でも使わない限り地上から覗かれる心配はなさそうだけど、何だかアナスタシアは内股でスカートの裾を押さえ始めていた。

 上層は四角い部屋と、その周囲を手すり付きの展望通路が囲んでいた。四角い目玉焼きをイメージすると分かりやすいと思う。部屋の四方は全てガラス張りで、空港の管制塔とか展望台とか、そんなのを彷彿とさせる。

「ビンゴ」

 外からガラスを覗き込むだけで分かった。無線機器や、冷蔵庫みたいなサイズのサーバーなんかが並んでいるのが見える。

 こっちは鍵がかかっていたけど、ないも同然だった。工具箱からL字のバールを取り出してドアと壁の隙間に短い方のクチバシを挿し込むと、てこの原理を使って扉の鍵を破壊する。

「獣がノブを回せなければ大丈夫って考え方なのかな」

「業務用のサーバーマシンとかはお高いけど、売れるトコが限られてるからすぐアシはつきそうだしね」

 中に入る。

 中央にエレベーターがあるからか、ちょっと窮屈な印象があるけど、足元が金網じゃなくなっただけでも体感的な感覚は随分変わる。別に高さ自体が変化した訳じゃないのに、人間ってのは簡単に騙されるものだ。

「うへえ。エレベーターって跳ね上げ式の扉とかで塞いでる訳じゃないのね。かご自体の床を使って蓋をしてるわよ。冬場は隙間風だらけでしょうに」

「その分暖房設備は充実してるみたいだけど。ほら」

「?」

「ガラス質のタンクを使って大分スタイリッシュになっちゃってるけど、あの水槽って温水暖房だろ」

「あれ、言われてみれば。変にライトアップされてるから熱帯魚でも飼ってるのかと思ってたのに」

「それより通信システムを調べよう。アンテナか、配線か、サーバーか……。どこに細工すれば良いか方針を決めないと」

 この山で飛び交う無線通信を一手に引き受けているとなると、それこそケータイのキャリア各社から防災無線、コミュニティラジオ、希少動物の発信機まで、色んな信号を取り扱っているはず。だとすると複数の機材を結ぶ集線とか信号変換とかの機材なんかが割り込みの狙い目だったりするんだけど……。

「あった。結線は順目で八本か。これならニッパー片手にコードの被覆を剥いて四苦八苦する必要もなさそうだ」

「トゥルース、外のアンテナはどうするの?」

「並列で。マクスウェル、暗号通信に使われている周波数は?」

『六〇・五メガヘルツ。地域のFM局からわざと外してありますね』

「なら普通の凸型パラボラだ。外に出てお皿の向きを確認しよう」

 アンテナはこの部屋の周りを取り囲む展望通路の手すり部分に金具で固定してある。ベランダとかにある衛星放送のパラボラを大きくした感じだ。

「……ダムの方角は、うん。これだろうな」

「ダムと通信塔、通信塔と市外を結ぶ二つのラインがあるはずだわ」

「だからこいつと同型の凸型パラボラを探せば問題なし」

「スペアのアンテナは下から探すとして、どうやって固定するの?」

「針金ぐるぐる巻きで大丈夫だよ」

 何も薄暗い部屋でパソコンと睨めっこするだけが情報攻撃じゃない。

「どうやって電波遮断しようかしら?」

「アルミホイルがあれば良いんだけど、下は電子レンジ頼みって感じでキッチンがある訳じゃないからなあ」

「じゃあ仮眠用の毛布をバスルームで水浸しにするとかはどう?」

「それだ」

 やるべきはシンプルで、まず下の半地下からスペアのパラボラを調達し、市外に向けられたアンテナのすぐ隣に設置。有線ケーブルで必要な機材と繋いだら、後は水に浸した毛布をスタンバイすれば良い。

「マクスウェル、文書の偽造頼む。いかにもアブソリュートノアの上部機関から送られてきたように見せかけてくれ」

『構いませんが、暗号が解けていないのでこちらから発するメッセージはむき出しになってしまいますよ』

「本物の知り合いに流す訳じゃないから大丈夫。本物と偽物の区別がつかないくらいの半端なVIPを選んで一斉送信しよう。マクスウェル、ニューヨークかロンドンの証券取引所にアクセス。取引額の多い順に上から一〇〇の個人と団体をピックアップして連絡先を確保。自分から登録・公開買い付けに使っている窓口だけならそう難しいハードルじゃない」

『シュア』

「……しれっと言ってるけど真面目に金融危機を起こせるわよね」

『文面はいかがいたしましょう』

「アブソリュートノアの使いが有名企業を吸収合併するから手を出すな。……あの方舟連中が五年か一〇年越しの長期計画を匂わせるような金遣いを演出すれば、今日明日にでもカラミティが起きるなんて誰も思わなくなるだろ。今は仮初めで良いから世界を安心させるんだ。それでワイルド@ハント崩壊から連鎖的に続く世界恐慌に歯止めをかけて、本物のカラミティを食い止める」

『買収企業のジャンルは?』

「適当なビジネス誌の電子版でも掘り進めなよ。アナスタシア、なんか面白い話知らない?」

「ステイツじゃ家庭用のVR機器に押されたスクリーン系の映画産業が反旗を翻すために水面下で力を蓄えているって」

「じゃあ逆にバーチャル関係に大量のカウンター投資。五年一〇年掛けて世界遺産を完全アーカイブ化して月額いくらで旅行し放題とか、まあそんな感じで」

『シュア。大人気なく片っ端から青田買いでよろしいですね?』

 送るべき文書ができたら、いよいよ行動だ。

 今は一つの方向に全く同じアンテナを二つ向けている。ただ強力な電波を放つだけでも元の通信を混線で潰してしまう事もできるけど、ここはより確実にいこう。僕達だって失敗できないんだ。

「カウント頼む」

 時報みたいな電子音を頼りに、展望通路にいる僕は布団を干すようにずぶ濡れの毛布をオリジナルの凸型パラボラへ引っ掛けた。

 水は電波を遮断する。

 そうでなくちゃ天気予報に使う雲や雨のデータは取れないからね。

 同時に僕達が用意した全く同型、スペアのパラボラから偽りの通信を放つ。

『切り替え完了。システム達の通信がアブソリュートノアのそれと誤認されています』

「本物は今頃パニックね」

 でも異変に気づいても今すぐできる事はない。アブソリュートノアからあれは誤報だから信じるなとどれだけ叫んだところで、もう彼らのアンテナは濡れた毛布で塞がれている。電波はどこにも発せられないから、彼らの声はどこにも届かない。

「これが網の目みたいに光ファイバーの走る街中だったらまた変わったんだろうけどな。山一つ丸ごと通信塔で一極集中なんてやっぱり不健全だよ」

 ともあれ、こいつで一定の歯止めがかかるはずだ。勝手に人様の虎の威を借りた上に世界中を麻酔で騙すような最悪のやり口だけど、それでも今はカラミティの実体化を食い止めないと。

「ねえトゥルース、でもどうやって効果ありって判断するの?」

「インフルエンザが流行している地域ではインフルエンザについて検索する件数が爆発的に跳ね上がるらしい。マクスウェル、モラルハザードに関する用語の分布をチェック」

『該当エリア自体は世界規模で散在していますが、件数の方は右肩下がりで縮小傾向にあります。偽情報の発信時点から下がり始め、二次三次的な流布によって縮小傾向が加速しているようです』

「つまり、これにて一件落着。後は経過を見れば良い」

 ようやっと息を吐いて、展望通路の金網床にへたり込む。

 アナスタシアもまた額の汗を拭って、

「なら早くここを離れましょう。勝手に自分達の看板を使われたアブソリュートノア側だって面白くは思っていないはずだわ」

「そうだな……」

 僕を方舟に乗せるため、相当無茶して横車を押してきた義母さんの立場だって悪くなるだろう。場合によっては直接の対立もありえるかもしれない。

 一難去ってまた一難。

 同じ家族で対立だなんて考えるだけで気が滅入る話だけど、譲れないのも事実だった。だとすれば雨降って地固まる展開に持っていくしかなさそうだ。

 そんな風に考え、ようやっとへたり込んだ腰をもう一度浮かせた時だった。


 バチュンッッッ!! と。

 金属を削り取るような激しい音と共に、顔のすぐ近くにあった金属の手すりからオレンジ色の火花が散ったんだ。


 何が起きたかしばらく分からなかった。

 だけど一歩遅れて遠方から打ち上げ花火じみた爆音が鳴り響き、山彦みたいに重なり合うのを耳にして、僕よりアナスタシアの方がまず反応を示した。

「狙撃!? トゥルース!!」

「っ!!」

 この辺はやっぱりアメリカ育ちか。だけど詰めが甘い。屋内に引っ込むためか、頭を上げてドアの方へ目をやったアナスタシアの細い手を慌てて掴む。そのまま凸型パラボラの裏へと引っ張り込んだ。

 どこからだ、くそ!

「マクスウェル、手すりの傷から入射角を逆算、距離は音の遅れで分かるはずだ!」

『シュア。方位南南西、傾斜一四度。距離は音速基準なら概算で八〇〇メートルです。音速の二倍、三倍ならその分倍がけされていきます』

 こっちには飛び道具なんかないから、ひとまず安全地帯を確保するので精一杯だ。弾の飛んでくる方向さえ分かれば盾を置くべき方向が分かるって事なんだし!

 ほとんど抱き合うような格好のままアナスタシアが悪態を吐く。

「何よ、やっぱりアブソリュートノア? あいつらみんな自前の箱舟に閉じこもっているんじゃなかったの!?」

 まるで返答のようだった。

 続けてもう一発。金網を下から斜めにぶち抜くような格好で火花が炸裂する。

 でも、ちょっと待った……!!

「マクスウェル!」

『先ほどとは全く方位が違います』

 スナイパーは一人じゃない? 取り囲まれているとしたら最悪だ!!

 そんな風に背筋を凍らせていた僕だけど、さらにおかしな問題が立ち塞がった。

「トゥルース、ねえ、トゥルースってば!」

「何だよっ」

「音速基準だと一発目は方位南南西傾斜一四度距離八〇〇、これで間違いないのよね?」

「だったらどうし……」

「でもそっちって崖しかないんだけど」

 ……何だって?

 驚いてそっちに目をやると、確かに。スナイパーが待ち伏せできるような立地じゃない。音速の二倍三倍だから距離も倍がけ……しても意味がない。待っているのは虚空、どこまでも延々足場になるものがない。空中浮遊でもできない限りあの角度から撃つのは無理だ!

『計算に間違いはありません。手すりの痕跡だけ見れば確かにそこしかありえないのですが』

 でも、現に噛み合わない……。

 そしてマクスウェルの回答を信じられなくなったら僕達は終わりだ。一応アナスタシアもシルキーっていうメイド妖精だけど、戦闘面で役に立つ凶暴なアークエネミーじゃない。僕なんて言わずもがなだ。機械のサポートを失えば抵抗らしい抵抗なんて何もできなくなる。

「トゥルース、マクスウェルに嘘をつく機能はないわ。だとすれば可能性は二つよ」

「例えば?」

「マクスウェルの計算が外から妨害されたか、あるいは物理法則を超える狙撃の使い手がいるか」

「……ハッカーかアークエネミーか、って事か!?」

「あるいはどっちも兼ね備えた異能ハッカーって線もあるかもね」

 何にせよ厄介極まりない。

『ハッカーの線はゼロではありませんが薄いと進言させていただきます。外部の第三者がシステムを完全にコントロールしているとしたら、そもそも狙撃に頼る事なく電源を落とし、通信塔から世界に向けたなりすまし放送を食い止められたはずです』

 ……だとすれば狙撃手が魔弾の使い手って線が濃厚か。それこそ自在に曲がる弾丸でも使っているのか、あるいは本人が鳥のように飛んで空中でライフルを構えられるのか。

 でもこれだけじゃ相手がどんなアークエネミーかも分からない。答えを出さなくちゃ反撃なり逃走なりの糸口も見つからないっていうのに!

 ヒントは何だ。

 情報を整理したい。

「……狙撃手は見えない」

「?」

「方位や角度はおかしい。発砲音自体は聞こえる。つまりひとまず距離は信用できる……」

「トゥルース、結論を言って!」

「考え方を間違えていた。狙撃手が遠くにいるなんて思うのがもうヤツの術中だったんだ!」

 僕の考えが正しければ、物陰に隠れても意味はない。適切な射線を計算されて回り込まれるようにぶち抜かれるのがオチだ。そうなる前に反撃に出ないと手が詰まる……!!

「マクスウェル、通信塔は掌握しているな。光か音を出すものは!?」

『防災放送用のスピーカーに夜間作業用スタジアムライト、後は害獣対策用の空包発射装置などを確認しています』

「合図に合わせて出し惜しみなしで。一瞬で良いからヤツの注意をよそへ逸らせ!」

 ドガガッ!! と。

 複数の爆音と閃光が通信塔から全方位に解き放たれる。真っ暗闇の夜間と比べれば効果は薄いはずだけど、それでも不意打ちなら向こうも驚くはず。

 工具箱を持ってきておいて本当に良かった。もう金槌とかバールとかいちいち吟味している余裕はない。そのまんま金属の箱ごと振り回す。

 展望通路内側、通信設備を保管する部屋のガラスを叩き割って小柄なアナスタシアを押し込む。続けて僕も窓枠を乗り越えようとしたところで、何かが空気を引き裂いた。

 砕いた覚えのない場所で分厚いガラスに風穴が空く。まるで傘か何かの先端で突いたように。

 そして見えざる『弾丸』の勢いは止まる事なく、そのまま室内を突っ切る。立て続けに破壊されたのは、随分と小洒落た温水暖房の、熱帯魚の水槽みたいに彩られた透明なタンクだ。

「っ?」

 息を呑んだのは、先に押し込んだアナスタシアだった。水の抵抗は時に弾丸を食い止める。流石に完全には止まらなかったけど、減速した事で僕達の肉眼でも捉えられるようになったんだ。

 それは拳銃弾でもライフル弾でもなかった。

 そもそも鉛でもなければタングステンや劣化ウランでもなかった。

 そう、


「……よう、せい?」


 アナスタシアの唇と舌が答えを紡ぐ。

 つまり相手は小指ほどにまで縮小化した、トンボのような透き通る羽根を持つアークエネミーだったんだ。



 瞬きの間だった。

 水の抵抗によって一度は減速しかけた小さな妖精の体が再び消える。四方を透明なガラスで覆った無防備極まりない通信塔の外へ飛び出し、再加速に入っているはずだ。

「道理で……道理でメチャクチャな方角から狙撃が飛んでくるはずだわ! あんなの弾っていうより鳥か何かの動きに近いじゃない!!」

 一口に妖精って言っても色々あるけど、僕の予想通りなら今の狙撃には二つの特性は必須だ。

 つまり、自力で飛行できる事と、体の質量を自在に変えられる事。

 ここまでいくと、そう種類は多くない。五体満足の少女にトンボの羽根も加味すれば、おそらく答えはこれしかない。

「シルフィード……」

 錬金術などに見られる火水風土の元素を擬人化した場合の風の精シルフ、さらにそこから派生した女性形限定の呼び名だ。

「でもあの加速は一体何なの!? 自分自身を狙撃ライフルの弾丸に見立てるなんて、不死者であってもまともじゃないわよ!」

「頭を上げるなアナスタシアっ、原理自体は単純なんだ」

 僕は白みの強い金髪頭を上から押さえながら、

「良いか、シルフィードは元素の擬人化だ。分子、原子、素粒子、まあそんなもん。一粒一粒だろうが一塊になっていようが、他の元素と混ざらなければシルフィードはシルフィードだ。つまり平たく言えばヤツは見た目の大きさや重さを自在に変化させられる」

「トゥルース、それ以上意地悪なナゾナゾ形式続けたら腕に噛み付くわよ!」

『どうやらユーザー様のオンステージにイラついてんのはシステムだけではなかったようですね。ほっ』

 堪え性のない連中め!

「じゃあ答えを言うけど戦車砲の徹甲弾と同じだ! シルフィードが体の大きな状態で加速をつけてから質量を小さくすれば、莫大な運動エネルギーは小さな一点に集約される。戦車砲でもあるだろ、撃った直後に大部分のガワが分離して芯にあるタングステン鋼でできたダーツの矢みたいなのだけが飛んでいくの! あれだよ!!」

 後は怒涛の体当たり攻撃だ。

 まったく、不死者の頑丈さをどこまでも攻撃的に振りかざしてくれる。

「何でそんなゲテモノが外ほっつき歩いてんのよ……。大物はみんなアブソリュートノアの中のはずでしょ!?」

「さあね。僕を嬲り殺しにして憂さを晴らしたいのか、義母さんに扉を開けさせたいのか、逆振りで死ぬまで方舟に尽くして外からの邪魔者を消したいのか!」

 小さいって言っても小指くらいはある。音速超過の爆音が遅れて聞こえるほどなんだから、おそらく防弾ベスト越しにでも胴体をぶち抜かれるだろう。

 一方で、シルフィードもシルフィードで万能ではないらしい。常に音速の数倍を維持し続けられるなら、とっくの昔に僕達は蜂の巣にされている。

「おそらく助走にかなり気を配っているんだ。数百メートルからキロ単位の直線でも利用して。遠近法の関係で人間大でも米粒以下にしか見えない距離から加速を始めて、僕達が視認できるエリアへ入る前に急激に質量を小さくして運動エネルギーを収斂させる。後は羽根を使って最終的な軌道修正をしながら突っ込んでくる。そんなトコだろ」

『しかしここは周囲に遮蔽のない高所にある通信塔で、四方は脆弱なガラスです。三六〇度どこからでも撃ち込まれるリスクがある以上、ドヤ顔決めている場合ではないのでは?』

「さてそれはどうかな、今の情報があればもう反撃できるはずだ。僕はもう答えを言ってるぞ」

「がぶり」

 アナスタシアが宣言通りに小さな口で人様の腕に噛み付いてきた。ていうか子供のやる事だと思ってたのに地味に痛いっ!

「アナばっ!? あん、ちょお、アナっ、ごっさぁん!?」

「がじがじ。……今スシネタっぽく呼ばなかった?」

 そしていつじゃれている暇があるなどと言ったポンコツハッカーメイド妖精!?

「マクスウェル弾道計算頼む、砕けたガラスからシルフィードの貫通力を導き出せ!!」

 僕は工具箱を掴みつつ、アナスタシアを抱き寄せて冷蔵庫みたいなサーバーマシンに背中を預ける。

「トゥルース、これじゃ丸見えよ!」

「だったらどうした。ヤツは自分の体を弾丸にしてるんだ。鉄骨とかコンクリとか、貫けない壁に自分からぶち当たりたいとは思わないはず。相手の射線なんかこっちから制限をかけられる!」

 つまり正面と真後ろからの狙撃はない。僕を貫きつつサーバーマシンへの激突を避けるなら、絶対に左右どちらかから来るはず。

 そしてどっちの面の窓もまだ割れていない。

 右か、左か。

 いかに相手がアークエネミーでも物理法則は無視できない。だとすれば右か。単純に弾道を安定させるだけなら、やっぱり追い風を利用するはず!

『ガラス面に衝撃が伝播しきる前に弾体が抜けているところから見て、やはり五・五六から七・六二前後の狙撃弾相当です。逆にこれより威力が高ければ、今度は弾体そのものが帯びる衝撃波の壁がガラスを砕いてしまいます』

「トゥルース何それ!?」

「ゴムの接着剤!!」

 ほんとはきちんとしたフィルターが望ましいけど、贅沢は言っていられない。歯磨き粉のチューブみたいな容器の側面を釘で引き裂いて横合いの窓へと投げる。

 水風船を壁に叩きつけるように汚れが広がった直後だった。


 小指大の妖精がガラスのど真ん中を容赦なくぶち抜いてきた。


 普通なら簡単に割れるガラスでも、その表面に透明なシートを一枚貼るだけで防弾性を生み出せる。

 でも流石に付け焼き刃すぎたか!?

「ッ!!」

 かなりは減速できた。何しろ弾体そのものを肉眼で見られるくらいなんだから。でも狩猟用のパチンコだって至近距離から額の真ん中にもらったら大惨事になる。ただ、その時僕はサーバーマシンのメンテナンスドアを開け放っていた。やっぱり掃除ロッカー級に薄っぺらな金属扉なんて貫通するけど、今度は金属だ。硬く、同時に柔らかい。貫いた途端に弾道が曲がったのか、僕の顔のすぐ横を突き抜けていった。

 シルフィードはテーブルの上にあった防災無線の四角い機材を叩き割り、ようやく減速しきって床に落ちる。

 もう二度と逃がすもんか……!!

 それだけ思って工具箱を掴んだ。振り回して中身をばら撒く。小指大の妖精にとっては落石じみているだろうが、肝はそこじゃない。

 空っぽになった工具箱をそのまま振り上げた。

 あ、と。

 ようやっと開いた口から何か呟こうとしたシルフィードの上から思い切り被せる。逆さにしたバケツで床をうろちょろするネズミを閉じ込めるように、そのまま工具箱を踏みつけた。

「とっ、トゥルース!? 大丈夫なのそれ!」

「こいつは助走に数百メートルからキロ単位使うって話したろ。逆に完全に勢いが消えたタイミングでペットボトルとか鳥籠とかに閉じ込められたらそれまでなんだ」

 だから一度でも、手の届く範囲で停止させてしまえば僕達の勝ちだった。

 僕は油断なく工具箱を踏みつけたまま語りかける。

「それじゃあ平和的な対話の時間だ。これ以上僕達に手を出すな。さて話し合いを続ける気はあるか?」

『……、』

「ダメ、か。じゃあ仕方がない。アナスタシア、床に散らばった中身からスペアの接着剤を拾ってくれ。隙間を全部埋めてさっさと帰ろう」

『わっ、分かった!』

「死ぬに死ねないアークエネミーだって酸欠で窒息くらいはするだろうしな。むしろそっちの方が悲惨かも。まして風の妖精だし、空気が澱むのは耐え難いだろ」

『分かったってば! 聞こえてる? ねえ、ちょっと!!』

 ……まだまだ油断ならないけど、ひとまず会話の主導権は握れた、かな?

「聞かれた事には正直に」

『妖精の体重やスリーサイズなんて聞いても面白くないよ。どれも小さいから』

「僕は義母さんの手配した乗船チケットを蹴って外に残ったんだ。アブソリュートノアの看板を勝手に使ってなりすましで世界中にメッセージも投げた。いくら天津ユリナでももう揺さぶられない。僕が泣き叫ぼうが血まみれになろうが、魔王リリスの顔で処断するはずだ。扉だって開かないさ。なのに何故狙う?」

『それはどうかな。天津サトリ、あなたは情についてばかり論じるけど、つまりは自分の価値に気づいていない』

「?」

『誰とでも分け隔てなく結びつける力というのは、それだけで歴史を変える才能なのだけどね。うちの子は天才と一緒で、理想では皆が語っても実践できる人なんて稀なのよ』

 ……義母さんが僕に固執するのは、純粋な歯車の面もあるっていうのか? 七〇億人中の数千人に選ばれるほどの? まさか。僕は王様って訳じゃないんだぞ。

『ま、そういう面が評価されているんだろうけど。隣に立つシルキーなら実感しているんじゃない? 天津サトリの持つ力と可能性を』

「アナスタシア?」

 何故だか彼女は答えてくれなかった。というか目を合わせようとしても逸らされてしまう。

『天津ユリナは絶対に開ける。世界から天津サトリという力と可能性が奪われると分かれば』

「どうしてそこまで方舟にこだわるんだ。全世界的な極限モラルハザードのカラミティは不発に終わった! 何十年か何百年か先の事までは分からないけど、少なくとも今この瞬間にアブソリュートノアに逃げ込む必要はもうないだろ!?」

『まだ分からないの?』

「何を!?」

『外のカラミティは確かに止まった。あなた達の手によってね。でも唯一恩恵を受けられなかったエリアがある。それは中』

 ……?

 いまいち言っている事がイメージできなかった。外と、中? 一体何の話をしているんだ???

 その時だった。

 カードサイズのカーナビからマクスウェルの報告が入った。

『警告。ユーザー様、アブソリュートノアからの通信をキャッチしました』

「そりゃ誰にも解けない高度な暗号使ってひっきりなしに電波を飛ばしてるんだろ。通信塔から市外に向けたパラボラは僕達が濡れた毛布で潰しているけど」

『ノー。そうではなく、この通信塔、もっと言えばユーザー様へ宛てた直接のメッセージのようなのです』

「誰から?」

『誰かがなりすましているのでなければ、おそらくは天津エリカ嬢です』

「姉さんがっ?」

 確かにエリカ姉さんもアブソリュートノアに連れ去られたはずだ。何しろ義母さんの手でコンテナに詰められてトレーラーで日中の街並みを引きずり回されたんだから、吸血鬼の姉さんには抵抗のしようもなかっただろう。

「どうしたの姉さん、そっちは大丈夫!?」

『ジジ……、ざざざ。サト、リ……くん……』

 何だ?

 随分と声が掠れている。信じられないくらいお金と技術が投入されているであろう方舟にしては、ちょっとイメージと違うな。

『そっちが無事なようで、安心しました。痛っつ……。お姉ちゃん、達の事は、心配しないで』

「姉さん?」

 いや、違うのか。無線機材や電波状況のせいじゃない。そもそもアブソリュートノアの中にいる姉さん自身の声が、掠れている……?

「ちょっと待った姉さん! 方舟の中は安全なはずなんだろ!? そっちは今どうなっているんだ。そっ、そうだ、アユミは? 義母さんや父さんはどうしたの!?」

『ザザ、ザザザ』

「姉さん!?」

『だい、じ、ぶ。アユミ、ちゃ、私が守る……から。だから、サト、くん。最後に、声が聞けて、お姉ちゃ、嬉し……ガガガガリガリガリ!!!!!!』

 それ以上は何もなかった。

 意味が分からない。一体全体向こうでは何が起きているんだ!?

 逆さにした工具箱の向こうから、シルフィードの声が聞こえてきた。

『私は自分が助かりたいから、扉を開けさせたかったんじゃない』

「……、」

『忠義を誓った主君シャルロッテ様をお守りするため、あの扉を開けてもらう必要があったの。……カラミティが起きていたのは、方舟の外だけじゃない。結局、中まで伝播するのを止められなかったみたいね。あれだけ準備していたのに』

 ……考えてみれば、おかしな話ではあった。

 アブソリュートノアは危ない。だから近づくな。応援を呼んでくれ。それならまだ分かる。でも、声を聞きたかったから? そんな風に言って通信を切ったら、みすみす僕を不安にさせて死地へ誘い込むようなものじゃないか。

 普段の姉さんなら絶対にやらない。

 たとえ崖っぷちにいてもおくびにも出さず、僕が余計な事をしないよう、望んでもいないくらい気を配ってしまうはず……。

 迂闊というより、密やかに何かの箍が外れている。あれだけ冷静沈着な姉さん自身が気づかないくらいに、罪の自覚もできないほど滑らかに。

 つまり。

 方舟の中に蔓延したそれこそが、

『カラミティが始まった。想定とは違う場所と規模と条件で』

 早鐘のように心臓が騒ぎ立てる中、死刑宣告みたいに冷たい声があった。

『だけど外から扉を開ける方法はない。今のままじゃ、私達の大切な人が壊れていくのよ』