第五章



     1


 姉さんが消えた。

 不測の事態が発生している。

 とにかくこっちには時間がない。一分一秒も無駄にできない以上はやるべき事を簡潔にまとめないと。

「カレン、東欧一三氏族は任せた! 誰が正統派で誰が潜伏クラウド派かは正直興味がない。そっちで好きにふるいへかけてくれ!」

「あいさー」

「殺すなよ、拷問みたいなのもやめてくれ」

「従う理由は特にないんですが、約束を破ったとしてサトリさんに何ができるんです?」

「がっかりする。ああ神様なんて偉そうにしてても所詮こんなものなんだなあって」

「……何気に聞き捨てならない台詞ですね。まあ良いでしょう、今回の一網打尽はそちらのセッティングによるところが大きいですし。因果や秩序を重んじる神は貸し借りにはうるさいのです」

「アユミ、ついてこい!」

「ふっふぐ?」

 戸惑うアユミを連れて屋上から再び高層ビルの屋内へ。ひとまず大会議室まで戻ってみるけど、やっぱり。辺りには四人の吸血鬼が倒れているだけだった。姉さんは、いやそういう姿形に化けていた誰かはもういない。

「マクスウェル、部屋の中を撮影するぞ。次のヒントに繋がりそうな痕跡を検索」

『獣の体毛のようなものがチラホラと散見されています。風景に重ねてピックアップ』

 ……確かに。

 うーん、これは犬の毛か何かだろうか。うちでペットを飼っている訳じゃないからそんなに詳しくはないけど、ネコ系なイメージじゃない。もっとこう、ごわごわしている。

『吸血鬼と近似のアークエネミーですと、魔女ストリオーナ、人狼ワーウルフ、夢魔モロイなどが挙げられます』

「例の体毛は? あのごわごわした感じは人の髪じゃなさそうだけど」

『であれば人狼で決まりかと。夜間のみの活動、人間社会への浸透、襲われた死者も同種のアークエネミーになる、銀の弾丸の有効性などの共通項が見受けられますし、東欧では人狼は死んでも吸血鬼に変じるだけという俗信もあるほどです。互いの伝説が混同しても不思議ではありません』

「ふぐう。その線で押すとするとそいつ東欧一三氏族っていうか、吸血鬼社会の行く末なんてどうでも良いよね? だってそもそも吸血鬼じゃないんだから。となるとやっぱり潜伏クラウドに侵食されていたクチなのかなあ」

「……、」

 僕はもう一度だけ、四人もの吸血鬼達が転がっている大会議室を見回してから、

「マクスウェル、とりあえず外で傘を開いてもらっている井東ヘレンや黒山ヒノキ達にメールで連絡」

『目撃情報を募るのですか?』

「馬鹿、その逆だ。状況が変わったから巻き込む訳にはいかない。他人のふりしてさっさと帰ってくれって頼んでくれ。ああ、最短コースじゃなくて、わざと回り道して尾行の有無を確認するのも忘れないようにな」

『……あのうー。シュアと応じてはおきますが、ひょっとして逆に乙女心を釣り上げようとしてんですかこのすっとこどっこい(・Д・)』

 何でだよ。

 不意打ちとはいえあの姉さんを昏倒させて連れ去るような輩が表を自由に闊歩しているかもしれないんだぞ。あんな子達を矢面になんか立たせられるか。

「有象無象は問わない。マクスウェル、ネット全体から人狼に関するデータを全検索。どういうアークエネミーか知りたい」

『十中八九、映画の批評、RPGの攻略、またはパーティゲーム関連のサイトに行き着くと思われますが』

「甘いなマクスウェル、人狼は知名度の高いメジャーなアークエネミーだ。まずはヒットしたお堅い大学や研究機関をリスト化して、さらに教授クラスの個人名の発言や専門サイトに的を絞るんだ。しょうもない事を真面目に調べている人を捜せば良いのさ」

『機械相手にもったいぶらんと最初から的確にコマンドを入力してくださいと小一時間。いちいち合間合間に変な演出挟まなくても独力でこのシステムを構築したユーザー様は偉大ですよ(´ω`)ヤレヤレ』

「……お前は口ゲンカに負けた管理者がその場で崩れ落ちてマジ泣きする瞬間を特等席で見たいのか……?」

『まあエンターキーを力強くターンと押さなければ気が済まないユーザー様の過剰演技を見るのは初めてではないので今さら驚くに値しませんが』

「警告挟んだのに構わず追い討ちとは優等生だなマクスウェル!!」

『ともかく実行です』

 こういう時、クロウラーで必要な知識を片っ端から網羅するばかりか、有益無益を自己判断して優先度順に並べて表示してくれるマクスウェルはとことん頼もしい。

 ……さて、と。

「何となく人狼が果物ナイフなら吸血鬼は十徳ナイフってイメージだけど、実際どうなっているのやら」

「ふぐ。少なくとも、人と狼の間だけを行ったり来たりって感じだよね。コウモリ、狼、ネズミ、カラス、蝿、害獣なら何でも化けられるって印象じゃない」

 そう、人狼が姉さんに一撃入れてビルから連れ去ったとすると、屋上や途中階から飛び立ったってイメージはない。だから僕達も足取りを追い駆けるため、自然と地上を目指していた。

 (もちろんフライを閉じ込めてるのとは別の)エレベーターの中で、妹と二人で一つのスマホを覗き込む。

『根幹にある恐怖にフォーカスを合わせてみると、人狼は昼の街と夜の街で人が変わる隣人の恐ろしさであるのに対し、吸血鬼は知らぬ間に同調者を増殖させるカルト的リスクを表すようです。共に人口密集地の水面下に潜むとはいえ、そういう意味では別物ですね。さらに吸血鬼はルスブンやトランシルバニアの伯爵などを経て優雅な夜の貴族のイメージを獲得していく事で、人狼とは決定的に差別化されていったようで。フライ=ヴィリアスの言が正しければ、今日のエリカ嬢ら吸血鬼はある程度意図して他のアークエネミーから差別化を図ろうとしていたようですが』

「あれだけバリエーションがあるって事は、絶対数なら吸血鬼の方が上なんだろ。だとすると口裂け女の伝説だな」

「ふぐ?」

「今じゃすっかり手垢のついた口裂け女だけど、最初はシンプルな小話だったんだ。一〇〇メートルを三秒で走るとか、口が裂けているのは整形手術の失敗のせいだとか、べっこう飴やポマードで撃退できるとか、そんなのは全部後付けだったんだよ」

『人狼に襲われた死者は人狼になるという話もありますが、吸血鬼やゾンビほどの大軍勢になる様子はなさそうです。代わりに日光を浴びてもダメージは受けません。精々、アークエネミーとしての特殊な筋力が封じられる程度のものでしょう』

「つまり個人での潜伏には優れているけど、カリスマとして集団を支配できる訳じゃない。増殖についてはそこまで心配しなくても良さそうだ。姉さんっていう最大の切り札を手に入れた人狼だって、何でもできるなんて事はない。ヤツは今、大荷物を抱えたままいつ追撃がやってくるか気が気でないはずだ。暗闇の中で膝を抱えて、孤独に震えながら」

「ふぐう。それだとお姉ちゃんを抱えたまま、さっさと街を離れちゃおうとするかもしれないよ」

「……さてどうだろう。もはや東欧一三氏族なんていう一個の集団として動く事もできない人狼は、そこまでスマートに即決できるかな。何しろヤツは、吸血鬼の組織を一夜にして一網打尽にした敵が僕達兄妹だなんて事さえ知らないんだぞ」

「あ」

「分かっているのは一つ、敵は何百年と続いた東欧一三氏族を包囲殲滅するだけの腕を持っていた事だけ。四対八どころか姉さん含む一三人全員だ。むしろ僕達の実像を知らない方が、余計に自家生産の恐怖に縛られるだろうね。……考えてみれば良い。特殊部隊なり犯罪集団なりの大組織から指名手配のロックオンされている中、滅法かさばる人質を抱えたまま悠々自適に表を歩いて街の境をまたごうとするか? スマホで撮られて掲示板やSNSを騒がせてしまったら、あるいは検問や待ち伏せは怖くないか? ここは海と山に囲まれたせいで交通アクセスの限られた供饗市だぞ」

「言われてみれば……そうだよね。もしもあたしが光十字から逃げるなら、絶対そんな迂闊な選択肢は選ばない。何があっても悪目立ちだけはやめるはず」

「ヤツは戦う事を避けて逃げた。って事は怯えているのは事実なんだ。勝手に僕達を持ち上げて自家生産の恐怖に縛られている間なら、自分から選択肢を封じるはず。大それた国外逃亡はもちろん、宿を取るのだって怖がるし、最後の盾なんだから姉さんに手荒な真似もできない。表からにせよ裏からにせよ、ホテルや旅館のフロントには手配犯の顔写真が配られるっていうのはもう刑事ドラマやギャング映画に出てくるくらいのお決まりだからね。いくら何でも、縛ったり気絶した女の子を担いで気軽に入れるような場所じゃない」

 そう、人狼が冷静さを取り戻す『まで』の間なら、まだ手が届く範囲でうずくまっている可能性が高い。

 高飛びはできないし隠れ家の確保もままならない。だから進むも戻るもできず、中途半端な位置に留まってひたすら様子を窺おうとするはずなんだ。例えば廃屋、公園、駐車場、橋の下、森の中、場当たり的に潜り込んで。だから今ならできる。追いつき、捕らえ、姉さんを取り戻せる。そのはずだ!!

 エレベーターが一階に到着した。

 多目的ビルの出入り口は東西南北に四つ、さらに職員用通用口を兼ねた非常口と、僕達もお世話になった搬入出口兼地下駐車場の線もある。さて人狼は気絶したか縛り上げられた姉さんを連れてどこから出ていった?

「マクスウェル、表で騒ぎが起きている感じじゃないんだよな」

『シュア。SNSや地域コミュニティ系の掲示板等を確認した限り、少なくとも毛むくじゃらの大男が気絶した美女を担いで躍り出たという報告はありません』

「そこまで馬鹿でもなかったか。なら地下駐車場だ、定石通り車を盗んで姉さんをトランクに詰めたんだろう」

 車は移動の足になる他、車中泊を選べば雨風を凌ぐ屋根としても使える。何にしたってホテルや旅館のお世話になれない側からすれば重宝するはずだけど、その分検問なんかを怖がるようになると思う。自分は巨大組織に追われているって『妄想』が力を発揮している間は、結局街の外には出られない。

 とりあえずスマホ片手に階段経由で地下駐車場に向かってみる。

「マクスウェル、フライと一緒にここへ来た時の映像を出して今ある風景と見比べてくれ。欠けている車があるはず。でもって姉さん達は事前に人が残っていないのを確かめてから待ち合わせしていたはずだから、例の人狼以外に車を動かす人はいないはずだ」

『シュア。赤のクーペが一台消えています』

「ツーシーター? 寝泊まり兼ねているにしては小ぶりだな。途中で車を換えるつもりかもしれない。過去の映像からナンバープレートを割り出して、カーナビ、ドライブレコーダー、あるいは道端のナンバー照会システムから車の移動経路を特定」

『……この時間の限られた中で今から手ぶらで警察庁全体のファイアウォールを破れと? 民間のアングラアプリの中に、ナンバープレートにスマホをかざすと登録者情報が浮かび上がるというものがあるようです。SNSの顔認識の亜種ですね、この利用者を使わせてもらいましょう』

「無線ネットのサービスを使っているならwi-fiの鍵データを撒き散らしながら走っているはずだ。そっちも追跡よろしく」

 二つ三つのソースを当たれば間違いを掴まされる事もないだろう。

 さて、姉さんを連れ去った人狼はどこで膝を抱えているのかな。

『出ました。平野区住宅街再開発予定地。平たく言えば長らく放置された廃工場です』

「……何だ、あの橋の近くだよね。お兄ちゃんが昔作ってた秘密基地じゃない」

「追い詰められた時に行き着く場所はみんな一緒って事かね。テレビ局が関わっていた作られた虐待の時もエルフの女の子が住み着きそうになってたし」

 ……それにずっと昔、エリカ姉さんとアユミが光十字から逃げてきた時も、あの橋の下で肩を寄せ合っていたはず。

 そして勝手知ったる場所なら臆する必要もない。あそこは元々僕のホームだ。

「見てない所で移動手段を換えられると面倒だ、ここできちんとケリをつけよう」


     2


 工場って言ってもそんなに物騒なものを取り扱っていた訳じゃなかったはず。確か、缶ジュースか何かだったような。もっとも、幼かった僕が見つけた時にはすでに潰れて主要な機材も撤去された後だったから、ただのでっかいハコモノくらいの認識しかなかったけど。

 橋っていうのも厳密には工場敷地内の私道みたいな扱いだったんだと思う。まだ小さかった僕達近所のガキンチョには廃工場は広すぎて手に余るから、屋内から廃材を引っ張り出しきて手頃な橋の下にコンパクトな秘密基地を作っていた。言ってみれば、他に誰もいないガラガラの電車で端の座席に腰掛けるような落ち着き方かな。

 今日は折り畳み自転車を使っていなかった。妹と二人で歩いて向かってみると、ああ、確かに。懐かしさの中に異物が混ざっているのが分かる。

「ふぐっ、お兄ちゃんあれって」

「赤のクーペ、ツーシーター。こういう場所だときちんとワックス掛けたピカピカの車は目立つな……」

 ハイヒールみたいな毒々しい色合いのスポーツカーが停めてあるのを見つけた。窓を覗き込んでも誰もいない。ただ、ボンネットの辺りに掌をかざすとまだ温かいし、ほんのり排ガスらしき匂いも鼻につく。ついさっき到着したって感じだった。狙いを定めて一直線に向かった僕達と違って、人狼はあっちこっち迷走した挙げ句に辿り着いたのを忘れてはならない。

「よし、ひとまず確認はできた」

「あれ? 引き返しちゃうの、時間がないのに」

「……チャンスは一度しかないんだ、しかも家族の命がかかっている。僕は行き当たりばったりなんて絶対許さないぞ」

 余裕があればドローンとかも飛ばしておきたいけど……夜目が利くなら逆に相手を刺激するだけか。空飛ぶオモチャは便利だけど、テリトリーの低空には身を隠すものが何もない。ひとまず車だけ無力化しておこう。この程度ならボンネットを開けてバッテリーやヒューズに手を加えなくても、真下から土や雑草なんかの異物を突っ込める。

 たまに野良猫とかも入り込むって聞くし。

「マクスウェル、率直に言ってゾンビと人狼はどっちが強いんだ?」

『条件次第によりますが、そもそもゾンビ単体に身体的優位は感じられません。あれは群れてこそ華のアークエネミーです』

「ふぐう!」

 アユミはほっぺたを膨らませているけど、あの姉さんを正面なり不意打ちなりで昏倒させてここまで連れてきた輩だ。甘い期待はしない方が良い、か。

『人狼はその名の通り、狼の能力を拡大解釈して人体に組み込んだアークエネミーです。よって夜目や耳に優れる他、特に嗅覚に注意する必要がありそうです。普通の犬や狼ですら人間をはるかに超えるとされていますので、そこからさらにどこまで「拡大」されているか予測がつきません』

「……ううっ、あたし変な匂いとかして足引っ張ってないよねお兄ちゃん」

 ああもう、ここでゾンビのアユミのメンドくさいコンプレックスが出てくるか!? 大丈夫だよ女の子の甘い匂いしかしないよくんくん!! お兄ちゃんが一度でもイヤな顔した事あるかってんだすんすんすん!!

 だけど、だ。

「そいつは逆手に取れるかもしれないな」

『具体的な方策を提示してください』

「光を増幅する暗視ゴーグルにカメラのフラッシュを浴びせたって目が潰れる訳じゃない。でもそれは増幅域をあらかじめ決めておいて、強すぎる刺激を遮断するようプログラムされているからだ」

「ふぐ? あっ、それってもしかして!」

「当然ながら、生身の五感にプログラム的なセーフティなんかない。例えばバラエティ番組で重宝される赤い唐辛子の何百倍なんていうイカれた品種改良の唐辛子とかって、鼻が利きすぎる人狼サマにはどう映るんだろうな?」


     3


 今の世の中どこにだってコンビニはあって、店の棚には東欧出身の貴族様が見た事もない刺激物が何百円かで並んでいる。

 そんな訳でスマホの地図アプリでポチッと検索。廃工場のすぐ近く、住宅街に埋もれた深夜のオアシスのお世話になろう。

「何これお兄ちゃん、ねりわさび???」

「冗談みたいな話だろ。だけどいくら黄色いマスタード慣れした外国人だって、こいつを舐めてかかるとカウンターパンチでボロボロ涙を流すものらしい」

 あの鼻つーんは独特だから、西洋のマスタードはもちろん、中国、韓国、インドの料理なんかで散々辛いのに慣れている人でもダメな場合も結構多い。数値的な辛さ指数では大した事なくても、慣れる機会がそんなにないから新鮮に感じてくれる訳だ。

 元からわさびに慣れている僕達日本人には実感しにくいかもしれないけど、そうだな。この辺りは、うなぎにかける山椒なんかをイメージすると分かりやすいかも。

 後は霧吹き容器が欲しいから窓拭き洗剤と、内圧を高めるために……コンビニだとエアダスターは置いてないか。ならちょっと引火が怖いけど、適当なヘアスプレーでも買っておこう。

 一つ一万も二万もする催涙スプレーなんてほとんどブランド力だ。作るだけなら一〇〇均でも何とかなるし、この程度でも五メートルくらいなら簡単に飛ばせる。間合いの感覚としては、飛び道具っていうより槍や刺股(さすまた)の方が近いか。

 とはいえ、逆に相手の目を傷つけないで事を収める安全性を確保するのが滅法大変だから手作りなんて絶対オススメはしないけど。何しろ目は一生モノだ、こんなジョークグッズでもいったん加害者になったら延々賠償金を払い続ける羽目になる。

 ひとまず二セット用意して、片方をアユミに預ける。後は、と……。

「ほらアユミ、こいつも持っておけ」

「うん? 花粉メガネ?」

「自分で撒いたスプレーに目をやられたくなければ、使う前に必ず装着するんだ」

 その辺の水中メガネ程度だと普通に隙間からやられる。こんな研究室で使うレベルの高気密なメガネやマスクが使い捨て扱いで手に入るんだから、やっぱりこの国は裕福だ。

「それから濡れた手でまぶたは擦るなよ、元も子もなくなる」

「ふぐう、そんなに言わなくても分かってるよ」

「馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないけど、スタンガンの誤爆とおんなじくらいのあるある事故なの」

「だから大丈夫だって! ぷんすか!!」

 ……何しろスペック的にはこっちが不利だって分かってる人狼相手の取っ組み合い、一度のミスでどこまで事態が悪化するか分かったものじゃない。だから僕は割と本気で妹の身が心配なんだけど、いかんな、変にアユミのプライドを逆撫でしたか。今ので宿題やったのお母さんとおんなじスパイラルに入ったかもしれない。

 必要な準備を終えてもう一度闇に沈んだ廃工場にとんぼ返り。

 相変わらず赤いクーペはそのままだった。

 敷地内の川を挟んで三つ四つの大きな棟と、倉庫や予備発電なんかに分かれている工場だ。しかも各々は学校の校舎くらいある。どこに人狼が潜んでいるか分からないし、集中を切らす事も許されない。

「……ひとまず赤いクーペが寄せてあった棟から調べてみよう」

「分かった」

 いつでも自作のスプレーを使えるよう、花粉メガネを装着してから建物に踏み込む。

 廃工場って言っても得体の知れない金属機材がジャングルジムのように張り巡らされている訳じゃない。液体の貯蔵タンクや注入機、大量の缶を流すベルトコンベアなんかはみんな撤去されているから、体育館みたいにだだっ広い空間がひたすら口を開けているだけ。ただ、高い位置にある壁や天井のパネルはいくつか崩れて降り積もり、僕達の身長より大きな山があちこちにできていた。ああいう所も裏まで調べないといけない。あと、工場本体の他に小さな部屋がいくつかあったはずだ。トイレ、休憩室、更衣室、警備室、まあそんな感じ。こっちについても体育館の壁際にある倉庫や放送室を思い浮かべると分かりやすいかもしれない。

 できるだけ明かりは使いたくないけど、本当に真っ暗な中を手探りで進むのもそれはそれでどうぞ殺してくださいとお願いするようなものだ。何しろ相手は素で夜目が利く人狼なんだし。痛し痒しだが、今はバックライトに頼るしかなかった。

「……アユミ、今回に限って言えばスペック的に負けてる僕達は先手を取らなきゃ勝ち目はない。あいつの姿が確認できなくても怪しいと思ったらスプレーを先に撒いておけ」

「ふぐ?」

「もちろん直接顔に当てるのがベストだけど、そうじゃなくても構わないって事。エアゾル状になった辛味成分はしばらく空中に滞留するから、それだけで鋭敏過ぎる人狼の目や鼻には効果が……」

 ぶんっ、という金属バットの素振りみたいな鈍い音が耳元で一つ。


「……期待できるって訳だ、くそっ!!」


 振り返るより早く霧吹きを音源に突きつけ、とっさにトリガーを引いていた。ヘアスプレーのガスを借りた、一吹きおよそ五メートルの直線的な水鉄砲。実際に当たったかどうかの手応えはない。それでも確実に辺り一面にはわさびを主成分とした手作り催涙スプレーが撒き散らされたはずだ。

 構わず薙ぎ倒された。

 今のっ、右腕、か!?

 一発で目の前が全部真っ赤に染まり、首を丸ごと持っていかれたんじゃないかってくらい視界が真横に折れ曲がった。痛みが追い着かないのが逆に怖い。空中で回転したらしい僕の体はそのまんまコンクリの床に叩きつけられる。

 人狼に襲われた死者は人狼になる。

 その話が本当だとしても、胴体噛み千切られて即死させられるような、よっぽどの深手でなければ問題ない、はず。

 ごっ、ォお、っあ!!

 ……という奇妙な唸りは、ひょっとして人狼の雄叫びだろうか。単純な威嚇だけじゃなくて、手負いの獣のような響きがあった。こっちは床に押し付けた耳からどろっとしたものが出てくる有様なんだけど、あれでも土壇場の催涙スプレーがある程度効いて、減速していたっていうのか。

「お兄、ちゃ……!?」

「……!!」

 そしていくら死にかけだからって風邪を引いたら甘えたくなる病なんか併発している場合じゃない。

 ここにはアユミがいる。囚われの姉さんだって。だから死ぬのは後で良い、まず人狼っていう脅威を確実に取り除く!!

「あああ!!」

 薙ぎ倒されて全身へろくに力も入らない中、それでも手だけで改造霧吹きを振り回す。どうせ闇の中を駆け回る人狼には当たらない。でも牙なり爪なり、ヤツは接近戦しか仕掛けてこないんだ。

 だったら狙いを変えて、棒立ちのアユミの体にでもぶち当てれば良い。

 花粉メガネに守られた妹にさしたるダメージはなく、でもぶつかって飛散した催涙成分は辺り一面へ球形のバリアのように撒き散らされる。

 つまり。

 三六〇度、どこから人狼がアユミに接近しようが必ずエアゾル状の刺激物が絡みつく。普通の犬や狼でも僕達よりはるかに上、そこからさらにどれだけ倍掛けされているか予測もつかないとされるアークエネミーの嗅覚に。

 闇の奥で、何かが爆発した。

 いいや、それは人狼の絶叫だったのかもしれない。

「ぁ、ユミ。逃がすなあッッッ!!」

 未だ事態を飲み込めず身をすくませる妹の背中を怒号で叩きつつ、二人掛かりで蠢く影へ改造霧吹きを突きつけていく。

 今度こそ、顔面へ直接。

 しかしそんな僕達の意気込みとは裏腹に、シルエットが大きく後ろへ下がった。安い水鉄砲のような切り札が空振りに終わる。いいや逃げられる。向こうも混乱から立ち直り、こっちの秘密兵器の正体に勘付いたか!

 何かがぶつかる音が立て続けに炸裂した。

 スマホのバックライトを向けると、出入り口の辺りの壁が壊れている。ドア用の四角い大穴の縁が、外側に向けて抉れていた。

「……五感自体は奪ってる」

「ちょ、お兄ちゃん! それ、その赤いのっ、血が出てるよ!?」

「ダメージは入っているんだ、ここまで来てお開きなんて許すもんか。絶対に姉さんを返してもらうぞ……」

 あちこちに霧吹きを吹きかけながら、僕もふらつく足を動かして人狼の後を追う。

 時間をかければ有利になるとでも思ったか。催涙スプレーは直撃しなくたってある程度は効果を発揮する。鋭敏過ぎる感覚を持ったお前が相手なら、陣取りゲームみたいな使い方だってできるんだ。

 ……ここから逃げたって事は、きっと姉さんがいるのは別の棟だ。

「マクスウェル、地面を撮るから痕跡をチェック。奴の足取りを追え」

『シュア』

 辺りは草ぼうぼうの野原で、アスファルトの上だって長らく人が通らなかったせいで乾いた泥みたいなのがうっすら覆い被さっている。そして人狼は空を飛べない。なら、従来の獣の追い方がそのまま使えるはずだ。

『地面の足跡や草の潰れ方から察するに、B棟製缶施設跡地へ向かっているように見えます。ただし』

「ふぐ?」

『逃げている者の痕跡にしては全く隠す気がないのが引っかかります。最低限、汚れたアスファルトについた足跡を靴底で擦る素振りさえ見受けられないのです』

「……そっちが囮として」

 スマホを軽く振る。

 基本的に辺り一面未整備の荒れ地だけど、かつての街路樹が勝手に繁殖したのか、結構な太さの幹を持った木々があちこちにある。後は電線のない電信柱に、明かりの消えた電話ボックス、屋根付きの駐輪場、庭先にありそうな安い物置なんかも。

「マクスウェル、『上』のルートを使っていないか痕跡を確認」

『シュア。不自然な高い位置に泥がついています。スズメやツバメの巣とも思えません』

「蛍光色でマーキングしてから風景に重ねて表示。ああ、足跡同士をラインで結んでくれると逃走ルートが分かりやすい」

 出た。

 一段高い丘にある商品保管用の倉庫の方だな。わざわざ全貌の見える囮の方に僕達を誘っているって事は、向こうを調べていたら崩れた天井に巻き込まれる、くらいはあったかもしれない。

「……アユミ、陣取りゲームを継続。本命の建物の周りをぐるりと回りながらスプレーばら撒いて、ヤツの行動範囲を狭めていくぞ」

「ちょ、ちょっと待ってよお兄ちゃん。でも人狼は鼻が利くんでしょ。こっちから接近を教えちゃうのは逆効果なんじゃないのかな」

「甘いなアユミ。人狼はどこへ逃げ込んだ?」

「そりゃあ、ナントカ倉庫の跡地に……」

「そうじゃなくて、人質の姉さんの所だろ。わざわざ人質と同じ建物に逃げ帰っておいて、『使わない』なんて選択肢はありえない。ヤツは、僕達にとっての一線を越えたんだ。最初から奇襲を恐れて人質の盾を準備しているようなヤツに、こっそり近づいて穏便に制圧なんて通用するもんか。僕は姉さんを助ける。そのためなら、ギリギリまで自分を追い込んでみせるぞ」

「ふぐう……」

「マクスウェル、風向きを確認。ドアはないから中まで吹き抜けているはずだ。外から催涙成分を流し込んでヤツの世界を狭める」

『シュア。スマホのマイクから聞き取った音響と地形データを照らし合わせたものですので概算となりますが、こちらをどうぞ』

 霧吹きでエアゾル状の催涙成分を撒き散らしてしばし。奥の方で咳き込むような音があったけど、人質を使った恫喝みたいなリアクションはなかった。

 目や鼻をやられて余裕がないのか、あるいはアークエネミーとしての矜持なのか。

 たっぷりと見えない地雷原を構築してから、気だるい熱帯夜の空気をかき分けるようにして、扉のない出入り口から倉庫の中へと踏み込んでいく。機材がないから、ここも体育館のようにただ大きな空間があるだけだった。

「……誰もいないよ?」

「人質を取って立てこもっているんだ。当然、突入を警戒してる。だから出入り口の多い開けた場所は避けるはず」

 全ての出入り口周辺にはスプレーを散布済みだ。壁でも壊さない限り人狼は外へ逃げられない。

 御多分に洩れず、この倉庫も壁際に沿って簡単な休憩室やトイレなんかが併設されていたはずだ。おそらく姉さんが閉じ込められているのはそっちだろう。

 さて。

「アユミ」

「うん、取っ組み合いなら任せておいて」

「そいつは頼もしいけど聞くんだ。人狼の選べる選択肢はいくつかあるけど、一番厄介な展開は人狼が姉さんに化けているケースだと思う」

「ふぐっ?」

「僕も一度騙されているから間違いない。人狼は人か狼かの二択しかないけど、『人』を選んでいる間は完璧に擬態する。何年一緒に暮らしていたって見分けなんかつかない」

 言いながら、僕は手元の改造霧吹きに目をやった。

「変身していたって嗅覚は変わらないはずだから、こいつを使えば本物と偽者でリアクションは変わるかもしれない。……でも、それも確実とは呼べないんだ。ひょっとしたら苦しみ方も含めて、本物よりも本物らしく振る舞うかもしれない。そもそも『変身のメカニズム』も分かっていない。仮に電磁波だのフェロモンだのでこっちの知覚や認識を冒す場合だと目で見て区別なんてちゃんちゃらおかしいのかもしれない。僕達はマッチョで毛むくじゃらのケダモノを見目麗しいエリカ姉さんだって信じて疑わなくなる可能性だってゼロじゃあなくなるんだ」

「そっそんなの、ふぐう、ならどうやって敵味方の区別をつければ良いっていうの?」

「簡単だ。……相手が誰であれ、見つけ次第薙ぎ倒せ。あそこの扉を開けたら、もう隣に立っている僕だって信用するな。全員を黙らせてしまえば、とりあえずその中に人狼が交じっている」

「なっ……」

「人狼がどんな方式を使うにせよ、できるのは『人への変身』だけだ。透明人間になって視界から消えたり、分身の術で数を増やせる訳じゃない。容疑者の数さえ増えたり減ったりしないなら話は早い。全員撃破で一件落着が十分通じるはずだ」

「ふぐっ、だっ、だったらお兄ちゃんはここで待っててもっ、だって容疑者リスト入りする必要ないじゃんっ」

「聖域は作らない。中の人狼が乱戦の最中に部屋から飛び出したら収拾がつかなくなるぞ。忘れたのか、単純な筋力ならゾンビより人狼の方がスペックは上なんだ。油断して見知った人影に近づいて、真正面から一撃喰らったらそれでジ・エンドになる。そんな展開は絶対に許さない。だからやるなら僕も込みでだ」

「ふぐう……」

「アユミ。能力的には僕達が劣勢で、しかも大事な家族まで人質に取られている。手段を選べるのは有利な方だけだ、今の僕達にその資格はない」

「……うう、分かったよ」

「それで良い」

「でもお兄ちゃん、貸し借りナシだかんね。やり過ぎた時は後であたしの頭ぶっても良いから……」

 阿呆、そんな真似するもんか。妹の頭は撫でるためにあるもんだ。例えば口では納得しながらいつまでも顔を曇らせている時なんかに。

「ふぐうー、覚悟が鈍るからやめてよー」

 困ったようなアユミの言葉を耳にしながら、僕は倉庫の壁際にある鉄扉の方へ目をやった。外に面した扉は取り外されてなくなっているから、あれが休憩室やトイレなんかをまとめた事務室スペースに繋がっているんだろう。

 二人してゆっくりと近づいていく。

 スマホをかざしてマイクの感度を上げると、鉄扉を通した向こう側の会話が聞こえてきた。

『……けほっ、うえっほ!? 知っていたんだな。アンタは最初から、えっほ! 最初から全部知っていた!!』

『何をでしょうか?』

 僕はその場で人差し指を立てた。聞き慣れた声。一人二役でなければこの奥にエリカ姉さんが閉じ込められている。

 アユミもアユミで蝶番を指差してから、さらにこっちへ親指を立ててきた。この程度なら一発で破れる、って事らしい。

 そうこうしている間にも、部屋の奥でのやり取りは続く。

『俺は吸血鬼じゃなかった……』

『それは……そんな区分は、伝承が混同した今となっては意味のない定義でしかありません。ミリバールとヘクトパスカルのようなもの。あなたが自らを卑下する必要は、』

『初めて知ったんだ、本当になっっっ!!』

 怒りのような、苦しみのような。

 そんな叫びが、姉さんの優しい正論をヒステリックに押し潰した。

『あの多目的ビルでみんながバタバタ倒れていく中、俺だけが訳も分からず立ち尽くしていたっ。ああ、アンタだって青い顔をして耐えていたな、クイーン級。事前に全部蝋で作った食品サンプルみたいに薄っぺらな作戦だと知らされていても、それでもやっぱり苦しかったんだろう! それが証なんだ、誇り高き吸血鬼だっていう証明なんだよう……。俺だけだっ、俺だけが、くそっ、ちくしょう! 信じていたのに、ずっとずっと信じてきたのに!! 何でなんだよおっ!! どぼじで馬鹿みたいにピンピンしてやがるんだばあっ、ぢぐじょおっっっ!!』

 ……それがどういう感覚かは、生まれた時から一本道の人間で、だけど委細構わず吸血鬼やゾンビを家族として受け入れてきた僕には永遠に分からないのかもしれない。

 自分の種族を否定される、という現実。

 周りのみんなが気を遣って、選ばれたエリートとして扱ってくれていた、というのが露見した瞬間の衝撃。

 悪意はなかったかもしれない。

 だけど姉さん達がついてきた嘘を、僕がこの手で暴いてしまった。

『馬鹿にしてきたんだろう……』

『メスレエート、それだけは誓って違う! 私達はあなたと共に過ごした時間を心の底から誇りに思っています。あなた達人狼に受け入れてもらえたのは、東欧一三氏族最大の偉業でした!!』

『お前達はみんなして上から目線で秘密を共有してっ、俺を笑っていた!! 笑ってやがったんだ!! 仕方がないから仲間に入れてやるって、真実を伝えるのは可哀想だからって、そんな風にっ!!』

『あなたはみにくいアヒルの子。他の誰と違っていても、遠慮する必要なんか一つもなかった! 私達が真実を伝えられなかったのは、ただただ怖かったからです。あなたが真のステージを知り、私達の作った小さな集まりなど見限って大きく羽ばたいてしまうのではないかと!! ああ、ああっ! 本当にただそれだけだったのに……』

 姉さんはきっと、気づいていない。

 優しさ。

 ただ非の打ち所がない優しさ。

 だけどそれは、必ずしも人の心を癒す手段になるとは限らないって事を。そうやって弱き者として持ち上げられるたびに、誇り高き『吸血鬼』のプライドはズタズタに裂けていくって事を。

 こっちだって複雑な思春期の男の子なんだ。

 あいつが、人狼が陥った矛盾のスパイラルは何となく理解できる。自分が認めたコミュニティの外から安易にしたり顔で分かる分かる連呼されるのだって、向こうにとっては業腹だろうけど。それでもどこか理解できてしまうんだ。

 今あいつが求めているのは、正しさでもなければ優しさでもない。

 そんなスマートな答えなんかいらないんだ。全力でぶつかって勝った負けたを自分の力で確定させて、正しかろうが間違っていようが、胸の中でわだかまっているモヤモヤ全部へ奇麗に決着つけたいんだ。だから、そもそも同じリングに上がってもくれない、無条件で正しく優しく不戦勝を譲ってくれる姉さんを見たって不完全燃焼にしかならない。どんな答えを教えてもらって望んだ通りに譲歩してもらったって、一つもスッキリなんかしないんだ。

 そうじゃない。

 今は慈悲や賢明の出番じゃない。

 思いっきり、気が済むまで、真正面から馬鹿に付き合って欲しかった。馬鹿馬鹿馬鹿で埋め尽くして欲しかった。なのに一番大切な人からスマートにクレバーにかわされてしまって、一人ぼっちでリングに取り残された『吸血鬼』はもうどうしたら良いのか分からなくなってしまった。

 分かるよ、そういうの。

 痛々しいほどに理解できる。

 僕だって新しい家族がやってきたばかりの頃はそうだった。その日の晩ご飯の献立から一番風呂までみんな何でもかんでも譲ってもらって好きなだけ願いを叶えてくれたけど、そんなの薄っぺらで全然本物の家族って感じじゃなかった。他人行儀の息苦しさしかなかった。ああ、ああ! 本当に欲しかったのは完璧なモデルルームなんかじゃなかったもんな! 泥臭くても良かった、一緒に馬鹿をやってほしかった!! どこまでも付き合ってくれるって、途中で絶対に手を離さないって、それだけ証明してくれれば満足できた。それだけだったもんな!!

 姉さんは、気づいていない。

 本当に相手を大切に思うあまり、ただの一つだって自分の残酷な線引きに気づいちゃいない。

 あいつはきっと、傷の痛みなんか恐れていない。フライ=ヴィリアスが言っていたような力と美意識のバランスなんかどうだって良い。不利益を被っても構わないから、それでもただただ対等の存在として認めてもらいたかったんだ。それだけしかなかったんだよ。

 きっとこの東欧一三氏族だって、あいつにとってはそういう『家族』だったんだ。他の東欧一三氏族じゃダメだったんだ。自分を二の次にしたって良いくらい、大切な大切な枠組みだったんだ。

 なあ、『吸血鬼』。

 僕はアンタがメスレエートなんて名前で呼ばれているのも今初めて知った。でもってアンタの本当の素顔が見目麗しい夜の貴族なのか毛むくじゃらのケダモノなのか、それすら未だに分かってない。まして顔と名前も一致しないアンタが正統派なのか潜伏クラウド派なのかなんて、胸を張って答えを出せる訳じゃない。そんな中で、漠然と疑わしいってだけで人生全部ぶっ壊してここまで追い込んでおいて、厚顔無恥にも滅法偉そうな事を言うけどさ。

 分かるから、付き合ってやるよ。

 最後の最後の、一滴まで搾り尽くす。そうやってどこまでも徹底的に戦い抜く。それがきっと、アンタをそんな風にしてしまった僕の義務だ。

 ここから先に、悪辣無比も正々堂々もない。

 そんな言い訳して、全力を出す事から逃げない。自分から安易に選択肢を封じない。負けた時のスマートな言い訳なんか事前に用意しない。

 全力全開ってのはそういうもんだろう?

 だから歴史と風格ある東欧一三氏族の堂々たるその一角、最強の『吸血鬼』に敬意を払って、出し惜しみはナシだ。良いか、やるぞ。本当にやってやる。僕は恥も外聞もなく自分の持っているものを全部出し切って、最大最悪の強敵に挑む。だからアンタも全力でかかってこいよ。お互いに悔いのないようにな。

 敵か味方かで言えば、アンタは間違いなく敵だ。だから絶対に馴れ合いなんてするもんか。

 でも。

 これだけは約束する。その胸にわだかまったどうしようもないモヤモヤ、ここで全部奇麗に取っ払ってやるよ。

「アユミ」

「うん」

「ケリをつけるぞ」

 さあ。

 月下の夜に踊ろうぜ、『吸血鬼』メスレエート!!


 ドバンッッッ!!!!!! と。アユミの蹴りが容赦なく鉄扉を奥へ蹴倒した。


     4


 時間の感覚なんて、とっくの昔にぶっ飛んでいた。

 アドレナリンだかエンドルフィンだか、とにかく脳内物質の過剰分泌でクリアに澱み切った世界の中、むしろ緩慢なくらいの感覚で僕とアユミは改造霧吹きを部屋の奥に向けて突きつけていく。

 大型かつ専門的な工場設備と違ってあまり価値のない家庭用品だからか、部屋の中には汚れた机や縦長の金属ロッカー、電気ポットや電子レンジなんかが結構そのまま残っていた。もちろん電化製品は動かないだろうけど。そんな手狭で雑多な部屋の中、新種のゴスロリドレスに真紅のコルセットで大きな胸を強調しているエリカ姉さんはパイプ椅子に座らされた上で黒い手袋に包まれた両手を後ろに縛られ、瞳を塞ぐように目隠しまでされていた。それでも彼女はありったけの力をお腹に込めて、自分の事なんか二の次でこう叫んでいたんだ。

「サトリくんっ? ダメです!!」

 うるさい黙れ。

 申し訳ないけど、今はその正しさも優しさも引っ込んでろ。

 とびきりだ。

 そう、とびきりの馬鹿になろうぜ。

 僕は今、誇り高き『吸血鬼』相手に男と男の勝負を挑んでいるんだ。メスレエート。アンタは人の家族を盾に取る最低のクソ野郎だけど、その矜持と尊厳だけは僕が守ってやる。こればっかりは天から降りてきた戦乙女にだって文句なんか言わせないッ!!

「ッ!?」

「っ!!」

 宿敵と。

 目が、合った。

 体感的にはほとんど止まった時間の中、闇の最奥にてスマホのバックライトで照らされついに暴かれたのは、二足歩行で全身を美しい銀の毛並みに覆われた大男。あれがメスレエートか。正直に言えば美少女じゃなかったのは残念だけど、ああ、悪くない。敵の親玉としては文句なしの一〇〇点満点。アンタはやっぱり同情を誘ったり保護欲を煽るなんてガラじゃない。ましてその辺で腐っているなんてもってのほか。威風堂々と魔王の城の玉座にでも腰掛けているのがお似合いだ。

 感謝する。

 これなら命を張る甲斐もあるってもんだ!

「姉さんを返してもらうぞ、『吸血鬼』!!」

 僕の叫びを耳にして。

 こちらを見やる巨大なケダモノの瞳に、わずかな揺らぎがあった。

 おいおい、涙腺を緩ませるのはまだ早いぞ。僕はアンタの友達なんかじゃない、本気でゲス野郎をぶっ飛ばすつもりなんだからな!!

 卑怯もクソもなく、この上ない強敵に敬意を払って持てる力は全部出し切ると決めた。なので武器も二対一も関係ない、アユミと二人掛かりで改造霧吹きから手製の催涙スプレーをばら撒いていく。プロボクサーみたいに胴体を機敏にそして大胆に振り回すメスレエートの顔には当たらないけど、ここは狭い密閉空間だ。エアゾル状に撒き散らされた極小の辛味成分はお構いなしに休憩室を満たしていく。

「ぢィいッッッ!?」

 片手で顔を押さえて絶叫するケダモノは、もはや人語を忘れていた。それでも気持ちは伝わる。苦痛や怒りの隙間から、確かに喜びの感情が滲み出ている。

 ああ、本音っていうのはそういうもんだ。

 命懸けの状況じゃ薄っぺらな美辞麗句なんか何の意味も持たない。だからここには剥き出しの本音しかない。嬉しいよな、ああ、こんなクリアな世界が広がっているって分かったら、小さく丸まって自分から視界を封じてうずくまっているのが馬鹿馬鹿しくなってくるよな! もう一度、どこまでも自由に羽ばたいて飛んでいきたいって思えてくるよな、『吸血鬼』メスレエート!?

 ぶんっ、という金属バットを振るような鈍い音が響き渡った。

 身構える暇もなかった。そもそも音を聞いてからじゃ間に合わなかったんだ。

 はや、い……!?

 視界がまとめて真横にぶっ飛んだ。いいや違う、僕の体が紙くずみたいに宙を舞ってノーバウンドで右側の壁へ叩きつけられたんだ。ドロドロに汚れていた鏡を砕き、体全体が軽く壁にめり込むのが分かる。

「ごっぶ!?」

 これがアークエネミー。

 本物の超常。

 どんなに積み重ねたって一発で逆転される。受けた痛みが上限を超えたまま、振り切れた針がちっとも戻らない。ずるずると崩れ落ちた体に力を込めて立ち上がろうとしても、半端に痙攣するだけで何も変わらなかった。そもそも選択の自由がない。死に近づくっていうのはこういう事なんだって、電池の入ったオモチャじゃないんだから壊れる直前まで何事もなく動き回れる訳じゃないんだって、そんなシビアな現実を嫌ってほど教えてくれる。

 ……ドラマや映画と違って、現実の人間なんて包丁一刺し金槌一発で簡単に死ぬ。

 それでも忘れたか、メスレエート。

 どれだけ自由を奪われて選択肢が閉じてしまっても、本当の本当に相手を殺しきるまでは、抵抗の意志まで消える事はないんだ。

 立ち上がれなくても良い。

 右手さえ動くなら、まだ改造霧吹きは使える!

「……、ーーー!!!???」

 ついに、直撃。

 横顔に一発。

 もはやマイクのハウリングのような、意味をなくした咆哮が炸裂した。僕の腕の問題じゃない。勝手に脆弱な人間を倒したものだと勘違いして、アユミに集中しようとしたのが運の尽きだったな。

 完全に潰れた五感がもたらす激痛に翻弄されながらも、さらにメスレエートはその場で二度、三度と丸太のように太い腕を振り回す。アユミは距離を取りつつ、突撃の機会を窺っているようだった。

 僕は鏡の破片だらけの床に転がっていた、壊れた電気ポットを手元に手繰り寄せた。

 激痛の嵐の中でも、その小さな音を聞き取ったのか。

 ゴッッキィィィン!! という人間の耳にはスピーカーのハウリングめいた雑音にしか捉えられない絶叫を上げ、ヤツがこっちへ飛び込んでくる。元から壁に寄りかかるように座り込むのが限界の僕には、左右に転がって避ける事もままならない。

 選択肢は一つだった。

 電気ポットを掴み直し、簡単な操作を行ってから、右手の力だけで放り投げる。

 それこそ対艦用かって勢いでメスレエートの貫手が空気を引き裂いた。宙を舞う異物ごと僕の頭か心臓でもぶち抜くつもりか。

「お兄ちゃ、!?」

 アユミの絶叫さえ間に合わない。

 だけど世の中、そんな定石ばかりが幅を利かせる訳じゃないぞ。なあ『吸血鬼』、魔法瓶や電気ポットに入れたお湯はすぐには冷めない。これには二つの仕組みがあるんだ。一つ目は空気の層をわざと挟んで熱が逃げるのを避けるため。そして二つ目はこうだ。内張に銀メッキを施す事で、赤外線として熱が吸収されてしまうのも防いでいる。


 そう、銀だよ。

 おとぎ話にだって出てくる、あの銀だ。


 ぼっ? という間の抜けた空気の音があった。メスレエートの口からだ。上蓋の開いたポットの中へ奇麗に右腕が収まり、しかしそれまでだった。壊れない。それどころか、何の支えもなく宙を舞う電気ポットを弾き飛ばす事もままならず、逆に見えない分厚い壁でも殴ったようにメスレエートの右腕が大きく後ろへ弾かれる。

 そしてアンタの苦手な銀製品はこれだけじゃない。メッキの薄膜でも効果があるなら、

「アユミ!!」

 叫んで、床に散らばっていた鏡の破片の中から、ナイフのように鋭く大振りなものを選んで掴み、手の力だけで放り投げた。くるくると回る破片はメスレエートの顔の横、肩越しに流れていく。右腕のダメージに苦しむ『吸血鬼』がつられたように振り返っていけば、そこで目撃したはずだ。すでにすぐ近くまで走り込んでいた妹が、危なげなく素手で凶器を掴み取る瞬間を。

 鏡はガラス板の裏側に銀メッキを施してあのピカピカの面を作っているんだ。

 躊躇はなかった。


 ドッッッ!!!!!! と。

 杭のように振り下ろされたアユミの一撃が、容赦なく『吸血鬼』メスレエートの分厚い胸板に吸い込まれていった。