• フライ=ヴィリアス

    フライ=ヴィリアス
    東欧一三氏族の一人
    「腐敗」を得意とする吸血鬼。
    天津エリカとは旧知の仲らしい


   第四章



     1


 すっかり陽も暮れた。

 そうなるとあの人の出番である。

「ねっ、ねえさーん」

 自宅の階段を上って二階の一室。この時間だとどうせ控え目にノックしたって返事なんかないのは分かっているんだけど、とりあえずマナーだ。おまじないみたいに何度かドアを叩いてから、そっとノブに手を伸ばす。

「入るよー、姉さん」

 最後通牒を送ってから、ゆっくりとドアを開けた。

 ……姉さんの部屋はほんとに僕のと同じ造りなのかってくらいエレガンスだ。なんか甘い匂いもする。モノ自体は決して多い方じゃないんだけど、一つ一つのセンスが良い。机や化粧台、クローゼットに小物入れ。身だしなみを整えるっていうよりも、美しく着飾る事自体が趣味になっているのかもしれない。鏡に映らないのにどうやってお化粧しているのかは謎過ぎるけど、ミラーレス一眼とかなら大丈夫なのかしら?

 でもって一際目を引くのがクイーンサイズの天蓋付きベッド。

 全体的に空間の使い方が上手いんだよな。僕とかアユミとかが同じ部屋と調度品を渡されてもどこかに偏りができて、絶対に『余らせて』しまうと思う。

 ただ、今はそんなお宅訪問のレビューを書いている場合ではなく。

 僕は大きなベッドの方に向かった。誰も横たわっておらず、シーツもしわ一つないけど、本題はそっちじゃない。

 ベッドの下。

 一面大きな引き出し状になったそこに姉さんから預かっている金の鍵を挿して、両手で取っ手を掴んだ。ゆっくりと手前に引いていくと、真紅の天鵞絨で内張された豪奢な棺桶だっていうのが分かるはず。

 むっ、と甘い匂いが強くなる。

 秘密の宝物でもしまっておいたように、我らがパーフェクトお姉ちゃん天津エリカが繊細な瞼を閉じてひそやかに寝そべっていた。豪快極まる金の縦ロールに色白の肌が際立つ。優しい起伏を作る大きな胸元が静かに上下していなければ、そういう芸術品と間違えてしまいそう。さて何でこんなに説明がねちっこくなっているのかと言われれば、この人すっけすけのネグリジェ一丁だからだ! 何をどうしたって意識がソッチに吸い寄せられるんだってば!!

 何となくむき出しの細い肩に触れるのは躊躇われたので、ひとまずこのまま声をかける。

「ね、姉さん、陽が落ちたよ」

「……ぅ、ン?」

「起きてよ姉さん、割と大事な話もあるんだ」

「うー」

 吐息の一つ一つまでいちいち可愛くて艶かしい姉だなっ! そして寝転がったまま細い手を伸ばしてこない! こんなのでも人間の二〇倍の筋力を持つ吸血鬼だ。ほっぺを掴まれたら最後、そのまま棺桶に引きずりこまれて二度寝モードを止められなくなるぞ!!

 ようやっと、花の蜜を吸う蝶の羽のようにまつ毛を動かしてうっすらと瞼を開けた姉さんは、

「……う、サトリ君、おはようごらいまふ」

「はい姉さんおはよう。いきなりで悪いんだけどこれが委員長ね、姉さんなら小麦の人形を渡せば何とかしてくれるって軍服の人が言ってたんだけど」

 そう僕がネグリジェ無防備姉さんを前にしてやや自重していたのはそういう事だったのさ! いくら何でもリアル委員長の前で失態は演じられない!!

 一方の姉さんはまだなんかぽやぽやした目つきで、それでも何とかして棺桶の中から音もなく身を起こすと、

「サトリ君、少々お聞きしたい事があるんですけど」

「ああ、マクスウェルに頼んでさんざっぱら対話シミュレートしたけど何をどうやったって怒髪天以外の道はないようだから、こっちはもう覚悟を決めてあるよ。ドンと来い」

「……委員長ちゃんのお人形が手元にあるって事は、無防備なお姉ちゃん置いてきぼりにしてアユミちゃんと二人きりで大暴れしていましたかクソ野郎」

「チョー怖いけど誤魔化したって逃げ道がないのは分かっているのだごめんなさい! でもどうしても夜まで我慢できなかったんだ!」

「堪え性のない殿方は嫌われますよ、まったく。では第二問、軍服の人というのは? まさか黒い服に銀のショートヘアではありませんよね? 背丈は、そうですね、これくらいの、小柄な……」

「そうそれ。……横文字の名前って覚え辛いんだよな。フレイ、ふらい、そう、フライ!」

「……、」

「フライ=ヴィリアスとかいう人が訪ねに来るみたい。えと、東欧一三氏族だっけ。姉さん、夜間部の授業の方は大丈夫?」


     2


 でもって問題の銀の蝿、黒い軍服少女はしっかりピンポン鳴らして僕がインターフォンに出るまで玄関前で待っていてくれた。

「ご機嫌麗しゅう、弟君」

「……なんか意外だな。もっとこう、いきなり全部停電したかと思ったら満月をバックに窓バーンとか割って入ってくるもんだと思っていたのに」

「ここはかのクイーン級の棲家であられますし、何より吸血鬼は家人に招かれなければ屋内には上がれないというのが作法にございますゆえ」

 そういえばそんなのもあったな。吸血鬼の恐怖は水面下で密やかに街へ広がるカルトの恐怖なんだっけ? つまり墓場や廃墟に集まるのは秘密の集会、戸口に立つのは訪問勧誘の暗喩だ。

「ああ中へどうぞ、姉さんもそろそろ血の巡りが良くなってきた頃だろうし」

「ほう、こちらでは惜しげもなくそのような顔を? 確かにこれは面白い話が聞けそうです」

 玄関でブーツを脱ぐ脱がないでちょっともたついた辺りはヨーロピアンな匂いがする人だ。そんなこんなでリビングの方に案内する。

 その細い右手に、キラリと光る銀の輝きを見て取った。単なる銀のアクセサリって呼ぶには、えらく機能的だ。

「驚いた。吸血鬼が最新式のGPS電波時計をつけているなんて」

「弟君、吸血鬼とて弱点のあるアークエネミーなのですよ。招かれなければ家屋には入れない、流水の上は渡れない、日光や銀の武器、トネリコの杭に弱いなどね。中でも太陽光に弱い吸血鬼にとって日の出と日の入りの時刻を把握しておく事は最優先事項ですよ。そのためには常に最新のガジェットで身を守るべきです。まあ、クイーン級は基本に則ってアンティーク趣味に走りがちな傾向がありましたから、あちらをスタンダードと思っていると意外に映るかもしれませんが」

「ふうん」

 もう気になる事がいくつかあった。

「クイーン級って何だっけ? 光十字の施設なんかでも、そんなラベルの試験管があったような……?」

「吸血呪因のレアリティの一つですよ。クイーン級はキング級と並ぶ、最たる頂点ですね」

「えと。違うもの、なのか?」

「もちろん。不死者の世界では同じ化け物でも男性原理か女性原理かで大きく性質が変わるものなのです。雪男と雪女はまるで違うでしょう? いずれにしても、わたくしめなどにはないものでございますが」

「……それってつまり、姉さんはさっきトンネルで見たフライのアレよりすごいって事?」

 そりゃまあ確かに、シミュレータ上じゃ擬似小惑星衝突なんかやっていたけど。でもフライとガチで戦ったらどうなんだろう? 単純に測れるものでもないような。

 すると黒い軍服の少女はくすりと笑って、間違いをそっと指摘してきた。

「単純な腕力の強さで物事が決まる訳ではありませんよ」

「?」

「吸血鬼の意義は人間社会に溶け込みつつ、確実にその勢力を増やしていく事にあります。つまり、大事なのはバランスです。人の美意識に適う美貌や肢体を維持しつつ強大な力を拡張していく。そういう点では、わたくしやメスレエートなどは『こう』ですから。美よりも力へバランスを崩しているため、若干ながらレアリティは劣るのです」

 平べったい帽子を被り直しながら、束の間、元々宝石みたいだったフライの双眸が複雑にカットしたブローチのように輝いた。あるいは昆虫の複眼か。

 自分から申告していても、実際には心の予防線かもしれない。プロ野球選手が競い合う料理人達を見るように、どれくらいデリケートな話なのかは部外者の『人間』には実感できないんだ。どこに地雷があるか見えないし、ここは話題を変えた方が良さそうだ。

「そうそう。時計の話だけどさ、スマホでも時刻は自動合わせじゃなかったっけ? 天気予報のアプリは結構外しまくるけど」

「当然そちらも利用はします。ただし我々にとっては命綱ですから、落とし物や忘れ物となっては困ります。複数持ち歩くのはもちろん、『身につける』ガジェットの方が安心するのですよ」

 見た目だけなら可憐なフライは小さく笑ってから、

「こちらは地域によって自動的に基準時間を合わせてくれるので大変助かっております。時計というと無闇やたらにスイスだドイツだとこだわる輩もいますが、やはり電子部品で語るならメイドインジャパンですね。大量生産で均一な質を保ち、高性能をお手頃価格で手に入れられるのが大変素晴らしい。日本語さえ分かっていれば、アフターケアもこれ以上ないほど親身で丁寧ですし」

 と、やたらとべた褒めな銀の蝿であった。ひょっとしたらこの国特有の至れり尽くせり、お客様は神様ですの精神にすっかり当てられちゃった外国人リピーターなのかもしれない。

「そういえば、昼間助けてもらったお礼もまだだったっけ」

「お気になさらず。手ぶらで馳せ参じる非礼の代わりになればと、土産話を求めただけですので」

「あの時昼間だったけど、どうやって街をうろついていたんだ?」

「この街の地下一帯は市内全戸に繋がっていますからね。害虫はどこにでも潜み、いくらでもタフにできているものでありましょう」

 リビングのソファに腰掛ける姉さんはすでに……あれ? いつものゴスロリドレスとちょっと違う。基本的には黒のドレスに赤いコルセットで大きな胸を押し上げる格好なんだけど、全体的に生地は厚めだし、ロングスカートは前を大きく開き、細い脚は光沢のある細い黒革のズボンで包まれていた。エレキギターとか似合いそう。

 いつも以上に華やかで、でも実用的な重さを隠しているようにも見える。布、革、綿。こうしたものだって使い方次第では存外馬鹿にできない。ライダースーツとか、あるいは警察犬の訓練時に使う腕をすっぽり覆う防具みたいに、衝撃や刃の通りを阻害する効果でも意識しているんだろうか。

 ……でも、何でまた?

 もしや、前のスカートめくりが思いのほか尾を引いて、家の中であんな完全武装に走らせた訳ではあるまいな。

 でもってエリカ姉さんは何だかいつもよりシャッキリしていた。

「お久しぶりにございます、クイーン級。ふふ、本格仕様で出迎えていただけるとは恐縮です」

「時間がありません。手短に」

「イエス」

 細かい事情は聞かず、それでいて最低限のやり取りを滑らかに。何だか役割分担の決まった歯車みたいなやり取りだ。僕やアユミとは違った時間を共有しているようにも見える。……ちょっと寂しい、と思ってしまった事は思春期のプライドに懸けて全力で胸にしまっておこう。

 ちなみに姉さんに時間がないのは早くしないと父さんと母さん(元アークエネミー研究者の求職者とガチのパートレジ打ち魔王)が帰ってきてしまうからなんだけど、銀の蝿はどこまで我が家の事情をリサーチしているのやら。

 姉さんもフライも違いの分かる人達っぽいので、紅茶もコーヒーもどんな丁寧にやっても僕じゃ及第点を取れそうにない。えいっ、こういう時はスムージーだ。適当に果物をジューサーに詰めてスイッチを入れればそこそこ豪華で健康的、何より材料さえ間違えなければベテランでも素人でも全く同じ味に仕上がってくれる。

「はいどうぞ」

「これはご丁寧に」

 姉さんの対面に腰かけた軍服少女がグラスに黒い手袋に包まれた掌をかざすと、早速縁の所に丸々太ったハエが大量にまとわりついてしまった。

 ……飲みやすいよう適度に腐らせているとか何とか、こいつなりの理屈があるのは分かるんだけど。分かるんだけどさっ!! もぉーお客様用グラスが不思議なゼリーの入った害虫用の虫取りボトルみたいになってるよおー!!

「サトリ君。銀の蝿にお出しする時は使い捨ての紙の皿、コップ、プラスチックのコンビニフォークがデフォです。何でも発酵させればセレブな珍味になると勘違いしている節がありますので。きちんと学んでくださいね」

 呆れたような姉さんの言葉。

 真夏の明け方に樹液へトライするカブトムシみたいに、本人は至って幸せそうな顔でドロっとした甘味(?)を楽しみながら、フライはこう切り出してきた。

「早速本題を。弟君が遭遇した案件にございます。例の、神への反逆を物理レベルで目指す者達の」

「アブソリュートノアを乗っ取って書き換えたエキドナに、ブードゥーの『邪霊』……?」

 突っ立ったままの僕が口を挟むと、ソファで優雅に脚を組むエリカ姉さんがそっとため息をついた。黒革のズボンのせいか、両足の付け根辺りでぎゅちっとレザーの擦れる音が小さく鳴る。けど、何だ。まるで麻雀で味方の方から余計な牌を切られたような顔して? しかも姉さんたら黒い手袋に包まれた片手でポンポン自分の隣を叩き始めている。

 ……こっちに来て、余計なヒントを与えるなって事か。

 おずおずと従うしかない僕を見ながら、フライは小さくくすりと笑っていた。炭酸入れた覚えもないのにもはやしゅわしゅわ泡を噴いている透明なグラスを手にしたまま、

「まさに。彼らは単一の組織ではなく、いくつかを束ねた潜伏クラウドと定義されております」

「せんぷ……?」

「ええ。もちろん、そう簡単に各国当局に辿られるような形は取っていないでしょうが。世界各地で元々くすぶっていた火種達が、ここ最近になって連携を取って波状的に山火事を起こそうとしている。そんな印象です」

 黒い軍服の少女は宝石みたいな瞳で僕と姉さんの顔を交互に見て、

「他に我々で感知しているものとしては、中米でカルテルとアステカ秘儀とが結びついた『太陽の供物』、西欧でブローカーと森の魔女が融合した『魔女のダンス』などもありますが、まあこれは正直どうでも良い。クイーン級のお耳に入れるまでもなく、脅威が表面化するより先にこちらで芽を摘んでおきました」

 ……言葉の端々がおっかないな。

 ヤンキーみたいな理屈で動いてないと良いけど。

「では、問題なのは何なんです?」

「イエス。……問題なのは、我々東欧一三氏族の話にございます」

 空気が。

 わずかに固まったような、そんな気がした。

「弟君のお耳に入れても?」

「……その質問は、単語を口にする前に行うべきでしたね。サトリ君はキーワード一つあれば地球を二周半くらい検索してしまいますから、ここで気絶させても意味はありません」

「それは失礼を」

 平べったい帽子を片手で外し、最初からそういうつもりだったってくらい滑らかにフライは頭を下げていた。

「では弟君。東欧一三氏族はその名の通り、東ヨーロッパを中心とした吸血鬼達のコミュニティとなります。形態としてはカブンを参考にしておりまして。主な活動は、名簿作成と貴族生活のサポートでしょうか」

「うん?」

 何だそりゃ。名簿に、貴族?

 吸血鬼の組織なんて言うから、世界征服でも掲げているもんだと思っていたけど。

 フライ=ヴィリアスはくすりと笑って、

「いずれも大事な事ですよ? 我々吸血鬼は常に人間の血を必要としますが、致死量まで吸い尽くさなければ相手を死なせて吸血鬼に変じる心配はありません。しかし一方で、本人はちびちび吸っているつもりでも、複数の吸血鬼が同じ人間に『被り』をかましてしまったら衰弱死させてしまう事になりますし」

「あ」

「なので、一度吸った方のお名前を記録して、被りで二度三度と手を出さないよう取り決める必要があるのです。我々だって人間が必要である以上は、地球を覆い尽くすような無秩序なパンデミックは望んでいませんからね。そして、名簿を作成するからには人の社会とも無縁ではいられません。別に貴族の社交界である必要はないのですが、仕組みを作った頃は二四時間明かりの点いたコンビニやファミレスで溢れる現代とは都合が違いましたからね。当時は本当に、街が眠りに就くのは早かった。吸血鬼の活動時間に重なる所と言えば、貴族の夜会と相場が決まっていたのです」

 銀髪の軍服少女は中身のすっかり変わり果てたグラスを軽く揺らしながら、

「我々吸血鬼は優雅な貴族生活を送る事で、他の不死者とは一線を画した存在に繰り上げされております。これもまた、必要な振る舞いだったのです」

 ……うーん、言われてみれば姉さんって何で金髪縦ロールなのか分かんなかったけど。確かにまあ、同じ西洋系でも森や洞窟に住んでる人狼とかトロルとかとは雰囲気は違う、か。

「とはいえ当然満たされた生活にはお金がかかりますし、時代や地域によって様式も異なります。様々な物資を獲得し作法を学ぶため、無害な人間達との窓口を設けなくてはならない。付かず離れず、適度な距離を保つのがなかなか難しいものでして。……ああ、確か獣の肉を使おうと言い出したのはクイーン級でしたか」

「お肉? 何それ?」

「今のように自動車や冷蔵庫が普及する以前は、都市部において鮮度の良い食材は軒並み贅沢品だったのですよ。専門の市場でも、燻製や塩漬けなどの保存処理をしないものは食中毒との賭けだと言われるほどに。そして我々は吸血鬼、獣や魚の鮮度を保つために行われる『血抜き』の分野においては人間などとは比較にならない、究極のエキスパートにございます。これは我々吸血鬼にとって己のテリトリーの中で調達管理できる良い商材でした。やはり贅沢には勝てないのか、我々はここを起点に貴族の社交界へ半ば公然と出入りする機会を得たほどですからね」

 ……ていうか、あれ?

 さっきの貴族の夜会なんて古めかしい言葉といい、

「その話がほんとだと、姉さんの実際の歳って……?」

「げふん! 女子高生です間違いないです」

 姉さんから素早い訂正が入った。

 初めて会った時、アユミの方はもっと小さかった気もするけど。どこかで成長が止まるんだろうか。

 こちらも年齢不詳な軍服少女は柔和に微笑みながら、

「不自然に長持ちする食材を前にして、人望を奪われた錬金術師などから悪魔の技だと難癖をつけられた時は困りましたがね。血抜きは単なる技術ですが、何しろこちらが不死者であるのは事実なので、素性を隠したままかわすのに苦労させられたものです」

 ともあれ、と小柄なフライは区切ってから、

「東欧一三氏族とは、不肖このわたくしやクイーン級を含む一三の意志により、人の名簿を作って効率良く血を吸う組織全体の舵取りを行っているものだとお考えください」

「へえ。吸血鬼の組織って言うけど、結局名前の通り一三人しかいないのか」

「ええ、最小単位では」

「?」

「一三人一組で東欧一三氏族。……ですが実際にはこの枠組みが思いのほかたくさんありまして。魔道書の作者がみんな揃って同じ名前を使いたがるのと一緒で、年表のあちこちにチラチラ見える字面だけ追い駆けていると瞬間移動や時間旅行でもしているように思われるかもしれませんね」

 本当に過去そんな勘違いでもされたのか、華奢なフライはくすくすと微笑みながら、

「半招待制によって浅く繋がる班と班は、最低限の名簿の共有と、互いの貴族生活を常に評価しています。身を美しく飾るには外部からの目を意識するのが一番の薬ですが、おっかない人間に囲まれながらの晴れ舞台でチグハグな失態を演じる訳にもいきませんからね。化かし合いの夜会へ出かける前に、どうしても安全な演習相手が必要だったのです」

「ややこしくならないのか、それ……?」

「逆に言うと、この仕組みで雁字搦めにされたおかげで強化ガラスと鉄筋コンクリートの高層ビルが立ち並ぶ現代でも、未だに貴族風の吸血鬼が多い訳でもあるのですが。さて、我々が最古参から最先端のどこに位置する東欧一三氏族かはさておきまして。所詮は決まった拠点を持たずいくつもの国を渡って隠遁する秘密組織、人員の大型化など望めません。我々は人の生き血は求めますが、無秩序な吸血鬼の増産までは考えておりませんしね。そのための名簿作成で、貴族生活です。残念ながら、あまり数が増えても抱えきれず、集団の質が変わるものなのですよ」

「常に目の届く範囲だと、やっぱり一つ一つのお団子は仲良しグループくらいが一番動きやすい、か」

「しかり。それに、今いる全員が強大な感染源であるのをお忘れなく。一度の掃討作戦で一網打尽にされない程度に距離を開けて互いを見守っていれば、人間達の大部隊を牽制する事はできますよ」

 小さな鼻から息を吐いて語るフライだけど、真紅のコルセットで大きな胸を持ち上げている姉さんがここで言葉を挟んできた。

「……訂正を。私はすでに席を離れていたはずです。あなた達が後生大事にしている名簿にも頼っていませんし」

「生憎と、永久欠番の殿堂入りにございます。クイーン級とは美と力を極めた広告塔、全ての東欧一三氏族にとっても重要な価値ある存在です。その座に他の誰かが腰掛ける予定は永劫ございませんし、わたくしも許しません。ええ、何人たりとも」

 最後の念押しだけが静かに、そして強かった。

「その」

 いまいち会話に乗って良いのか分からないんだけど、黙っているのもそれはそれで疲れる。

「東欧一三氏族? 姉さんの古い知り合いみたいだけど、その人達がどうかしたの」

「まさに」

 パチンと黒い手袋に包まれた指まで鳴らしてぶかぶか軍服少女は言い切った。

「先も言った通り、東欧一三氏族と言っても最古参から最先端までありますが、誰でも自由に始められる訳ではないのです。一三人一組が最小単位ですが、新参者が自力でワンセットを作るにはすでにいる一三人一組のいずれかから承認をもらわなくてはならない半招待制を取っていますし。まあ、既存のメンバーに入れず、新しく作る事すら拒否された者は屈辱と感じるらしく、そのまま抗争状態に入る事がほとんどでしたが」

「えと、それが?」

「……それなり以上に強い結びつきがあると信じていたのですが、我ら一三の中からも例の潜伏クラウドに与していると思しき素振りを見せる者達が出てきたのです。他の東欧一三氏族ではなく、この東欧一三氏族で。疑心暗鬼の産物であればよろしかったのですが、そこまで楽観できる段階でもありません。本当に、『ヤツら』はどこにでもいるという事なのでしょうか」

 元々そうだったのか。

 あるいは何かのタイミングで感化されたのか。

 ……吸血鬼の力の源は『呪い』だって話もある。生活や埋葬での強烈なタブーを踏んだ者が、神に呪われて現世を彷徨うのだとか。つまり、エキドナやボコールみたいに、神様を敵視して具体的な行動に出るヤツが出てきても、まあおかしくはないのか。

「そいつらは、その、神様に反逆したい集まりなんだよな?」

「しかり」

 神様ってのがぴんとこないんだよな。なんていうか、実体の重みがなくてふわふわしてる。魂の重量を計測するため、躍起になって天秤と睨めっこしてる連中を遠巻きに見ているっていうか。まあ、みんながみんなヴァルキリー・カレンみたいなのだったら僕も潜伏クラウドに合流するかもしれんが。

「エキドナは子供を殺された恨みだった。ボコールは純粋に金。なら、東欧一三氏族の場合は? 何でまた古巣を荒らしてまで潜伏クラウドとやらに合流したがるんだ。人生全部ぶん投げて、反逆とやらに走る理由は?」

「さあ、そこまでは。裏切った当人に聞くより他ありませんな」

 ……まあ、そりゃそうなんだけどさ。

「ただ、吸血鬼は最初から神に守られる側の存在ではありません。アークエネミーとしての自己定義はそれぞれですから、行動派には理由などいらないかもしれません。できるのならばやらない理由は特にない、と」

 フライの口ぶりな投げやりだった。どこまでいっても憶測にしかならないからか、あるいは理由の如何に関わらず古巣の仲間達と衝突するのはもう確定だからか。

 姉さんはぴっちりした黒革のズボンに包まれた長い脚を組んだまま、

「比率は?」

 敵は一人か二人か。それだって十分怖い。何しろ列車で撥ね飛ばしてもピンピンしていたブードゥーの怪物を、ものの何十秒かで完全に無力化した銀の蝿と同じテーブルに着いていたような連中らしいんだから。

 だけど、答えはそんなもんじゃなかった。

 華奢な体を黒い軍服で包んだ少女は舌先で己の唇を舐めていた。慎重に、言葉を選ぶように彼女は言葉を並べていく。

「プリペイドの携帯やセカンドアドレスを多用するため個人名までは分かりませんが、電波の発信位置や時間帯など生活リズムを見る限りコソコソと背中を丸めて仲間の目を盗み、潜伏クラウドとコンタクトを取る人数の推測はできます。この国ほどあちこち電波が飛び交っている訳ではありませんからね。もちろんそういう風に装って数を誤魔化している可能性もありますが」

「早く」

「イエス」

 今度の今度こそ。

 フライ=ヴィリアスはこう返したんだ。

「……クイーン級を除いた一二人の内、こちらで押さえた推定数は四対八。すでにダブルスコアで劣勢にございます」

「なっ」

 さしもの姉さんも思わずソファから腰を浮かせていた。

 喉が干上がったのは僕だって同じだ。ダブルスコア。制御不能の吸血鬼が八人も。とっくに状況はフライの手を離れているじゃないか。いつ世界的なアウトブレイクが起きるか分かったものじゃないぞ!?

「だからこそ、クイーン級へ相談に参った次第でございます」

「相談って……姉さんがそっちについたって五対八、覆らないじゃないか!?」

「ええ。基本的に東欧一三氏族は話し合いで組織の舵取りをしますが、採決に不服があれば即座に物理的な抗争状態に入ります。ただまあ、数の差が開いていると結局力業も通じないので、やはり採決の意味は重大です。例えば、一二対一の決定がひっくり返る事はまずないですね。つまり、非常にまずい状況です」

 フライはもはや殴り合い前提だ。説得で何とかなるなんて甘い事は考えていない。

 そして抑え込めなければ潜伏クラウド派のやりたい放題だ。大が小を押し流す。フライ達にケリをつけるため、いつこの街でパンデミックが起きるか……。

「ところが、あなたの場合はそうとも言い切れません。でしょう、クイーン級?」

「……、」

 姉さんの顔つきが、音もなく変わっていく。さっきよりもなお苦々しいものへと。

「ねえ、さん?」

「クイーン級。弟君の不安を払拭するため、彼にご説明しても?」

 黒い軍服の少女に念押しされ、エリカ姉さんはゆっくりと息を吐いた。それから重く頷く。

「弟君。我々はそもそも吸血鬼なのですよ。数の差は確かに大きいですが、しかし一方で致命的な問題にまではならないと思いませんか?」

「それってどういう……」

 ……呟きかけて、心臓が細い釣り糸で縛り上げたような痛みを発した。

「まさか、こっちから『噛む』っていうのか!?」

「それもまた、選択肢の一つとして」

「……、」

 こいつの涼しい顔はどうやったらへこませられるっていうんだ。

「わたくしは生き血をわざわざ腐敗させてからその芳醇な香りに酔いしれる銀の蝿。手前味噌ではありますが、吸血鬼としてはまあ変わり種と言えるでしょう」

 フライは柔らかい調子で笑い、しかし鋭い牙を大きく露出した。

「一方で、わたくしが弟君に噛み付いて生き血を吸い尽くしたところで、銀の蝿を継承する確率は恐ろしく低いはずです。おそらく普通の吸血鬼となるでしょうね。弟君、常日頃からクイーン級と寝食を共にするあなた様に不躾な質問をいたしますが、我々吸血鬼の力の源とは何でしょう?」

「呪い」

 質問も何も、さっきそういう話をしていたじゃないか。

「ご名答。我々は出自、生活、死因、埋葬……人生のどこかでタブーを踏む事で神に呪われた不浄の輩か、あるいは呪いの源泉に襲われた者になります。つまり被害者は『悪しき者に血を吸われて命を落とした』というメジャーなタブーに反応して神の呪いが直撃するのであって、誰に吸われたかはあまり関係がないのです」

「……普通の吸血鬼っていうのがもうズレているんだけど。姉さん達を遠ざけるつもりはないが、アウトブレイクで街中が埋め尽くされるなんて流石に見過ごせないぞ」

「これは絶対やらないという前提あっての言葉遊びですが。パンデミックは見た目だけなら派手ではありますが、吸血鬼同士の戦いでは戦局を打開する手にはなりにくいですよ。片方がアウトブレイクを起こせばもう片方もアウトブレイクで対抗するしかなくなる。ただし初期感染源の数には差が開いたままなので、生産性が覆える事はありません。つまり事前察知されていた場合は四対八が四万対八万になるだけですので、負け戦の比率は変わらないのです」

 ところが、と銀のショートヘアは一拍置いてから、

「クイーン級だけは、少々勝手が違うのです。よほど特殊な呪いを身に宿しておられるのか、なんと言いますか……カリカンザロスやヴァルコラキなど、一律平均とは呼べない突然変異の発生率が我々の中でも格段に高いのです。血を吸うだけなのに、血を吸うのとは別枠の呪いが降り注ぐ。それこそ天津エリカ当人にも予測不能なレベルで、ですな」

「……つまり、『吸血される』っていうメジャーな、言い換えればありふれたタブー以外の……姉さんやフライと同ランクの『使える』神の呪いを抱えた吸血鬼が出てくるまで延々繰り返すって?」

 言われてみれば、シミュレータの中でも姉さんはウピオルだか何だか、昼間に動いたり鐘を鳴らして人を殺したり、なんていうイレギュラーな吸血鬼を生み出していた。普通に太陽の光が苦手なオリジナルの天津エリカにはない特徴だ。

 でも、

「結局そんなの運任せじゃないか!」

「しかり」

「何百人、何千人、それ以上か? シミュレータの中での姉妹ゲンカの時だって、街一つ血の海にして何人イレギュラーが出てきた? 人の大事な一生をトレカの大人買いみたいな弾幕として使い倒す気か!」

「ですが、クイーン級は過去にも戦局の要として数えられた事があるのですよ。早めに仲間に引き入れなくては弩級の番狂わせに苦しめられると判断されてね」

 ……本当に?

 正攻法を無視した秘密兵器一発逆転なんてロジックもメソッドもフローチャートもない、ただのちゃぶ台返しじゃないか。つまり冷静なように見えてもフライだって焦りがあるはず。伝説にすがっているんだ。もちろん、姉さんにそんな真似はさせられない。思わずポケットの中のスマホを強く意識する。

 返答次第ではここで状況が大きく動く。

 あの銀の蝿を相手に。

「それに、そこまで大きく舵を切る必要はございませんよ」

 しかしソファに身を沈めるフライの小さな体は弛緩したままだった。

「……実際にアウトブレイクを起こす必要はございません。クイーン級は、動かなくて良い。むしろ無言を貫いた方が高い心理効果が見込めるでしょうし」

「?」

「彼女がこちらに着けば、それだけで我々はブラックボックス化するのです。対する潜伏クラウド派からすれば、敵は何人いて、どんな特性を持つ吸血鬼なのか、それが分からなくなる。四対八の図式は過去のものとなり、彼らは一から情報収集をやり直さなくてはなりません」

「あ、そうか」

「今は『確実に』時間を稼げるという担保があれば問題ありません。わざわざある力を、使おうとしない環境を整える。彼らが藪を恐れて足踏みしている間であれば、四対一で囲んでの各個撃破も十分に手が届きましょう。というより、底が見えてしまっては台無しなのです」

 ……一理はある。

 ただし、だ。フライ=ヴィリアスは最後の最後までブラフを貫けるのか? 潜伏クラウド派が焦りも恐怖も感じなければ、数にものを言わせた包囲殲滅戦になる。その時、姉さんにも人間を噛めって迫る事は本当にないのか?

「……そんなに潜伏クラウド派はビビるものなのか? 何だかんだでダブルスコアだろ」

「だからこそ、にございますよ。組織を裏切る者は基本的にリスクを抱えます。ダブルスコアだから安心、というのも大きな協力条件として機能しているでしょう。優勢だからこそ、椅子取りゲームから一人だけ弾かれたくはないはずです。ここに、余計な躊躇いが生まれるのです。誰だって最初の一人にはなりたくない、と」

 姉さんはようやく元のソファに腰を落ち着けた。黒革のズボンに覆われたお尻の辺りでレザーの擦れる特有の音が響く。そしてエリカ姉さんは腕を組んで大きな胸を乗っけながら息を吐いた。

「しかし、潜伏クラウド派も同じ古巣の者達です。私の性質は理解しているはずでは?」

「ええ。彼らからしても、クイーン級を『取る』事でより盤石に、万に一つの敗北条件を除こうとするでしょう」

 小柄なフライ=ヴィリアスは確かに言った。

「ダブルスコアは厳しいですが、まだ確定はしていない。その上で最も恐ろしいのが、数で表せず全てをブラックボックスへ投げ込むクイーン級の存在です。事の重要性はお分かりいただけたでしょうか」


     3


 何だか大変な事になってきた。

「ふぐうー……」

 真夜中。ベランダに出て風に当たろうとしたら先客がいた。長い黒髪をツインクロワッサンならぬツインバターロールにした妹のアユミだ。

「頭こんがらがってきたよあたしは」

「ゾンビはそれくらいで良いんだよ。頭脳労働似合わないし」

 ふぐう! とアユミはこんな軽口にも劇的に反応してくれる。

 小さい頃は一日の半分は地球のスイッチが切れているものかと思っていたけど、自意識だけが育ってエンジニアもどきを気取るようになってからは、夜はそんなに遠い存在じゃなくなった。繁華街に繰り出すのとは別に、部屋の中での作業であれば昼より馴染みが深いかもしれない。

 僕は機械をいじくる事で夜を克服したかったのかな。アークエネミーみたいな『力』が欲しいって。

「アブソリュートノアを台無しにしたエキドナやブラックマーケットをまとめるボコール、そのレベルの組織を繋ぎ合わせた反逆の潜伏クラウド。……これもカラミティが近づいているって事なのかね」

 カラミティは方舟で提唱されていた終末論で、ある一線を境に人類全体のモラルが劇的に低下し、事件、暴動、戦争などが同時多発的に発生、収拾がつけられなくなる事態を指す。言ってみれば悪意のパンデミック。何が直接のトリガーになるかは未知数だけど、『邪霊』のように深刻なモラルハザードが表面化した時は危ないって話だった。

 そして今はもう、そのアブソリュートノアも機能していない。

 天津サトリ個人としては嬉しい事でもあるんだけど、さて人類みんなからしたらどうなのか。洪水の危機そのものは近づいているのに。

「今度はその潜伏クラウドに、お姉ちゃんの古巣が侵食されつつあるって話でしょ」

「うん、東欧一三氏族だったかな。正直、誰が何だかは教えてもらえなかったけど、それで良かったような……。一つの塊だけで姉さんみたいなのが他に一二人もいて、姉さんを奪うために仲間同士でいがみ合っているなんて悪夢だよ。詳しく知ったら多分倒れる」

「これまでの流れぶった切ってお姉ちゃん取った方が勝ちとか、勝利の女神みたいだよね。ふぐう。やっぱりお姉ちゃん、なんかいちいちキレイなイメージが付き纏うな」

 その姉さんはこんな日でもいそいそと夜間部の学校に向かっていた。いや、極限モラルハザードと戦うには、今日は特別な日だから何をしても良いっていう誘惑に戦うところから始めなくちゃならないのか。

 例の銀の蝿がどこに行ったかは不明。

 そういえば、ヴァルキリーのカレンもか。軍服少女のインパクトに持ってかれてた。

 ……ここから見える夜の景色の中に、どれくらいアークエネミーがいるんだろう。そしてどんな数の思惑がひしめいているのやら。もちろん物騒なのは一部であって、魔女の井東ヘレンやダークエルフの村松ユキエなんかからすればいい迷惑なんだろうけど。

「大変な事になってきたね」

「うん」

 それは素直に認めた。

 そもそも僕達だけであのボコールを倒し、暗い地下を乗り越えたとは言い難い。あそこでフライが立ち寄ってくれなければ、僕は自分の妹さえ守れなかったかもしれない。委員長救出なんてもってのほか。ミイラ取りがミイラに、を地で進んでいた可能性が極めて高い。

 しかも銀の蝿が持ち込み、エリカ姉さんが巻き込まれつつある事件は『邪霊』を明らかに上回っている。こっちはまだレベル上げができていないのに、次のフィールド新たなダンジョンに放り込まれる。騙し騙しでやり過ごす。そんなやり方が通用せず、ド派手にコースアウトするのはもう目に見えている。

 覚悟を決めるべきかもしれない。

 肉を切らせて骨を断つ。実力が及ばなければ足りない差を埋め合わせるため、そういう話になってくる。自分のどこを差し出して、他人の何を守るか。漫然とその時を待ってるだけじゃダメだ。すでについていけていないのは分かっていて、これからさらにヤバい事になるのは目に見えているんだから。

 災害と一緒。

 フライ=ヴィリアスが持ち込んだのは恐怖の予言じゃない。あらかじめ嵐が来る事が分かっただけでも僥倖なんだ。価値ある情報。こいつを活かせるかどうかで未来は変わる。ただ震えてきつく両目を閉じたり、ありえないを連呼して意識から締め出すなんてのはもってのほかだ。

 少なくとも、暗い暗い地下の底で本物のオカルト相手に何もできず、自分の妹が叩き潰される瞬間をただ眺めるなんてのは真っ平だぞ。

 次はフライに頼らない。

 あんなミスは、もうしない。

「……、」

 ぱちっ、と柔らかい光が横合いから瞬いたのはその時だった。

 お隣さん。今まで息吹のなかった部屋が、再び時間を取り戻した証拠だった。

 たったそれだけで、分厚い岩盤で生き埋めにされたような重苦しい空気が吹き散らされる。

 ベランダの手すりに体を預けていたアユミも優しく目を細めて、

「けどまあ、間違った事はやってない、か」

「そうだな」

 義母さんや姉さんが具体的に何をどうしたのかは知らないけど、そういう事だ。小麦の人形に入っていた委員長の魂は、無事に元の肉体へと戻った。

 一〇〇回人生をやり直したって、一〇〇回委員長を助けに行くだけだ。なら、『邪霊』とかち合って東欧一三氏族まで絡んでしまった事に悔いるべきじゃない。

 巻き込まれた上でどう乗り越えるか。ここに焦点を合わせよう。

 頭の回転数が整うと、体の方がようやく肌寒さを思い出してきた。僕は自分の肩を抱いて、

「じゃあアユミ、僕はこの辺で。お前も風邪引くなよ」

「ふぐ」

 イエスかノーか、いまいちどんな意図の返事なんだか分からない妹の声を耳にしながら、僕は先に部屋へ戻った。

 直後の出来事であった。


「ふいー、カレンちゃん帰宅でありまーす。あー今日はほんとにしんどかった……」


 ……またか。

 人様のベッドに脚組んで腰掛けて良い匂いを振り撒いてるこの人には前触れってもんがないのか!? ついさっきまで僕達はベランダにいたんだぞ、まさか玄関から入って家の中を鎧とミニスカートで堂々と歩き回った訳じゃあるまいし、それ以外のどこから侵入してきたんだ? ベランダとは別枠の、委員長の家に面した窓とでも!?

「神はいつでも神出鬼没なのです」

「どっちかっていうと鬼の方だろアンタは」

「でもってそんなに不思議ですかね。カレンちゃんがあなたに頼るの。だって問題はサトリさんの得意なネットとかクラウドとかの話になってきたのに」

「……やっぱりそういう事か」

「エキドナや『邪霊』は末端、いくらでも生えてくるヒュドラの首の一つに過ぎなかった。カレンちゃんの狙いは潜伏クラウドそのものを根絶し、全世界レベルのカラミティ発生を阻止する事にあります。であるからして、事前にサトリさんへ恩を売っておいて、コンピュータに強い手駒を確保しておきたい。そう思っていたんですけどねえ。たはは、結局どこぞの吸血鬼に美味しいところを持ってかれちゃいました」

 ……実際問題、だ。

 あの地下トンネルで駆けつけてきてくれたのが銀の蝿じゃなくてヴァルキリーだったら、僕はどうしていただろう? 憎い憎いと口先では言いながら、妹や委員長を助けてもらった恩を忘れられなくなっていたんじゃないだろうか。

「アンタこれからどうするんだ?」

「どうしましょうかね。サトリさんは戦う気概や意義を保てています?」

「……、」

 委員長の件は片付いた。

 本来だったら背伸びの無理がたたって大火傷する前にさっさと引っ込んでしまいたいところだけど、潜伏クラウドに侵食されて仲間同士でいがみ合っている東欧一三氏族(の一つ?)とやらは、どっちともエリカ姉さんの身柄を狙っているって話なんだよな……。

 ……だとすると、ちくしょう。

「手早く片付けよう。ただし僕が関わるのは東欧一三氏族から潜伏クラウドの影響を取り除いて正常化するまでだ」

「結構。にっひっひ、正直に言うと僥倖でした。こっちにはもう武力の提供くらいしか交渉カードがない状態でしたからね」

 カレンは屈託のありすぎる笑みを浮かべた後に、

「ではお互いの意思を確認したところで、早速本題に入りましょう」

「?」

「やーだなー。東欧一三氏族なんてふわっとした単語じゃなくて、具体的にどこに住んでる誰を攻撃すべきか、個別に標的設定する必要があるでしょう?」

「……最初から撃破前提か。爆撃機みたいなヤツだな」

「えと、むしろヴァルキリーを何だと思ってんです? 私達は基本的に戦争屋ですよ」

 しかし、まあ。

 やっぱりそこからか。フライはプリペイド携帯やセカンドアドレスのせいで、人数は分かるけど正確な氏名までは分からないって言っていたな。東欧一三氏族がどんな風に連帯感を保ってきたかは分からないけど、テレパシーで会話しているんじゃなければコミニュティを支えるメールリンクなりグループ登録なりが必ずある。その辺りを調べて構成員のリストを作り、誰が潜伏クラウドに侵食されているかを割り出す必要がある。

 軍服少女フライ=ヴィリアスの話だと、四対八ですでにダブルスコアのどん詰まりなんて事を言っていたけど。

「もちろんまずはフライからですよね?」

「アンタも知ってたのか。まあ、見覚えのあるメンバーはあいつだけだからな。姉さんはもう抜けてるみたいな話をしていたし、まずはフライの交友関係を洗ってそこから人物リストを……」

「のんのん、そんな話ではなく」

 と、カレンがいきなり順当な流れをぶった切る。ベッドに腰掛ける女神はこう切り出してきたんだ。


「そもそもフライ=ヴィリアスはどっちについているんでしょうね?」


     4


 ……それは。

 確かに、可能性としてはゼロじゃない、四対八ならロシアンルーレットとしても分が悪い、そういえば本人の口からもはっきり所属を聞いた訳じゃあ、けど、でも、だって……。

「ありえない」

「どうしてです?」

「だって、銀の蝿が潜伏クラウド側だとしたら、姉さんが狙われている事を教えてくれる理由がない! 四対八なんて正直に数字を明かす必要だって!! こっそり暗躍していきなり姉さんの寝首をかけば済む話じゃないか!?」

「フライ=ヴィリアス自身、クイーン級を除く一二の頂点の動向は把握しきれておらず、誰が一番乗りでコンタクトを取るか分からない状況だとしたら? 下手に嘘をついて怪しまれるより、不利な情報でも正直に話して信頼を勝ち得た方が安全確実じゃありませんか?」

「っ、でも、そうだ、『邪霊』の件は? フライが潜伏クラウドの一員ならボコールは同じ組織の仲間のはずだろ!?」

「正しくはいくつかの独立した組織を結びつける潜伏クラウド、ですよ。団子状に固まったメンバーでなければさほど愛着もないのでは? 大体サトリさん、あなたは私が言った事をもうお忘れなんですか」

「な、ん?」

「私がどうしてサトリさんのために戦おうとしたか。『邪霊』から委員長ちゃんの魂を取り戻す手伝いをしたかったか。……過去にどれだけ対立していようが有益な実績を積めば信頼してもらえるからに決まっているじゃないですかー」

「……ッ!?」

「最後に美味しいトコをフライに取られたんで結果はご覧の通りですけどね。ねえサトリさん、あなたはどうしてほぼ初対面の吸血鬼を身内として懐に引き入れて、絶対に敵じゃないと擁護しているんです? その出会いのインパクトに、演出された作為は感じないんですか?」

 ……言われてみれば、まるでコントに出てくるような安いナンパのテクだ。若い女の子にガラの悪い兄ちゃんをぶつけてから、優男が颯爽と助け出して信頼を勝ち取る。でも、外から改めて指摘されないと術中にはまっている事さえ気づかない……。

 フライは何だかんだでボコールや佐川アケミを殺さずに救っている。僕の心証を悪くする事はない。

 フライはそう言ってなかったか!?

「何しろ相手はクイーン級ですし、この手の『水面下で勢力を広げる、カルト的な恐怖』のやり口はそれこそ骨身に染みているはずじゃないですか?」

 カルト。

 ああカルト!

 戸口に立って家人に立ち入りの許可を求める吸血鬼は訪問勧誘の暗喩だって、僕自身頭にあったはずじゃないか! どうしてそこで『僕だけは大丈夫』に陥ったんだ、僕の馬鹿!!

 こっ、言葉が、もはや言葉が出ないッ!!

「あああ、あうあうう、まーっ!!」

「ははは大丈夫ですよ、詐欺に遭った人の反応なんて大抵そんなもんです。あなたはノーマルなのでさっさと立ち直ってくださいね」

「あーっ! あーっ! ああーっっっ!!」

 もう枕に顔を押し付けてベッドでジタバタしたいくらいの恥なのに、その枕はカレンの形の良いお尻に踏んづけられて形を変えていた。おかげで現実逃避もままならない。

 震える声で訴えるしかなかった。

「……どっ、どうすれば良いっていうんだよう」

「そうですねえ。ここで新妻カレンちゃんがカラダを使って慰めると愛憎泥沼結婚詐欺コースまっしぐらなんですけど☆」

「まーっっっ!!」

「騙されるのが嫌なら自分で頭を動かし、流される事なく主体的に動きましょう。まずカブンをベースにした東欧一三氏族。正確にはその一つ。秘密結社の色合いが強いのでなかなか情報は集まりませんが、こちらでは供饗市入りした者の内、三人ほど素性を掴んでいます。フライも入れれば四人ですね」

「……その全員が潜伏クラウド側なら、早速半分埋まるっぽいけど」

「残念ながら、誰がどっちかまでは。フライについてはほぼ確として構いませんけど」

「ほぼ、ねえ。具体的な証拠は?」

「あっはは、サトリさんも本気で言ってないでしょ。私たちは裁判で争うつもりはありません。実戦はターン制で敵がきっちり待っててくれる訳じゃないですよ。先手先手でひたすら先を取っていかないとジリ貧になります」

 となると、だ。

「現状分かっている三人をクリーンな姉さんや真っ黒なフライとぶつけて、反応を見て決めるっていうのが一番揺さぶりやすいかな」

「イエス」

「その上で並行して、顔の見えるメンバーに接触してくる人物をチェック。芋づる式に他のメンバー枠も埋まってくれれば、全体像が見えてくる」

 ……ただし、だ。

 素性を掴んだからといって、そこで終わりじゃない。何しろ相手は吸血鬼なんだ。単純な腕力はもちろん、魂の簒奪、噛み付きによって吸血鬼が増殖する恐れだってある。シミュレータによると致死量相当まで血を吸わないといけないらしいから噛み傷一つのゾンビほど爆発的に伝染が広がる訳じゃなさそうけど、油断はできない。いきなり街中でアウトブレイクが起きるのは流石にまずいだろう。

 この辺り、ヴァルキリー頼みの力業だけで大丈夫か? 四対八のダブルスコア、潜伏クラウド派が一気に決めるつもりで同時多発的に汚染が広げていったらカレンだけじゃ対処できなくなるかもしれない。フライはほぼないって言ってたけど、もはやあいつの言葉も信用できなくなってきたし。

 街の人々を手駒にした、大軍勢入り乱れてのパンデミックになる前にケリをつける必要がありそうだ。

 ……でも。

 言うのは簡単だけど、具体的にどうやって? シミュレータの中じゃあ姉さんとアユミが大暴れしただけで街が壊滅したのに、今度は一二人だの一三人目だの! こんなの全部管理しながら先手先手で封殺しまくるなんてできるのか!?

「まっ、マクスウェル!」

『ええっ、スリープ解除なんですかめんどくさい(p_-)zzz』

「ちょっと相手しなかったからってすねるなよ無駄に高性能だな! それよりお前の力がいる。頼むから知恵を貸してくれ!」

『シュア、最初から素直にシステムを頼れば良かったのです(・ω・)ノ』

「……そして意外と単純構造だったな。お父さんちょっと心配だ」

 僕は呆れたように息を吐いて、

「東欧一三氏族っていう吸血鬼のコミュニティに供饗市が食い荒らされるのを阻止したい。こっちには正確な素性や居場所、潜伏クラウドに与しているか否かなどの情報が足りない。でもって時間もない。どうすれば良いと思う?」

『まったく前提条件の入力もなくシミュレーションを実行しろとは常軌を逸したコマンドですが、東欧一三氏族は身内で掴み合っていて、四対八で劣勢に立つ正統派からすればエリカ嬢が最後のチャンスなんでしたよね』

「ああ」

『なら、吸血鬼達の実力はどうあれ、トドメを刺したい側も逆転したい側もエリカ嬢の機嫌を損ねる事はできない。それを逆手に取ればよろしいのでは?』

「具体的に」

『ユーザー様はチャネリングができる訳ではないので、黙っていても正解は出ません。まず反応を見ましょう。双方にとってエリカ嬢が絶対無視できない存在なら、連絡の意味も変わりますよ』

 ……反応を見る。

 ……連絡の意味。

 ……無視のできない存在。

「なるほど。でも一人一人に送りつける暇はないぞ。顔も名前も分からないメンバーも多いんだ、ピンポイントで住所の特定はできない」

『なら、アドレスの必要ないサービスを使えばよろしいのでは?』

「ふむ」

 ちょっと考え、それから僕は顔を上げた。そういえば、こういうのに滅法強い怪物がいたっけか。

「カレン」

「ほいほい何でしょ」

「……アンタにも知恵を借りたい。デスゲームのルールに穴がないか、デバッグを頼む。プロの目で徹底的に洗い出してほしいんだ」


     5


 明け方近くまで粘ってエリカ姉さんが夜間学校から帰ってくるのを待って、早速相談してみた。

 使うのは動画配信サイト。

 姉さんは超絶グラマラスなくせにこれと認めた知り合い以外にはその美貌を見せつけたくない人なので、割とこの辺苦労した。流石は進路希望調査票に真顔で素敵なお嫁さんと書いてしまう人だ、多分そこらの日本人よりヤマトがナデシコしてる。

 でもって最終的には、姉さんの部屋で勉強机にカメラを向け、彼女の手元だけ映して手紙の便箋を一枚一枚机の上に送り出してもらう事にした。……これだと確かに素顔は隠れるんだけど、何だか逆にいかがわしい動画チャットみたいに見えなくもないのは絶対内緒だ。今この可愛い姉さんにほっぺた膨らませてむくれられちゃうのは困る。

 当然、天津エリカの肉声付きで、

『親愛なる同胞へ。同じテーブルから一時席を外したクイーン級から招待状をお贈りいたします』

 それはおそらく、世界に配信してもほとんど全ての人にとって理解のできない動画。

『きたる明日、午前〇時。多目的ビル・スターライト供饗の最上階特別会議室において、クイーン級はその意思を決定いたします。つきましては正統派と潜伏クラウド、二つに分かれた皆様には誠意を示していただきたい』

 だけど、分かる人には分かる。

 その柔らかくも冷たい声、カメラへわずかに映り込む黒い手袋に包まれた指先、真紅のコルセットで強調された大きな胸元、縦ロールの長い金髪、何だったら机の木目や壁紙だって立派なヒントだ。フライの反応を見るに、東欧一三氏族側はあの衣装に馴染みがあるようだし。この街に潜む吸血鬼達は、自分の運命がかかっている。だから目を皿のようにして情報分析を急いでいるはずだった。

『パーティ会場への侵入方法は各人の自由に任せます。どうか、私を、怒らせないよう。双方の内、この呼びかけに応じた人数が多い方に私は着きましょう。現状は四対八との事ですので、劣勢の正統派は一人二ポイントとして帳尻を合わせます。当然、誠意を測るための集会ですので、余計な小細工を弄すればその数だけ人数のカウントを減点。最終的なポイントが全てです』

 実戦をイベント化する。

 本物の命の奪い合いをデスゲームにする。

 ……これがシミュレータや『コロシアム』を企画立案したカレンの手を借りた僕の答えだった。

 今、東欧一三氏族は四対八。だけど姉さんの動向一つで全てが覆る。なら街のどこに何人潜んでいようが、どっちもメンバーの出し惜しみなんかできない。姉さんを確実に取るため、敵陣営に出し抜かれないよう、その全員を差し向けざるを得なくなる。

 こっちから宝探しなんてしなくて良い。向こうから一気に集まってくれる環境を整えれば。

 そして姉さんは誠意っていう曖昧な言葉を使った。これにより、適当な人間に噛み付いて替え玉を送りつけるとか、もしもに備えて近隣住人を吸血鬼の軍団にしておくとか、そういう壊滅的な小細工も封殺できる。

 本物のメンバー全員を、丸腰で一堂に集める。たとえ胡散臭いと思われても、レールから外れる事など許さない。見えない鎖で雁字搦めにしてやるんだ。

 ……とりあえず、これで街全体が無秩序に血の海へ沈む展開だけは避けられる。

 次の問題は、一ヶ所に集めた二桁台の怪物達にどう対処するかだ。とりあえずみんな集まったけど誰が潜伏クラウドに汚染されているかは分からない、とかだとまずい。こっちのチャンスも一度きりだ。敵味方の区別なく、いったん一網打尽にしなくちゃならなくなるかもしれない。

 つまり、どちらが正しいかは関係ない。姉さんを除く一二人全員と戦って制圧する必要が。

 締めくくるように、天津エリカはこう告げた。

『では皆様。誠意と真心を胸に、奮ってご参加くださいませ』


     6


 しかし動画配信に対する反応速度は僕達の予想をはるかに上回っていた。

 というか配信から一五分も経たない内に義母さんの天津ユリナにバレた。

 ……ああっもう! 姉さんの声や筆跡、自室の机の木目や壁紙なんかに見覚えがあるのはカブンがああだこうだ馬鹿げた枠組みに収まった東欧一三氏族だけじゃない。同じ家族だってそうじゃないか!! ばかばか、僕の大馬鹿野郎ッ!!

「ふぐうー……」

「サトリ。アユミのクセを真似しないの、お兄ちゃんでしょう」

 日々の朝食準備よりもなお早い、午前五時半。もう捕まっちゃった僕は一人リビングの床で正座の刑でござった。

 ……いやね、エリカ姉さんは僕が拝み倒して巻き込んだんだし朝日が昇る前に棺桶に入らなくちゃならないんだから分かるよ? でもいくらスマホをこっそり親指で操作してもマクスウェルは応答しないし、そもそもヴァルキリー・カレンはどうしたオイ! あいつ受動的な共犯じゃなくて僕より主犯のど真ん中だろお、どこ行っちゃったんだよう!?

 一方の仁王立ち義母さんは組んだ両腕の上におっぱい乗っけながら、

「……サトリ、何でお母さんが怒っているのか当ててみて」

「へ、えへへ一大イベントに交ぜてもらえず蚊帳の外だから年増のママンが無理して姉さんやアユミに対こuばぶあ!?」

 ソファにあったにゃんこクッションでぶたれた。カワイイものだって? 相手はガチの魔王だぞ、そして水だろうが豆腐だろうが超高速でぶん回せば立派な凶器になるんだよっ!!

 ぶっちゃけ横殴りの一発で首持っていかれるかと思った。

「自分が! 一人で! 背負い込める問題じゃないと分かってるなら最初から首を突っ込まない!! エリカに泣きついた時点で心の弱さが透けて見えるわサトリぃ!!」

「待って往復は待って!? ほぶっ、ほんとに取れちゃうからァ!!」

 そんなこんなで一通りメッチャクチャにされた後。

「……で、お母さんにできる事ある?」

 これなのだった。

 まったくスイッチの切り替えが上手いというか、こうなっちゃうとアメなのかムチなのか分かんなくなるような。

「ちなみに義母さん、アブソリュートノアって今どうなってるの?」

「エキドナが方舟の中身を引っかき回してくれたせいで空中分解寸前。ランサムウェアを物理的にやられたって感じかしら。当の本人は行方知れずだし、あれは一から造り直した方が早いかもね。……カラミティが律儀にそれまで待っていてくれるなら」

 義母さんはゆっくりと息を吐いて、

「内部はバラバラだし、元からあちこち恨まれていたのもあって外部からの闘争も多い。けど、逆に言えば大きなイベント一つで再結集の引き金になるかもしれないの。例えば、全ての元凶の潜伏クラウドを破壊してカラミティを阻止しよう、とかね」

「……、」

 ふむ。

 だとすると、

「ちょっと難しそうかな。あの東欧一三氏族を一ヶ所に呼び寄せる今回の計画って盛大なドッキリみたいなものだから、事前に察知されるのが一番怖い。アブソリュートノアみたいなビッグネームが、厳密な駒の数も分かんないまま盤上に出てくると先が読めなくなっちゃうよ」

「……私一人が前へ出る案も?」

「あちこちから恨まれているって自分で言ったろ。義母さんが護衛もなく一人で危険な裏街道を歩くなんて話が広まったら、それこそどんな外部勢力が首突っ込んでくるか予測不能に陥るってば。しばらくはパート主婦でいて」

 ふう、と天津ユリナはえらく色っぽいため息をついた。

 そのまま、柔らかそうな唇の隙間から声を洩らす。

「自分が情けない……」

「この状況でまだ普通に学校生活できているだけで十分すごいんだけど。父さん新しい仕事どうなったんだっけ」

「自分の子供にそんな心配をさせている時点で、人の親としては大問題なの」

 ついに義母さんは細い人差し指で自分のこめかみをぐりぐりし始めてしまった。

「いい、サトリ。単なる感情論じゃなくてある程度論理的に勝算を考えているのなら、お母さんはそれを感情だけで掻き回すのはやめておく。私は少しでもあなた達の生還率を引き上げたいだけなんだから」

 ただし、と義母さんは腰を曲げてこっちへ顔を近づけると、こめかみぐりぐりの人差し指をこっちの鼻先に突きつけて、

「……サトリの手の届く距離には、全ての計算を破壊する極大のスイッチがあるのをお忘れなく。あなたの方法で値がマイナスに傾いた場合は、容赦なく介入するわよ。あなたの計算をどれだけ狂わせ、思い描いた結末から遠ざけようともね」

 冗談には聞こえない。何しろ相手は僕達家族と地球人口七〇億人を天秤に掛けて、少数を真顔で選択した人だ。

 こう言うしかなかった。

「最善を尽くすよ」

「誰だってそうよ」

 こちらについても即答。

 そして義母さんは、そっとこう付け足してきたんだ。

「……それでも世界はずっと間違えてきた。カラミティを招くまでね」


     7


 今夜〇時が本番だ。

 東欧一三氏族。ヤツらを呼びつけるまでにやっておくべき事は何か。

「カレンちゃんはいつでも準備オーケーですよ?」

 もはやどこから侵入したかなんて聞くのもヤボか。お昼休みに学校の屋上で、青い鎧にミニスカヴァルキリーはそんな風に言っていた。

 ……確かに、無数の吸血鬼に対して目下最大の戦力はこいつなんだけど。後輩で魔女の井東ヘレンとか人魚の黒山ヒノキなんかもいるんだけど、怪我なんか負わせられない。

 ただでさえ劣勢なんだ。ああいう子達は、泥沼の負け戦なんかに巻き込むべきじゃない。

 もし協力を求めるとしたら、絶対安全な線を引いて、そこからはみ出ない範囲をきっちり計算してからだ。

「言っておくが、一網打尽って言ってもあくまで無力化レベルだからな。みんな姉さんの知り合いなんだ、容疑者全員皆殺しなんて許さないぞ」

「どっちでも構わないからひとまず従いますよ。私の狙いは数ある東欧一三氏族の一つではなく、その先の潜伏クラウド全体ですからね」

「?」

「エキドナや『邪霊』と何が違うか分かりませんか?」

 カレンはどこか挑発的な、こちらを試そうとするイタズラ好きの瞳を向けながら、

「東欧一三氏族はですね、まだ染まりきる前なんですよ。潜伏クラウドからアプローチをかけている真っ最中。……つまり、これまでの『組織』とは違った情報が出てくるかもしれません」

「それって……」

「脱皮したてのカニみたいに柔らかいって事です。忠誠心も情報防御も徹底していないでしょうし、東欧一三氏族側だって半信半疑なら潜伏クラウド側の真意を知ろうとあの手この手で情報の開示を求めるはず。もしもそういった内部資料が破棄されずに残っていたら……」

 ……雲を掴むような話にも現実味を帯びてくる。潜伏クラウドを構成する全組織をリストアップして一網打尽にする。どっちみち簡単な事じゃないだろうけど、でも垂直の壁に取っ掛かりが一つできるかもしれない。

 わずかに想いを馳せ、しかし僕は首を横に振った。

「悪いけど、僕は遠大な計画より目の前の危機を優先させてもらう。あの東欧一三氏族を完全に止めなくちゃジ・エンドなのは確実なんだ。体力の温存なんてしていられない、未来によそ見している間に街が血の海に沈んじゃ元も子もない」

 かつて、アークエネミー同士の姉妹ゲンカの時にはエリカ姉さん一人でも災害環境シミュレータの中で街を壊滅できていた。パラメータは特にチートコードなどでいじくってはいない。つまりあそこで見た事は現実でもそのままできるって訳だ。あんなのを本物の供饗市で実現させる訳にはいかない。

「でも実際、どう仕掛けるんです? カレンちゃん任せだと生死問わずの殺戮戦になりますし、エリカ・アユミ姉妹も個体の力には限度があるでしょう。二桁単位の吸血鬼を殺さずに圧倒できるかはかなり謎ですよ?」

「分かってる」

「……何より、あれだけ『コロシアム』に噛み付いてついには世界一〇〇ヶ国以上に根を張る光十字を壊滅に追いやったサトリさんです。姉妹頼みで自分は何もしないなんて、そんな無責任な計画に大切な家族を巻き込んで安全地帯から傍観するとは思えませんけど」

「だからちゃんと分かってる!」

 まるで癇癪でも起こしたように、もう一度。何だか義母さんから宿題やったのかと繰り返し聞かれたような気分だった。さて、百戦錬磨の未亡人はどんな目でこっちを見ているのやら。

 半ば不貞腐れたように、コドモな僕は唇を尖らせてこう付け足した。

「……とはいえ僕はマンガの主人公じゃない。必要に迫られても秘められた力が解放する訳じゃないから、今ある手持ちでガチの吸血鬼とやり合うしかない。それも相手はダース単位だ」

「で、具体的には?」

「僕の得意分野は知ってるだろ。マクスウェル」

『まったくもう未亡人の女神様とのイチャイチャトークは終わりましたかこの節操なし、ふぁあ……_(:3」z)_』

「もう寝言は聞かないからな。そろそろ小細工開始だ。……ヤツら吸血鬼の世界を乗っ取ってやろう」


     8


 夜も更けた。

 約束の時間は近づいている。

 ……天気は晴れ、か。

 ストレートに雨が降っていた方がやりやすかったんだけど、まあ、ないものねだりをしたってどうにもならない。ここから始めよう。

 エリカ姉さんは例の一張羅、とっておきのゴスロリドレスに着替えて集合場所の多目的ビル・スターライト供饗へ向かっていたはずだ。東欧一三氏族を一堂に集めて一網打尽にしてから話を聞く計画だけど、当の姉さんが現場に出てこないんじゃ誰も集まらない。だからここだけはこちらも小細工はできないって訳だ。

 でもって、

「ふぐ」

「アユミ、気持ちは分かるがカレンに噛み付くのはナシだ」

「でもお兄ちゃん、こんな悪女は噛んで支配しちゃった方が世のため人のためだよ」

「お前は吸血鬼の姉さんと違ってゾンビなんだからコントロールできないだろ。いいやできたとしてもそういうのはナシだ」

 ふぐうー……、と必要以上にほっぺを膨らませるアユミはまさにご立腹って感じだったけど、何とか怒りを堪えてくれているようだった。

 そして火薬庫のカレンはと言えば、

「ではでは私達も手はずの通りに。大丈夫ですよーアユミちゃん、今回はサトリさんが描いた絵ですから、私の悪意は入り込む余地はありません」

「……むう。そういう話なら」

「つまり何が起きても私は責任取るつもりないですけどねー。全部ご破算になって尊い命が失われちゃった場合の苦情やご意見はみーんなサトリさんにお願いしまーす!!」

「……お兄ちゃんやっぱりこいつガブリとやっとこう」

「よせアユミお前が脱線させてる!」

 僕達だって一塊で移動する事はない。各々別れると、バラバラのルートで駅前の多目的ビルを目指す。

 所詮は一つの街の話なのでそんな大それた大冒険になるとは思えないけど、途中で襲われる可能性もゼロじゃない。ルールは説明してあるけど、みんながみんな一〇〇%確実に論理で動くとは限らないんだし。

 姉さんには僕から優勝商品として古巣の皆の前に立つよう頼んでいる。現場の奥深くに放り出したまま失敗しちゃいましたじゃ済まされない。僕が頼れるアークエネミー達の足を引っ張って到着前に一網打尽されてしまう、という展開だけは絶対に避けたい。

「マクスウェル、準備の方は?」

『シュア、一通りは。ただし敵性目標が未知数過ぎてリスクの具体的計算は不可能です』

 十中八九、九割九分。

 そんな確率をいくら並べたって、出会い頭の正面衝突や本当にどうしようもない強盗、通り魔、強姦なんかのリスクは完全なゼロにはできない。そしてこっちはどれだけ理不尽だろうが、一発もらえばジ・エンドなのだ。

「弟君」

「っ」

 暗い夜道でそっと呼び止められ、僕は思わず肩を小さく跳ね上げていた。

 銀のショートヘアに黒い軍服が特徴的な吸血鬼、フライ=ヴィリアス。

 そして確か、カレンの仮説だと本当の所属は……。

「な、に。なんだ、フライか?」

「いくらクイーン級が誠意を示せと釘を刺したとはいえ、無用心ですね。今、東欧一三氏族は正統派と潜伏クラウド派でいがみ合い、しかもこちらはダブルスコアで劣勢とご説明したはずなのに」

 気づいている事に気づかれてもろくな話にはならない、特に彼我の差が圧倒的な場合は。だから違和感が出ないように、ごくごく自然に振る舞うべき。

「ふふ。我々吸血鬼が大手を振って供饗市の夜を満喫できるというのも不思議な気分ですな。つい先日まで、ここは光十字の最重要拠点だったはずなのに。やはり有限たる人の世は儚い、という事でしょうか」

 ……そんな自分の考えが理想論に過ぎないって事をイヤってほど思い知らされる。顔が引きつる、自然に自然にって頭の中で唱えるたびに素の顔が何なのか分からなくなってくる。何しろ相手は華奢なようでも吸血鬼、平均して人間の筋力の二〇倍。倍がけされちゃってる時点でどうやったって勝てないのは証明されている。下手な建設重機以上の怪物と相対して、一体どんなポーカーフェイスを作れるっていうんだ。こんなのロードローラーに詰め寄られているようなものだぞ!

「弟君も催し物に?」

 もちろん今夜のアレの事だ。暗に、お前が企てたのかと聞いているようにも……いやいや邪推するな、悪い方に考えるな。吸血鬼達は姉さんからこう念押しされていたじゃないか、誠意を示せって。姉さんの身内を見つけたらボーナスポイント感覚で親切に接してくるのはさほど難しい考え方じゃない。そのはずだ。だよな!?

「う、うん。姉さんは一人で勝手に意思決定するとか言っているけど、やっぱり心配で」

「なるほど、弟君からすれば確かに。致し方ありませんな。不肖このわたくしめがお供いたしましょう」

 ……カレンの読み通り、もしも本当にフライが潜伏クラウド側だとすれば、実は向こうにとっても結構危ういシチュエーションなのか。フライの意志で人間の僕を倒すのは容易いけど、それでお手つきとなればエリカ姉さんに嫌われて大局を取り逃がす。一方で僕からパニックを起こして後先考えず銀の蝿に掴みかかった場合も、あまりにも力の差がありすぎて殺さずに事を収めるのが難しくなる。工業用のロボットアームで生卵をキャッチボールしようとするようなもの。だから僕の機嫌を損ねないよう常に持ち上げ、下手に出ながらコントロールを握ろうと努力している。

 弱さだって、条件次第では剣となる。

 決して盾にはならないって事だけ肝に銘じないと痛い目を見るから注意が必要だけど……自分の武器を把握した事で、懐への踏み込み方も分かってきた。

 大丈夫。

 鼓動はまだ早いけど、高いギアに入れたままなりに心臓も安定してきた。

「フライってさ」

「はい」

「どれくらい前から……何がきっかけで吸血鬼になったの?」

 駅前の多目的ビルまでの夜道を歩きながら、そんな風に声をかけた。

 ……おそらくあまり良い思い出じゃないと思う。分かっていて踏み込んだ。フライ=ヴィリアスからは僕に不信感を抱かれてはいけないから、突っぱねるのは難しい。向こうの心を逆上させない程度にざわつかせ、下手からのコントロールに支配されないよう気をつけたかった。

 平べったい帽子を被り直して目線を覆い……見ようによっては本心を隠そうとする素振りにも受け取れる様子で、銀の蝿はこう聞き返してきた。

「これは以前にもお聞きいたしましたが、弟君は吸血鬼の本質はどこにあると思われますか?」

「呪い」

「しかり、でございます」

 こちらの即答にも、小柄なフライは動じない。これも万に一つのお手つきが怖いからか、ろくに車も通らない深夜の交差点でしっかり歩行者信号が切り替わるのを待ちながら、隣に立つ軍服少女は続けてこう言った。

「そもそもの生まれ、日々の生活、特異な死因、そして埋葬の手順。一生の内どこかでタブーを冒すと、その人は神に呪われ吸血鬼へと変じます。こうなりたくなければ、ルールを守れとね」

「……って事は、フライは誰かに噛まれて吸血鬼になったんじゃなかったのか?」

「吸血行為もまた冒すべからずなタブーの『一番分かりやすい事例』に過ぎないのですがね。襲って吸う方はもちろん、進んで差し出す側も含めて。ただわたくしめの場合、弟君の仰る通り吸血とは異なるタブーを起点としております」

「?」

「先にご忠告申し上げますが、聞いて楽しい話ではありませんよ?」

 歩行者信号が青になり、僕達は安全な道を横断していく。所詮は仮初めで、たまたま通りかかった縁もゆかりもないドライバーがルール一つ破っただけで即死なんだけど。

「……わたくしの場合は『悪食』にございます。とにかく食べるものがない時代に生まれたのが運の尽きでして、似たような境遇の子供達と羽虫にまみれた食べ物ばかり奪い合って暮らしておりました。結局最期は死にもの狂いで手に入れた『ごちそう』に当たって命を落とした挙げ句、ろくに埋葬もされず屋外に打ち捨てられたので体の方も全身くまなくびっしりと、それこそ銀色の塊に見えるほど羽虫にたかられましたがね。犯罪めいた親の不義に基づく生まれ、生活様式のタブー、埋葬の手順不足、色々踏んづけてのスリーアウトでございます。世間的には因果応報、ごみ虫を食ってごみ虫に食われるのは当然の報いらしいですな、たはは」

「……、」

 思わず交差点のど真ん中で立ち止まりそうになった。

 想像以上だ。

 古典小説にあるような、あるいは姉さんが身に纏う、夜の貴族めいた優雅さとはまるで無縁だった。しかもこのエピソード、そもそもフライ自身に悪気はあったのか?

 吸血鬼やゾンビとの戦いなんていくら美化したところで被害者叩き、泣きっ面に蜂の側面は必ず付きまとうんだけど、それにしたって。まるでマッチ売りの少女のような後味の悪さが胸の真ん中にのしかかる。

 一方のフライはそれが当然でしかないんだろう、哀しいくらい気にせず先を歩いて十字路を渡りながら、

「東欧一三氏族は各々違った呪いを起点とする集団にございます。エリザベートのようなヒストリカルヴァンパイアの頂点から、生まれた時におかしな色の羊膜に包まれていたという理由だけで吸血鬼として呪われたクドラクのユーリまで、一つとして同じものはございません。我ながらおかしな話ではありますが、血を吸うタブーだけが吸血鬼の全てではないので、氏族と名乗りながらも必ずしも代替わりは必要ないのですよ。まあ、これは寿命を持たない者の弊害かもしれませんが」

 エリザベートに、ユーリ。

 出てきた名前だけはひとまず覚えておいた方が良さそうだ、と慌てて黒い軍服の小さな背中を追いながらそんな事を考える。

 もちろん全部嘘で、そんな人物はいない可能性もゼロとは言い切れないけど、一応は。

「悪食、美化、幼稚……。我々は己の中で各々の呪いを凝縮・超重力化させていきます。わたくし達はきっと、いつか大罪として真っ黒な華を咲かせる事になる、未だ聞き覚えのなき新たな咎の群れ。現状七角の頂点を最大で二〇にまで拡張しかねない、超新星爆発前の肥大しきった土くれなのでしょう」

 七つの大罪。

 嫉妬のリヴァイアサンに、怠惰のリリス。ああいう規格外を思い浮かべてしまう。だから天津ユリナは母で、天津エリカは娘の位置なんだろうか。そんな根拠のない妄想まで。

 駅前の繁華街へ近づくにつれ、道行く人の数は増え、夜空の星も消えていく。

 ぶかぶかの黒い軍服の上着に両足を包む合成繊維。銀のショートヘアの少女は片手で帽子を押さえ、そんな半端な夜空を見上げながらこう呟いた。

「全ての輝く星が元を正せば宇宙を漂うガスや塵屑の寄せ集めであるように、我々もまた生まれ落ちた以上は自らに意味を求めます。たとえそれが、デザインした側からすれば取るに足らない吹けば飛ぶような綿埃や砂粒に過ぎなかったとしても、です。以上が神の側から呪われた、全ての東欧一三氏族の骨子にございます」

 どうして古巣を荒らして元の仲間達と対立してまで潜伏クラウドとやらに合流し、神への反逆なんてふわふわした目的のために安定した生活を捨てられるのか。

 何となく。

 形のはっきりしない輪郭に、ほんの少しだけ芯が通ったような……そんな気がした。

 敵対者である可能性の高い人物から話を聞き出して安心を求めようとするのは滑稽かもしれない。いらない疑心暗鬼の種を植えつけられるリスクだってある。

 それでも人混みの中で、思わず尋ねていた。

「……じゃあ、姉さんも?」

「それは、クイーン級の口から直接お求めくださいませ。ルスブンの逸話を気取るつもりはございませんが、不肖このわたくし如きに開示の自由はございません。大丈夫、弟君であればいつか必ず相談を受ける日が来ますよ。わたくしの『悪食』をお聞きになられた時、思わずあのようなお顔を浮かべてしまわれたあなた様になら、絶対に」

 ……鏡はない。だから自分の表情なんて分からなかった。僕は命にかかわる交渉ごとの席でどんな間抜けな顔を浮かべていたんだろう?

 と、隣を歩くフライは口元に黒い手袋に包まれた掌を当てながらくすりと笑った。

「自明の理ではございませんか。弟君、あなた様はわたくしとの会話の最中ただの一度もご自慢のスマホにすがろうとしておりません。こっそりカンニングすれば、最適解の冷たい愛想を振りまく事もできたでしょうに」

「……、」

 そういえば、どうして?

 ポケットの中にとりあえずの答えは入っていたのに。

 フライは怪しい。それ以上に怖い。確かにそう思っているはずなのに、僕は心のどこかでこのアークエネミーと小細工抜きにぶつかりたかったんだろうか? マクスウェルを頼らなければ、いいや頼っても、僕なんてただの非力な高校生なのに。

「着きましたよ、弟君」

 いつか『悪食』を示す銀の蝿。フライ=ヴィリアスはそう告げて、立ち止まった。

 駅前にある高層ビルの一つ、スターライト供饗。たとえどこの誰から塵屑と呼ばれようがそれでも必死に輝こうと足掻く者達が集う、瞬く星の光を名に冠した一夜限りの大舞台。

「時間としても頃合いですな。クイーン級、そしてわたくしの盟友達が待っています」

「ああ」

 僕も見上げて、一言付け足した。

「ここからが本番だ」


     9


 スターライト供饗。

 駅前にある大きなビルなんだけど、正直に言って僕にはあんまり縁がない施設だった。多目的ビルというふわっとした名前からも分かる通り、デパートみたいにあらかじめ決まったお店が入っている訳じゃない。主として貸しオフィス、スタジオ、会議室、ギャラリー、イベント会場、舞台、トランクルームなどなど、『駅前一等地のスペースを日数単位でレンタルする』ハコモノだとか。何でもデジタル媒体で満足できる僕とは違って、エリカ姉さんは美術の個展の鑑賞に、何気にお嬢様学校で声楽を学ぶ妹のアユミはオペラやミュージカルを嗜みながらお昼寝したりでお世話になっているようだ。

 今は世界の熱帯魚展とか、沖縄の地域物産展なんかをやっていたかな。

「よっ……と」

 東西南北に自動ドアはあるけど、僕はそれとは別に地下駐車場スロープ前に立ち、スマホをカードリーダーにかざしてシャッターの電子ロックを解錠する。

 特殊鋼のバーを束ねた格子が上がっていくのを眺めながら、銀のショートヘアに黒い軍服の少女は感心したように呟いた。

「便利なものですな」

「僕の腕じゃない。結局みんなマクスウェル任せだよ」

『万能のフラスコを作った時点でパーフェクトだろうと問い詰めたい(´ω`)ンフー』

「さては僕を擁護しているふりして自画自賛を始めたな?」

 ここだけ防犯カメラの配線が抜けている、つまりお飾りなのは調べがついている。……防犯上の不備ってよりも、記録に残したくない人や物を出し入れするためにわざと穴を空けているって印象だけど。

 ……しかし、ここを使っているのは僕だけか。姉さんや東欧一三氏族、それにアユミやカレンはどこから押し入ったのやら。まあ規格外の連中ならビル壁をよじ登って屋上から侵入、なんて事も考えられるんだけど。何しろトランシルバニアの伯爵様も崖登りが得意だったくらいだし。

 深夜、イベント時間外なんてこんなものか。夜の病院みたいにほとんど光のない地下駐車場を歩いて横断していく。

 姉さんに指定してもらったのは最上階の会議室だ。ざっと三〇階ほど。なのでエレベーターのボタンを押してその場でしばし待つ。

「マクスウェル、姉さんにメッセージ。フライが到着したよって」

『シュア。フライ嬢の到着で全員集まるようです』

 柔らかい電子音と共に自動ドアが開くと、エレベーターの狭い箱だけは深夜のコンビニみたいに白々しかった。ただでさえ強烈な蛍光灯の光がアルミの内壁のせいで乱反射しているらしい。思わずちょっと目をやられる。

 銀の蝿と共に乗り込み、最上階のボタンを押す。ドアが閉まり、居心地の悪い浮遊感に包まれると、寄りかかるだけで台所のシンクにも似たベコベコ音が鳴る、奇妙な銀色の密室が出来上がった。

 ……さて。

「フライ」

「はい?」

 この時、どうして僕は小柄な吸血鬼の名前を呼んだんだろう? これからやる事を考えれば、万に一つも事前察知されちゃ困るはずだったのに。

 なのに、何故だか声を掛けていた。やっぱり僕は流されやすい。罠にかける側なのに、どこかにフェアな精神を求めていたんだろうか。


「すまない」


 ごごんっ!! とエレベーターが不自然に重たい音と共に止まり、次いで鬱陶しいほど眩い蛍光灯がまとめて消える。

 狭い檻の中、僕の手元にあるスマホのバックライトだけが全てだ。

「弟君、これは!?」

「もう分かっているはずだフライ、僕は姉さんをアンタ達の側に向かわせる訳にはいかない。潜伏クラウドはここで叩く、染まってしまったアンタも込みでだ」

「……、」

 暗闇の中で、宝石のような一対の輝きがぼんやりと浮かんだ気がした。フライ=ヴィリアス、いつか新たな大罪となる銀の蝿。ヤツが本領を発揮し、その複眼を露わにしたのかもしれない。姉さんと違って力に偏り過ぎたため、人間社会に溶け込む美的感覚とのバランスを損なうほどの超常を。

「弟君」

 とっさに取り繕わなかったのは、それだけ腐敗と汚染の主から敵として認めてもらえたって訳か?

「クイーン級に取り入るため、細心の注意を払います。ただしそれでも死亡された場合は恨みっこなしで」

「できるもんならやってみろ。マクスウェル!!」

 ドッ!! という重たい音が四方の壁から真っ暗な空間を押し潰すように侵食してくる。フライは気づいたか? 気づけよ、気づいてもらわなくちゃ意味がない。そもそも何でいきなりエレベーターが止まったのか、そのカラクリに想いを馳せろ!!

 風を切る音があった。

 金属バットを振るより重く、カミソリで裂くより鋭い音。黒い軍服の腕が迫り、僕の首を掴もうと伸びてきた音だと気づいたのは随分後の事だった。

 そしてそれでも構わない。

 次の瞬間、後頭部でもぶん殴られたように崩れ落ちたのは、僕じゃなくてフライの方だったんだ。

「な、ぁ?」

「力が出ないかフライ、そりゃあそうだよな。アンタには聞こえるはずだ、壁の向こうから。ザアザアっていう滝のような水の音が!」

「弟君、まさか……」

「吸血鬼は流水の上を渡れない」

 断言だ。

 ここではそれが一番大切だった。

「最上階には姉さんが指定した大会議室の他にもいくつかのスペースがある。沖縄フェアだとかでさ、面白い催し物があったよ。世界の熱帯魚展。そこで循環させている人工海水を誘導して、エレベーターシャフトを巨大な滝に作り変えた」

「くそッ、そこを突きます、かっ!?」

「トランシルバニアの伯爵様だって流水が関わると弱体化するから人に襲われたらひとたまりもないと船の上では脅えていたんだ。フライ、アンタが優れた吸血鬼であればあるほどこの問題からは逃げられない。アンタは今、人の僕より弱いところまで落ちている!」

 ぶぅ、ん!! という、耳元に電気バリカンを当てるような異音があった。いよいよ余裕がなくなってバランスが崩壊した。全身を丸々太った銀の蝿に分解してでも僕を襲うつもりか。

 でも遅い。

 そもそも何のためにエレベーターを利用したと思っている。

「僕に勝ったって意味はない。どんな隙間からも逃げられないぞ、フライ」

『ッ!?』

「ここは鋼鉄でできた巨大な虫かごだ。隙間はないし、仮に抜け出したって外は大きな滝になっている。鯉の滝登りじゃないんだ、弱ったハエの力で登り切るなんて到底できない。アンタは外に出ても、莫大な水に叩かれて人造洞窟湖と化した地下駐車場まで落とされるだけだ!」

 無数の羽が擦り合わされ、暗闇全体が人のものらしき合成音声を奏でていた。

『おと。うと、ぎみぃ……!?』

 アンタが本気を出せばペストでもコレラでもやりたい放題なんだろうな。

 でも。

 いいや、だから。

 そもそも全力なんか出す暇も与えない。

「さよなら、フライ。必要なら墓でも暴くのが人間だ。僕達の狡猾さは分かっていたはずだろう?」


 ぱたっ、と。


 そこまでだった。

 まるでスイッチを切ったようでもあった。スマホのバックライトの照り返しを受けて輝く銀の嵐が、その一匹一匹に至るまで、片っ端から飛ぶ力を失ってエレベーターの床へと落ちていく。一面足の踏み場もないくらい、銀色の絨毯で染め上げるように。

 ……吸血鬼とて弱点のあるアークエネミー、か。

 フライ自身が言っていた台詞だ。リリスやリヴァイアサンと比べると、やっぱり未完成な感は否めないか。

 僕はゆっくりと息を吐いて、ポケットに手を入れた。

「マクスウェル、図面を参考に、風景にマーカーを重ねてくれ。フライが目を覚ましても蝿の一匹出てこられないよう、ダクトテープで目張りする」

『シュア』

「最寄りの階まで動かして、僕が出たらエレベーターのカゴを封印。これでほんとに虫かごを完成させる」

 通風口などを塞いでからエレベーターを出る。ここは一四階か。そう、実はエレベーターは普通に動いていたんだ。さらに言えば、シャフト内に大量の水を誘導する事もない。

「……思ったよりも効いたな、これ」

 僕はスマホを手に呟いていた。

 吸血鬼は流水の上を渡れない。

 有名な話だけど、実は定義ははっきりしていない。とりあえず海や川はアウトなのは分かるけど、雨が降って路面が濡れた程度なら問題ないようだし、地図にない上下水道や地下水脈なんかを気にしている様子もない。奇麗好きの姉さんはいつも長風呂だけど、シャワーや湯船を怖がる素振りなんか見せないし。

 天然と人工の差?

 でも姉さんは以前、シミュレータの中でダム決壊に巻き込まれた時には水没都市のビルの屋上で孤立していた。つまりイエスノーの条件はそこでもない。

「認識だったんだな」

 僕はイマドキのスマホの小さなスピーカーに感謝しながら、自分が出てきたエレベーターの自動ドアのど真ん中に縦一直線、ダクトテープで外からトドメの目張りをしていく。もちろん電子的にも掌握し、よその階でボタンを押しても反応を返さないようにして。

「こんな勢いの水は渡れない、この物量には敵わない。まず第一に吸血鬼本人がそう線引きしてしまうのが重要だった。だから意識のしようがない、自分でもどこを走っているか知らない上下水道や地下水脈なんかに囚われる心配はなかったんだ。でも逆に言えば、バーチャルだろうが目の錯覚だろうが『そこにすごい勢いで流れる水がある』って心の底から思い込ませられれば、実際に水があるか否かはどうでも良かったんだ」

 世界一有名なトランシルバニアの伯爵様だって、船に乗って水面を流れる時は到着まで棺の中でひたすら眠り続けていた。つまり、自ら意識を落とす事で認識できる世界から流水を外そうとしていたんだ。

 だから、

『エレベーターの内壁はユーザー様が寄りかかれば音が鳴るほど柔らかいアルミ製でした。スマホのマイクロスピーカーから発する水音を起点にした共振作用による三次元音響化は正直大した精度ではありませんでしたが、映画館のように明かりを落とした事がフライの没入感に繋がったのでしょう。まして緊急停止中のエレベーター内は閉所、高所、暗所など複数の心理負荷がかかりますから、平素の判断基準がかき乱される可能性も高かったと言えます』

 全ては認識勝負。

 ここでは虚と実なんて関係ない。リアリティさえ与えられれば、いっそオーバーな味付けの方が幅を利かせるくらい。

 ありもしないバーチャルで乗り物酔いを誘発させるようなもの。

「フライを詰めた虫かごについては、エレベーターの緊急通話口のスピーカーから水音を垂れ流して弱体化を継続」

『シュア』

「手はず通りに、地下駐車場の消火栓に侵入。ポンプ内蔵だったよな、準備ができたら栓を開放」

 ……とはいえ、フライ=ヴィリアスとの遭遇自体は運任せだった。こんなのはスターライト供饗の図面とにらめっこして事前に頭に叩き込んでおいた罠がたまたまピタリとハマっただけ。あらかじめ用意しているストックが切れたり、一つでも思った通りに機能しなければ、単なる生身の人間はそこでジ・エンドだ。

「マクスウェル」

『シュア』

「さあ挑むぞ。ありもしないバーチャルの弾丸で、リアルで最強の吸血鬼どもへ」


     10


 さて問題。

 窓の開かない高層ビルの中にいる人間は、どうやって外の天気を確かめようとするだろう?

『大手三キャリアにおける緊急災害警報を掌握。大雨洪水警報を自動送信メールで伝達中』

 難しそうに聞こえるけど、仕組みは結構ざるだ。この辺は頻繁に誤報が起きている事からも分かるはず。わざわざガッチガチに硬い大手情報企業本社のメインサーバーに入らなくても、提携している各自治体の役場にあるボロいパソコンに侵入すれば市町村単位でアラートは放てる。

「フライは普通にGPS電波時計を使っていたしな。他にも吸血鬼が文明の利器に頼っていたら、これで『疑惑』を根付かせる事ができる。全員ケータイを持っていなくたって、一人の情報は口から口に広がっていくはずだ。それじゃあマクスウェル、屋上の方を何とかしよう」

『内圧に手を加えて貯水タンクを破裂させる事も可能ですが』

「そこまでは必要ない。大きな塊のまま重たい水を地上に叩きつけたくないしね。予定通り、屋上菜園のスプリンクラーの数値設定をいじくって、縁の外まで、そう辺り一面に人工雨を降らせろ。ビル風にあおられた水滴は逆にこっちの窓にぶつかってくるはずだ」

『シュア』

 びちびちびちびち! という横殴りの雨みたいな音が暗い通路に響くのが分かる。そっと窓辺に寄ってみると、たくさんの水滴のせいで夜景は歪んで見えた。

 それでも地上に目をやれば、見えてくるものもある。

「……井東さん達もやってくれたみたいだな」

 魔女の井東ヘレン、人魚の黒山ヒノキ、ダークエルフの村松ユキエ……。

 ちょっとした知り合いの女の子達には、傘を差して表に立ってもらうようお願いしてある。大きく開いた傘はかなり目立つ。窓から外を見て、横殴りの水滴と地上の傘があれば、誰だって不意打ちの雨を連想するはずだ。

『真っ黒な夜間とはいえ真上は快晴です。気象庁のデータベースにまでは踏み込めなかったので結構あらもありますが』

「現に目の前で起きているんだ、お月様が出ていたって天気雨扱いだよ。最近流行りの異常気象とかゲリラ豪雨とでも思ってくれるさ」

 事前に決めていたより傘の数が多くなってきた。多分、屋上から散布されるスプリンクラーを浴びて折り畳み傘を持った人達が反応したんだろう。

 路面も濡れて街灯の光を照り返しているし、あっちは問題なさそうだ。

「地下駐車場は?」

『予定通り、上りスロープ付近の消火の内蔵ポンプを稼働、坂を下らせる格好で大量の水を流し込んでいます。あの辺りは防犯カメラの配線を意図して外しているようですので、記録も残りません』

「消火栓で水浸しにした駐車場を別のカメラで撮影して保存。自動で開いてウェブ誘導するバナーウェアを装ってフェイク動画へ飛ばせ」

『シュア』

 あのフライが日の出や日の入りを気にしていくつも時計を常備していたように、吸血鬼達だって自分の弱点には敏感だ。向こうも向こうで国営民間問わず色んな気象予報士のサイトを巡回している頃だろう。サイトとサイトの間に何を挟んでも大して怪しまれない。そしてサイトそのものは健全でも、エグいバナーでモバイルは汚染できる。見た目は全く同じ作りの別サイトへ送り込む事だって。これで東欧一三氏族からは、表のゲリラ豪雨が流れ込んだ地下駐車場が水没して巨大な濁流と化したように見えるはずだ。

 ……吸血鬼は流水の上を渡れない。

 高さに対する制限はなかったはずだ。カラスやコウモリに化けて空を飛べば済むくらいなら、弱点とはみなされない。

 僕は僕で、エレベーターで最上階を目指す。

 目的の大会議室に向かうまでの間に、すでに二人ほど通路に崩れ落ちていた。あちこち狼のような毛皮で覆われた少女、水兵服に分厚いコートの老人。元がどれだけ恐ろしい伝説を持つ強敵だろうが知った事か。こっちはそもそも負けると分かっている勝負なんか挑まない。とりあえず後ろ手にして両手首と、そうだな、二つの足首にもダクトテープを巻いていく。

 こっちは誰がどこにいて、どんな能力や特徴を持っているかなんて確かめない。東欧一三氏族、絡まった糸を一つ一つほどいていたら、その間に街全体でどれだけ被害が広がるか分からないんだから。

 やるなら一つのアクション、一つのミッションで一網打尽だ。当然、相手の反撃なんて許さない。

 何の罪もない、劣勢の中でも真正面からやってきてくれた正統派の四人には申し訳ないけど。

「姉さん!」

「あら」

 両開きの大きな扉を開けて踏み込むと、煌々と輝く蛍光灯の下で、前の大きく開いたロングスカートとぴっちりした黒革のズボンを組み合わせたゴスロリドレスを纏うエリカ姉さんが立っていた。長い机がズレていたり椅子が倒れたり、大部屋には多少暴れ回ったような痕跡はあるけど、真紅のコルセットで大きな胸を持ち上げている姉さんには、特に怪我とかはなさそうだ。

 他に、辺りに倒れているのは、一人、二人、三人、四人……。

「四人だけ? さっきの通路に二人、フライはエレベーター……じゃあまだ五人も残っているのか!?」

 一人いればアウトブレイクは可能だ。

 四対八って話だったけど誰がどっちの勢力かは分からないので、パンデミックを避けるため、ひとまず全員制圧するしかないんだ。

 僕がダクトテープの束を一つ姉さんに放り投げると、黒い手袋に包まれた両手でお上品に受け取った天津エリカも息を吐いて、

「一度に大罪の芽をこれだけ叩けただけでもハンター達の間で新しい異名が流れるくらいの偉業なんですけどね」

「何の意味があるんだそれ。一人でも撃ち漏らしたら手に負えなくなるっ、ああいう血の海はシミュレータだけで十分だ!」

 そのまま大会議室の外、光のないフロア通路へとんぼ帰り。

 ……僕達にとって一番の懸念は、仕留め損なった連中が勢い余ってビルの外へ出てしまう可能性だ。ゲリラ豪雨も地下水没も全部嘘だとバレたら、吸血鬼達が勝手に練り上げた自家生産のプラシーボ効果も消えてしまう。地上や屋上はもちろん、連中なら窓をぶち抜いて大空へ飛び出す選択肢もあるはずだ。何しろその気になればコウモリやカラスに化けられるんだから。後ろ手にダクトテープだって、弱り切って変化(へんげ)の余裕もない程度の連中にしか効果はない。

 何度も言ってるけど、今から一人一人の能力や特徴を推理して正攻法の殴り合いを挑んでいたらしっちゃかめっちゃかになる。ここで、この夜で、一度に全部片付けないとどんな報復が待っているか読めなくなるんだ。そんな展開は絶対に許さない。

「マクスウェル、心の動きを追い駆けよう。吸血鬼達は水没を信じたままとにかくここから逃げようとするか、疑って仕掛けを見破ろうとするか、どっちだと思う!?」

『今抵抗している輩は、吸血鬼は流水の上を渡れないという条件に個人差がある事には気づきつつあるはずです。一律なら大会議室で全員同時に倒れていなければおかしいので。だとすると頭の片隅では違和感を覚えつつも、術中から逃れられない、という可能性が高いです。眠りたいのに眠れない的な』

「決定的な証拠を掴んで疑惑を払拭したい、か」

 僕達からすれば、吸血鬼達に見られちゃ困るのは二つ。屋上菜園で頑張ってるスプリンクラーと、消火栓で水浸しにしただけの地下駐車場だ。

 さらにここは大会議室のある最上階エリア。地べたと屋上、単純にどちらが近い?

 そして極め付けだ。吸血鬼からすれば、万が一本当に地下が水没していた場合、ドアノブに触れた瞬間速攻で濁流に飲まれる。自分達が大嫌いな流水そのものに。屋上なら本物でも横殴りの雨に打たれる程度で済む。となれば、どちらを確かめに行くかは自明の理か。

 ……ここまで条件を並べてまだ地下を選ぶヤツがいるとしたら、逆に感心する。

「マクスウェル、ひとまず屋上を目指すぞ。図面から非常階段を検索」

『シュア。ルートを画面上の風景に重ねます』

 バックライトを頼りにそっちへ向かってみると、階段に向かう途中でいきなりビルの内壁がぶち抜かれた。通路に巨大な塊が転がり出てくるけどこいつ、

「アユミ!?」

「ふぐうー!!」

 何とも元気で間の抜けた声が返ってきたが、何だこりゃ。事前に張った罠の一つが効いたのかもしれない。中身を詰め替えておいた消火器から真っ黒なタールを浴びたのか、ドロドロに汚れたまま下に組み敷かれた子供大の怪物がもがいている。

 ニンニクやタールは強烈な匂いがダメなんだ。確か、玄関のドアにタールで十字架を描いておくと吸血鬼が寄り付かないって伝説があったはず。

 ともあれ、

「ようし一丁上がり! 今の見てたお兄ちゃん!?」

「……流水にタール、弱点二つも突かれてへろへろになってた子供大の吸血鬼が一丁やられる前に割と生々しい連打を浴びていた辺りからは」

「ふぐう、ユダの仔っていうらしいよ。滅法硬いからこれでもタヌキ寝入りじゃないか心配なくらい」

 ダクトテープで手足を縛りながらそんな風に言い合う。

 アユミはトイレの方を指差して、

「あっちにもう一人詰め込んである。ブリコラカスだっけ、私とおんなじくらいのヤツ。確かめてく?」

「そっち女子トイレだろ、アユミが絡むと女の子の部分が生々しくなるから見たくない。となるとあと三人か」

 屋上へ向かう階段を見上げると、誰かがこちらを見ながら両手を挙げていた。見た目だけなら物腰の柔らかいおばあちゃんに見える。老教師って言葉が似合いそうな感じ。

 ……さて、実際にはどうだ?

 吸血鬼が無尽蔵に増えても困るんだ。だからしっかりお膳立ては済ませているつもりだった。今この多目的ビルの中にまともな人間なんているのかな。

 ヤツは言った。

「投降します……」

「アユミ、警戒」

 露骨に言っても老婆は態度を変えない。逆に完璧過ぎるとも受け取れるが?

「私の願いはクイーン級の御身を御守りする事。あなた方にはどちらが正統派でどちらが潜伏クラウド派かは判断がつきますまい。ならばここは私がどちらだろうが捕まえてしまえばよろしい。全員仕留めれば、ひとまず脅威は取り除かれます」

「……、」

 破格だ。

 でも逆に、そう提案されてもしばらく動けなかった。善意を信じられない自分にうんざりする。ただただ沈黙だけが続いた。

 吸血鬼の怖さはシミュレータの中や廃病院で味わってきた。エリカ姉さんが人間の二〇倍、アユミが一〇倍の筋力を持つ。つまり数の暴力も使えず、こういう真正面の対峙になると決して油断はできないって事。当然、いざ取っ組み合いになれば僕なんか頭数にも入らなくなる。

 まずアユミが一歩階段へ。

 後に続く僕はスマホを横に倒し、常に二人とも同じ画面に入るよう気をつけながら踏み出していく。

 じり。

 ……じり、と……。

 胃に悪い重圧を伴った沈黙だけが続く。たった数メートル、一〇段チョイの階段が登山のようだ。それでも一歩一歩、集中を途切れさせないよう気をつけながら階段を上っていく。

 アユミの手が。

 ついに、老婆の肩に触れる、

「っ!!」

 その瞬間、妹は一切容赦をしなかった。掴んだ肩と肘を支点にして、うつ伏せに引き倒すような格好で吸血鬼を床に組み伏せる。

 後ろ手にダクトテープで縛り上げられても、老教師は苦痛の声も上げなかった。首を横倒しにして、無理な姿勢を作ってでも僕達の目を見据えようとする。

 真摯しかなかった。

「……どうか、どうか。女王を、お頼み申します……」

「ここでじっとしてろ」

 短く言って、僕とアユミは階段の先にあった屋上への鉄扉に目線を投げた。

 直後だった。

 ゴッッッ!! という凄まじい爆音と共に、分厚い鋼のドアが風船みたいに膨らんだ。いや、蝶番が千切れて吹っ飛んできたんだ。

 どうにもできなかった。

 僕とアユミの間を巨大な手裏剣やギロチンのように突っ切った鉄扉は、そのままコンクリートの壁に突き刺さる。

 何かが、屋上で起きた。

 今のはその余波に過ぎない。何となくそれが肌で理解できた。

『警告』

 見れば分かる文章を投げ込んでくるマクスウェル。

 ごくりと喉を鳴らし、改めて僕達は屋上に踏み出していく。

 その先で待っていたのは……。


     11


 空気は重苦しかった。

 きっと屋上菜園特有の黒土やスプリンクラーの水気が作り出す匂いや湿気のせいだけじゃない。本来だったら人の五感で受け止められない、いいやただの物理世界にあっちゃならない。そんな波形だの粒子だので満たされていたのかもしれない。

 真夜中の闇。

 元来だったら吸血鬼が支配すべきその色彩を汚すのは、黄金。

 あの槍や盾は、ひょっとしたら永遠に失われる事のない太陽の輝きを象徴しているのかもしれない。

「おっとサトリさん。そっちは何人ゲットしました?」

 まるでスマホ片手に街中でモンスターを探し回っているかのような、気軽な調子だった。

 ヴァルキリー・カレン。

 神の罰を五体で表わす蒼き戦乙女。

 だばだばと太い音が続いていた。等間隔で垂直に立ち並ぶ金属製のパイプ、つまりゴルフ場なんかにありそうなスプリンクラーが何本かへし折れていたんだ。そしてその先。まるで飛行機事故みたいにいくつもの柱を薙ぎ倒し、黒土を一直線に抉り取って、その終点に何かが転がっていた。

 横倒しに、体を丸めるような格好で顔やお腹を守っているのは……人に近い何か、か。

 格好だけなら、赤みの強い金髪をショートヘアにした女の子に見える。

 元が何だったのかは分からない。東欧一三氏族。わざわざ自分からそう名乗って姉さんやフライと同じテーブルに着いていたのなら、それなり以上の伝説を保有し矜持や尊厳だって抱えていた事だろう。

 だけど、小さくうずくまって顔やお腹を庇い、許しを求めるように震える手をこちらへかざすその姿には、かつて纏っていたであろう威容なんて欠片もなかった。

 引きずり降ろされた王様。

 スプリンクラーに洗い流されつつある地面の上で何かが輝いていた。人の犬歯にしてはやけに長く鋭いモノ。

 牙、か。

 いくら再生するといっても、それを他人の手で折られる行為は、吸血鬼にとってどんな意味を持つんだろう。

 ……相手がどこの誰で、正統派か潜伏クラウド派かも判断がつかない。ひょっとしたら純粋に姉さんの身を案じて駆けつけただけだったかもしれないのに。

 今は一刻も早く潜伏クラウド派を見つけ出して、東欧一三氏族を正常に戻そう。

 振り切るように口を開いた。

「一人はエレベーターに閉じ込めた、廊下に二人、大会議室では四人倒れていて、アユミが二人、そこの階段でもう一人捕らえている。カレン、アンタの方は……」

「とりあえず一番『秘密』に近いのからスクランブルで対応しました。この屋上、吸血鬼側から見られちゃ困るんでしたよね?」

「ふぐ?」

 と、腐敗を加速させるのを避けるためか、スプリンクラーだらけで水浸しな屋上には出てこないまま、扉の辺りでアユミが首を傾げていた。

「……でも待って、それだと数が合わなくない? 一、二、四、一、二、一。で、お姉ちゃんは除外。ふぐっ、やっぱりそうだよ一二人しかいない! 残る一人を取りこぼしてる!?」

 何しろ三〇階以上ある高層ビルだ。どこの死角に潜り込んでいたって不思議じゃない。ましてネズミやコウモリに化ける可能性まで考えたら、通路や部屋を全部調べたって見つからないかもしれない。

「……ただ、逃げてどうする?」

「どゆことです?」

「四対八のダブルスコアで対立する正統派と潜伏クラウド派はどっちも姉さんを自分の戦力に組み込みたいはずなんだ。それは、たとえ裏切られたってパラメータが変わる話じゃない。何の手柄もなく逃げ帰っても、敵方に姉さんを奪われたら最悪だ。その先には巻き返しのできないジリ貧コースに追い込まれる未来しかないんだから」

「つまり、逃げるにしても行きがけの駄賃を掠め取ろうとするって事ですか」

「再起を図るためにも『力』はいるだろうしな。だとすると……」

 ……意外と近くにいるかもしれない。

 僕達の視界の中にも入っているけど、気づかなかっただけかもしれない。

 考え、そしてスマホに囁いた。

「マクスウェル」

『シュア』

「基本の基本に立ち返ろう。大会議室で姉さんと会った時の映像あるか?」

 四角く切り取られた過去の記録に目を通す。重要なのはエリカ姉さんじゃない。周りでバタバタ倒れている他の吸血鬼達でもない。ああ、やっぱり。ダクトテープのロールを黒い手袋に包まれた両手でお上品に受け取る、前の大きく開いたロングスカートとぴっちりした黒革のズボンを組み合わせたような、戦闘用? 厚手の生地のゴスロリドレスを纏う姉さんの背後。外の真っ黒な闇と中の蛍光灯の板挟みになっている、分厚い強化ガラスの窓。

「油断してた……」

「ふぐ?」

「一人だけ無事だったのは、姉さんはあらかじめ計画を知っていたから騙されないって思ってた。でも違ったんだな」

 こんっ、と僕は画面の一点を指先でつついた。

 姉さんの背後。光の関係で鏡のように像を反射する窓ガラスを。

「吸血鬼は鏡に映らない」

「あっ、でもこれって!」

「映像の中では姉さんが映り込んでいる。どういう理屈かは知らないけど、答えは一つだ。……この東欧一三氏族の中には、吸血鬼以外の誰かが混じっていた。そいつが姉さんのふりをしていたんだ。だから普通に鏡に映っているし、屋上のスプリンクラーや地上の傘を使ったゲリラ豪雨の陽動作戦の中でもピンピンしていた」

 そして当然、こんな疑問が湧いてくる。

「なら本物の姉さんはどこに行った?」

「……、」

「こいつは姉さんをどこへ連れ去ったんだ、くそ!!」