第十章



 スマホを新調した。

 そんな話をしているって事はつまりお金が回っているって訳で、何が言いたいかっていうとまだ世界は終わっていなかった。

『米国連邦破産法が適用された事により米系最大のネット通販事業で知られるワイルド@ハントの債務処理が始まりました。グループの柱となっていた七部門をそれぞれ売却する事で巨額の負債を回収すると同時に……』

「よし、動画も普通に入るみたいだな」

「トゥルース。わざわざ空港の免税店で調達しなくても良くない?」

 すでにスーツケースは係員に預けているんだろう、海外旅行にしてはコンパクトなキャリーケースだけころころ引きずり回すアナスタシアがそんな風に息を吐いていた。

「僕が使っていたのは型落ちの高性能品だから、普通の家電量販店に入ってるショップじゃかえって手に入らないんだよ。にこにこ笑顔でヘンテコな共有機能ばっかりくっついてる最新機をオススメされる始末だし」

「日本は良い国だけど、モバイル契約の煩雑さだけは救いがたいわよね」

 それにしても、だ。

 僕とアナスタシアは(生意気にもロイヤル何とかっていう会員用の)ガラス張りのロビーに入って革張りのソファに腰掛けながら、

「……あれだけ騒ぎを起こしたワイルド@ハントだけど、結局容れ物を変えるだけで中身は大して変化しないみたいだね」

「ま、需要がある内はビジネスは途切れないしね。ワイルド@ハントの通販が終わったって聞いて絶叫したのはワタシ達ネット中毒だけじゃないわ。場合によっては村や街、いいや国単位で寄りかかっていたようなトコだってあったんだから」

 あの騒ぎでハッカー達の祭典だったテクノパレードも有耶無耶になっちゃったけど、かえって参加者達の書き込みは興奮気味になっている。事件の当事者って事で。何にでも楽しめるような連中なら心配する必要はないかな。

 ただ、

「結局、何も終わらないのね」

「ああ」

 義母さんの話だと、手すりから落ちていったエキドナは見つからなかった。多くの柱を巨大な虫ベースの生体部品に置き換えられていたアブソリュートノアは使い物にならず、しかも彼らが拠り所にしていたカラミティの情報をまとめた惑星シミュレータ、つまりエキドナの頭脳も失われた。なし崩し的に方舟は求心力を失い、バラバラに散らばりつつある。

 でも、だからといってカラミティがなくなる訳じゃない。それがいつ破裂するかは、消えてしまったエキドナにしか分からない。でも病巣がある以上、いつか必ず発症する。

 せめて、エキドナが用意していたラボの防護手段、カラドリオスを参考にした小鳥の鍵で吸血ダニにやられたバンシーやシルフィード達を助け出せたのは幸いか。

「今回の件ってさ」

「うん」

「本当にエキドナ一人でできたのかな。アブソリュートノアだって馬鹿じゃない。あそこまで大々的な乗っ取りができたのって、他にもサポートがあったからなんじゃないかなって思うんだけど」

 エキドナの思想にも一部引っかかるものがある。

 愛する人との間に生まれた可愛い我が仔達は、神様や英雄によって次々殺された。だから普段は出てこない神様を困らせて一太刀を浴びせるため、世界規模の破滅を生み出そうとした。大洪水の前に、ノアの元に神の啓示があったのを参考にして。

 でも待ってほしい。

 ノアの方舟の話を突き詰めたところで、エキドナの望むギリシア神話の神々、例えばゼウスやヘラなんかは顔を出すのか? 何だか『神様』って言葉の範囲が広すぎる気がするんだ。個人が誰かを思い浮かべるっていうんじゃなくて、組織に属する者達が各々連想するものを包括的にまとめるための器っていうか。

 だとすると、

「……エキドナは一人じゃないのかもしれない」

 つい、そんな取り止めのない、根拠の薄い考えが脳裏をよぎる。

「『神様』に恨みを持って一矢を報いたいと考える人達の集まりがあるのかもしれない」

「だとすると、問題はなくならないわよね」

 アナスタシアは肩をすくめつつ、

「そもそも一番基本のカラミティは自然発生によるものなのか。それさえも『組織』が神様とやらを揺さぶるために作り出した作為的な代物なのか。そこから分からなくなってくるもの」

 アブソリュートノアが散り散りになった事で、世界の水面下は再び大きな地殻変動を起こすだろう。今まで頭を押さえつけられてきた連中が水面に浮上してくるかもしれない。

 それと同時に、方舟さえ利用して規格外の破壊と混乱をもたらそうとしたエキドナ側の『組織』も、次の動きを見せるはずだ。今度もまた何かに寄生するのか、それとも自分達が大々的に動くのか。そこまでは分からないけど、少なくとも『何か』は起きる。近い内にだ。

 複数の思惑が交錯し、世界は混乱の時を迎えようとしている。そんな時代の中で頼りになる武器は何だ。

 決まっている。虚実を確実に切り分ける事のできる力、すなわち情報だ。

「アナスタシア。期待してる」

「ええ。トゥルースも」



 海外線WQF一〇九便は定刻通りに滑走路から離陸していき、僕はガラス張りのロビーから小さくなっていく旅客機を見送っていた。

「サトリ」

 頃合いを見計らっていたのか、父さんがこちらへやってきた。相変わらずよれたシャツにスラックス。社会人のようでいて細部が怪しい中年男。けど、アブソリュートノアで見せたあの顔は何だったのか。

「せっかく街を離れて空港まで来たんだし、モールで何か食べていくか? 結構珍しい店も並んでいるようだけど」

「構わないけど、先に義母さんに連絡入れているんだろうね。向こうでお昼ご飯作ってましたなんて話になったら軽めの戦争になるよ」

 うぐっ、と父さんは喉を詰まらせたような音を出した。うちの家庭は色々あったけど、シリアスな事情ばかりじゃなくて普通にこの人のケアが足りなかったって部分もあるような気がする。

 空港までは父さんの車で来たので、ひとまず一緒に地下駐車場の方へ。スロープを降りてむき出しのコンクリートが目立ち、人気がなくなってきた辺りで僕は本題に入った。

「父さん」

「何だ?」

「父さんには、戦う力があるの? 義母さんとか、姉さんとかアユミとおんなじような」

「どっちだと思う」

 隣を歩く父さんは小さく笑って、試すような口ぶりになった。

 ただ、本気で考えさせるつもりはなかったらしい。すぐにまた口を開いて、

「本当に一つの脳髄で惑星シミュレータに匹敵していたら、私は最初の母さんとは別れなかっただろうさ。もっとスマートに立ち回れた。そうだろう?」

「……、」

 全部ハッタリ。

 方舟全体を振り回し、ラボの部品に置き換え、あらゆるものを乗っ取ってきたエキドナさえ騙し切る。あの時起きた事は、そういう話にしたいんだろうか。

「でも父さん」

「ん?」

「本当に父さんがそこまで騙しの腕を持っていたら、やっぱり母さんとはケンカしなかったと思うよ。本気になって衝突なんかしないで、のらりくらりとかわせたはずだ」

 言えてる、と彼は苦笑した。

 結局どちらなのかは分からない。どちらも僕の知ってる父さんとはあまりに不釣り合いだったから。

 ただ、彼は苦い声でこう付け足したんだ。

「なあサトリ」

「なに父さん」

「……エキドナ、助けてやりたかったな」

 きっと。

 これがこの人の本質なんだろう。相手が血を分けた息子だからこぼす事のできた、偽りのない声なんだろう。

 だから僕も正直に答えた。

「うん。そうだね」