• シャルロッテ=フレグラ

    シャルロッテ=フレグラ
    アブソリュートノアを掌握するアークエネミー・エキドナ。


第九章



 幅数十センチの縦坑、そのステンレスの壁に何度体を擦り付けただろう。火傷のような痛みと共にいくら絶叫したって覚悟なんか決まらなかった。

 それでも終わりは唐突に来る。

 人体というクッションが潰れる、あまりにも生々しい音、感触、そして匂い。

 逆さに落ちた僕は目の前が真っ白に散らばるようなちらつきを感じていたけど、でもそれだけだった。何百メートルも一直線に落ちたはずなのに、まだ生きている。どこかの骨が折れた感じもしない。

「ねえさ、」

「ああ、サトリ君。ちょっとこのまま、目を閉じていてくれます?」

 僕を抱き締めたまま真っ逆さまに頭から落ちた姉さんの声は、奇妙にくぐもっていた。

「まあ、心臓さえ破壊されなければノープロブレムなんですけど、やはり女の子としてはあんまり美しくないところは見せびらかしたくないものでして」

「……、」

 どれくらいそうしていただろう。

 三〇秒? あるいは一時間以上? 時間感覚がなくなって久しくなった頃、ようやっと姉さんが口を開いてくれた。

「はいおしまいっ。サトリ君、お疲れ様でしたー☆」

「姉さん!!」

 思わずその細い肩を掴んで、大きな胸から顔を離して視界を確保する。

 姉さんは姉さんだった。

 あれだけの事があったのに、もう傷一つない。彼女は屈託のない笑顔を浮かべて、

「あんっ。だって仕方がないでしょう。ゾンビのアユミちゃんはもちろん、リリスやシルキーだって回復や再生に特化したアークエネミーじゃありませんし。そうなるとクッション役はお姉ちゃんが体を張るしかないかなあって。まあ、抱え込むのは一人が限界と考えると、サトリ君を引っ張り込むのが一番じゃないですか」

「合理性の話なんかしていないんだ! それ以上矛先をかわそうとしたら本気で怒るぞ!!」

 ふっと。

 姉さんはちっとも叱られている人とは思えない顔で優しく微笑んで、そしてこう言った。

「ごめんなさい、サトリ君。もうしません」

「マクスウェル、今の記録に残しておいたか?」

「ええー!? 家族の黒歴史を保存しておくとか、サトリ君も極悪じゃありませんかあ!」

「ダメ。姉さん味を覚えたような顔してたから信用できない。ほんとに、もう一回やったら絶交だからね」

 ともあれ、だ。

 いつまでも逆さになったまま酸っぱい匂いのするダストシュート出口に留まっている訳にもいかない。こうしている瞬間にも頭の上から追加のゴミが降ってくるかもしれないんだし。そんなのビルの上からネジやガラスが落下してくるのと同じだ。

 二人してもそもそダストシュートから這い出ると、予想通りゴミの集積場だった。今はまだ未分類で、僕達は小刻みに振動する網みたいな床の上にいる。一ヶ所で山を作らないよう均一にならしてから、全てを砕く回転ローラーみたいな機材へ流していくものらしい。ダストシュートは一本で燃える燃えないの区別すらなさそうだし、おそらく細かいチップにしてから、磁力、静電気、圧縮空気なんかで材料ごとに分類し直すつもりなんだろう。

 万に一つも巻き込まれては困るため、さっさと抜け出すに限る。

 ただし、だ。

「……ここは無人みたいだけど、鉄扉を一つ潜ったら暴徒だらけの人間側支配エリアだ。どうにかして見つからない方法を考えないとな」

「最悪、人間のサトリ君なら素通りできるのでは?」

「姉さんはどうすんの? ここで待つって言ったって、いつ人間サイドが顔を覗かせるかは分からない。ダストシュートの集積場なんて袋小路だし、見つかったら一発でアウトじゃないか」

「まあ、私はサトリ君と違って不死者ですから」

 と、姉さんはロードローラーの回転ドラムを上下に二つ噛み合わせたような、軽自動車くらいならそのまま噛み砕けるトゲ付き輪転機みたいな大型機材を指差して、

「何となれば、『向こう』に飛び込んでしまえば人間側には手出し無用になりますよ?」

「……、」

「分かった分かった、分かりました。そんな目で睨まないでくださいって。自己破壊は割と吸血鬼の特権なのになあ」

 軽く両手を上げて小さく舌を出す姉さんは全く反省している様子がない。……こりゃあ後で本格的にお灸を据える必要がありそうだな。

「……姉さんの検索履歴でも掘り返してやろうかな。あるいはネットの通販記録か、動画の再生リストか」

「ちょっとサトリ君オトナの話し合いをしましょうか?」

 ガッ!! と肩を掴まれてすごい笑顔がにじり寄ってきた。いや女の子でも気にするのかっていうか普段キーボードでナニ打ち込んでいるんだ結構本気で気になってきたぞ!?

 ともあれ、だ。

 気密扉にもなっている鉄扉を薄く開けて外の様子を確認してみれば、学校の廊下よりも狭い通路に二〇人でも三〇人でも目の血走った男達がいた。どこかに向かう途中ってよりも、部屋から追い出されて適当に体を投げ出しているって感じだ。だけどあれだと、待っていればどこかに立ち去るって雰囲気でもない。

 こっちは早く父さんと合流して、機関動力室の起爆を阻止して、エキドナがわざと置いていった吸血ダニの予防・治療法も確保しなくちゃいけないんだ。エキドナは仔を生むのに必要な一群を生物ラボって呼んでいた。なら防護手段も揃えているはずだ。

 ゴミ集積場に引っ込んで考える。

「マクスウェル、父さんの位置は分かるな?」

『シュア』

 ひとまず迷路みたいなアブソリュートノア下層を延々歩き回って人を捜す必要はなさそうだった。一本道の最短コースだけ考えれば良い。

 ただし、あの狭い通路を誰にも気づかれずにこそこそ進むのは相当骨が折れる。何しろつるりとした突起のない壁は隠れる場所がないし、体育館の天井にあるようなハロゲンライトが等間隔に並ぶせいで深い影や闇にあたるものも見当たらない。戦艦とか空母みたいに壁や天井に僕の腕より太い配管が何本も走っているけど、やっぱり体を隠せるほどじゃない。これじゃ伝説の忍者だのスパイだのでも奥へは行けないはずだ。

「……ゴミの中にはポリタンクとかドラム缶とかもあるけど、役に立つとは思うないしな」

 残念ながら、何かと何かを組み合わせれば秘密兵器が作れるって感じでもない。

 勢いで下層まで来ちゃったけど、いきなり手詰まりか?

 いや、待てよ……。

 姉さんの口車に乗せられるつもりはないけど、こっちにはアークエネミー・吸血鬼がいて、行動の自由度は人間以上なんだよな。

 だとすると、

「姉さん、協力してほしいんだけど」

「はいはい。自慢のお姉ちゃんにお任せあれー」

「後はマクスウェル、シミュレータで思考実験を一つ頼む」

『具体的なパラメータをお願いします』

「光の実験だよ」



 かくして、僕と姉さんは二人揃って狭い通路を進んでいた。当然ながら途中で暴徒達ともすれ違ったけど、こっちに気づく者はいない。

 さて、僕達は具体的に何をどうしたのか。

 ヒントは天井を走る配管と強力なハロゲンライトだ。

「意外と、気づかれないものですね。よっと」

「(姉さん)」

「(失礼、あまり大きな声はまずいんでしたっけ)」

 ちょっと恥ずかしいけど、僕は両手両足全部を姉さんの胴体に回して、しっかりと抱き着いていた。方法を考えると、吸血鬼の姉さんの四肢はフリーじゃないとまずい。かつ、僕の筋力じゃ非力すぎてこの方法は使えない。そうなると、自然とコアラみたいに姉さんへひっついて大きな胸に顔を突っ込む羽目になるんだけど。

 ……けど、姉さんの言葉通り、意外と気づかれないもんだな。

 まあ、人は床を歩いて壁から飛び出た突起に身を隠すもの、って固定観念があるからなんだろうけど。

 姉さんが蜘蛛みたいに手足を突っ張って移動しているのは一目瞭然だった。


 天井だ。


 そう、壁や天井には僕の腕より太い配管が何本も走っているから掴む場所には困らない。そして強烈なハロゲンライトのおかげで真上を見上げても逆光になって、僕達の体は通路にひしめく暴徒達からは見えなくなる。

 とはいえ、一八〇度逆さに張り付いたまま蜘蛛みたいに一〇〇メートル以上天井を移動するなんて、プロのクライマーでも不可能だ。まして、人間の僕にしがみつかれたままじゃ。人間の二〇倍と言われる、吸血鬼たる姉さんの筋力がないと。

 マクスウェルが防犯カメラなんかを制圧してくれるのも心強い。

 あと、怖いのは視覚以外の五感。

 例えば音や匂いくらいのものだ。

「(……それにしても)」

 危険と分かっていても、ついつい口の中でそう呟いてしまう。

 すぐ下は想像以上の光景だ。

 むせ返るような血の匂い。何かのハーブの煙。壁や床には真っ赤な落書きめいた魔法陣に、お香も魔除けのつもりか。あちこちからは本当に正しいものなのか、ひずんだ抑揚のお経みたいなのも聞こえてくる。そのせいでこっちの音も匂いも紛れてるんだろうけど、少しも嬉しくない。

 破裂寸前なのは闘争心じゃない。


 不安。

 動揺。

 焦燥。

 恐慌。


 自分自身でもコントロールのできないそうした感情が人と人との間でぶつかり合い、パニックが伝染していくようにさらなる膨張を続けている。それがもう形を取って目に見える状態であちこちに現れているんだ。

 人間が一番不安定に揺らぐ、危険な状態。

 かつてセイレムの地を蹂躙し尽くした、恐怖の魔女裁判の再来。

『やれっ、やっちまえ!!』

『ちくしょ、何なんだ!?』

 わずかに開いた鉄扉の向こうからは、そんな喚き声まで聞こえてきていた。自分の影が怪物にでも見えたのか。あるいは同じ人間同士さえ信じられなくなって、掴み合いでもしているのか。

 永遠に得られる事のない安息を求めていくらでも深みにはまっていく光景は、まるで亡者のひしめく地獄そのものだ。きっと彼らは全世界のアークエネミーが自然消滅したって疑心暗鬼のいがみ合いを止められないだろう。

「幸福って何なんでしょうね」

 姉さんがそんな風に言った。

「世界的に見ても裕福な国々に生まれて、衣食住どころか趣味や資格にも困らなくて、世界滅亡から身を守るアブソリュートノアにも選ばれて……それでもこの世の終わりを実感して、誰よりも不幸な人生から逃れようと争いを繰り返す。貧困や戦争の中で必死に生き続ける子供達が見たら、一体この歪を極めた宮殿にどんな目を向けるんでしょう」

 人生は人それぞれ。

 王様にも貴族にも平民にもそれぞれの悩みがある。だけどそんなのが慰めになるのやら。

 ノアの方舟に乗った生き物はきっと正しかった。そんなヤツらが生き残って、のちの世を作り出した。

 でも、本当の本当に優しい心の持ち主は、方舟の誘いに乗ったんだろうか。身近な誰かを切り捨てられず地上に残った者は皆一掃された。だから今ある世界は『こう』なってしまったんじゃないか。正しさだけしかない世界、優しさの足りない人達。何となく、そんな取り止めのない妄想さえ頭をよぎった。

「(父さんを捜そう)」

「(そうですね)」

 僕と姉さんはカードサイズのカーナビを窓口にするマクスウェルの案内で、天井を這って進む。

 行き先は明白だった。


 機関動力室。

 アブソリュートノアの根幹となる、最も危険で最も謎めいた施設だった。



 莫大なエネルギーを生み出す発生源。

 取り扱いを間違えれば大深度地下だろうが爆風を抑え込めず、供饗市どころか周辺にある複数の県をも巻き込んで日本列島を真っ二つにする大爆発を巻き起こす何か。

 この存在を義母さんから聞いた時、僕達の脳裏に浮かんだのはこんなイメージだった。

「(……やっぱりこれってロケットとか宇宙船とかなのかな? それとも原潜とか空母とか?)」

「(そちらの分野では原子力ロケットなんてものもありましたっけね。相当問題のある代物だったと思いましたけど)」

 ただ、こんな状態のアブソリュートノアを宇宙に飛ばそうが深海に沈めようが救いはもたらされない。むしろ逃げ場のない巨大な闘技場を作るだけだ。

 今までは姉さんの腕力頼みで天井を逆さに這っていたけど、流石にここは鉄扉を潜る必要がある。

「(マクスウェル、鉄扉の前から見張りを排除したい。少し離れた場所で警報を鳴らせ。あまり大きな問題にならないレベルで)」

『シュア。配管の水漏れ程度に留めましょう』

 太いブザー音と共に、鉄扉の前でぶつぶつ呟いていた男達が持ち場を離れて通路の奥へ向かっていく。

 何度も使える手じゃない。

 チャンスを活かすため、姉さんは速やかに天井から飛び降りた。

「ぶはっ」

「久しぶりのお姉ちゃん抱っこの心地はいかがでした?」

 ……正直、鼻血が出なくてプライド的には助かった。もう一生分姉さんの柔らかさは味わい尽くした気がする。

 とにかく二人掛かりで気密扉の丸いハンドルを回して、奥に待つ空間へと滑り込んでいく。

 その先にあったのは……、

「うそ、だろ?」

 広い広い空間だった。

 単に横の広さだけじゃない。縦の深さだって四階から五階分はあったはずだ。相変わらず体育館みたいなハロゲンライトがしこたま最上部の天井からぶら下がっていて、真昼のように明るい中で複雑に金網や鉄骨の足場が入り組んでいた。まるで巨大なジャングルジムか、お祭りの日とかに顔を出すビールケースに収まった無数の瓶のようだった。縦に長い空間の中央を貫くようにいくつも居並ぶ構造体の群れを一つ一つ縛り付ける鉄の檻。そんな風にも見えた。

 僕は。

 てっきりその正体は、巨大な原子炉とかロケットブースターとか、そんなものだと思っていたんだ。最も手っ取り早く莫大なエネルギーを取り出すとしたらそれくらいしかないって思っていたんだ。

 でも、冷静に考えてみるべきだった。

 父さんは何の研究者だった? どうして光十字の地下施設でアークエネミー達の面倒を見ていた父さんが、アブソリュートノア下層の機関動力室に詰め込まれて何かしらの作業を強いられる事になったんだ? あのエキドナでさえ自分の手に余ると考え、吸血ダニの力を使わずに人間を人間のままあの手この手で扇動して破滅の引き金を引かせようとしたんだ。

 その答えがここにあった。


 一面に並んでいるのはあまりに巨大な筋繊維の塊。

 あちらこちらでどくんどくんと脈打ってあちこちに伸びる太いチューブに液体を運んでいるのは……規格外の、しん、ぞ……?


 あまりの事実に足元がふらつく僕を、横から姉さんが支えてくれた。

「なんだ、これ?」

 心臓。

 と言っても、人間のものとは大分勝手が違うようだ。サイズこそ規格外だけど、何だか構造自体はシンプルな気がする。それに半透明なものだから、中で濁った色の体液が行き来しているのが良く分かる。

「……一体、何の心臓なんだろう?」

「エキドナは吸血ダニを使役していましたし、何かしらの小さな虫から出発したのかもしれませんね。ラボの機材とやらと同じように」

「これも仔じゃない……? ここまでやっても」

「神との交渉を進めるため、最初から吹き飛ばす前提の役回りですもの。可愛い子とは呼べないのでは?」

 十分以上におっかない。もしも小さな虫が人間以上に巨大化したら? もはやホラー系の定番から恐怖が抜けてアクション系の題材にもなっているくらいだけど、あいつ、具体的なところまで技術を引き上げたのか!?

 アークエネミー・エキドナは自らが必要と感じた全てを自前のラボで解決する。それは不死者達を乗っ取るための吸血ダニしかり、スパコン級の頭脳を確保するため何度も何度も代替わりを繰り返した自分自身しかり。元を正せば自分のお腹では支えきれないほど巨大で凶暴な仔でも産み落とせるように、だ。

 だけど。

 まさか。

「……アブソリュートノアそのものさえ、単純構造の虫なんかの生体に部品を置き換えていたっていうのか。あの野郎……」

 義母さんやバンシー、シルフィード達は、本当にここまで侵食が進んでいる事に気づいていたんだろうか。だって、これは、あまりにも。行動の指針を決める予言書も、破滅を乗り越えるための方舟も、全部が全部エキドナの生体部品に差し替えられてしまったら、アブソリュートノアって組織は完全にチェックメイトじゃないか。生活を支える都市インフラが知らぬ間に全て海外製に置き換えられてしまうように、こいつらみんな骨抜きにされているじゃないか!?

「サトリ君、とにかくこちらへ」

 姉さんに誘導されるまま、僕はジャングルジムみたいに入り組んだ足場の方へ連れて行かれた。居並ぶ透明で巨大な心臓の鼓動が耳というより心を不気味に叩く。そんな中、縦に深い機関動力室を天井伝いで移動するのは難しい。だけど立体迷路みたいに交差する足場や階段は死角も多いから、さっきまでの狭い通路と違って普通にかくれんぼができるんだ。

「マクスウェル、父さんと合流しよう。場所にピンを立ててくれ」

『シュア』

 それでも順路をなぞって進むだけなら、途中で作業員(か、あるいは獣医や昆虫学者か?)に見咎められていただろう。時に足場裏の天井部分に張り付き、時に手すりを飛び越えて下段にショートカットする姉さんの変則ルートに頼って見張りをかわし、目的のポイントへと降下を続けていく。

 途中で怯えたような声をいくつも耳にした。

『急げ、急げ!』

『あんなバリケード、アークエネミーが本気になったらすぐにでも破られるぞ。噛みつかれたらおしまいだ』

『……死ぬ事もできず永遠に服従を強いられるなんて真っ平よ。そうなるくらいなら』

 いっそ、自分達の手で。

 誰にも支配されず、奇麗な身体のまま。

 ……こんな考えが『美談』としてじっとり蔓延していく事自体が普通じゃない。どん詰まりの負け戦。おかしいって言えよ、生きたいって願えよ! 不自然に外から感情を注入されているっていう事に考えが及ばないんだ!?

「……、」

 噛んで、魂を簒奪し、相手の心を支配する。

 そんな吸血鬼の姉さんも、先ほどから黙り込んでいた。傍で聞いている僕だってこうなんた。怒りや嘲りとも違う、理不尽な恐怖をぶつけられている姉さんはどう感じているんだろう。

『目標の至近に到達しました』

「姉さん」

 適当な階層の足場に辿り着き、(姉さんに抱えられていた)僕は金網でできた床へ足を着けた。

 辺りをぐるりと見回すけど、父さんらしき影はない。代わりに僕達が目をつけたのは、迷路のように張り巡らされた足場の中にある、プレハブの小屋だった。おそらくあちこちにあるクレーンやリフトのコントロールルームだろう。

 一面にガラスの窓があるので中から気づかれないよう身を低くして近づく。

 中にいるのは父さんか、そうでない誰かか。仮に父さんがいたとしても、一人だけとは限らない。

「マクスウェル」

『警告、目標以外に二人います』

「……、」

 ドアに張り付いて中の声を聞き取ろうとする僕とは違って、吸血鬼の姉さんは身を低くしたまま窓の下へとにじり寄っていた。いきなりガラスを割って突入する算段でも立てているのか!? 呼び止めたいけど、今から声を掛けたらかえって中の人間に気づかれそうだ。

 これじゃ舌打ちもできない。

 無駄に心臓の鼓動を早くして全身汗まみれになりながら、僕は僕で鉄扉に張り付いていた。

 事を起こすなら腹をくくる必要がある。姉さんを安全に呼び止められない以上、もうこのレールは切り替えられない。

『……、……』

『いか。……なん……』

 最初は聞き取りにくかったけど、少しずつ耳が慣れてきたのか、ドアの向こうから聞こえてくる人の言葉の輪郭が掴めてくる。

『別に大した話じゃない。君がこの第三心臓群に何を打ち込んだのかを聞かせてもらいたいと言っているだけだよ』

『……人造アドレナリンとステロイドを指定のリスト通りに。皆で計算して算出した答えだろう、松山主任殿?』

『そんな腹芸に! 付き合っている暇はないんだ!!』

 ガタタン!! と椅子やテーブルが揺さぶられるように大きな音が響く。

『いいか天津君、カルテ通りに投与していたら心拍が臨界値を超えていなければおかしい。血圧だって安定を保ったまま脱線しない! 誰かが真逆の鎮静剤を打っていなければこうはならないんだ、その種類と量が知りたい。正確にな!! でなければ血中から除去する事もままならんのだよ!!』

『何の話かはさっぱり分からないが、異物が混入したなら人工透析でも試してみてはどうかな』

『まだ言うか。その程度で何とかなるなら最初から「尋問」などしていないぞ!! 我々には正確な投薬量のデータがいるんだ、君が引っ掻き回したな!!』

 ……マクスウェルが防犯カメラの映像を送ってこないと思ってたけど、原因はこれか。

 生物学と核物理がごっちゃになったようなやり取りだけど、何となくのニュアンスは伝わる。あれもラボの一部らしい……馬鹿デカい虫の心臓を暴走させたい側と、鎮めようとする父さんとの間で衝突が起きている。

 カードサイズのカーナビからふきだしが躍る。

『単に並列化した心臓へ高い負荷をかければ爆発する訳ではないようですね。手順通りに目標数値を叩き出して同期なり連鎖なり条件を達成しないと起爆ではなく心停止、ショック死に陥るのかもしれません』

「で、父さんはパスワードをランダム変更させて元の持ち主にも扱えないようにしたって感じなのかな」

 で、起爆したい側は鎮静剤を抜くなり中和するなりしてから、改めて強心剤をぶち込まないと予定が崩壊してしまう、と。

 ……年甲斐もなく格好つけやがって、父さんめ。それで捕まったら何にもならないじゃないか。

 と、窓の下まで移動した姉さんが右手の親指と人差し指をくっつけて輪っかのマークを作った。おっけー、あるいはお金のサイン? くそっ僕達はお互いFPSか何かでしっかり勉強しておくべきだ!!

 そして何が言いたいのか分かんないまま姉さんが勝手に動き出す。そのまま立ち上がって、あっ、やべ、ほんとにガラスを割って飛び込む気か!? 今なの? 早いってわああ!!

「ああもうっ!!」

 とにかく鉄扉を派手に蹴飛ばして大きな音を鳴らす。中の全員の注意は逸らせただろうか。結果が見えないまま姉さんは窓を破壊してプレハブのコントロールルームへ飛び込んでいく。

 けたたましい破壊音が炸裂していた。

『警告』

「分かってるよ! マクスウェル、このドア奥に開くんだよな。中の連中がこっちに逃げてくるタイミングでセキュリティ権限使って電子ロックを解除!」

『? 施錠して閉じ込めてしまうのではなく?』

「僕にも戦わせろよ」

 ピッ、とカードリーダーの辺りで電子音が鳴り、発光ダイオードのランプが赤から緑に切り替わる。

 迷わずドアノブを回し、思い切り鉄扉に蹴りをぶちかました。鋼板越しに鈍い感触が伝わり、姉さんの迫力に負けて逃げ出そうとしていた誰かさんを室内の床へ転がす。

「サトリ君ナイスですっ」

 照れている場合じゃなかった。もんどり打って転がった医者だか研究者だかの顔のど真ん中に、割とえらい勢いで姉さんのかかとがめり込んでいく。

 父さんは適当なパイプ椅子に手足を針金で縛られていた。顔にはアザもある。それを見て僕も一発、倒れて気を失ったおっさんの腹を踏んづけた。

 ろくに体を動かせないまま、それでも父さんは慌てたように、

「なにを、いや、どうやってここまで潜り込んできたんだ!?」

「姉さんには後で義母さんと二人で説教してやって」

 適当に言いながらきつく手首に食い込んだ針金を外していく。

『警告、騒ぎを聞きつけた作業員がこちらへ迫っています。数は三〇人から四〇人。銃器での武装も確認済みです』

「こいつか……」

 共通の支給品なら、倒れてケイレンしている男だって持っているはずだ。ズボンのベルトに映画みたいな黒光りする拳銃が収まっていたけど、流石に触れてみる気は起きなかった。

 代わりに姉さんが拳銃を引っこ抜いて、セーフティスイッチや弾倉をいじくりながら、

「四五口径のフルオートカスタム……。弾頭もサブゼロ処理で過冷却にした聖水へ浸して固めた聖別銀ですか。これだと下手な鉄砲数撃ちゃ当たるの理屈で面制圧されそうですね」

「何だかピンと来ないけど、吸血鬼の姉さんでも真正面からの殴り合いは困るって事?」

「大体そんな感じです」

 それなら人間の僕や父さんが手足を振り回して外に飛び出したところで結果は見えてる。

『会敵まで概算で一八〇秒未満です。具体的な指示を』

「……、」

 僕達の武器は何だ?

 ハリウッド映画みたいな撃ち合いのリアリティ(笑)は脇に捨てろ。こっちは吸血鬼の姉さんとセキュリティシステムを掌握したマクスウェルがいるんだぞ。いくらでも反則が使えるはずなんだ。

「マクスウェル、消火設備をチェック」

『シュア』

「あと姉さん、連戦で悪いけど頼りにしてる」

「ま、その辺は適材適所で。一応王子様の到来を待ちわびる女の子でもある事だけはお忘れなくー☆」

「最後に父さん」

「あっ、ああ……」

「一番まともな道を選んだつもりだけど、それでもヘマしたら死ぬかもしれない。何をどうやったって僕達人間が最も可能性は高い。一応覚悟は決めておいて」

 割れた窓の外では、もうチラチラと入り組んだ足場に作業服なり白衣なりの男達の影が見えている。プレッシャーに負けて闇雲に一発撃ち込んだら、それだけで大パニックの鉛の嵐が吹き荒れそうだ。

 コントロールルームのごちゃごちゃした制御卓の中に紛れていた内線電話が鳴る。父さんがスピーカーフォンのボタンを押すと、簡潔な言葉が飛んできた。

『誰が取ったかは知らない、だが異変は周知だ。一〇秒待つから武装解除して出てこい。さもなくば全面からくまなく蜂の巣だ』

「(四五口径の聖別銀だとプレハブの壁くらい抜けてしまいます。向こうもそれを知っているはずです)」

 つまり避けるための隙間も残さずフルオートの弾幕で面制圧してしまえば、踏み込むまでもなく中の全員を始末できる訳か。

 でも残念。

 そういう条件ならこっちも同じだ。僕達はコントロールルームから外へ出て撃ち合いをする必要なんかない。相手が何十人何百人いようが知った事じゃない。

 欲を言えば窓は割れていない方が良かったけど、ないものねだりしても仕方がないか。

 ヤツらのカウントダウンが終わる前にケリをつけよう。

「マクスウェル」

『シュア』

「タスク通りに。……消火用の二酸化炭素をばら撒いて全員ダウンさせろ!!」



 化学薬品工場とかサーバールームとか、水が使えない場所ではスプリンクラーの代わりに窒素や二酸化炭素のガスを使って火災を食い止める仕組みがある。

 そして空気のバランスは人が思っているより繊細で、ほんの一割酸素の割合が変わっただけで人は昏倒していく。

 ばしゅしゅ!! と白い煙のようなものが目の前全てを覆い尽くした途端、僕は姉さんと父さんに飛びついてとにかく床に押し倒した。破れかぶれの流れ弾だって当たったら困る。今となってはどこにあるんだか分からない内線電話からも驚いた声が響いている。

『なばっ!? ごほっ、貴様……!!』

 散発的に乾いた破裂音が響き、壁の辺りから何かが弾ける衝撃波が伝わるけど、それだけだ。言うほど派手な鉛の嵐にはならない。そんな暇はないんだ、人差し指に力を入れる余裕さえ。

「これで全員が倒れる。僕も父さんも。でも最後の最後まで意識を繋げていたヤツが最強だ。お前達が何十人いようが、床に転がって動けないなら関係ない……」

『馬鹿が。その声は子供か? 酸素は血中に蓄積される。かはっ、毒物耐性と同じく、体格に優れ体重が大きい方がキャパは増えるんだ。ぜえ、ぜえ。子供が最後まで残る事はありえない!』

 おっと、スピーカーとはいえ双方向の内線電話だったんだっけ。

 でもって甘い。

「……知らなかったならアンフェアだったかもな」

『な、に?』

「こっちには、けほっ、吸血鬼の姉さんがいるんだよ」

『っ!?』

「そして……吸血鬼は窒素や二酸化炭素が弱点だなんて文献には、聞き覚えがないな……」

 目が眩む。頭が痛い。

 壊れかけの蛍光灯みたいに視界が明滅する。こりゃあ僕は早い段階でリタイア、かも。

「マクスウェル……。姉さん以外の全員を無力化したら、空調のファンを再始動。不燃ガスを外へ追いやれ……」

 返事のメッセージは見えなかった。

 ……ぼやける視界が拡散し、空気を吸い込む感覚が完全に消えていった。



 優しく肩を揺さぶられるような感覚で意識が再び戻ってきた。

「……り、くん。サトリ君」

「う……」

 頭全体が内側から膨らんだみたいにガンガンする。あれからどれくらい経ったんだ。五分? 五時間? まったくイメージが湧かない。病人みたいに背中を支えられて体を起こすと、もうあの白い煙のようなものは完全に引いていた。

「この、第三心臓群? とにかく機関動力室の人達は手足を縛り終えました。ただし外の通路については未知数ですし、いつまでもここに籠城するのも得策ではありません。お父さんと無事合流できたなら、早く離れるべきだと思いますよ」

「あっ、ああ。いや待って」

 僕は自分のものとは思えないくらい重たい首を横に振って、

「……姉さんも頭ぼんやりしているの? アブソリュートノア下層には人間サイドが吸血ダニにやられないように、エキドナがあらかじめ予防・治療の手段を隠しているはずなんだ。その緊急セーフティを特定して手元に確保しないと、バンシーやシルフィード達を助けてやれなくなる」

 僕と姉さんは二人して父さんの方へ目をやった。

 彼は彼で小さく両手を上げて、

「いや、初耳だ。そもそも吸血ダニというのは?」

「〇・一二ミリ、おそらく業界最小の牙の持ち主だよ」

 父さんに事情を話しながらも、僕はこう考え始めていた。何しろあのエキドナだ。やっぱり予防や治療にも専用のアークエネミーを産み落としているんじゃないだろうか。ヤツは強大だが万能じゃない。それしかできないんじゃあ……?

「姉さん。アークエネミーって回復系の特殊スキルみたいなのを持ったヤツもいるの? ラボの防護手段として使えそうな……」

「まあ……お姉ちゃんみたいな吸血からの不死化を除いた純粋な傷の治療や解毒と言うと、ユニコーンとか、フェニックスとか、和の人魚とか、まあボチボチですかね。数は少ないですけど、いない事もないはずですよ」

 ……でも、アークエネミー嫌いで集団ヒステリーに陥っている人間サイドが支配している下層に置くにしては、ちょっと派手だしサイズが大きすぎるな。体が透明とか、壁の中をすり抜けられるとか、いるならもう少し隠しやすい種族のような気もするけど……。

「カラドリオスだ」

 父さんがおかしな事を言い始めた。

「通風口の辺りで小鳥の鳴き声を耳にした。人には入れないダクトでも、都会のカラスのように針金ハンガーでも集めて鳥の巣くらいなら作れるかもしれん」

「その、からどりおすって?」

「見た目は小さな鳥ですが、病室の窓辺に留まって邪気を吸い取るアークエネミーです。逆に言えば、カラドリオスにも吸い取れない邪気は不治の病だと証明されますから、地域によっては死神みたいに扱われる事もあるようですけど」

 死の匂いを嗅ぎ取って泣き喚くだけのバンシーが、あたかも死を運んでくる張本人のように忌み嫌われてきたようなものか。

 ……ただ、おあつらえ向きだな。

 サイズは小さくてどこにでも隠せて、しかも回復専門のアークエネミー。いかにもエキドナが欲しがりそうな種族だ。吸血ダニ専用にカスタムしたワクチンみたいな個体を産み落としていても何ら不思議じゃない。

「……なら、エキドナは今度の今度こそそのカラドリオスっていうのを産んだのか。ラボか、自分のお腹を使って、可愛い我が仔とやらを」

「いや」

 が、これに異を唱えたのは情報をくれた父さんだった。

「……おそらく似たような機能は持っているんだろう。だがそのものじゃない。そもそもここにあるのも全部彼女の仕業だとしたら、エキドナがばら撒いているモノで新たな命を産み落とせるとは思えない」

「何だって……? でもこのデカい虫の心臓だって元はと言えばヤツのラボで、エキドナは多産の象徴なんじゃなかったのか」

「ラボ、か。代理母にしては強過ぎる。命を宿す事はできても、子の体を切り離した時点で魂は母胎側に残ってしまうだろう。あくまでラボが使い捨てなら、宿った部分の肉を切り離せば自由は与えられるかもしれない。でもそれは這いずるだけの肉の塊だ、しかも不死者だから死ぬに死ねない。だから何をやってもエキドナ自身が設計したスペックは望めない、あの人がカラドリオスを作ろうとしてもカラドリオスにはならないはずだ。これは最初から、子を任せるためのラボじゃない。ひたすら兵器として追求されたものだ」

「……、」

「もしもここにいるエキドナが伝説通りの末路を迎えなかったあのエキドナなら、大体の経緯は分かる。今度はもっと、強い子を。どんな英雄にも倒される事のない最強を。……ラボを積み重ねてもそれができないなら、逆に世界を一掃して危険な英雄をまとめて消し飛ばし、改めて安全な環境を子供に残したい。そう思っているのかもな。そのためには、方舟の存在は邪魔にしかならない」

 ……なんて事だ。

 それだけなら筋が通っているように見える。正しい復讐にも思えてくる。だからこそ、恐ろしい。だってそんなのじゃダメなんだ。英雄達が怪物へ襲いかかったのは、危険な存在とみなされたからだろう。仔を守るための行いが、かえって次の凶刃を招いてしまう。結局またエキドナは打ちのめされ、永遠に戦いは終わらない。

 父さんは無精ひげに覆われた顎を軽く撫でながら、

「どっちみち、ラボの品であっても同じような効果は見込めるだろう。おそらくその小鳥の形をした何かが鍵となるはずだ」

「なら、機関動力室を抜けて鳥の巣がある通風口まで向かおう。父さん、鳴き声を聞いた場所は?」

「ああ。近いぞ、機関動力室の最上層の扉から出て、五〇メートルもない」

 ……一つの建物や乗り物からすれば破格の数字のはずだけど、アブソリュートノアだとさほど違和感がないから不思議だ。

「けど、どうやって外の人達をかわします? さっきまではサトリ君一人だから抱えて移動もできましたけど、お父さんと二人掛かりになると天井ルートは厳しいかもしれません……」

「えっ、だとすると」

 ただでさえ銃声だの何だののせいで機関動力室の出入り口が注目を浴びている中で、あの狭い通路を誰にも見つからずに行き来する方法。天井以外には思い浮かばないぞ。

「いや、案外何とかなるかもしれない」

「父さん?」

「ユリナの案が通っているなら、セキュリティ関係はマクスウェルが掌握しているはずだ。さっきの不燃ガスもそういう事だろう? だったら同じように館内設備を逆手に取れば良い」

 父さんは真上を指差した。

 そして言った。

「ここは窓のない大深度地下なんだ。明かりを落として非常照明のリクエストも突っぱねれば、鼻を摘まれても相手の顔が見えないほどの暗闇が全てを支配する。そうなれば夜目の効く吸血鬼の独壇場さ」

 ……言われてみれば。

 仮に鉄扉の前に人が集まっていて満員電車みたいになっていたって、互いの顔が分からなければ群衆の一人として紛れ込める。逃げ場のない猛獣の檻の中では、猛獣の仲間として誤認されるのが一番安全なんだ。

「でも、懐中電灯や携帯電話のバックライトを使ってくる人もいるんじゃないですか?」

「構わないんだ。大勢がひしめく中ならみんなの体が邪魔になって光は遮られる。くさむらの中にライトを突っ込んでスイッチを点けているようなもんさ。上から均一に光が降り注がない限り、全体の視野が確保される恐れはない」

 やるべき事を確認しよう。

 まずは四、五階分くらい縦にぶち抜いた機関動力室の足場を通って一番上にある鉄扉に張り付く。下層全体の明かりを落として暗闇を作り、混乱に乗じて鉄扉を開け放ち、暴徒達の中に紛れ込んでダクトの中にあるカラオリドスを参考にした小鳥の鍵の『巣』まで辿り着く。例の巨大で透明な虫の心臓の群れは父さんが薬品関係の設定をメチャクチャにしたから簡単には起爆できないらしいし、そのまま上へ上がる方法を探して、上層のアークエネミー達を吸血ダニの支配から解放してやるべきだ。

 見えてきた。

 エキドナのおかげで何もかもメチャクチャになってたけど、ようやっと終息の目処が立ってきた。

 そう思っていた矢先だった。

 それはやってきた。


「本当に。人間というのは神に愛されているのかと錯覚するくらいに醜い構造をした生き物ね」


 真上から。

 不快な匂いを振りまく濁った色の塊が。

「サトリ君!!」

 姉さんに腕を引っ張られて、虫の心臓を取り囲むフロア内上部の金網通路をいっしょくたに転がっていく。ついさっき僕が立っていた場所に重たい塊が落ちてきていた。

 濁った色の粘液を頭から被ったそれは、元はと言えば退廃に傾いた美の象徴。光を弾くような白い肌に甘ったるいミルクティーに似た色の長い髪。それでいて見る角度によって七色に輝く美女と巨大な蛇とを掛け合わせたような……、

「エキドナ!? どうやってっ!!」

 彼女がそこに立つだけで、金網の床や金属の手すりが枯草めいた色の鱗に覆われていく。内臓じみた動きで大きく脈打つ。……もはや武器と化した揺りかごが広がっていく。

 辺りを埋める巨大で透明な虫の心臓の群れよりもなお威圧感を放つ、その女。それはやはり、どれだけ大規模でもこれがエキドナの調達したラボの一部とやらだからなのか。

 人間達を扇動してアブソリュートノア下層全体をアークエネミー不可侵の恐慌状態に陥らせたのは他ならぬシャルロッテ=フレグラだ。暴徒達の目には全てのアークエネミーが恐怖の対象に見えているとしたら、こいつ自身自由に出入りできるとは思えないのに、あんなドロドロの目立つ格好でどうやって。

 いや。

 ドロドロ?

「……あの馬鹿デカい虫の心臓から伸びてる血管の中を通ってきたっていうのか?」

「毎秒二トンの勢いで体液を循環させているのよ。水圧に耐える不死の肉体さえあれば、息が切れる前に目的地まで運んでもらえるわ」

 でもどうして本丸のエキドナ自身がここまでやってきた?

 ……他のアークエネミーには任せられないんだ。吸血ダニで操られた連中は人魚の歌声とかバンシーの予言とか、特殊スキルみたいなものは使えなくなる。元々この辺りは人間の暴徒達がひしめいていた。吸血ダニのせいで半端な力しか使えないアークエネミー投じても囲まれて袋叩きされてしまう。そもそも目に見えない吸血ダニを一緒に連れ込んでしまったら、人間側にも汚染が進んで精密作業を誘導できなくなる。だから任せきれなくなって、一番頼りになる自分自身を投入してきた。

 それだけ迅速に火消しする必要を感じているって事は、やっぱり僕達は間違っていなかったんだ。このアブソリュートノア下層のどこかにカラドリオスを参考にした小鳥の鍵がいて、そいつを確保すれば吸血ダニにやられたアークエネミー達を取り戻せる。エキドナの支配体制さえ崩れれば、不死者の恐怖に怯える人間サイドにだって無用な圧が加わる事はなくなる。そうなれば、少しずつでも鎮静化の目処が立ってくる!

 終わりは見えてる、もう誰も傷つかずに済むんだ。人間も、アークエネミーも。

 エキドナ。

 シャルロッテ=フレグラ。

 ここさえ、この一戦さえ乗り越えれば! バンシーやシルフィード達も吸血ダニの呪縛から取り戻せるはずだ!!

「……自らの選択の中に必ず正解が用意されていると根拠もなく妄信する事。それ自体がすでに不遜よ。人間」

 心底不快といった顔で、エキドナは両手を腰の後ろへ回した。

 そこから出てきたのは、

「サブ、マシンガン!?」

「サトリ君!!」

 医者だか研究者だかが持っていたのより凶悪なサブマシンガンが二丁。

 姉さんは僕を抱えたまま横っ飛びに移動する。金網通路の順路なんて関係ない。それこそガスタンクのように巨大な虫の心臓が並ぶエリアでセクションをまたぐように、通路から別の通路へと手すりを踏んで跳躍する形で。

 でもエキドナは関係なかった。

 確かに僕達は昇降用の大型リフトの陰に回り込んだのに、あの女は構わず左右の引き金を引いたんだ。

 パパパン!! と乾いた音が連続した途端、あちこちの壁や手すりにオレンジ色の火花が散って、そして意味不明な事が起きた。

「うぐっ!?」

 姉さんが呻いて体を折り曲げたと思ったら、ゴシックドレスの二の腕辺りに赤黒い穴が空いていたんだ。

「忘れたの、私の頭がどうなっているか!」

 エキドナが吼える。

 姉さんは僕の腕を掴んで手すりから身を投げたけど、結果は変わらない。どれだけアクロバティックな動きをしても、銃声と火花に包まれるたびにエリカ姉さんの脇腹に、太股に、次々と穴が空いていく!

「あいつ……!!」

『警告。代替わりを重ねて計画的に思考能力を拡張していったエキドナの頭脳は、今や惑星シミュレータ規模にまで膨らんでいます。おそらく弾道計算予測を実行した上で、跳弾を利用して多角的に狙い撃ってきているのでしょう』

「惑星規模!? それじゃピンボールショットから逃げられない! 一つの街を再現するので手一杯なマクスウェルとじゃ地力が違い過ぎる!!」

 下段の金網通路に着地するまでが精一杯だった。姉さんはそのまま手すりに寄りかかり、

「あ、ああ」

 歯を食いしばって。

 それでも耐えきれずに、

「あぐあ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

「姉さん? 姉さん!!」

 何だ?

 まるで猛毒でも飲み込んで苦しんでいるような。なんて言っていたっけ。四五口径の、聖別銀? とかいうののせいか!?

「だから、忘れたの?」

 上段からの声。

「私はエキドナ。必要なものは全て自前で調達するアークエネミーよ? 可愛い我が仔に必要な全てをね」

 ……まさか。

 あのサブマシンガンから放たれた銃弾も!?

「っ、ぐう!!」

 もう無理矢理だった。姉さんは自分の二の腕に爪を食い込ませると、そのまま周りの肉ごと抉り取るような格好で体内に残っていた弾丸を抜き取って放り捨てる。

 あれは……。

 金網通路の隙間に落ちていったけど、ちらりと見えたのは……小さなヤドカリみたいなものか?

 銃のライフリング頼みで硬く尖った巻き貝の先端をキリやドリルのように回して獲物の血肉を突き破り、内側からハサミや口で傷を千切って噛み付き貪り尽くす……。

 またラボの機材か、今度は何だ? 分厚い卵の殻を破るためのドリルか、あるいは体の中の出血を止めるための針と糸? 何にしたってこんなの体内に残したらどうなるか!

 続けて脇腹。

 太股にまで手を伸ばそうとして、そこで姉さんの細い肩が真上に跳ねた。いいや、全身がケイレンしたんだ!

「あっかは! ううぐう……」

 立っている事もできず、手すりに体を預けたままずるずると金網通路に崩れていく姉さんの足が、ガツンと何かにぶつかった。

 これは、工具箱?

「サトリ、くん」

「ねえさ」

「おねが、取り出して。かんせっ、体の中に押し込まれる前に、おせんした、じゅうだ、ん……!!」

「っ!?」

 さらに姉さんの体が激しくケイレンして、工具箱が蹴飛ばされる。中から散らばったのは、金槌に、ノコギリに、バールに、ドライバー……。

 汗まみれの姉さんはこくりと小さく頷いた。

 何が正しいのかなんて分からない。だけどもう無我夢中だった。カラドリオスの件は吸血ダニしか保証がない。新しく出てきたヤドカリに効果がない場合、一度完全に汚染されれば姉さんは永遠に解放されないかもしれないんだ。大きめのマイナスドライバーを掴んで、振り上げ、止まり、両目を瞑って、息を止めて、そして。

 振り下ろす。

 手首に返る柔らかい感触に胃袋が引っくり返る。でもまだだ。刺して終わりじゃない。海の家で食べたサザエの壷焼きを思い出した。手首をひねって、強引に中身を引っ張り出す!

 くそ。

 もうしないって。

 二度と姉さんには刃を突き立てないって、そう誓ったはずなのに……!!

「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうが!!」

 地獄のように引き延ばされた濃密な時間だった。僕の手は再び彼女の血にまみれた。

 しかもこれで解放される訳じゃない。

「何発でも行くわよ」

 はるか頭上、見えない位置から死刑宣告があった。

 冗談じゃ、ない……。

 一回でもこんなに魂を削られるのに、あれを後どれだけ繰り返させるつもりだ、あのバケモノ女!!

「何でもかんでもその手で解決できると思った? 正義は常に無条件で自分達の側にあって、それを振りかざせば相手の頭を好きなだけ押さえつける事ができるとでも。とんだ英雄様ね、今思い上がりのツケを払わせてあげる」

「そっくりそのまま返してやる。手前勝手にランクをつけた子供達の復讐? そのために散々他の命を振り回してるアンタに正義なんかあるもんか! 世界に破滅をもたらせば神に手を掛けられる、復讐のチャンスが回ってくるなんていうのも、方舟の文献頼みで具体的な実証試験を繰り返した訳じゃあないんだろう!!」

 僕は人間にもアークエネミーにも仲良くやってほしかった。だから命を無駄に散らす光十字やアブソリュートノアのやり方は許せなかった。

 だけど、エキドナは彼らとも違う。

 人間達の社会を伝染性から守るため、あるいは世界規模のカラミティを乗り越えるため。甚大な破壊をもたらしたけど、それでも彼らは前を見据えていた。どれだけ身勝手でも、守りたい人がいた。

 退廃に傾いたエキドナはそうじゃない。

 まず徹底的に破壊する。成果は得られれば後で拾い上げる。つまり、二の次。神や英雄を倒して安全な環境を手に入れる話だって、本当の本当に叶うと信じているかは怪しいところだ。自分の話に酔ってしまえば、苦しむ必要もなくなるんだから。

 こんなの誰かが止めてやらなくちゃダメだ。エキドナの進む先に笑顔なんか一つもない。そう、彼女自身さえも。

 さあ、具体的にどうする。

 気持ちだけが先走っても、手持ちが心もとないのは間違いない。自由自在にラボをデザインして風呂敷を広げるエキドナ本人と、惑星シミュレータに匹敵する濃密な頭脳。あんなものに太刀打ちする手段が欲しい。こっちには何かないのか!?

「待て」

 と、その時だった。

 エキドナと同じく、頭上から全く別の声が飛んできた。

「私の許可なく子供達に触るな。誰か忘れているんじゃあないのか」

 ……父さん?

 訝しむ僕達は、わずかな沈黙を得た。

 そして直後。


 パパパン!! と。


「くそっ!! 父さん!?」

 あまりにも呆気なかった。エキドナの野郎、父さんに向けて容赦なく引き金を引いたのか!

 姉さんは流石にあれだけやられたせいか、まだ傷は治り切っていないらしい。だけど一ヶ所に留まっていたらいい的だ。彼女に肩を貸して、二人して金網通路から上層に向かう階段を探す。そうこうしている間にも立て続けに銃声が乱舞していた。サブマシンガンの連射。あれだけ撃ち込まれたら吸血ダニに匹敵する特殊弾頭の感染源なんて関係なしに、人体なんてグシャグシャになってしまう……!!

「……?」

 と、肩を貸している姉さんが疑問めいた吐息と共に真上へ目をやった。

「どうしたの、姉さん?」

「いや……何だかおかしいなって」

「?」

「いくら何でも撃ち過ぎじゃないですか? 生物ラボの弾丸に完全なシミュレータ。これだけあれば、生身の人間ならどう動いたって一撃必殺のはずなのに……」

 改めて僕達は頭上を見上げる。こうしている間も爆音は途切れない。でも、何だか……ニュアンスが違う……? なんかこれ、エキドナの方が焦っているように聞こえないか。

 姉さんと二人で、ようやく見つけた上への金属階段を上っていく。

 一段一段。

 その先で待っていたのは……。



「どうしたアークエネミー、お得意の弾道計算予測とやらは的外れか。まさか、これも自分で用意したラボの弾丸の不出来だなどとは言わないだろうな」

 ……、なんだ、あれ?

 金網通路のど真ん中で、開けた場所に立っているのは、父さん? でもどうしてだ。遮蔽になるものなんて何もないのに、あれだけ銃撃されて傷一つないなんて! 僕を庇っていたとはいえ、あの吸血鬼の姉さんだって百発百中のピンボールショットから逃れられなかったんだぞ!?

 父さんは、武器らしい武器は何も持っていなかった。どこで調達してきたのか、青いビニールシートを闘牛士のようにひらひら揺らしているだけだ。無数の穴が空いてボロボロになった……。

 まさか、あれで?

 ベニヤ板であれ金魚の水槽であれ、弾丸は何かしらの障害物を貫く時にその弾道をわずかに曲げる。でも、たったそれだけで? 単なる机上の空論じゃない、本当にフルオートの掃射に立ち向かっているのか!?

「おか、しい……」

 ただ立っているだけで、周囲の金網床や鉄骨の柱をぐずぐずと枯草に似た鱗に覆わせ、脈動させていく、その異形。左右のサブマシンガンにやたら長いマガジンを差し込んでいるエキドナも、驚愕に目を見開いていた。退廃的な美を引きずり、甘ったるいミルクティーに似た髪や蛇の胴から虹色の光を振り撒きながら、

「どうして二〇〇発以上ぶち込んでいるのに一発も当たらない!? ただ闇雲な乱射じゃない。一発一発が致死のルートをなぞって取り得る選択全てを封じているはずなのに!!」

「しかし現実はそうなっていない。なら、そちらの計算に誤りがあるのではないか?」

「……、」

 エキドナは押し黙った。

 その可能性を真剣に考慮したから、じゃない。

「……ありえない。私は可愛い我が仔のために自分をラボの一部とし、代替わりを経て惑星シミュレータ級の頭脳を獲得した。世界の終わり、カラミティを唯一完全に予測できる有史以来最強の演算装置よ! その私の計算能力を、一代限りの単一生命の脳髄如きに出し抜けるはずが……!!」

「だが所詮はスパコンと同義、というレベルの話なのだろう。AI対局の分野はわざわざ対戦相手のデータを死ぬほど読み込んでチェスや将棋の戦績を重ねる事に必死だが、人間の頭脳とは元来そう悪いものじゃない。事前学習なしの一対一で、ターン制を使わないリアルタイムの対局で、かつ互いの駒を伏せた状態で勝負を始めれば、人間がコンピュータに勝つ余地はまだまだ残されているんだよ」

 本気で言っている、のか?

 これが現実なのか?

 つまり父さんはプロ棋士がスパコンに挑む感覚で、たった一人で七〇億の未来を掌握する世界最高の惑星シミュレータと戦っているっていうのか!?

「忘れたか。私は元々光十字の研究員で、君みたいなのを専門に取り扱ってきた外道だぞ。……ゲテモノ自慢をしているところ申し訳ないが、患者の体について医者の方が知識で劣る事はまずない。私は君以上に君のスペックを熟知しているんだよ。その上で挑んでいるのだという意味を、もう少し理解してほしいのだがね」

 吸血鬼の姉さんとも、ゾンビの妹とも違う。

 あるいは魔王リリスの義母さんとだって。

 腕力頼みじゃない、特殊な超常現象でもない、感染力なんかどこにもない。

 それでも挑めるのか。

 人は、こんなにも恐ろしい力を最初から備えている生き物だっていうのか!?

「……ハッタリよ。そうやって煙に巻いてこちらの動揺を誘い、自縄自縛で命中精度を引き下げているだけ。あなた自身にそんなスペックがあるとは思えない!」

「そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。だが敢えて君の精神安定作業に付き合ってあげようか。サービスでね」

 パパン! と銃声が応じたけど、結果は変わらない。青いビニールシートが幻惑するように翻るばかりで、父さんの話はまだ続く。


「一つ、アークエネミー対策はまず観察だ。神話伝承に語られている姿と現実の間にどこまで誤差があるか。そういう点では、君の行動は非常にベーシックだ。どれだけ頭の中で演算していても銃は正面に構えてその目で照準を覗き込んでから発砲に移っている。両手のサブマシンガンも左右で独立している訳じゃない。結局、視覚で環境走査を続けて誤差を潰す方式は変わらないんだ。簡単に言うと、目を瞑っては撃てない」


「二つ、こうして対話を進める中でも時間は進んでいる。私は意図して引き延ばしていたと言っても構わない。もちろん銃火にさらされている私にとっては自殺行為でしかないが、代わりにチャンスを得た者もいる。そう、例えば、非常に傷の治りの早い誰かさんとかね」


「三つ、わざわざ口に出して言葉で説明している以上、私は自分の意見を誰かと共有したいんだ。だがそれはシャルロッテ、君じゃあない。さて、そろそろ誰が主役かは分かってきたかな? もちろんこんなしょぼくれた中年男の事じゃあないぞ。私は年甲斐というものを理解している、君と違ってな。そこまで大人気なくはない」


「……ッ!?」

 とっさにエキドナは枯草の表面を七色にギラつかせ、蛇の身をひねってこっちへ振り返っていた。より厳密には、長話の中でほとんど傷を塞ぎかけていた吸血鬼の姉さんに左右のサブマシンガンの銃口を突きつけようと。

 でも、父さんの矛先は違った。

「サトリ、父さんはもう答えを言っておいたはずだぞ」

「っ!! マクスウェル、照明だ!!」

 カードサイズのカーナビに向かって叫んだ直後だった。


 ばづんっっっ!! と。

 頭上から真昼の太陽みたいな光を落とす天井のハロゲンライトの群れが一斉に死んでいく。


 一寸先も見えない闇。

 そんな中で僕は間近にいた誰かに突き飛ばされて尻餅をついていた。

 もう手を伸ばしても彼女はいない。いいや誰にも掴めない。濃密な闇の中、唯一視界を確保して自由自在に飛び跳ねる東欧型クイーン級はまさしく暗黒の支配者だ。

「くっ!!」

 暗闇の中で叫び声があり、闇雲にサブマシンガンが吼え立てる。ひょっとしたら当てる事は考えずにマズルフラッシュの連打で視界を確保しようとしたのかもしれないけど、どっちにしてももう遅い。

 吸血鬼・天津エリカが闇を引き裂いて獲物に迫る。


 漆黒の中で鈍い音が炸裂した。

 マズルフラッシュは完全に立ち消え、続けて硬いものが地面に落ちる音が続く。


「おっ……あ……?」

「……、」

 何がどうなったのか、ヴェールの向こうの詳細は分からなかった。でもそれで良かったのかもしれなかった。僕に見られる心配がなかったからこそ、姉さんは束の間、冷酷なクイーンに戻る事ができたのかもしれないんだし。

 太い機械音と共に、再びハロゲンライトが息を吹き返す。暗いトンネルから表に出るように視界が眩んだが、すぐ元に戻ってくれた。

 先ほどまでの、虫の体液じゃない。

 光り輝く己自身の白い肌を赤い液体で染め上げた、血まみれの蛇女がいた。

 銃は二つとも取り落としている。彼女は金網通路の手すりに寄りかかりながら、自分のお腹を押さえ、青い顔をして、それでも汗まみれの笑みを浮かべていた。

「……どっちでも、良いのよ」

「……、」

「忘れたの? カラミティを正確に予見するシミュレータは、このアブソリュートノアの経典とも言える今代の予言書は、私の頭の中にある。私が死ねば、全ての指針は失われるの。つまり誰も、誰一人、カラミティから逃れる事はできなくなる。かみさまに、直接、手を下す事はできないけれど、ヤツらが作った、ヤツらが認めた世界を焼き尽くし、天の、けむり、真っ黒に、燻し……」

 そこまでだった。

 ぐらりと揺れたエキドナの体が手すりを越える。眩い白い肌と甘ったるいミルクティーのような髪に、大蛇の下半身。退廃的な美を極めた身体に、虹色の輝きが尾を引くように追従していく。どこまでも深い闇へと落ちていく。

 周囲の枯草めいた鱗が、臓物のように波打つ床や壁が、引っ込む。元に戻っていく。ただし、辺りに並ぶ巨大で透明な虫の心臓はそのままだった。

 彼女は最後まで死んでいった息子や娘の話は出さなかった。同じ場所に行けるとは言わなかった。ひょっとしたら、それが可愛い我が子とやらのため、自分自身さえシミュレータに作り替えた彼女の覚悟の片鱗かもしれなかった。

「帰ろう」

 ゆっくりと息を吐いてボロボロになった青いビニールシートを放り捨てた父さんが、僕の肩に手を置いた。

「どこに?」

「問題だらけの、私達の世界にさ」

 大深度地下のアブソリュートノアは崩壊した。バリケードを作ったり、無意味な暴動の過程であちこちのセクションが破壊されただろうし、再建しようにもカラミティの正確な数値を記したシミュレータはエキドナと共に失われている。そもそもエキドナが長い時間をかけて館内を巨大な虫ベースの生体部品に置き換えていったから、彼女なしで回るのかどうかも定かじゃない。今さら機械部品に戻せるんだろうか。

 何より。

 これだけの事があったのだ。同じ巨大密室で長い時間を過ごしましょうと語りかけても、もう誰も賛同しないだろう。

 皆がバラバラになって、思い思いに終末を迎える世界。

 これで良いのか。

 何が悪いのか。

 僕は……。