第八章
正直、誰にも反応できなかった。
突然飛び出してきたアークエネミー・吸血鬼。つまり姉さんの天津エリカ。血走った目で襲いかかってくる不死者に対して、僕はただの人間だ。アナスタシアはメイド妖精、シルフィードは数百メートルからキロ単位の助走がなければ『狙撃』も使えない小指大の妖精で、屋内戦は滅法不向き。つまり誰にも姉さんを止められない。
だから。
僕達の命が助かったのは、その救いは同じくアブソリュートノアの中からもたらされたものだ。
ぐっ、と。
猪突猛進を極めた姉さんの肩を真後ろから掴む別の細腕があった。これまであった慣性の力なんて知らない。そのまま来た道を引き返すように、見えないゴム紐を首に巻かれていたように、エリカ姉さんの体がアブソリュートノア内部へと投げ込まれる。
僕達を助けてくれたのは、
「アユミ!? その怪我は!!」
「ふぐう、お兄ちゃんはこっち来ないで! 奥の地獄は人間なんかに見せられたものじゃない!!」
叫ぶだけ叫ぶと、アユミもまた内部へと引っ込む。奥へ消えていく。いいや、起き上がったエリカ姉さんが暴走を繰り返さないよう、応戦せざるを得なかったんだ。
でも、何だこれ?
どうしてあんなに優しい姉さんが、獣みたいな唸りを上げているんだ!? 方舟の中では何があった。カラミティっていうのは、そんな、そこまで見境なしなのか!?
『ユーザー様、再閉鎖まで六〇秒を切りました。留まるか踏み込むか、何にせよ悔いのない選択を』
一度閉まってしまえばもう開かない。中に入ったら最後、安全な外には出られない。
だけど僕の選択は決まっていた。
「悪い、アナスタシア」
「一人で行くってのはナシだからね。やるなら一蓮托生だわ」
「私も元々、主君シャルロッテ様を助けるために扉の開放を求めてきたんだし。想像以上にひどかったら、なおの事よ。中に入る以外の選択はない」
何にしても時間はなかった。
僕達は正しいリスク管理もできないまま、地獄と化したアブソリュートノアへと踏み込んでいく……。
一際大きな音を立てて、背後で大扉が閉まった。これでもう退路はない。
「ここが……」
初めて踏み込んだ『本物』の方舟はあまりに大きくて、中から見ても全体像はイメージできなかった。
便宜上は船と呼んでいるけど、実際には何なのか。シェルターか、ロケットか、ダム湖に沈む潜水艦か。ただ、窓らしい窓のない鉄扉と配管だらけの内装は、どこか縦に伸ばした軍艦を連想させる。もっとも、窮屈な印象はなくて、実際の軍艦よりも相当サイズには余裕があるはずだけど。
義母さん、天津ユリナの話によると、乗船チケットは数千人分が限界。残りの七〇億は遺伝子サンプルを冷凍保存して次代に引き継ぐらしい。
……つまり逆に言えば、一つの施設の中でそれだけの人員の生活スペースと保存施設を回せるだけの十分な空間が確保されている訳だ。学校だって数百人程度と考えれば、これは破格と言って良い。とてもじゃないけど、『充分な』生活となると原子力空母でも難しいだろう。本当に何かしらの乗り物として機能するなら、この時点でもう世界記録だ。
すでに妹のアユミやエリカ姉さんはいなかった。
ただ、あちこちの壁や床には奇怪なへこみが見て取れた。そして赤黒い汚れも。どちらが流したものかは流石に想像したくない。不謹慎だけど、絶対いけない事なんだけど、それでも顔も知らない他人のものであってくれと願っている自分がいた。
「……みんなはどこにいるのかしら?」
小指大のシルフィードがそんな風に呟いていた。
みんな。
当たり前だけど、ここにいる人達はそんな温かい言葉でもくくれる訳だ。僕にとっては一部の家族を除いて情状酌量もない悪党に見えているけど、彼らを救うためにやってきたシルフィードにはそうではないんだろう。
だとすれば、彼女の努力目標は僕よりも厳しい。一部の家族を救えれば良い僕と、全員救出を願うシルフィードとでは大きな隔たりがある。
アナスタシアが僕の服をちょこんと掴みながら、
「……だけど、そうね。確かにおかしいわ。ここがどんだけ広い空間かは知らないけど、数千人が閉じこもっていたんでしょ。ちょっとした村くらいの人数が一ヶ所に固まって避難していた割には、何だか不気味なくらいに静かじゃない?」
もちろん完全なゼロじゃない。
さっきも見た通り、少なくとも吸血鬼の姉とゾンビの妹はまだ活動している。
でも、それ以外の『みんな』は?
天津ユリナを中心としたアブソリュートノア関係者はどこにいる。
そして忘れているんじゃあないのか。
僕の姉妹がどんな特性を持っているか。
吸血鬼とゾンビ。
拡散速度で言えば最悪に近い不死者達なんだぞ。
「……うそ、だ」
思わず、呻き声が口から漏れていた。ドロドロとした胆汁がそのまま言語化したようなその声色が、すでに同じ家族への不審を物語っているようなものだった。
「そんなの嘘だ!!」
「あっ、トゥルース! ダメよ!?」
小さな友人、アナスタシアからの制止の声も聞けなかった。
アユミも姉さんも大切な家族だ。疑うなんてとんでもない。でも、だけどどうしても頭の奥がぐるぐる回るんだ。それ以外に説明がつかないって。二人が噛んだって考えるのが一番合理的だって!
元々のきっかけが何だったのかはもう分からない。何しろここは敵地のど真ん中だ。たとえ周りがみんな歓迎ムードだったからって、数千人もの狂信終末論信奉者に取り囲まれたらどれだけの不安に襲われる? 手持ちの武器をセーブしろなんて奇麗ごとが通じるか?
無理だ。
逆に僕がアークエネミーだったら耐えられない。重圧に耐えられなくなって、噛み付いて仲間を増やそうとしてしまう。過半数を『力』で奪い取って安全を確約しようと動いてしまう。
なら、姉さん達がやった事を許せるか?
これを笑顔で受け入れられるか?
どこもかしこも血痕と破壊痕だらけ。自分の命を守るために数千人分の沈黙を生み出したアークエネミー達を、僕は何事もなかったように認められるのかっ!?
「うっ、うぐう、ぶぐぶえ、けほっげほっ!」
あまりの緊張と混乱に、吐き気まで込み上げてきた。胃酸を上手に飲み込めなかったのか、気管の辺りで灼熱の痛みが走る。
ダメだ。
耐えられそうにない。
ここはどこだ? 視界が狭い。辺り一面鋼の壁に太い配管だらけ。ていうかそもそも乗り物なのか建物なのかも分からないこんな空間で自分が今どんな役割を持った部屋にいるかなんて分かる訳ないじゃないか。何なんだアブソリュートノアって。宇宙船なのか、水没世界の潜水艦か、それともタイムマシン? 荒唐無稽な話だけど、でも僕が見た事もない施設っていうなら見た事もない機能があるって考えるべきなんじゃないのか。この先何が待っていてもおかしくない、物陰や棚と棚の隙間、壁の染みから何が飛び出してくるか分かったものじゃないんだ。もうこれまでの常識なんか通じない。だから自分の身は自分で守らないと。冷静に警戒しながらいくつか扉を潜った気がするけど、あれ、おかしいな。これ何だっけ。どうして僕の右手には肉切り包丁があるんだろう?
そうか、ここは厨房か。
タイムマシンにもあったのか、厨房。
「……サト、リ?」
そして掠れたような声があった。
振り返れば、厨房の出入り口から信じられないものを見るような目を向けてくる人がいた。アブソリュートノアの頂点グループに属する大幹部、アークエネミー・リリス。義母さんが僕の顔と手に持つ包丁を交互に見ている。
?
今さら、あれだけの暗躍をしてきた天津ユリナがそんなに驚くような事だろうか。そりゃあこんなフシギ施設に厨房があったのは予想外だったけど、これだけの事が起きているんだ。刃物を掴んで自衛したいってくらい、誰でも普通に考えると思うんだけど。
「ああ、ああ」
だけど義母さんは今まで見た事もないような取り乱し方をしていた。暴れるのでも泣き叫ぶのでもなく、ただただその場でずるずると崩れ落ちたんだ。
そして彼女は言った。
「ああ! エリカは何も悪くなかったのに。疑心暗鬼に陥った人間側の魔女狩りから、私やアユミ……アークエネミー達を守ろうとして見境なく威嚇を続けてきただけだったのに!!」
……、えっ?
どうして、そこで、ねえさんのなまえが、でてくる???
そしてぼくはいわかんをかんじとった。ぬるりというてのかんしょくと、てつさびくさいにおい。ほうちょうのぐりっぷとてのひらのあいだになにかがながれこんできている。ぬるぬる、ぬるぬる。かおをしかめてめをそらすと、つめたいぎんいろのちょうりだいのうえになにかがあった。ううん、ねかされていたんだ。それはおおきなけもの? それともおさかな? とにかくぜんたいがまっかにそまっていて、なんかこきざみにけいれんしていて、ぜんぜんおりょうりっぽいかんじはしなくて、こういうのはそまつにしちゃいけないはずなのに、でもたしかにうっすらほほえみながら、すっかりずたぼろになったそいつはこういってくれたんだ。
「大丈夫……。サトリ君は悪くない。ただ、元から蔓延していた狂的集団心理、カラミティの尻尾にあてられていただけですから……」
あ。
ああ。
あああ……、
「な……あ……え?」
奇妙に粘ついて掌に吸い付く包丁を慌てて放り出す。なにがっ、なんだ、一体何がどうなった!? どうして僕の姉さんがステンレスの調理台に載せられたまま、料理の仕方も分からない小さな子供がイタズラしたようにやたらめったら掻き回されているん……!?
「サトリ、見ちゃダメ!!」
僕の錯乱ぶりを見てかえって我に返ったのか、ハッと表情を変えた義母さんがへたり込みながらも慌てて叫んでいた。
だけどもう遅い。
爪の間に入り込んだ赤色がおぞましい。掌を包むぶにゅぶにゅと柔らかくぬめった感触の正体は何だ。僕は一体何をしたんだ。目も眩むような記憶の空白部分で何があった!? やらかした!!
「よかっ、た」
姉さん。
何で笑っていられるんだ? 『こんな』になっているっていうのに!!
「サトリ君が元に戻って、本当に、お姉ちゃんは……」
その気になれば、吸血鬼の姉さんは僕が錯乱したって簡単に返り討ちにできたはずなんだ。包丁を掴んで掌ごと握り潰すのだって造作もなかったんだ。
でもエリカ姉さんはやらなかった。
彼女は一人も死ぬ事を許さなかった。僕を死なせてしまうのも、僕が誰かを殺してしまうのも。だから脆弱な僕を打ちのめす事もせず、ひたすら注意を引き続けた。自分一人が破壊されている間は、アユミや義母さんなど他の人達に刃は向かないから。
だから。
ずっとずっと。
「サトリ!」
ついに視界へ覆いをするように、義母さんが抱き着いてきた。
「これがカラミティの怖さなのよ。自分の意志でどうこうできるようなものではないの。恐怖や混乱が外から爆発的に押し寄せてくるからどうにもならない。だからサトリ、あなたが気に病む事じゃない!」
……だから何なんだ。
「私は吸血鬼ですから……けほっ。心臓に一撃もらっ、て首を落とされ、ない限りは問題あり……ません。大丈夫、お肌に傷も残りませんよ……」
……そんなのが罪を和らげるものか。
いいか、僕には記憶がないんだぞ。ここまでの罪を犯しておいて、未だに心の奥底じゃなかった事にして逃げ出してしまおうとしているんだ! くそったれのこの僕は!! 上っ面では哀しい顔をしておきながら、みんなみんな忘れようとしているんだよ何もかも!
生きていて良いのか?
なあ! 呼吸が許されるのかよこんなグロテスクな生物っっっ!!!???
「だめっ、お母さ、サトリ君に一撃入れて! けほっ、そのままじゃ舌を噛みます!!」
「鬱病と一緒で、真面目で責任感が強いほどカラミティに取り込まれやすい、か。ごめんサトリ!!」
首に何かが絡みついた。
知らない間に義母さんが真後ろに張り付いている。
首の横で何かがどくどくと脈打つ。それはどんどん大きくなって頭全体を支配していく。どうする事もできなかった。頸動脈、って単語は頭に浮かぶけど、僕は柔道の有段者じゃない。そのまま、ただでさえ狭かった視界は小さく縮み、そして真っ暗闇に包まれた。
脳みそをゆっくり揉み込まれるような鈍痛があった。
「う……」
顔をしかめて呻き声を上げると、姉さん、アユミ、義母さんの三人が寝かされている僕を覗き込んでいるのが分かった。
「うわあ! ああああ!! あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
身も世もなかった。
卑怯者の僕は起き上がる事もできず、ただただ大声で泣き喚いた。弱いところをさらけ出して同情心を買おうとした。これが被害者と加害者の関係なら、僕は真摯に頭を下げて謝るべき場面なのに、当の姉さんから弱者の特権を奪い取ろうとしたんだ。
「大丈夫」
姉さんのゴスロリドレスはボロボロで、血の痕も多くて、それだけの悲惨さを物語っていたのに、優しく笑ってくれた。
「後悔と自責でそこまで泣いてくれるんですもの。サトリ君は変わらず、お姉ちゃん達が愛する人間のままです。だからもう怖がらないで、世界はサトリ君から何かを奪う事はありませんから」
違う。
そんな事を言いたいんじゃない。
口には出そうとしても、喉も舌も痙攣してまともに言葉を作れなかった。いいや、そうじゃないとしたら何なんだ。臆病者。お前に正しく罪を被って全てを取り上げられる勇気なんかあったのか。
結局は家族が折れてくれるのを、笑って許してくれる事を期待していたくせに。それ以外に折り合いなんかなかったくせに。
死んで楽になろうとした僕は、その時点で思考を止めていた愚か者は、周りから手を差し伸べてもらう以外の道なんか考えてもいなかっただろうに。
いばらの道から目を逸らし、罪を償う事さえ拒んだ卑怯者が、一体今さら何を格好つけているんだ。
「ごべっ、ねえざ、ごべんばざい……」
「良いんです」
姉さんは馬鹿じゃない。
きっと全部見抜いた上で、こうやって笑ってくれている。そして彼女は、きっと同じ場面を何度繰り返したってこれを選んでいた。自分の手で家族を殺してしまうくらいなら、甘んじて刃を受け入れる。そんな高潔な道を。
「サトリ君がどうしてアブソリュートノアまでやってきたのか。それを考えると、原因は私の甘えにありますしね。サトリ君、あなたは通信塔で耳にしたんでしょう。魔が差してしまった私からの声を」
「……、」
それは。
でも、揚げ足の取り合いなんかしたくない。これは僕の罪なんだ。他の何かで軽減して良いものじゃないんだ。
「私だって気を緩めた途端に巻き込もうとしてしまったんです、サトリ君を。中がどうなっているか、他の誰よりも分かっていたくせに。死地の空気を泳いでいる内に、ついつい後先考えずにサトリ君の顔を見たくなってしまった。この部分には言い訳できません。カラミティに後押しされていた、なんて理由で誤魔化したくもない」
……これが、影も形もないカラミティの威力。
爆発的な伝染力を持つ狂気や暴力性。あんなにも高潔だった姉さんさえ心の隙間に侵入され、魔が差すよう仕向けられる。
ワイルド@ハント崩壊からの連鎖は食い止めたものの、もしもこんなのが惑星全域に蔓延していたら一体何がどうなっていたんだ? 世界の破滅、そのための方舟。方法こそ極端だったけど、義母さん達の恐怖心だってあながち間違っていなかったんじゃないか。
改めて考えよう。
そのカラミティは閉鎖されたアブソリュートノアの中に蔓延している。この中には父さん含む僕の家族の他に、アナスタシアやシルフィードもいるはずだ。猶予はない。みんながみんな『ああ』なる危険性があるなら、数千人を抱え込んだこの方舟は陰惨な祭祀に彩られた逃げ場のない狂気の島と変わらない。閉じた空間に数千人も抱えているにしては大きな駅みたいに人が行き交う様子はないけど、逆に言えばそれだけどこかに一極集中でひしめき合っているって事だ。何かのきっかけで分布にズレが生じれば、こっちへ一斉に雪崩れ込んでくる可能性もゼロじゃない。元来の善悪の話でもない。寒さで震える鶏が集まって暖を取ろうとすると、中心で圧死が起きる事もある。
「義母さん、アユミ、そして姉さんも。後できっちり償うけど、今は状況を知りたい。一緒に来ている人もいるんだ。こんな所で失う訳にはいかない」
あの地獄の厨房で錯乱気味だった義母さんの話だと、アブソリュートノアの中では人間サイドと不死者サイドで分かれていて、人間側が先に疑心暗鬼に陥ったらしい、ってところまでは耳にしている。
力で劣る人間達が数に任せて魔女狩りのような真似を始めて、それに対抗するためエリカ姉さんは凶暴なアークエネミーのふりをして威嚇行動を繰り返していたらしい。
だとすると、やっぱり人間サイドの方が多数派なのかな。
あと、アユミが最初に姉さんとケンカをしていたのは、姉妹込みで演技をしていたからか。あるいはアユミもまた姉さんの演技に騙されていたのか。
詳しい話となれば、やっぱり一番は義母さん、天津ユリナのようだった。
「……現在、アブソリュートノアは真っ二つになっているわ。私達、アークエネミー側が中央管制に立てこもっていて、人間側が機関動力部を根城にしている。相互信頼は完全に決壊。力の均衡は取れているように見えるけど、でも人間側は電源を丸ごと押さえているから、その気になれば全館停電で全ての電子ロックを無効化できる。つまりいつでも侵攻を始められる訳。しかも最悪の最悪、動力部を暴走させる事で全員を巻き込む大爆発を巻き起こせるわ」
中央管制?
機関動力部?
……それこそまるで途方もなく大きな船や潜水艦、飛行機、ロケットみたいな言い回しだけど、今はそっちに言及している暇はない。『方舟』を動かしたってここにいない父さんやアナスタシア達と無事に合流できる道が拓ける訳じゃないんだ。なら必要ない。
「最悪を想定しよう。その爆発ってどれくらいの大きさなの?」
「……供饗市どころか、周辺五つの県を吹っ飛ばして日本列島分断しちゃうくらい」
何だそりゃ! 核エンジンでも積んでんのかこの方舟は!? いや空中炸裂ならともかく、ダムの地下深くなら核爆発が起きたって地下核実験みたいに爆風は分厚い岩盤に押さえ込まれるんじゃないのか!!
思わず自分の事を棚に上げてしまった。
「……義母さんは義母さんで、後で反省が必要そうだ。はっちゃけすぎ」
「ようやっと自覚が追い着いてきました、お母さん猛省中……」
そもそも方舟の中に伝染性の狂気が蔓延して機関動力部とやらが乗っ取られる可能性なんて考慮していなかったんだろう。方舟の神話は、まず前提として船の中が聖域化している必要があるんだから。
「アナスタシア達の居場所は?」
「えと、来てるの?」
天津ユリナのキョトンとした声で方針が一つ決まった。どうにかして彼女達の居場所を知る必要がある。
「次に父さん。トレーラーで連れていったって話だったけど、義母さん達と一緒じゃなかったの?」
「人間とアークエネミーで真っ二つって言ったでしょ」
……嫌な予感がする。
想像以上にこじれているというか、あるいは一筋の光明とでもいうべきか。
「お父さんは最初期のいざこざに巻き込まれて人間サイドよ。そのまま音信不通。やりたくてやってるっていうより満員電車で揉みくちゃにされて、降りたくもない駅に引きずり出されていったっていう感じかしら……。元々光十字で研究者やっていたんだし、今はアブソリュートノア機関動力部で何かしらの作業を強いられているかもね。……『あの時』みたいに、敵だらけの中で空気を読まずにアークエネミー擁護なんて訴えていないと良いんだけど」
これで二つ目の方針が決まった。
一番危険な最深部から、どうにかして父さんを引きずり出す必要が出てきたんだ。もちろん生きたままでなければ意味はない。
ただし。
元から最奥にいる父さんの行動次第では、考えられる中でも最悪の可能性である大爆発を防げるかもしれない。今の父さんは誰にも触れられない黄金の鍵を無造作に握り締めている。
思わず呟いていた。
「……痛し痒しだけど、挑むしかないか。マクスウェル!」
『シュア』
「自覚ないけど、お前にも迷惑かけた。それから本題だ、十分な演算領域を確保してくれ。シミュレーションファイルを新規作成してほしい、最優先タスクだ」
『ファイル名は何と?』
問われて、一度だけ深呼吸した。
そして言った。
「世界の終末にケンカを売る方法」
まずは基本中の基本からだ。
「ここはリラクゼーションジム。平たく言えば体を動かすための大部屋ね。くだらないように思えるかもしれないけど、アブソリュートノアみたいな閉鎖環境で人が人らしく生きるには必須となる場所だわ」
どれだけ厳重な刑務所にも必ず備え付けられる施設がある。それが運動場だ。つまりどんな凶悪犯罪者だって、そいつがなければ折れてしまうって事。
「アブソリュートノア全体のイメージについては、ダム湖の底に眠る巨大な塔を想像してもらうのが一番だと思う。サイズ的には四〇階建てのビルくらいかしら。ただ普通と違うのは、アブソリュートノアの場合は特に切り離し作業を前提としていないって点。さっきも言った通り機関動力部が生み出すエネルギー量がハンパじゃないから、ペイロードの荷重制限なんて気にする必要がないのよ」
「……その話がほんとなら、それだけで破格すぎるんだけど。船だって飛行機だって積載重量が設計の基本だろ。完全に航空物理学や船舶物理学に反しているぞ」
「ワレワレの技術は人間単体を超えちゃってんのよ、サトリ?」
まあ、アークエネミーって言えば生身で音速以上を叩き出すシルフィードなんてのも見てきたし、飛行技術なんかは発想からして抜きん出ているのかもしれないけど。
「生命維持に関するブロックは上層、航行に必要なブロックは下層に集まる傾向があるわ。つまり私達がいるのは比較的上の方で、サトリが入ってきた正面エアロックは最上層。一方で、お父さんがいる機関動力部は最下層になるわね」
「ふむ」
「ちなみに中層はそれ以外……つまり野生の動植物とか選別にあぶれた人達の遺伝子サンプルの保存施設なんかが詰め込んであるって考えて」
「……となると当然、施設全域を探索するなら安全に上り下りする方法が必要になってくるな」
「非常階段と資材用エレベーターがあるわ。順調に稼働すればまともな重力計算なんて馬鹿馬鹿しくなるから、あまり重視はされていないけど」
……まさかと思うけど、円筒形の本体がぐるぐる回って遠心力で人工重力を生み出すなんて言い出さないだろうな。
「ふぐう。定番のダクトは?」
「中は毒物濾過のフィルターだらけだし、無理に通っても巨大な送風ファンでスライスされるだけだと思うわ」
「……アユミちゃん、そもそも縦に長い施設の場合、ダクトもまた垂直敷設がほとんどですよ。狭い隙間へ落ちるように墜落死したいならお姉ちゃん止めませんが」
ふっ、ふぐうー……とアユミが早速しぼんでる。声には出さなかったけど、僕もちょっと真剣に考えたから笑えない。そんな妹の頭をつい撫でながら、
「後は内部の防犯網とカメラやセンサーを管理するコンピュータ。こいつについては?」
アナスタシア達を捜すのに重宝するし、僕達の行動が魔女狩りに走る人間サイドに筒抜けっていうのも具合が悪い。数千人が共同生活するなら、普通の学校のざっと一〇倍以上。内部でのトラブルだって十分に考えられる。警察や行政に類する自衛組織だって想定されていた事だろう。いくら何でも方舟の中は全員平等で笑顔だらけのにこにこ社会だなんて考えは楽観的過ぎる。何かしらの監視・統制システムは必須だ。
ところが義母さんはこう答えた。
「カメラやセンサーは無視して構わないわ。モノ自体は設置されているけど、データ処理するための中央コンピュータを積めずじまいになっているから」
「?」
「マクスウェル、ラプラス、それにゴーストキャット。今までサトリが集めてきた演算機器を拝借して並列に繋ぎ、アブソリュートノア内部の法の番人にする手はずだったの。もちろん、人とアークエネミーを結ぶ架け橋としてあなたを招き入れた上で、一番扱いやすい治安維持システムとしてサポートさせるためにね」
「……人の持ち物をまた勝手に……」
さながら僕は地獄の法務大臣か。
たまにゲーム好きが高じて神話関係をまとめた攻略サイトなんかで、中世の悪魔の序列一覧みたいなのを見かける事がある。死刑執行人とか料理長とか役職ごとに悪魔の名前が並んでいるんだけど、それにしたって清いんだか清くないんだかはっきりしないポジションだ。
「むしろ、お母さんとしてはアブソリュートノアに非生物たるマクスウェル達を積み込むための口実をプレゼントしたつもりだったんだけど。マクスウェルはともかくラプラスやゴーストキャットは飛び入りだから計画へ組み込むのは骨が折れたんだけど、今となっては余計なお世話だったようね」
天津ユリナはそんな風に言って苦笑していた。
「でもそれだけ? アブソリュートノアには他に大型コンピュータはないの?」
「もちろん各セクションごとに必要な演算装置はあるわ。だけど規格が違うから防犯用のデータ解析には流用できないはずよ」
……改めて、ほんとに乗り物で良いのか? 方舟がロケットだろうが潜水艦だろうが、一つのペイロードに複数方式のコンピュータを搭載するなんてその時点で反則だ。メンテやスペアパーツだってその分重複してかさばるはずなんだ。重量軽減のため、競合する機能は真っ先に消してグラム単位で切り詰めていくのが設計の常道なんだから。
「つまり防犯カメラは良くも悪くも使えない、と。いや待てよ?」
「お兄ちゃん?」
「マクスウェル、ラプラスとゴーストキャットを起こしてくれ。無線接続して待機。アブソリュートノアから外に防犯データを送り出すから、お前達三基体制でデータ解析するんだ。それなら僕達だけが特権的にセキュリティシステムを活用できるはず! いやあ良かったラプラスとゴーストキャットがいてくれてほんと助かった!!」
『……、』
「おい……? 頼むよここでテンテン使ってやきもち焼くのはやめてくれっ!!」
「今のは全面的にお兄ちゃんが悪い。ふぐう」
何にしても、情報は最大の武器だ。こちらから一方的に全館の人員分布図を把握できるだけでもかなり強い。隠れんぼでめいめい隠れ場所を探している中、鬼がドローンを飛ばして上空から監視しているのと同じレベルの反則っぷりを発揮してくれるはず。
「仮に人間側が全体図を把握できなければ、交通の要衝を押さえる事で最少の人員コストを払って全ての人の出入りを把握、コントロールしようとするはず。階段にせよエレベーターシャフトにせよ、必ず関所がある。ここについては裏技ルートがなければ強行突破するしかないか」
先ほどまでと違って、アユミ、エリカ姉さん、義母さんはそれぞれ直接戦闘が得意なアークエネミーだ。限られた空間で群衆全体に押し流されるような展開ならともかく、分散した各個の撃破となれば心強いはず。
『逆に言えば、設計上存在しない秘密のルートがあると錯覚させれば相手に不要な警戒を促すチャンスも作れます。上手に揺さぶりをかければ、定位置に留まってその場を動こうとしない関所の警戒要員も一時的によそへ差し向けられるやもしれません』
「音や振動で壁の中を疑わせたり?」
『先ほどのダクトの例なら、冷えたステンレスダクトにエアコンの温風を流し込むだけでベコベコ音が鳴るはずです』
「ああ、カップ焼きそばのお湯をシンクに捨てる時のアレか。確かに、ダクトの中を人が這いずっているように勘違いさせられるかもな」
上手く騙せれば効果的だけど、何度も使える手じゃない。あくまで手札の一つ、参考程度に留めておこう。
「……サトリ君、夜中に一人でそんなジャンクを食べていたんですか? サトリ君は私達と違って不死者じゃないんですから体には気を配らないと」
「その話はまた今度だ姉さん」
「そうだよ。ふぐう、あたしにも分けてくれれば良いのに!」
「そして誰もそんな話はしてないんだ妹よ。で、義母さん、防犯カメラについてだけど。コンピュータを積んでいないだけで内部の配線自体は終えているんだよな?」
「一応は。後はマクスウェル達を積み込めば治安維持システムとして起動できたはずよ」
「……ならまずはそこだ、コンピュータの設置予定地。全てのケーブルからデータを吸い上げた上で、外に向かって放り投げる転送システムを構築しよう」
アナスタシアにしても父さんにしても、合流して助け出すには正確な居場所を知る必要があるんだし。そのためには無数にあるカメラやセンサーからの情報をマクスウェル達に処理してもらうのが一番だ。
幸い、無線自体が使える事は通信塔の一件が教えてくれている。ていうか、手元にあるカードサイズのカーナビと港に置いたコンテナ本体がリンクしているんだから当然だ。外へデータを送り出す仕組みは元から存在するから心配しなくて良い。
アブソリュートノアって言えばやっぱり最も内部構造に詳しいのは義母さんだ。僕達は天津ユリナの案内で目的地を目指す。
「義母さん達は……どうやってカラミティを防いだの?」
「厳密な方法なんかないわ。こうしている今だって冒されていないか自信はない」
間に挟まった吐息から、先を歩く義母さんは苦笑したようだった。
「お母さんは乗り物酔いみたいなものだって思っているわ。多少は元々の体質やその日の体調なんかも影響するでしょうけど……基本的に、なる、ならない、はこっちで選べるものじゃない。『場』にいる全ての人が常に揺さぶりを受けている状態で、いったん兆候が出てきたら本人の努力で抑え込めるものでもないでしょうね。何か、上手に吐き出して峠を越える方法があれば良いんだけど」
体質や体調……。
もちろん比喩表現に過ぎないかもしれないけど……言われてみれば異能ハッカーや巨大企業ワイルド@ハントなんかと小競り合いしていた僕は、必ずしも十分な休息を取っていたとも限らない、のか。アナスタシアから渡されたエナジードリンクでごまかしていた節もあるし。
僕は一度吐き出した。
そして、またならないとも限らない。
これだけは忘れてはならない。僕は普通だったら出入り禁止の鉄格子の中にでも隔離されて然るべき、不安定な状態なんだ。
「……、」
途中で誰かに会う事もなく、目的の場所まで辿り着いた。それは喜ぶべきか恐れるべきか、まだ判断はつかない。
「ここよ」
義母さんが気密扉らしき丸いハンドル付きの鉄扉を開けると、奥にはひんやりと冷えた大部屋が待っていた。
壁際には機材メンテナンス用の液晶モニタやキーボードがいくつか並び、光ファイバーのケーブルが何十本も床をのたくっているけど、接続する機械もないまま半端に投げ出されている。
「それじゃ手早く始めよう。データを転送するだけならそんなに難しい事じゃない」
そりゃあ蜘蛛の巣みたいに広がるインターネットなら一つ一つのデータに適切な宛先をつけて細かくやり取りしなくちゃならないから大規模なサーバーマシンが必要になるかもしれないけど、最初から一本道の往復しか考えない今回のケースなら中継マシンの負荷だって大幅に軽減できる。
今なら誰でも遊んでいるスマホのソーシャルゲームは、ものによってはビル一棟丸々貸し切った巨大なサーバーシステムと接続されている。全体で扱うデータは膨大だけど、でも個人個人と繋がるための喫茶店や駅地下にある中継用アンテナ基地自体は両手ですっぽり収まるくらいこぢんまりとしたものだ。
『演算機器は見つかりましたか?』
「このでっかい冷凍庫の温度管理を担当しているサーモコントローラを借りよう。どうせ冷やすべきコンピュータがないんだから宝の持ち腐れだ」
それらしい壁のパネルを外して、剥き出しの機材にぶすぶすと光ファイバーの束を突き刺していく。
スパコンは時に体育館より巨大な保管室いっぱいに展開されるけど、ただ部屋の中をがむしゃらに冷却すれば良い訳じゃない。どのセクションが発熱しているかをセンサーで捉えて的確に対処しないと、問題の機器は放ったらかしで通風口近くのマシンだけ氷漬けになりかねないんだから。まあ、ここ最近のエアコンだって部屋の状況や人の位置を調べて温風を送るようになったけど、あれのすごいヤツだって考えてもらえれば。
当然、これだけでも結構大きなデータ処理が必要になる。ちょっとしたサーバーの代わりにできるはず。
『必要な設定ファイルをコピー中……完了しました。サーモコントローラを軸にデータ転送体制の構築を確認。アブソリュートノア00内の全セキュリティデバイスを掌握、情報処理を開始します』
これはハッキングというよりも、元々マクスウェル達に繋げる予定だった機材を結びつけたって方が近い。失敗する理由がなかった。
「カーナビのカードサイズじゃ手間取る。マクスウェル、壁際に並んだメンテ用のモニタを全面使ってくれ」
『シュア』
さて、鬼が出るか蛇が出るか。
複数のモニタに息が吹き込まれ、僕達の眼前に改めてアブソリュートノアの情報が目一杯広げられていく。
「うっ……!!!???」
赤と黒の極彩色。
銀色の通路でひしめき合っているのは、自家生産の怒りや恐怖で爆発を延々繰り返していく群衆。
その目の一つ一つが狂気の色を孕み、開いた唇からぬらぬらと覗く犬歯はゾンビや吸血鬼のそれよりはるかにおぞましい。
「これが、全部人間……?」
思わず疑問形で呟いていた。
義母さん、姉さん、アユミ。彼女達は見た目だけなら人間と大差ないから、紛れていても分かりにくい。でも、少なくとも画面の中には背中から翼が生えたり下半身が大蛇だったり、そういう分かりやすいアークエネミーはいないようだった。
彼ら『人間』はバリケードでも作っているつもりなのか、あるいは無機物に怒りの矛先を向けて積み上げているだけなのか、あちらこちらを廃品の壁が塞いでいた。だけどこれ、合理性なんかあるのか。一台一台が冷蔵庫より大きな業務用のワークステーションだ。実際のスペックはどうあれ、オープン価格なんて言葉に踊らされて言い値で応じたらマクスウェルよりよっぽどお高い、電脳世界のスーパーカーみたいなマシンが無造作に山積みされていく光景は、何だか自分で自分の文明を壊して喜んでいる、哲学者かぶれの狂人達が生贄の祭りでも開いているように見えてくる。
何をされるでもなく、これを見ているだけである種の拷問として機能しそうだった。人の意識から世界というものを諦めさせるには十分すぎる圧を備えたビジュアルだった。
負の経典。
ごくりと喉を鳴らし、僕は顕現した地獄絵図に挑んでいく。どんなものでも情報は武器になる。目を逸らしてはアナスタシアも父さんも助けられない。
「……ていうか、なんだこれ、なにをしているんだ?」
複数の画面には赤と黒が乱雑に踊っていた。最初、群衆に取り囲まれた不死者が凄惨な私刑でも受けているのかと思ったけど、どうやらそういう訳でもないらしい。
「吊るされているのは、牛肉なのかな。このカタマリ……」
アユミの言う通りだった。
食糧庫と思しきドアから引きずり出されているのは、僕の背丈と同じくらい巨大な赤身の冷凍肉だった。怒れる群衆は太いロープで死んだ肉を天井から吊り下げると、口汚い言葉を撒き散らしながら、そこらで毟ってきた鋼管や金属棒を使ってやたらめったら殴りつけている。ぐじゅぐじゅと、溶けかけた肉から赤い半透明の液体が溢れ、それら生臭い液体が返り血みたいに彼らの頭へ被せられていく。
……こいつら、こんな、ここまで……?
意味不明な『儀式』に首を傾げる僕やアユミに対し、呻き声を出したのはエリカ姉さんや義母さんだった。
「あれは悪魔祓い、ですかね……?」
「ふぐう?」
「西洋では形のない悪魔は人間以外にも取り憑くと信じられてきたんです。例えば身近な家畜、雄牛や豚さんだって人間の子供くらいなら突き殺したり噛み殺したりする事例はありますからね」
「そういう動物に入る悪魔を追い払いたいのかもしれないけど、ちょっと根拠は薄そうね。西洋の教会では動物を裁いたり処刑したりはしたけど、奇麗に祓って元に戻した話はあまり聞き及ばないし。まあ、だからこそ躍起になってあそこまで繰り返してるのかもしれないけど。」
……つまり、ああでもしないと安心して肉野菜炒めの一つさえ作れないくらい恐怖に支配されているって訳か。
食糧庫の他にも、あちこちの壁や床に赤いものが散らばっていた。いいや、一番目立つのは扉だ。気密扉らしき真ん中に丸いハンドルのついた分厚い鉄扉の表面には、びっしりと赤いものが埋め尽くしている。
あれも家畜の血、か?
RPGにも出てこないような、禍々しい文字列や紋様の見本市と化している。
そういえば、実の母、禍津タオリが幽閉されていた廃病院地下の壁もこんな感じだったっけ。
「あれも魔除け、なのかな。姉さん?」
「……ほとんどセイレムであった魔女裁判と化していますけどね」
つまり効果は見込めないって訳か。
だからといって一安心なんかできない。狂える群衆がありもしないものにすがって常識のレールから派手に脱線しているんだ。バケモノ退治には処女の心臓で濡らした血の刃が必須、なんてそれっぽいデマが流れたらどうなるか、その先は想像だってしたくない。
狂気を遠ざけるための精神安定行動は、時にそれ自体が狂的に映る。
魔除けのお札を自分の部屋の壁に一枚貼るくらいなら、まあ個人の自由だろう。だけど一枚では満足できず、部屋の壁という壁をびっしりと埋め尽くしてしまったら? それは狂気に対抗しているのか、すでに自分から狂気を生み出しているのか、線引きはとても難しくなってくるはずだ。
……こんな所にアークエネミーなんか放り出せないぞ。何の因果もない死んだ家畜の肉さえ吊るし上げて袋叩きにしなくちゃ『安心』が手に入らないなんて本気で信じているんだ。出かける前にガスの元栓が気になるくらいの感覚でやってしまうんだ。恐怖の源泉たるアークエネミーと目が合ったら、何がどこまで爆発する事やら……。
「こっちは、毛色が違うな。このお通夜ムード……アークエネミーの方か?」
多くの空間は沸騰したような怒気と裏返しの恐怖で埋め尽くされていたけど、所々、ポツポツと締め切られた小部屋があった。分厚い鉄扉の奥では少数の男女が膝を抱えたり、壁に背中を預けたりして沈黙を守っている。理不尽な現実から目を瞑り、ひたすら嵐が過ぎ去るのを待っている子供のようにも見えた。
「義母さん、アブソリュートノアの人口比率は? その、人間とアークエネミーって意味で」
「大体八対二くらいで人間優勢」
「全部で数千人って事は、何だかんだでアークエネミーは一〇〇〇人もいないのか……」
ひょっとしたら、地球の人口比で選んだのかもしれない。
その気になれば人間だけ、不死者だけの組織にしてしまう事もできたはずだ。遺伝子を冷凍保存すれば種は滅びないんだから。個として優れたアークエネミーの方が少数派って事は、彼らは席を大幅に譲ったはずなんだ。死や滅亡の恐怖すらも飲み込んで、計画の正しさを信じて、平等に。それでも、こうなるか。譲ってもらった今の人間達が手心を加えるとは思えない。
……それにしたって、今はまだ集中攻撃は受けていないようだけど、いったん群衆に捕捉されたらいくら分厚い気密扉だって時間の問題だぞ。
「全体構造は把握できた。ようはアブソリュートノアっていうのはこんな時代になっても未だに魔女狩りの横行する出口のない変態島で、所々に助けを待つ犠牲候補が点在してるって考えれば良い。マクスウェル、可能な限り全部拾っていくぞ。扉やシャッター、消火設備に空調関係、とにかくセキュリティ権限で掌握できる手足を全て確認」
『シュア』
「でもって最優先はアナスタシア、シルフィード、そして父さんだ。ここを基軸にバラバラになったアークエネミー勢力を再結集させて、大きな拠点を作ろう」
『オーソドックスなところから始めてもよろしいでしょうか』
「ああ。ひとまず防犯カメラの記録から顔認識で父さん達を追跡してくれ」
結果が出て欲しい自分と見たくない自分がせめぎ合っていた。こんな所までやってきて具体的な指示を出しているのは僕なのに、だ。
実際には、検索結果が出るまで数秒程度だった。
壁際に並ぶモニタに、天井の隅から見下ろした新たな映像が表示される。
「アナスタシア!」
『ノー、防犯カメラに音声出力機能はありません』
金髪の小さな影の顔の近くには、小指大の妖精も漂っていた。よし、シルフィードもいるみたいだな、よし!
僕がここまで引きずり込んだんだ。しかも途中で錯乱して置き去りにした。こんな出口のない地獄に、あんな小さな女の子を。これ以上の減点なんか絶対許されない。何が何でも無事に合流しないと。
『彼女の携帯ゲーム機とコンタクトを取りますか?』
「ああ、いや、ちょっと待った」
同意しかけて、わずかに言い淀んだ。
こっちは動転していて忘れていたけど、でも何でアナスタシア側から連絡は来なかったんだ? 僕がスマホからカーナビに端末を切り替えたからアドレスが分からなかった? いいや、アナスタシアなら港のコンテナ置き場にあるマクスウェル本体の位置は分からなくても、ネット越しならいつでも遊びみたいな感覚で直接サイバー攻撃を仕掛けてきていた。アナスタシアからコンタクトを取れないはずがない。
だとすると、
「アナスタシアはアブソリュートノア館内設備を介してネットに繋がる事を恐れているみたいだ。逆探されて自分の居場所を知られるのを避けるためかもしれないけど」
紆余曲折あったけど、マクスウェル、ラプラス、ゴーストキャットの三基はアブソリュートノア正規システムに想定されていた。つまりハッキングやサイバー攻撃にはあたらない。対して、アナスタシアが館内で電波を飛ばすのは、それだけで不正攻撃のアラートがつくかもしれない、って訳か。
だとすると、
「まずは周辺環境をチェック。アナスタシアに連絡を入れる事で、実際にリスクがあるかどうかを確認しよう。危険が見つかった場合はそれを潰して連絡できる、安全な回線を構築する」
『シュア』
情報処理はマクスウェルに頼りきりだ。その間に僕達は居並ぶ画面と睨めっこして、小柄なアナスタシアが物理的な意味でどこにいるのかを確かめていく。
義母さん、天津ユリナは細い顎に手をやりながらこんな風に呟いていた。
「中層の遺伝子保存エリアみたいね。あの辺りは似たような施設が並ぶから詳しい区画番地までは分からないけど」
「それが?」
「基本的に冷凍施設だから、あんな所に長居させられないわよ」
見れば、アナスタシアは背中を壁に預けるでもなく床に座り込むでもなく、何もない空間に立って肌寒そうに自分の肩を抱いていた。吐く息も白い。
……薄着のまま下手に床や壁に接触すると、肌が張り付いて離れなくなるって警戒しているのか。
「こんな所に閉じこもって……外の様子はどうなっているんだ」
「ふぐっ!? 相当まずいみたいだよ、お兄ちゃん! これ見て!!」
アユミの言う通りだった。
鉄扉一枚挟んで向かいの通路は例によって『魔女狩り』の人間達でひしめいていた。まるで満員電車かテレビの中の初詣だ。鉄扉の強度は分からないけど、鉄パイプとかバールとかで外からベコベコへこまされている。かえって人が多すぎる事で目一杯フルスイングするスペースがなさそうだけど、そんなの気休めにもならない。
「……何とか、持ち堪えている、のか?」
『気密扉のスペックシートを取得。通路人間側にも相当数の被害が出ますが、一五〇人以上が一斉に将棋倒しを起こせば破壊されてしまいます』
「冗談じゃないぞ……!」
『現状、扉が保っているのはアナスタシア嬢が中から水を扉に散布する事で凍結させているからでもあるのでしょう』
「だけどちょっと待った。サトリ、ここ」
義母さんが指差した先で変化があった。
あれだけひしめいていた人垣が左右に無理矢理割れていく。興奮した狼みたいな群衆さえ怯えて距離を取りたがる何かが、通路を歩いてアナスタシアの待つ鉄扉へと近づいていく。
あれは……、
「何だ、こいつらが背負っているの。バーナー!?」
「いいえ、おそらくアーク放電を利用した電気溶接です」
「よう、せつ?」
切り落とす方じゃなくて、ようは接着剤のすごいヤツ?
一瞬、熱を使って扉越しに氷を溶かすのかと思った。でも違った。
「まずいわサトリ。外から溶接で塞いでアナスタシアちゃんが出てこられないようにするつもりよ!」
「……っ!?」
扉は破られるだけが問題じゃない。
あんな氷点下の密室から抜け出せなくなったら、やっぱりアナスタシアの命にかかわる!?
『どけどけ! 目玉をやられたくなけりゃあ下がってろ!!』
『何だよ封印する方に変更かよ!?』
『薄汚れた感染源なんか触らないのが一番よ。さっさとやっちゃって!!』
……ふざけやがって。
アナスタシアが何をした。そもそも吸血鬼の姉さんやゾンビの妹と違って、メイド妖精のシルキーには目立った伝染性もないっていうのに。
僕も『こう』だったのか?
姉さんの体を調理台に押し倒して包丁を振り上げた僕もこんなに醜悪だったのか!?
「マクスウェル、アナスタシアの周辺検索。何か今からできる事は!?」
『シャッターを下ろすなどで人垣は分散できますが、根本的に扉の前で溶接作業をする男を止める手段とは言い難いです。また、周辺に隠れるアークエネミー達を一ヶ所に集める事もできますが、アナスタシア救援のために動いてくれるかは未知数です』
「っ! あのクソ野郎が背負っているアーク溶接機材は!? 爆発させても良い!」
『IoTなどのネット制御ではありません。原理自体は原始的なものです』
「ちくしょう!!」
……どうする?
血走った目の男女は一五〇人以上ひしめいている。こんな中に直接駆けつけたとして、僕に何ができる? 吸血鬼の姉さんやゾンビのアユミだって常人の一〇倍以上の筋力があるけど、逆に言えば一〇〇人以上から揉みくちゃにされたら将棋倒しで押し潰されてしまうかもしれないんだ。
『オラ! 今さらビビって泣き叫んでももう遅いぞ!! 冷凍庫の中で氷の柱にでもなってろ! オラ!!』
『聞こえないでしょー?』
『つまりあいつの声も誰にも届かないって訳だ。一人で死ね! 死ねえ!!』
「……ちくしょうが……!!」
一番気に喰わないのは、リスクが計算できてしまって動けない自分自身だった。
できない。
何もできないっ!!
どうして僕には何の力もないんだ。正面切って間違った事に立ち向かって、全てを薙ぎ倒して親友を助け出す事もできないんだ! 僕のせいだ、カラミティだか何だか知らないけど勝手に錯乱してアナスタシア達を置き去りにしてっ! それなのにどうして、僕は、どうして、僕は、ただのちっぽけな人間でしかないんだっっっ!!!???
「ううう。ううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!」
歯を食いしばって、かろうじて涙は堪える。諦めるな、観察しろ。僕には伝説の剣はない、聖者の血が流れている訳でもない。所詮は日陰者の技術者。ならギークの武器から逃げるな。情報っていう最大の武器を手放すなっ!!
「……、あれ?」
と、その時だった。
絶望と狂気の画面の中から、何かが浮かび上がってきたような気がした。そう、気づいたんだ。何か見知ったモノが交じっている。狂える人間の群衆の中に一つだけ、冷静に顕現した地獄を見据えている顔が存在していたんだ。
どこにでも埋没してしまいそうな中年男性。不健康そうな肌に無精ひげ、よれたワイシャツにスラックス。
彼はちらりと天井の防犯カメラに視線を投げた。まるで僕達がこうして観察している事に気づいているように。
息が、詰まる。
そう、そこにいたのは……、
「とう、さん!?」
それは理性ある者の視線だった。そして覚悟を決めて間違いに立ち向かおうとする者の顔つきだった。
声はない。
だがその唇が確かに動く。
周りに気づかれないように、そっと放たれた命懸けのメッセージ。
「マクスウェル、画像分析で予測言語化!」
『シュア』
僕だけじゃない。ここには家族が揃っているんだ。義母さん、姉さん、アユミ。みんなが画面に注目していた。
そして映画の字幕のように言葉が溢れた。
サトリか?
……気づいている。やっぱり気づいている!?
「カメラが首振りしている事に注目しているんだ。正しいセキュリティサーバーが認証されたなら、マクスウェル達とアブソリュートノアが接続されたって事にもなるから、そこから僕を連想したのか!?」
父さんは乱痴気騒ぎと化している鉄扉の方に一度視線を投げ、それからもう一度防犯カメラを睨みつける。
とうろくにないアークエネミーだ。サトリのしりあいか?
何とかして自分の意思を伝えたかった。だから僕は離れた場所にある防犯カメラを思わず縦に振っていた。首を使って頷くように。
画面の向こうの父さんは息を吐いたようだった。
とびらのまえはなんとかする。すきをつくるから、そのあいだにあんぜんなところまでにがしなさい。
「何だ……?」
黒く重たい不安が胸にわだかまる。
何だよ、父さんは何をしようとしている? あれだけの大人数相手に!? 吸血鬼やゾンビだって真正面からじゃ返り討ちにされるかもしれないんだぞ!!
そうこうしている間にも、父さんは揺るぎなくこっちを見据えながら、その唇を動かす。
じゅんびはできるか?
答えられない。
じゅんびはできるのか?
だけど、頷くしかないじゃないか。
防犯カメラを使ってイエスと頷くしかないじゃないか、こんなの!!
それでいい。
父さんは、わずかに目を細めた。
笑っているようだった。
すまない。
どうして。
この人はどうして、そこまで迷いがないんだ。僕は立ちすくんだ。義母さん達アークエネミーだってそうだ。だけど父さんだけは違った。この人にとって、アナスタシアは顔も見た事がない赤の他人のはずなのに。
それでも。
彼は確かに言ったんだ。
本来だったら僕がやらなくちゃいけないはずの事を、どうしても震えてできない事を、あんなにもあっさりと。
だが、それでもどうしてもとうさんはこれをほうっておけない。
一瞬だった。
まさに一瞬の出来事。
「ああっ!?」
妻の義母さんが、両手で口元を押さえて嘆きの声を発する。
群衆の中に紛れた父さんは、満員電車もかくやという人混みの中で思い切り全体重をかけて体当たりを決行したんだ。
遠く離れた鉄扉のある方に向けて。
条件次第では分厚い扉が壊れるかもって話だった。将棋倒しを意図して誘発し、鉄扉前の溶接バカを押し潰して凶行を食い止めるために。
それがどれだけ危険な行為か。
今ここで日本国憲法なんて何の力もない。偶発的な事故じゃなかったと知れれば、アークエネミーさえ殺しかねない集団私刑にさらされるっていうのに。
「……、っ……」
僕は歯を食いしばって、それでも歯と歯の間から洩れ出るように叫びを放っていた。
「マクスウェええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええル!!」
『シュア、シャッターにより人員分断。暴徒達を可能な限り隔壁で遠ざけつつ、最寄りのアークエネミー達をアナスタシア嬢の鉄扉まで繋げます』
そんなもん信用できるか。
僕は手の甲で涙を拭ってきびすを返した。ケーブルを整理するための結束バンドをまとめて掴み取る。向かうべき先は決まっている。せっかく父さんが作ってくれた救出のチャンスなんだ。周りのみんなが協力してくれませんでしたなんて理由で棒に振れるか!!
「サトリ君!」
「ふぐう!! ほらお母さんも行くよ!!」
ああそうだ、僕だけじゃない。あんなもん見せられたら誰だって黙っていられるはずないんだ。
「馬鹿な人……」
天津ユリナが呻くように言っていた。
「いつもそうじゃない。光十字にいた頃からアークエネミーの事ばっかり考えて、居場所を失って、家族さえバラバラになったのに。どうして立ち止まるって選択肢が頭に浮かばないの……!?」
「……きっと、それが僕達の父さんだからだ」
腕力はない、超常現象は使えない、感染や伝染だってできない。
だけど父さんは立ち向かった。
このどうしようもない間違いに、裸一貫で挑みかかっていく本物の強さを見た。
失わせてたまるか。
父さんもアナスタシアもシルフィードも! わずかでもこの名誉を傷つけさせてたまるか!!
前を見ろ。
引き継げ。
僕は誰だ? あの人のたった一人の息子だろう!! だったら引き継げ、あの人が躊躇なく見せた男の部分をだ!!!!!!
『階段を降りれば中層に入ります。シャッターの開閉で適宜ルート構築していきますが、暴徒達の徘徊エリアである事実をお忘れなく。突発戦闘に備えてください』
言われるまでもない。
もう戦いもせずに歯を食いしばるのは真っ平だ。そんなのは忍耐でも強さでもない。廊下の片隅にあった消火器を両手で拾い上げ、姉さん達と下りの階段を駆け下りていく。
戦え。
切り開け!
掴み取るんだ、全員生還の道を!!
降りた先は似たような構造の部屋がずらりと等間隔に並ぶ区画だ。つまり言い換えれば格子状に無数の十字路が並ぶ。それら全てをシャッターで閉じて、暴徒達を小分けにしている状態だけど、
『最も出会う人数の少ないルートになるよう、シャッターを開放していきます。とはいえゼロ人ではありません。閉じ込められた暴徒とは遭遇します』
「分かったマクスウェル」
ガコン、と重たい金属音と共にシャッターが上に上がっていくと、狭いスペースに早速一〇人近い若者達が待っていた。
さっきまでの僕なら立ちすくんでいたかもしれない。冷静に迂回しようとか囁いて、戦いを避けていたかもしれない。
だけどもう迷わなかった。
両手で消火器を掴み直す。
「どけよ……。どけェェェえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」
向こうにとっても災難だったかもしれない。
狭い空間に一〇〇人、一〇〇〇人と集まればアークエネミーさえ押し返す勢いの群衆だって、分厚いシャッターで区切ってしまえば一つ一つの空間にいるのは一〇人くらいだ。素人丸出しの僕と違って、吸血鬼の姉さんやゾンビのアユミなら、十分に手足を振り回せるスペースさえあれば独壇場になる。
だって、一人きりで常人の一〇倍二〇倍を誇るっていうんだから。
そして暴徒達に立て直しのチャンスはない。そんなもの与えない。誰とも合流を許さないまま、個別にシャッターを開けて少しずつ人員を削り取っていく。向こうの被害を増やしていく。
『違うんだよ、何かの間違いだって、違うんだ!!』
『被害者っ、おれフツーに被害者だし!』
『何で私達ばっかり……』
そして群衆最大の武器、『匿名性』を取り上げられればこんなものだった。聞けば聞くほど頭に血が上る事ばっかり言う連中を殴り倒して結束バンドで後ろ手に縛り上げていく。こいつらがしてきた事はようく見てきた。言葉で取り繕えると思った時点ですでに冒涜だ。
「はあ、はあ! ちくしょう、マクスウェル!! あと何枚越えればアナスタシアまで辿り着く!? ちくしょうがっ!!」
『あと三枚先です』
「あああああああああっっっ!!!!!!」
震える両腕にもう一度力を込め直して、消火器抱えて次の四角いリングへ飛び込んでいく。これが人類の良心か? 今こそ大きな舞台に上がるべき優しさを備えた人間か? ふざけんな何にも変わんねえよむしろ醜悪だシンデレラも醜いアヒルの子も取って付けたデウスエクスマキナに選ばれた程度で有頂天になってずっと一緒に暮らしてきた家族を捨てるなよそんな連中のどこがどう尊敬できるっていうんだ寝ろ寝てろ起き上がるなぶっ倒れてろ永遠にッ!!
『ラストです。アナスタシアの待つ遺伝子低温保存棟C9前、開放します』
ゴゴン!! と低い音を立てて金属シャッターが真上に開いていく。
ドアの前には火炎放射器みたいな機材を背負う大男がいた。父さんが巻き起こした将棋倒しの圧をまともに受けたんだろう。背中のボンベみたいなものは大きく歪み、ソケットらしきパーツからしゅうしゅうと変な音が出ている。
『……ばけ、もんが……』
ぎこちない動きでそいつはこっちを見た。
『だだ、ばぶが、アーク、化け物、ふざけんな俺を誰だと
「お前がどこの誰かなんて!! こっちはどうでも良いんだ!!」
有線のホースで繋がった金属の槍がこっちに差し向けられる。対して、僕は少し離れた位置から両手を振り上げ、真上に掲げた消火器をサッカーのスローイングみたいに投げつけた。
とっさに大男はアーク放電の電極を振り回して叩き落とそうとしたみたいだけど、もうその動きが致命的だ。
消火器は高圧缶だ。傷つけられると爆発する。
ボッバッッッ!!!!!! と。
白っていうよりピンクっぽく着色された粉末消火剤と共に金属容器が破れ、分厚い破片が全方位へ撒き散らされた。
「……失せろ生ゴミ野郎、僕の人生から永遠に」
ぶっ倒れて動きを止めた男に近づいて、その頭を軽く蹴ってから背負っていた装備を取り外す。それから結束バンドで後ろ手に縛り上げた。
「アナスタシア!」
歪んだ気密扉をガコガコ叩いて大きな声を出すけど、返事はなかった。
聞こえるような作りじゃないのか、外からのアクションは無条件で警戒しているのか。
「扉の管理は? マクスウェルがやっているんじゃないのか」
『ソフトウェア的にはすでに電子ロックは解錠されているはずですが、扉全体が物理的に凍結していて開きません』
それなら良い。
僕は暴漢の持ち物だった溶接機を背負い直す。
「マクスウェル、メーカーのサイトから仕様書と取扱説明書をダウンロード。こいつで扉を炙って向こう側の氷を全部溶かしてやる」
『すでに電子ロックは開放され、デッドボルトも動かしていますが、扉の稼働部位には当てないようご注意を』
マクスウェルの指示に従って弱い出力でロッドの先の閃光を押し当て、分厚い鉄扉を高温で炙っていく。
元々ロックは外してある。わずかに開いて気密も破られているからか、やがて床からじわじわと透明な水が広がってきた。
「もういけるか?」
『鉄扉は超熱いと思われますけど』
上着……くらいじゃダメか。合成繊維だから溶けてしまう。ズボンのベルトを外して鉄扉の中央にある丸いハンドルに通し、真下に引っ張って回していく。
ガコン! と鈍い音が響いた。
今度こそ!!
「開けるぞ、アナスタシア!!」
重たい扉を目一杯手前に引いて、僕はありったけの力を込めて叫んだ。冷凍庫みたいな白いもやが足元から迫る。寒いなんてものじゃなくて肌が痛い。アナスタシアやシルフィードは無事か、どうなんだ!?
「……う……」
ついさっきまでは、防犯カメラで見た限り彼女は壁にも床にも触れるのを避けて中央で棒立ちになっていたはずだ。
それが床の上でうずくまっていた。
いいや、立ち上がるだけの力がないのか!?
「くそっ!」
『ノー。無理に抱き起こすと床面と癒着している皮膚がまとめて剥がれてしまうリスクがあります』
「なんか燃やせるものは!?」
『業務用冷却機とはいえ、基本的な仕組みはエアコンや冷蔵庫と変わりません』
「フィルターを取り外そうっ!」
横に細長い、目の細かい網戸みたいなのを引きずり出す。化学繊維でも構わなかったけど、贅沢にも絹糸の繊維らしい。そいつに背負ったままのアーク溶接のロッドを押し当て、派手に発火させた。
松明が手に入れば、後はアナスタシアの肌に近づけて凍りついた床を溶かせば良い。
「ゆっくりだ、ゆっくりやろう」
『室温と床の素材から熱分布を予測しました。剥離の参考にしてください』
大分びしょ濡れになってしまったけど、ようやっとアナスタシアを持ち上げられるようになった。
「……すまない」
思わず唇を噛んでいた。
当人が聞いていないんじゃ、責め立てられなくちゃ謝罪なんて何の意味もないのに。
「すまないアナスタシア……!!」
弱々しくも空中を漂うシルフィードと一緒に遺伝子冷凍保管棟を脱出する。
「ちくしょう、後は父さんだ。マクスウェル、追跡できているか?」
返事がなかった。
「マクスウェル!?」
『ノー。顔認識で位置情報は追い駆け続けているのですが』
「?」
僕だけでなく、義母さんや姉さん達もカードサイズのカーナビに集まってきた。
『中層外周部から、工具を使ってシャッターがこじ開けられ始めています。該当人物はそちらの人間と合流したようです』
「ふぐっ? つまりまたふりだしって訳!? お父さんどうなっちゃうの!」
『ノー。意図して合流し、この場を去っているように見えます。将棋倒しの犯人として連行されているようにも見えません』
「……まだ戦いは終わっていないのね」
僕とは違う角度で父さんを見てきた義母さんがそんな風に呟いた。
「人間サイドの技術者としてなら、最下層の機関動力部に接触できる。あの人はその立場を使って連鎖爆発を阻止するつもりなんだわ」
……だとしたら危険過ぎる。
今はまだアナスタシア救出のために将棋倒しを起こした犯人だって気づかれていない。だけど押し倒された連中は死んだ訳じゃない。回収されて手当てされたら、怪我人の誰かが言い出すかもしれないんだ。俺はあいつに押されたんだって。……いいや、もう真偽なんてどうでも良くて、デマだろうがフェイクニュースだろうが叫んだ者勝ちなんじゃあ……。
リスクは分かっていたはずだ。
なのにどうして時間を稼いでくれたのか。
答えは決まっている。父さん自身がカメラのレンズに向けてこう言っていた。
だが、それでもどうしてもとうさんはこれをほうっておけない。
「……くそ!!」
嘆いても仕方がない。
ここまできてまた家族がバラバラになるなんて真っ平だ。父さんを狂乱と暴力の巣穴から助け出す必要がある。
そのために踏むべき段取りは何だ?
答えはマクスウェルが導いてくれた。
『今まで隠れていたアークエネミー達が廊下に顔を出し始めました。暴徒の気配がなくなった事で気が緩んでいるのかもしれません』
「……そうだな」
僕達に足りないのは数と安全地帯だ。
アークエネミー側を束ねて組織として再編できれば、大部分を占める人間の暴徒達を押し返す力を生み出せるかもしれない。
「最低でも弱ったアナスタシアとシルフィードは保護してもらう必要がある。それで良いかな。義母さん?」
「えっ、ああ。そうね……」
歯切れが悪いのも無理ないかもしれない。こんな状況でいつも通りに振る舞えなんて、土台無理な話なんだ。
マクスウェルにいくつかのシャッターを開けてもらって、隠れていたアークエネミー達との合流を図る。
「わっ!?」
「あなた達、は……? 人間が交じっているようだけど……」
「リリス様。ご無事だったんですか」
人間らしい姿のもいるし、あからさまに下半身が巨大な馬のようになった女の子なんかもいる。そんな中で、僕ではなく義母さんの方に話しかける少女もいた。
この作業服に肩から提げた拡声器、そして黒髪の小柄な少女は、
「ラスベガスの、フーバーダムにいた……?」
「ニース=オーランド、またの名をアークエネミー・バンシーと申します。改めてお見知り置きを、ご子息」
色々話したい事はあるけど、今は安全の確保だ。立て直しの最中に脇腹を刺されて総崩れになったら元も子もない。
金属のシャッターだって特殊な工具があればこじ開けられる事は判明した。いつまでも頼ってはいられない。
「マクスウェル、防犯カメラで検索。一番大きなアークエネミーの避難所と、道中で拾えそうな孤立した不死者のピックアップ」
『シュア』
「父さんの位置も見失うなよ」
おそらく彼は自分の身の安全よりアブソリュートノアの暴走を食い止め、みんなを大爆発から守る事を優先している。そういう人なんだ。
だから僕達が父さんの命を助けるんだ。絶対に途中で失敗する訳にはいかないぞ。何としても結末まで繋げてみせる。
『人間側はシャッターで分断、孤立したメンバーを掘り返して助け出すのにしばらく注力するはずです。その間に上層、比較的アークエネミーの多いエリアまで引き返しましょう』
「ああ……」
同じ手は使えない。
この中層を通って人間側が支配する下層に潜り込むのは、さらに難しくなるだろう。
階段を上がり、途中でピタリと締め切られた鉄扉を乱暴にノックする。息を潜める者も多かったけど、バンシーが拡声器で『人間には出せない』超音波の呼びかけとかを挟むと、アークエネミー達は恐る恐る顔を出してくれた。
「わあ! 何だこの白い毛むくじゃら、雪男か?」
『その和訳は失礼だわ。メスのウェンディゴですもの、雪女と訳すべきではなくて?』
「メスって名乗るのは気にしないのか……」
数が増えてくると百鬼夜行というかハロウィンというか、とにかくバリエーションが豊かになってきた。そして上へ上がるほど、あのピリピリした感じもなくなっていく。
……ひょっとすると、僕はもうこっちの方が居心地良くなっているんだろうか?
『次の角を右です。大規模なランドリーがアークエネミー側の拠点となります』
「ランドリーって、コインランドリーの?」
『籠城戦の場合、衣食住で一番大切なのは食ですが、だからこそ他をおろそかにすると感染症など内部破綻の温床になります。命にかかわる大切な施設ですよ』
まあ、どんな劣悪な刑務所にだって運動場と食堂があるのと同じように、洗濯機を並べたリネン室も必須の部屋だけど。
とにかく指示に従ってみんなを案内した。
角を曲がった途端に、『それ』が視界いっぱいに広がってきた。
「壁に向かって全員並べ! 人間どもは両手を挙げて横一列に!!」
「殺しちまえこんなヤツら!! ぼく達の安全はぼく達が守るんだっ!!」
……ちくしょう。
こっちもこっちで箍が外れかかってんのか!?
おそらくランドリーに繋がる鉄扉を右手側に控える、真っ直ぐ行き止まりの通路の先。あちこち殴られてボコボコに顔を腫らした男女が両手を挙げていた。数は大体一〇人くらい。指示には従わず、壁に向かって背中を見せたりしない理由は簡単だ。
……準備が終わったら具体的な処刑が始まる。だから料理の下拵えを完了させる訳にはいかないんだ。
そして彼ら横一列の面々を打擲しているのは、何だろう? 見た目は人間っぽいけど、両腕は針金みたいな硬い毛で覆われた毛むくじゃらだ。
吸血鬼の姉さんが呻くように言った。
「……人狼、ですか。本来彼らは私達と混同が起きるくらい優れた種族のはずなんですけど」
詳しい話は分からないけど、ようはその気になればトラやヒグマみたいに腕の一振りで人間の血肉を抉り飛ばせる存在だって思った方が良い。
彼らは『兵隊』みたいで、ギャラリーは横手のランドリーの扉からすずなりで顔を出していた。同列扱いされたくないけど安全な場所から眺めたい、そんな対岸の火事の表れか。
……アークエネミーだけを美化するのも歪んでる。彼らはただ、人間と『同じ』ってだけなんだから。
それでも、薄く開いたドアから出ている顔の中に小さな子供まで交じっているのを見つけて、思わず頭がぐらりと揺れた。
「何をやっているんだ、アンタ達!!」
改めて叫んでそっちへ出ていくと、実働の人狼達がこちらを振り返る。握って開いたその手の中で硬い爪がカチカチ鳴るのを聞き、姉さんやアユミもまたアークエネミーとしての殺気みたいな圧を膨らませる。
一触即発。
ボコボコの人間達は両陣営を、僕まで含めてみんながみんな信じられない目で交互に追い駆けていた。お前どっちの味方だよ。暗にそう言われているようだった。
別にアンタの味方じゃないと答えてやりたい気分だ。
人狼の一人が吼えた。
「そっちこそ何者だ!? 混成部隊があるなんて話は聞いていないぞ!」
「……、」
「これが可哀想か、人間? 殊勝にも怯える野うさぎみたいになっているのは、数の暴力を奪われているからでしかない。どうせ人間側に合流したらまた群衆心理特有のふてぶてしい『匿名の誰か』に逆戻りだ! ここで確実に数を減らして群衆の森を切り崩していかなくちゃあ、何度でも石を投げられるんだよ!!」
「だからやられる前にやるのが正しいのか? それじゃあ予防攻撃で魔女狩りに走った人間側と何も変わらないな!!」
「人間が!! 自分だけは話の分かる特別製とでも考えたか!?」
「ああ人間だ! だったらどうした!? アンタは自分の生まれを自分で選べるほど高性能なアークエネミーだったのか!?」
間違った事は言っていないはずだ。
こいつらは自分達を苦しめる人間相手に大逆転して、勝ち組にでもなったつもりかもしれない。だけどそれじゃあいじめられっ子がいじめっ子に転身するようなものなんだ。それで何を得たつもりだ。理不尽な痛苦を克服したって胸を張って言えるのか。そんなのはいじめっていう呪縛全体の奴隷になっているのと同じじゃないか。
片方が暴走して、正常だったもう片方まで引きずられ始めている。何が正義だ、狂気に溺れているようにしか見えないぞ!
一〇〇人が聞けば一〇〇人が同じように考えると思っていた。
だけど、ざわりと動揺が広がったのは、正面の人狼じゃなくて僕の背後にいるアークエネミー達だった。
『でも、乱暴な人間達がそもそものきっかけなんだし……』
『すぐにここから出られないなら、私達が自分の手で身を守らないと』
『このままアークエネミー同士で戦う? 何で、どういう理屈で……?』
「……おい……?」
声は後ろから。僕達が助けてきたはずのアークエネミー達からだった。
振り返れなかった。
このブレを認めたくなくて、僕は後ろを振り返れなかった。
今ここにあるのは相容れない二つの勢力のいがみ合いじゃない。アークエネミーとアークエネミーの組織しかいない。つまり、そういう事なのか。彼らの共感は不死者の方と合流して、人間の僕は前も後ろも塞がれたって!?
『警告!!』
ザザザザザザザ!! と、周囲を音が取り囲んだ。アナスタシアを抱えたままの僕を中心に、義母さん、姉さん、アユミまでもが槍玉に挙げられる。
シルフィードは?
バンシーとかいう作業服の少女は?
「……、」
「……。」
ダメか。様子見。ひょっとすると人間の群衆に紛れて機会を窺った父さんみたいにタイミングを計っているかもしれないけど、多分花開かない。
僕は孤立した父さんを助けなくちゃいけないんだ。こんな所で可能性を断ち切らせてたまるか!!
「待った! 義母さん達はアークエネミーだ。僕が今抱えているアナスタシアも!! 彼女達は保護してくれたって構わないだろう!?」
「お兄ちゃん……!?」
「何を言っているんですか、サトリ君!!」
……一人でも多く、父さん救出の芽を持つ人を生存させる。僕にはもうこれしかない。ここに賭けるしかないんだ!
でも、人狼の一人はこう言い捨てた。
「人間の同調者は空気を乱す。中に受け入れる訳にはいかない。そもそもアークエネミー・リリスは人間の伴侶を手に入れていたようだしな。ほとんど人間みたいなもんだ」
「……っ!!」
ぶっ殺してやろうかこいつ!!
一方で天津ユリナは音もなく目を細め、
「なるほど、ね。最初からそういうつもりだったんだ」
「何の事だか分からんよ」
「アクシデント自体は偶発だったけど、利用してやろうとは思った訳ね。下克上でも果たして私を引きずり下ろし、人間との共存もやめて、不死者『だけ』でカラミティを乗り越えようって」
……そうだ。
義母さん、アークエネミー・リリスはそもそもアブソリュートノアの重鎮だ。説得の有無以前に、彼女が一喝すれば命令系統が復活しないとおかしいんだ。
それが実際にはそうなっていない。
人間もアークエネミーも各々勝手に暴れ回って、まるで意識の中から義母さんを締め出そうとしているみたいだった。『命令を強いる者』から。
命令系統の壊れた暴走部隊。
……これじゃあ僕の言葉なんか聞く耳も持たない訳だ。てっぺんのリリスの声も届かない暴力の化身達に、部外者の平和的な説得なんて通じる訳がないじゃないか!
「人間側が早い段階で下層を占拠したのは何故!? あなた達が上層を支配する事で、彼らの行き先を反対側へ誘導したからじゃない!?」
「……、」
「でも分からないわね。人の手で機関動力室を暴走させれば彼らを悪者にできる。ただしアブソリュートノア全体が吹っ飛ぶわよ。そうなったら下克上で人間弾圧への方針切り替えどころの話じゃなくなるわ。焚きつけたあなた達だって跡形もなく消し炭になるっていうのに!」
そう。
こいつらは一体何がしたいんだ?
アブソリュートノア内部の沸騰自体は、カラミティによる偶発だ。でも義母さんの話だと、人間側が自然と下層に拠点を置いて滅法危険な機関動力室を占拠するよう促したらしい。だとすれば、何故? みすみすトドメを刺してくれって頼んでいるようなものじゃなあないか。
そこまで考えて、僕の背筋に冷たいものが走り抜けた。
いや。
まさか。
ありえない、それはダメだ。そんな可能性は頭の中で想像するだけで罪深い!!
「どうでも良いのよ。そんな事」
甘ったるい女性の声だった。
これまで廊下に出ていた人狼達じゃない。ランドリーの扉を大きく開け放ち、ギャラリーのアークエネミー達の頭を撫でながら、その影がゆるりとこちらに姿を現わす。
やや退廃的な向きはあるけど、それでも十分以上に妖艶な美女の肢体。光を弾くような白い肌がとにかく眩い。枯草のような色の長い髪を垂らして豊かな乳房を隠すような、あまりに無防備極まるその格好。
反面、薄布を巻く腰から下はぬめるような大蛇であった。その髪や鱗は枯草じみているのに、元の美貌から甘い匂いを連想させるからか、ミルクティーの方がイメージは近い。挙げ句、ディスクの表面のように見る角度によって髪や鱗は七色に輝いていた。まるで覆い隠そうとしても内側から滲み出る色香のような、色とりどりの光。枯草の退廃などお構いなしの、永劫の美の持ち主。紛う方なきアークエネミー。それも魔王リリスと対等に言葉を投げ合う立ち位置の誰か。
義母さんはこう呼んだ。
「……シャルロッテ=フレグラ」
「所詮は仮の名よ。アークエネミー・エキドナとでも呼んでちょうだい」
ギリシャ神話に登場する半人半蛇の怪物で、洞窟から美女の上半身を出して男性を誘惑し、致死圏内まで近づいた獲物を捕食する人喰い性質の持ち主。同時に人間以外の様々な怪物と交わり、ケルベロスやヒュドラなど、あるいは自分自身よりも強大で凶暴なアークエネミーを次々に産み落とした混沌の母胎。
……そしてリリスもまた、かつては大量の悪魔や悪霊を生み出す、世界へ諸悪を際限なくばら撒くダウンローダーウィルスみたいに振る舞っていたらしい。そういう意味で同格。産み落としたモノがことごとく破壊の権化となる、祝福されない母親達。
「しゃるろって、さま?」
小さな妖精のシルフィードが驚いたような声を出していた。そういえば、彼女の口から何度かシャルロッテって名前は出ていたか。でも、純白の肌にミルクティーの髪を誇るエキドナは死地に踏み込んできた忠臣をチラリとも見ようとしなかった。
義母さん、魔王リリスが口を開く。
「何をしでかしたの?」
「そんなに単純な話じゃないわ。私は単体では大した力を持たないアークエネミーだから」
エキドナはそのほっそりした白い手を通路の壁へ伸ばした。蛇の下半身が不安定だから、とは思えない。
ぐじゅり、という粘っこい音があった。
見た目だけならステンレスみたいな質感の硬い壁が、臓物じみた動きで波打っていた。
無意味なものじゃない。
エキドナと同じく枯草じみた、それでいて七色の光に輝く鱗に覆われたそれは……、
「保温器」
何か巨大で柔らかい袋のようなもの……だけじゃない。
壁、床、天井。
あちらこちらから虹色に輝く鱗に覆われた肉の滝のように、多くのモノが滴る。これは硬い壁の表面に何かがへばりついているのか、あるいは硬い壁そのものが作り替えられているのか。
枯草の鱗に覆われ、あるいは突き破り、脈動しながら自己主張を繰り返す何か。
複数の巨鳥の羽を円形に束ねたスクリューのようなもの、コウモリの頭部をまとめた歪なボール、へその緒のように床をのたくる肉のチューブ……。
「遠心分離機、エコー、極微量スポイト、酸素に栄養はこちら。何だったら刃でもノコギリでも用意する。胎生、卵生は問わないわ」
辺り一面が歪を極めるからこそ、中心に立つエキドナの美貌や肢体は一層極まって見えた。
「私が生み出す仔は強靭だけど、あまりに大きすぎる存在の場合は私のお腹じゃ保たないの。だから、先に私の仔を産める母胎から生成する。まあ、現代風に言うなら生物ラボかしらね。……この時点では命はないわ。ここから産み落とされるものに、初めて魂が宿るのよ」
嫌な予感がする。
こいつが何を考えているにせよ、こんな大々的に明かすか? 僕達敵対者の前で、って意味じゃない。『兵隊』の人狼達に、『対岸の火事』のギャラリー達。ピラミッドの頂点に居座る存在が、自分が支配する者達の前でわざわざ自分から地金を出すか? 王は絶大な力を持つが、カリスマを失えばそれまで。失脚すればいつだって悲惨な目に遭うのが定めなのに。
それを恐れないって事は。
いきなりアークエネミー達が僕達から離反したり、不自然なまでの自殺紛いの計画に誰も彼も疑問を抱かなかった事も含めて。やっぱり。
「でも、使い方次第では彼らの頭を効率的に操れる。このラボの機材でね」
く……っ。
「義母さん!! 姉さん、アユミ!?」
叫び、アナスタシアを抱えたまま後ずさる。具体的な事は何も分からないけど、これでみんなで仲良く合流の線は本当に消えた。ランドリーの中は得体のしれない感染源で溢れている。あそこに入ったらおしまいだ。いいやこの廊下だって安全は確約されていない!!
ぶわっ!! と、ドアの隙間から小さな砂嵐のように飛び出してきたモノの正体は……、
「ミュルメコレオって知っているかしら。それはアリとライオンの合いの子。獅子の頭と前脚にアリの腹と後ろ脚を併せ持つ怪物。だけど獅子の口では肉しか噛めず、アリの腹では分厚い肉を受け入れられない。よってこのいびつな生き物は永く生きる事も叶わない」
エキドナは奇妙に細く長い舌で自分の唇を舐めながら、
「面白い性質だわ。色々試してみたくなるわよね、ラボの材料はいくらでもあるんだし。では掛け合わせを変えたら何が起きていたのかしら。例えば極小の吸血生物であるダニと、獰猛な人喰いの蛇女を掛け合わせたら……。まあ、ちょっとしたスポイトやカプセルの代わりにはなるんじゃないかしら」
この小さな粒子の嵐。
これが全部!?
「世界最小〇・一二ミリの牙の持ち主の完成ね。そう。魂はなくても、牙は使えるわ。彼らの小さな体では標的から致死量相当の血液を抜くのは難しい。だけど血を吐く事には制約はないものね? つまり血管に張り付き、常に吸った血を獲物の血管に戻し続ければ、見た目は一滴も変化のないまま『吸引量だけ見れば致死量吸った』事にしてしまえるわ。今は一ヶ所にまとまっているから視認できるけど、いったん薄く広く拡散すれば肉眼じゃあ自分の髪や衣服に付着しても分からなくなるわよ」
「ありえない、そんな都合の良い感染源、アークエネミーなんて世界のどこの伝承にも存在しない!!」
「さっきも言ったでしょう、これはアークエネミーじゃない。私が用意した生物ラボの備品、可愛い我が仔を取り上げるための器具なんだから」
改めてエキドナの恐ろしさが顕現する。望む超常現象を呼び出すため、望むものを調達する怪物。そして野に放たれた、目に見えないほど極小の吸血支配媒体、変則ミュルメコレオ。マクスウェルは言っていたじゃないか、清潔を保ち感染症の鍵を握るランドリーは命にかかわる施設だって。こいつはそれを逆手に取って、まず館内の衣類や寝具を汚染する事でアブソリュートノアのあっちこっちへ地雷をばら撒いた……!?
反則なのは〇・一二ミリの吸血ダニだけじゃない。あの女は同じレベルの得物をいくらでも調達できるんだ。異形の出産に関わる全てを。駒の種類も分からない状態でチェスや将棋ができるか。スパコンに頼っても無理だ、こんなのあまりに危険過ぎる!!
「マクスウェル! セキュリティ権限から防火設備にアクセス、スプリンクラーだ!!」
『シュア』
「あら」
ザッ!! と天井からの大雨に、枯草のようなミルクティーのような、それでいて見る角度によって七色に輝く髪を揺らすエキドナが小さな声を出した。相手が目に見えないほど微細な存在なら、一匹一匹の力はさほどでもない。水滴に絡め取られるはず。
相手を叩き落として身動きを封じた今なら……!!
「アユミ、姉さん!!」
「了解です」
「ふぐうー!!」
全部倒すなんて考えなくても良い。……、壁際の人間達は残念だけど、あの人達も込みで髪や衣服に吸血ダニが仕込まれている可能性が高い。例えば負傷者を地雷の上に寝かせて救援者を巻き込む罠を作るように、だ。
気絶しているアナスタシアを抱えたまま接触して良い相手じゃない。
来た道を引き返す。
ウェンディゴやケンタウロスといったアークエネミー達が待ち構えていたけど、義母さんは壁際にあった消火器を掴んで大量の粉末消火剤を撒き散らした。スプリンクラーとは相性は悪いけど、それでも目くらましにはなる。
全部納得ずくの、自分で出した最適の答え。
でも、
『待ってくれ、置いていかないでくれえ!』
『嫌だっ、殺される、処刑は嫌だあ!』
「……ッ!!」
「ダメよサトリ! 顔の怪我を見れば分かる通り、ダニまみれの人狼から物理接触を受けていた以上、おそらく彼らもダニに触れているわ!」
分かってる。
分かってるけどさっ!!
「なあんだ、不発か」
逃げる僕達に、真後ろから嘲笑う声があった。
「でも正解しか引き当てない正しさっていうのも、十分狂気に見えるけどね」
甘ったるいミルクティーに似た長い髪で純白の胸元を覆い、全身を虹色に飾るエキドナの声しかなかった。
つまり、あれだけ喚いていた生存者達の声はピタリと止んでいた。まるでスイッチ一つで連動するように。
やっぱり罠。
すでに伝染済みの被害者に、まだ人間のふりをさせていただけ。
「くそっ……!!」
立ち去るしかなかった。
また一つ、アブソリュートノアが混沌に落ちていく。
上層も下層も危険域。
中層でも人間の暴徒達がシャッターとシャッターの間に閉じ込められた仲間を救出している。
いよいよ行き場がなくなってきた。
こんなのじゃ父さんを助けるための地盤も固められない。
「バンシー、シルフィード……!」
中でも痛いのが彼女達だ。もう少し気をつけておけば、帯同してくれたアークエネミー達を犠牲にしなくても済んだかもしれなかったのに!!
「……まだ嘆くのは早いかもしれません」
と、姉さんがそんな風に言い出した。
「本当に吸血ダニが誰の目にも見えなくて見境なしに被害を増やしていくなら、巣窟と化したランドリーの中で待機していたエキドナ自身が巻き込まれかねません。だとすると」
「何かしらの防疫手段があるって事? 姉さん」
「ええ、安全の確保こそラボがラボである第一条件のはずです。ですから何か、ワクチンや解毒剤のようなものが。魂を簒奪された犠牲者達を元に戻せる可能性があります」
「ふぐ。だったら嬉しいけど、ラボだ機材だって言ってもアークエネミーの牙を組み込んだ伝染でしょ。そんな救いがあるのかな」
吸血鬼やゾンビはその致命的な伝染性を理解している。だから安易に力を振りかざさない。これが社会の中で生きていく第一条件だ。
ただし、
「忘れたんですかアユミちゃん。吸血ダニは自然発生したのではなく、目的に沿って作られたラボの備品を再利用しているんですよ」
「そうか。エキドナ自身にとって都合の良いようにスペックへ穴を空けているかもしれないんだ。自分自身に不測の事態が発生した場合に、速やかに問題修正できるように」
むしろ攻撃手段としての観点なら、そうでないと制御不能になってしまう。映画やドラマに出てくる最終兵器と違って、実際の生物兵器は自分で撒いたウィルスが地球全土を覆い尽くすようでは失敗作なんだ。短期間しか増殖できない、外気や紫外線に弱い、炎やアルコールで消毒して防疫線を築ける。とにかくわざと弱点を設け、散布範囲を限定して封じ込めができなければ、巡り巡って自分で作ったウィルスを地球の裏側で待つ家族も浴びる羽目になるんだから。
「……問題を整理しよう」
上層と中層の間、どっちつかずのロッカールームでずぶ濡れの僕達はそんな風に言い合った。
ここも長くは保たない。いずれ人間かアークエネミーか、どちらかが押し寄せてくる。
「アブソリュートノア館内は人間側とアークエネミー側に分かれて対立している。人間側は下層の機関動力室、アークエネミーは上層の生活エリアを中心にして。でも実際にはエキドナが吸血ダニを使ってアークエネミー達を支配し、彼らの動きを活用して人間側を意図して下層へ押し込んでいる。その圧迫感で人の暴動を生んでいた。つまり、全てエキドナの掌の上だ」
「サトリ君。人間側もまとめて吸血ダニにやられている可能性は?」
「多分ない。それなら人間とアークエネミーで勢力を二分する事なく、単純にエキドナが方舟の女王として君臨すれば良いだけだ。それに、父さんだけが独立した行動を取れるのもおかしくなってくる」
でも、何故?
姉さんの言う通り、人間も汚染した方が手っ取り早くないか?
「ふぐ。ひょっとしたら」
「アユミ?」
「いや、いくらあたし達でもお兄ちゃん達を庇いながらあれだけバリエーション豊富なアークエネミー達の包囲網を抜けられたのっておかしいと思っていたんだよね」
「……何だよ。エキドナ達が手を抜いていたっていうのか?」
「あるいは、吸血ダニで乗っ取った相手はアークエネミーとしての特殊行動を取れなくなるとか? 人魚の歌声とか、そういうのがさ」
ゾンビみたいに動きが単調化される可能性、か。エキドナは人間達に何かをさせたいから、敢えて知能を残したまま扇動するに留めている、のか?
ここについて答えは出ないけど、でも実はもっと重要な事がある。
そう、
「……じゃあ、カラミティの話はどこへ行ったんだ?」
「ふぐう?」
「だってそうだろ。人間側の暴走がアークエネミーからの圧力による『空気』に押し潰されたもので、そのアークエネミーがエキドナの吸血ダニに支配されているなら、そこで話が完結してる。究極のモラルハザードっていうカラミティの出番がない」
……何か見落としがある、のか?
いや、カラミティ自体が存在するのは間違いないんだ。うっぷ、そうでもなくちゃあの厨房の調理台に姉さんを押し倒して、包丁なんか振り上げなかっただろうし。
だとすると。
『アレ』はどこへ行った???
「う……トゥルース、ここどこ? ワタシ何周遅れになってるの」
「気に病む事じゃない。全部僕のせいだ」
両手で抱えていたアナスタシアはまだぼんやりする瞳をあちこちに向け、それから姉さんやアユミを見たようだった。
それから言った。
「……トゥルースこそ、気に病む事じゃないわ。姉妹達と再会したっていうなら、ちゃんとやるべき事をやってきたんでしょ」
「……、」
応えられなかった。
実際、アブソリュートノアに入ってからの僕は良いトコなしだ。錯乱して姉さんに包丁を向け、アナスタシアを置き去りにし、父さんはそのリカバリーのために自ら窮地に立って、バンシーやシルフィードもエキドナの吸血ダニ……クリーチャーラボを支える機材とやらにやられてしまった。
だから、全部僕のせいなんだ。
でも、立ち止まる訳にはいかない。絶対に。
どれだけ最悪続きでも、黙っていて事態が好転する可能性はない。手を引けば傷を小さくできるなんて話じゃない。だからサイコロを振り続けて、ツキが再び上がるまで耐え抜くしかない。
人の強さを見せるのはここからだ。
「僕達も分からない事だらけだ。一緒に考えていこう」
「……そうね」
やっと目を覚ましてくれたアナスタシアにそう語りかけてから、
「義母さん、確認していきたいんだけど。そもそもアブソリュートノアのメンバーはどこでカラミティの存在を知ったんだ。こんな馬鹿でかい方舟を作るには、まず参考になるデータがいる。地震のシェルターと台風のシェルターは構造が違うだろうし。だとすれば、それは一体何だったんだ」
誰もが目を背けたくて、でも目を瞑るのも恐ろしい災厄の具体的なデータ。破滅を記した予言書のような、負の感情によって多くの人の心を縛り付けるモノ。
義母さんはずぶ濡れになった自分の体を両腕で抱きながら、わずかに息を吐いた。
「そうね。最初期は古い壁画や口伝なんかの寄せ集めよ。遠い昔に何かが起きて、ではそれは厳密に何だったのか。複数のソースを照らし合わせて、ひたすら体系化していったのが始まりだわ」
「この辺りは大地震の記録調査と大して変わらないか……」
「そうしてぼんやりと浮かんできたカラミティは、机上演習や計算尺を使った関数計算なんかで次第に輪郭が露わになっていったんだけど、前世紀に爆発的な飛躍があった。それはコンピュータ、真空管を使ったシミュレータの登場よ」
「……、」
「アブソリュートノアは太古から根を張る組織だけど、実際にはその進歩は時間の流れに沿って一律じゃない。計算技術や記憶保存技術、そういったデータ処理の歴史と密接に寄り添ってきたの。神様は、選ばれた人しか洪水から救わない。それはきっと『私達』じゃない。だから、他人任せにはしておけない。漠然とした終末論に脅える寄り合い所帯は、そうやって大きな舟に着手していった」
「……つまり、今じゃあマクスウェルみたいなコンピュータが唯一無二、絶対不可侵の経典として振る舞っている訳か。それも世界を動かす巨大組織の」
……使えるかもしれない。
アークエネミー側はエキドナの吸血ダニで完全支配されているから、どんな言葉にも耳を傾けてくれない。でも、人間側なら? 今はアークエネミーの恐怖で暴走しているけど、彼らが本来最も恐れているのはカラミティ、世界の終末だ。
性善説にこだわる必要なんかない。恐怖で恐怖を上書きできれば……。
「エキドナが何を考えてあんな暴挙に走っているかは分からないけど、あいつの心にだって予言書は深く根付いているはずだ」
「え、ええ。でなければ、わざわざアブソリュートノアに合流はしないでしょうしね」
「義母さん、予言書は館内なら誰にでも開かれているはずだ。それを見てみたい。マクスウェル、予言書のデータを基にエキドナの思考予測をやってみよう」
『シュア。確かに、システムの中でアークエネミー・エキドナの行動を再現できれば、現実を先読みできるようになりますから飛躍的にユーザー様の生還率も高まります』
「ふぐ? 特別な部屋でパスワードを解いたりしなくても良いの?」
「誰にも読めない予言書なんてカリスマは宿らないよ。義母さん」
天津ユリナの話だと、やはりアブソリュートノア館内であればどの端末からでもシミュレーションデータにはアクセスできるらしい。刻一刻と列車の時刻表みたいな感覚で壊れていく地球を見ながら方舟作りに邁進していた訳だ。
当然、できるのは閲覧だけで書き換えは不可能だ。でも今の目的は、とにかく予言書の中身を読み込んで、エキドナと同じモノを抱える事だ。そうやってマクスウェルにヤツの思考を再現させれば、エキドナの狙いや次の行動が分かりやすくなる。
「アナスタシア。隔壁横のパネルを使おう」
「りょーかい、間に一枚挟んでアクセス位置を誤魔化すからちょっと待って。何しろホスト役のマクスウェルちゃんもついてるしね」
制御装置の保護カバーを外して小型犬ペットロボットの配線を繋いで、と細かい作業を行ってから、僕達は隔壁開閉パネルのシステム画面を呼び出して館内ネットに接続し直す。
「出てきた、出てきた」
「どれどれトゥルース」
その先に待っていたのは……。
・暴動。
・規範意識の低下。
・破滅。
・支配階級の代替わり。
・悲惨な記憶の劣化。
・爆発的拡大。
・世界的集団ヒステリー。
・諦観。
・刹那的快楽主義。
・差別意識に基づく不満のはけ口。
・破滅を望む心性。
・負の連鎖。
・モラルハザード。
・具体的行動。
……ノストラダムスだの何だの、何にでも当てはまるようなあやふやな言い回しじゃない。
実に理路整然と並べ立てられた、数字に裏付けられた、世界を嫌いになる方法が徹底的に分かりやすく網羅されていた。
そこには感情らしい感情は何もなく、ただ参考書の巻末にある解答集のように淡々と人類の壊れ方が描かれていた。
終わりの始まりから終わりの終わりまでが、あらかじめ決められて変更・遅延が許されない時刻表のように細かく書き記されていた。
「……これは……」
くらりと足元が揺らいだのは僕だけじゃなかったみたいだ。アユミは壁に手をやり、義母さんを支えていたはずの姉さんも小刻みに震えている。天津ユリナは分かっていたはずなのに、改めて目の当たりにして小さく呻いている。
これは、毒だ。
見てはいけない、触れてはいけない。絶対に良くない事が起きると分かっていても、自分の目で確かめるまで永遠に不安や疑念を膨らませ続ける、強大な引力を伴う猛毒。
こんなものに絡め取られたら、誰だって壊れる。破滅に備えるためにいち早く行動する自分は賢人で、平和ボケで分からず屋な世の批判を顧みず孤独に正義を体現する者だと考えてしまう。
分かりやすすぎる、っていうのも心に悪い。目で見たものしか信じない、なんて考え方の持ち主にとっては嫌でも認めて認識を上書きせざるを得ない、究極の説得力がここにある。
ただし、だ。
『ユーザー様』
「どうしたマクスウェル」
『不可解な点があります。アクセス先にパラメータが存在しません。システムは何と接続しているのでしょう?』
「何って……」
地球全人類の破滅を精密に計算している惑星シミュレータなんだ。それこそ校舎よりも巨大なハコモノのスパコン、じゃないのか?
「パラメータがないっていうのは何なんだ。値のない破損パケットか何かって言いたいのか?」
『ノー、そんなハングアップ狙いの小細工ならエラーレポートを提出して終わりです』
「……どこにも存在しないコンピュータ?」
画面の中には確かに最悪のデータが浮かんでいる。義母さん達だってこれを参考に方舟を組み上げてきた。
でも、その大元って何なんだ?
亡霊みたいなシミュレータの正体は……?
『ノー。そうではなく、何というか、既存のものとは方式が異なるのです。〇と一で管理されていないために、電気信号だけでは鍵が合わない、とでも言いますか』
何を、言っているん、だ?
でも、マクスウェルは意図して嘘をついたりはしない。だとすると、この言葉にはどんな意味があるんだ。
そう思っていた矢先だった。
それは起きた。
『あら。ハンドメイドの演算機器に違和感を掴めただけでも優良と褒めるべきだと思うけれど』
いきなり電話のような音声が紛れ込んだ。
アークエネミー・エキドナ。
シャルロッテ=フレグラ。
……割り込まれたのか、もう……!?
慌ててアナスタシアの方へ目をやると、小さなホワイトハッカーはしきりに首を横に振って小型犬ペットロボットを指差しながら、
「アラートは出てないわ。気づかれるきっかけなんかないはずなのに!」
防犯カメラを中心としたセキュリティ網はマクスウェルが掌握しているから、物理的な監視でもない。でも、それなら、本当にどうやってこっちの動きを察知した!?
『根本的に話が違うのよ。予言書に目を通した時点であなたは私に触れている』
「なにを……」
『分からない? シリコンウェハースの板切れだけが演算装置じゃない。私達は、誰もが、もっと身近なところに優れた器官を備えているじゃない』
こめかみの血管が、不気味に蠢いた。
いや。
まさか、いや、そんなはずは……!?
『私の脳。それがアブソリュートノアの惑星シミュレータ、今代の予言書の正体なのよ』
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
でき、ない。
できっこない、そんな事!?
「待ちなさいシャルロッテ、アークエネミー・エキドナはそこまで高度で突出した知能を武器にする種族ではなかったはずよ!」
『当然。でも忘れたのかしらリリス。私は必要なものは全て自力で調達する不死者だと。自分のお腹ではとても産めないような、凶暴過ぎる仔達でも諦めないために』
「……?」
反射的に反論した義母さんさえ、しばし混乱があった。
でも、じわじわと僕達の頭に最悪の可能性が脳裏に浮かんでくる。
「まさか、お前……」
『ええ、私自身もラボの一つ。役割は生命進化実験に使われる人工生命用シミュレータ。つまり「より脳の発達した私」ね。脳髄や臓腑をその都度ガラリとアップデートしていったの。脳内物質に各種のホルモン、血中を流れる化学反応を最適化していくために』
「……うそ、だろ。だってアンタは、ラボそのものに魂は宿らないって」
『ゼロからラボの備品を作った訳ではないから、魂も移されているとは思うけど。でも代替わりの改造を繰り返す間に、形のないものがどれほど削れていったかなんて証明のしようがないわね。それに誰に否定されようが目的を果たし、あの仔達のためになろうとする私はきちんとここにいる。ま、ガワ自体は最初から媚態が完成していたからそのままにしているけど。一般車のエンジンやサスペンションをゴリゴリに積み換えるようなものかしら。ざっと七九回ほどカスタムを繰り返せば、惑星シミュレータとして使えるほどのスペックを積み立てられるようね』
単体で強大な力を発揮する魔王とも、街中でパンデミックを引き起こすゾンビや吸血鬼とも違う。
エキドナ。
彼女が広げている風呂敷は、何かが違う。
「どうして、そんな、そこまで……」
『予言書はアブソリュートノアの中核だもの。誰にも取り外せない柱の部分に自分自身を当てはめれば、どんな暴挙に出たって組織は私を排除できなくなる。どこにでもいるくだらない老害のように。そのために必要な保険に過ぎないわ』
「そうじゃなくて、どうしてそこまで方舟を憎めるのよ。シャルロッテ!?」
『分からない? いいえ、他はともかくアークエネミー・リリスならば理解できるはずよ。私のご同類なら』
義母さんはゆっくりと息を吸って、相手の言葉を頭の中で噛み砕いているようだった。
「私には理解できる、というのは? 主たる標的はアークエネミー・リリスだと捉えて良いのかしら」
『まさか。私はあなたをこう評したはずよ、ご同類と。それともご子息ご息女の前で最全盛の過去を思い出すのは苦痛かしら?』
「……シャルロッテ、あなた……」
『ああ。オルトロス、ケルベロス、ヒュドラ、ネメアのライオンなどと呼ばれていた仔もいたかしら。私がラボをデザインするところから生み出した、私一人のお腹では保たないくらい強靭な愛しい仔達』
吸血鬼の姉さんやゾンビの妹と一緒に暮らしてきた僕からしたって、現実と地続きの名前とは思えなかった。もはや神話っていうよりテレビゲームの方が先に浮かんでしまう。
だけど、そういう相手なんだ。
下手したら魔王リリスよりも太古から根付いていた存在。
アークエネミー・エキドナ。
『あなただって分かるでしょう、この理不尽が。可愛い我が仔、愛の結晶の一つ一つに至るまで踏み潰されて今日誰も残っていない、胸の潰れる痛苦が! 親より早く仔が先立つ不幸を、何度も何度も何度も何度も浴びせかけられた地獄がだ!!』
「……、」
『私もあなたも本質は同じだ!! エキドナは神々に敵対する異形の仔達を産み落とし、リリスは形のない悪霊や夢魔を大量生産して世に混乱をもたらした!! ぜんぶ、どうでも良いのに。勝手に敵対してきたのは、私達を醜い汚いと一方的に決めつけて襲いかかってきた神様だの英雄だののせいなのに。ああ、ああ。どうして私の子供達は皆殺されなければならなかったのよぉ!!』
「……噛み合わない」
思わず僕は呟いていた。
「だって、じゃあ、あの吸血ダニは何なんだ。その体だって代替わりを繰り返してきたんだろ。自分のスキルを埋め合わせるためにあんなものをポンポン作り出す今のアンタに、そんな想いがあるはず……」
『分かったような口を聞いてんじゃねえぞクソガキがぁ! ラボは愛しい仔を安全に産み落とすためのものなのよ。ベビーベッドや哺乳瓶をいくら揃えたところで、肝心の仔がいなければ心は満たされない。満たされる訳がないでしょう! ああ、オルトロスにキマイラ。カルキノスはてんでダメだったけど、その分はヒュドラが十分に減点を補ってくれた。私の可愛いエリート達……』
……何となく。
アークエネミー・エキドナ。シャルロッテ=フレグラの歪みの根幹のようなものを見た気分になった。
「こ」
僕はきっと、信じられないものを見る目をしていたと思う。
こいつのおかしいところは散々見せつけられてきたけれど、
「子供にランクをつけているのか……? 全部自分で産んだ命なのに!?」
『あら。それくらい誰だって当たり前にしている事でしょう? 出来の良い兄と愚図の弟ならどちらを取るの。美しい妹と醜い姉なら可愛がるのはどちら? 家業を継げるのは、政略結婚に必要なのは、親が自慢できるのは、ステータスになるのは。口先だけならどうとでも言える、でも実際誰だって「お気に入り」を必ずキープしているものでしょう?』
……僕は。
親の離婚問題とか色々あったけど、それでもずっとずっと恵まれていたんだって、本気でそう思った。
何故なら、生まれてこの方そんな不条理な寂しさや憤りを浴びた事なんか一回もなかったから。僕もアユミも姉さんも、スペックどころか種族だってバラバラだ。正直に言って、頭の勝負も体の勝負も姉妹には敵わない。だけど、家の中にいる時は平等に姉弟でいさせてくれた。そういう両親だったんだ。
アークエネミー・エキドナ。
立て続けにモンスターを産む母親。
だけどそれは生まれてきた子供の責任だったのか。こいつが、こんなだったから。ヒュドラだのケルベロスだのは持って生まれた力との付き合い方も教えてもらえず、社会から孤立して、英雄達のいい的にされてしまったんじゃないのか!?
「……遠い過去にケルベロスやネメアのライオン、つまりアンタの愛する子供達が度胸試し感覚で殺されてきたとして。ゲームファンタジーなんかじゃない、そんな悲劇は確かにあったんだとして」
『だから?』
「だとしたら、今ここにいるアンタは何を望む? このアブソリュートノアで!」
『決まっているでしょう。目的は復讐、ただ一つ』
……っ?
「どうしてそうなる、当時の英雄なんか全員骨も残っていないんだろう!? それとも人類全部が許せなくなっているのか!?」
『人間なんて、心の底からどうでも良い』
パネルの薄型画面が、音声だけでこちらを揺さぶる。
『ご同類なら分かるわよね。私の真なるターゲットが。この私が何に憤っているのかも』
「……、義母さん?」
見れば、天津ユリナの両目は今まで見た事もないくらい見開かれていた。
何だ? 今の言葉に、何をそんなに衝撃を……???
『方舟は世界の災厄を回避するお話。だけどこのお話にはそもそも一つの大前提が存在する』
いや。
待てよ。それってまさか……!?
『まず形のない神様が地上の人に、こう言わなくては始まらない。間もなく大洪水が起きるから、それまでに船を作れと』
「それが狙いだったのか……」
『神様が何を考えているかなんて知らないし、分かりたくもない。でも、地上全体を焼き尽くされて死体の山で作った毒々しい煙が天まで昇るのを嫌がるのかもしれないわ。……私達は、世界を穢せる。ヤツらが嫌がる事を実行に移せる。それがたとえ、本来なら存在しない架空の終末論に踊らされた人類全体の自己破滅に過ぎないとしても、ね?』
「人類なんかどうでも良い。アンタは全ての大元の、神様を直接攻撃できるチャンスを手に入れようとしていたっていうのか!?」
『だって。英雄は、人間は、神様の駒でしかない。あの仔達の復讐を遂げるなら、一番てっぺんから命令を飛ばした神様の首がいるでしょう?』
もう、災害環境シミュレータのマクスウェルでもついていけない次元に突入しつつある。
だけど問題なのは実際に神様に一矢を報いれるかどうかの実現性じゃない。それを信じてここまで話を進めてしまったエキドナだ。
こいつの頭の中では、天まで届くバベルの塔でも組み上げられているのか!?
「だけど実際、人類滅亡なんてレベルでカラミティの話が世界に広く出回っている訳じゃない。ワイルド@ハントのドローン禍は食い止めたし、巨大企業が倒れる事での世界恐慌も乗り切った。アブソリュートノアはせいぜい数千人規模だ、これだけの混乱で降臨してくれるほど神様ってのは出張が多いのか!?」
『あら。むしろ経典はこれから広まっていくのよ、世界に』
エキドナの声色は変わらない。ここはまだヤツのレールの上なのか?
と、思っていた矢先だった。
『何のために人間達を下層に押し込んで物騒な機関動力室を占拠させていると思っているの。じっくり精査すればいつかは必ずボロが出る経典のシミュレーションデータを完全に吹き飛ばして「誰にも分からない神話」に昇格させるためでしょう?』
「こ」
……こいつ……!?
そのために父さん達を!!
『アブソリュートノアが丸ごと吹っ飛んで日本列島が真っ二つになれば、流石に隠蔽しきれなくなる。方舟の存在は大々的に暴かれ、しかも「それでも失敗した、ダメだった、破滅からは逃げられなかった」という事実だけが突きつけられるわ。そうしたら、後に残るのは何? カラミティ、世界の破滅という漠然とした恐怖と、その対抗手段として、私の頭の中にある真の予言書のシミュレーションデータだけになるでしょう』
前世紀の終わりにノストラダムスへ、いいやその言葉を借りたライターやプロデューサーに皆がすがったのと同じだ。
エキドナは、アブソリュートノアの全てを勝手に引き継ぐつもりだ。
自分自身が不吉と災いをもたらす世界レベルの予言書となって、たった一人で惑星全部を混乱に突き落とそうとしているのか!?
『すでに失われた予言についても話して差し上げましょう。そこには全てが書かれてきたのに、愚かなる大爆発が全てを奪ってしまった。よって残されたあなた達は回避不能の破滅にただただ脅えて暮らすしかないのです』
歌うようにパネルが囁く。
『……もうこれだけで新しい神話や宗教が二つ三つできそうなインパクトよね。あるいは、ワイルド@ハント倒壊なんてものよりよっぽど分かりやすい、カラミティの起爆剤となるのかも』
方舟が失われる時点で、こいつもそのカラミティから逃げられなくなる。自分で放った山火事に巻かれる格好でだ。
エキドナは神との対峙にしか、『可愛い』我が仔の復讐にしか興味がないのか。自分が生き残る可能性も放棄している?
『たとえ論理を並べてどれだけ冷静さを求めても、もしかしたら、ひょっとしたら、という疑念は完全には払拭できないの』
くすくすという笑い声だけがあった。
『アブソリュートノア下層、機関動力室の人間達も誘導されているとは知らずにせっせと働いているわ。彼らは彼らで表向きの怒りなんて本心から派生した副作用に過ぎない、根底に恐怖と諦観がある。上層でひしめくアークエネミー達に噛まれて絶対服従の生ける屍と化すくらいなら、せめて清い体のまま爆発消滅したいってね。……それが何の引き金を引くかも知らずに』
僕がアナスタシアの方へ目をやると、小型犬ペットロボットをいじくっていた少女も首を横に振った。
……やっぱり向こうの方が上か……。
なら、これ以上迷う必要はない。逆にマクスウェル側が汚染されても大変だ。
僕は近くにあった消火器を掴むと、今まで頼りにしてきた隔壁開閉パネルに勢い良く振り下ろす。ガラスの砕ける音と火花が全ての接続を強制的に断ち切った。
「ふう」
やるべき事は何だ。山積みだろうが、そいつを考えなくちゃならない。
「……下層の人間側と父さん、機関動力室の起爆阻止が一つ。上層のバンシーやシルフィード達、ラボの機材の一つとかいう吸血ダニから解放するための治療法確保で一つ。後は全体、元凶のエキドナとの決着も一つ。大きく分ければハードルは三つだな」
そして一見バラバラなようでも、同じアブソリュートノアでの出来事だ。実は全ての内容は一筆書きみたいに繋ぎ合わせる事ができるんだ。
つまり、
「どうにかして下層まで行こう。父さん達と合流するんだ」
「そりゃあ、嬉しいけど……サトリ、本当に家族優先であなたは大丈夫なの?」
「感情論だけじゃないよ。人間側には吸血ダニの汚染は広がっていない。エキドナは父さん達に機関動力室を吹き飛ばさせるために、敢えて汚染を避けてる。つまり、予防や治療の手段を人間側に寄り添わせている可能性が高い。まあ、父さん達には分からない形でだろうけど」
「ふぐう。だとすると」
「バラバラに考える必要はないんだ。まず下層に向かって父さんと合流し、人間側の暴走を止め、爆破を防ぐ。そこで緊急セーフティの治療法を手に入れたら吸血ダニの猛威からバンシーやシルフィード達を解放する。最後にそのままエキドナとの対決に持ち込む。これで一本の『流れ』ができるはずだ。無駄なくやろう」
異論はないようだった。
だとすると、問題なのは具体的にどうやって暴徒のひしめく下層まで足を運ぶか、なんだけど。
「……あちこち検問だらけだから、階段やエレベーターは使えない。ダクトやダストシュートも難しい。この辺の経路は前にも話をしたけど……」
「あら」
と、何だか姉さんが大きな胸の前で二つの掌を合わせてにこやかに遮ってきた。
彼女は微笑んだままこう提案してきた。
「下層に降りるだけで構わないなら、もうサトリ君は答えを言っているんじゃありませんか?」
「え? 姉さんそれって……」
「ダストシュート。ダクトと違ってフィルターや送風ファンなどで遮られている訳じゃありませんし、ゴミ箱代わりなんですから目詰まりを起こさないよう結構な幅もあるはずです。人間が潜ればトンネル代わりに使えるはずでは?」
「いや待ってよ、アブソリュートノアが全部で何層構造かは知らないけど、最低でも縦に数百メートルはありそうなんだ。真っ直ぐ落ちたら集積場の床に激突してぐしゃぐしゃになっちゃうよ」
「ええもちろん」
姉さんは早速手近な壁にあった四角い蓋をカパカパ開け閉めしながら、
「でも、間に柔らかいクッションがあれば話は変わってくるのでは? まあ可能なら手足を突っ張って落下中にブレーキを狙っていくべきでしょうけど」
「クッション、ブレーキ? ……わぷっ」
疑問を挟む暇もなかった。
こっちに振り返り、開いたままのダストシュートを背にした姉さんはその細腕を僕の頭に回すと、手前に引いて大きな胸の辺りで抱き締めてきたんだ。
いいや、ぐらりと揺れる重さはそこに留まらない。まるで船の縁からダイビングに挑んだり、バックドロップでもするような。ちょっと待ったこれってまさか!?
「ふぐう!」
「ごめんなさいねアユミちゃん見せ場を奪っちゃって。でも今は急を要しますから」
後はもう一直線だった。
姉さんは僕の体を抱えたまま、頭から真っ逆さま。二人して何百メートルあるかも分からない縦坑のダストシュートへと吸い込まれていく。